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第4部 第2章最後まで

16段落

そしてギーターのあとのほうで(15.15)、主はこうおっしゃいます。


(サンスクリット引用)


「私はすべての者の心臓の中に座っており、そして私から記憶(remembrance)、知識、そして忘却(forgetfulness)が来ます。すべてのヴェーダによって、私は知られるべきものです。(訳注:By all the Vedas, I am to be known. これは時々引用されますが、ヴェーダを通して知るべきことは私である、ヴェーダが書かれた理由は私を知ることにある、ヴェーダの真髄は私である、などの意味だと思います。)


実に、私はヴェダーンタを編纂した者であり、そして私はヴェーダを知る者です。」


17段落

完璧な知識を持った賢者たち---例えば、自分の物質主義的な知性を浄化して、そしてそのため霊的な知識に位置している者たち---は、主クリシュナをすべてのものの源として理解することができます。


知性(intellect)が浄化され、霊化されていない限り、最も学識のある哲学者や最も偉大な神秘的なヨギーでさえ、主クリシュナを理解しようとして当惑するでしょう(perplexed、混乱する、困る)。主はバガヴァッド・ギーター(7.3)においてこうおっしゃいます。


(サンスクリット引用)


「完成を得た者のうち、ほとんど誰も私を正しく(in truth)知る者はいません。」


18段落

至高主の名前、形、性質、娯楽、仲間たち、そして主に関わる諸々のものは、すべて同じ霊的な性質を持っています。事実、主クリシュナに関わるあらゆるものは、主と異なるものではありません。パドマ・プラーナには、こう述べられています。


(サンスクリット引用)


「クリシュナの聖なる御名は、超越的に喜びに満ちています(transcendentally blissful)。それはすべての霊的な恩恵を授けます。なぜなら、それはクリシュナご自身、すべての喜びの源(reservoir)であるからです。


クリシュナの御名は完全であり、それはすべての超越的な味わい(訳注:mellows、ときどき出てくるこの単語は、本来は「まろやかな」などを意味する形容詞ですが、プラブパーダの独特の言い回しでは「味わい」に準ずるような意味になります。昔のインドで限定的に使われていた表現かもしれません)の形です。


それは決して(under any condition、どのような状況であっても)物質的な名前ではなく、(それは)クリシュナご自身よりも力が弱いものではありません(no less powerful)。クリシュナの御名は物質的な性質によって汚染されていないので、それがマーヤーと関わっているということはありえません(there is no question of ~)


クリシュナの御名は、いつも解放されていて霊的です。それは決して物質自然の法則によって制約されません。これはクリシュナの御名とクリシュナご自身が同一だからです。」


19段落

聖人的な魂だけがこれらの言明の真理を知覚することができます。その知性がマーヤーヴァーダ哲学によって堕落させられている者(to have been corrupted、損なわれる、間違いが多くなる、など)は、理解することができません。


20段落

一般に、一元論者(monists)は非二元論(nondualism)の難解な(intricate)哲学を理解する(to grasp)ことができません。そのためラーダークリシュナン博士は、それによって二元論(dualism)を非二元論(nondualism)において確立しようとする理論を、自分の空想から紡ぎ出しました。


(訳注:そのため~は空想をめぐらせ、非二元論において二元論を確立するための理論を編み出しました。)


ラーダークリシュナン博士が私たちは「クリシュナを通して話す、生まれたことのない、始まりのない、永遠のもの」に服従しなければならないと書くとき、彼は、服従について話しているのはクリシュナの中にいる非人格的なブラーマンである、ということを暗示します(to imply)


いったん、非人格的なブラーマンが話すことができるということが確立されれば(Once~)、それなら主(He)は話すための道具、すなわち舌を持っていなければならない、ということになります。こうして私たちは、ラーダークリシュナン博士の非人格主義の概念全体が直ちに根底から揺らぐ(undermined、侵食して土台が削られる)のを見ます(訳注:~が分かります)。


