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傘に模様を描いています

皆様こんにちは。お元気でいらっしゃいますか?私はおかげさまで元気に怠けており、翻訳はいつもながらのんびりペースで進んでいます。ここ数日は家にこもる時間が長かったので、絵を描いていました。ガラス絵ではなく、傘に表から普通に描いています。面白いもので、もちろん今でもガラス絵は好きなのですが、およそ20年続いた執着とも言える熱意は最近ではすっかり影をひそめていて、そもそもビジュアルなものへの関心そのものも収まってきたような気がします。ろくにスケッチもできないくせに一時期はガラス絵でプロの絵描きを気取っていたことも、今となっては気恥ずかしい思い出です。

傘にはこれまでも何度か描いたことがありますが、けっこう大変です。腰が痛くなるし、それに私は布に描くのはあまり好きではないのです。それじゃあなぜ描く?誰にも頼まれてないし、一文にもならないではないか?と理性は問うのですが、答えはないのです。なんででしょうね。デザインはある程度決めてから描き始めましたが、あくまである程度に過ぎず、いったん描き始めるとどんどん変っていって、結局は行きあたりばったりになります。この傘も既にしっかりとその穴にはまってしまい、これからどうなるか見当もつきません。
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これを描きながら、前世瞑想のオーディオを聞いてみたり、、、




真言を聞いたり、、、


もちろんハレ・クリシュナのマントラを聞いたりしています。これは最後がぶちっと切れてるのが残念ですが、とてもいいです。皆様のマントラコレクションにぜひどうぞ。


前世のは、作業をしながら聞いてるのでちゃんと瞑想しているわけではないのですが、それでもなんとなく脳裏にイメージが途切れ途切れに浮かびます。思いも寄らないような情景が現れるので面白いです。何度かやってみたら、中庭があるような立派なおうちに住んでいる淋しい女の子とか、ハワイのようなところに住んでいる男の子とか、いろいろ浮かびました。女の子のときは家に使用人がいたりして裕福だったようですが、病弱だったようです。外から聞こえてくる子供たちの遊ぶ声がとてもうらやましく感じられました。空襲で家が壊れた情景も見えました。

ハワイのでは幸せそうで、家の窓にガラスがなくて、畑仕事の手伝いをしていました。妹が籠に入っていて、まだ赤ちゃんです。畑仕事に連れてきて、近くに置いてあります。この妹が死んで悲しかった情景も浮かびました。台風が来た様子もちらっと浮かびました。

そのほかにも、恋人を置いて戦争に行く若者だったり、足が悪くて物乞いをしていて凍え死んだ子供だったり、どうもあんまり長生きしているのはないようです。兵士であるらしいのでは、すごく寒くて、駅舎のようなのに入って仲間と一緒に黙りこくってストーブで暖をとっているところとか、楽しげに小屋の修理をしているところとか、線路の近くで撃たれて死んだところとかが浮かびました。夢で浮かんだのもあります。

こういうのって、どこまでが妄想でどこまでが記憶なのでしょうね。どっちにしても絵を描いているときに嫌な雑念がぐるぐる回るのを多少抑えてくれるのでありがたいですし、リラックス効果もあるようですから楽しんで聞いています。
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by ammolitering4 | 2015-03-30 14:15 | Comments(3)

第13章

第13章 すべての完成はバークティ・ヨガから来る

第1段落
何であれ存在しているもの---顕現しているもの、あるいは顕現していないもの、物質的なもの、あるいは霊的なもの---は、一つの最初の(primary)源を持っています。至高主クリシュナです。主は太古の(primeval)、至高の統御者、すべての原因の原因、すべての主の主です。

心臓の中の超魂として、主は超越的に位置する献身者のすべての活動を促します(to inspire、人に何かをする気持ちにさせる)。完全存在に関する本当の知識を持っている者は、従者、友人などの気持ち(mood、気分、雰囲気)で主クリシュナに奉仕をすることができます。

彼らの心はいつも主クリシュナに関する考えに夢中になっており、そして彼らは主の永遠の、超越的な娯楽を知覚して味わうことを切望します(to yearn)。

第2段落
至高主の恵みによって、これらの純粋な献身者たちは主の親密な崇拝(His intimate worship、主を親密に崇拝すること)の神秘を解明する(to unravel、もつれたものをほどく)ことができます。すると、自分たちの主への愛によって(due to、~が原因で)、彼らは主の御名、形、性質、娯楽、仲間、そしてその他諸々の主に関わるものの栄光を聞いたり唱えたりすること無くして自分の暮らしを維持することを困難に感じます。(訳注:~無しでは生きられないようになる)

彼らは心を同じくする(like-minded)献身者との関わりを捜し求め、そして彼らと共に献身の蜜の海に飛び込みます。霊的な自己認識に位置しているので、彼らは霊的な交換(exchange、この場合は他の献身者との関わり)を味わい、主クリシュナの超越的な娯楽の(of、~という、~に関する)完全に縁起の良い話題を聞き、論じ、そして思い出し、そうして九重の献身の過程を実践します。

第3段落
彼らはこの九重の献身奉仕をサーダーナ、すなわち実践の段階において遂行し、そして完成した、すなわちスィッダーの段階において深い満足を感じます。彼らは従者や友人などとしての(servitorship, friendship and so on)超越的で霊的な味わい(mellows )で満たされるようになり(to be saturated、飽和)、そこから神聖な恍惚感を得ます。

(訳注:mellows、一般的な用法ではない。本来は果物などが「円熟した」という意味の形容詞だが、プラブパーダは「円熟した甘く穏やかな関係、およびその味わい」という意味の名詞として使われる。)

