<   2015年 04月 ( 6 )   > この月の画像一覧

小さなハリナム

夕方ダウンタウンに行ったら、ハリナムをしている人たちがいました。このあともう一人増えて3人でなさってましたが、この前は女性一人でなさっていました。毎日夕方から行っているそうです。
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いろんな国の言葉で書かれた本も並んでいます。
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日本語のもありました!古い本なのでしょうか。誰か適切な人の手元に届けばいいなと思います。
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ハリナムの方にプラサーダムを頂きました。スパイシーで酸っぱくて塩味で予想外の味でしたが、けっこうおいしかったです。
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by ammolitering4 | 2015-04-30 13:03 | Comments(0)

仮の姿

皆様、こんにちは。翻訳はどうした、お絵かきサイトに変わったのか、とのご不満もおありのことと思いますが、どうもすみません。なんとなくアートを振り返る気分なのです。そういえば、5月の上旬からしばらく日本に行く予定です。今回は一人じゃないし、あちこち行って家族や親戚に会うので、お寺にも行けませんし日本のお友達ともほとんどお会いできませんが、それでもやっぱり久しぶりに日本に帰るのは楽しみな気持ちがあります。ただ、手放しで嬉しい、わくわくして期待で一杯!という気持ちになれないのは、これは年のせいなのでしょうか。。。何かと落ち着かないご時勢です。とりあえず無事に行って戻ってくることができたら上等、と思っています。

子供の頃はわら半紙や広告の裏などに絵を描くことが多く、よく覚えていないのですが、たいていは可愛い(はずの)女の子を描いていたと思います。目玉が異様に大きくて口は三角で、というよくあるパターンです。自画像というつもりでなくても、そういう架空の人物にはその時なりの自分の理想が反映されているのでしょう。そういうわけで、今回は特に誰もモデルでない人物画を集めてみようと思います。いろいろありますが、本当は写真に撮ることもなく捨ててしまったもののほうがずっと多いです。鉛筆やペンで描いたものなどたくさんあって、そんなのは絵を使って自分の心を分析しているような構図のものが多かったです。
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これはあえて昔描いていたように目を巨大化させたもの。
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この変なのは一体何でしょうね。上から描いていて、下の方が入りきらないことが分かったので脚を曲げてしまいました。ご想像がおつきかもしれませんが、実は私はけっこうファッションに興味があります。自分の容姿には全く無頓着で、髪はぼさぼさ、着るものは作業着なのに、人にあれこれ着せるのとかファッションデザインをしたりするのが好きなのです。かつては古着のバイヤーをしていたこともあり、ファブリックデザインの真似事をしてみたこともあります。誰か私のモルモット、いや、モデルになってくれないかな、といつも思っています。ある人に似合うものを探すのはコラージュに通じるものがあり、これだ!と思うものが見つかるととても嬉しいものです。
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by ammolitering4 | 2015-04-29 13:37 | Comments(0)

すれ違う人々

さてさて、、、第2章ができたところで、脱線の続きと参りましょう。プラブパーダのお話の中でも家族や親戚や家や財産や、考えうるあらゆるものへの執着のことが出てきますが、自分の生への執着、家族、親戚、そして友人たちなど、私の絵もそれをそのままに表しているなと思います。というわけで、どういうわけか今回の人生において関わりの深かった人たちの絵など続けてご紹介しようと思います。

これはお友達。一番最初の頃の肖像画です。ほんとはとても色白なのですが、メキシコ人のようになってしまいました。
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地球人のお友達。宇宙人風に仕上がりました。
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以前お世話になった方です。セミプロの天文学者なのです。
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ロシア語コーラスの指揮者だったおじさん。最初に会ったときはお兄さんだったのですが。。。
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ロシア会館のメンバーだった方。遺影です。
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これも遺影です。ロシア語コーラスのお友達でした。
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遺影のつもりじゃなかったのに遺影になってしまった絵。ロシア会館のボスでした。
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右側の方がお亡くなりになったときに、左側の方のために描きました。どちらのロシア語コーラスのお友達で、おじいさんのほうが私にキリル文字の読み方を教えてくださいました。
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こちらはまだ生きてるお友達。
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こちらも。でも、やがてどれも遺影になるのです。100%の当たりクジと考えれば、宝くじよりずっといいですね。
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同じくまだ生きているロシア人の友達。若くて可愛かった彼も今ではすっかりおじさんです。
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お会いしたことのない方の肖像画を頼まれたことがあります。そういうのは嫌なのですが、長年の知り合いであるロシア人のおばあさんから頼まれたので、断るに断れずに描きました。でも、ぼんやりした古い写真だけを元にして描いたためか、似てないと言って極めて不評でした。
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90歳近いイギリス人のご夫妻。いつもとても可愛がってくださいます。
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縁あってしばらく一緒にいた人物と、、、
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そのお母様と、、、
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お父様。かっこいいと思うのですが、ご機嫌斜めのときでいらしたようで、息子さんには不評でした。「これは僕に説教しているときだ」とのことです。
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似てないのがはっきりと分かる作品。この方もロシア人ですが、お会いしたことはありません。でも、私はこの人に大きな敬意を持っているのです。NASAが行った取り返しのつかない愚行、ディープインパクトの事件のときに、世界中のメディアで笑いものにされたマリーナ・バイさんという方です。覚えていらっしゃいますか?
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by ammolitering4 | 2015-04-23 14:07 | Comments(0)

