朝の散策7

朝の散策―――7

1973年5月8日、ロサンゼルス近くの太平洋岸にて録音。
シュリーラ・プラブパーダの同行者はDr.シングおよび他の生徒たち。

1・「だます人々とだまされる人々」

SP:重力の法則や重さの無さなどの自然現象は、アチンテャ・シャクティ、計り知れないエネルギーと呼ばれます。そして、本当の科学とはこのアチンテャ・シャクティを理解することを意味します。一連の出来事を単にある時点からのみ観察するのは非科学的であり、不完全な知識だけをもたらします。私たちは、物事がどこから始まっているのかを知らねばなりません。もしも私たちが自分たちの研究を十分に突きつめるならば、私たちは自然の源はアチンテャ・シャクティであることを見出します。例えば、脳と筆と絵の具を使って私たちは花を描くことができます。しかし私たちは地球全体にわたって植生がいかにして自動的に成長して結実しているかを知覚することはできません。私たちは絵に描いた花を説明することはできますが、本当の花を説明することはできません。科学者たちは、実際には生物学的な成長を説明することはできません。彼らは単に「分子」や「染色体」などの言葉を巧みに操りますが、実際に現象を説明することはできません。

いわゆる科学者たちの基本的な欠点は、彼らが自分たちの結論に到達するために帰納法の過程を採用したということです。例えば、もしも科学者が帰納法的な過程によって人間が不死身であるかどうかを見極めようと思えば、彼はすべての人を調べて、そのうちの何人か、あるいは一人が不死身であるかどうかを見出そうとしなければなりません。科学者はこう言います。「私はすべての人間が必ず死ぬという命題を受け入れることはできません。不死身の人もいるかもしれません。私はまだすべての人を調べていません。したがって、私はどうして人が必ず死ぬということを受け入れることができるでしょう?」これが帰納法的な過程と呼ばれます。そして演繹法的な過程とは、あなたの父、あなたの教師、あるいはあなたのグルが人間は必ず死ぬと言い、そしてあなたがそれを受け入れるということを意味します。

DS:では、知識を得るための昇順的な過程と降順的な過程があるのですね?(脚注7)

SP:そうです。昇順的な過程は決して成功しません。なぜなら、それは感覚を通して集められた情報に頼っており、そして感覚は不完全だからです。そのため私たちは降順的な仮定を受け入れます。

神は帰納法的な過程によっては知られ得ません。したがって主はアドークシャジャと呼ばれ、それは「直接的な知覚では知られ得ない」ということを意味します。科学者たちは神はいないと言います。彼らは神を直接的な知覚によって理解しようとしているからです。しかし主はアドークシャジャなのです!したがって、科学者たちは神について無知です。彼らには神を知るための方法が欠けているからです。超越的な科学を理解するためには、人は真正なる霊的指導者に近づき、彼から従順に聞き、彼に奉仕をしなければなりません。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(4.34)においてそれを次のように説明なさいます。(サンスクリット引用)

私のグル・マハーラージャ(脚注8)は、かつておっしゃいました。「現代の世界は、騙す者と騙される者の社会である。」不幸にして、騙される者は騙す者を賞賛しており、小さな騙す者が大きな騙す者を崇拝しています。例えば、ロバの群れが来て「おお、あなたはジャガッド・グルです(脚注9)」と私を賞賛すると仮定しましょう。彼らの賞賛の価値は何でしょうか?しかし、もしも紳士や学識のある人が来て賞賛すれば、彼の言葉にはいくらかの価値があります。しかし、一般には賞賛している者たちと彼らに賞賛されている者たちは、どちらも無明にあります。ヴェーダはこれを次のように表現しています。(サンスクリット引用)「大きな動物が小さな動物によって称えられている。」

2.「同情」

SP:法律が騙しており、医科学が騙しており、そして政府が騙しています。最高位の政府の役人が賄賂を受け取って有罪となっています。もしも知事が賄賂を受け取り、警察官が賄賂を受け取るならば、それならどこに良い社会があるでしょうか?人々は彼らに幸せを約束する指導者を選出します。しかし、その幸せはマーヤー(すなわち幻想)であるため、彼は決してそれを達成することはできません。そして社会は単に騙す人で満たされるようになります。しかし、人々は実際にこの幻想の幸せを求めているので、彼らはそのような非良心的な指導者を何度も何度も選出し続けます。

ヴァイシュナヴァ(脚注10)の立場とは、これらすべての無明なる人々に同情するというものです。偉大なヴァイシュナヴァ。プラーラーダ・マハーラージャは、かつて主に次のように祈りました。「わが主よ。私自身に関しては、私は何の問題も持ちません。私の意識はいつもあなたの非常に強力な超越的な活動に夢中になっており、そしてそのため私は物事を明瞭に理解しました。しかし、私は幻想的な幸せのための活動にいそしむこれらの悪者たちのために深く心配しています。」

