朝の散策10

朝の散策---10

1973年5月14日、ロサンゼルス近くのチェヴィオット・ヒルズ公園にて録音。
シュリーラ・プラブパーダの同行者は、Dr.シングと他の生徒たち。

1.「科学者たちの誤り」

SP:科学者たちの誤りは、彼らが二つのエネルギー---物質的および霊的なそれについて無知であることです。彼らは、すべては物質的であってすべては物質から生じると言います。彼らの理論の欠陥は、彼らが霊ではなく物質から始めることです。物質は霊から生じるので、ある意味ではすべては霊的です。霊的なエネルギーは源であり、物質的なエネルギー無くして存在することができます。しかし、物質エネルギーは霊的エネルギー無くしては存在しません。暗闇が光から始まるというのは正しいのです。光が暗闇から始まるのではありません。科学者たちは、意識が物質から生じると考えます。実際は、意識は常に存在していますが、それが無明によって覆われている、あるいは曇らされているとき、それは無意識という形にあるのです。

そのため、「物質的」とはクリシュナを忘れていることを意味し、「霊的」とはクリシュナを完全に意識していることを意味します。これがはっきりと分かりますか?理解しようとしなさい。暗闇は光から生じるのです。光が視界にないとき、そのときは私たちは闇にあります。太陽には雲は見つけられません。それは太陽の性質に反するのです。しかし、太陽のエネルギー(訳注:「エネルギー」を強調)によって霧や雲や暗闇などの他のものが一時的に作られます。これらの創造は一時的ですが、太陽はそのままであり続けます。同様に、物質自然は一時的ですが、霊的な自然は永久的です。クリシュナ意識とは、この一時的な自然から抜け出て、永遠で霊的な自然に至ることを意味します。誰も本当はこの一時的な自然を望んではいません。誰もこの曇った環境を好んではいないのです。

DS:この曇った意識は霊的なエネルギーから作られているのですか?

SP:そうです。

DS:そして、物質もまた優性エネルギーから作られているのですか?

SP:(サンスクリット引用)クリシュナはおっしゃいます。「私はすべての霊的および物質的な世界の源です。すべては私から生じます。」(BG10.8)クリシュナは、良いもの悪いものすべての創造者です。本当は、「良し悪し」は物質的な創造です。クリシュナの創造は善です。神は善なのです。あなたが悪と考えるものは、神にとっては善なのです。したがって、私たちはクリシュナを理解できません。主は、私たちの考えにおいては悪であるかもしれないことをしていらっしゃいますが、主にとっては善悪などというものはないのです。たとえば、クリシュナは一万六千人の妻と結婚なさいました。ある人々は「ああ、主は全くの女狂いだ」と非難するかもしれません。しかし、彼らは全体像を見ません。クリシュナの力はとても偉大なので、主はご自身を一万六千の異なる夫に拡張なさったのです。

2.「{すべては一つ}は無意味である」

DS:あなたは、この物質自然という霧は一時的だとおっしゃいました。しかし、私たちはなぜそもそも、やがて過ぎ去るものから自分自身を解き放とうとすべきなのですか?

SP:なぜあなたは自分の体を覆うのですか?あなたは裸で歩いても良いのです。2-3時間もすれば天気も晴れるでしょう。なぜあなたは自分自身を覆うのですか?

DS:危険は今なのです。

SP:それがいつであれ、なぜあなたはこの、自分の体を覆うという段階を経るのですか?

DS:不快さを避けるためです。

SP:そうです。そうしなければあなたは不快でしょう。わざわざ衣類をまとうことをしない、というのは、マーヤーヴァーダ理論です。「すべては自動的に来たる。だから、なぜわざわざする必要があるだろうか?」それは無意味な理論です。マーヤーヴァーダ哲学は、神は一つであり、すべてのものとすべての生命体は神と同等である、というものです。

私たちは、もしも化学者たちが生命から始めるのであれば彼らと何の論争もしません。しかし、不幸にして彼らはすべては暗闇---死んだ物質から始まると言います。それが私たちが異議を唱える点です。私たちは「生命から始めなさい」と言い、そして彼らは「いいえ、物質――-、暗闇から始めなさい」と言います。なぜ彼らが暗闇にいるのかという理由は単純です。もしも人が暗闇から光に至れば、彼は暗闇が始まりだと考えます。たとえば、あなたが一生暗闇の中にいて、今突然光の中に来たと仮定しましょう。あなたは、「おお、暗闇から光が生じた」と考えるでしょう。実際には、暗闇は光が暗くなるときに生じるのです。暗闇は光を作り出しません。

DS:それでは、暗闇は光に依存しているのですか?