主クリシュナは、絶え間ない献身奉仕を通して霊的な満足と神聖な喜びを経験する献身者に、本物の超越的な理解、ブッディー・ヨガを授けます。徐々に彼らの特定の献身の態度(attitude、気持ち、姿勢)は、彼らが神への純粋な愛(pure love of God)を味わうことができるところ(point、地点)まで増します。

(訳注:それによって徐々に献身の念が高まり、彼らは神への純粋な愛を味わうことができるようになります。)

第4段落
バーカ、すなわち恍惚における自発的な(spontaneous、自然に起こる)献身奉仕の段階において、主クリシュナと主の純粋な献身者の間には、関係性の甘い味わい(mellows)の直接的で超越的な交換があります(訳注:~の間では、超越的で円熟した関係の甘い味わいが直接取り交わされます。)

至高主ご自身がご自分の献身者にブッディー・ヨガ、すなわち霊的な知性をお与えになり、そして献身者はその知性をもって活動し、徐々に主の至高のお住まいに近づくまで主に奉仕します。そのような献身者は決して無明によって影響されません。

第5段落
非人格主義者と経験主義的な哲学者は、主の純粋な献身者を感傷的な愚か者と考え、そしてそのため、彼らは献身者をあざ笑います。これは大変な無礼(offense、侮辱)です。そのような無礼は、非人格主義者と偽の(pseudo-)献身者がゆっくりと悪魔的になるようにします(to cause、原因となる)。(訳注:そのような無礼を犯していると、~はだんだん~になっていきます。)

良い感覚と安定した心を失って、彼らは徐々に至高主への敵意(animosity、反感、憎しみ)を育み、自分の人生でのすべての努力(all their life's endeavor)が苦しみと無益さ(futility)に引き下げられる(to be reduced)のに気づきます。(訳注:彼らが人生で為す努力のすべてが苦しみと徒労に終わることになります。)

これらの惑わされた悪魔的な非人格主義者が純粋な献身者に触れて(to come in contact with)、彼の慈悲によって自分の失われた洞察(insight)を取り戻すなら、それなら彼は、自分が侮辱した純粋な献身者は主クリシュナと霊的な味わいを交換しており、そしてそのため永遠に無明と幻想から自由である、ということを理解し始めることができます。

非人格主義者は、超魂として内から活動している至高主は献身者の心からすべての無明を取り除く、ということを理解しなければなりません。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(10.11)において次のように述べられます。

(サンスクリット引用)

「彼らに特別の慈悲を見せるために、私は、彼らの心臓の中に住みながら(I, dwelling in their hearts,)、無明から生まれる暗闇を知識の輝く明り(lamp、光明)をもって滅ぼします。」

第6段落
無味乾燥で推量的な哲学者たちは、どうか一つの要点に留意してください(may kindly note one point)。「テシャーム」という単語を使うことによって、主クリシュナはご自分がいつも、(ご自分に)服従した献身者に慈悲深い、と公けに宣言なさいます。

主がご自分を超魂として拡張してすべての者の心臓にお入りになる理由は、経験主義的な哲学者とヨギーを祝福するためではなく、献身者を内から祝福するためです。もしも至高主ご自身が献身者を霊的な知識で啓蒙して彼らを徐々にご自分に近づけたい(to draw ~ closer to ~)と望まれるなら、それなら、そのような献身者が一度でも(ever)無知(nescience、正しい信仰を知らない状態)の魔力(spell)の下に来ることがあり得るでしょうか?(what question is there~?)(訳注:~なら、献身者が無知の闇に陥るということは決してあり得ません)

むしろ、経験主義的な哲学者が自分自身の知性(intellect)の力によって至高の真理に近づこうとすることが、無知だけによるものです(out of nescience only)(訳注:無知そのもの、というような意味合い)。私たちは、至高主はご自分の身体から放射する霊的な光輝で無明の闇を消す(to dissipate)ことがおできになるのを知っています。

経験主義者(empiricists)も同じことをすることができますか?人は、自分自身の努力によってはけっして無知の闇(gloom)を取り除く(to lift)ことができません。無神論者カピラのような経験主義者は、自分自身の努力によって悟り(enlightenment)に至ることができないので、完全真理を不可知であり非顕現であるとして言いくるめ(to explain away、ごまかしやこじつけで言い逃れる)ようとすることに大きな安堵を感じます。(訳注:~だと言って切り捨てて安心してしまっています)

しかし、主クリシュナがバガヴァッド・ギーター(12.5)において確認なさるように、非顕現なる完全存在という理論に執着したこれらの無味乾燥な推量者たちに大変な苦しみが降りかかります(to befall)。

「その心が至高存在の非顕現にして非人格的な特徴に執着している者にとって、発達は大変困難です。その道(discipline、修行法、分野)において発達することは、身体に閉じ込められた(embodied、身体という形態を持った)者にとっていつも困難です。」

第7段落
一元論者(monist)が行う苦行は、実践(サーダーナ)の最初の段階の間も、完成に達したとされるときも、苦しみを伴います(painful)。非人格主義者は、推量的な理論を通して物体と霊の一体性を確証しよう(to establish)として、大変な(excruciating、耐え難い、激しい苦痛)痛みに苦しみます。

ブラーマンは無力(impotent、無能、男性の性的能力がない)であると考え、詭弁(sophistry)を通して、彼らは主の劣性な物質エネルギーと主の優性な霊的エネルギーを同等に並べようとし(to equate)、こうして本当に学識のある層(circles、職業などの仲間、この場合は知識層)からあざけり(ridicule)を受けます(to reap、報いを受ける)。