聖典の中には、話すことのできる者は歩くこともできると結論づける十分な証拠があります。そして、話すことと歩くことのできる存在は、実に必ずすべての感覚を授けられています(must indeed be endowed with ~)


それなら、主(He)は食べたり眠ったりなどの他の活動も行うことができるに違いありません。それでは(So)、どうしてラーダークリシュナン博士は、彼の(訳注:述べる)始まりのない、永遠の存在(object)が非人格的であると主張することができるのでしょうか。


第21段落

自著「入門的な随筆」の62ページにおいて、ラーダークリシュナン博士はこう書いています。「私たちから自己がなくなると(When we are emptied of our self (?))(訳注:疑問符は原文のまま)、神が私たちを所有します(God takes possession of us)


この、神が(訳注:私たちを)所有すること(God-possession)の障害は、私たち自身の美徳(virtue、善行)、自尊心(pride、誇り、思いあがり)、知識、私たちのかすかな要求(demand)、そして私たちの無意識な断定(assumptions、証拠もなく決め込む)と偏見(prejudices、先入観)です。」


22段落

彼自身の議論から、私たちは安全に(safely)、ラーダークリシュナン博士は彼の不注意と以前の養育(upbringing、しつけ)から、主クリシュナの体と主の魂の間に違いを見ていると推量する(to surmise)ことができます(訳注:ラーダークリシュナン博士自身の議論から、彼は、その生い立ちと不注意さが原因で、~を見ている、と推量して問題ないでしょう)。


彼はまだ、「自己からなくなる」はずの偽りの自我から自由でないのです(He is still not free from false ego, that is, “emptied of self.”)。したがって、彼の美徳、誇り、知識、かすかな欲求、そして無意識な断定と先入観がすべて、彼が超越的な真理を理解するのを阻んでいるのです。


彼はマーヤーヴァーダの思想の雰囲気(atmosphere、環境)の中で育てられたに違いありません。この理由により、彼は真理を理解することができませんでした。


23段落

マーヤーヴァーダ哲学の創始者(founder)であり宣伝者(propagator)であるシュリーラ・シャンカラーチャーリャは、物質の世界は幻想---ミテャー---であると証明し、そしてそのため、彼は熱心に(diligently)禁欲(austerity)と放棄(renunciation)の道を探求し、そして彼はそれを自分の教えの中で強調しました。


彼は、この幻想の物質世界を支配しようとして(to lord it over、偉そうに振舞う)貴重な時間を無駄にすることはしませんでした。しかし、もしも彼が自分が提議した(to propound)哲学の現在の状態を見たら、(彼は)恥ずかしく思ったことでしょう。


私たちは、ラーダークリシュナン博士が彼に影響されたことを疑いません。これは彼の著述から明らかです。それでも、自著「入門的な随筆」の25ページで、彼はこう書きます。「ギーターの重点は、ご自分の自然(Nature、プラクリティ)によって、知覚できる世界を創造なさる、人格的な神としての至高存在にあります。


主はすべての存在の心臓の中に住まわれます。主は享楽者であり、犠牲の主です。主は私たちの心を献身にかき立て(to stir ~ to devotion強い刺激を与えてその気持をあおる)、私たちの願いを叶えられます(to grant prayer)


主は価値の源であり、維持する者(retainer)です。主は崇拝と祈りにおいて私たちと個人的な関係に入られます。」


24段落

これを書いて、このようにギーターの本当の意味(purport)を受け入れたあとで、どうして後からラーダークリシュナン博士は、主クリシュナの体と魂が異なっていると述べることができるのでしょうか?そのような考えは、彼の物質主義的な教育の結果に違いありません。


完全真理、非二元論的な(nondual)至高存在が推定では(supposedly、~と思われる)ご自分の内的な存在から離れているとは、何と奇妙な一元論を彼は提議するのでしょうか!(訳注:二元論的ではない完全真理、至高存在がご自分の内的な存在とは別個であるとするとは、~!)