SP:そうです。あるいは言い換えると、光の中には暗闇はありません。光が暗いとき―――そのときに私たちは暗闇を経験します。同様に、私たちの霊的な意識、すなわちクリシュナ意識が暗いとき、私たちの意識は物質的です。朝には私たちは目覚め、一日の終わりには私たちは疲れて眠ります。生活がなんらかの理由で中断されるとき、私たちは眠ります。私たちは夜には眠り、そして私たちが朝目覚めるとき、私たちは自分の覚醒、すなわち「命」が眠い状態から生じたのではないことを理解します。私は眠っていた間も生きていました。そして、目覚めてもまだ私は生きています。これははっきりと理解されるべきです。赤ん坊は彼の母親の子宮から来ます。彼は自分の人生は自分が子宮から出てきた日に始まったと考えます。しかしそれは事実ではありません。実際は、彼は永遠なのです。彼は無意識でいた間に彼の母親の子宮の中で自分の物質的な体を作りました。そして自分の身体的な機能が十分に発達すると、直ちに彼は子宮から出てきて再び意識を持つに至りました。

DS:そして彼は死のときに再び眠りに落ちるのですね。

SP:そうです。それはバガヴァッド・ギーターに描写されています。(8.19)

(サンスクリット引用)

「何度も何度も朝が来て、このおびただしい存在は活動的になり、そして、おお、パールサよ。再び夜がやってきて、彼らは無力にも消滅させられます。」

3.「私たちはこの体ではない」

SP:この花が見えますか?これは意識のある状態に戻りました。そして、まもなく乾いて死にます。これが物質的な人生です。しかし、霊的な人生とは花咲くことだけを意味します。消滅はありません。それが物質と霊の違いです。私はこの体を私の以前の人生における意識に応じて得ました。そして私はこの人生における私の意識に応じて自分の次の体を受け取ります。これもまたバガヴァッド・ギーター(8.6)において確認されています。

(サンスクリット引用)

「何であれ、人が自分の体を去るときに覚えている心の状態(state of being、存在のあり方)を、彼は間違いなく得ます。」

DS:シュリーラ・プラブパーダ、もしも私たちの次の体がいつもこの人生における私たちの意識によって得られるのであれば、どうして私は自分の過去の人生を覚えていないのですか?

SP:あなたは自分が去年したことや、昨日したことでさえ、すべてを覚えていますか?

DS:いいえ、覚えていません。

SP:それがあなたの性質です。あなたは忘れるのです。

DS:いくらかのことなら、忘れます。

SP:そして、ある人々は他の人々よりももっと忘れます。しかし、私たちは皆忘れます。

DS:それは物質自然の原則なのですか?

SP:そうです。それは盗みのようなものです。ある人はスリであり、別の人は銀行強盗です。しかし、どちらも盗んでいます。

DS:私たちが夢を見るとき、私たちは密度の薄い要素によって運び去られているのですか?

SP:あなたは自然によって運び去られています。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて(3.27)おっしゃいます。

(サンスクリット引用)物質自然の三つの相の影響の下で幻惑されている霊魂は、自分が活動の行為者であると考えます。その活動は、実際は自然によって実行されています。」私たちは自分の本当の自己認識を忘れます。私たちは物質自然の支配の下にあるからです。

霊的な人生における最初の教えは、私たちはこの体ではなく永遠なる霊魂であるということです。かつて、あなたは子供でした。今ではあなたは成長した大人です。あなたの子供時代の体はどこにあるのですか?その体は存在しませんが、あなたはまだ存在しています。あなたは永遠だからです。二義的な体は変化しましたが、あなたそのものは変わっていません。これが永遠性の証拠です。あなたは、自分が昨日あることをして今日別のあることをしたということを覚えていますが、あなたは他のことは忘れます。昨日のあなたの体は、今日の体ではありません。あなたはそれを認めますか?それとも認めませんか?あなたは今日が1973年の5月13日であるということはできません。13日は昨日でした。日付が変わったのです。しかし、あなた自身は昨日を覚えています。そして、その覚えているということ自体があなたの永遠性の証拠なのです。体は変化しましたが、あなたはそれを覚えています。したがって、体は一時的であるにもかかわらず、あなたは永遠です。この証拠はとても単純です。子供でさえそれを理解することができます。それは理解するのが難しいですか?