第2章

第2章 献身の念は至高存在に関する完全な知識の中に宿る

第1段落
もしも微小な魂が自分の個別性(individuality)、すなわち生来の(inherent)人格を無限大の存在と同化させるなら、それならその個別性は無価値になります(to render)。自分の個別性を犠牲にすることによって霊的な自殺をしたがる者は、特殊な人々です(a breed by themselves、自分たちだけの種族)。

そのような自己破壊者(self-destroyers)は純粋な一元論者(monists)として知られます。他方で、自分の個別性を維持したいと欲する者は、二元論者、すなわち人格主義者です。

第2段落
ジーヴァがいったん自分のもともとの超越的な性質を顕現すると、彼は簡単に物質的な制約から解放されますが、それでも、そのような高い(elevated)状態においてさえ、彼は霊魂としての自分の個々の自己認識(identity)を失いません。

事実、その純粋な状態において彼は至高主への永遠の奉仕に携わり、荘厳な(sublime、気高い、卓越した)喜びの不滅の蜜を味わいます。

第3段落
遠い昔から(For eons、eonは無限に長い時間を指す)、世界中でクシェトラとクシェトラ・ジニャという主題(subject)に関する研究が続いています。インドでは6つの哲学的な学派(注)がこの主題(topic)を広範に(extensively)論じましたが、この議論は単に、賢人たちの間での多くの異なる意見につながった、論理(logic)と詭弁(sophistry)における練習(exercise)であるに過ぎません(to have been、今も続いていることを示す)。

そのため、これらの学派のうちのいずれも、本当にジニャーナ・ヨガ、完璧な知識への道を実践していません。クシェトラとクシェトラ・ジニャの議論が主への奉仕に適用される(to apply)ときだけ、その練習(the exercise)はジニャーナ・ヨガになります。

(注)6つの哲学的な学派とその提唱者(proponants、これはproponentsのラテン語綴りであり、一般的ではない)は以下の通り:
サー・キャー --- カピラ(無神論的)
パタンジャリ・ヨガ --- パタンジャリ
ニャーヤ --- ゴータマ
ヴァイシェスィカ --- カナーダ
ミマムサ --- ジャイミニ
ヴェダーンタ --- ヴャサデヴァ

第4段落
ジニャーナ・ヨガの過程はヴェダーンタ・スートラ、ヴェーダの哲学的な真髄の中において詳述されています(to be delineated)。至高主クリシュナはヴェダーンタ・スートラの権威を受け入れられ、(その)哲学的な提示を正しい(proper)と考えられます。

現在(present day)まで、非人格主義者の学派においてさえ、すべての霊的な系統(line)がその哲学的な権威をヴェダーンタ・スートラにのっとっています。そして、シュリマッド・バーガヴァタムはヴェダーンタ・スートラに関する自然で欠点のない論評(commentary、記録、解説)です。これが主チャイタンニャのご意見です。

第5段落
学識のある階層の人々(circles)は、ヴェダーンタ・スートラに関する論評(commentary)の欠けた(bereft of)師弟系統(desciplic line)を、正統ではなく無益であると考えます。シュリーパーダ・シャンカラーチャーリャの「シャーリーラカ・バーシャ」と題したヴェダーンタの論評は、非人格主義的で一元論的な学派の主な論評です。

ヴァイシュナヴァの中では、シュリーパーダ・ラーマーヌジャーチャーリャの論評の他には、マードヴァー・ゴーディーヤ・サムプラダーヤとして知られる主チャイタンニャの系統において、シュリーラ・バラデヴァ・ヴィデャーブーサナの「ゴヴィンダ・バーシャ」が主な論評です。

第6段落
聖典の深遠な(esoteric、奥義、難解)結論に関する深い議論に携わることを好む(keen)者は、確かに、ヴェダーンタ・スートラの哲学を掘り下げるべきです(to delve into)。強調されるべき点は、造詣の深い(well-versed、精通)ヴェダーンタの哲学者はシャンカラーチャーリャの系統に属する(in)哲学者ではなく、実際はヴァイシュナヴァの霊的な教師(preceptor)、解放された魂であるということです。

第7段落
ヴェーダと賢人たちによれば、5つの「密度の濃い(gross)要素」は、「土、水、火、空気、そしてエーテル」です。物質自然は、「偽りの自我(アハンカーラ)、物質エネルギーの材料(マハット・タットヴァ)、そしてマハット・タットヴァの原因(プラクリティ)」の組み合わせから作られます。

5つの「知識を集める感覚」と、5つの「働く感覚」が存在します。心は内的な感覚、六つ目の「知識を集める感覚」です。「形(form、姿)、味、匂い、触感(touch)、そして音」が5つの「感覚の対象」です。(訳注:分かりやすくするために括弧をつけました。これらの要素を合計すると24個になります。5+3+5+5+1+5=24)

第8段落
私たちは既に、無心論者カピラのサーンキャー哲学の描写において、これらの物質的な材料を列挙しました(to enumerate)。クシェトラ、すなわち「場」は、上記の24個の材料の組み合わせです。これらの24個の材料が関わりあう(to interact、相互作用)とき、結果は物質自然の変容(transformation)であり、それは、物質的な欲望、嫌悪、楽しみ、嘆きなどの結果として、5つの密度の濃い要素(パーンチャ・マハーブーター)からなる密度の濃い体を生じさせます。

