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第4章 賢人

第4章 賢人

第1段落
生命体が物質エネルギーの中で絡まってしまったのはいつからなのか、誰にもその歴史を辿ることはできません。そのため主は、それは始まりがない、とおっしゃいます。始まりがない、と言うとき、それは「制約された人生は創造に先立って存在する」ということを意味します。それは単に創造の間と後に顕現します。(訳注:これはちょっと分かりにくいですが、創造の前にも存在しているけど、顕現、すなわち形を取った状態になるのは創造の間と後だけ、ということです。)

その忘れやすいという性質のため、生命体は霊であるにも関わらず物質的な存在において様々な悲惨さに苦しみます。この物質的なエネルギーに絡まっておらず、霊的な世界に位置している生命体もいる、ということが理解されるべきです。彼らは解放された魂と呼ばれ、いつもクリシュナ意識、すなわち献身奉仕に携わっています。

第2段落
物質自然によって制約されている者の活動は記録されており(taken into account)、次の生においてこれらの活動に応じて異なる種類の物質的な体が与えられます。物質的な世界においては、制約された霊魂は様々は報償と懲罰の影響下に置かれます。(訳注:良くも悪くもそれぞれの行いに応じた報いを受けなければなりません。)

敬虔な行いへの褒美を貰うとき、彼はより高位な惑星に上げられ、そこで数多くの半神たちの一人になります。そして忌まわしい行いの罰を受けるとき、彼は地獄のような惑星に投げ入れられ、そこで物質的な存在の悲惨さをより強烈に経験します。

チャイタンニャ・マハープラブは、この罰のとてもよい例を与えてくださいます。かつて、王様が犯罪者を罰するとき、彼を川に沈め、引き上げて呼吸させ、再び水に沈めていました。物質自然は個々の生命体を全く同じように罰したり褒美を与えたりします。

罰されるとき、彼は物質的な悲惨さという水の中に沈められます。そして褒美を与えられるとき、彼はしばらくの間、水から引き上げられます。より高位の惑星や、人生のより高い水準へ上げられることは、決して永久的ではありません。

人は必ずまた水の中に沈められるために降りてこなければならないのです。これらすべてのことがこの物質的な存在の中で常に起こっています。時として人はより高位の天体系に引き上げられ、別のときには物質的な人生の地獄的な状態に投げ入れられます。

第3段落
このことに関して、チャイタンニャ・マハープラブはシュリマッド・バーガヴァタムの一節を語られます。ナーラダ・ムニがクリシュナの父であるヴァスデヴァに与えた教えからの抜粋です。

(サンスクリット引用)(SB11.2.37)

マハーラージャ・ニミを指導していた9人の賢者たち(の教え)からの、この引用の中で、マーヤーは「自分のクリシュナとの関係を忘れること」と定義されています。事実、マーヤーは「それでないもの」(that which is not)を意味します。それは存在を持たないのです。

そのため、生命体は至高主と何の関係もない、と考えるのは誤りです。彼は神の存在を信じないかもしれず、あるいは自分は神とは関係ないと考えるかもしれませんが、これらはすべて「幻想」、すなわち「マーヤー」です。この人生に関する誤った概念のために、人はいつも恐れており、不安で一杯です。

言い換えると、人生の神のない概念(訳注:人生を神を含まないものと考えること)はマーヤーです。本当にヴェーダ文献に精通している者は、大いなる献身の念をもって主に服従し、主を至高の目的地として受け入れます。

生命体が神との自分の関係の本来的な性質を忘れるとき、彼は直ちに外的なエネルギーによって圧倒されます。これが彼の偽りの自我、すなわち自己を体であると考える誤った自己認識の原因です。実に、生命体が持つ物質宇宙の概念全体が、この誤って体が自分であると考えることから生じます。

彼は体とその副産物に執着するようになるからです。このように絡まった状態から逃げ出すためには、彼は知性と献身の念と真摯なクリシュナ意識をもって自分の義務を果たし、至高主に服従するだけでよいのです。

第4段落
制約された魂は物質世界の中で誤って自分が幸せだと考えます。しかし、もしも彼が純粋な献身者の教えに恵まれるなら、彼は物質的な楽しみへの欲求を捨てて、クリシュナ意識という悟りを開くようになります。クリシュナ意識に入ると同時に、物質的な楽しみへの彼の欲求は直ちに消えます。

そして彼は徐々に物質的な絡まりから自由になります。光のあるところでは闇はありえません。そしてクリシュナ意識は物質的な感覚の楽しみという暗闇をかき消す光です。

第5段落
クリシュナ意識の人は、決して自分が神と一つであるという誤った概念のもとにはありません。自分自身のために働くことによっては幸せでありえない、ということを知っているので、彼は自分のエネルギーのすべてを至高主への奉仕のために使い、そうすることで幻想的な物質エネルギーにしっかりと捕まっている状態からの解放を得ます。このことに関して、チャイタンニャ・マハープラブはバガヴァッド・ギーターから次の節を引用なさいます。

(サンスクリット引用)

「物質自然の三つの相からなる私の神聖なエネルギーは、乗り越えるのが大変難しいものです。しかし、私に服従した者は簡単にそれを超えることができます。」(BG7.14)

第6段落
チャイタンニャ・マハープラブは続けて、何らかの結果を求める活動に携わる一瞬一瞬、制約された魂は自分の本当の自己認識を忘れるのである、と教えられました。時として、疲れ果てたとき、物質的な活動に疲れたとき、彼は解放を望み、至高主と一つになりたいと望みます。

しかし別の時には、自分の感覚を満足させるために一生懸命に働くことによって自分は幸せになるだろう、と考えます。どちらの場合も、彼は物質エネルギーに覆われています。そのような幻惑されて制約された魂の悟りのために、至高主はヴェーダ、プラーナ、ヴェダーンタ・スートラなどの膨大なヴェーダ文献を与えてくださいました。

