第5課 後半

第9段落

霊的指導者の教えに従うことなく彼を受け入れるということは、すべきではありません。霊的な人生を格好良く見せびらかすために(to make a fashionable show of)霊的指導者を受け入れるべきでもありません。人は、ジジニャース、すなわち真正なる霊的指導者に質問して彼から学ぶことについて非常に熱心でなければなりません。(inquisitive、探求的な、質問好きな)

問いかけるものは、厳密に超越的な科学に関するものでなければなりません。(サンスクリット引用)ウッタマムという言葉は、物質的な知識を超えたものを指します。タマは「この物質世界の闇」を意味し、ウットは「超越的な」を意味します。一般に、人々は俗世的な主題に関して問うことに大変興味があります。しかし、そのような興味を失って、単に超越的な主題に興味があるとき、人は本当に洗礼を受ける資格があります。実際に真正なる霊的指導者によって洗礼を与えられるとき、そして真剣に主への奉仕に携わるとき、人はマデャーマ・アディーカーリーとして受け入れられるべきです。

第10段落

クリシュナの聖なる御名を唱えることはとても崇高なので、もしも10の無礼を注意深く避けてハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えるなら、主の聖なる御名と主ご自身の間には何の違いもないということを理解できるところまで、確実に、徐々に上げられることができます。そのような理解に達した者は、初心者である献身者によって大いに尊敬されるべきです。

主の聖なる御名を無礼を犯さずに唱えることなくしては、クリシュナ意識における発達のための正しい候補者とはなり得ないということを、人は確かに知っておくべきです。シュリー・チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー22.69)には、次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「その信仰が軟弱で影響されやすい者は初心者と呼ばれます。しかし、徐々に過程を辿ることによって、彼は一流の献身者の水準に上げられます。」誰もが自分の献身生活を初心者の水準から始めます。しかし、もしも定められた回数のハリナーマを唱えることを終えたら、人は段階を追って最も高い水準であるウッタマ・アディーカーリーに上げられます。クリシュナ意識運動は、毎日16周りを唱えるように定めています。

西洋諸国の人々は、数珠で唱えながら長い時間集中することができないからです。したがって、最低限の回数が定められています。しかし、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティ・タークラは、少なくとも64周り(聖名10万回分)唱えないなら人は堕落している、とおっしゃいました。彼の計算によれば、現実的にすべての人が堕落しています。しかし、私たちは非常に真剣に、かつ不誠実さ無しに主に奉仕をしようとしているので、私たちはパティタ・パーヴァナ、すなわち堕落した者を救う方として有名な主シュリー・クリシュナ・チャイタンニャ・マハープラブの慈悲を期待することができます。

第11段落

シュリー・チャイタンニャ・マハープラブの偉大な献身者であるシュリーラ・サテャラージャ・カーンが、主にどうやってヴァイシュナヴァを認識できるかと尋ねたとき、主は次のようにお答えになりました。

(サンスクリット引用)

「もしも誰かがただ一度でも「クリシュナ」という言葉を言うのを聞くなら、その人は一般の人々の中で最も優れている者として受け入れられるべきです。」(CCマデャー15.106)主チャイタンニャ・マハープラブは続けられました。

(サンスクリット引用)

「クリシュナの聖なる御名を唱えることに興味のある者、あるいは実際にクリシュナの御名を唱え、それを好む者(who by practice likes to chant)は、少なくとも(人の)心の中でヴァイシュナヴァとして受け入れられるべきであり、そのこと自体(as such)に対して敬意を払われるべきです。」(CCマデャー15.111)

私たちの友人の一人、有名なイギリス人の音楽家(訳注:ビートルズのメンバー、ジョージ・ハリソンのこと)は、クリシュナの聖なる御名を唱えることに魅力を感じ、自分のレコードの中で何度かクリシュナの聖なる御名に言及しました。家では彼はクリシュナの絵に敬意をささげ、クリシュナ意識の伝道者にも敬意を捧げます。すべての面で彼はクリシュナの名前とクリシュナの活動を高く評価しています。したがって、私たちは彼に心から(without reservation、遠慮なく)敬意を捧げます。

私たちは、この紳士が徐々にクリシュナ意識において進歩しているのを実際に見ているからです。そのような人にはいつも敬意が払われるべきです。結論は、定期的に聖なる御名を唱えることによってクリシュナ意識において進歩しようとしている者は、いつもヴァイシュナヴァによって尊敬されるべきであるというものです。一方で私たちは、偉大なる伝道者であるはずの人々が、主の聖なる御名を唱えることを怠ったために、徐々に物質的な概念にとらわれた人生(material conception of life、人生の物質的な概念)に堕落したのも見ました。

第12段落

サナータナ・ゴスヴァーミーに教えを授けていたとき、主チャイタンニャ・マハープラブは献身奉仕を3つに分類なさいました。

(サンスクリット引用)

「シャーストラに関する確実な知識があまり強固でなく、しかしハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えることには確固たる信頼を培い、また、自分の規定された献身奉仕の遂行においては決意の固い(undeterred、思いとどまらされない)者は、マデャーマ・アディーカーリーであると考えられるべきです。そのような人は大変幸運です。」(CCマデャー22.67)