心と意志(will)の形を取った意識の影(shadow)がその場(field)の変容です。

(原文は”The shadow of consciousness in the form of mind and will are transformations of that field. ” ここで主語となる The shadowは単数となっており、述語の複数形と呼応していません。mind and will に引きずられた単なる間違いなのかもしれませんが、この一文自体が難解で意味がよく分かりません。意識の影、すなわち意識の反映が、心と意志という二つの形で現れ、それらが「場」、すなわち物質自然を変容させる、または変容そのものである、というような意味なのだと思います。そうであれば述語が複数形になるのも理解できますが、やはり多少文法的に整っていない感じがするので、私は以下のように読もうと思います。”The shadows of consciousness are manifested in the form of mind and will, and they are transformations of that field.” ご意見があればお寄せください。なお、この場合のformは不加算名詞なので単数形です。)


第9段落
まもなく論じられるのは、クシェトラ・ジニャはクシェトラおよびその変容と全く異なるということです。しかし、クシェトラとクシェトラ・ジニャに関する知識を正しく理解するためには、人はまず、バガヴァッド・ギーター(13.8-2)に挙げられている少なくとも20個の良い性質を培わねばなりません。

「謙虚さ、奢らないこと、非暴力、忍耐、簡素さ、真正なる霊的指導者に近づくこと、清潔さ、堅実さ、自己統制、感覚の満足の対象の放棄、偽りの自我がないこと、生老病死の悪を知覚すること、非執着、子・妻・家庭その他とのもつれからの自由、喜ばしいことと喜ばしくない事々にあって心が安定していること、私への継続的で混じり気のない献身の念、孤独な場所に住むことを欲すること、一般大衆から離れること、自己認識の重要性を受け入れること、そして完全真理を求める哲学的な探求---これらすべてを、私は知識であると宣言します。そして、この他のものは何であれすべて無明です。」

(Humility; pridelessness; nonviolence; tolerance; simplicity; approaching a bona fide spiritual master; cleanliness; steadiness; self-control; renunciation of the objects of sense gratification; absence of false ego; the perception of the evil of birth, death, old age and disease; detachment; freedom from entanglement with children, wife, home, and the rest; even-mindedness amid pleasant and unpleasant events; constant and unalloyed devotion to Me; aspiring to live in a solitary place; detachment from the general mass of people; accepting the importance of self-realization; and philosophical search for the Absolute Truth – All these I declare to be knowledge, and besides this whatever there may be is ignorance.)

第10段落
これらの性質を持たない(bereft of)人々は、霊的な話題を論じる資格がありません。偽者の論理学者(logician)は、制約された魂を解放に導くためにある上記の性質を、欲望、怒り、嫌悪などの、心の変容の結果として得られる俗的な性質と取り違えます(to mistake ~ for ~)。しかし事実は、上記の性質は霊的な知識を表します(to represent)。

たとえ人が、完全な知識のための必要条件(prerequisites、前提、予備知識)として、「主クリシュナがギーターにおいて列挙なさった性質は精神的な(mental)変容である」という、偽者の論理学者の議論を受け入れるにしても、それでも私たちは、「これらの変容は全くの無明から結果として生じる欲望(lust)、強欲(greed)、怒り、そして幻想などの性質と同等である(equivalent)」ということに同意することはできません。(訳注:ややこしいので分かりやすくするために括弧を入れています。)

ある種の精神的な変容は魂を堕落(depravity)へと引きずりおろし、他方で他(の精神的な変容)は魂を破滅(doom)から救います(to redeem)。病気も薬も物質自然の産物ですが、一つは人を死の淵(the jaws of death、死に脅かされた状態)に押しやり、他方は彼を破滅から救います。

そのため人は、ヤタ・マタ、タタ・パトー、「すべての道は真理に通じる」という愚かな理論を受け入れて、これに基づいて薬と病気は全く同じである(one and the same)と公言する(to profess)ことによって社会の笑いもの(laughing-stock)になることを避けねばなりません。

第11段落
クリシュナが挙げられた20個の性質の中で、特に注目すべき(noteworthy)一つの性質があり、そしてそれは(サンスクリット引用)です。「私への継続的(constant)で純粋な献身の念」です。他の性質は意識を清めるために必要とされます。

いったん心の鏡が浄化され、物質的な存在の燃え盛る火が消されると、主クリシュナへの継続的で純粋な献身の念が心(heart)の地平線上に現れ始めます。偉大で聖人的な霊的指導者シュリーラ・ナロッタマ・ダーサ・タークラはこう歌われました。

「私の心はいつ浄化されて物質から離れるのでしょうか?おお、いつ、その清められた状態で、私はヴリンダーヴァンの超越的な領域(realm)を見ることができるでしょうか?」

第12段落
いったん主クリシュナへの継続的で純粋な献身の念が人の心の中に花開くと、他の19個の性質は彼の中に自動的に現れる、ということに気づく(to note、言及、注意する)のは興味深いことです。シュリマッド・バーガヴァタム(5.18.12)には、次のように述べられています。(サンスクリット引用)

「すべての半神たちと、宗教、知識と放棄などの彼らの高貴な(exalted)性質は、至高の人格神、ヴァースデヴへの純粋な献身の念を育んだ者の体の中に現れるようになります。」

第13段落
毎日根気良く10、20、30ルピーを集めることで、人はいつの日か百万ルピーを持つようになります。しかし、もしも一度に百万ドルを得るなら(to come upon、出くわす)、人は別途に10、20、あるいは30ルピーを集める努力をして貴重な時間を無駄にする必要はありません。

同様に、人が主クリシュナへの純粋な献身の念を育むとき、他のすべての上記の性質は、さらなる努力なしに、自動的にその人を飾ります(to adorn)。他方で、主クリシュナへの純粋な献身の念を脇に置いて(to leave aside、取り残す)、他の19個の性質を別に育もうとする者は、一時的に富と名誉を得るかもしれませんが、彼は最高の目的を達成する資格を失います(to become unqualified)。

