<   2016年 02月 ( 2 )   > この月の画像一覧

第1章終わりまで

第10段落

この物質世界に降臨し、それによって影響されないままでいて、それから離れているのは、至高主の特別な特権(prerogative)です。そして、主のように、主の純粋な献身者たちもまた、現象の(phenomenal)世界の華々しさ(glare、まぶしい光)によって惹きつけられないままで留まります(訳注:~に惑わされないでいることができます)。


至高主が永遠で、解放されていて、そして純粋であるように、主の献身者もまた、どのような状況にあっても同様です。これは単純な例を通して簡単に理解され得ます。技術的な発達は、自然が既に提供する(~has to offer、これは「~のすべて」を意味する熟語であり、義務などを表すhas to の意味はない)魅力的なもののすべて(attractions)に映画などを加えました。


(訳注:自然は既に様々な素晴らしいものを与えてくれていますが、技術的な発達によって、それに映画などの新しい魅力が加わりました。)


そしてそれでも不思議なことに、今日に至るまで、これらの幻想的な誘惑(enticements)は本当の聖人や隠遁者(hermits、仙人)を魅了し損ねています。そして、私たちは一部のいわゆる現代の聖人たちや托鉢僧たち(mendicants)が大麻(cannabis)や煙草に中毒しているのを見るにも関わらず(訳注:~が見受けられますが)、彼らでさえ多くの他の現代の感覚的な、気を散らすようなもの(distraction)を跳ねつけています(tobe repulsed、拒絶、退ける)


もしも幻想的な物質世界が主の献身者にほとんど何の(little or no)魅力もないなら、主ご自身はさらにどれほど少なくそれに魅了されておいででしょうか!したがって、無明のせいで人は単なる死を運命づけられた者(mere mortals)が神であると主張するかもしれませんが、それは現実を変えません---人はいつも人であり、神はいつも神であり、決してそうではないということはない(never otherwise)という現実を。


第11段落

かつて、私たちのアーシュラマのブラーマチャーリーの1人が、一種の霊性主義者(a spiritualist of sorts)であり博学な(erudite)学者であるサルヴァパリ・ラーダークリシュナン博士に会いました。ラーダークリシュナン博士は、私がこの随筆を書いている現在、インドの副大統領です。


彼に会ったとき、私たちのブラーマチャーリーは彼から贈り物としてバガヴァッド・ギーターを一冊受け取りました。ラーダークリシュナン博士はこのギーターを英語に翻訳し、それに解説を書いており、そしてそれは当時(1954年)、市場で10ルピーでよく売れました。


第12段落

そのブラーマチャーリーはその本を読み、その本自体は大変深遠であった(deeply esoteric)のですが、やや不満に感じて私たちのところに来ました。彼の不満の理由は、ラーダークリシュナン博士の文章が霊的な洞察(insight)に欠けていたということでした。


多くの箇所で、彼は文(text)を誤って扱ったり(to mishandle)、誤って解釈したり(to misinterprete)していました。そしてそのため、彼は自分の本を、純粋な献身を受け継ぐ(in the line of pure devotion)霊性主義者たちにとって受け入れられないものにしていました。


これは、「主によって、もっとも偉大な賢人たちや半神たちでさえ幻想の中に入れられます」(ムヒャンティ・ヤット・スーラヤー)というシュリマッド・バーガヴァタムの言明(1.1.1)の完璧な例です。主がいかにも簡単に主ブラーマー、主シヴァ、主インドラ、そして他の偉大な宇宙の統御者たちを惑わすとき、ラーダークリシュナン博士が幻想に入れられる(訳注:惑わされる)のは全く驚くべきことではありません。


第13段落

そのブラーマチャーリーは、彼の本の254ページに現れる、第9章第34文節(Text 34)の、ラーダークリシュナン博士の誤解釈によって特に衝撃を受け、傷つきました。彼は非常に陰鬱として、この一文(passage)を論じたいと思って私たちのところに来ました。


