朝の散策9

朝の散策―――9
1973年5月13日、ロサンゼルスのチェヴィオット・ヒルズ・パークにて録音。シュリーラ・プラブパーダの同行者は、Dr.シング、カランダーラ・ダーサ・アディーカーリーと他の生徒たち。

1.「人間から犬への進化」

SP:いわゆる科学者たちは、誤った理論に彼らの信頼を置いています。クリシュナは(サンスクリット引用)「私がすべての源です」(BG10.8)とおっしゃいます。クリシュナは生命です。クリシュナは死んだ石ではありません。

DS:では物質は生命に起因するのですか?

SP:そうです。そして物質は生命の上に育ちます。私の体は、私、霊魂の上に育ちます。たとえば、私はこのコートを着ました。これは私の体の大きさに合わせて作られています。しかし、もしも私が「私はこのコートである」と考えたならば、私は愚かです。

生徒:シュリーラ・プラブパーダ、鉱山学者は、山は堆積性の活動によって成長しているのであると証明しました。この成長は霊魂の存在によるものですか?

SP:そうです。シュリマッド・バーガヴァタムは、山を神の骨として、そして草を主の体の毛として描写しています。つまり、この意味では主は最も大きな体をお持ちです。

DS:シュリーラ・プラブパーダ、動物の体における魂の転生と人間の魂の転生との違いは何ですか?

SP:動物は一方向―――上向きにだけ転生しますが、人間はより高い生命の形へも、より低いものへも転生することができます。体は生命体の欲求に応じて授けられます。低位の動物たちは一つの種類の欲求を持っていますが、人間は何千何百万もの欲求―――動物的な欲求および人間的な欲求を持っています。自然の法によって、低位の種は動物の体からより高い人間の体へと上がってきます。しかし、いったんあなたが人間の形へ来ると、もしもあなたがクリシュナ意識を培わないならば、あなたは猫や犬の体へ戻るかもしれません。

2.「ニルヴァーナ」(涅槃)

DS:科学者たちは、人間の水準から上、あるいは下への進化があるということについて、何の情報も持ちません。

SP:したがって私は、彼らは悪者であると言います。彼らは何の知識も持ちません。それなのに彼は科学者であると主張します。本当の科学はバガヴァッド・ギーターの中にあります。その中でクリシュナは(サンスクリット引用)とおっしゃいます。(BG9.25)これは、何であれ人がこの人生において崇拝しているものが、彼が次の人生において得る体を決定するという意味です。しかし、もしも人がクリシュナを崇拝するなら、彼は転生の過程を完全に終了します。(サンスクリット引用)「人が私の至高の住処に至るとき、彼は決して(この生と死の物質世界に)戻りません。」(BG8.21)霊的な世界に昇格されること(サムスィッディーム・パラマーム)は、人間の人生の究極の完成です。バガヴァッド・ギーターを読みなさい。すべてはそこにあります。しかし、科学者たちはここ完成について何も知りません。彼らは密度の濃い体とは別の、生命体の存在さえ信じません。

生徒:彼らの概念は仏教に近いものです。仏教徒は、体は家のようなものだと言います。ちょうど家が木でできているように、体は化学物質でできています。そして体が死ぬときは、それはちょうど家が木切れになってもはや家が無くなるように、体は単に化学物質になって、もはや体もなく、生命もないのです。

SP:その状態はニルヴァーナと呼ばれます。そしてそれから、その材料を使って、あなたは別の家や別の体を作ることができます。それが仏教です。仏教徒は魂に関して何の情報も持ちません。

3.「運命とカルマ」

生徒:一部の科学者たちは、それぞれの体の中にいくつかの魂があるという議論をします。彼らはミミズを例として使います。もしも人がそれを半分に切れば、両方の部分が生きます。彼らは、もともとのミミズの体に二つの魂が住んでいたことをこれが証明すると言います。

SP:違います。それは単に新しい魂がミミズの体の半分に入ってきたのです。

DS:魂は、霊的、あるいは物質的どちらかの体を必ず持たねばならないのですか?

