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第13章 前半

第13章 愛着をもってする献身奉仕

第1段落
全くの誤解から、一部の超越主義者たちは、献身奉仕の水準に上がるためには知識と放棄が必要であると考えます。それは違います。知識を培うことと、結果を求める活動を放棄することは、人の霊的な存在を人生の物質的な概念との関連において理解するためには必要であるかもしれません。

しかし、それらは献身奉仕において不可欠な要素ではありません。知識、および結果を求める活動の結果は、それぞれ解放と物質的な感覚の満足です。(訳注:知識の結果は解放であり、結果を求める活動の結果は感覚の満足です。)

したがって、それらは献身奉仕の不可欠な要素ではあり得ません。むしろ、それらは献身奉仕の遂行において何の本質的な価値も持ちません。知識および結果を求める活動の結果という呪縛から自由になるとき、人は献身奉仕に至ることができます。

主クリシュナの献身者は本質的に非暴力的であり、心と感覚が統御されているので、彼は知識を培うことと結果を求める活動を行うことから生じる良い性質を得るために、特別な努力をする必要がありません。

第2段落
ウッダーヴァがクリシュナにヴェーダの禁止命令に基づいた規則と規律について尋ねていたとき、彼はこう聞きました。「なぜヴェーダの聖歌は人に物質的な楽しみを勧めるのですか?他方では同時に、ヴェーダの教えは人をすべての幻惑から自由にし、人に解放を勧めているというのに。」

ヴェーダの規則は至高の人格神によって定められたことになっています。しかし、一見すると矛盾があります。そしてウッダーヴァは、どうやって人がこれらの矛盾から自由になれるのか知りたいと切望していました。返答として、主クリシュナは彼に献身奉仕の比類なき素晴らしさを教えました。

第3段落
「既に私への献身奉仕に携わっており、心が私の上に定められている者にとって、知識を培ったり放棄をしたりするために努力するのは、実際的でも必要でもありません。」このように、主の結論は、献身奉仕は他のいかなる方法からも独立している、というものです。

知識を培うこと、放棄、あるいは瞑想は、最初は多少役に立つかもしれません。しかしそれらは献身奉仕の遂行にとって必要であるとは考えられ得ません。言い換えれば、献身奉仕は知識を培うことや放棄すること無しで遂行され得ます。このことについて、スカンダ・プラーナからの節もあります。

そこで、パルヴァタ・ムニは部族民の狩人に言いました。「おお、狩人よ。非暴力その他の、あなたがたった今得た性質は、驚くべきものではありません。なぜなら、至高主への献身奉仕に携わる者は、いかなる状況においても、誰に対しても苦痛の源ではあり得ないからです。」

第4段落
これらの点を議論した後で、主チャイタンニャはサナータナ・ゴスヴァーミーにおっしゃいました。「これまで、私は規律的な原則に基づいた献身奉仕を説明しました。次に、私はあなたに超越的な愛着に関して献身奉仕を説明します。」

第5段落
ヴリンダーヴァンの住人たち、すなわちヴラジャヴァースィーは、献身奉仕の生きた例です。彼らのは理想的な愛着による献身奉仕です。そして、そのような献身はヴラジャブーミ、(および)ヴリンダーヴァンにおいてのみ見られます。

もしもヴラジャヴァースィーの足跡を辿ることによって献身奉仕と愛着を発達させるなら、人はラーガ・マールガ・バークティ、すなわち主への愛着による献身奉仕に至ります。バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.2.270)には、次のように書かれています。

「その奉仕への恍惚的な愛着を伴う献身奉仕は、それは献身者にとって自然なものになるのですが、それはラーガ、すなわち超越的な愛着と呼ばれます。」そのような愛着をもって遂行される献身奉仕はラーガートミカーと呼ばれ、愛情の対象への深い没頭を伴う深い愛着はラーガートミカーと呼ばれます。

(訳注:全く同じ単語が繰り返されていますが、これは一つ目の「ラーガートミカー」が実は後述の「ラーガ・バークティ」の間違いであるのだと思います。)

これらの例は、ヴラジャブーミの住人たちの活動の中に見られます。そのような愛着を聞くことによってクリシュナに魅了されるようになる者は、間違いなく非常に幸運です。ヴラジャブーミーの住人たちの献身によって深く影響され、彼らの足跡を辿ろうとするとき、人は明かされた聖典の規制や規律を気にかけません。これがラーガ・バークティを遂行している者の特徴です。

第6段落
愛着を伴う献身奉仕は自然であり、それによって魅了された者は、他の人たちは聖典の禁止命令を示して議論するかもしれませんが、自分に反対する(そのような)者と言い争いません。献身奉仕への自然な傾倒もまた、聖典の禁止命令に基づいています。

そして、そのような献身奉仕への愛着を持っている者は、単に聖典に関する議論に基づいてそれを放棄することを要求されません。(訳注:放棄することは必要ではありません。)このことに関して、(プラークリタ・サハジヤーとして知られる)いわゆる献身者の一団(a class of)は、自らをクリシュナとラーダーと称し、自分たちで作り出した想念に従い、肉欲にふけります。