上記のシュリマッド・バーガヴァタムの同じ節の中で(5.8.12)、プラーラーダ・マハーラージャはこうおっしゃいます。(サンスクリット引用)

「他方で、献身奉仕をせず(devoid of)、物質的な活動に携わっている人は、何の良い性質も持ちません。たとえ彼が神秘的なヨガの実践、あるいは自分の家族と親戚を養うための正直な努力に長けていた(to be adept at、熟達)としても、彼は必ず自分の独自の(own)精神的な推量によって突き動かされ(driven)、必ず主(校正:lord → Lord)の外的なエネルギーへの奉仕にいそしみます。そのような人に、どうして何らの良い性質があり得るでしょうか?」

第14段落
主の蓮の御足に敬意を払わず、献身奉仕の過程を非難する(to denounce)一方で、謙虚さ(humility)や非暴力などの良い性質を見せびらかす(to make an external show)のは無駄
(futile)です。そのようないわゆる良い性質は、何らかの物質的な価値があるかもしれませんが、究極的にはそれらは役に立たず、一時的です。

事実、他の19個の性質は、そこから純粋な献身の念が統率する(may rule)ための王座を作るために組み合わさります(訳注:~は組み合わさって~のための王座となり、~はそこに鎮座して~します)。これらの性質は、完全真理の様々な側面(limbs、大枝)であり、この完全な知識以外のすべてのものは無明(nescience、無知)です。

第15段落
これらの知識の側面(limbs)を培うことによって、人は自己認識を得ます。言い換えると、人はクシェトラの俗的な知識からクシェトラ・ジニャの霊的な知識へと上げられます。私たちは先に、クシェトラ・ジニャという言葉は生命体と至高のブラーマンの両方を指す(to imply、暗示)と論証しました(to establish)。

時として、物質自然、すなわちプラクリティは、ブラーマンと呼ばれます(to be referred to as~)。その理由は、ブラーマンは物質自然の原因だからです。ある意味では、原因とその結果(effect)は同一です。しかし主クリシュナはブラーマンの究極の源です。

主は、ジーヴァとして知られるブラーマンの種を、物質自然の形を取ったブラーマンに撒きます(to impregnate ~ with~、はらませる)。(原文:The Lord impregnates Brahman in the form of the material nature with the seed of Brahman known as the jiva.) クリシュナはバガヴァッド・ギーター(14.3)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「ブラーマンと呼ばれる全体的な(total、総体的、完全、絶対的)物質的な物体(substance、実体)は、誕生の源であり、私がはらませ(to impregnate)、すべての生命体の誕生を可能にするのは、そのブラーマンです、おお、バーラタの子孫(scion、御曹司)よ。」

第16段落
この節は「すべてのものはブラーマンである」を意味する、ウパニシャッドからの有名なことわざ「サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ」を説明します。言い換えると、それらがすべてブラーマンであるという点では(in that ~)、至高のブラーマン、主クリシュナは、ジーヴァおよびプラクリティの両方と同一です。

そのため、ある意味では、ヴァイシュナヴァは純粋な一元論者です。先に私たちは、バガヴァッド・ギーターからの別の節(9.10)を論じました(to deliberate、熟考、審議)。

(サンスクリット引用)

「私のエネルギーの一つであるこの物質自然は、すべての動くものと動かないもの(beings)を作り出し、私の指揮の下で働いています、おお、クンティーの息子よ。その統御の下で、この顕現は何度も何度も作られ、滅ぼされます。」

第17段落
論じられているギーターの節(14.3)は、もう一つの節(9.10)の、より明らかな理解を与えます。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

う~ん、小難しいですねえ。。。禅問答ですか、と思いながら訳しております。この本はプラブパーダがインドの言葉で書いたのを明らかに教養のある人物が格調高い英語にしたもので、それを私が偉そうに修正するなどものすごーくおこがましいのですが、やっぱりどうも一箇所だけ腑に落ちないのです。ご意見があればぜひお寄せいただきたいと思います。
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by ammolitering4 | 2015-04-23 13:07 | 「英知による放棄」 | Comments(5)

道草をする日

自然農ダースひっきいさん、コメントありがとうございます。正教会の賛美歌もいろいろあって面白いですよ。これはロシアの男声のもので、とても低いバッソプロフンドと言われるものです。女声もいいし、ギリシアやセルビアなど他の地域の賛美歌もそれぞれに特徴があって良いものです。



翻訳と関係ないついでに、こちらも紛れ込ませようと思います。お友達でファンシーラットというペットを飼っている人がいて、要するに大きなネズミなのですが、とにかく溺愛していました。わざわざ特別なケージを輸入するわ、オーガニックの季節の野菜を与えるわ、という扱いです。それも栄養のバランスを考えて選び、年とって弱ったら裏ごししてあげます。彼らはオーガニックの山羊のヨーグルトなんてのも食べていたのです。誕生日には高級食材店で買ったクレムブリュレが与えられたこともありましたが、これはネズミにかこつけて飼い主が食べたかったのだと思います。

