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序論 12段落から20段落まで

第12段落

チャイタンニャ・チャリタームリタは、霊魂は永遠不滅であり、霊的な世界における私たちの活動もまた永遠であると教えます。完全存在が非人格であって無形であるという見方をするマーヤーヴァーディーたちは、自己を認識した(悟りを開いた)魂は喋る必要がないと主張します。

しかし、クリシュナの献身者であるヴァイシュナヴァたちは、人は自己認識(悟り)の水準に至ったときに本当に喋り始めると主張します。「以前は私たちは無意味なことばかり喋っていました」とヴァイシュナヴァは言います。「さあ、今こそ本当の話を、クリシュナに関する話を始めましょう。」

マーヤーヴァーディーたちはまた、水がめの例を好んで用います。水がめが水で一杯になっていないと、それは音を立てます。しかし、一杯になっていると音を立てません。それが彼らの主張です。しかし、私たちは水がめでしょうか?どうして私たちが水がめと比べられるでしょうか?

良い類推は、二つの対象の間にできるだけ多くの相似性を用います。水がめは動的な生命力ではありませんが、私たちはそうです。永遠に無言の瞑想は水がめには妥当かもしれませんが、私たちにはそうではありません。実に、人が自己を認識したとき、人はクリシュナについて話すことがあまりにたくさんあるので、一日に24時間では足りません。

黙っている限りは褒め称えられるのは愚か者です。彼が沈黙を破ると、彼の知識の欠如があらわになるからです。チャイタンニャ・チャリタームリタは、至高存在を讃えることによって見出せる素晴らしいものがたくさんあることを示しています。

第13段落

チャイタンニャ・チャリタームリタの始めに、クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーはこう書いています。「私は自分の霊的指導者たちに敬意を捧げます。」彼はここで、師弟継承を示すために複数形を用いています。自分の霊的指導者だけにではなく、主クリシュナご自身から始まる師弟継承の鎖であるパラムパラー全体に敬意を捧げているのです。

このように、すべてのヴァイシュナヴァへの著者の最高の敬意を示すために、グルは複数形で指されています。師弟継承に敬意を捧げたあと、著者は他のすべての献身者たち、兄弟弟子たち、至高神の拡張体たち、およびクリシュナのエネルギーの最初に顕現に敬意を捧げます。

(時としてクリシュナ・チャイタンニャと呼ばれる)主チャイタンニャ・マハープラブは、これらすべての具現体です。主は、神、グル、献身者、そして神の拡張体です。主の仲間ニテャーナンダとして、主はエネルギーの最初の顕現です。アドヴァイタとして、主は化身です。

ガダーガーラとして、主は内的な潜在力です。そしてシュリーヴァーサとして主は境界的な生命体です。このように、クリシュナは一人でいると考えられるべきではありません。ラーマーヌジャーチャーリャによって描写されているように、主は永遠に主のすべての顕現と共に存在していると考えられるべきです。

ヴィシシュタードヴァイタ哲学では、神のエネルギー、拡張体、および化身は、多様性の中の一体性であると考えられています。言い換えると、神はこれらのすべてから離れたものではなく、すべてを合わせたものが神なのです。

第14段落

実際には、チャイタンニャ・チャリタームリタは初心者のためのものではありません。それは霊的な知識の高度な(post-graduate、大学卒業後の)研究だからです。バガヴァッド・ギーターから始め、シュリマッド・バーガヴァタムへ進み、それからチャイタンニャ・チャリタームリタに進むのが理想的です。

これらの偉大な聖典のすべては同じ完全な水準にありますが、あえて比較検討すれば、チャイタンニャ・チャリタームリタは最高の水準にあると考えられます。その中のすべての句節は完璧に書かれています。

実に、主チャイタンニャとニテャーナンダは、物質世界の闇を晴らすので、太陽と月に比べられます。この場合においては、太陽と月が一緒に昇りました。そして、主チャイタンニャとニテャーナンダに直接敬意を捧げるのは正しいことです。