ヴァイシュナヴァは、いかにして人々が幸せになれるのかということだけを考えます。彼は、彼らが決して実現しないものを無駄に捜し求めていることを知っています。40年や50年の間、人々は幻想の幸せを捜し求めます。しかし、それから彼らは仕事を完成させることなく、そして死後に何か起こるかを知ることなく死なねばなりません。実際は、彼らの立場は動物のそれのようなものです。動物もまた、死後に自分に何が起こるかを知らないからです。動物は人生の価値を知らず、なぜ自分がここに来たのかも知りません。マーヤーの影響によって、彼は単に食べ、眠り、性交して、身を守り、死にます。それだけです。人生を通して、無明なる動物―――そして動物的な人間たちは、これらの5つのことだけ―――食べること、眠ること、性交すること、身を守ること、死ぬこと―――をするために、大いなる努力をします。したがって、ヴァイシュナヴァの仕事は人々に「神が存在し、私たちは神の従者であり、そして私たちは主に奉仕をして主への私たちの愛情を育んで、永遠に幸せな人生を楽しむことができる」ということを教えることなのです。

3.「檻の向こうに」

DS:しかし、生命体は物質世界にいる限り物質を必要とするのではありませんか?」

SP:いいえ。生命体は純粋に霊的です。したがって、彼は物質を必要としません。しかし、彼の考えが病んでいるので、彼は自分がそれを必要とすると信じているのです。制約された生命体は、お酒を飲むことを必要としないのにどちらにしても「飲まなければ死んでしまう」と考える酔っ払いのようなものです。こればマーヤー、幻想と呼ばれます。酔っ払いがお酒を飲まなければ死ぬというのは本当ですか?

DS:いいえ。しかし、人が食べなければ、彼は死にます。

SP:それも事実ではありません。昨夜、私たちはラグーナーサ・ダーサ・ゴスヴァーミー(脚注11)について議論しました。晩年、彼は食べることと眠ることをほとんど完全に断ちました。彼は3日か4日に一度、ほんの少しのバターミルクを飲むだけで、2-3時間眠り、一日に22時間働きました。(訳注:バターミルクは日本では一般的ではありませんが、西洋で市販されているのは甘くない飲むヨーグルトのようなものです。でも、もともとはバターを取った後の牛乳を指す言葉であり、これは質感が全然違うそうです。)そして、全然眠らない日もありました。そのため、あなたは「彼はどうやって生き延びることができたのですか?」と尋ねるかもしれません。実際には、彼は100年生きました。食べること、眠ること、性交すること、および身を守ることは、ラグーナーサ・ダーサ・ゴスヴァーミーにとっては問題ではありませんでした。しかし、それでも彼は生きました。彼はクリシュナの純粋な献身者であったので、彼は魂がこの体という実際には必要としない檻に入れられているにも関わらず永遠であって独立していることに完全に気づいていました。例えば、鳥が籠に入れられていると仮定しましょう。彼は単に籠に入っているから生きているのですか?籠がなければm彼は自由です。人々は、体の中に閉じ込められていることによって自分たちは幸せなのだと考えています。それは無意味なことです。実際は、この体に閉じ込められていることは私たちを臆病にします。しかし、私たちが自分たちの存在を浄化すれば直ちに―――私たちは自分たちの体から出てくる必要さえありません―――私たちは即座にアバーヤ、勇敢になります。

(サンスクリット引用)(脚注12)

私たちは直ちに私たちの本来の霊的な存在を目覚めさせることができます。そこにはもはや恐れはなく、もはや嘆きもなく、そしてもはや物質的な欲望もありません。

DS:しかし、科学者たちは、生命体がいかにして物質から独立していられるかということについて、まだもっと説明を求めるでしょう。

SP:あなたが制約されている限り、あなたは物質に依存しています。例えば、アフリカから来た人は制約されています。彼はこの寒い天気を耐えられないからです。したがって、彼は不快さを感じます。しかし、ここには寒さに影響されない多くの人々がいます。(海辺で遊んでいる子供たちを指して)耐える能力は単に制約の問題なのです。

制約されているとき、あなたは暑さと寒さや痛みと喜びなどの二重性によって考えます。しかし、解放されるときにはあなたはそのような制約された考えは持ちません。霊的な人生とは、制約されていない状態になることを―――ブラーマ・ブータの水準に至ることを―――意味します。これが人生の完成です。制約されているということは、生命体が永遠であるにも関わらず、制約によって彼が自分が生まれ、自分が死に、自分が病気になり、自分が老いると考えることを意味します。しかし、制約されていない人物は老いることさえありません。クリシュナはブラーマ・サムヒターの中で(サンスクリット引用)と描写なさっています。これは、主がもっとも年長の人物、最初の人物であり、しかし主には老齢はない、ということを意味します。主はいつもちょうど二十歳の若者のように見えます。主は完全に霊的であられるからです。
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by ammolitering4 | 2009-09-18 02:21 | 「生は生より来たる」


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