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第10章 後半

第8段落
ゴピーたちの心は、いつもクリシュナの体の甘さを味わうことに携わっています。主は美しさの海であり、主の美しい顔と微笑みと主の体の光沢は、ゴピーたちの心にとって何よりも魅力的です。クリシュナ・カルナームリタの中で、主のお顔、微笑み、そして体の光沢は、「甘く、より甘く、そして最も甘い」と描写されています。

クリシュナの完璧な献身者は、クリシュナの体の光沢、主のお顔と微笑みを見ることで圧倒されます。そして彼は超越的な発作の海で沐浴します。クリシュナの美しさの前では、ちょうど苦しみからの解放のために水を飲むことさえさせずに医者が継続を許す発作のように、これらの発作はしばしば治療されることなく続きます。

第9段落
献身者は、クリシュナがいないことを(時が経つにつれて)ますます強く感じます。主がいらっしゃらないと、主の美しさの蜜を飲むことができないからです。クリシュナの笛の超越的な音が聞こえるとき、その笛(の音)を聞き続けたいという献身者の切望は、彼が物質的な世界の覆いを突き抜けて霊的な世界に入ることを可能にします。

そこでは、笛の超越的な音色がゴピーたちに従う者たちの耳に入ります。クリシュナの笛の音は、いつもゴピーたちの耳の中に住み、彼女らの恍惚感を増します。それが聞こえるときは、他のどんな音も彼女たちの耳には入りません。そして家族の中にあっては、彼女たちは問いかけに正しく答えることができません。これらすべての美しい音が彼女らの耳の中で響いているからです。

第10段落
このように主チャイタンニャはクリシュナの超越的な性質、主の拡張体、主の身体的な光沢、そして主に関わるすべてのものを説明なさいました。つまり、主チャイタンニャはクリシュナをありのままに説明なさり、人が主に近づくための方法(process:過程)も説明なさったのです。

このことに関して、チャイタンニャ・マハープラブはクリシュナへの献身奉仕が主に近づくための唯一の方法であると指摘なさいました。これがヴェーダ文献の判断です。賢者たちは次のように宣言なさいます。

「もしも誰かが超越的な認識の方法をはっきりと知るためにヴェーダ文献を調べるなら、あるいはもしも誰かが(姉妹文献と考えられている)プラーナを参照するなら、その人はそれらすべてにおいて、結論は至高の人格神クリシュナが唯一の崇拝の対象である、ということを見出すでしょう。」

第11段落
クリシュナは完全真理、至高の人格神であり、主はご自分の内的な力の中に位置しておられます。それはバガヴァッド・ギーターにおいて描写されているように、スヴァルーパシャクティあるいはアートマ・シャクティとして知られます。

主はご自分を様々な多数の形に拡張なさいます。そしてこれらのうちの一部は主の個人的な形として知られ、(別の)一部は主の離れた形として知られます。このように、主はすべての霊的な惑星において楽しまれ、物質的な宇宙においても楽しまれます。

主の離れた形の拡張体は生命体と呼ばれ、これらの生命体は主のエネルギーに応じて分類されます。彼らは二つの階層に分けられます。永遠に解放された者と永遠に制約された者です。永遠に解放された生命体は、決して物質自然に触れることはありません。

そしてそのため、彼らには物質的な人生の経験が全くありません。彼らは永遠にクリシュナ意識に、すなわち主への献身奉仕に携わっています。そして彼らはクリシュナの仲間に数えられます。彼らの喜び、彼らの人生の唯一の楽しみは、クリシュナに超越的な愛情を込めた奉仕をすることから得られます。

一方で、永遠に制約されている者はいつもクリシュナへの超越的な愛情ある奉仕から離れており(divorced:離別、絶縁、離婚)、そのため物質的な存在の三重の悲惨さの影響を受けます。制約された魂の「クリシュナからの分離」という永遠の態度(attitude)のため、物質的なエネルギーの魔法は彼に2種類の身体的な存在を授けます。五つの要素からなる密度の濃い体と、心と知性と自我からなる密度の薄い体です。

これらの二つの体によって覆われているため、制約された魂は三重の悲惨さとして知られる物質的な存在の痛みに永遠に苦しみます。彼はまた、(欲望、怒りなどの)6つの敵にも影響されます。それが制約された魂の終わり無き病です。

第12段落
病んでおり、制約されているので、生命体は宇宙全体を転生します。時として彼は上位の惑星系に位置し、別のときには低位の惑星系に位置します。このようにして彼はその病んだ人生を送ります。彼の病は、熟練した医者、すなわち真正なる霊的指導者に出会って彼に従うときにだけ癒されます。

