挑戦、記事1

「挑戦」

ナレーション

アブラハムT.コヴォール博士は、神と魂の存在を否定する(to disprove、非存在を証明する)ことを主な目的とする合理主義者協会のスリランカ支部の支部長です。1977年8月14日、コロンボ(スリランカ)のサンデー・タイムズ紙は、コヴォール博士による「死後に生命はあるか?」という記事を掲載しました。この記事の中でコヴォール博士は、生命は単に複雑な化学的な反応であり、実際には魂なるものは存在しないため、魂は死を生き延びることはできない、と主張しました。この記事は、コヴォール博士とISKCONスリランカ支部のメンバーとの間で、サンデータイムズ紙上および書簡での白熱した議論につながりました。サンデータイムズ紙の記事と書簡の一部をここに紹介します。

記事1.

サンデータイムズ 1977年8月21日

「それはコヴォールの観察能力を超えている」
シュリーラ・ハムサドゥータ・スヴァーミーおよびマハーカーンタ・ダーサ

コヴォール博士と彼の同類の人々は、彼らの知識の水準に誇らしく立っています。しかし、詭弁法の専門家でない一般市民の利益のために、論理と道理と科学の発展の守護者の振りをするコヴォール博士のような人々は彼らが自分たちの限られた感覚の範囲を超えたところに位置する事柄に干渉するとき、沈みつつある船で航海しているのだ、ということが指摘されるべきです。これは特に死後の人生という問いに当てはまります。

コヴォール博士の記事の最初の行は、「私は自分の生命が私の体の特定の場所に位置するという見方はしません」というものです。この言明、並びに後のもの---「私は私の死を生き延びる魂や霊を自分が持っているとは信じません」---は、彼がそれの上に立つことを選んだところの貧弱な立場をさらけ出します。記事全体を通して、コヴォール博士は自分の観察能力を完全に超えた主題に関して自分の見方や信念や意見を述べています。そして彼はこれらの想像的な推察を決して誤りのない科学的な真実として偽って通そうとします。

コヴォール博士のご発言はごもっともですが、私は、その力に基づいて彼が死後の生命についてこれほど多くの言明を述べたところの直接的な感覚の知覚作用の過程は、完全に制約されていて不完全であることを指摘したく思います。

たとえば、目を考えてください。それらは、ある特定の状況の下においてのみ機能します。もしも光がなければ、私は自分の顔の前の自分の手さえ見ることができません。私たちは、目に一番近いもの、まぶたを見ることができません。また、私たちは最も遠いもの、宇宙の果てを見ることもできません。実に、目は不完全なのです。同様に、触覚、味覚、嗅覚も限られており、心もまた不完全です。したがって、不完全な感覚知覚作用に基づいた結論もまた、必然的に不完全なのです。

不完全な感覚知覚作用に基づいた研究、実験、および推察は、彼らの範囲の内にない事柄に当てはめられた場合は無意味です。そのようなこと方に感覚知覚作用をあてはめようとするのは、子供が世界中の男性に尋ねることで自分の父親を知ろうとするようなものです---どう控えめに言っても、不合理な思いつきです。自分の父親が誰であるかを理解するためには、人は自分の母親の権威を受け入れなければなりません---他に方法はありません。誰も受胎のときに自分の父親を見ることはできないので、人は自分の母親の言葉を受け入れなくてはならないのです。あらゆる正気の人はこれを受け入れなくてはなりません。

魂および再生について、コヴォール博士は「私はそれを信じるためのいかなる正当な理由も証拠も持っていません」と書いています。この言明は、単に直接的な感覚知覚作用の過程が有限であり、したがってそれがその範疇を超えた事柄に当てはめられたときは何の結果ももたらさない、ということを示すにとどまります。愚かにも「私は自分の死を生き延びる魂や霊を自分が持っているとは信じません」と宣言するよりも、コヴォール博士はもしも彼が単に問題となっている主題を取り扱う上での自分の能力の欠如あるいは無資格を認めれば、もっとずっと安全で、かつ彼のプロフェッショナルな倫理にも誠実であるのです。魂は存在し、魂の再生が存在し、そして至高の魂---神が存在します。しかし、魂は断定的に物質とは異なるので、魂の存在および性質を理解するために当てはめられたときには物質科学の技術は必然的に失敗する、ということを私たちは指摘すべきです。

しかし、これは今日非常にもてはやされているでたらめな推察と意見作りにこの主題が開放されることを意味するのではありません。私たちが物質的な現象を扱うために物質的な科学を持っているように、私たちはまた霊的な科学的過程を持っています。それはそれを実行する人々に、密度の濃い物質と密度の薄い物質の壁を突き抜けて直接的に魂の真実とその再生、およびその、神、至高の魂との関係を経験することを可能にします。

