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第1章 ルーパ・ゴスヴァーミーへの教え-2

第14段落

主チャイタンニャはルーパ・ゴスヴァーミーに、献身の木の根に水をやるときに遭遇する、ある危険を指摘なさいました。木がすこし生長すると、動物が来て食べてしまったり、へし折ったり(to destroy)するかもしれません。何かの動物に緑の葉を食べられてしまったら、一般に植物は枯れます。

最も危険な動物は、狂った象だと考えられています。もしも狂った象が庭に入ってくれば、それは草や木に甚大な被害をもたらすからです。主の純粋な献身者への無礼は、ヴァイシュナヴァーパラーダー、すなわち「狂った象の無礼」と呼ばれます。

献身奉仕の遂行にあたっては、純粋な献身者の足への無礼は破滅(havoc、危険、大きな破壊、混乱)を生じさせ得ます。したがって人は、正しく世話をすることによって、そして無礼を冒さないように気をつけることによって、バークティの木を守らねばなりません。もしも注意深くあるならば、木は元気に茂ります。

第15段落

聖なる御名に対して冒し得る無礼には、主に10種類あります。

第1の無礼は、世界中に聖なる名の栄光を広めようとした偉大な献身者を侮辱することです。クリシュナの聖なる名はクリシュナと異なるものではありません。そして、世界中に聖なる名を広めようとする人は、主にとって愛しい者です。クリシュナの純粋な献身者に対する無礼は、主ご自身が我慢なさいません。

第2の無礼は、主ヴィシュヌが完全真理であることを否定することです。主の名前、性質、形、娯楽および活動には、違いはありません。そして、(訳注:それらの間に)違いを見る者は無礼者と見なされます。主は至高であり、主と同等であったり主より優れていたりする者はありません。したがって、もしも主の名前は半神の名前と変わらないと考えるなら、人は無礼を冒します。至高主と半神は、決して同じ水準で考えられるべきではありません。

第16段落

第3の無礼は、真正なる霊的指導者を普通の人であると考えることです。

第4の無礼は、ヴェーダ文献やプラーナなどの正統なる聖典を侮辱することです。

第5の無礼は、聖なる名前に属する栄光を誇張であると考えることです。

第6の無礼は、聖なる名前について歪んだ理論を作り上げることです。

第7の無礼は、聖なる御名を唱えることの力に依り頼んで、罪深い行いをすることです。聖なる御名を唱えることで、人は罪深い行いの結果(reaction、反応)から自由になると理解されています。しかし、これは聖名を唱えることの力に依り頼んで罪深い行いをしてもよい(should)ということを意味するのではありません。それは最大の無礼です。

第8の無礼は、宗教的な儀礼、苦行、犠牲、あるいはその他の放棄を、聖なる御名を唱えることと同等であると考えることです。聖なる御名を唱えることは、至高の人格神と交友するのと同じくらい良いものです。敬虔な行いは単に至高の人格神に近づくための方法に過ぎず、それらは何らかの物質的な理由によってさえ行われ得ます。

第9の無礼は、神の聖なる御名を、それを聞くことに興味のない不信心な人に説くことです。

第10にして最後の無礼は、神の聖なる御名を聞いたり唱えたりした後も物質的な執着を持ち続けることです。どういうことかというと、無礼を冒すことなく聖なる御名を唱えることによって、人は解放された水準への上昇を得ることができるからです。解放された水準においては、人はすべての物質的な執着から自由になります。したがって、もしも人が聖なる御名を唱えて、なおかつ物質的な執着を持っているなら、その人は何らかの無礼を冒しているに違いありません。

第17段落

その他にも、献身奉仕の木を妨害する要素があります。この木と一緒に、物質的な欲望という雑草も育ちます。バークティにおいて発達すると、多くの人が弟子にしてもらいたいと言って彼のもとを訪れ、何らかの物質的な利益を提供するのは自然なことです。

もしも人が、数多くの弟子(を持つこと)、およびこれらの弟子たちによって提供される物質的な便宜に魅了されて、真正なる師としての自分の義務を忘れるなら、(献身の)木の生長は妨げられます。単に物質的な利便を自分の利益のために利用することによって、人は物質的な快適さを楽しむことにおぼれるようになる可能性があります。

第18段落

解放を望むこともまた、不利であると考えられます。唯一の欲求は、奉仕を捧げることへの欲望であるべきです。規制や禁止命令を無視することも、同じく不利です。禁止命令は、正統な聖典の中に示されています。