4.「変化する体」

DS:人々はもっと多くの証拠を欲します。

SP:これ以上、何が必要とされるでしょうか?魂の永遠性は単純な事実です。私は永遠なる魂です。私の体は変化しつつありますが、私自身は変化していません。たとえば、私は今では老人です。ときどき、私は考えます。「おお、私はかつては飛び跳ねて遊んでいた。しかし今では私は飛び跳ねることができない。私の体が変化してしまったからだ。」私は飛び跳ねたいと欲しているのです。しかし、私にはそうできません。その飛び跳ねるという傾向は永遠ですが、私の老いた体のため、私にはそうすることができません。

DS:反論者たちは、自分たちの観察によれば「意識の性質はひとつの体の間だけ存続する」というものだ、と言うでしょう。

SP:それは愚かさです。バガヴァッド・ギーター(2.13)において、クリシュナは説明なさいます。

(サンスクリット引用)

「体に閉じ込められた魂がこの体の中を少年時代から若者から老齢へと永続的に通り過ぎるように、同様に魂は死のときに別の体に入ります。自己を認識した魂は、そのような変化によって幻惑されません。」ちょうどこの体がいつも変化しているように(私が自分の毎日の経験で見ることができるように)、死のときには同じような変化があるのです。

DS:しかし、科学者たちによれば、私たちは実際にこの最後の変化を観察するということができません。

SP:彼らの目はとても不完全なので、彼らは非常に多くのことを観察できません。彼らの無明がバガヴァッド・ギーターを非科学的にするということはありません。なぜ科学者たちは自分たちの感覚の不完全さを認めないのですか?彼らはまず自分たちの感覚の不完全さを認めなくてはありません。彼らの見る力は、何が科学であって何が科学でないかを規定しません。犬は自然の法則を理解できません。これは自然の法則が存在しないことを意味しますか?

DS:ああ、科学者たちはその論点を認めますが、彼らは完全になるための方法は客観的な情報と経験を通してであると言うのです。

SP:違います。それは完全になるための方法ではありません。誰も不完全な思考を通して完全になることはできません。そして、私たちの思考は必ず不完全です。私たちの感覚と心は不完全だからです。

DS:シュリーラ・プラブパーダ、もうひとつの問いが挙げられます。魂が三つや四つや五つの体を受け入れ、それから死ぬということは可能ではありませんか?

SP:あなたは無数の体を受け入れています。綿非は、昨日のあなたの体は今日のあなたの体ではないと言います。それでは、もしもあなたが100年生きるなら、あなたは何回体を変えましたか?計算してみなさい。

DS:13回です。

SP:なぜ13回なのですか?

DS:医学によれば、すべての身体的な細胞は7年ごとに入れ替わるからです。

SP:違います。7年ごとではありません。毎瞬間なのです。毎瞬、血液の遊離細胞は変化しています。そうではありませんか?

DS:そうです。

SP:そして血液の遊離細胞が変われば、直ちにあなたは自分の体を変えます。

DS:科学的な用語では、魂の永遠性はエネルギーの保存と比較することができますか?

SP:エネルギーを保存するということはありえません。エネルギーは常に存在しているからです。

DS:しかし、科学的な用語によれば、エネルギーの保存の法則とはエネルギーは作り出されることはなく、滅ぼされることもない、ということです。それは、それが永遠であるということを意味すると私は考えるのです。

SP:おお、はい、それは私たちは認めます。クリシュナは永遠です。したがって、主のエネルギーのすべては永遠です。

DS:それが生命体もまた永遠である理由ですか?

SP:そうです。もしも太陽が永遠であれば、そのエネルギー、、、熱と光、、、もまた永遠です。

DS:では、このことから生命は作り出されたり滅ぼされたりしないということにつながりますか?

SP:そうです。生命は永遠です。それは作り出されたり滅ぼされたりしません。それは単に一時的に覆われているのです。私は永遠ですが、昨夜、私は眠りによって覆われていました。だから私は昨日と今日ということを考えます。これが物質世界の制約なのです。

5.「すべては霊的である」

DS:物質的な意識とはクリシュナ意識の欠落ですか?

SP:そうです。

DS:そして、クリシュナ意識があるとき、物質自然はどこにあるのですか?