完全真理は無限のエネルギーを持った至高の人格神ではあり得ないと証明しようとして、彼らは、これは「不変の(immutable)ブラーマンは実際は変り得る(mutable)」ということを意味するだろう(this would mean、この場合のwould は可能性や推量を表す)、と論じます(訳注:原文は括弧無し)。

こうして彼らの理論はすべての結合力(cohesion、まとまり)を失い、彼らは笑いものになります。パリナーマ・ヴァーダ、すなわち「エネルギーの変容」という確立した理論を論破(to refute)しようとして、シュリーラ・ヴャーサデヴァが「物質宇宙と生命体はすべて主のエネルギーの変容であり、したがって偽り(false、非実在、仮)ではなく本物(real、実在、実存)だ」とおっしゃるとき、間違っているとして彼ら(一元論者)は彼を非難します(訳注:原文は括弧無し)。

そのため、(彼らの)哲学的な議論において、一元論者はすべてのヴェーダの聖典とそれらの必然的な結果(corollaries、ある命題から自然に導かれる結論)の主な意味(purport)と真髄を退け、「タット・トヴァム・アスィ」、「あなたはそれである」などの非本質的な(nonessential)教え(injunctions、命令)にしがみつきます(to hang on to、固執)。

彼らはこれらの副次的な要点(subpoints)を論じる(to deliberate)ことを好みますが、学識のあるヴァイシュナヴァの議論に直面すると(to be confronted with)、彼らは背を向けて戦線(battlefront)から逃げます(to run from)。

第8段落
至高主は超越的な人格(personality。名士)であると理解することなく、一元論者は、究極的でもともとの完全真理としての主の非人格的な側面を瞑想し、自分の感覚を制御する(to restrain、抑制)という無益で非常に(grossly、悪いことを強調する様子)俗的な試みをします。

溢れている川をせき止めることが不可能であるように、非人格的なブラーマンを瞑想することによって感覚を統御することは不可能です。偉大な聖人サナット・クマーラはシュリマッド・バーガヴァタム(4.22.39)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「主の蓮の御足の指への奉仕にいつもいそしんでいる献身者は、結果を求める活動への強い(hard-knotted、結び目が固い)欲望を簡単に克服することができます。これは大変難しいので、感覚の満足の波を止めようとしているにも関わらず、非献身者---ジニャーニーとヨギー---は、そうすることができません。

したがって、あなたはクリシュナ、ヴァスデヴァの息子への献身奉仕に携わることを助言されます(訳注:~するのが良いでしょう)。」

第9段落
主ヴィシュヌの非人格的な側面はブラーマンとして知られます。そのため、ジーヴァ魂、すなわち主ヴィシュヌの優性で霊的なエネルギーがブラーマンと融合することによってサーユジャ・ムクティ、すなわち解放を得るとき、それは全く驚くべきことではありません。

エネルギー的な原則はいつも、それ自身の中に主ご自身のエネルギーを抱える(to enfold、包む、巻き込む)という特権(prerogative)を楽しみますが、それはエネルギーの永遠の個人性(individuality)を滅ぼしません。(訳注:エネルギー的な原則(魂)はいつも主ご自身のエネルギーを内包していますが、それは~滅ぼすものではありません)

ブラーマンと融合することを欲し、それが実現可能(feasible)であると知っている非人格主義者は、それでも、ブラーマーナンダ、「ブラーマンの喜び」に至るための努力において、激しい苦しみを経験します。主の献身者たちは、そのような解放の喜びを地獄よりも悪いと考えます。

非人格主義者は、物質的な形の中に内在する(inherent、固有の、つきものの)幻想を滅ぼそうとして、永遠の霊的な形さえ取り除きます(to do away with、終わらせる、殺す)。それは本当に、大変愚かです。病を癒すために患者を治療するのは一つのあり方(one thing)ですが、病と共に患者(の命)を終わらせるのは馬鹿者の仕業(work)です。(~するために、~ではなく~をするのは、愚か者のすることです)

そのため私たちは、シュリマッド・バーガヴァタム(10.14.4)の中に偉大な権威者ブラーマーからのこの教えを持っています(そのため、~は~において、このように教えられます。)

(サンスクリット引用)

「我が親愛なる主よ、あなたへの献身奉仕は自己認識のための最良の道です。もしも人がその道を放棄して推量的な知識を培うことにいそしむなら、彼らは単に困難な過程を辿り(to undergo、変化を経験する、困難を耐え忍ぶ)、自分の望む結果を得られないでしょう。

空の麦の殻を叩く者が実(grain、穀物)を得ることができないように、単に推量するだけの者(who simply speculates)は自己認識に至ることができません。彼の唯一の得るものは苦しみ(trouble、困難、悩み)です。(訳注:彼が得るのは苦しみだけです)」

第10段落
非人格主義者になって不運と悲惨さを招く代わりに、献身者は主クリシュナに服従し、この世界において決して苦しみません。現在の体を去るとき、彼は物質的な水準を超越し、主の永遠の娯楽に参加することができるようになります(to become eligible、資格を得る)。

超魂として、主クリシュナは心臓の中から献身者を啓蒙し、無明の闇を散らされます(to disperse)。主は献身者に、ご自分に至るための霊的な知性をお与えになります。無知の海は横切るのが大変困難ですが、献身者がそれを横切ろうとするとき、主ご自身が助けるために手助けなさいます(to intervene、介入)。

