第15章 後半

第15章 後半

第18段落
献身奉仕に関して言えば、二つの部分があります。始めには、ヴィディー・バークティ、すなわち規律的な原則を伴う献身奉仕があります。より高い水準においては、ラーガ・バークティ、すなわち純粋な愛における献身奉仕があります。

第19段落
至高の人格神は完全真理ですが、主はご自分の様々なエネルギーの拡張によっても顕現なさいます。献身奉仕の規律的な原則に従う者は、究極的には霊的な世界にあるヴァイクンターの惑星に至りますが、献身奉仕において愛の原則に従う者は、至高の住まい、すなわちクリシュナロカ、あるいはゴロカ・ヴリンダーヴァンとして知られる、霊的な世界における最高位の惑星に至ります。

第20段落
超越主義者もまた3つの部類に分けられます。アカーマという言葉は、何らの物質的な欲望もない者を指します。モクシャ・カーマは、物質的な悲惨さからの解放を求める者を指します。そしてサルヴァ・カーマは、楽しもうという物質的な欲望を持つ者を指します。

最も知性的な超越主義者は、多くの望みを持っているかもしれないとはいえ、他のすべての方法を捨てて主への献身奉仕にいそしみます。人がかすかな献身奉仕を加えること無くして最高の完成を得ることができるのは、いかなる種類の超越的な活動によってでもーーー結果を求める活動によってでも、知識を培うことによってても、神秘的なヨガの修行をすることによってでもーーーありません。(訳注:「いかなる種類の超越的な活動をもってしても、ほんの少しでもいいから献身奉仕が入っていないなら、最高の完成を得ることはない」という意味だと思います。)

献身奉仕を除いては、他のすべての超越的な方法は、ちょうどヤギの首にある乳首(のように見えるもの)のようなものです。ヤギの首にある乳首を絞ることはできるかもしれませんが、それらが乳を出すことはありません。もしも自分の方法から実際の完成を得たいのであれば、人はクリシュナへの献身奉仕を習慣付けなければなりません。バガヴァッド・ギーターには次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「おお、バーラタのうちで最良の者(アルジュナ)よ。4種類の敬虔な人々が私に奉仕をします。苦しんでいる者、富を求める者、探求的である者、至高存在に関する知識を探している者です。」(BG 7.16)

第21段落
これらの4種類の人々が徳のある行いを積むとき、彼らは主への献身奉仕に至ります。これらの4つのうち、苦しんでいる者および富を求める者は、欲求を伴う献身者と呼ばれます。一方、他の二つ、すなわち探求的である者および知恵を捜し求める者は、解放を求める者です。

彼らはクリシュナを崇拝するので、彼らは皆、非常に幸運であると考えられます。やがて、もしも彼らがすべての欲望を捨てて至高主の純粋な献身者になれば、彼らは最も幸運であると考えられ得ます。そのような幸運な初心者は、主クリシュナの純粋な献身者との関わりにおいてのみ発達することができます。

純粋な献身者と関わるとき、人は自らも純粋な献身者になります。これはシュリマッド・バーガヴァタム(1.10.11)において確認されています。

(サンスクリット引用)

「実際に知性的である者は、純粋な献身者との関わりによって、主クリシュナと主の活動について聞くことができます。」これらの活動は非常に魅力的なので、それについて聞くとき、人は自分の主との関わりを放棄しません。(訳注:「~は非常に魅力的なので、いったんそれを聞いた者は主との関わりを手離さないようになる」という意味だと思います。)

第22段落
しかし、純粋な献身者との関わりにとって、他のすべての関わりはカイダヴァ、すなわちインチキです。これはシュリマッド・バーガヴァタムの第1巻において確認されており、そこでは超越的な認識を邪魔するすべてのインチキな方法は捨てられるべきだと述べられています。

シュリマッド・バーガヴァタムによって、人は現実をありのままに理解することができます。そしてそのような理解は人が3種類の物質的な悲惨さを超越するのを助けます。シュリマッド・バーガヴァタムは偉大な賢人ヴャーサデヴァによって編纂されました。

そしてそれは彼の成熟した経験から生じた作品です。シュリマッド・バーガヴァタムを理解することによって、そして献身奉仕を行うことによって、人は直ちに自分の心の中の至高主を捕らえる(to capture、心を掴む、という意味もある)ことができます。

第23段落
主チャイタンニャはそれから、プロッジータという言葉は「解放への欲求」を意味するのであると説明なさいました。ある偉大な解説者は、解放への欲求は神を認識する道における最も邪魔になる障害物である、と説明しました。

どうにかして人がクリシュナのもとに来て、主について聞き始めると、クリシュナはとても親切なので、主はその人にご自分の蓮の御足を中心として授けられます。そのような中心点を持つことによって、献身者あるいは超越主義者はすべてを忘れ、主への献身奉仕に携わります。

人が献身奉仕において、あるいは完全なクリシュナ意識において主のもとへ来れば、報酬は至高存在ご自身です。いったん至高存在のために働くと、人はもはや何ものも欲しがりません。苦しんでいる者と物質的な所有を望む者も同様です。