ラーダークリシュナン博士は、自分の哲学におけるこれらの明白な欠陥(flaws)を説明することができるでしょうか?至高主ご自身が全知の(omniscient)超魂として皆の心臓の中にいらっしゃるとき(訳注:when、~なら)、それなら他の誰が主の(訳注:斜線で強調)心臓の中に座ることができるでしょうか?


ギーターにおいて、主クリシュナご自身がご自分の超越的な性質について語られ、自分の物質的な学識で武装したラーダークリシュナン博士が否定するための(to contradict、否認、逆らう、矛盾する)程度の低い試みをしただけだ(buta feeble)ということを述べられます(making statement)


(訳注:ギーターにおいて主が~と語られたことからも、ラーダークリシュナン博士が自分の学識を頼りに下手にあがいて(ギーターの意味を)否定しようとしただけということが分かります。)


そのような愚かさを通してラーダークリシュナン博士は教育を広める振りをしましたが(to make a show of)、事実は、彼は真実ではないこと(untruth)を教えたのです(to preach、布教)


25段落

ブラーマン、パラマートマー(超魂)、そしてバーガヴァーン(至高の人格神)---3つすべてが、同じ、非二元論的な至高の完全存在です。ラーダークリシュナン博士がこの主題を知らないと言うのは馬鹿げています(ridiculous)が、それでも私たちは、至高主が化身なさるとき主はマーヤーの影響(sway)の下にくる、という彼の主張の中に論理を見出しかねます。


主は疑いの余地なく(unequivocally)、ギーターにおいて、(ご自分が)顕現するとき、(主は)ご自分のもともとの超越的な形においてそうする、と述べられます。したがって、主と主の体の間には違いはありえないのです。主はさらに、ご自分の姿(appearance)、活動などはすべて超越的であり、物質の領域(realm)を超えている、と述べられます。


主は永遠であり、至高に純粋であり、もともとの至高の人格であり、至高のブラーマンです。私たちは皆、ジーヴァはマーヤーによって覆われていると同意しますが、もしも至高のブラーマン、すなわちパラブラーマンもまたマーヤーによって覆われているのであれば、それならマーヤーはパラブラーマンよりも優れているのでしょうか?


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by ammolitering4 | 2016-03-17 09:14 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第4部 第2章途中まで

第2章 超越的な献身奉仕は主の本当の姿を明らかにする


第1段落

私たちはシュリマッド・バーガヴァタムから、生命体が霊的な実践から堕落するようにさせるマーヤーが原因で、一部の(certain)不快な(obnoxious)無神論者たちは、主を一般大衆(generalpopulace)から隠し続けておくために、至高主のまわりに哲学的な専門用語(jargon、普通の人には分からないような難しい用語)の煙幕を作ろうとして大変な努力をする、ということを知ります(tolearn)


(訳注:「無神論者の中には、生命体を霊的な道から堕落させるマーヤーに惑わされて、無駄に難しい言葉を多用して庶民を煙にまき、わざわざ主を理解できないようにしようとする鼻持ちならない者たちがいる」とSBに書いてあります。)


この努力の結果もまた、バーガヴァタム(12.3.43)に描写されています。


(サンスクリット引用)


「おお、主よ!カリの時代において(in→In)、人々の知性は無神論によって(訳注:霊的な道から)逸らされるでしょう(tobe diverted)。そして彼らは、宇宙の至高の霊的指導者である至高の人格神に、ほとんど全く犠牲を捧げないでしょう。


三つの世界を統御する偉大な名士たちが皆、至高主の蓮の御足にひれ伏すにも関わらず、この時代の取るに足らない(petty、劣った)、惨めな人類はそうしないでしょう。」


第2段落

民衆(thepublic)を惑わすことを目的としたそのような哲学的な専門用語の良い例が、ラーダークリシュナン博士が「アーヌクーリャシャ・サンカルパー」を、正しい意味である「至高主に服従する」の代わりに「すべてのものへの好意」と訳したことです。