第15段落

主チャイタンニャの栄光があまり知られていない西洋世界においては、人は「クリシュナ・チャイタンニャとは誰ですか?」と問うかもしれません。その問いに対する返答としての霊的な結論は、主は至高の人格神であるというものです。

一般に、ウパニシャッドにおいては至高の完全真理は非人格的に描写されていますが、完全真理の人格的な側面はイーショパニシャッドにおいて言及されています。そこでは、あまねく行き渡るものの描写のあと、次のような句節を見つけることができます。

(サンスクリット引用)

「おお、我が主よ。すべての生けるものを養う方よ。あなたのお顔はあなたの目のくらむような光輝によって覆われています。どうかその覆いを取り去り、あなたご自身をあなたの純粋な献身者に見せてください。」(シュリー・イーショパニシャッド、マントラ15)

第16段落

非人格主義者は、神の光輝の向こうまで行って、そしてその光輝の源である人格に至るための力を持ちません。しかし、イーショパニシャッドの終わりには、至高の人格神への賛歌があります。非人格なるブラーマンが否定されているのではありません。

それもまた描写されていますが、そのブラーマンはチャイタンニャの体の目もくらむような光輝であると考えられています。言い換えると、クリシュナ・チャイタンニャが非人格なるブラーマンの源なのです。バガヴァッド・ギーターの中では、クリシュナによって「非人格なるブラーマンは主に依り頼む(to rest on Him)」と述べられています。(ブラーマニョ・ヒ・プラティシュターハム、BG14.27)

すべての生命体の心臓の中と宇宙のすべての原子の中に存在するパラマートマ、すなわち超魂は、単にチャイタンニャの部分的な表れに過ぎません。したがって、クリシュナ・チャイタンニャはブラーマンの源であり、至高の人格神でもあるのです。

至高神として、主は富、名声、力、美、知識、および放棄(renunciation、無執着、selflessness)という六つの豊かさを完全に備えておいでです。端的に言うと、私たちは主はクリシュナ、神であり、そして主と同等のものや主に優るものは何もないということを知るべきです。主に優るものはありえません(There is no superior to be conceived、想像されうる、より優れたものは存在しない)。主は至高の人格なのです。

第17段落

次のように書いたのは、主チャイタンニャによって十日以上も教えられた親密な献身者であるルーパ・ゴスヴァーミーでした。

(サンスクリット引用)

「私は至高主シュリー・クリシュナ・チャイタンニャに私の心からの敬意を捧げます。主は他のどのアヴァターラよりも、クリシュナご自身よりも寛大でいらっしゃいます。他の誰も決して与えなかったもの、すなわちクリシュナへの純粋な愛を無償で授けていらっしゃるからです。」

第18段落

チャイタンニャは神を認識するための長く複雑な道を教えていらっしゃるのではありません。主は完全に霊的です。そして、主はクリシュナに服従する時点から始められます。主はカルマ・ヨガやジニャーヤ・ヨガやハター・ヨガの道を追い求めることはなさいません。

そうではなく、物質存在の最後、人がすべての物質的な執着を放棄する時点からはじめるのです。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは魂を物質から区別するところから始められ、18章で魂が主に献身において服従するところで終わられました。

マーヤーヴァーディーたちはそこですべての話をやめますが、その時点で本当の話は始まったばかりなのです。始まるのはヴェダーンタ・スートラです。アタート・ブラーマ・ジジニャーサー。「さあ、至高の完全真理について問い始めましょう。」

このように、ルーパ・ゴスヴァーミーはチャイタンニャをすべての化身の中でも最も気前の良い化身であると賞賛します。主は献身奉仕の最高の形を示すことで最もすばらしい贈り物を下さるからです。言い換えると、主は人が尋ねうる最も重要な問いに答えてくださるのです。