その本には、次のような言葉が書いてありました。「私たちが自分自身を完全に捧げるべきは(to whom we have to give ourselves up utterly)人格的な(personal)クリシュナではなく、クリシュナを通して話す、生まれたことのない、始まりのない、永遠の神です(the Unborn, Beginningless, Eternal)。」


14段落

私たちは、ラーダークリシュナン博士のような世界的に有名な哲学者に議論を突きつける(to confront ~ with arguments)気は毛頭ありませんが、それでも、ブラーマチャーリーが再三頼むので、私たちは文を詳しく調べて(to scrutinize)矛盾(discrepancies)を指摘しなければなりません。


私たちは、ラーダークリシュナン博士に大いなる敬意を持っています。彼が私たちの国の副大統領であるからだけではなく、彼の学識と、ヒンズー教の哲学の博学な(erudite)師匠(master、指導者、熟練者)としての彼の立場のためでもあります。


さらに、彼は自分の出自(to hail from、出身)であるブラーマンの(brahminical)伝統に忠実で、マーヤーヴァーダの学派の学徒(follower)です。愚かな友よりも学識のある敵を持つほうが良いという、

たびたび引き合いに出される言葉(oft-quoted dictum)に照らすと(going by、基づく)、私はこの事柄に関して勇気づけられます。


知性的な敵(opponent、対抗者)は合理的な(reasonable、筋の通った)反証(rebuttals)を挙げますが、無知な友は彼のもがき(floundering、不器用にもがき苦しむ様子)をもって大きな災難(disaster)をもたらすかもしれません(訳注:訳の分からないことを言ってひどい結果をもたらすかもしれない)。


したがって、私たちはラーダークリシュナン博士がバガヴァッド・ギーターの解説において論じる事柄(to make points)に対して強く反論することに関して何の呵責(compunction、良心の咎め)も感じません。


15段落

有名なベンガル地方の諺があります。「ラーマーヤナ全体を読んだあとで、あなたはシーターは誰の父かと尋ねるのか?」この問いは馬鹿げています(ludicrous)。なぜならシーターは主ラーマの妻であり、そしてそのため、そのような問い(query)は当然、皮肉(quips)と笑いを招きます(訳注:顰蹙を買う、嘲笑される)。


私たちは、ラーダークリシュナン博士のギーターの英語の解説において同じ不条理さ(absurdity、馬鹿馬鹿しさ)を見出します(訳注:~が見受けられます)。彼は、私たちは人格としてのクリシュナ(the person Krishna)ではなく、クリシュナの中の「生まれず、始まりがなく、永遠であるもの」に服従しなければならない、と書きます。


これは、主クリシュナと主の「内的な自己」が二つの異なる自己(identities)であることを暗示します(to imply)。ラーダークリシュナン博士によれば、クリシュナの体と主の魂の間には違いがあるので、私たちはクリシュナの体ではなく魂に服従しなければなりません。


宗教的な哲学の分野におけるこの新しい発見は、上で参照したラーマーヤナの「パンディタ」を私たちに思い起こさせます(訳注:彷彿とさせます)。バガヴァッド・ギーターを語ることにおける主シュリー・クリシュナの唯一の目的は、主の蓮の御足に服従することを私たちに納得させることです。


しかし、そもそもの最初から(right at the outset)、ラーダークリシュナン博士はこの点を受け入れる意思がありません。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(18.66)において中心的な教えを与えられます。


(サンスクリット引用)


「すべての種類の宗教を放棄し、ただ私に服従しなさい。私はあなたをすべての罪深い反応から救います。恐れてはいけません。」


16段落

主クリシュナは、アルジュナが主に服従するようにするために、これらの言葉を彼に語られました。このギーターの文におけるサラナムというサンスクリットの言葉は、「服従する(to surrender)」を意味します。彼の「入門的な随筆」の62ページで、ラーダークリシュナン博士は服従に関する考え方もやや詳しく論じました。彼は次のように書きます。