SP:魂は既に霊的な体を持っています。それを物質の体が覆っているのです。私の物質的な体は、私―――私の霊的な体―――の上に育ちますが、私の物質的な体は不自然です。本当の体は霊的です。私は私の本来の姿にとって不自然な様々な体を受け入れています。私の本当の本来的な立場は、クリシュナの従者であるというものです。私がその立場に至らない限り、私は物質の従者として留まり、物質エネルギーの法則に従って多くの物質的な体を得ます。私はある体を得て、そしてそれを放棄します。私は他の何かを欲し、再び別の体を得ます。この過程が物質自然の厳格な法律の下で続いています。人々は、自分たちが自分の運命を完全に統御していると考えますが、彼らはいつもカルマという自然の法則の下にあるのです。

(サンスクリット引用)

「幻惑された霊魂は、物質自然の三つの相の影響の下で自分は活動の主体だと考えますが、実際はそれは自然によって実行されます。」(BG3.27)この幻惑の源は、生命体が「自分はこの体である」と考えることです。

(サンスクリット引用)

この節において、ヤントラ、すなわち「機械」という言葉は、どの生命の種においても私たちは物質自然によって提供された機械のような体をまとって旅している、ということを意味します。時として私たちはより高い種へ、時々はより低い種へと旅します。しかし、もしも霊的指導者とクリシュナの慈悲によって人が献身奉仕の種を得て、それを育むなら、彼は生と死の循環から自由になることができます。そうすれば彼の人生は成功します。さもなければ、彼は時にはライオンになったりなどしながら生命の異なる種の間を上へ下へと旅しなければなりません。

4.「無明を知識であると広告する」

生徒:それでは、これらの物質的な体を取る原因となるのが「楽しみたい」という私たちの欲望であり、私たちを自分たちの自然な立場に戻すのが「クリシュナを得たい」という欲望なのですか?(訳注:原文はちょっとややこしいので、意味をはっきりさせるために括弧を付けています)

SP:そうです。

DS:しかし、私たちの低位の性質との継続的な苦闘があるように見えます。私たちはクリシュナに奉仕したいと思いつつも、いつも感覚の満足のための自分たちの欲望と戦っています。これはいつまで続くのですか?

生徒:体は、ほとんど内からの独裁者のようです。

SP:はい。それはあなたが物質エネルギー、すなわちマーヤーに強く統御されているということです。

DS:私たちがクリシュナに奉仕したいと思っているにもかかわらずですか?

SP:そうです。泥棒は、もしも自分が盗めば逮捕されて牢屋に入れられるだろうと知っているかもしれません―――彼は他の人が逮捕されるのさえ見たことがあるかもしれません―――それでも彼は盗みます。彼は自分が国家の権威の下にあると知っているにも関わらず、それでも自分の欲望に従って行動するのです。これはタマス、すなわち無明と呼ばれます。したがって、知識は霊的な人生の始まりです。バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナはアルジュナに知識を授けられます。主は「あなたはこの体ではありません」と教えられ、これが知識の始まりです。しかし、この知識を教える大学はどこにありますか?シング博士、この知識を教える大学がどこにあるか、私に教えてくれませんか?

DS:一つもありません。

SP:それが教育の現状(position)です。知識がないのです。彼らは単に無明を知識として広告します。

DS:しかし、もしも科学者たちが自分たちが体でないと知れば、彼らの見解全体が変わるでしょう。

SP:はい。私たちはそれを望んでいます。

生徒:しかし、彼らは自分たちの失敗を認めたくありません。

SP:それなら、それは更なる愚かさです。もしもあなたが愚か者であり、そして知性的である振りをするなら、それは更なる愚かさです。そうするとあなたは進歩することができません。そしてもしもあなたが無明の内に留まり、自分自身を知識ある者として広告するなら、あなたは偉大なペテン師です。あなたは自分自身と他者を騙しています。人々は文明の物質的な発展を狂気のように求めているので、彼らはちょうど猫や犬のようになります。たとえば、彼らは移民局を作りました。そしてあなたがどこかの国へ入れば直ちに、これらの犬たちが「わん!わん!わん!なぜ来たのか?何の用事だ?」と騒ぎます。これは番犬の活動です。一流の紳士がリボルバー(訳注:銃の一種)を持っていないかと調べられます。人々は信用ならず、今では非常に多くの教育のある無頼漢や泥棒がいます。それでは、発展の意味は何ですか?私たちは教育が発展を意味すると言えますか?これが文明ですか?

