第5課 前半

第5課

(サンスクリット原文)

(翻訳)
人は主クリシュナの聖なる御名を唱える献身者を内心で(mentally、精神面で)尊敬すべきです。そして人は霊的な洗礼(ディークシャー)を受けていて神像の礼拝に携わる献身者にへりくだった敬意を払うべきです。.そして人は、それることのない献身奉仕に発達していて、その心に他者を批判する傾向が全く無い純粋な献身者と関わり、その人に誠実に奉仕をすべきです。

(解説)
第1段落

前の節で述べられた六重の愛情ある交換を知性的に実行するためには、注意深い分別をもって適切な人を選ばなければなりません。したがってシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、私たちは(訳注:それぞれの)ヴァイシュナヴァの特定の位置づけに応じて、適切な方法で彼らに会うべきである、と助言なさいます。この節において、彼は私たちに3つの種類の献身者と関わるにはどうしたらいいかを教えられます。

カニシュター・アディーカーリー、マデャーマ・アディーカーリー、ウッタマ・アディーカーリーの3種類です。カニシュター・アディーカーリーは、霊的指導者からハリ・ナーマの洗礼を受け、クリシュナの聖なる御名を唱えようとしている初心者です。人はそのような人を自分の心の中でカニシュター・ヴァイシュナヴァとして尊敬すべきです。

マデャーマ・アディーカーリーは、霊的指導者から霊的な洗礼を受け、彼によって主への超越的な愛情ある奉仕に完全に携わらせられています。 マデャーマ・アディーカーリーは、献身奉仕において中間地点に位置していると考えられるべきです。

ウッタマ・アディーカーリー、すなわち最も高度な献身者は、献身奉仕において非常に発達した者です。ウッタマ・アディーカーリーは他者を侮辱することに興味がなく、その心は完全に清らかで、混じり気のないクリシュナ意識という覚醒した(realized)状態に到達しています。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによれば、そのようなマハー・バーガヴァタ、すなわち完璧なヴァイシュナヴァとの関わり、および彼への奉仕は、最も望ましいものです。

第2段落

人は、献身奉仕の最も低い水準にあって、寺院で神像を崇拝することだけに興味のあるカニシュター・アディーカーリーに留まるべきではありません。そのような献身者はシュリマッド・バーガヴァタム(11.2.47)の11巻に描写されています。

(サンスクリット引用)

「寺院における神像の崇拝には大変熱心(faithful)だけれど、献身者や一般の人々に対していかに振舞うかを知らない者は、プラークリタ・バークタ、あるいはカニシュター・アディーカーリーと呼ばれます。」

第3段落

したがって、人は自らをカニシュター・アディーカーリーの水準からマデャーマ・アディーカーリーの水準に引き上げなければなりません。マデャーマ・アディーカーリーは、シュリマッド・バーガヴァタム(11,2.46)において次のように描写されています。

(サンスクリット引用)

「マデャーマ・アディーカーリーは、至高の人格神を最も愛すべき対象として崇拝する献身者です。彼は主の献身者と友人になり、無明にある者に情け深く、性質的に妬み深い者を避けます。」

第4段落

これが献身奉仕を正しく培うための方法です。したがって、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、この節において、様々な献身者とどう関わるかを助言なさいました。私たちは実際的な経験から、異なる種類のヴァイシュナヴァが存在するのを見ることができます。プラークリタ・サハジャーは一般に、ハレ・クリシュナ・マハー・マントラを唱えますが、しかし彼らは女性とお金と陶酔物に執着しています。そのような人々は、主の聖なる御名を唱えるかもしれませんが、まだ正しく浄化されていません。

そのような人々は、心の中で尊敬すべきではありますが、関わりは避けるべきです。悪気は無いけれど単に悪い関わりによって流されている者は、もしも純粋な献身者から正しい指導を受けたいという熱意があるなら、親切心を示されるべきです。しかし、真正なる霊的指導者によって実際に洗礼を受けており、霊的指導者の命令を遂行することに真剣に携わっている初心者の献身者には、丁重な敬意を捧げるべきです。

第5段落

このクリシュナ意識運動では、階層、信条、あるいは肌の色による差別なく、すべての人に機会が与えられます。すべての人がこの運動に参加したり私たちと一緒に座ってプラサーダを食べたりクリシュナについて聞いたりするように招かれています。私たちは、誰かがクリシュナ意識に興味を持っていて洗礼を受けたいと思っているのを見ると、彼を主の聖なる御名を唱えるために弟子として受け入れます。

初心者である献身者が実際に洗礼を受けて、霊的指導者の命令によって献身奉仕に携わっているなら、彼は直ちに真正なるヴァイシュナヴァとして受け入れられるべきであり、敬意を捧げられるべきです。たくさんのそのようなヴァイシュナヴァのうち、主への奉仕に非常に熱心に携わり、すべての規律的な原則を厳密に守り、ジャパ数珠で決められた回数のマントラを唱え、いつもいかにしてクリシュナ意識運動を広めるかを考えている者が、ほんの一人いるかもしれません。

そのような献身者は、ウッタマ・アディーカーリー、すなわち高度に発達した献身者として受け入れられるべきであり、人は彼との関わりをいつも求めるべきです。

第6段落

献身者がクリシュナに執着するようになる過程がチャイタンニャ・チャリタームリタ(アンテャ4.192)に描写されています。

(サンスクリット引用)

「洗礼のとき、献身者が主への奉仕に完全に身を捧げるとき、クリシュナは彼をご自分と同じくらい良いものとしてお受け入れになります。」

第7段落

ディークシャ、すなわち霊的な洗礼がシュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーによってバークティサンダルバー(868)の中で説明されています。

(サンスクリット引用)

「ディークシャーによって、人は徐々に物質的な楽しみへの興味を失い、徐々に霊的な人生に興味を持つようになります。」

第8段落

特にヨーロッパとアメリカにおいて、私たちはこのことの多くの実際的な例を見ました。豊かでちゃんとした家庭に育った多くの生徒たちが、物質的な楽しみへのすべての興味を失い、霊的な人生に入ることに大変熱心になります。非常に裕福な家庭の出身であるにも関わらず、彼らの多くはあまり快適ではない生活状況を受け入れます。

実際、クリシュナのために、寺院に住んでヴァイシュナヴァとの関わりを持てる限り、彼らはどんな生活状況でも受け入れる準備ができています。それほど物質的な楽しみに無関心になったとき、人は霊的指導者によって洗礼を受ける資格を得ます。霊的な人生の発展のために、シュリマッド・バーガヴァタム(6.1.13)は次のように規定しています。(サンスクリット引用)

ディークシャーを受け入れることについて真剣であるとき、人は禁欲と性生活の回避、および心と体の統御を実行する用意ができていなければなりません。もしもその用意ができていて、霊的な悟り(enlightenment、ディヴァム・ジニャーナム)を受けたいと望むなら、人は洗礼を受ける資格があります。ディヴァム・ジニャーナムは、正しくはタッド・ヴィジニャーナ、すなわち至高存在に関する知識、と呼ばれます。(サンスクリット引用)

完全真理という超越的な主題に興味を持ったとき、人は洗礼を与えられるべきです。そのような人は、ディークシャーを受けるために霊的指導者に近づくべきです。シュリマッド・バーガヴァタム(11.3.21)はまた、次のようにも規定しています。(サンスクリット引用)「実際に完全真理の超越的な科学に興味を持つとき、人は霊的指導者に近づくべきです。」
by ammolitering4 | 2009-12-07 05:35 | 「教えの甘露」


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