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人間の解釈

先日、ふらふらとインターネットで人生の貴重な時間を無駄に費やしておりますと、こちらのサイトに行き当たりました。名古屋の動物園にいるゴリラの記事です。探したらこっちのサイトにもいろいろ写真が出ています。

シャバーニという名前のそのゴリラ、なんとものすごくハンサムなのです。ネギを食べてるところもしぶいわ、精悍だわ、たくましいわ、シャバーニさま~!すてき~!!!と、道ならぬ恋に落ちてしまいそうです。
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ファッションブランドのモデルにもなれます。今時の頼りない人間のオスなど足元にも及ばぬ風格があります。地球の男には飽きたと思っていたけれど、まだまだ素敵な男性はいたのですね。
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さて、こんなにかっこいいシャバーニさんの姿を見て、あのお方を思い出したのはこちらの読者の方であれば少なくないはず。そう、ハヌマン様です。あの方はお猿さんとのことですが、きっとシャバーニさんのようなお顔でいらしたのだろうなと思います。そういえばクリシュナの6番目だか7番目だかのお妃様もゴリラでしたね。お父様がゴリラの王様でいらして、それもまたきっとシャバーニさんみたいだったはず。姫のご容貌はあんまり想像がつきませんが、その息子さん、つまりクリシュナの息子のたしかサンバ様とおっしゃる方は、大層かっこよかったとどこかに書いてありました。いいなあ、どんな感じだったのかなあ。昔は熊とか牛とか狼とかも人間のように話ができて、人間と意思の疎通もできていたようですね。おとぎ話みたいなことではありますが、シャバーニさんを見ているとさにあらんという気がしてきます。

ところで、ときどき出てくる「40万種類の人間」という描写について、何のことだろうかと考えた方も多いと思います。これを「人間の心のあり方によって40万種類に分けられる」と解釈している方もあるようですが、それは違います。これは文字通りの解釈をすべきで、プラブパーダのご発言からもホモサピエンスを一つと数えることは明らかです。そうすると残る39万9999種は何なのでしょうか。とりあえず地球に限定するとして、ネアンデルタール人、北京原人、クロマニョン人、ジャワ原人、えーと、それから、、、コロボックル、妖怪、妖精、巨人、、、どこまで拡大解釈しても数が足りません。たぶん、別の次元にいるのだろう、時間というのは関係なくて、地球ができたときから壊れるときまで含むのだろう、ということで納得するしかありません。

逆にその他の生き物の種類は数が足りません。460万のうちの40万が人間で、その残りをさらに幾つにも分けていくので、微生物だけで終わってしまいます。こういうところも???と思うのですが、それでもやっぱり単なる与太話として片付けられないという気持ちがあるのだから不思議なものです。

それにしてもハヌマン様、実際にどんな感じで生きていらしたのでしょうね。私にとって、ヴェーダのいろんな話の中でも一番気になる存在です。
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by ammolitering4 | 2015-06-29 02:28 | Comments(6)

第3章 後半

第12段落
自分たち自身の取るに足らない(puny、小さくて弱々しい)努力を通して至高存在を知ろうと試みた現代の霊性主義者(spiritualists)のうち、シュリー・オーロビンドはある程度の悟り(realization)を得たというのが一般的な意見です。

彼の成功の理由は、彼の研究の対象(object)が物質的な知識ではなかったからである、とされています(it is claimed、主張)。マーヤーヴァーディーはすべてのものの一体性を知ろうと試みますが、彼らの研究は非人格的で非二元論的な(nondual、二重性がない)ブラーマンの認識にしか繋がりません(~ takes them only up to ~)。

彼らは、「病から自由になることは完成ではなく、病んだ物質的な状態(condition)の後には霊的な存在という(of)健康的な状態(state)がきて、そこでは解放された魂は変わらず(still、それでもなお)人格を持った個人である」ということを知りません(訳注:括弧は訳者)。この事実は彼らにとって理解不能です。

第13段落
シュリー・オーロビンドは、この限られた思考の領域(limited sphere of thinking)を超え、「神聖なる人生(Life Divine)」などの本において「超精神的な(supramental)意識」について語りました。私たちはこの本を、至高主の超越的な力を表す(to present、提示)ための漠然とした(hazy、かすみがかかったようにぼんやりしてよく分からない様子)試みであると考えます。

彼は至高主には超越的な力がある(~ is endowed with ~)ということを受け入れました。そしてそのため私たちは多少は彼を評価します(we have some appreciation for him)が、私たちは、多くの人はシュリー・オーロビンドの本における超越性に関する彼の説明を理解することができない、と感じます。