マデャーマ・アディーカーリーは、シュラッダーヴァン、絶対的に(staunchly、非常に決意の固い、原則を固持する)信心深い人です。そして彼は実際に献身奉仕における更なる発展のための候補者です。したがって、チャイタンニャ・チャリタムリタ(マデャー22.64)には次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「人は、そのシュラッダー(信仰)の発達に応じて、献身奉仕の初級、中級、そして最上級の水準の献身者としての資格を得ます。」そしてもう一度、チャイタインニャ・チャリタムリタ(マデャー22.62)にはこう書かれています。

(サンスクリット引用)

「”クリシュナに超越的な奉仕を捧げることによって、人は自動的にすべての従属的な活動を行う。”献身奉仕を遂行するのに好ましい、この確信に満ちて堅固な信仰は、シュラッダーと呼ばれます。」シュラッダー、クリシュナへの信仰は、クリシュナ意識の始まりです。信仰とは、強い信仰を意味します。バガヴァッド・ギーターの言葉は、信仰深い者にとっての権威ある教えです。そして、クリシュナがバガヴァッド・ギーターにおいておっしゃることは何であれ、解釈することなく、そのままに受け入れられるべきです。

これがアルジュナがバガヴァッド・ギーターを受け入れた方法でした。バガヴァッド・ギーターを聞いた後、アルジュナはクリシュナに言いました。(サンスクリット引用)「おお、クリシュナ。私はあなたが私に言ったことのすべてを完全に真理として受け入れます。」(BG10.14)

第13段落

これがバガヴァッド・ギーターを理解するための正しい方法です。そしてこれはシュラッダーと呼ばれます。バガヴァッド・ギーターの一部を自分の気まぐれな解釈によって受け入れて、他の部分は却下する、というのではありません。これはシュラッダーではありません。シュラッダーとは、バガヴァッド・ギーターの教えを丸ごと、特に最後の教え(サンスクリット引用)を受け入れることを意味します。「すべての種類の宗教を放棄し、ただ私に服従しなさい。」(BG18.66)この教えに関して完全に忠実になるとき、人の強い信仰は霊的な人生において進歩する基盤になります。

第14段落

ハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えることに完全に携わるとき、人は徐々に自分の霊的な自己認識に気づくようになります。人がハレ・クリシュナ・マントラを誠実に唱えない限り、クリシュナはご自身を明かされません。(サンスクリット引用)(バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー1.2.234)私たちは、いかなる人工的な手段によっても至高の人格神を認識することはできません。

私たちは誠実に主への奉仕に携わらねばなりません。そのような奉仕は舌から始まります。(サンスクリット引用)それは、私たちがいつも主の聖なる御名を唱えて、クリシュナ・プラサーダを受け入れるべきであるということを意味します。私たちは他のものを唱えたり受け入れたりするべきではありません。この過程を誠実に辿るとき、至高主は献身者にご自分を明かしてくださいます。

第15段落

自分がクリシュナの永遠の従者であると気づくとき、人はクリシュナへの奉仕以外のすべてのことに対する興味を失います。いつもクリシュナのことを考え、クリシュナの聖なる御名を広めるための方法を工夫している彼は、自分の唯一の仕事はクリシュナ意識運動を世界中に広めることにあると理解しています。そのような人は、ウッタマ・アディーカーリーとして認識されるべきです。

そして、彼との関わりは6つの過程(process)に応じて直ちに受け入れられるべきです。(サンスクリット引用)実際、高度に発達したウッタマ・アディーカーリーのヴァイシュナヴァは、霊的指導者として受け入れられるべきです。何であれ人が持てる物は、すべて霊的指導者に届けるべきである、と申しつけられているからです。

特にブラーマチャーリーは、他の人たちから施しを乞い、それを霊的指導者に捧げることになっています。しかし、人は自己を認識することなく、高度に発達した献身者、すなわちマハー・バーガヴァタの振る舞いを真似るべきではありません。そのような真似をすることによって、人はやがて堕落するようになるからです。

第16段落

この節において、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは献身者たちにカニシュター・アディーカーリー、マデャーマ・アディーカーリー、そしてウッタマ・アディーカーリーの違いを見分けることができる程度に知性的であるように助言していらっしゃいます。また、献身者は自分の立場を知っているべきであり、より高い水準に位置する献身者の真似をしようとすべきではありません。シュリーラ・バークティヴィノダ・タークラは、ウッタマ・アディーカーリーのヴァイシュナヴァは多くの堕落した魂をヴァイシュナヴァ主義に改宗できる能力によって識別できるということについて、いくつかの実際的なヒントを与えられました。

ウッタマ・アディーカーリーの水準に達しない限り、人は霊的指導者になるべきではありません。初心者であるヴァイシュナヴァ、あるいは中級の水準にあるヴァイシュナヴァもまた弟子を取ることができますが、そのような弟子たちは同じ水準になければなりません。また、彼の不十分な指導の下では、彼らは人生の究極の目的地に向かってうまく進歩することはできないということが理解されるべきです。したがって、弟子はウッタマ・アディーカーリーを霊的指導者として受け入れるように、注意深くあるべきです。

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faithについて。

しょっちゅう出てくる言葉です。信仰、と訳すのが普通ですが、誠実とか忠実とか、信頼という意味もあります。日本語はいろいろでも、基本にある考えは同じです。何かに信頼がなければ信仰はありえないし、信頼して信仰してれば誠実に忠実に行動しようという気にもなるでしょう。原文を参照して読むときに、字面にとらわれずに概念を理解する助けとなれば幸いです。
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by ammolitering4 | 2009-12-07 10:08 | 「教えの甘露」


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