「序論」
第一段落 (以下の文章は)もともと1967年4月10日から14日にかけて、ニューヨーク市のISKCON前で(?)、5回に渡るチャイタンニャ・チャリタームリタに関する朝の講話として語られたものです。チャイタンニャ・チャリタームリタとは、クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーによる主チャイタンニャ・マハープラブの正統なる伝記です。 第2段落 「チャイタンニャ」という言葉は生命力を意味します。生命体である私たちは動くことができますが、テーブルは動けません。テーブルには生命力がないからです。動きと活動は生命力のしるし、あるいは兆候として考えられるかもしれません。実に、生命力無しでは何らの活動もないと言えるかもしれません。生命力は物質的な状態に存在していますが、それはアムリタ、すなわち永遠不滅、ではありません。したがって、チャイタンニャ・チャリタームリタは、「永遠性における生命力の性質」と翻訳されるかもしれません。 第3段落 しかし、この生命力は永遠性においてどのように現されているでしょうか。それはこの物質宇宙においては人間や他の生物によっては現されていません。この体においては、誰も永遠ではないからです。私たちには生命力があり、私たちは活動し、本来的に永遠です。しかし、私たちが入れられている物質的な状態は、私たちの永遠性が表されるのを許しません。 カター・ウパニシャッドには、永遠性と生命力は私たちと神の双方に属すると述べられています。これは、神と私たちがどちらも永遠であるということに関しては正しいのですが、違いがあります。生命体として、私たちは様々な活動をします。しかし、私たちには物質自然に落ちる傾向があります。神にはそのような傾向はありません。 完全に力強い主は、決して物質自然の支配の下に置かれることはありません。実に、物質自然は主の計り知れないエネルギーの一つの現れに過ぎないのです。 第4段落 地上からは、私たちには空に雲しか見えないかもしれません。しかし、もしも雲の上を飛べば、私たちは太陽が輝いているのを見ることができます。空からは高層ビルや都市はとても小さく見えます。同様に、神の立場からはこの物質創造のすべては取るに足りません。制約された生命体の傾向は、すべてが正しく見える(in perspective、真相を正しく理解する)高さから降りてくるということです。 しかし、神にはこの傾向がありません。至高主は幻想(マーヤー)に陥ることはありません。太陽が雲の下に落ちることがないようなものです。至高主は幻想の影響を受けないので、主は制約されていません。微細な生命体である私たちは幻想に陥りやすいので、制約されている、と呼ばれます。 非人格主義者の哲学者たち(マーヤーヴァーディー)は、この物質世界に来るときは生命体も神も双方がマーヤーの支配下にあると主張します。これは生命体に関しては正しいかもしれませんが、神に関しては正しくありません。いかなる場合でも物質エネルギーは主の指示の下で働いているからです。至高主が物質的な制約の影響を受けると考える者は、バガヴァッド・ギーターにおいてクリシュナご自身によって愚か者であると呼ばれています。 (サンスクリット引用) 「私が人間の姿で降臨するとき、愚か者たちは私をあざ笑います。彼らは私の超越的な性質と、存在のすべてに対する私の至高の支配権を知りません。」(BG9.11) 第5段落 主チャイタンニャ・マハープラブは、私たちの一人として考えられるべきではありません。主はクリシュナご自身、至高の生命体であり、したがって主は決してマーヤーの雲の下には置かれません。主の拡張体および、より高度に発達した主の献身者でさえ、決して幻想の支配の下には落ちません。 主チャイタンニャは、単にクリシュナ・バークティ、すなわちクリシュナへの愛を説くためだけに地球にいらっしゃいました。言い換えると、主は生命体にクリシュナに近づくための正しい方法を教えている主クリシュナご自身なのです。 主は、あまりうまく学習していない生徒を見て、鉛筆を取り、「こんなふうにしなさい。A、B、C」と言って書いてみせる先生のようなものです。これをもって、人は教師がABCを学んでいるのだと愚かにも考えてはいけません。主は献身者のように見えますが、私たちはいつも、主チャイタンニャは私たちにクリシュナ意識になる方法を教えているクリシュナ(神)ご自身であることを覚えているべきであり、私たちは主をその光の中で研究しなければなりません。 第6段落 バガヴァッド・ギーターの中で主クリシュナは最高の宗教的な原則を次のように述べられます。 (サンスクリット引用) 「すべての種類の宗教を放棄し、ただ私に服従しなさい。私はあなたを罪深い行いのすべての反応から救います。恐れることはありません。」(BG18.66) 第7段落 これは簡単に従える教えに見えるかもしれませんが、私たちの反応は決まって次のようなものです。「おお、服従しろと?放棄しろと?しかし私には非常に多くの責任があります。」そして、マーヤー、すなわち幻想が私たちに言います。「耳を傾けてはいけません。主の言う通りにすれば、あなたは私の支配から離れます。私の支配の下に留まりなさい。そして私はあなたを蹴ります。」 私たちが常にマーヤーに蹴られているのは事実です。性交をしに来たときにオスのロバがメスのロバに顔を蹴られるようなものです。同様に、犬や猫も性交をするときにはいつも、争ったり哀れっぽい声を出したりします。これらは自然の罠です。ジャングルの中の象でさえ、彼を穴の中に導く訓練をされたメスの象を使って捕まえられます。 マーヤーは多くの活動を持っており、物質世界では彼女の最も強い足かせ(shackle、手かせ、足かせ、縛り上げるための鎖)は女性です。もちろん、実際には私たちは男性でも女性でもありません。