一人では献身者は必ず溺れますが、主の助けがあれば(with)彼は簡単に横切ります。このように、主の庇護の下に入ることは物質的な存在の海を乗り越える(to surmount)ための最も確実な方法です。主はバガヴァッド・ギーター(12.6-7)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「しかし、すべての活動を私に捧げ(giving up ~ onto Me)、逸れることなく私に献身的であり、献身奉仕に携わり、いつも私を瞑想し、心を私に定めて私を崇拝する者---おお、プリターの息子よ、彼らにとって私は生と死の海からのすばやい救済者(swift deliverer)です。」

第11段落
主クリシュナに服従する者、至高主の人格的な形に(自分の)断固たる(unflinching、to flinchは「ひるむ、たじろぐ」など)信仰を寄せる(to repose)者は、他のすべてのものと共に、自分の精神的(mental)および身体的な活動を主に捧げます。

経験的な知識への欲望、結果を求める活動、あるいは厳しい苦行によって邪魔されない(unencumbered)純粋で一途な献身の念を持って、彼らは笛を吹いておられる主クリシュナの永遠の、美しい、二本の腕を持ったお姿を崇拝し、瞑想します。

そのような純粋な献身者は、心(hearts)がクリシュナへの愛で満たされ、主クリシュナが自ら(personally)彼らをお助けになるので、すばやく、そして簡単に、物質的な存在の循環を超越します。慈悲深い神は、(彼の)献身の程度に応じて一人ひとりに報いを与える(to reciprocate with each one)と約束なさいます。

第12段落
非人格主義者は、至高存在は非人格的であり、最終的な目的はそのブラーマンの存在と融合することであるという考えに取り付かれています(to be obsessed with、夢中になる、思い込む)。もちろん(naturally)、主は反対なさいません(to object)。

もしも患者が自分の人生を終えることによって自分の病を終わらせたがるなら、彼の他に誰が苦しむでしょうか?もっと知性的な人はもちろん(surely)自分の命を終わらせることなく自分の病を癒したいと思うでしょう。

そして、そのためにも(to that end)、彼は自分のもともとの健康を取り戻そうと努力するでしょう(to strive)。同様に、物質的な病に侵された魂は、(自分の)個々の自己認識を滅ぼすことなく、自分の純粋な、もともとの状態に戻ろうと欲すべきです。

主クリシュナはそのような人々を神と一つになろうとするという悪魔的な考え(conception、構想)の顎(jaws、この場合は「噛み付いて離れない危険なもの、呪縛」)から救います。霊魂にとって、自分の本来の(inherent、内在)個別性(individuality)を失おうとするのは自殺行為(suicidal)です。

物質的な存在の呪縛(knots、結び目)から自分自身を解放する(to disentangle、もつれていたものをほどく)ことによって非人格主義者が感じる幸せは、献身奉仕の副産物として、主の献身者には自動的に得られます(available)。ナーラディーヤ・プラーナにはこう述べられています。

「人は、結果を求める活動にいそしんだり、精神的な推量によって知識を培ったりすべきではありません。至高主、ナーラーヤナに献身的な者は、ヨガ、精神的な推量、儀式、犠牲、そして慈善などの他の過程から得られる(to be derived)すべての利益を得ることができます。それが献身奉仕の特定の恩恵(benediction、祝福)です。」

第13段落
そしてクリシュナ・カルナームリタ(107)において、ビルヴァマンガラ・タークラがこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、主よ。もしもあなたへの私たちの献身が逸れないなら、それならあなたの永遠に若々しいお姿が私たちの心の中に自然に(spontaneously)現れるでしょう。そのとき、人格化した解放が女召使(maidservant)のように私たちに奉仕をし、そして信仰心(religiosity、宗教的な熱意)、経済的な発展、そして感覚の満足(ヴェーダの外の3つの目的)は、つつしんで私たちの命令(bidding)を待つでしょう。」

(サンスクリット引用)

「人生の完成を得るための普通の必要事項(requirements)が無くても(訳注:欠けていても、満たしていなくても)、もしも彼が単にナーラーヤナの服従した献身者であるなら、人は完成を得るでしょう。」(ナーラディア・プラーニャ)
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ようやく第2部が終わりました~!!!だらだらとやってましたので、長々とお待たせして申し訳ございませんでした。あと、第3部が残っています。これも完成するのはいつになることやら分かりませんが、ぼちぼち進めますのでどうぞ最後までよろしくお付き合いください。皆様、編集のほうもどうぞよろしくお願いいたします。可能であれば原文と照らし合わせていただき、間違いや抜けがあれば修正してください。そして、読みやすい平易な日本語になって、プラブパーダのお言葉が広まればいいなと思います。まあ、広まったって猫に小判、いや、大判という場合がほとんどだと思いますが、中にはほんの一人か二人、何度も生まれ変わってこの出会いを待っていた、という方がいらっしゃると思うのです。長くも闇路を辿ってました、ろくろっ首になって待ってました、という誰かに本訳文を捧げます。
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by ammolitering4 | 2015-03-19 05:47 | 「英知による放棄」 | Comments(3)

第12章

第12章 「すべての種類の宗教を放棄して私に服従しなさい」

第1段落
いわゆる進歩的な現代の文明は、その罪が多くの生を通して蓄積している堕落した(reprobate、不道徳的、邪悪な)人間を作り出しました(訳注:「いわゆる進歩的な現代の文明が作り出した堕落した人間は、その罪が幾生にも渡って蓄積しています」)。