「プラパッティ(服従)の内訳は、以下のようなものです(to have the following accessories)。(訳注:サンスクリットは省略しました。)


1.(校正:(i)が抜けている)すべてのものへの愛情(goodwill to all)

2.悪意がないこと(absence of ill will)

3.主が守ってくださるという信頼(faith that the Lord will protect)

4.救い主(savior)としての主に拠り頼むこと(resort to Him as savior)

5.完全な無力感(absence of utter helplessness、非力)

6.完全な服従(complete surrender)


17段落

これらの服従の6つの根幹(limbs、手足)は、クリシュナ、すなわちヴィシュヌに関連して従われるべきです。なぜなら、服従の過程に関するこれらの教えは、ヴァイシュナヴァの聖典の中に見られるからです(to appear in ~)


ラーダークリシュナン博士は、最初の教え(limb)(サンスクリット省略)を「すべてのものへの愛情」と訳しました。問い:すべての者に服従することは可能ですか?服従は、至高主のみに向けられるべきです。ラーダークリシュナン博士の提案は非現実的(impractical)であり、実際、不可能です。


ラーダークリシュナン博士がこの(his)解説を書くずっと前に、有名なヴリンダーヴァンのゴスヴァーミーたちを含む、自己を認識した多くの霊的な先人たち(preceptors)が、「アーヌクーリャシャ・サンカルパーという言葉は、人は至高主クリシュナに好意的に(favorably)奉仕をすべきである、ということを意味する」(訳注:括弧は訳者)と説明しました。


他のすべての霊的な権威者を無視して(to disregard)ラーダークリシュナン博士の見解(version)を受け入れようという本物の学者はいません(訳注:まっとうな学者であれば~はしない)。


18段落

ラーダークリシュナン博士が「主への信頼(faith)」という言葉を使うとき、彼は確かに至高の人格神を指しています。どのような論理によって、彼は「主」が非人格的なブラーマンだけを意味するというのでしょうか(By what logic does he say “Lord” but mean the impersonal Brahman? この場合のbutは「ほんの~だけ」という意味)


アルジュナは、(サンスクリット引用)(BG 2.7)「今、私はあなたの弟子であり、あなたに服従した魂です。どうか私を導いてください(to instruct)」と言うとき、確かに人格としての(person)クリシュナを意味します。これらの言葉をもって、彼はバガヴァッド・ギーターの初めにクリシュナを呼びます。


ギーターのこの段階において、非人格的なブラーマンはまだ論じられていません。非人格的なブラーマンという主題がとうとう提示されたとき、主クリシュナは明確に(unequivocally、疑いの余地なく)ご自分が非人格的なブラーマンの源であると宣言なさいます。


堅固たる論理は、人は非人格的なものや形のないものに服従することはできないと言います(訳注:~というのは論理的に確かなことです)。非人格的なブラーマンに過度に執着している者は、この形のない概念に服従することを非常に辛く(painful)、そして実に、不可能であると感じ、そしてもしも彼らがこの道に沿って歩み続けるなら(to persist along this path)、彼らは自分の妻、家族、そして親戚に服従する結果になるでしょう。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


どうも毎度お待たせいたしまして、、、ようやく第1章が終わりました。でもまだまだ手元には何十ページもある。。。まあそのうちにぼちぼちと続きをお届けいたします。皆様、どうか見捨てずに辛抱強くお待ちくださいませ。それにしても、今年もまた何かと荒れそうな気配が、のんびり漂ってるどころか充満して渦巻いて吹き荒れてますね。どうなりますやら分かりませんが、お手元の傘なりランプなりは手放さず、精神的な保身を第一にお過ごしくださいませ。ごきげんよう。


[PR]
by ammolitering4 | 2016-02-14 08:05 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第4部 第1章途中まで