献身奉仕の方法、献身奉仕そのもの、純粋な献身者との関わり、そして主のいわれなき慈悲は、どれも非常にすばらしく働くので、たとえ苦しんでいても、物質的な所有を望んでいても、探求的であっても、あるいは実際に知識を培っている賢い者であっても、人はすべての活動を放棄してクリシュナに浸ることができるようになります。

第24段落
要するに、クリシュナがアートマーラーマの節のすべての言葉の背後の意味なのです。ここに至るまで、主チャイタンニャはアートマーラーマの節の導入部についてだけ語られました。次に主は、その本当の位置づけを説明なさいます。

第25段落
知識を培うことの中には、2種類の超越主義者たちがいます。それらの一方は非人格のブラーマンを崇拝し、そして他方は解放を望みます。一元論者はブラーマンの非人格な性質を崇拝するので、したがって彼らはブラーマンの崇拝者と呼ばれます。

これらのブラーマンの崇拝者たちは、さらに3つの部類に分けられます。初心者、ブラーマン認識に浸っている者、そして実際に自分をブラーマンとして認識した者です。もしも献身奉仕が加えられるなら、そうすればブラーマンを知る者は解放されます。そうでなければ、解放の可能性はありません。

クリシュナ意識において完全に献身奉仕にいそしんでいる者は誰であれ、既にブラーマンを認識している(realized in Brahman)として理解されます。献身奉仕は非常に強いので、人はブラーマン崇拝の水準からでさえクリシュナに魅了されます。

主は献身者に霊的な体の完成を褒美として授けられ、そして彼は永遠にクリシュナへの超越的な奉仕にいそしみます。心から献身奉仕にいそしむのは、献身者がクリシュナの超越的な性質を理解して、それによって魅了されるようになるときです。

例えば、4人のクマーラたちとシュカデヴァ・ゴスヴァーミーは最初から解放されていましたが、それでも彼らは後に(in their later life、晩年に、人生の後のほうで)クリシュナの娯楽に魅了され、献身者になりました。

サナカ・クマーラはクリシュナに捧げられた花の香りによって魅了され、他のクマーラたちは主の超越的な性質によって魅了され、そうして主への献身奉仕に携わりました。シュリマッド・バーガヴァタムの11巻において言及されている9人の神秘主義者たちは、ブラーマー、主シヴァおよびナーラダからクリシュナの超越的な性質について聞いたことの徳の力によって、生まれたときから超越主義者であったと理解されます。

第26段落
時として、人は単に主の超越的な体の美しい姿を見ることだけによって、クリシュナと主の超越的な性質に魅了されるようになります。その場合には、人は解放への欲求を放棄し、主への献身奉仕にいそしみます。献身者はいわゆる「知識」を培うことに無駄に費やした時間を後悔し、主の純粋な献身者になります。

第27段落
物質的な体を持った、2種類の解放された魂があります。献身奉仕によって解放された魂と、知識を培うことによって解放された魂です。クリシュナの超越的な性質によって魅了された、献身奉仕において解放された魂は、ますます上げられます。

他方、無味乾燥な推量にいそしみ、献身の念無くして単に知識を培う者は、その多くの無礼(offenses)によって堕落します。これはシュリマッド・バーガヴァタム(10.2.32)において確認されています。そこには次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「おお、主よ。自らを解放されていると考えるけれど献身の念の無い者の知性は純粋ではありません。厳しい苦行と禁欲の力によって彼らは解放の最高の地点にまで上がるとはいえ、彼らは必ずまたこの物質的な存在に堕落します。彼らはあなたの蓮の御足の庇護を受けないからです。」これはバガヴァッド・ギーターにおいても確認されています。

(サンスクリット引用)

「超越的に位置している者は、直ちに至高のブラーマンを認識します。彼は決して嘆かず、何かを持ちたいと望むこともありません。彼はすべての生命体に対して平等です。その状態において、彼は私への純粋な献身奉仕に至ります。」(BG18.54)

第28段落
このように、実際にブラーマン認識に位置している者は、嘆いたり欲したりする理由を持ちません。彼はすべての者に対して平等であり、そのため献身奉仕の資格があります。これはビルヴァマンガラ・タークラによっても受け入れられています。彼は晩年、次のように嘆きました。(訳注:念のため、これは反語的な表現であり、本当に嘆いたわけではない。)

「私は至高存在と一つになるために一元論者として位置していました。しかし、どういうわけか私はいたずらな少年を知り、彼の永遠の従者となりました。」言い換えると、献身奉仕を遂行することによって自己認識に至る者は超越的な体を得て、そしてクリシュナの超越的な性質に魅了され、純粋な献身奉仕に完全にいそしみます。

第29段落
クリシュナに魅了されていない者は誰であれ、まだ幻想エネルギー(マーヤー)の魔力の下にあると理解されます。しかし、献身奉仕の方法によって解放されようと試みている者は、実際はマーヤーの魔力から解放されています。シュリマッド・バーガヴァタムの11巻には、単に献身奉仕にいそしむことによって、この人生において解放された献身者の多くの例が記録されています。
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by ammolitering4 | 2011-02-27 05:11 | 「主チャイタンニャの教え」


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