そのような解釈(interpretation説明、通訳)は、私たちが俗的な学者から期待することのできるものです(訳注:俗的な学者のすることです)。


第3段落

献身奉仕における最初の言葉は服従です(訳注:何よりも大事なこと、という意味)。服従の唯一の意味は、人が神の従者であると受け入れることです。ラーダークリシュナン博士のような偉大な学者や哲学者でさえ、(彼らが)服従の過程に従う(toyield to ~、身をゆだねる、この場合は「始める」という意味)前に、たくさんの(heapsof、山ほどの)禁欲(austerities、修行)や苦行(penances)を行わなければなりません。


これがバガヴァッド・ギーターの結論です。ラーダークリシュナン博士の、服従の6つの根幹(limbs、手足にあたるもの、主題)の説明は表面的(superficial)です。もともとはヴァイシュナヴァの文書(text)において定義された、服従のこれらの6つの根幹(limbs)は、主ヴィシュヌ、すなわちクリシュナに関わっています(topertain to ~)


アヌクーリャは「主クリシュナへの愛情ある奉仕」を意味します。バークティ・ラサームリタ・スィンドゥーは、(サンスクリット引用)と述べます。「人は好意的に(favorably)主クリシュナに超越的な愛情ある奉仕をすべきです。それは純粋な献身奉仕と呼ばれます。」


第4段落

世界のすべての人は、何らかの形で(inone way oranother)主クリシュナに奉仕をしています。ある者たちは好意的にそれをしており、そして他の者たちは相反して(antagonistically、矛盾して、この場合は「非好意的に、悪意を持って」)そうしています。


悪意を持って(unfavorably)奉仕をしている者は有害な(inimical、敵意のある)無神論者、愚かな非献身者です。一方、喜んでそれをする者は、本当に知性的です。言い換えると、クリシュナの献身者は非常に知性的であり、一方で俗的な学者たちはカムサやジャラーサンダーを筆頭とした(ledby、~に率いられる)非献身者の無神論者と同じ区分の内にあります。


第5段落

バガヴァッド・ギーターにおける主要な教えは、完全に主クリシュナの庇護の下に入ることです。それなのに、主クリシュナご自身の蓮の唇から発せられたこの極めて重要な(cardinal、基本的な、主要な)結論は、ラーダークリシュナン博士が人は人格としてのクリシュナではなく「クリシュナを通して語る、生まれず、始まりがなく、永遠の存在」に服従すべきであると書くとき、彼によってさかさまにされています(tobe reversed、この場合は「完全に否定されている」という意味)


自分の博識(erudition)を仰々しく(ostentatiously、これ見よがしに)ひけらかす(todislay)ために、ギーターを議論のためだけに取り上げ(totakeup)、そしてそのため愚かにも、バガヴァッド・ギーターの話者である主クリシュナが、単なる、死を運命づけられた存在であると結論するほどまでに文章を誤解するというのは、徒労(anexercise in futility、無駄に終わることが決まりきっている行為)です。


神は存在しないと宣言する(topronounce)ため、という、ヴェーダの知識のこの使い方は、悪意をもってクリシュナに奉仕することの明らかな例です。


第6段落

ヴェーダの名において無神論を広めるラーダークリシュナン博士のような学者を、主クリシュナはどのように描写なさるでしょうか。バガヴァッド・ギーター(7.15)において、私たちはこの言明を見出します(訳注:~には~と書かれています)。


(サンスクリット引用)


「全く愚かであり、人類のうちで最も低く、その知識が幻想によって盗まれていて、そして悪魔の無神論的な性質を持つ(topartake)それらの悪者たち(miscreants)は、私に服従しません。」