それでも、もしも彼らが主クリシュナに服従するなら、彼らでさえ、そのすべての罪を永遠に根こそぎにされるでしょう(to be eradicated、撲滅)。献身奉仕の過程と主クリシュナを覚えていることは、彼の心の中から徐々に、望まれない、卑しい(base)欲望を消します(to dissipate、霧が晴れるような様子)。

そして、かつて不滅の切望(yearnings、憧れ、満たされない長期的な強い欲望)を宿していたそれらの心は、完全に清められ、幸先が良くなります(auspicious、縁起が良い、吉祥、めでたい)。

第2段落
罪深い者と困窮した者(the destitute)は、主クリシュナの慈悲によってのみ、自らの過ちと不運を理解します。いったん自分の罪を悔い改め始めて(to repent for)主に服従すれば、彼らは救われます。彼らは浄化され、聖人的な性質を現し始めます(to manifest)。

そして、もしも、たとえ人が献身の過程を始めた(to take to~、習慣的に何かをし始める)あとでさえ、不滅性の痕跡(vestige)(訳注:この場合は「尽きることのない欲望の名残」)が彼の性質の中に残るなら、それもまたすぐに主の恵みによって根こそぎにされるでしょう(to be eradicated)。

決して至高主あるいは主の献身者を傷つけない(to offend、憤慨させる、機嫌を損ねる)一途な(single-minded)献身者は、聖人的な魂であると考えられます。たとえそのような聖人がまだすべての罪深い性質(propensities、傾向)を捨て去っていない(to be rid of、取り除く)ように見えても、彼は決して滅ぼされません。似たような状況にあるヨギーとカルミーも同様です。これを至高主ご自身が宣言なさいます。

第3段落
シュリマッド・バーガヴァタムの中にあるアジャーミラの救済(deliverance)の記述(account)は、この事実を決定的に(conclusively、結論的、確証的)に証明します。主クリシュナへの献身奉仕における揺るぎない(undeviating)信仰(faith)がいったん人の心を貫くと、たとえ彼の外的な活動が罪の名残(residue)を見せるかもしれないとしても、浄化の過程は確実に進んでいます(underway、進行中)。

主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.31)において、主の服従した献身者(His surrendered devotees、「ご自分に服従した献身者」)は決して打ち負かされ(to be vanquished、征服)得ないというご自分の約束を堂々と(boldly、大胆、高らかに)公言なさいました(to broadcast)。(サンスクリット引用)

主クリシュナはいつもご自分の献身者をお守りになるということが、この節において証明されています。特に、主が、約束を自ら宣言する代わりに、ご自分の代理としてそうするように勇敢な(valiant、立派な)王子アルジュナにお頼みになるからです。(訳注:「そうするように」というのは「宣言するように」という意味。)

主はご自分自身の約束を破られるかもしれませんが、主はご自分の献身者に好意的であられる(be favorable to)ので、いつも彼らの約束(訳注:この場合は彼らが他者に対してした約束)を守ろうと(to uphold)なさるでしょう。

クルクシェトラの戦場において、ご自分自身の約束を破り、ビーシュナデヴァのを守ることによって、主は疑いもなく、ご自分に服従した献身者に肩入れなさる(to favor、好意、助力、偏愛、大事にする)ことを証明なさいました。

第4段落
ブラーマナ、あるいは美、富、そして学識に恵まれた高貴な生まれの者は、献身者の中にまだ見られる堕落した習慣の排除(elimination)はアジャーミラのようなブラーマナの場合だけに起き得ると、誤った推論に基づいて(fallaciously)結論するかもしれません。

アジャーミラはブラーマナの生まれでしたが、自分の過去生からの悪い反応によって生じた罪深い活動のせいで(on account of)、彼は忌まわしい活動を始めました。しかし、人生の終わりに彼の至高主の記憶(remembrance、追憶、想起)が彼をすべての罪から放免(to absolve him of)しました(訳注:人生の終わりに至高主を思い出したことで、彼のすべての罪が許されました)。

しかし、救い(deliverance)は高い生まれの者だけでなく、すべての人にとって可能です。もともと(naturally)卑しい活動をしがちな(to be given to、~にふける)最も低い人々でさえ、もしも彼らが単に主の蓮の御足に(at)服従するなら、主クリシュナの霊的なお住まいに至ることができます。主はバガヴァッド・ギーター(9.32)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、プリターの息子よ、私の庇護の下に入る者は(to take shelter in Me)、低い生まれ---女性、ヴァイシャ(商人)、そしてシュードラ(労働者)であっても、至高の目的地に至ることができます。」

第5段落
人間のうちで最も低いものが主クリシュナに服従することによって至高の目的地に至ることができるとき、身分の高い生まれのブラーマナについては言うまでもありません(what to speak of~?、言わずもがな。直訳すると「何をか言わんや?」に近いですが、これは「言葉もない」、「呆れてものが言えない」というような意味らしく、どうやら少し違っているようです)。

至高主への献身奉仕の道を辿る者は、カーストと色(訳注:肌の色など)の差別によって悩まされる(to be hounded、猟犬に追い回されるようにしつこく攻撃される様子)ことがありません。一神教(monotheism)---一つの宗教と一つの信条(creed)---は、主クリシュナの蓮の御足の庇護の下でのみ可能で、他のどの方法によってでもありません(and not in any other way)。

第6段落
幻想の力、マーヤーは、常に現在の争い(Quarrel、口げんか、いさかい)の時代、カリ・ユガの(in)人々を恐怖に陥れ(to terrorize)、束縛します(to shackle、鎖でしばりつける)。霊魂としての自分の本当の自己認識を忘れ、彼ら(訳注:カリ・ユガの人々)は世界に大惨事(disaster)をもたらします。