彼は比較的簡単な(simple)英語を用いますが、読者は困惑したままです(to remain puzzled)。ヴィシスタードヴァイタ、スィダードバイタ、ドヴァイタードヴァイタ、そしてついには主チャイタンニャのアチンテャ・ベーダーベーダー・タットヴァなどのヴァイシュナヴァ哲学に馴染みのない(unacquainted)者は、シュリー・オーロビンドを理解することができません。

そして、非人格的な哲学だけを学んだ者(are learned only in~)、非二元論的なブラーマンを探している者は、シュリー・オーロビンドの研究(works、著作)をますます理解できません(to have even less access to ~'s works)。

第14段落
シュリー・オーロビンドの一連の思考の多くはヴァイシュナヴァ哲学から借り出されています。「ヨガに光を当てる(Light on Yoga)」、および「目的地(“The Goal”)」と題した随筆において、次の文(passages)が見出されます。

(1)
動的な悟り(dynamic realization)を得るためには、プルシャをプラクリティへの従属(subjugation、征服された状態)から救うだけでは十分ではありません。人はプルシャの忠誠(allegiance)を、無知なる力というその働きをもって(with its play of ignorant forces)、より低いプラクリティから至高の神聖なるシャクティ---母なる存在へ移行(to transfer)しなければなりません。

(訳注:「その働き(play)を持って」という部分の「その」は、シャクティを指すものと思われます。なお、番号は引用部分の段落番号を示します。)

(2)
母なる存在(the Mother)を、より低いプラクリティとその力の仕組み(mechanism、機能)と同一視するのは間違いです。ここでプラクリティとは無明の進化のために形成された仕組みに過ぎません。無知なる精神的、生体的(vital、生命の)、あるいは肉体的な存在が、神(the Divine)から来ているにも関わらず自らは神ではないように、プラクリティの仕組みは神聖なる母(the Divine Mother)ではありません。

彼女(訳注:ここではherとなっており、Herと大文字表記ではないが、神を指す)の何かが、それを進化という目的のために維持し、この仕組みの中と背後にある(存在している)ことは、疑いの余地がありませんが、彼女自身はアヴィデャのシャクティではなく、神聖なる意識、力(the Power)、光、そしてパラ・プラクリティで、その存在に(to whom)私たちは解放と神聖なる満たしを求めます(to turn for)。

(3)
もしも超心(the supermind)が私たちに、より低い段階(planes、平面、水準)のいずれよりももっと大きな、そしてもっと完全な真理を与えることができないなら、それに至ろうとすることには、それだけの価値がありません(not worthwhile)。

それぞれの段階に独自の真理があります。これらの真理のいくつかは、私たちがより高い段階に上がると、もはや必要ありません。たとえば、欲望と自我は精神的、生体的(vital)、そして肉体的な段階の真理です。

なぜなら(as)、その段階にあって自我または欲望のない人は単なる機械人間(automaton)だからです。より高く上がるにつれて、自我と欲望はもはや真理ではないように見えるようになります。それらは、本当の人格(person)と本当の意志(will)を歪めている(to disfigure)偽り(falsehoods)です。

光の力と闇の力の間の戦い(struggle、せめぎ合い)はここでは真理ですが、人がより高く上がるにつれてそれはだんだん真理ではなくなっていき、そして超心(supermind)においてはそれは何の真理も有しません。

他の真理は留まりますが、(それらは)その性質、重要性、そして全体における位置づけを変えます。人格性と非人格性の対照は上心(overmind)の真理です。超心(supermind)の中には、それらの切り離された真理(separate truth of them)はありません。

(訳注: supermindと overmindの訳語は他に思いつかないので適当にあてはめています。適切なものがあればお知らせください。)

それらは切り離され得ず、一つです。しかし、より低い段階を克服(to master、完了)していない者は、超精神的な(supermental)真理に至ることができません。人の心の無能な(incompetent)奢り(pride、自尊心、思いあがりなど。「誇り」よりも否定的な意味合いのある言葉)は、鋭い区別(distinction)をつけ、他のすべてのものを非真理と呼びたがり、直ちに最高の真理へと、それが何であれ、飛び跳ねたがります(to leap、段階をすっとばしていく)。

しかし、それは野心的で奢り高ぶった間違いです。人は、頂に至るためには、階段を上り、一歩ごとにしっかりと足を踏みしめなければなりません。

第15段落
もしも人が人生の本当の意味について真剣であるなら、それならマーヤーの壊滅的な(crippling、機能不全にさせるようなひどい打撃)呪縛を逃れるための単純な努力(endeavoring)は、唯一の仕事(undertaking)ではありません。

