神様、神様、こんばんは。

こんばんは。おひさしぶりです。明日は早いし、もう寝なきゃと思いつつ、お坊さんがそろそろ起きる時間にまだ起きてコンピューターの画面など見ています。眠れない夜中に考えることは、まあいろいろありますが、神様を愛するのって実際にはどういう感じがするものか、ということだったりします。こんなことは朝早く起きてから考えたほうがいいのでしょうが、安い時給のシフト制で働いている身では、そんなこともままならなかったりします。

私には分からないので、類推をします。身近な誰彼との間の小さな愛情の交換から想像するのです。誰かにお料理をしてあげて、それを喜んで食べてくれると嬉しいものです。ロマンチックな愛ではないかもしれませんが、それも愛情の形であるように思います。喜んで食べてくれると、愛されていると感じます。好意を受け入れてくれる、という形の愛です。

人間が相手だと、わかりやすいです。もっと言うと、犬だっていいのです。与えたエサを尻尾を振って食べる様子を見るのは楽しいものです。実は私の人生の喜びの一つは鳥にエサをやることです。それによって鳥に愛されていると感じるから、という理由であるのかどうかは疑問もありますが。。。

でも、少なくともこれを人間相手に行うときは、「おいしかった、また食べたい」と言ってくれる相手に対して、私の愛を、あるいは好意を両手を広げて受け入れてくれたことで深い喜びを感じるのです。もちろん、私の料理を心待ちにしているほうとしては、愛されているのは自分のほうだと思うかもしれません。

逆を言えば、例えば食べ物を与えてくれない親からは、子供は愛されていると思えないものかもしれません。食べさせたいと思って作ったものを拒絶されても、自分の愛をはねつけられたほうな気がします。愛することと愛されることは、立場は違えど喜びは平等である、とプラブパーダはおっしゃいます。

人間の体に入った者同士でああでもないこうでもないと愛の模索をしているうちは、完全な愛の喜びなどありえないのが当然でしょう。与える愛は押し付けだったり不足していたり、求める愛は通じなかったり、得られなかったり。だから、なかなか想像もつかないのです。私の愛を100%常に完全に受け入れてくれる誰か、欲する愛を常に100%与えてくれる誰か。

でも、ほんとは私はそれが一番欲しいんだろうな、とは思います。他の人たちも、魂である限り、たぶんみんな同じなのだと思います。それを互いに求めるからいけないのです。蜃気楼を探して乾いて死ぬ砂漠の迷い人みたいに惨めです。だから魂は神様を求めるのだろうと思うのですが、なかなか対象として実感できないのが難しいところです。それではみなさま、おやすみなさい。明日からは早寝早起きいたしましょう。ダイエットみたいなこと言ってますけど。。。
by ammolitering4 | 2009-12-01 18:31 | その他


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