第19段落

献身奉仕と神認識には、異なる段階があります。厳密に言うと、神の存在を認める者は誰でも献身奉仕に位置します。神が偉大であると認めるのは何らか(の奉仕)ではありますが、それほど大したことではありません。

偉大な教師、すなわちアーチャーリャとして布教していたチャイタンニャは、私たちが神との関わりを持って実際に神の友人になることができると教えました。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナはアルジュナにご自分の普遍的な(universal)形をお見せになりました。アルジュナは主の「とても親愛なる友人」だからです。

しかし、宇宙(訳注:複数)の主としてのクリシュナを見て、アルジュナは実際に、クリシュナに自分の友情のくだけた親しさを許してくれるように頼みました。チャイタンニャはこの先へ行きます。主チャイタンニャを通して、私たちはクリシュナと友人になることができます。

そして、この友情には限りがありません。私たちは、畏敬や憧憬によるのではなく、完全な自由においてクリシュナの友人になれます。私たちは主の父として神と関わることができます。これはチャイタンニャ・チャリタームリタの哲学であるだけでなく、シュリマッド・バーガヴァタムの哲学でもあります。

世界には、神が献身者の息子として扱われている聖典は他にありません。普通は、神は主の息子たちの要求を満たす万能の父とみなされます。しかし、偉大な献身者は時として、献身奉仕を遂行するにあたって神を息子として扱います。

息子が要求し、父が与え、そしてクリシュナに与えることで献身者は父のようになります。神から取る代わりに、私たちは神に与えるのです。クリシュナの母ヤショダーが主に「ほら、これを食べなさい。食べないと死んでしまいますよ。ちゃんと食べなさい」とおっしゃったのは、この関係においてでした。

このようにして、クリシュナはすべてのものの所有者であるにも関わらず、ご自分の献身者の慈悲に頼るのです。これは比類なく高度な友情です。それにおいて、献身者は実際に自分がクリシュナの父であると信じるのです。

第20段落

しかし、主チャイタンニャの最も偉大な贈り物は、クリシュナが実際に人の恋人として扱われうるという教えでした。この関係において、あまりにも執着しているので、主は自分の恩に報いる能力の欠如を表明なさいました。

(訳注:もうすこし分かりやすく訳するとこうなります。「主はあまりにも深く恋をしているので、恋人からの愛に報いるには自分は力不足だということを認めました。」原文は何だか不明瞭ですが、内容としては、ゴピーたちへのクリシュナの愛はあまりにも深く、それでクリシュナは「僕は君たちが僕に注いでくれる愛に満足なお返しをすることはできない」と、神様らしからぬことを言ってしまったわけです。そのつながりがよく分からないのは、英語の問題というより、私の哲学的な理解の問題だなと思います。)

クリシュナはヴリンダーヴァンの牛飼いの娘たちであるゴピーたちにあまりにも感謝していたので、彼女たちの愛を返すことができないと考えておられました。「私はあなたたちの愛にお返しをすることができません」と主はおっしゃいました。「私にはもはや返すものがありません。」

このように、献身奉仕はこの素晴らしい水準において行われ、そしてクリシュナとの恋人同士としての関係という知識はチャイタンニャ・マハープラブによって与えられました。それは以前のどの化身、あるいはアーチャーリャによっても与えられませんでした。

ルーパ・ゴスヴァーミーは次のようにチャイタンニャのことを書きました。「献身奉仕それこそが、あなたが与えてくだだった最高の水準、栄えある水準です。あなたは黄色の肌色をしたクリシュナです。そしてあなたはシャチーナンダナ、母シャチーの息子です。

チャイタンニャ・チャリタームリタを開く者は、その心にあなたを保ちます。あなたを通してクリシュナを理解するのは簡単です。」このように、チャイタンニャ・マハープラブはクリシュナを届けるためにいらっしゃいました。届けるための主の方法は、瞑想や、結果を求める活動や、聖典の研究ではなく、愛でした。
by ammolitering4 | 2009-12-29 17:06 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)
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