究極の目的は、私たち自身を幻想エネルギーの魅惑(enthrallment)から解放し、超越的な霊的エネルギーに完全に従属的(subservient)になることです。

第16段落
チャイタンニャ・チャリタームリタにおいて(マデャー20.108-09、111、117-8、120、および122)、主チャイタンニャはサナータナ・ゴスヴァーミーに幾らかの啓発的な(illuminating、無明の闇に光を当てるような)助言をなさいます。

(1)
クリシュナの永遠の従者であることは、生命体の本来の立場です。なぜなら、彼はクリシュナの周辺的なエネルギーであり、ちょうど太陽光や火の原子の粒のように、主と同時に一つであって異なる顕現であるからです。

(2)
主クリシュナはもともと3つのエネルギー的な変容体を持っておられ、これらは霊的な力、生命体の力、そして幻想の力として知られます。。。クリシュナを忘れて、生命体は記憶にないほどの昔から外的な特徴に惹き付けられてきました。

したがって、幻想エネルギー(マーヤー)は彼に、その物質的な存在において様々な悲惨さを与えます。物質的な状態において、生命体は時としてより高い惑星系と物質的な豊かさに上げられ、そして時として地獄のような状況において溺れさせられます。

彼の状態はちょうど、王が水につけたり引き上げたりして罰を与える犯罪者のようです。。。もしも制約された魂が、自発的に霊的な命令(injunctions、この場合は「教え」)を教えて彼がクリシュナ意識になるのを助ける聖人的な人の慈悲によってクリシュナ意識になるなら、制約された魂はマーヤーの呪縛から解放され、マーヤーは彼を放棄します。

(訳注:修飾語が長くて分かりにくいですが、「もしも聖人的な人が現れて、慈悲深くも率先して霊的なことを教えてくれて、そのおかげで彼がクリシュナ意識になったら」という意味。)

制約された魂は、自分自身の努力によってクリシュナ意識を蘇らせることはできません(to revive)。しかし、いわれのない慈悲によって、主クリシュナはヴェーダ文献とその補足、プラーナを編纂なさいました(to compile、一つにまとめる)。

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わたくし、、、困惑しております。皆様はいかがですか?オーロビンド様の言葉、分かりにくいですね。やっぱりプラブパーダのすっきりした文体が一番、と改めて思いました。
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by ammolitering4 | 2015-06-20 09:31 | 「英知による放棄」 | Comments(2)

第3章 前半

第3章 心が物質への執着から清められる(訳注:心が清められ、~がなくなる)

第1段落
ウパニシャッドの格言(aphorism、金言、名句、警句)、「サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ」の意味により多くの光を当てる(to shed、何かに対して光を発する、放つ)ために、ヴィシュヌ・プラーナからの一節(1.22.56)を引用します(to cite、例証)。

(サンスクリット引用)

「火は、一つの場所に留まっているにも関わらず、あたり一面に光を放ちます(to radiate、放射)。同様に、至高のブラーマンはどこにでもエネルギーを放ち、それはこの物質世界として顕現します。」

第2段落
彼らの哲学的な議論において、マーヤーヴァーディーは至高主の多面的な(multifarious、様々な)エネルギーの存在を否定します。そのような基準値以下の(sub-standard)討論は、実に、幼稚園の水準にあります。

シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラによれば、マーヤーヴァーディーは知識に乏しく(to have a poor fund of knowledge)、そしてそのため、至高のブラーマンは6つの富を完全に備えているということを理解できません(to be prevented from understanding ~)。」

これらの気の毒なマーヤーヴァーディーの非人格主義者たちを哲学的な疲弊(impoverishment、窮乏化、衰え)から救うために、主クリシュナは慈悲深くもバガヴァッド・ギーター(7.19)において彼らにお教えになりました。

(サンスクリット引用)

「多くの誕生と死のあとで、本当に知識のある(in knowledge)者は、私がすべての原因とすべての存在(all that is)の原因であると知って、私に服従します。そのような偉大な魂は非常に稀です。」

第3段落
「つながれた牛は縄の長さの分だけ動く(A tethered cow goes as far as the rope)」と、ことわざにもあります。同様に、究極的な知識を探求するために帰納的な(inductive)方法を使う者は失敗します。人は、俗的な心をもって超俗的な(the supermundane)ことを知ることはできないので、彼の努力は無駄(futile、無益)です。

