人気ブログランキング |

序論 第21段落から30段落まで

第21段落

私たちは、しばしば「至高神への愛」という言葉を耳にしました。この至高神への愛が実際にどこまで発達できるかということは、ヴァイシュナヴァ哲学から学ぶことができます。神への愛の理論上の知識は多くの場所と多くの聖典の中に見出され得ますが、その至高神への愛が実際には何なのか、そしてそれがいかに発達されるかということが、ヴァイシュナヴァ文献には見出され得ます。チャイタンニャ・マハープラブによって与えられたのは、神への愛の独自で最高の発達なのです。

第22段落

この物質世界においてさえ、私たちは少々の愛の感覚を持つことができます。これはどうやって可能でしょうか?それは至高神の中に見出される愛によるものです。この制約された人生の中での私たちの経験の中に私たちが見出すものは何であれ、すべてのものの究極の源である至高主の中に位置しています。

私たちの至高主との本来の関係の中に本当の愛があり、その愛は物質的な状態を通して歪んで反映されます。私たちの本当の愛は継続的で終わりがありません。しかし、その愛がこの物質世界の中に歪んで反映されているので、それは継続性を欠き、(人を)酔わせます(nebriating、酔わせるような、酩酊させるような)。

もしも私たちが本当の超越的な愛を欲するなら、私たちは自分の愛を至高の愛すべき対象、すなわち至高の人格神に移さねばなりません。これがクリシュナ意識の基本的な原則です。

第23段落

物質的な意識においては、私たちは全く魅力的でない(愛すべきでない)ものを愛そうとしています。私たちは自分の愛を犬や猫に与え、死のときに彼らのことを考えて、結果的に猫や犬の家族に生を受けるかもしれない危険を冒しています。

このように、クリシュナを対象として持たない愛は下方につながります。クリシュナ、すなわち神が何かあいまいなものであるとか、ごく一部の選ばれた人々のみが到達できるものであるとかいうのではありません。チャイタンニャ・マハープラブは、すべての国とすべての聖典の中に至高神への愛のいくらかのヒントがあるとお教えになります。

不幸にして、至高神への愛が実際に何なのか、誰も知りません。しかしヴェーダ文献は、神を愛するための正しい方向へ個人を導くことができるという点で異なります。他の聖典は、どうやって人が神を愛することができるかということに関する情報を与えず、また、至高神とは実際に何か、あるいは誰かということを実際に定義したり描写したりもしません。

彼らは公式には至高神への愛を推し進めていますが、彼らはそれをどうやって実行するかということについては何の考えもありません。しかしチャイタンニャ・マハープラブは、恋人同士(conjugal、普通は婚姻関係を指す)の関係においていかに神を愛するかということの現実的な実証を与えてくださいます。

ラーダーラーニーの役割を演じて、チャイタンニャはラーダーラーニーがクリシュナを愛したように主を愛そうとなさいます。クリシュナはいつもラーダーラーニーの愛に驚嘆していました。「どうやってラーダーラーニーは私にこれほどの喜びを与えるのだろう」と主は問われます。

ラーダーラーニーを研究するために、クリシュナは彼女の役割において生き、ご自分自身を理解しようとなさいました。これが主チャイタンニャの化身の秘密です。チャイタンニャはクリシュナですが、主は私たちにいかにしてクリシュナを愛するかを見せるために、ラーダーラーニーの相、あるいは役割をお取りになりました。そのため、主は(訳注:信者によって)次のように呼ばれます(to address)。「私はラーダーラーニーのことを考えて夢中になっていらっしゃる至高主に心からの敬意を捧げます。」

第24段落

これは、ラーダーラーニーが誰でクリシュナが何であるか、という問いを生じさせます。実際には、ラーダークリシュナは愛の交換です。これは普通の愛ではありません。クリシュナは計り知れない力をお持ちであり、その中で内的、外的、および境界的という3つが主要なものです。

内的な力には三つの部分があります。サムヴィット、フラーディニー、およびサンディーニーです。フラーディニーの力は喜びの力です。すべての生命体は、この、喜びを求める力を持っています。すべての存在は喜びを持とうとしているからです。これは生命体の本質的な性質です。