そのような献身奉仕と愛着はまがい物であり、そのようなことにいそしむ者は実際は地獄への道をすべり落ちていきます。これはラーガートミカー、すなわち献身の手本(standard、基準となる水準、お手本)ではありません。プラークリタ・サハジヤーの共同体は実際は騙されていて、非常に不運です。

第7段落
愛着をもってする献身奉仕には外的および内的という二つの方法で実行され得ます。外的には、献身者は聖名を唱えることと聞くことに始まる規律的な原則に厳密に従います。他方で内的には、彼は至高主に奉仕するように自分を魅了する愛着のことを考えます。

(訳注:主に奉仕をしたくなるような、自分にとって愛着ある事柄を考える、という意味だと思います。例えば、クリシュナの子供時代の娯楽に愛着を感じる者は、それを思うと奉仕をしたくなるので、それをいつも心の中で考える、ということではないかと思います。)

そのような愛着は献身奉仕の規律的な原則に反しません。そして本当の献身者はこれらの原則に厳密に従います。それでいて彼はいつも自分の特定の愛着のことを考えます。

第8段落
ヴラジャブーミ、(および)ヴリンダーヴァンのすべての住人は、クリシュナにとって非常に愛しいので、献身者は住人たちの一人を選び、自分の献身奉仕において成功するように彼の足跡を辿ります。主に愛着を持った純粋な献身者は、いつもヴラジャブーミの人(訳注:personality、立派な人、名士)の足跡を辿ります。

バークティ・ラサームリタスィンドゥー(1.2.294)において、たとえヴラジャブーミあるいはヴリンダーヴァンに住むことができなくても、献身奉仕に愛着のある純粋な献身者は、いつもヴラジャの特定の住人の活動を思い出しているべきであると助言されています。このようにして、彼はいつもヴラジャブーミとヴリンダーヴァンのことを考えることができます。

第9段落
主への奉仕に愛着のある親密な(confidential、互いに信じあった、腹心の)献身者は、いくつかの種類に分けられます。ある者たちは従者であり、ある者たちは友人であり、ある者たちは親であり、そして別の者たちは恋人(conjugal lover、婚姻関係にある恋人)です。

愛着をもってする献身奉仕においては、人はヴラジャブーミの特定の種類の献身者に従わなくてはなりません。シュリマッド・バーガヴァタム(3.25.38)において、主はおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「マット・パラという言葉は、唯一私の信奉者になるということだけに満足している者を指すときに限って使われます。彼らは、私が彼らの魂であり、私が彼らの友人であり、私が彼らの息子であり、私が彼らの主人であり、私が彼らの幸せを願う者であり、私が彼らの神であり、そして私が彼らの至高の目的地であると考えます。

我が親愛なる母よ。そのような献身者の上に時間は働きません。」バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.2.308)において、ルーパ・ゴスヴァーミーは、いつもクリシュナをあるがままに考え、そして主との関係を(自分の)息子、幸せを願うもの、兄弟、父、友人などとして考える者に、心からの敬意を捧げます。

愛着をもって献身奉仕の原則に従い、ヴラジャブーミの特定の献身者に従う者は誰でも、確かにその精神において至高神への愛という最も高い完成を得ます。

第10段落
至高神への愛の種がそれによって発達する二つの特徴があり、これらはラティ、すなわち愛着、そしてバーヴァ、(すなわち)至高神への愛の直前にある状態です。(訳注:「至高神への愛の種の発達には二つの特徴的な段階があり、~」)

至高主シュリー・クリシュナが自分の献身者によって征服されるのは、そのような愛着とバーヴァによってです。これらの二つの特徴は、至高神への愛のいかなる徴候が顕現する前にも存在します。これはすべて主チャイタンニャによってサナータナ・ゴスヴァーミーに説明されました。

主チャイタンニャは彼に、愛着をもってする献身奉仕の仕組みを描写するのは本当に限りがないので、自分は単にごく一部を示そうとしているだけである、とおっしゃいました。主チャイタンニャはそれから、完成を得たいと願う者のためにある、献身奉仕の究極の目的地を描写なさいました。

クリシュナへの愛着が非常に深くなるとき、人は至高神への愛という状態に至ります。そのような存在のあり方は献身者にとって永遠の状況だと考えられます。このことに関して、カヴィラージャ・ゴスヴァーミーは、主チャイタンニャの至高神への愛という崇高な教えに対して、主に心からの敬意を捧げました。

チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー、23.1)には、次のように述べられています。「おお、至高の人格神よ。あなたの他に誰が一度としてそのような純粋な献身奉仕を(報いとして)お与えになったでしょうか?おお、至高の人格神の最も寛大な化身よ。私にできることとして、私はゴーラクリシュナとして知られるこの化身に心からの敬意を捧げます。」
by ammolitering4 | 2010-12-26 08:59 | 「主チャイタンニャの教え」


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