第7段落

カムサやジャラーサンダーのような主の敵たちは、いつもクリシュナのことを瞑想しますが、悪意を持ってです。これらの悪魔たちに似ているのが、いつもバガヴァッド・ギーターの本当の教えに挑戦し、それを誤って解釈する無神論的な学者たちです。


彼らは主について考えますが、(彼らは)敵意(enmity)を持ってそうします。なぜなら、彼らの知性はマーヤーによって覆われてしまっているからです。カムサとジャラーサンダーもまた、博識な(erudite)学者でしたが、敵意においてクリシュナに執着していた(obsessed)ので、彼らは悪魔でした。


第8段落

主チャイタンニャの教えと模範的な行動から、私たちは、バガヴァッド・ギーターの教えに好意的に従うのが私たちの義務であると理解します。主チャイタンニャの南インドの旅の間に、主がシュリー・ランガナーター寺院の構内(premises、建物あるいは敷地の中)に入ったとき、主は、バガヴァッド・ギーターを読むことに没頭していた(tobeengrossed)1人の単純な(simple、純真、お人好し、愚か、身分の低い、などの意味がある。この場合は「朴訥」か?)ブラーマナに出会いました。


主は、そのブラーマナがいかに注意深く(attentively)読んでいるか、そしていかに涙が彼の頬を伝って流れているかを見て、大変喜ばれました(overjoyed)。近くに座っていた他のブラーマナたちは、彼が文盲であることを知っていたので、いったいどうして彼がギーターを読むことができるのかと不思議に思いました。


第9段落

主チャイタンニャは、この問題を簡単に解決なさいました。主は、(もしも彼が)完全に服従した魂であるなら、教育のない人でさえ超越的な言葉を理解することができる、とおっしゃいました。しかし、服従の気持ち(mood)がなければ、バガヴァッド・ギーターは理解できないままです(toremain incomprehensible)


第10段落

ブラーマナが泣いているのをご覧になったとき、主チャイタンニャは彼に、ギーターのどの部分に泣くほど感動したのかとお尋ねになりました。正しいヴァイシュナヴァの謙遜をもって、ブラーマナは答えました。


「私は単にギーターを読む振りをしているだけです。本当は私は文盲です。しかし、私のグルは、(私が)文字が読めなくても(unlettered)バガヴァッド・ギーターを定期的に読むようにと、(私に)お教えになりました。


(私の)グルに背き(todisobey)たくないので、私は自分の義務を遂行しようとします。そしてそのため、私はギーターを読んでいる振りをするのです。」


第11段落

主はそれから彼に、なぜ泣いていたのかとお尋ねになりました。ブラーマナは答えました。「私がギーターを読むために座るといつでも、パールター・サーラティー(アルジュナの戦車の運転手)としての主クリシュナの姿が私の心に現れます。


そしてこの姿を見たらすぐに、私は直ちに、いかに主がバークタ・ヴァツァラ(主の献身者に特に親切である)であるかを思い出します。この考えが私を泣かせます。」


第12段落

マーヤーヴァーディーはいつでも、非二元論的な(nondual)至高のブラーマンと同化して神になることに大変熱心です。しかし、彼らの小さな脳は、どうやって(how)至高の人格神がご自分の献身者の運転手(charioteer、戦車の運転手)になって彼の命令を実行するのかを理解することができません。


本当は、至高主とジーヴァは永遠に関係があり(related)、そしてこの関係のため、多くの素晴らしいことが可能です。しかしマーヤーヴァーディーはこの真実を理解することができず、彼らに理解させようと試みた多くの人々が惨めに失敗しました。


シュルティ(シュヴェターシュヴァタラ・ウパニシャッド6.23)において、私たちはこの言明を見出します(~と書いてあります)。


(サンスクリット引用)


主と霊的指導者の両方に絶対的な(implicit、盲目的な)信頼(faith)を持つ偉大な魂だけに、ヴェーダの知識のすべての意味(imports、重要性)が自動的に明かされます。