ネズミでもやっぱり病気になりますが、その内容は人間とあんまり変らないようで、癌とか心臓病とかリュウマチとか、お馴染みの病名が並びます。ネズミは特に腫瘍ができやすいらしく、脳腫瘍になることも多いそうです。そうなるとやっぱり脳外科手術になりますが、あの大きさの脳外科手術をこなせる人がこの世に存在するのだと思うと、やっぱり世界は広い、と思ってしまいます。まあ、中国あたりには毛髪にお経を彫ったりする人がいるそうですから、それに比べればネズミの脳外科手術とかバイパス手術とかは大したことないのかもしれませんね。ネズミの医療は保険が利かないので、飼い主は自分の食費を削ってネズミの医療費を捻出していました。

この家のネズミたちは食生活と医療だけでなく、住環境その他も恵まれていました。定期的にお風呂に入れてもらってましたが、それもヒマラヤの塩とオーガニックレモンの入った特別なスパだったりしていました。物質世界に生まれついた生命体というところは同じでも、実験動物としてひどい目に遭わされたり、害獣として駆除されたり、そうかと思うとこうしてあらん限りの愛情を注がれたりします。人間の形を取っても、このネズミたちよりはるかに劣悪な人生を送る人は数限りなくいます。

先日、とうとう最後のラットが大往生したので、飼い主のためにラットたちの肖像画を描きました。肖像画と言ってもご覧のように簡単に描いた漫画のようなものですけれど、思い出のよすがになればと思っています。
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こっちはしばらく前に一応ちゃんと頑張って描いた肖像画。人間で、ロシア系です。
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第2章の翻訳も一応できているのですが、最後の段階がまだなので、今日のところはとりあえず気持ちの赴くままに絵を載せていきます。どうぞしばらくお付き合いください。これは祖父母です。祖父は学校の先生をしていて、漢詩を詠むのが好きだったそうです。一度でいいから中国へ行きたいというのが夢だったそうですが、あいにく国交が回復したころ(1972年)には旅などできる体調にはなかったようです。お二人とも私がまだ子供の頃に亡くなったので、あまりよくは存じ上げません。敬語を使うのも変かもしれませんが、そんな感じです。
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伯母。私が子供の頃から「トクハインになれ」と言い続け、数年前に日本の田舎で亡くなりました。海外特派員とは彼女にとって現代的で自立した女性の象徴のようなものだったのでしょう。
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両親。なんでこんな絵を描くのかと怒られました。銀歯なども正直に描いたのが悪かったのか、モデルにした写真のタイミングが悪かったのか、あるいはその両方か。。。
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91歳まで生きた祖母。
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自画像。色が多少人間ばなれしているかもしれませんが、子供の頃の写真を基にしたものです。
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自画像3バージョン。机の上に置いたガラスに写った顔をマジックでなぞり、さっさと適当に仕上げたものです。
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自画像半分半分バージョン。写真を半分に切って下絵にしました。
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自画像目だけバージョン。漫画風に仕上がりました。私の眉毛はこんなに濃くはないのに、やたらとがっしりと仕上がりました。ガラス絵というのは修正が効かないのが難点です。
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自画像写実バージョン。もう10年近く前になるでしょうか。
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自画像お稚児さんバージョン。
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これも一種の自画像でしょうか。恐ろしげなお化粧をして写真を加工してみました。
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祖父。国鉄でSLを運転していました。
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同じく祖父母。人間でもネズミでもそのうちに死んでしまいますが、若くて元気で動いていたことがあるのだなと改めて思います。
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その他にもお世話になった方々など人物画はけっこうたくさん描きました。お亡くなりになったときに頼まれることもあります。人物を描くのはやっぱりどこか気持ちに強く影響するものです。それは動物でも同じことで、これは18年飼っていた犬です。
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カナダから日本に連れて行った猫は、、、
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かわいそうに、ノミだらけになりました。
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これも飼っていた猫。太く短く、大量のエサを食べて11年生きました。そのうちにまた他の絵も無理やりお目にかけようと思います。翻訳は今週中に第2章をお届けしたいと思っています。
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by ammolitering4 | 2015-04-21 14:00 | Comments(5)

第3部 第1章

第3部 ジニャーナ・カター 霊的な科学に関する主題(Topics of Spiritual Science)

第1章 物質的な存在の炎を消す

(サンスクリット引用)

「何百万もの(many millions upon millions)誕生の後で、完全な知識をすべて身につけたとき(complete in absolute knowledge)、人はそれでも(still)解放を得ないかもしれません。それなのに(yet)この男(man)は、単に聖なる御名を一見すること(glimpse、ちらりと見ること)の目覚め
(awakening)によって人はそれを得るだろう(may)、と言います。」(訳注:原文は長い一文。「~を一見することの目覚め」というのは、ちらりとでも触れること、というような意味と思われる。)

第1段落
シュリーラ・ラグーナーター・ダーサ・ゴスヴァーミーの父親と叔父(訳注:または伯父)---それぞれヒラニャ・マジュムダラとゴヴァルダーナ・マジュムダラ---は、サプラグラーマの太古の村チャーンダプラの大地主でした。

彼らの雇い人の一人、ブラーマナの生まれのゴパーラ・チャクラヴァルティーという名前の者は、聖典に関する討論において偉大なヴァイシュナヴァの聖人シュリーラ・ハリダーサ・タークラとしのぎを削りました(to lock、かぎを掛けて動けなくするようにがっちりと取っ組み合う様子)。

そのブラーマナは全くの(sheer)経験主義者で、そしてヴァイシュナヴァの聖人は、神、クリシュナの聖なる御名を唱えることに関する完全な権威者でした。ブラーマナはシュリーラ・ハリダーサに、悟り(realization、認識)のどの段階で解放が得られるのかと尋ねました。