完全真理の完全な理解は、神聖ではない(unholy、不浄、邪悪、罪深い)、悪魔的な心をもってしては不可能です。

人が、究極的に万能な(supremely omnipotent)至高の人格神を非人格的なブラーマンに引き落とそう(to reduce)とする悪魔的な精神性を持っているとき(to be possessed of)、すべてのいわゆる哲学的な討論は、完全な知識の領域(realm)、あるいは二重性でないもの(nondual substance、二元論的でないもの)に関する真理を発見しそこなうでしょう(訳注:どれだけ議論しても見つかりはしない)。ヴァイシュナヴァだけがそのような知識を培う資格があります。

第4段落
もちろん、すべての非人格主義者が悪魔的なのではありません。非人格主義者が、完全真理はすべての超越的な性質を持った(to be endowed with)人格(a person)であるとはっきり理解すれば(to realize)、彼は直ちに神に奉仕をし始めます。これはシュリマッド・バーガヴァタム(1.7.10)において次のように確認されています。

(サンスクリット引用)

「すべての異なる種類のアートマーラーマ(アートマー、すなわち霊的な自己に喜びを感じる
(to take pleasure)者)、特に自己認識の道において確立している者は、すべての種類の物質的な呪縛から解放されているにも関わらず、至高の人格神に純粋な献身奉仕を捧げたいと欲します。

これは、主が超越的な性質を持っておられ、そしてそのため、解放された魂を含め、すべての者を惹きつけることがおできになるということを意味します。」

第5段落
主の超越的な性質によって魅了され、そのため主に服従する、その偉大な魂を見つけるのは稀です。至高主に服従することのできる唯一の人は、主から主の人格を奪おうとはせず、そうではなく、物質自然を主の様々な(multifarious)エネルギーの変容と見なす者です。

そのため、マーヤーヴァーディーは決してマハートマー、すなわち「偉大な魂」とは呼ばれ得ません。非二元論的な(nondual)完全真理が6つの富を完全に備えた至高の人格神に他ならないということをはっきりと理解するときにのみ、彼らはマハートマーと呼ばれ得ます。

第6段落
ヴァイシュナヴァのマハートマーは、「サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ」という格言(aphorism)を次のように説明しました。ヴィシスタードヴァイタとして知られる哲学的な学派は、「至高主はチット・シャクティ、すなわち霊的な力、そしてアチット・シャクティ、すなわち物質的な力という、ご自分の二つの主要な力をもって永遠に存在なさる」という考えを提議しました(to propound)(訳注:分かりやすくするために括弧をつけました)。

一つの非二元論的な存在(one nondual entity)でいらっしゃるにも関わらず、主はご自分が完全に統御なさるチットとアチットの力という主な区分(headings、見出し、項目)の下でご自分の様々なエネルギーを顕現なさり、動的に(dynamically)存在なさいます。

無限の力の源であられるにも関わらず、主はご自分の超越的で個人的なお姿において永遠に存在なさいます。この形は3つの側面において顕現します。すなわち、主がご自分自身をご覧になるように、愛情ある献身者が主を見るように、そして主がご自分の競争者と敵によって見られるように、です。

シュリー・ラーマーヌジャーチャーリャによって率いられるシュリー・ヴァイシュナヴァの師弟継承(disciplic succession)は、主と主のエネルギーの立場(situation、状態)を説明するために、私たちが先に引用したものと同じ文を引用します。「火は、一つの場所に留まっているにも関わらず、あたり一面に光を放ちます(to radiate、放射)。同様に、至高のブラーマンはどこにでもエネルギーを放ち、それはこの物質世界として顕現します。」

第7段落
このように、創造全体が主の存在の証拠です。完全な知識を持っている(in complete knowledge)者は、完全真理はすべてのエネルギーの源ならびに統御者として永遠に存在する至高の人格神である、ということを理解します。

マハートマーはこの知識を完全に理解し、そして主の超越的なエネルギー(チット・シャクティ)の庇護の下に入って、永遠に主に愛情ある献身奉仕を捧げます。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.13-14)においてこれを確認なさいます。

(サンスクリット引用)

「おお、プリターの息子よ、幻惑されていない者、偉大な魂は、神聖な自然の保護の下にあります。私を至高の人格神、源(original)であって尽きることがない(inexhaustible)として知っているので、彼らは完全に献身奉仕に携わります。

いつも私の栄光を唱え、大いなる決意をもって努力し、私の前にひれ伏し(to bow down)、これらの偉大な魂たちは永遠に献身の念をもって私を崇拝します。」

第8段落
精神的な推量者と論理学者、そして経験主義的で(empirical)帰納的な(inductive)過程に拠り頼む初心者であるマーヤーヴァーディーは、完全真理をはっきりと理解した、主の純粋な献身者の立場を正しく理解すべきです。バガヴァッド・ギーター(4.23)において主クリシュナは献身者の活動について(of)このような説明をなさっています。