これらの名称(designation、称号、指定、名称)は外側の衣類、すなわち体だけを指すからです。 私たちは皆、実際はクリシュナの従者です。しかし、制約された人生においては私たちは美しい女性の姿をした鉄の鎖によって束縛されます。こうしてすべての男性は性生活によって縛られ、したがって人が物質的な支配から解放されようと試みるとき、彼はまず性的な衝動を統御することを学ばねばなりません。 制限されない性は人を完全に幻想の支配下に置きます。主チャイタンニャ・マハープラブは24歳のときにこの幻想を公式に放棄しました。主の妻は16歳、母は70歳で、主は家族で唯一の男性であったにも関わらずです。主はブラーマンであって裕福でもなかったにも関わらず、サンニャーサ、すなわち放棄階級となられ、こうしてご自身を家族のしがらみから解放なさいました。 第8段落 もしも完全にクリシュナ意識になりたいと望むなら、私たちはマーヤーの束縛を捨てなければなりません。あるいは、もしもマーヤーと共に留まるなら、私たちは幻想の影響を受けないように暮らさねばなりません。自分の家族を放棄することは必要ではありません。主チャイタンニャの最も親密な献身者たちの中にも、多くの家庭人がいたからです。 放棄されねばならないのは、物質的な楽しみを求める傾向です。主チャイタンニャは家庭人が結婚の中で規制された性交をすることは認めていましたが、放棄階級の者に対しては非常に厳格でした。そして主は、若い女性を欲望をもって見たことで、ジュニア・ハリダーサを追放することさえなさいました。 要点は、人は特定の道を習慣づけて、霊的な生活に成功するために必要なすべての規則や規律に従い、その道を固守しなければならない、ということです。クリシュナ意識をすべての人に教え、そして彼らが霊的な生活の永遠性を分かち合うことができるようにすることが主チャイタンニャの使命でした。 第9段落 チャイタンニャ・チャリタームリタから、私たちはチャイタンニャがいかにして人々に永遠不滅になるかを教えたかということを学びます。そして、そのため書名は「生命力の永遠なる性質」と正しく翻訳されるかもしれません。(書名を正しく翻訳すると「生命力の永遠なる性質」が適切かもしれません) 至高の生命体は至高の人格神です。主はまた、至高の独立体でもあります。これは非常に簡単に理解できます。私たちは皆、思考や欲望において個人であり、至高主もまた個別の人格です。しかし、主は誰もしのぐことのできない指導者であるという点で異なります。 創造された生命体の中で、ある存在は別の存在をある能力、あるいは別の何かにおいてしのぐことができます。ちょうど生命体が個人であるように、主は個人です。しかし、主は至高の個人であるという点で異なります。神はまた決して誤りがなく、バガヴァッド・ギーターにおいて主は「決して堕落することのない者」という意味のアチュタという言葉で呼ばれています。 これは、バガヴァッド・ギーターの中でアルジュナは錯覚に陥りましたがクリシュナは陥らなかったために、このように述べられているものです。私たちは、神には決して誤りがない、と述べられているのをしばしば耳にします。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは次のようにおっしゃいます。 (サンスクリット引用) 「すべての活動において、これらの自然の相のほかには何も無いと、そして至高主はこれらの相のすべてを超越していると理解するとき、そのときあなたは私の霊的な性質を知ることができます。」(BG14.19) 第10段落 このように、クリシュナが物質世界にいらっしゃるときは主は物質的な力に圧倒される、と私たちは考えるべきではありません。クリシュナおよび主の化身は、物質自然の支配下にはありません。彼らは完全に自由です。 実に、シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、神々しい性質を持つ者は、物質自然の中にあっても物質自然の相によって影響されない者、と定義されています。もしも献身者でさえこの自由を得られるのであれば、至高存在は言うまでもありません。 第11段落 本当の問いは、物質世界にいる間に、いかにして私たちが物質的な汚染に汚されずにいられるかということです。もしも単にクリシュナに仕えることを私たちの野心にすれば、私たちは世界にいる間に汚染されずにいられる、と説明なさったのはルーパ・ゴスヴァーミーでした。 それでは人は当然、「私はどうやって奉仕できますか」と尋ねるかもしれません。明らかに、これは単に心の活動に過ぎない瞑想のことではなく、実際的な仕事のことです。クリシュナへの奉仕を愛することは、クリシュナのために働くことによってのみ得られます。 そのような仕事においては、私たちはいかなる資源も使われないままに残すべきではありません。そこにあるものは何であれ、私たちが持てるものは何であれ、クリシュナのために使われるべきです。私たちはすべてを使うことができます。タイプライター、自動車、飛行機、ミサイル、、、何でもです。 もしも私たちが単に人々にクリシュナ意識について語るなら、それによっても私たちは奉仕をしています。もしも私たちの心、感覚、言葉、お金、およびエネルギーがこのようにクリシュナへの奉仕に使われていれば、私たちは物質自然の中に存在しているとは考えられ得ません。 霊的な意識、すなわちクリシュナ意識の力によって、私たちは物質自然の水準を超越します。「クリシュナ、主の拡張体、および主の献身者すなわち主のために働く人々は物質自然の中にはいない」というのは、知識の乏しい人々が「そうではない」と考えるにも関わらず、事実なのです。
by ammolitering4
| 2009-12-26 15:39
| 「主チャイタンニャの教え」
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