聖典(訳注:複数)から多くの適切な節を引用しながら、シュリーラ・ハリダーサは、ちょうど、夜明けの最初の光で(at、~のときに、~と共に)泥棒、幽霊、そしてお化け(hobgoblins、悪さをする小さな妖怪)などの夜行性の生物(creatures)への恐怖が消える(to evaporate、蒸発)ように、純粋な唱名(chanting)のはるか前に訪れる、ナーマ・アーバーサと呼ばれる、聖なる御名を唱えることの最初の
(clearing、物事が始まる前に障害物を取り除く様子。「露払い」と似たような意味)段階において、すべての罪と無礼が消され、解放が得られる、と説明しました。

解放された、高く上げられた魂だけが主の御名を純粋に唱えることができ、そうして最高の悟り(realization)、至高主へのけがれない(untainted)愛を得ることができます。詭弁法(sophism)に強く執着していた推量的な哲学者のブラーマナは、聖人の教えを分かるようになる(to fathom)ことができず、そしてそのため、彼に無礼をはたらいてしまうことになりました(to end up ~ing)。

愚かなブラーマナは、聖なる御名の素晴らしさ(excellences、長所、美点)に関する自分の独自の解釈を押し付けようとし(to impose)、そしてシュリーラ・ハリダーサ・タークラは単なる感傷主義者だと結論づけました。彼は無礼にも(insolently、横柄な態度で)公衆の面前で聖人を非難し(to rebuke)、彼の解説と人格を笑いものにしようとしました(to ridicule、あざ笑う)。

第2段落
議論好きな(argumentative、理屈っぽい)非人格者たちは、まず完全真理の科学を正しく理解することなくしては人は決して(cannot possibly)至高主への堅固な献身の念を育むことはできない、ということを理解(to grasp)し損ないます。

そのため、人が純粋な献身奉仕の水準に位置しているのが見られるとき(訳注:~していれば)、彼の無明は滅ぼされたと理解されます(it is to be understood、やや格式ばった表現)。

私たちはこの点を先の随筆(essay)「献身の科学」(訳注:第2部のこと)において少し詳しく(in some detail)論じました。経験主義的な哲学者は一般に、人間の人生は完全な知識を得るためにあるという考えを唱えます(to put forward)。

彼らにとって、知識とは現実と幻想を見分ける(to discern ~ from ~)能力を意味します。幻想を根こそぎにし(to eradicate、撲滅)、真理と現実はブラーマンと異なるものではない(nondifferent)ということを確立することによって、彼らはブラーマンの存在に同化することを欲します。

それならこれが、彼らが何度も生まれ変わって(birth after birth)得ようとする(to aspire to attain)完全な知識の、彼らの(訳注:彼らによる)定義です。彼らは、知る者、知識、そして知識の対象が一つの存在(entity)になるとき知識の最高の段階に至る(~ is reached)、そしてその一つの存在はついにはブラーマンに同化して解放を得る、と宣言します(When ~ become one entity, which is then finally merges into Brahman, attaining liberation)。

主チャイタンニャは解放のこの段階をバーヴァ・マハーダーヴァーグニ・ニルヴァーパナム、「物質的な存在の炎を消す」と描写なさいました。主は、純粋な献身者は神の聖なる御名を唱えることによって簡単に解放のこの段階に至る、ということを証明する多くの節を、明かされた聖典から引用なさいました。

第3段落
不幸にして、頑固な非人格主義者は、ヴェーダの4つの目的(宗教的な熱意(religiosity)、経済的な発展、感覚の満足、そして解放)さえも超えた最終的な霊的な目的地(destination)は、至高神への完全に純粋で超越的な愛だ、ということを理解することができません。

彼らは誤って、主の献身者を感傷主義者だと考え(to mistake ~ for ~)、彼らを自分たちの哲学的な敵対者(opponents)と見なします。これらの全くの(out-and-out、純然たる、徹底した)非人格主義者の他に、純粋な献身の道から逸れて見せかけ(pretension、気取ってもったいぶった様子)に陥った(to fall prey to~、犠牲になった)一群の献身者たちがいます。

これらのペテン師(cheaters、ずるいことをする人、騙す人)は実際は、至高主と同化しようとする非人格主義者の道を辿ることになります(to end up)。そのような物質主義的な感傷主義者は、主の献身者のうちに数えられません。

彼らの非人格主義者の片割れ(counterparts、互いに良く似て対をなすもの)のように(Like their impersonalist counterparts、この場合は「似たもの同士である~と同様に」というような意味)、彼らは至高主の御名、形、性質、娯楽、仲間、あるいは主に関する諸々の本当の立場を理解することができません。

なぜなら、彼らは誤って、これらの超越的な主題を幻想であると考えるからです。彼らは気まぐれに(capriciously)振る舞い、大衆を惑わせます(to confuse)。

第4段落
これらの物質主義的な感傷主義者はシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの霊的な結論を退け、非人格主義の庇護の下に入ろうとします(訳注:~主義を奉じようとする)。しかし彼らは惨めにも、非人格主義者の学識と修養(discipline、訓練、修行、規律)に欠けています。

彼らは、聖典に関する議論を無味乾燥な推量であると、そして自分たちの無知で感傷的な感情の爆発(outburst)を自然に起こる(spontaneous、思わず何かをしてしまう様子)献身の情熱(fervor、取り乱すほど激烈な様子)であると見なして、自らを非人格主義者の聖典の学習と哲学的な議論から切り離します(to divorce、この場合は「怠る」と同義と思われる)。