13段落

ギーターを読んでいたときの南インドのブラーマナの献身を見て(uponseeing ~ as he read theGita)、主チャイタンニャは彼を抱擁し、それから彼に、彼はギーターを読むことを完成したとおっしゃいました。


主チャイタンニャの認定が何百万もの大学の博士号(doctorates)よりも遥かに優れていることを、どの愚か者が否定するでしょうか?(訳注:~であることを誰が否定するでしょうか?いくらなんでもそんな馬鹿なことは言う者はいません)。


主からのこの賞賛(accolade)は、バガヴァッド・ギーターは物質的な知性によって研究され得ない、ということを証明します。ギーターの知識は、師弟継承において伝わっている、アーチャーリャ、すなわち霊的指導者の鎖(chain)を通して受け取られなければなりません。


これが唯一の方法です。そうでなければ、ギーターを学ぶことは徒労に終わります(anexercise infutility)。聖典の結論は、至高主は超越的であるので主の言葉もまた超越的であり、そしてそのため、バガヴァッド・ギーターの深遠な(esoteric)主題は、等しく超越的である師弟継承を通してのみ受け取られ得る、というものです。パドマ・プラーナには次のように述べられています。


(サンスクリット引用)


「誰も自分の物質的に汚染された感覚を通してシュリー・クリシュナの名前、形、性質、そして娯楽の超越的な性質を理解することはできません。主への超越的な奉仕によって人が霊的に位置するようになるときだけ(訳注:~になって初めて)、主の超越的な名前、形、性質、そして娯楽が彼に明かされます。これはバガヴァッド・ギーター(5.38)において確認されています。


(サンスクリット引用)


「私は太古の主ゴヴィンダを崇拝します。主はシャーマスンダラ、クリシュナご自身であられ、計り知れない(inconceivable)無数の特質(attribute)をお持ちであり、純粋な献身者は彼らの心の中に愛の軟膏(salve)が薄く塗られた(tinge)献身の目で主を見ます。」


(訳注:軟膏うんぬんというのはときどき使われる表現で、ちょっと違いますが「色眼鏡」、または「媚薬」に当たるかと思います。これが塗られると心がその色や気持ちに染まる、というような意味で、物質としての軟膏とは関係ありません。)


14段落

したがって、聖典の結論は、ラーダークリシュナン博士のような俗的な哲学者は霊的な主題を探求する(todelveinto~)資格がない、というものです。主の献身者だけが、主クリシュナを理解する資格があります。他の誰にも(その)資格はありません。バガヴァッド・ギーター(18.55)において、クリシュナご自身が次のように述べておられます。


(サンスクリット引用)


「人は、献身奉仕によってのみ、私をありのままに、至高の人格神として理解することができます。」


15段落

ラーダークリシュナン博士のような学者は、主クリシュナの内には主クリシュナだけがある(onlyLord Krishna and nothingelse)ということを理解すべきです。主クリシュナの体と魂は同じです。ギーターの結論は、非二元論的な(nondual)真実はクリシュナ、完全至高存在である、というものです。


しかしラーダークリシュナン博士は、どういうわけかクリシュナの中にもう一つの、第二の存在を見つけました。それでは、この発見はラーダークリシュナン博士を二元論(dualism)の信者に変えます(toconvert)


すべてのジーヴァの心臓の中に住む完全真理の顕現は、主クリシュナによってバガヴァッド・ギーターの中に明瞭に(lucidly)描写されています。バガヴァッド・ギーター(10.8)において、主クリシュナは、すべてのジーヴァの心臓の中に住んでいる存在が誰であるかを説明なさいます。


(サンスクリット引用)


「私はすべての霊的および物質的な世界(worlds)の源です。すべてのものは私から放射します。これを完璧に知っている賢者は私への献身奉仕にいそしみ、心のすべてをもって(withall their hearts、心から)私を崇拝します。



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by ammolitering4 | 2016-03-07 06:54 | 「英知による放棄」 | Comments(0)