本当の科学者は、決して未熟にも「私は私の死を生き延びる魂や霊を自分が持っているとは信じません」と宣言することはありません。むしろ、彼は熱意を持って霊的な科学の尊敬されて認識された人々によって受け入れられた水準的な技術を進んで選び取ります。そのような科学者と、真理を真摯に捜し求める者は、そうしてのちに科学の利益のために自己をその過程に提供し、自分自身を実験の対象にします。権威ある霊的科学の教授の指導のもとですべての修練と技術を完全に実行した後においてのみ、彼はようやく問題の主題について判断上の所見を述べようとします。理論、観察、および実験は科学の本当の方法であり、そしてそれらは霊的な科学にも同じくあてはまります。

人生は、一部の科学者たちが私たちに信じさせるように化学物質の組み合わせから生じるのではありません。むしろ、物質を生じさせるのは生命なのです。生きた男と生きた女が性交によって組み合わさることが、生きた子供を生じさせる原因です。死んだ男と死んだ女は、生きた子供を生じさせる力を持ちません。生きた木は果実を生じさせる力を持っています。しかし、枯れた木にはそのような力はありません。生と死の間の違いは魂であり、それはバガヴァッド・ギーターにおいて優性エネルギー(パラープラクリティ)と描写されています。それは私たちの経験の範囲内にあるすべての現象を顕現させる優性なエネルギーです。

もしも生命が単に一部の科学者が提言するように化学的な組み合わせの展示であるなら、なぜ科学は生命を与える化学物質を死んだ体に注射して人を永遠に生きさせることができないのですか?もしも私たちが科学者たちに物質的な体の化学的な材料を与えれば、なぜ彼は化学物質を組み合わせてそれらに生命を与えられないのですか?

これらの問いに直面したとき、物質主義的な科学者たちは「私たちは試みています。私たちは将来においてそうします」と言います。しかし、これは科学ではありません。これははったりです。

これらの科学者たちは、誇りを持って「魂は存在しません。すべては偶然によって生じました」と宣言します。しかし、彼らの主張を裏付けするために何らかの実体のあることをするように頼まれると、彼らは私たちに後付け小切手を渡すことしかできません。「私たちは試みています。私たちは未来においてそうします。」典型的な物質主義的科学者であるコヴォール博士は、彼が「人間がその遺伝学における発達した知識を自らの主の質の向上のために使う日は遠くありません」と言うとき、この同じはったりに依存しています。

ここに、私からコヴォール博士への挑戦があります。彼に適切な化学物質を死体に注射してそれを生き返らせましょう。あるいは、適切な化学物質を彼自身に注射して彼自身の死を止めさせ、彼の古びて擦り切れた体をその若々しい栄光と美しさに戻させましょう。

もしも彼がこの課題は難しすぎると思うなら、蚊や南京虫などの簡単な生命体を作るのでも構いません。もっといいのは、(彼の記事の中で描写されていたように)彼が首を切り落としたカマキリの化学物質を組み合わせ、彼にそれを生き返らせましょう。あるいは、コヴォール博士の科学は生命の破壊への一方通行なのでしょうか?

科学はいまだに生命を完全体として作り出す一足飛びな過程の準備はできていないのかもしれません。もしもそうであれば、コヴォール博士に単にプラスチックの卵を作ってそれに黄色と白の化学物質を注射し、彼の人工的な卵を孵化して、そうやって一羽の鶏を作り、それが卵を産み続けてもっともっと多くの鶏を作り出すようにさせましょう。

この課題でさえコヴォール博士には少々難しすぎるかもしれません。それなら、彼は化学的な組み合わせによって一滴の牛乳や一粒の米を作り出せるかもしれません。そうすれば私たちは彼をまともに受け取り始めることができます。

もちろん、もっとも強力ないわゆる科学者にとっても、これが不可能な課題であることは誰もが知っています。コヴォール博士は、彼の次の論文において、疑いもなく彼のはったりを覆い隠すために冗長な言葉の連発を読者に提供するでしょう。その要点とは、「私たちはそれを未来においてします。私たちは試みています」というものです。どの言語においても、これは単にはったりなのです。

ハムサドゥータ・スヴァーミー
マハーカーンタ・ダーサ
クリシュナ意識国際協会
[PR]
by ammolitering4 | 2009-09-23 06:48 | 「生は生より来たる」


<< 記事2 脚注 >>