手紙1

手紙 1

ハムサドゥータ・スヴァーミー
ISKCONスリランカ
1977年9月6日

アブラハム・T.コヴォール博士
スリランカ合理主義者協会


親愛なるコヴォール博士、

私は更に熟考し、神の存在、魂、そして魂の再生について、あなたにもう少し意見を述べることに決めました。これはきっとあなたにとって興味深いものであると確信しています。

科学者の心の中の最大の病気は、科学的な実験によって証明されない限り、彼らが物事を事実であると信じないということです。科学者が何かを言明して、その言明を科学的な実験で支えるとき、誰もが完全に納得させられ、何の質問も投げかけられません。私たちがこれらの科学者に霊魂について語るとき、彼の普通の返答は「どうやって人は魂の存在を探知できますか?」というものです。彼らは機械と働くことに慣れきっているので、彼らは魂が科学的な実験によって探知できるかどうかと考えるのです。しかし、科学者たちは、彼ら自身の科学的な領域においてさえ、実験によっては証明し得ない多くの事実があることに同意しなければなりません。事実は、魂は存在しますが、その存在を理解するためには、私たちは知識を正しい人から―――シュリー・クリシュナ(神)あるいは師弟継承による主の代理人、すなわち霊的指導者から受け入れなくてはならないというものです。

科学界のすべての人は、数学者が「i」と呼ばれる架空の数字を使って働くことを知っています。それはマイナス1の平方根です。(√ー1=i)この数字は自然数(1,2,3など)の中には数えられません。しかし、数学の重要な部門―――たとえば解析機能の理論―――が、この架空の単位に基づいています。この数学の部門の助け無くしては、様々な複雑な理論や問題は解かれ得ません。このように、この数字の存在は否定され得ません。しかし、それを証明する実験はありません。同様に、統計数学の分野の科学者たちもまた、彼らの理論と議論を説明するために、様々な概念上のモデル―――たとえばアンサンブル―――を使います。これらは皆、実験的な科学の領域を超えています。もしも科学者たちがこれらの架空および概念的なモデルを受け入れる意思があるのなら、至高の科学者である主クリシュナによって与えられた完璧な知識を受け入れることに何の困難があるのでしょうか?

実験的な科学の限界を超えたもう一つの科学理論は、ハイゼンベルクの不確実性の原則です。この原則の主張は、いかなる物体であっても、その位置と運動量を同時に測定することは不可能であるというものです。数学的な言語で言えば、位置と運動量(重量と速度の積)の計測された値における不確実性の積は、プランクの定数よりも小さいことはありえない、と述べられています。この原則を証明できる既存の実験技術はありません。しかし、世界中の科学者が、実験的な証明は彼らの能力を超えていると知りつつ、この言明を事実として受け止めています。同様に、熱力学の第三の法則を証明する科学的な実験もありません。プランクによって公式化されたこの法則は、絶対零度における完全な結晶のエントロピーはゼロであると言明します。事実は、完全エントロピーを直接的に計測する方法はありません。したがって、この法則の証明は実験的な科学の領域を超えています。

また、いわゆる科学的な理論は常に変化しているということも特記されねばなりません。たとえば、19世紀はじめ(1808年)、ジョン・ダルトンは彼の原子理論を開発する中で、原子はこれ以上分割され得ないと述べました。しかし、19世紀の終りから20世紀の初めの頃、ダルトンの原子理論はもはや正確とは考えられないことが分かりました。原子は、さらに電子、陽子、および中性子という基本的な粒子に分けられることが観察されたのです。一部の原子は、アルファおよびベータ粒子を放射することができ、そうやって新しい原子を作り出すなどということも発見されました。事実、いわゆる核爆弾はこれらの発見の結果です。同様に、18世紀と19世紀にニュートンの力学は科学者たちの心に甚大な影響を持っていました。それは密度の濃い物質的な物体に適用できたからです。しかし、20世紀のはじめ、基礎的な粒子が発見されると、ニュートンの力学はこれらの粒子の動きを描写することができない、ということが分かりました。こうして、それらが見せる現象を説明するために、量子力学が発達しました。これらの理論は推察に満ちており、それもまた変化しています。過去と現在の科学的な理論が変化しているように、私たちは未来の科学的な理論もまた変化するということを理解することができます。

これらすべては、単に、非常に高い名誉を与えられた科学者たちの脳が不完全であり、結果としてこれらの脳によって提示された理論は常に不完全であり続ける、ということを表すだけです。本当は、完全な知識は変えられ得ません。しかし、完璧な知識を得るためには、人は完璧な源に近づかねばなりません。その源がヴェーダ文献です。もちろん、すべてを科学的な機器といわゆる論理、条理、演繹法、仮説と理論で試すことに慣れている、あなたのそれのような科学的な頭脳にとっては、これは信じられない言明に見えるかもしれません。しかし、それはどちらにしても事実なのです。これは、自己を認識した魂の指導のもとで、ヴェーダにおいて推奨されている方法に従うことによって自ら実験してみるほどに科学的な人は、誰でも理解することができます。

その方法は実際に大変現実的です。霊的指導者が霊的な訓練の過程を規定し、生徒が与えられた指導に従ってそれを実行します。もしも生徒が予見された結果を経験すれば、彼は「霊的指導者は正しかった」と結論します。もしも霊的指導者が本当に真正なる人であれば、結果は肯定的です。この過程は、正直な科学者が彼の実験的な方法と共に彼の結果を報告するのに非常によく似ています。結果を立証したいと望む者は、自ら同じ実験をすることができます。幾人かの科学者によって同じ結果が得られるとき、それは科学的な事実として受け入れられます。

結論として、誰かが生命は霊ではなく物質から生じると信じるとき、道徳性への彼の関心が相当に減少するということを指摘したいと思います。もしもすべての生命が単に偶然の化学的な反応の複雑な組み合わせであれば、そしてもしも至高の意識、創造者および統御者が無ければ、どこに道徳的な自制の必要性があるでしょうか?これは新しい哲学ではありません。古代ギリシャにおいて、エピキュラスは、すべては単に原子と無の組み合わせに過ぎず、それ以上ではない、と主張しました。今日では、「エピキュア(快楽主義者)」という言葉は、その主な活動がおいしい食べ物と飲み物を楽しむことである人を描写しています。結論は、偶然の生化学的な組み合わせが生命の源であるという哲学は、無節制な感覚の満足につながる哲学であり、決して科学的ではないというものです。私たちは、この哲学がいかに風紀を乱し不道徳であるかということの一つの鮮やかな例が、現在の世界中に広がった堕胎の実行にあるということを見ることができます。胎児は実際には生命体ではなく、単に生命のない化学物質の塊である、と教えられているので、人々は子宮の中のまだ生まれぬ子供たちを情け容赦もなく殺すことを納得させられています。

これらの論点についてあなたの考えを伺うことに私は大変興味があり、そしてもしもあなたがそれらについて何らかの疑いを持っていれば、さらに議論をする用意があります。

この手紙があなたのお気に召すことを願っています。

敬具(訳注:原語はRespectfully yours、敬意を込めて)

ハムサドゥータ・スヴァーミー
by ammolitering4 | 2009-09-26 11:13 | 「生は生より来たる」


<< 手紙2 ナレーション >>