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第13章 後半

第13章 後半

第11段落
バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.3.1)において、至高神を愛している状態は太陽から発する太陽光に比べられています。この輝きが献身者の心をもっともっと美しくします。そのような献身者の心は、徳の相さえ超えた超越的な立場に位置します。

愛の太陽光によって心をさらにもっと浄化する過程はバーヴァと呼ばれます。バーヴァの描写はルーパ・ゴスヴァーミーによって与えられています。バーヴァは生命体の永遠の特徴と呼ばれます。そして、バーヴァへの(for)進歩の決定的に重要な点は、至高神への愛の周辺的な状態と呼ばれます。

(訳注:バーヴァとは浄化、あるいは進歩の過程を指します。その過程にあって、至高神への愛の前段階と愛の段階を分ける決定的な地点が「中間地点」、あるいは「愛の周辺、外側」と呼ばれる、ということではないかと思います。)

バーヴァの状態がもっともっと深くなるとき、造詣の深い献身者はそれを至高神への愛と呼びます。ナーラダ・パンチャラートラには、次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「ヴィシュヌが唯一の愛と崇拝の対象であり、献身奉仕を受け取る価値のある者は他に誰も、半神でさえ、いないのである、としっかりと納得しているとき、人は神との愛の関係において親密さを感じます。そしてこれはビーシュマ、プラーラーダ、ウッダヴァおよびナーラダなどの人々(personalities, 立派な人々、名士)によって認められています。

第12段落
もしも献身奉仕を誘発する何らかの正しい行いによって、人が奉仕の精神の影響を受け、純粋な献身者との良い関わりという庇護を得るなら、彼は聞くことと聖名を唱えることへの愛着を育みます。聖名を唱えることと聞くことを育むことによって、人は至高主への規律的な献身奉仕においてもっともっと発達します。

そのように発達すると、彼の献身奉仕に関する疑念と物質的な世界に対して感じる魅力は、比例して減少します。聞くことと聖名を唱えることにおいて発達することによって、献身者は自分の信念(faith)においてもっとしっかりと固定されるようになり(訳注:もっとしっかりとした強固な信念を持つようになり)、徐々に彼の信念は献身奉仕への嗜好に発達し、そしてその嗜好が徐々に愛着へと発達します。

愛着が純粋になるとき、それはバーヴァとラティという二つの特徴を現します。ラティが増えるとき、それは至高神への愛と呼ばれます。そして至高神への愛は人間の人生の究極の目的地です。

第13段落
この過程はルーパ・ゴスヴァーミーによってバークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.14.15~16)において要約されています。(訳注;原文は最初の括弧が抜けている)「最初に必要とされるのは信念です。人が純粋な献身者と関わり、そのような関わりによって献身奉仕を育むのは、信念によってです。

献身奉仕が発達するにつれて、人の疑念は減少します。そのとき人はしっかりとした納得に位置しており、その納得から彼は献身奉仕への嗜好を育み、愛着の水準へと進歩します。そこで(whereby、愛着の水準で)彼は献身奉仕の規律的な原則に従います。

その段階の後で、更なる進歩を遂げたあとで、人はバーヴァと呼ばれる水準に達し、それは永遠です。そのような神への愛が増すとき、それは至高神への愛という最高の水準に至ります。」

第14段落
サンスクリット語では、この最高の水準はプレマーと呼ばれます。プレマーは、「交換、あるいは見返りの期待が全くない神への愛」と定義され得ます。実際は「プレマー」と「愛」という単語は同義ではありませんが、それでも人はプレマーは愛の最高の水準であると言うことができます。

プレマーに至った者は、最も完全な人間です。シュリマッド・バーガヴァタムもまた、この言明を確認しています(Bhag.3・25.25)「純粋な献身者との関わりによってのみ、人はクリシュナ意識への嗜好を育むことができます。

そしてクリシュナ意識を自分の人生にあてはめようとするとき、彼はバーヴァおよびプレマーに水準に至るまで、すべてのものを得ることができます。」(訳注:原文は前後とも括弧が抜けている。)

第15段落
信念からバーヴァの水準へと発達した人の徴候を描写なさるとき、主チャイタンニャは、そのような人はたとえ動揺の原因があっても決して動揺しない、と述べられます。また、そのような人は一瞬たりとも時間を無駄にしません。

彼はクリシュナのために何かすることをいつも切望しています。たとえ(するべき)仕事がなくても、彼はクリシュナの満足のためにするべき何らかの仕事を見つけます。また、そのような人はクリシュナと関係のない何ものも好みません。

最良の立場に位置していますが、彼は名誉や個人的な尊敬を追い求めません。彼は自分の仕事において自信があり、そして彼は、自分が人生の至高の目的地、すなわち至高神のもとに戻ることに向かって進歩していないとは、決して思いません。(under the impression:誤って思い込む)

自分の進歩を完全に納得しているので、彼はいつも自信があり、最高の目的地に至るために常に働きます(to keep himself busy、いつも何かしらのことをして忙しくしている)。彼は主を喜ばせること、および聖名を唱えること、あるいは主について聞くことに非常に強い愛着を持っています。

そして彼はいつも主の超越的な性質を描写することに愛着を持っています。彼はまた、マトゥーラー、ヴリンダーヴァン、あるいはドヴァーロカーなどの聖なる地に住むことを(他の場所に住むことよりも)好みます。そのような特徴がバーヴァの水準に発達した者の中に見られます。

第16段落
パリークスィット王は、バーヴァの良い例をもたらしてくださいます。死を迎えるのを待ってガンジス河の土手に座っていたとき、彼は言いました。「ここにいるすべてのブラーマナ、ならびに母なるガンジス河は、私が完全にクリシュナに服従した魂であるとご存知のはずです(should)。