第5段落
これらの偽者(pretenders、何かの振りをする人)の一部は、非人格主義者の足跡を非常に近く辿り(訳注:非常によく似ている、真似している)、そしてそのため、非人格主義者の系統(line)の狂った(deranged)分家(offshoot、横枝)として受け入れられるかもしれません。

しかし、彼らは確かに、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの系統の中にいる者によって辿られる(ヴァイシュナヴァの門下(discipline、学問などの分野、修行)の一部ではありません(訳注:決して~の流れを汲む~の一員ではありません)。

これらの偽者たちは、献身者の特定の特徴(mannerisms、「マンネリ」、固定化した特有の習慣など)をせっせと(diligently、こつこつ、勤勉に)培い、表します。そしてそのため、非人格主義者は彼らを自分たちの集団(fold、特定の信仰や思想を持つ集団)から退けます。

こうして非人格主義者とヴァイシュナヴァの両方から追放(to ostracize、排斥)され、彼らは発狂した(demented)感傷主義者の宗教集団(cult)を形成します。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、そのような偽者たちは霊的な社会に暴力(outrage、不名誉で残虐な行為、憤り)を作り出す、と宣言なさいます。ブラーマ・ヤマーラにはこう述べられています。

(サンスクリット引用)

「ウパニシャッド、プラーナ、そしてナーラダ・パンチャラートラなどの権威ある(authorized)ヴェーダ文献を無視している、主への献身奉仕は、単に社会における不必要な妨害(disturbance、騒動)です。」

そのような偽者、非人格主義者、経験主義者、そして結果を求めて働く者たちに慈悲を見せるため、至高主、クリシュナは、バガヴァッド・ギーターにおいて、ジニャーナ・ヨガ、すなわち知識を通してのヨガを論じられました。したがって私はこの随筆において、同じ主題に取り組みます(to embark upon)。

第6段落
本当の知識とは、真実と幻想の違いを見分ける(to discriminate between ~ and ~)ことを意味します。ジニャーナ・ヨガは、超魂とブラーマンの源である至高主への超越的な献身奉仕の道に、人が永遠に定まるようになる過程です(~ is the process by which one becomes ~)。

ジニャーナ・ヨガは決して、問い(enquiry、知識を得るための研究)の上行性の(ascending)過程、帰納的な(inductive、個別的な事例から一般的な法則を見出そうとする論理的推論)方法、それによって人が、徐々に本当でないもの(unreal)を退けることによって現実を幻想から離すことだけを目的とする、ということを意味すると解釈されるべきではありません。

(訳注:ジニャーナ・ヨガは決して、身近な事例から類推して高い真理を導きだそうという方法ではなく、そうすることによって徐々に現実から幻想を拭い去ることだけを目的としているのでもなく、誤解のないようにしなければなりません。)

すべての富と力に満ち、その身体的な輝き(luster)はブラーマンの光輝であり、そしてその部分的な拡張体が超魂でいらっしゃる至高主に奉仕をすることなくして、完全な知識を得るのは不可能です。

ゴパーラ・チャクラヴァルティーというこのブラーマナは(the brahmana Gopala Cakravarti)、ジニャーナ、完璧な知識は、主への献身奉仕よりもはるかに優れていると信じていました。しかし、チャイタンニャ・チャリタームリタ(アンテャ3.201)には、次のように記録されています。

(サンスクリット引用)

「バララーマ・アーチャーリャという名前の僧(priest)が、ゴパーラ・チャクラヴァルティーを叱責しました(to chastise)。『あなたは愚かな論理学者(logician)です』と彼は言いました。『あなたは主への献身奉仕について何を知っているのですか?』」

第7段落
もしも人が主の献身者である振りをし、しかし無味乾燥で推量的な知識と、至高の完全真理に関する(of)知識の間の違いを理解しないなら、それならそのような人の献身の念は非人格主義すれすれであり(to border on ~)、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの霊的な教えに完全に反している安っぽい感傷主義と同格です(to rank with)。

したがって、ジニャーナ・ヨガは推量や経験主義的な研究ではありません。また、それは献身者の振りをしている成り上がり者(upstarts、横柄で傲慢な人)の唐突な感情の爆発(outbursts)でもありません。本物のジニャーナ・ヨガを実践することによって、経験主義的な哲学者さえ、聖典から純粋に霊的な話題を聞くことへの好みを育みます。

やがて彼は至高主の超越的な立場と力を理解するようになり、そして究極的には彼は、永遠であり、知識と喜びに満ちた主のお姿(form)を喜ぶ(to relish、味わう)ようになります。彼は主をすべての超越的な味わい(mellows)の体現として知覚します。

そして、経験主義者の真似をするのを好む、見せ掛けの(pretentious)非献身者の感傷主義者たち(訳注:非献身者であり、見かけを取り繕うばかりの感傷主義者たち)が本当のジニャーナ・ヨガを実践するなら、それなら彼らも完全真理に関する正確な認識(perspective、見方)を得るでしょう。

彼らは、至高主の形は霊的で超越的であるという理解において堅固に確立するようになり、そしてそのとき彼らは断固たる(unflinching、ひるまない)献身奉仕を捧げ始めるでしょう。

第8段落
チャイタンニャ・チャリタームリタ(アーディ2.117)においてシュリーラ・クリシュナダーサ・カヴィラージャが次のように助言なさいます。

(サンスクリット引用)

「真摯な学徒は、それらは議論の余地がある(controversial、諸説ある、物議をかもす)と考えて、そのような(聖典の)結論に関する議論をないがしろにすべきではありません。なぜなら、そのような議論は心を強めるからです。こうして人の心はシュリー・クリシュナに執着するようになります。」