そのような包囲攻撃(siege)の下で、現代の(modern-day)思想家と哲学者は社会に純粋さ(purity)と統一(unity)をもたらそうと必死に(desperately、絶望的、という意味合いがある)試みています。彼らはこの問題に関する(into)詳しい研究を行っています。しかし主クリシュナははるか昔にバガヴァッド・ギーター(9.34)の中で私たちに、私たちの現代の問題への解決策をお与えになりました。

(サンスクリット引用)

「いつも心で私のことを考え(Engage your mind always in thinking of Me)、私の献身者になり、私に服従し(to offer obeisances)、私を崇拝しなさい。完全に私に夢中になれば(Being completely absorbed in Me)、必ずあなたは私のところに来るでしょう。」

第7段落
おお、世界の人々よ!どうかギーターのメッセージを行動へと替え(to translate、別の形に直す)、あなたの思考を主クリシュナの蓮の御足に向けようと(to channel、水路で繋ぐ様子)してください。あなたの心と身体で主に奉仕をしなさい。

もしもあなたが自分のすべてのエネルギーを主への奉仕に向ける(to dovetail、ぴったり合わせる)なら、そうすればあなたはこの人生において強い喜び(exhilaration)を感じるだけでなく、霊的な世界においても、永遠に主に奉仕をして、永遠の喜びに浸る(to be immersed)でしょう。

至高主の最も寛大な(munificent)化身、主チャイタンニャ・マハープラブは、最近(recently、1486年)このメッセージを広めるためにカリの時代に降臨なさいました。すべてのベンガル人の大いなる幸運によって主はベンガルにお現れになり、ベンガル人(Bengali race)を祝福なさいました。

そのため(Thus)ベンガル人は主の使命と教えを人類全体に説き(to preach、布教)、この惑星(the planet)の人々と自分たち自身を救うことができます。系統的で(systematic)科学的な方法(manner)におけるこの知識の提示(presentation)は普遍的な至高の平和をもたらします(訳注:この知識を系統的かつ科学的に示すことで、~が得られます)。

それでも(Yet)、衝撃的な事実は、13の非公式な(unauthorized)新興宗教(cults)が雨後の筍のように現れ(to mushroom into prominence、”prominence”は目立った様子を指す。”to mushroom”はキノコが生えるように急に現れること)、考えの甘い(naïve、世間知らず、騙されやすい)弟子と共にその不正な(illegitimate、違法)集団(fold、領域、囲いに囲まれた部分、宗教的な集団)を急速に広げていることです。

(訳注:この場合の「~と共に」は「~という」という程度の意味。「しかし、驚くべきことに、13もの非公式な新興宗教が乱立しており、騙されやすい弟子たちを取り入れて急速にその不正な勢力を増しています。」)

(訳注:”cult”は「新興宗教」としていますが、本来は単に儀式や宗派を指す言葉です。近年は「偽宗教」とさえする否定的な意味合いが強まっていますが、プラブパーダもハレ・クリシュナのことを随所で”cult”と自称していらっしゃいます。)

人が理解し損ねるのは(to comprehend)(訳注:「解せないのは」)、どの真正なる霊的指導者からの指導(discipleship、弟子として修行すること)も監督(tutelage、指導、後見)も一度も受け入れたことのないこれらの新興宗教の指導者たちが、どうやって突然自ら霊的指導者の立場に上がることができるのかということです。

人々の間で広められる(to be promulgated)必要のある主題は、彼らを騙すためにある(to be meant to deceive them)何かの安っぽい感傷的なでっちあげではありません。それは、事実、非常に(deeply)深遠で(profound、重大)難解な(esoteric、秘儀)神学です。

主チャイタンニャのお言葉は、愚かな大衆(ignorant mass of people)を感動させる(to impress)ための霊的な感傷を偽る(to fake)無節操な(unscrupulous、非良心的な)自己流の「グル」によっては、決して広められ(to be disseminated)得ません。すべての聖人的な人々よ、気をつけなさい(beware)!

第8段落
私たちの一般的な経験は、推量と詭弁(sophistry)にふけりがちなので(given as they are to ~ and ~)、非人格主義者は主クリシュナを至高の人格神として受け入れることを躊躇する、というものです。そのため彼らはいつも、自分自身の知性の力によって(by dint of)至高の完全真理を知るための努力において、挫折します(to be frustrated)。

彼らは自分たちの中のこの欠点(shortcoming)を知覚することができず、そして、たとえそれがクリシュナ意識の科学を知る人々によって指摘されても、彼らはそれを理解することができません(to grasp)。そのような汚染された意識は主クリシュナへ服従しないことの結果です。

主の名前、形(form、姿)、性質(qualities)、娯楽、そしてその他の主に関わる諸々のこと(paraphernalia)は、すべて超越的で非凡(extraordinary)です。そのため、鈍い(blunt)物質的な感覚はそれらを知覚することができません。

太陽は太陽光の助けによってのみ可視的になります。同様に至高主は、主への献身奉仕に携わっている者だけにご自分を明かされます。

第9段落
私たちの物質的な状態において得られる設備は多数あります。徳の相における私たちの設備は、かすかな要素を見分け(to distinguish)、物質と霊の間の違いを認識し(to discriminate)、そしてこのようにして幻想の下に入ることを避ける能力を私たちに与える、知性です。