現在は私たちはこの物質的な状態の中で、体という手段によって自分の喜びの力を楽しもうとしています。身体的な接触によって、私たちは物質的な感覚の対象から喜びを得ようと試みています。しかし私たちは、常に霊的であるクリシュナが私たちのようにこの物質的な水準において喜びを得ようとなさっていると考えるべきではありません。

クリシュナは物質的な宇宙を、悲惨さに満ちた非永遠なる場所、と描写なさいます。それではなぜ主が物質的な形において喜びを求めるべきでしょうか?主は超魂、至高の霊であり、主の喜びは物質的な概念を超えています。

第25段落

クリシュナの喜びがいかに得られるかを学ぶためには、私たちはシュリマッド・バーガヴァタムの10巻を読まねばなりません。そこではクリシュナの喜びの力が、ラーダーラーニーおよびヴラジャの高貴な娘たち(訳注:ゴピーたち)との主の娯楽の中にあらわされています。

不幸にして、非知性的な人々は直ちに10巻のダシャマ・スカンダーの中のクリシュナの娯楽に目を向けます。クリシュナがラーダーラーニーを抱擁なさったことや、ラーサの踊りでクリシュナが牛飼いの娘たちと一緒に踊られたことは、一般には普通の人々によっては理解されません。

彼らはこれらの娯楽を俗世の欲望の光の中で考えるからです。彼らはクリシュナが自分たちのようなものであると、そして主はゴピーたちを普通の男が若い娘を抱擁するように抱擁なさるのだと、不正確に考えます。こうして一部の人々はクリシュナに興味を持ちます。

主の宗教は性交にふけることを許すと彼らは考えるからです。これはクリシュナ・バークティ、クリシュナへの愛ではありません。そうではなく、プラークリタ・サハジャー、すなわち物質的な欲望です。

第26段落

そのような間違いを避けるために、私たちはラーダークリシュナが本当は何であるのかを理解すべきです。ラーダーとクリシュナは、クリシュナの内的な力を通して彼らの娯楽を表されます。クリシュナの内的なエネルギーの喜びの力は最も難しい主題であり、クリシュナが何であるかを理解しない限り、人はそれを理解することはできません。

クリシュナはこの物質的な世界の中では何の喜びも経験なさいません(does not take pleasure in this material world)が、主は喜びの力をお持ちです。私たちは主の欠かすべからざる小片(訳注:part and parcel、文字通りには「部分と部分」であるが、「絶対に必要な小部分」を意味する慣用句)であるので、喜びの力は私たちの中にも存在します。

しかし私たちはその喜びの力を物質の中で表わそうとしています。しかしクリシュナはそのような無駄な努力はなさいません。クリシュナの喜びの力の対象はラーダーラーニーであり、主はご自分の力、すなわちご自分のエネルギーをラーダーラーニーとして表わされ、そして彼女との愛情ある交換(loving affairs)にいそしまれます。

言い換えると、クリシュナはこの外的なエネルギーの中では喜びを経験なさいませんが、ご自分の内的なエネルギー、喜びの力をラーダーラーニーとして表わされます。主の多くの分身、拡張体、および化身の中で、この喜びの力は筆頭であり、主要です。

第27段落

ラーダーラーニーがクリシュナから離れた存在であるというわけではありません。ラーダーラーニーもまたクリシュナです。エネルギーとエネルギーの源に違いはないからです。エネルギー無しではエネルギーの源には何の意味もなく、エネルギーの源がないとエネルギーは存在しません。

同様に、ラーダー無しではクリシュナには何の意味もなく、クリシュナ無しではラーダーには何の意味もありません。このため、ヴァイシュナヴァ哲学はまず至高主の内的な喜びの力に敬意を捧げ、崇拝します。したがって、主と主の力はいつもラーダー・クリシュナとして呼ばれます。

同様に、ナーラーヤナの名前を崇拝する人々は、ラクシュミー・ナーラーヤナと言って、まずラクシュミーの名前を口にします。同様に、主ラーマを崇拝する人々は、まずスィーターの名前を口にします。スィーター・ラーマ、ラーダー・クリシュナ、ラクシュミー・ナーラーヤナ、と、どの場合でも力がいつも先に来ます。