そのような議論と問いを通して、私たちは自分はジーヴァ、個々の魂であり、その上において(upon which)自分の体と心は一時的で幻想的な重荷(imposition、不必要な負担)であるということに気づくようになります。

聖典は、主の優性で霊的なエネルギーの産物であるジーヴァを指して、クシャトラ・ジニャ、すなわち「場を知る者」と呼びますが、他方で聖典は一時的で物質的な体と心をクシェトラ、すなわち場と呼びます。

ちょうどジーヴァが彼の個々の体と心との関係においてクシェトラ・ジニャであるように、主はご自分の広大な普遍的な形(His vast universal form)との関係においてクシェトラ・ジニャです。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(13.3)において次のように教えられます。

(サンスクリット引用)

「おお、バーラタの御曹司(scion)よ、あなたは私がすべての体における知る者であると理解すべきです。」

第9段落
したがって、ジーヴァと至高主は、どちらもクシェトラ・ジニャ、「場を知る者」であるという点では(in the sense that ~)異なるものではありません。しかし、彼らのそれぞれがどのクシェトラを知っている(is knowing)かを見るとき、ジーヴァと至高主の間の違いは計り知れないほど(incalculably)大きい(wide)ように見えます(to be seen to be)。

至高主は無限大(infinite)であり、他方でジーヴァは微小(infinitesimal)です。意識として、ジーヴァは自分のカルマ、すなわち結果を求める活動によって(due to、~が原因で)得た自分の体と心に広がります(to pervade、充満、浸透)。

同様に、至高主はご自分の意識で創造全体---主の普遍的な体---に広がります。ジーヴァは自分の体に非人格的な意識として広がります(to permeate、充満、浸透)が、彼はいつも人格(a person)です。

同様に、ご自分の非人格的なあまねく広がる(all-pervasive)特徴において、至高主はご自分の意識で宇宙の顕現を満たされますが、ご自分の個人的な特徴において、主は永遠にゴロカ・ヴリンダーヴァナに留まり、娯楽をなさいます(performing)。

この点はブラーマ・サムヒター(5.37)によって実証されています(to substantiate)。(サンスクリット引用)「いつもゴロカと呼ばれるご自分のお住まいに住んでいらっしゃいますが、主はあまねく広がるブラーマンであり、局所的なパラマートマーでもいらっしゃいます。」

そして、バガヴァッド・ギーターにおいて主ご自身が場と場を知る者の機能(functions、役割)を説明なさり、そして主は、ご自分が知る者として創造全体に存在している、とおっしゃいます。

第10段落
無味乾燥な推量者は、場とそれを知る者を自分の偏った(lopsided)論理に応じて描写します。彼らは、体は容器のようなものであり、ブラーマンはあまねく広がる空のように、この容器に入ります。いったんこの容器が壊れると---というのは、解放のとき---ジーヴァは空によって象徴されるブラーマンに戻って同化します(to merge back into)。

この議論には多くの逃げ道(loopholes、抜け穴、義務などを逃れるためのあいまいさ)があります。何よりもまず、ジーヴァは霊的なエネルギーであり、他方で空は物体です。霊的な主題(subject)を物質的な主題と比べるのは間違っています。

これは、霊的な実体(substance)を俗的なものと同列に並べ(to equate)ようとして、非人格的な推量者がどのように自分の時間を無駄にするかということの典型的な例です。そのような経験主義的な実践(exercises)は、決してジニャーナ・ヨガ、完璧な知識への(of)道とは呼ばれ得ません(to be termed)。

非人格主義者によれば、微小なジーヴァは解放のときに無限大のブラーマンに同化します。しかし、そのような同化は無限大の存在(the infinite)にどのような影響も与えません。不幸にして、非人格主義者たちはそのような解放が微小な生命体に引き起こす途方もない(tremendous)打撃に気づいていません(oblivious)。
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お待たせしました。第3部の始まりです。実はこのあと第5部まであるのです。それにしても、イソップ物語のコウモリのようなどっちつかずの熱狂的な人々は、もうどうあっても救われませんね。いったいどんな人たちなのだろう、数十年前のインドの宗教事情はけっこう恐ろしげだな、と思います。今もあんまり変わらないのかな。

それから、文章の小難しいことと言ったらありませんね、ほんと。特にこのへんとかはひどいです。「彼らにとって、知識とは現実と幻想を見分ける能力を意味します。幻想を根こそぎにし、真理と現実はブラーマンと異なるものではないということを確立することによって、彼らはブラーマンの存在に同化することを欲します。それならこれが、彼らが何度も生まれ変わって得ようとする完全な知識の、彼らの定義です。彼らは、知る者、知識、そして知識の対象が一つの存在になるとき知識の最高の段階に至る、そしてその一つの存在はついにはブラーマンに同化して解放を得る、と宣言します」。。。

なんのこっちゃ、と思います。平たく言えば何なのだ、一体何が言いたいのだ!?という気になりますが、これはおそらくインド人のもともとの理屈っぽさと言葉数の多さに加え、プラブパーダの古風な原文と翻訳者の古風な英語が組み合わさった結果なのだと思います。腰をすえてよーく読めばどことなく意味が通じることと思いますので、どうぞ皆様努力して読解し、心の中で平易な日本語に直しながら読んでくださいませ。
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by ammolitering4 | 2015-04-09 04:28 | 「英知による放棄」 | Comments(0)