徳の相には、忍耐、正直さ、感覚の統御、心の平静(equanimity)、そしてその他のそのような性質があります。加えて(Added to the list)、強い欲望、大胆さ(fearlessness、恐れを知らない様子)、そして揺るぎない決意などの熱情の相における性質、さらに、恐れ、狂気、そして生老病死の(over、~に関する)苦しみ(distress)もあります。

これらすべての設備は、主の外的で物質的なエネルギーの産物です。マーヤーは至高主の統御の下にあるので、上記のすべての性質もまた、クリシュナご自身から放射します。しかし、主クリシュナは私たちの感覚的な体験の枠(periphery、周囲、外周)を越えていらっしゃり、そしてそのため、単に---徳の相にある---より高貴な性質を培うことは、私たちを主の蓮の御足へと上げるための十分な霊的な実践ではありません。

(訳注:単に徳の相に分類されるようなより高貴な性質を培っても、それだけでは主の蓮の御足へと上がるために十分な霊的な実践とはなりません。)マーヤーに打ち勝つ(to overcome、克服)唯一の方法は、主の蓮の御足の完全な庇護の下に入ることです。

クリシュナはギーター(7.14)において、ご自分に服従する者は簡単にマーヤーを越える(to cross beyond)ことができるとおっしゃいます。いったんマーヤーが乗り越えられると(to be surmounted)、人の努力は主クリシュナが至高の人格神であるという認識を授けられます(to be crowned with、栄誉を与える、冠を被せる)。(訳注:「努力は~という至上の認識をもって報われます」)。主ブラーマーは、ブラーマ・サムヒター(5.1)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「ゴヴィンダとして知られるクリシュナは至高の人格神です。主は永遠の、喜びに満ちた霊的な身体をお持ちです。主はすべてのものの源です。主は他のどの源も持たず、主はすべての原因のもともとの(prime、主要な、根本的な)原因です。

第10段落
マーヤーの影響から自由であるときだけ、人は至高主の超越的な富、力、名声、美、知識そして放棄を知覚することができます。この超越的な理解をもって、人はバガヴァッド・ギーター(10.8-10)の中の至高主ご自身のお言葉を理解する(to fathom)ことができます。

「私はすべての霊的および物質的な世界の源です。すべてのものは私から放射します。これを完璧に知る賢者は私への献身奉仕にいそしみ、心から(with all their hearts)私を崇拝します。私の純粋な献身者の思考は私の中にあり(to dwell、住む)、彼らの人生は完全に私への奉仕に捧げられ(to be devoted)、そして彼らは、いつも互いに啓蒙し合い(to enlighten)、私について語り合うことから、大いなる満足と喜びを得ます。

常に愛情をもって私に奉仕をすることに(自分を)捧げている者に、私はそれによって彼らが私のところに来ることのできる理解を与えます。(訳注:~には、(私が彼らが)私のところへ来ることができるように、必要な理解を与えます。)
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ごちゃごちゃと訳注が多くて、読みづらくて申し訳ありません。内容は可能な限り原文に忠実に写し取っているので、適宜編集して読みやすくしてご活用ください。それにしてもプラブパーダ、怒ってらっしゃいますね。ふざけるな!たわけもの!!という声が聞こえてきそうです。
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by ammolitering4 | 2015-03-14 05:42 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第11章

第11章 葉、花、果物あるいは少しの水を捧げる

第1段落
人はいつも、主クリシュナ以外の方を崇拝する必要はないということを心に留めておくべきです。特にこのカリの時代においては、贅沢な(opulent、富裕、壮麗)犠牲や崇拝を行うことは不可能です。最近(Of late)、派手に(with great pomp、豪華で華やかな様子だが、虚飾という意味合いを含む)表立って(publicly、公けに)半神たちを崇拝することがよく行われるようになりました(to become a popular practice)。

そのような崇拝は、聖典の規定に従わず、気まぐれに行われます(to be conducted whimsically)。それは、無明の相の中にいる人々のための、卑しい(base)感覚の楽しみと悪魔的な(fiendish、ひどく不快な)どんちゃん騒ぎ(revelry)にいそしむための口実です。

何の倫理(ethics、道徳)も守られず(to be maintained、意見など主張する、擁護する)、豪勢な(sumptuous)公共のご馳走(feasting)のための何の手配もなされず、何の正統なマントラも唱えられず、神像に何の正しい捧げ物もありません。

これらの催し(occasions)は単に騒々しい(wild、狂乱、興奮)歌や踊り、そして羽目を外す(misbehaving)ための口実です。すべてのそのような崇拝は、正統ではありません(unauthorized)。

第2段落
従って、知性的な人々は神の神聖なる御名を皆で唱える(congregational chanting)という過程を辿り、このようにして、黄金色の肌色(complexion)をしたクリシュナご自身である主ゴーラーンガを崇拝します。主チャイタンニャを崇拝することは高い費用のかかるものではなく、そして主クリシュナを崇拝することよりもっと簡単で、費用も少なくて済みます。

その理由は、一枚の葉、一つの花、一つの果物、あるいは幾らかの水を集めるのに要する少しの(little)努力が、主チャイタンニャの崇拝においては必要とされてさえいないからです。(訳注:~さえ必要とされていない)

しかし、どちらにせよ(in any case)、どちらの至高主も簡単に、どの国でも、どんな状況ででも、誰によっても---その人が愚かであろうと賢かろうと、罪深かろうと敬虔であろうと、身分の高い生まれであろうと、低い生まれであろうと、豊かであろうと、貧しかろうと---簡単に崇拝され得ます。(訳注:どの国でも、どんな状況ででも、誰でも、簡単に~を崇拝できます。)