(サンスクリット引用)

「物質自然の相に非執着であり、完全に超越的な知識のうちに位置している者の仕事は、完全に超越性に同化します。」

第9段落
犠牲として行われた活動は、すべて献身奉仕です。ヤジニャというサンスクリット語の単語は「犠牲」を意味しますが、それはまた主ヴィシュヌご自身を意味するものでもあります(it can also mean)。自分の活動を超越的な献身奉仕として行うことは、完全真理に完全に位置した、発達した魂にとってのみ可能です。再び、クリシュナはご自分の献身者をバガヴァッド・ギーター(7.17)において描写なさいます。

(サンスクリット引用)

「これらの中で、完全な知識を持ち、いつも純粋な献身奉仕に携わっている者が最良です。なぜなら、私は彼にとって非常に愛しく、そして彼は私にとって愛しいからです。」

第10段落
もしもいくらかの徳(piety、敬虔さ)によって非人格主義的な哲学者が至高主への献身奉仕にいそしむなら、そのとき初めて(then only)彼は主にとって愛しくなります。しかし、非人格主義者が至高主から主の神聖な力を奪おうとする限り、彼らは決して主にとって愛しくはあり得ず、また、マハートマーとも呼ばれ得ません。

彼らは、主の幻想の力によって幻惑された悪魔的な無神論者のうちに数えられ続けます。これらの無神論者たちは賢人ではありません。彼らは単に、主に無礼を働く、普通の、死を運命づけられた存在です(ordinary mortals who are offenders against the Lord)。

第11段落
ヴェーダ文献の中でジニャーナという言葉が現れるところではどこでも、サムバンダー・ジニャーナ、主と主のエネルギーの間の関係に関する知識を意味する、と理解されるべきです。それは至高存在に関する非人格主義的な(impersonalist)概念を指すのではありません。

サムバンダー・ジニャーナを理解したあと、人はアビーデーヤ・ジニャーナ、至高主との(自分の)関係においていかに振舞うか、ということに関する知識の段階に来ます。これが解放された魂によって実践される献身奉仕です(This is devotional service, practiced by ~)。

アビーデーヤ・ジニャーナという(of)成熟した段階は、人を至高神への愛、すべての生命体の究極の目的地に導きます。
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ほんのちょこっとだけお届けします。アパートの掃除と片付けに忙しい毎日なのです。狭いのによくもまあ要らない物がたくさんあるものです。残りもできるだけ早く清書しようと思います。
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by ammolitering4 | 2015-06-19 09:11 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

ハリナムを見かけました

今日、バスに乗っていたらハリナムの歌声が聞こえてきました。あっ、ハリナムだ!と思いましたが、なにぶんバスの中からなので写真もちょっとしか写らなかったし、音もものの20秒くらい聞こえただけです。それでも、たったそれだけでも今日は良い日だったという気持ちになります。

なかなか更新していなくてすみません。1章分の翻訳ができてはいますが、まだ清書していないのです。先日までは3週間ほど日本に行ってました。日本は人がフレンドリーで清潔でとても過ごしやすかったのですが、社会からの無言のプレッシャーというのも大きいですね。不気味だなと感じる要素は多々あります。実家の近所には高齢化と過疎化に伴う空き家が多く、ある家では犬がつながれたままになっています。空き家の主が時折やってきてエサをやったり散歩に連れて行ったりしているそうですが、その「時折」というのがどれくらいのものなのかは分かりません。田んぼの真ん中のその家は、前を通る人もあまりなくて犬は一日中淋しい思いをしていることでしょう。犬はやせていて、まわりにはたくさんのフンが落ちています。これは明らかに動物虐待なので、どこかに通報するなり保護を求めるなりしたいのですが、そう言うと母は「誰にも何も言うな」と言いました。

母も犬をかわいそうに思っているのに、明らかな問題に対して声を上げると「誰が言ったのか?」という問題になることを恐れているのです。事情があるのだろう、仕方がないのだろう、と言う母の意見を無視して、ちょっと訪れただけの私が何かすることはできません。私は去っていきますが、母は私の言動の結果を受け止めて狭い田舎の社会で生きていかなくてはならないのです。犬は近所の人が見かねてときたま散歩に連れ出したりもしているようですが、このままだとそのうちに死ぬでしょう。かわいそうな人生だったなと思います。

明らかにおかしいことがあるのに、誰も何も言えない空気が充満している気がします。
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by ammolitering4 | 2015-06-14 12:45 | Comments(14)