SP:もしもあなたがクリシュナ意識を継続すれば、あなたは何ものも物質的ではないことを見出すでしょう。クリシュナは、物質的なものは何もお受け取りになりません。そしてこれは、花は木に咲いているときは物質的であって、あなたがそれをクリシュナに捧げるときに霊的になる、ということを意味するのではありません。違います。花は、あなたがそれがあなたの楽しみのために作られたと考えている限り「物質的なのです。しかし、あなたがそれがクリシュナの楽しみのためにあると見れば直ちに、あなたはそれをその本当の姿―――霊的な姿として見るのです。

DS:では、世界全体は実際は霊的なのですか?

SP:そうです。したがって、私たちはすべてをクリシュナへの奉仕のために使いたいのです。それが霊的な世界です。

DS:私たちはその見方においてクリシュナの創造のすばらしさを味わう(訳注:言語はappreciate、価値を認めて感謝する)こともできますか?たとえば、私たちは「この木はとても美しい。それはクリシュナの所有物だからだ」と考えることはできますか?

SP:はい。それがクリシュナ意識です。

DS:もしも誰かが寺院の中のクリシュナの神像を見て、それが単に石や木であると考えるなら、それは何を意味しますか?

SP:彼は事実について無知なのです。どうして神像が物質的でありうるでしょうか?石もまたクリシュナのエネルギーです。ちょうど電気エネルギーがどこにでもあるのに電気技師だけがそれをどう利用するかを知っているように、同じくクリシュナはどこにでもおいでになり―――石の中にさえ―――しかし、主の献身者だけがクリシュナのすばらしさを味わうために石をどう利用すればよいかを知っているのです。献身者は、クリシュナ無くして石は存在し得ないことを知っています。したがって、献身者が神像を見るとき、彼らは「ここにクリシュナがいらっしゃる」と言います。彼らはクリシュナと主のエネルギーとの真の一体性を見るのです。

6.「同時に一つであり異なる」

DS:クリシュナ意識の人は、石に彫られた神像におけるのと同じくらいに、ただの石のなかにクリシュナを知覚するというのは本当ですか?

SP:はい。

DS:全く同じくらいにですか?

SP:はい。なぜそうでないことがあるでしょうか?バガヴァッド・ギーター(9.4)において、クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

これはクリシュナのエネルギーが―――つまり、特定の顕現した形におけるクリシュナが―――宇宙のすべての原子に行き渡っていることを意味します。しかし、主の完全に顕現した個人的な形は、主の指示に従って形作られた神像の中に存在します。これがアチンテャ・ベーダーベーダ・タットヴァ、神と主のエネルギーの同時の一体性と相違です。たとえば、あなたの部屋に太陽光があるとき、それは太陽それ自体があなたの部屋にあることを意味するのではありません。太陽とその離れたエネルギー、熱や光などは、性質においては同じですが、量においては違うのです。

DS:しかし、それでも、あなたは人がクリシュナを普通の石の中に見ることができるとおっしゃるのですか?

SP:そうです。なぜそうでないことがあるでしょうか?私たちは石をクリシュナのエネルギーとして見ます。

DS:しかし、私たちは石の中の主を崇拝することができますか?

SP:私たちは主を石の中の主のエネルギーを通して崇拝することができます。しかし私たちは石をクリシュナであるとして崇拝することはできません。私たちはこの長椅子をクリシュナであるとして崇拝することはできません。しかし、私たちはすべてを崇拝することができます。私たちはすべてをクリシュナのエネルギーであるとして見るからです。この木は崇拝の対象となり得ます。クリシュナと主のエネルギーは、どちらも崇拝の対象であるからです。しかし、それは私たちが木を私たちが寺院においてクリシュナの神像を崇拝するのと同じような方法で崇拝するということを意味するのではありません。

子供の頃、私は両親に決してクリシュナのエネルギーを無駄にしないように教えられました。彼らは私に、もしもたとえ小さな米粒が床板の間に挟まっていても、それを無駄にしないように私はそれを拾って額に当て、食べるようにと教えられました。私はいかにしてすべてをクリシュナとのかかわりの中で見るかを教えられました。それがクリシュナ意識です。したがって私たちは、何物も無駄にされたり誤って使われたりするのを見るのを好みません。私たちは弟子たちに、いかにしてすべてをクリシュナのために使うか、そしていかにしてすべてはクリシュナであると理解するかを教えています。クリシュナはバガヴァッド・ギーター(6.30)において、次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「すべてのところに私を見て、私の中にすべてを見る者にとって、私は決して失われず、私にとっても彼は決して失われません。」
by ammolitering4 | 2009-09-19 07:34 | 「生は生より来たる」


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