4部 ムニ・ガネラ・マティブラム - 幻惑された思考者たち(thinker、思想家、思索家)


1章 基盤となる(fundamental)問いが博学な(erudite)学者を避ける(to evade、よける、当然すべきことを回避する)(訳注:この場合、「博学な学者が最も基本的なところを見落とす」という意味。)


1段落

シュリマッド・バーガヴァタムの第1巻(canto)の、最初の章の一番初めの節において、最高の真理がこれらの言葉によって提示されました(to propound)


(サンスクリット引用)


「私は主シュリー・クリシュナを瞑想します。なぜなら主は完全真理であり、顕現した宇宙の創造、維持(sustenance)、そして破壊のすべての原因の根源的な(primeval)原因であられるからです。主はすべての顕現を直接的に、そして間接的に意識しておられ、そして、主を超える(beyond)他のどんな原因もないので、主は独立しておられます。


もともとの生命体であるブラーマージの心(heart)にヴェーダの知識を最初に授けた(to impart)のは主だけです。ちょうど、人が火の中に見える水、あるいは水の上に見える土地の幻想的な投影(illusory representation)によって惑わされるように、主によって、偉大な聖人たちと半神たちでさえ幻想の中に入れられます(to be placed into~、惑わされる)


主によってのみ(only because ofHim)、自然の3つの相の反応によって一時的に顕現している物質宇宙は、非現実(unreal)であるにも関わらず、本当(factual)であるように見えます。したがって私は、物質世界の幻想的な顕れ(representations)から永遠に自由である超越的なお住まいに永遠に存在しておられる神(Him)、主シュリー・クリシュナを瞑想します。主は完全真理であられるので、私は主を瞑想します。


2段落

完全真理を定義し(to define)、ヴェーダ、プラーナ、そして膨大なその他の関連する(corollary、系、ある命題から当然引き出される結論、この場合は上記の二つに基づいた関連文献)文献において、それについてさらに詳しく述べた(toexpand upon~)あとで、シュリーラ・ヴャーサデヴァはそれでも不満(disconteted)に感じました。


彼の霊的指導者、デヴァルシ・ナーラダは、自分の弟子が非常に打ちひしがれている(dejected、落胆、しょげる)のを見て、彼に内側へ、深い瞑想に入る(to go)ように勧めました(to inspire、鼓舞、激励)


その状態において、彼は何らの幻想にも惑わされない(free from the slightest illusion)最高の完全真理を知覚しました。上に引用した節は、シュリーラ・ヴャーサデヴァの霊的な知覚を反映しています。ナーラダは自分の弟子に、至高主の超越的な名前、形、性質(qualities)、娯楽、主に関わるもの(paraphernalia)、そして仲間たちの性質(nature)を明かすように教えました。


シュリーラ・ヴャーサデヴァの努力の結果は、完璧な(spotless)プラーナ、シュリマッド・バーガヴァタムです。


3段落

シュリーラ・ヴャーサデヴァはバダリカーシュラマに行き、近くのサムヤープラーサというところでサマーディーに入り、至高の人格神を見ました。彼はまた、制約された魂を幻惑する、主の神聖なる力、マーヤーも見ました。この、真理を認識した(realized)意識において、シュリーラ・ヴャーサデヴァは完全真理、至高の人格神を、完全に独立しており超越的である、と描写しました。


これは、主に優るものはなく、主に等しいものもない、ということを暗示します(toimply)。物質的な世界においては、主ブラーマーは生命体の中で最も高い人格(personality、名士)として受け入れられています。


しかし、ここでアーディ・カヴィ、もともとの知性的な存在として描写されている主ブラーマーでさえ、完全に独立した至高主に従属しています(subservient)。実に、最初に主ブラーマーにヴェーダの知識を授けた(toimpart)のは至高主でした。


4段落

普通の、死を運命づけられた存在(ordinary mortals)については、何をか言わんや?偉大な賢人たちや強力な半神たちでさえ、至高主を知ろうとする努力において完全に惑わされるのです(訳注:原文は長い一文。whatto speak of ~, (when) even ~)


ディーマヒ、「私は~を瞑想する(Imeditate upon~)」という言葉の解説(purport)は、ガーヤトリー・マントラを唱えることを完成した者だけが至高に独立した主を理解することができる、というものです。ガーヤトリー・マントラを唱える資格があるのは誰でしょうか?