私は、ブラーマナの少年の呪いによって送られた蛇によって直ちに噛まれても気にしません。蛇に好きなように噛ませましょう。もしもここにいらっしゃる皆様すべてがクリシュナの言葉(message)を唱え続けてくださるなら、私は喜びます。」

そのような献身者は、いつも自分の時間が何であれクリシュナと関係のないことで無駄にされていないかと気にしているのです。従って、彼は結果を求める活動、ヨガの瞑想、あるいは知識を培うことから得られる利益を好みません。

彼の愛着はクリシュナと好意的に関係のある談話に向けられています。そのような主の純粋な献身者はいつも目に涙を浮かべて至高主に祈ります。彼らの心はいつも主の活動を回想することに携わっています。そして彼らの体はいつも敬意を捧げることにたずさわっています。

このようにして彼らは満足します。献身奉仕において行動している献身者は誰でも、自分の人生と体を主の目的のために捧げます。

第17段落
バーラタ王もまた純粋な献身者でした。(その名前にちなんでインドはバーラタ・ヴァルシャと呼ばれます。)そして彼は若いときに、まるでそれらが糞であるかのように、家庭での暮らしと献身的な美しい妻と息子と友人たちと王国を後にしました。

これは献身奉仕においてバーヴァを育んだ人に典型的なことです。そのような人は、自分のことを最も不幸であると考え、そして彼の唯一の満足は、いつの日かクリシュナが親切に自分を献身奉仕にいそしませることによって好意を示してくださると考えることにあります。(訳注:「彼はただ唯一、クリシュナがいつの日が自分を憐れんでくださって、親切にも自分に主への奉仕の機会を与えてくださるだろう、と考えることによって満足します。」)

パドマ・プラーナには、純粋な献身の別の例が見られます。そこでは、人間の中で最も高く上げられた(elevated)者であるにも関わらず、王が戸口から戸口へと物乞いしてまわり、人間の社会の最低の部類であるチャンダーラにさえ祈っていたと記録されています。

第18段落
後にこの節を書いたのはサナータナ・ゴスヴァーミーでした。

(サンスクリット引用)

「私は至高神への愛において貧しく、献身奉仕について聞くために役立つものを何も持ちません。私は献身奉仕の科学の理解も全くありません。何ら培った知識もなく、自分の功績である何らの正しい行いもありません。私は身分の高い家庭に生まれてさえいません。

それでも、おお、ヴラジャの高貴な娘たちの最愛の人よ。私はなおかつあなたに至るという望みを後続けており、これらの望みがいつも私を悩ませています。」そのような強い望みによって深く心を動かされたそのような献身者は、いつもハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレを唱えます。

第19段落
このことに関して、ビルヴァマンガラによる次の節がクリシュナ・カルナームリタ(32)に現れています。

(サンスクリット引用)

「おお、クリシュナよ。おお、すばらしい笛の奏者よ。あなたの少年時代の活動の美しさは、この世界において非常にすばらしいものです。あなたは私の心の動揺をご存知であり、そして私はあなたが何であるのかを知っています。誰も私たちの関係がいかに親密であるかを知りません。

私の目はあなたとあなたの顔を見ることを切望しているにも関わらず、私はあなたを見ることができません。どうか私に何をすべきかを教えてください。」バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.3.38)に同様の節が現れており、そこでルーパ・ゴスヴァーミーは次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、ゴヴィンダ!目に涙を浮かべたこの若い娘は、あなたの栄光を讃えながら可愛らしい声で泣いています。」そのような純粋な献身者はいつも、クリシュナの栄光を描写することと、主がご自分の娯楽を現された地に住むことを切望しています。

クリシュナ・カルナームリタ(92)に、再び同様の節が現れます。「クリシュナの体はとても素晴らしく、主のお顔はとても美しいのです。主に関するすべては甘く薫り高いものです。」そしてバークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.2.156)にはこうあります。

「おお、蓮の目をした方よ。いつ私はあなたの聖なる御名をいつも唱えることができるようになりますか?そしていつ私は、その唱名に力づけられて、ヤムナー河の土手で踊ることができようになりますか?」

第20段落
これらすべての献身奉仕のバーヴァの水準の描写は、主チャイタンニャによってサナータナ・ゴスヴァーミー(のため)に引用されました。主チャイタンニャは次に、クリシュナへの実際の愛の徴候を描写することに進まれました。

主はサナータナ・ゴスヴァーミーに、誰もクリシュナへの愛を育んだ人を理解することはできないと教えられました。誰も彼の言葉、活動、あるいは徴候を理解することができません。たとえ非常に学識があっても、主を愛している純粋な献身者を理解することは非常に困難です。これはバークティ・ラサームリタ・スィンドゥーにおいても確認されています。

第21段落
献身奉仕に携わっている人は、至高主の栄光を歌っているときに見るも痛ましい状態になります(heartsick、悲嘆にくれる)。主は彼にとって愛しいので、主の名前や名声などを讃えているとき、彼はほとんど狂った人のようになります。

そしてその状態において彼はときには笑い、ときには泣き、ときには踊ります。彼は自分の状況を考えることさえせずにこのような状態であり続けます。徐々に至高神への愛を育むことによって、彼は自分の愛情と感情と恍惚感を増します。そのような愛着、マハーバーヴァは、献身的な愛の最高の水準です。

それは砂糖の最も力強い形である飴玉(sugar candy、様々な砂糖菓子、氷砂糖なども含む)になぞらえられるかもしれません。至高神への愛は、超越的な喜びが本物の献身者にとって最高の水準へと増すように、徐々に発達し得ます。
by ammolitering4 | 2010-12-26 10:26 | 「主チャイタンニャの教え」


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