人は不正な性交にふけったり、陶酔物を摂取したり、肉食をしたり、賭け事をしたりすべきではありません。これらの事柄は、献身奉仕を志す者には禁じられています。もしもこれらの原則に厳密に従わないなら、献身奉仕の遂行にあたって厳しい障壁があるかもしれません。

第19段落

もしもあまり注意深くないなら、たとえ献身奉仕の木に水をやっても、不必要な雑草が育って発達を妨げるでしょう。つまり、庭に水をやると望ましい木がもっと速く育つだけでなく、望ましくない植物も
育つということです。

もしも庭の世話をする者がこれらの妨害物を見つけて取り除かないなら、それらは献身奉仕の木を圧倒して枯らします。しかし、もしも気をつけて望ましくない植物の生長を阻むなら、献身奉仕の木は青々と育ち、究極の目的地であるゴロカ・ヴリンダーヴァンに至ります。

献身奉仕に携わる生命体が至高神への愛という果実をおいしく食べるなら、彼はすべての宗教的な儀式や自分の経済的な状況の改善を忘れます。彼はもはや、自分の感覚を満足させたいとは望みません。そして彼は、もはや主の光輝と一体化することによって至高主と一つになることを望んだりもしません。

第20段落

霊的な知識と超越的な喜びには多くの段階があります。ある水準においては、儀式的な犠牲、禁欲、および宗教的な義務の遂行、および神秘的なヨガの実践がヴェーダの中で勧められています。これらの事柄は、どれもそれぞれの実践者に異なる結果をもたらします。

しかし、これらの実践の報酬は、人が主への超越的な愛情ある奉仕(の段階)に上げられていない限りにおいてのみ、非常に輝かしいものに見えるものです。主への愛はすべての者の中に潜在しています。そしてそれらは、純粋な献身奉仕の実践によって、休眠中の状態から目覚めさせられ得ます。ちょうど、ヘビにかまれた人がアンモニアによって目覚めさせらるようなものです。

第21段落

献身奉仕についてこのように語った後で、主チャイタンニャはルーパ・ゴスヴァーミーに献身奉仕とその特徴を描写し始めます。主は、純粋な献身奉仕においては、クリシュナ意識において発達するということ以外の望みはありえない、と説明なさいます。

クリシュナ意識においては、いかなる半神やクリシュナの他のどんな形を崇拝する余地もありません。また、推察的な経験主義の哲学にふけったり結果を求める活動にふけったりする余地もありません。人はこれらすべての汚染から自由であるべきです。

献身者は、自分の体と魂をつなぎとめておくのに好ましいものだけを受け入れるべきであり、体の要求を増すものは退けるべきです。体を維持するために最小限必要なものだけが受け入れられるべきです。

体の必要性を最小限に抑えることによって、人は主の聖なる御名を唱えることを通してクリシュナ意識を培うことに自分の時間のほとんどを使うことができます。純粋な献身奉仕とは、体のすべての感覚を主への奉仕に携わらせることを意味します。

現時点では、私たちの感覚はすべて限定されています。私たちの体が限定されているからです。結果として、私たちはこの体が特定の社会や特定の国や、特定の家族に属すると考えます。このようにして、体は非常に多くの限定に縛られます。

(訳注:原語はto designate。これは何かが特定の属性を持つ、という意味の言葉。プラブパーダのご本にはよく出てきます。自分は猫である、火星人である、お姫様である、というのもこれに当たりますし、「今日は仲間を送っていくから飲めない」という場合などもdesignated driverと言ったりします。また、駅のベンチのところには「designated waiting area」と書いてあったりします。)

同様に、感覚は体に属するものであり、体がそのような限定の影響の下にあると、感覚も同じく影響はされます。こうして感覚は家族や社会や国などのために働くことになります。そのような活動をしているときは、感覚はクリシュナ意識を培うことはできません。感覚は浄化されなければなりません。

そしてこれは、人が「自分はクリシュナに属しており、自分の人生はクリシュナに属しているのだ」と、はっきりと理解するときに可能になります。献身者は自分の自己をクリシュナの永遠の従者として認識すべきです。このようにして、人は感覚を主への奉仕のために携わらせることができます。そのような働きは純粋な献身奉仕と呼ばれます。

第22段落

純粋な献身者は、主への超越的な愛情ある奉仕は受けれいますが、自分の感覚の満足のためのどんな種類の解放も退けます。シュリマッド・バーガヴァタム(3.29.11-13)において、主カピラは、すべての人の心臓に鎮座する至高の人格神の栄光と超越的な性質について純粋な献身者が聞くと、ちょうどガンジス川の水が海へ流れるように、彼の心は直ちに主のほうへ流れる、と説明なさいます。