無明と熱情の相によって支配されている者は決してガーヤトリー・マントラを唱えることはできず、それを唱えることを完成する(attaining perfection in chanting it、この場合はおそらく「完璧に唱えられるようになる」という意味と思われます)ことは何をか言わんや?


ブラーマーの性質を持ち、徳の相に位置する者だけが、ガーヤトリー・マントラを唱える資格があります。徐々に、常に唱えることによって、彼らはパラブラーマン(至高のブラーマン)、すなわち完全真理を理解できるようになります(to come to realize)


そうしてはじめて、彼らは至高の人格神、そして(along with ~)主の超越的な名前、形、性質、娯楽と、主に関わる諸々のもの、さらに(aswell as)ヴァイクンターの惑星(訳注:複数)、そしてヴァイクンターの惑星(訳注:複数)の主、ナーラーヤナを知覚することができます。


そして、人が主への超越的な奉仕に正しく携わることを好むようになり(to develop a taste for ~)、献身の至高の味わい(mellows)をはっきりと理解する(torealize)とき、人は主ヴァスデヴァ、クリシュナを見ることができます。


5段落

知識の上昇的な(ascending)過程(訳注:経験による学習から真理を求める)を通して至高存在に至ろうとする俗的な哲学者たちは、決して目的を達成することができません。当然(naturally)彼らを困惑させる、そのような試みの唯一の結果は、人は神であり、その逆もまたしかり、という彼らの誤解を確固たるものにし(they become rooted in the misunderstanding that~)、そうして彼らは地獄に落ちることになります(clearing their way to hell)


彼らのうちのごく少数の者たち(a few)は、一瞬、超越性を見ることがあるかもしれませんが(mayhave a moment's glimpse oftranscendence)、すべてを逆に結論づけることになります。彼らは誤った(erroneous)非人格的な原則の餌食になります。


6段落

完全存在のこの非人格的な概念(conception)の誤りを明らかにするために(to refute、論破)、シュリマッド・バーガヴァタムからの、先ほど引用した節は、明確に(unequivocally、疑いの余地なく)、完全真理は人格(a person)であると述べます。


この超越的な名士(personality、人格)は非常に強力なので、主は主ブラーマーにさえヴェーダの知識を授けることがおできになり(could)、主ブラーマーはそれから物質宇宙の創造を始められました(went on to create)


主ブラーマーは創造の後にこの非凡なヴェーダの知識を受け取ったのではなく、創造の働きを始める前に受け取られました。俗的な自然が存在するようになる(comeinto being)前に存在した知識は超越的であり、サムヴィットとして知られます。


ヴィシュヌ・プラーナは、サンディーニー、サムヴィット、そしてフラーディニー、すなわち存在、知識、および喜びという主の力(the Lord's potencies of existence, knowledge, and pleasure)、という主題に分かれています(to delve into~)


全部合わせて、これらは主の内的な力、すなわち霊的な力として知られます。シュリマッド・バーガヴァタムもまた、主の内的な力という主題を論じます。この優性なる力は3つの物質的な相によって特徴づけられる(to be qualified)主の劣性な、外的な力と相当に(quite)異なります。


主の優性な、霊的な力の一つの例は、ジーヴァです。ジーヴァは主の内的な力の産物であり、主の外的な力のそれではない、と理解することのできる者は、直ちにこれらの二つの力の間の違いを理解する(to grasp)ことができます。