第28段落

ラーダーとクリシュナは一つであり、クリシュナが喜びを楽しみたいと欲するとき、主はご自分をラーダーラーニーとして顕現なさいます。ラーダーとクリシュナの間の愛の霊的な交換は、クリシュナの内的な喜びの力の実際の表れです。

私たちはクリシュナが欲する「とき」について語りますが、主が実際にいつ欲されたかについては、私たちは言うことはできません。私たちは、制約された人生においてはすべてのものに始まりがあると考えるために、このように語るのです。

しかし、完全な、あるいは霊的な人生では、始まりも終わりもありません。にも関わらず、ラーダーとクリシュナが一つであるということと、彼らが分かれもするということを理解するために、「いつ?」という問いが自動的に私たちの心に浮かびます。

クリシュナがご自分の喜びの力を楽しもうと欲されたとき、主はご自分をラーダーラーニーという離れた形に顕現なさり、主がラーダーという媒体を通してご自分を理解したいと欲されたとき、主はラーダーラーニーと合体し、その合体が主チャイタンニャと呼ばれます。

第29段落

なぜクリシュナはチャイタンニャ・マハープラブの姿をとられたのでしょうか?それはクリシュナがラーダーの愛の栄光を知りたいと欲されたからだと説明されています。「なぜ彼女はそれほどまでにも私を愛しているのだろう?」とクリシュナは問いました。

「彼女をそれほど惹きつける私の特別な性質とは何だろう?そして、彼女が私を愛する実際のあり方(way)とは何だろう?」至高存在であるクリシュナが誰かの愛によって魅了されるというのは奇妙に見えます。私たちは不完全で何かを欠いているため、女性や男性の愛を捜し求めます。

女性の愛、その力と喜びは、男性には欠けてます。したがって男性は女性を求めますが、これはご自分で完全であるクリシュナの場合にはあてはまりません。こうしてクリシュナは驚きを表されました。「なぜ私はラーダーラーニーによって魅了されるのだろう?

そして、ラーダーラーニーが私への愛(My love)を感じるとき、彼女は実際に何を感じているのだろう?」その愛情ある交換の真髄を味わうために、クリシュナはちょうど月が海の水平線に現れるようにお現れになりました。月が海を攪拌することによって作られたように、霊的な愛の交換の攪拌によって、チャイタンニャ・マハープラブという月が現れました。

実に、チャイタンニャの肌色はちょうど月のように金色でした。これは比喩的な表現ではありますが、それはチャイタンニャ・マハープラブの顕現の背後の意味を伝えています。主の現れの完全な重要性は後の章で説明されます。

第30段落

至高存在の顕現はチャイタンニャ・チャリタームリタにおいても説明されています。主チャイタンニャに敬意を捧げたあとで、クリシュナダーサ・カヴィラージャは次にニテャーナンダに敬意を捧げます。彼は、ニテャーナンダはマハー・ヴィシュヌの源であるサンカルシャニャの顕現である、と説明なさいます。

クリシュナの最初の顕現はバララーマとしてであり、次にサンカルシャニャ、そしてサンカルシャニャの後は主はプラデュヌマとして顕現なさいます。このようにして、非常に多くの拡張体が現れます。多くの拡張体が存在しますが、ブラーマ・サムヒターに確認されているように、主シュリー・クリシュナが源です。

主は、それから何千何万ものロウソクが灯される、もともとのロウソクのようなものです。いくらでもロウソクが灯され得ますが、もともとのロウソクはそれでも源としての主体性(identity)を保ちます。このようにしてクリシュナはご自分を非常に多くの光に拡張なさいます。そしてこれらの拡張体はヴィシュヌ・タットヴァと呼ばれます。ヴィシュヌは大きな光であり、私たちは小さな光です。しかし、すべてはクリシュナの拡張体です。
by ammolitering4 | 2009-12-30 04:40 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)
名前
URL
削除用パスワード


<< 序論 第31段落から40段落まで 序論 12段落から20段落まで >>