これらはすべて、人間が至高神のもとへ帰れるように導くことを目的としています。チャイタンニャ・マハープラブは、さらに続けて次のように教えられました。制約された魂が霊的指導者の恵みによって受け入れられ、超魂および様々なヴェーダの聖典によって導かれるとき、彼は悟りを開いて、霊的な認識において進歩します。

人が自分の主との関係を理解して、その関係に基づいて行動することができるようにするための、これらの多くのヴェーダ文献を主が与えてくださったのは、主クリシュナはいつもご自分の献身者に対して慈悲深くていらっしゃるからです。

第7段落
実際には、すべての生命体は至高主に至ることが運命づけられています。完成を得るために義務を遂行することは、献身奉仕として知られています。そして、そのような献身奉仕が成熟すると、それはすべての生命体にとっての本当の人生の目的地である、神への愛になります。

実際は、生命体は宗教的な儀式や経済的な発達や感覚の喜びにおいて成功を得るようにはできていないのです。生命体は解放において成功することさえ望むべきではありません。宗教や経済や感覚の満足における成功は言うまでもありません。

人の本当の望みは、主への愛情ある超越的な奉仕という水準に至ることだけであるべきです。主クリシュナのすべての者を魅了する特質は、人がこの超越的な奉仕ができるようになる助けになります。そして、人がクリシュナと自分の間の関係を理解できるようになるのは、クリシュナ意識におけるそのような奉仕によるのです。

第8段落
人生の究極の目的地を求める人類の探求について、チャイタンニャ・マハープラブはシュリマッド・バーガヴァタムの5巻の中のマドゥヴァの解説(マドゥヴァ・バーシャ、5.5.10-13)から、一つの話を語られます。

これは、占星術師のサルヴァジニャが未来を予言してもらいに来た貧しい男に語る教えの物語です。
男のホロスコープを読んですぐに、サルヴァジニャは男が非常に貧しいことに驚愕し、彼に言いました。
「なぜあなたはそんなに不幸せなのですか?

あなたのホロスコープから、あなたにはお父さんが残された宝があるのを見ることができます。しかしホロスコープは、あなたのお父さんは異郷で亡くなったので、あなたにこのことを明かすことができなかった、と示しています。しかし、今ではあなたはこの宝を探して幸せになることができます。」

この話が語られたのは、生命体が自分の至高の父であるクリシュナの隠された宝を知らないために苦しんでいるからです。その宝とは、至高神への愛であり、すべてのヴェーダ文献において、制約された魂はそれを見つけるように助言されています。

バガヴァッド・ギーターに述べられているように、制約された魂は最も豊かな人物、すなわち至高の人格神の息子であるにも関わらず、彼はそれに気づきません。したがって、彼が自分の父とその財産を探し当てるのを助けるために、彼にはヴェーダ文献が与えられています。

第9段落
占星術師のサルヴァジニャは、さらに貧しい男に助言しました。「宝を見つけるために家の南側を掘ってはいけません。もしもそうすれば、あなたは毒蜂に襲われて挫折するからです。宝探しは家の東側で行われるべきです。

そこには献身奉仕あるいはクリシュナ意識と呼ばれる実際の明かりがあります。南側にはヴェーダの儀礼があり、西側には精神的な推量があり、そして北側には瞑想的なヨガがあります。」

第10段落
サルヴァジニャの助言を、誰もが注意深く心に留めるべきです。もしも儀礼的な方法によって究極的な目的地を探すなら、人は必ず挫折するでしょう。そのような方法は、お金をとって儀礼を行う神官の指導のもとで行われる儀礼を伴います。

そのような儀礼を行うことで人は幸せになれると思うかもしれませんが、実際にはもしもそれによって何らかの結果が得られても、それは一時的なものに過ぎません。彼の物質的な苦しみは続きます。その代わり、彼は単に自分の物質的な苦痛をもっともっと増やします。

同じことが北側を掘ること、すなわち瞑想的なヨガという方法で宝を探すことにも言えるでしょう。この方法によって、人は至高主と一つになることを考えますが、至高存在と同化するというこのことは、大きなヘビに呑まれるようなものです。

時として大きなヘビは小さなヘビを呑みこみます。そして、至高存在の霊的な存在に同化することは、(これに)似ているのです。完成を探し求めている間に、小さなヘビは呑みこまれます。明らかに、ここには解決策はありません。

西側にもまた、ヤクシャ、すなわち宝を守る邪悪な霊の形をとった障害物があります。つまり、隠された宝はそれを得るためにヤクシャの情けを求める者によっては決して見つけられない、ということです。結果は単に殺されるだけです。

このヤクシャは精神的な推量であり、この場合は自己認識(self-realization)の推量的な方法、すなわちジニャーナの方法もまた自殺的です。

第11段落
それでは、唯一の可能性は、完全なクリシュナ意識における献身奉仕という方法によって、東側で隠れた宝を探すことです。実に、その献身奉仕の方法は永久的な隠された宝であり、それを得ると人は永久的に豊かになります。

クリシュナへの献身奉仕において乏しい者は、いつも物質的な利益を必要とします。時として彼は毒のある生き物に噛まれて苦しみ、時として挫折します。時として彼は一元論の哲学に従い、そうして自分の自己認識(アイデンティティー)を見失います。

そして時として彼は大きなヘビに呑みこまれます。これらすべてを放棄して、クリシュナ意識、すなわち主への献身奉仕にしっかりと心を据えることによってのみ、人は実際に人生の完成を得ることができます。
by ammolitering4 | 2010-04-30 07:21 | 「主チャイタンニャの教え」


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