7段落

幻想(delusion)は現実の歪んだ映像(image)であり、主の外的なエネルギー、マーヤーの証明(hallmark、太鼓判)です。この幻想は、主の内的な、霊的な力の中には完全に不在です。ジーヴァは主の優性な、超越的なエネルギーの産物ですが、彼(ジーヴァ)は自分の体を自分自身であると見なす(to identify ~ as ~)ように幻惑されます(to become deluded into ~)


いったんこの無明が消えると、彼らは直ちに体の実際の性質を理解することができます。幻想(illusion)は俗的な領域(plane)においては可能ですが、霊的なエネルギーにおいては決して可能ではありません。


8段落

物質的な自然において可視的な多様性は、主の霊的なエネルギーの影響によるものです。言い換えると、物質自然は霊的なエネルギーの歪んだ反映に他なりません(~is but ~)。例えば、太陽光はいつも存在していますが(ever existing)、太陽光が水に反射されると、創造、維持、そして破壊という循環を受け入れなくてはならない、新しい光の源が生じます(there comes into being a new source of light)


もともとの太陽は、もちろん、そのような変化によって縛られません。物質的な自然は幻想(illusory)です。時としてそれはあり、別のときにはありません。この幻想的で一時的な「あったりなかったりする」という存在が完全に取り除かれ、代わりに主の名前、形、性質、仲間、関連するもの、そして住みかが顕現するとき、人は、ここでニラスタクハカム、「物質的な世界の幻想的な顕れ(representation)から永遠に自由である」として(校正:has→ as)描写される、サテャムパラム、完全真理の水準(platform)にあります。


第9段落

ジーヴァは、主の周辺的な力と呼ばれてきています(has been referred to as)。ジーヴァは予測がつきません(unpredictable)。時として彼は物質的なエネルギーの統御の下にあり、そして別のときには霊的なエネルギーの庇護の下にあります。


しかし、至高の絶対に誤りのない(infallible)主は、ご自分のエネルギーのいずれの影響(sway、統治、揺れ動くこと)の下にも来られません。主は永遠に完全な独裁者(autocrat)、すべてのエネルギーの主人、至高の人格神、ヴァースデヴァであり続けられます。


すべてのエネルギーは主から放射し、そしてそのため主は至高のエネルギー的な原則でいらっしゃいます。スヴァ・ラート(「独立した」)とパラム(「至高の」)という二つの単語が、ある生命体(an entity)を描写するのに用いられるとき、そのとき彼(He)は必ず(must be)至高の人格神、すべての原因の永遠の原因です。


至高主が決してマーヤーの影響の下に来られないということは、シュリマッド・バーガヴァタムの他のところ(1.11.38)においても確認されています。


(サンスクリット引用)


「これは至高の人格神の神性(divinity)です。主は物質自然に触れられるにも関わらず、その性質によって影響されません。同様に、主の庇護の下に入った献身者も、物質的な性質によって影響されるようにはなりません(to become influenced)。」

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。


。。。忘れた頃にやってくる災害のような頻度となっていて、まことに申し訳ございません。第1章の残り半分もできているので、近いうちに清書してお届けしようと思います。少数ながら熱心に読んでくださる皆様、いつもどうもありがとうございます。実は最近は私の年代者のコンピューターの調子があんまりよろしくなく、仕事に差し支えが出始めているのです。直りますように、というお祈りのほど、どうぞよろしくご協力くださいませ。


私は最近もまだ絵を描いていて、これは技術の上手下手に関わらず、ようやく絵が自分の道具と感じられるようになった感覚があって嬉しいです。せっかくですので無理矢理見せびらかすことにしましょう。

d0152550_10045186.jpg
d0152550_10050750.jpg
d0152550_10051979.jpg
d0152550_10054679.jpg
d0152550_16403549.jpg


[PR]
by ammolitering4 | 2016-02-10 10:06 | 「英知による放棄」 | Comments(0)