至高の人格神への奉仕にそのように自発的に魅了されるのは、純粋な献身奉仕にとって大切です。献身奉仕は、人が至高主への奉仕に何らの動機もなく、そして物質的な妨害によって妨げられることなく携わるときには純粋です。

純粋な献身者は、至高主と同じ惑星に住みたいと望むこともなく、主と同じ豊かさを望むこともなく、主と一緒に(訳注:同じ部屋や家や隣同士など、密接な関係をもって)住みたいとか、主の存在に同化したい等々の望みを持つこともありません。

たとえ献身者が主によってそのような見返りを提供されても、彼はそれらを退けます。要点は、献身者は主への超越的で愛情ある奉仕にあまりにも没頭しているので、自分の目の前の仕事を超えたところにあるいかなる利益(benefit)についても考える時間がないということです。

ちょうど、普通のビジネスマンが仕事に没頭しているときには他の事を考えないように、純粋な献身者は主への奉仕に携わっているときはその仕事を超えたところにあるどんなことについても考えません。

第23段落

もしもそのように献身奉仕を捧げることに没頭しているなら、その人はバークティの最高の水準に上げられていると理解され得ます。そのような超越的な愛情ある奉仕によってのみ、人はマーヤーの影響を乗り越えて至高神への純粋な愛を味わうことができます。

物質的な恩恵と解放は、二人の誘惑の魔女たち、と呼ばれます。それらを望む限り、人は至高主への超越的な愛情ある奉仕の味を味わうことができません。

第24段落

献身奉仕には三つの段階があります。
第1は、修養の最初の段階です。
第2は、奉仕の認識です。
第3、すなわち至高の水準は、至高神への愛を得ることです。

献身奉仕を培うためには、聞くこと、聖名を唱えること、思い出していることなど、9つの異なる方法があります。そして、第一の段階では、これらすべての方法が取られます。もしも人が献身の念と信仰(faith)をもって聖名を唱えることと聞くことに携わるなら、その人の物質的な不安は徐々に消え去ります。

献身奉仕への信頼(faith)が徐々に増せば、人はより高い完成という立場を保証されるようになります。このようにして、人は献身奉仕にしっかりと心を据えて、ますます献身を好むようになり、献身に執着し、恍惚感を感じることができるようになります。

この恍惚感は、至高神への愛の予備的な段階で生じます。恍惚感は、献身奉仕を実行することによって感じられます。人が聖名を聞くことと唱えることという方法を続けると、愛着が増して、至高神への愛という性質(name、名声、本質的な点)を帯びるようになります。

第25段落

人が神への超越的な愛という第3の水準に至ると、さらなる発達が生じます。それらは、超越的な愛情、感情、恍惚感、および極度で強烈な愛着として知られます。これらは、厳密にはラーガ、アヌラーガ、バーヴァ、およびマハーバーヴァとして知られます。

ある段階から次の段階への発達は、砂糖の原液が濃くなっていくのに比べられます。最初の段階では、原液は水のように薄いものです。蒸発によってだんだん濃くなっていくと、それは糖蜜になります。最後には、それは細かい粒に変わり、砂糖や氷砂糖になります。

ちょうど砂糖水がある段階から次の段階へと変わっていくように、同様に至高主への超越的な愛は段階を追って発達します。

第26段落

実際に超越的な水準に位置するようになると、人は安定するようになります。そのように位置しない限り、彼の立場は安定せず、堕落するかもしれません。実際に超越的な立場に位置するようになると、堕落する恐れはありません。この理解の段階は、厳密にはスターイ・バーヴァと呼ばれます。

この立場よりももっと進んだ段階もあり、それらはヴィバーヴァ、アヌバーヴァ、サーットヴィカ、およびヴャビーチャーリーとして知られます。これら(の段階)に至ると、実際にラサの交換、すなわち至高主との超越的な活動があります。

愛する者と愛される者との間の、この愛情あるお返し(reciprocation、報い)の交換は、一般にクリシュナ・バークティ・ラサと呼ばれます。以前に説明したように、超越的な愛情ある交換はスターイ・バーヴァの確固とした立場にあるということが特記されるべきです。ヴィバーヴァの基本原則はスターイ・バーヴァであり、他のすべての活動は超越的な愛の発達にとって補助的です。
by ammolitering4 | 2010-03-22 02:43 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)
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