制約された魂が誠実に(faithfully)真正なる霊的指導者の教えに従うとき、彼の物質的な病は癒され、彼は解放された水準に上げられます。そして彼は再びクリシュナへの献身的な奉仕を行うに至り、家へ、クリシュナのもとへ帰ります。

制約された生命体は彼の本当の立場に気づくようになるべきであり、主に次のように祈るべきです。「欲望や怒りなどの、これらすべての身体的な機能の制約のもとに、私はあとどれだけ留まるのですか?」

制約された魂の主人として、欲望や怒りは決して慈悲深くありません。実に、制約された魂は決してそのような悪い主人たちに奉仕をすることを止めません。しかし、自分の本当の意識に、すなわちクリシュナ意識に至ると、彼はこれらの悪い主人を捨てます。

そして、クリシュナの庇護を得るために、率直で広い(frank and open)心を持ってクリシュナに近づきます。そのようなとき、彼は「主への超越的で愛情ある奉仕に携わることができるように」とクリシュナに祈ります。

第13段落
ヴェーダ文献においては時として、結果を求める活動や神秘的なヨガや知識を求める推察的な探求が、自己認識のための異なる方法として讃えられます。しかし、そのような賞賛にも関わらず、すべての文献において献身奉仕の道は最高のものとして受け入れられています。

言い換えると、主クリシュナへの献身奉仕は自己認識への最高の完全なる(perfectional: perfectと同義だが一般的ではない)道であり、それを直接的に実行することが勧められています。結果を求める活動、神秘的な瞑想、および哲学的な推察は、自己認識の直接的な方法ではありません。

それらは間接的です。献身奉仕なくしては、それらは自己認識の最高の完成に至ることができないからです。実に、自己認識のすべての道は究極的には献身奉仕の道に依り頼みます。

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仕事について、どうしようかなあと考えることが多いです。ヴェーダの教えによれば、女性は男性に守られながら幸せな家庭を育むべき存在です。個人によってそういう暮らしが性格的に向かない人もいると思いますが、古今東西の歴史を眺めても生理的な構造を見ても、その教えは決して間違ってはいないと思います。ところが、世は(初期とはいえ)カリユガ。人々の生き方は方向性に欠けて滅茶苦茶で、私もご多分にもれません。家庭らしい家庭も子供も持たずに外国で貧乏暮らしを続けています。魂は永遠だから別にいくらでもやり直しはきくとはいえ、やっぱりできることなら今回の人生も充実させたい、と欲を張ってしまいます。

私は技術的な修練の足りない絵描きです。あなたは誰ですか、と聞かれれば、「魂です」という答えの次に出すべき答えはこれでしょう。その他には、「喫茶店のおばさん、いや、おねえちゃんです」、「ロシア語の話せないロシアかぶれです」、「語彙が足りない翻訳家です」なども考えられます。どうもあんまり全然お金にならないことばかりなので、はっきり言って生活していけません。どうやって生きているのか、自分でも不思議です。クリシュナがなぜか私が死なない程度に生かしているから生きているだけなのだと思います。

死についての心配はしていないのです。どっちにしても死ぬまでは生きているわけだし、次にまたどこかで生まれるかと思うと気が重い程度です。生きている間をどうする、どうやって過ごす、それだけが私の問題です。一つには、慣性の法則みたいなものですが、今の方向性が未来につながります。クリシュナがいらっしゃる場所から目を離さずにいれば、そのまままっすぐそっちの方向に飛んでいくでしょう。もう一つはもうちょっと実際的な問題です。仕事とお金をどうしようかなということです。もともとの私の仕事というのは何なのでしょう。必要なものはクリシュナが恵んでくださるでしょう、と言ってじっと座っていてもいいのかもしれませんが、ちょっと違うような気もします。

私たちは小さいです。限られた時間と限られた能力と限られた資源の中でどう行動するかを考えなければなりません。翻訳も中途半端、絵も中途半端、喫茶店に骨をうずめる覚悟もない、という状態で他の仕事に手を出しても、結局ろくな結果にはならないでしょう。何だかこうやって文章にしながら考え事をしているわけですが、やっぱり細々と隙間の時間を使いながら翻訳と絵を続けていくのが私には合っているのかもしれません。あいにく、通勤の電車の中の10分、休憩時間の15分、コインランドリーで洗濯を待つ間の30分、という程度でできることはたかが知れています。それに、夏はベリー摘みもしなければならないのです。散歩に行って近所の猫をキャットニップでたぶらかすことも怠るわけにはいきません。

。。。輝かしき新しいキャリアに向かってレッツゴーという展開は望めそうもないな、という結論がこうして自動的に導き出されるのでした。まあ、地味にお付き合いください。
by ammolitering4 | 2010-11-11 14:42 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)
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