5.「議論と知識をもって無明と戦う」

生徒:ある人々は、ベトナム戦争の原因の一つは共産主義者たちが無神論者であることだと言います。それは有神論者と無神論者の間の論争でした。少なくとも、それが戦争に対して出された弁明の一つでした。

SP:私たちもまた、無神論者を殺す用意ができています。しかし、その殺しは伝道によってです。もしも私があなたの無明を殺せば、それもまた殺しと呼ばれます。殺すことは、必ずしも誰もが剣を手にしなければならないことを意味するのではありません。

DS:戦争の新しい方法ですか?

SP:いいえ。議論と知識で無明と戦うことは、いつも存在していました。体の概念に基づいた人生は動物の人生です。そして、体の概念に基づいた人生のもとにある者は、動物より優れているわけではありません。動物が「語る」とき、知性ある人は笑います。そのような語りは無意味です。動物は知識を語っていません。

生徒:少なくとも、動物はある特定の基準に沿って生きます。彼らは不必要に殺さず、そして彼らは必要なときだけ食べます。他方で、人間は不必要に殺し、不必要に食べます。そのため、ある意味では人間は動物に劣ります。

SP:したがって、私たちは動物よりももっと苦しまねばなりません。クリシュナ意識は、偽物で感傷的な宗教運動ではありません。それは人間の苦しみを和らげるために設計された科学的な運動です。

DS:科学者たちと他の人々は、宇宙の中のすべては偶然によって起こっていると言います。

SP:それでは、彼もまたその主題について偶然本を書いているのですか?

カランダーラ:彼らは、本もまた偶然に書かれると言います。

SP:では、彼らの栄誉は何なのですか?偶然によって、何でも書かれ得ます。

DS:フランスの科学者、Dr. J.モノッドは、1965年にノーベル賞を受賞しました。彼は、すべては偶然に始まったと---偶然によってある特定の化学物質が組み合わさり、基本的な分子を作ったと言います。

SP:しかし、それらの化学物質はどこから来たのですか?

DS:彼らによれば、それらは単に偶然によって作られ、必要性が生じたときに化学物質の分子がそれ自身を新しい環境に適応させました。

SP:もしもすべてが偶然によって起こっていたのであれば、どうして必要性があり得るでしょうか?どうして彼は偶然と必要性を同時に語れるのですか?(訳注:原文はin one breath、直訳すると「一つの息の中で」)それは無意味です。もしもすべてが偶然によって指揮されているなら、なぜ人々は自分の子供たちを学校に送るのですか?なぜ偶然育つに任せないのですか?たとえば、私が法律を破ると仮定しましょう。もしも私が「まあ、それはただ偶然起こったのです」と言えば、私は許してもらえますか?

DS:では、犯罪は無明によって犯されるのですか?

SP:そうです。それこそが原因です。私の無明です。

生徒:バイオリンのような美しい楽器が偶然作られたというのは、確かに馬鹿げています。

SP:そうです。そのような悪者が評価を得ることができるというのは、この上なく残念なことです。彼は愚かさを語り、評価を得ているのです。

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うーん、ほんとにその通りです。私が苦労して下手なタイプをしているからこの文章が出来上がるのです。偶然たまたま、「あっ、しまった」と思ったら全部タイプされていた、という偶然だって、起こったっていいはずなのに、なぜかそうならない。モノッド博士の説は私には当てはまらないのです。まあ、そういうのを奇跡と呼ぶのでしょうが、宝くじで一等賞が当たる確率より絶対に少ないと思います。。。
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by ammolitering4 | 2009-09-19 05:29 | 「生は生より来たる」


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