このため、私たちは主クリシュナがバガヴァッド・ギーター(9.26)においてこうおっしゃるのを見出します(訳注:~は~とおっしゃいます。)

(サンスクリット引用)

「もしも人が愛と献身の念をもって私に(一枚の)葉、(一つの)花、(一つの)果物、あるいは水を捧げるなら、私はそれを受け取ります。」

第3段落
いったん至高主が満足なさると、世界全体が自動的に満足します。なぜなら(for)主を崇拝することによって人は他の誰もを崇拝するからです。ちょうど、いったん木の根が水を与えられると、木全体---枝、葉など---が水を受け取るように、同じく(so)、主クリシュナが崇拝され満足させられるとき、そのときすべての半神と人間が崇拝され、満足させられます。

第4段落
主クリシュナの崇拝が大きな費用(expenditure)と派手さ(pomp)と共に執り行われねばならない(to be conducted)という言及はどこにもありません。また、時間、場所あるいは状況の、何らの規制もありません。ちょうど、誰もがガンジス河で沐浴する権利を持っているように、同じく誰もが主クリシュナに奉仕をする権利を持っています。

花、果物、葉、そして水はどこででも手に入ります(available)。非常に貧しい者(pauper)でさえ、ほとんど何の努力も要せず(with very little effort)、お金も全くかけずに、これらの4つのものを見つけるために手配をすることができます。このように、主クリシュナを崇拝する過程(process、方法)はとても単純なので、どこの誰でも参加することができます。

第5段落
主クリシュナは生まれたことがなく(unborn)、それでも主は想像し得るいかなる形でも受け入れることがおできになります。そして、主はすべての生命体の至高の主でいらっしゃるので、誰でも---身分の高い生まれのブラーマナ、あるいは社会的に排斥されている者(outcast)でも---主に花、果物、葉、そして水を、愛と献身の念をもって捧げることができます。

そうすれば、主クリシュナ、すべての原因の原因は、この捧げものを受け入れ、そしてそのような霊的な活動によって崇拝者は主の永遠のお住まいに入る資格を得ます(to become eligible)。この簡単で喜ばしい(joyful)過程を退け、そして物質的な存在の蜃気楼(mirage)と、一時的で世俗的な設備(facilities、この場合は「諸々」というような意味)への渇望によって魅了されるようになって(to become captivated)半神たちの庇護の下に入る者よりももっと愚かな者があり得るでしょうか(Who could be more foolish)?

最近の時代は、世界に一体化(unity)、平和、そして調和をもたらす(to bring about)ための、すべての側面(front、活動などの場)での組織だった(concerted、コンサートのように各種のものが協同する様子)、崇高な(noble)努力を目撃しましたが(訳注:近年は~のための~がなされましたが)、これらは人々が主クリシュナを崇拝して主に献身奉仕をするときにのみ可能です。

第6段落
そのような提案は、不合理な(preposterous、途方も無い、馬鹿げた)ものでも、こっけいな(comic)ものでもありません。事実、もしも誰かが完全真理の誠実な探究者(seeker)であるなら、それなら、彼の現在の状況がどのようなものであれ、定期的に至高主に愛と献身の念をもって花、果物、葉、そして水を捧げることによって、彼はたやすく(readily、すぐに)、至高の完全真理、主クリシュナが徐々に自分に近づいていらっしゃることを経験するでしょう。

私たちは、つつしんで(humbly、身を低くして丁重に頼む様子)、私たちのすべての読者に、どうか(kindly)この、主クリシュナの蓮の御足に近づくためのすばらしい方法を試してみることをお願いします。この方法にはお金がかからず(no monetary expenditure)、身体的な努力(exertion)、哲学的な知識、高貴な生まれも必要ありません。

第7段落
半神崇拝者と主クリシュナの献身者の間の違いは大きく(wide)、たくさんあります(numerous)。一般に、人々は一時的で物質的な欲望からのみ半神に近づきますが、他方で献身者は至高主と自分の永遠の愛情ある関係を再び築こうと志します(to aim)。

その目的のために(to that end)、献身者は主に、愛と献身の念と共に、崇拝、贈り物(gifts)、そして何であれ自分が集められるものを捧げ、そして主はこれらすべてをおいしい味わい(relish)と共に受け入れます(訳注:喜んで受け入れる)。そのような献身的な捧げ物は、物質的な利益のための何らの欲求(craving)からも自由です(~には~がない)。

第8段落
対照的に、物質的な利益(gain)のための利己的な動機にまみれた(to be laden with)多神論者(polytheists)の捧げ物は、たとえそれらの捧げ物が豪華(opulent)で手の込んだ(elaborate)ものであっても、決して至高主によって受け入れられません。

半神を崇拝する者は、自分が崇拝する特定の半神への本当の愛や献身の念を持っていませんが、それでも主クリシュナは非常に慈悲深くていらっしゃるので、愚かな半神崇拝者たちの物質的な欲望を満たされます。

第9段落
主クリシュナは決して愛と献身に欠けた(bereft of)何らの捧げ物もお受け取りになりません。空腹でない人は、たとえおいしそうな(delectable)食べものを与えられても、突然食欲を出す(to develop)ことはできません。

同様に、主は愛と献身の念なくして作られた豪華な(opulent)捧げ物に何の魅力も感じられません(to have no attraction for)。私たちは既に、至高主の正統でない崇拝は献身の念の欠如と物質的な欲望の存在から派生する(to stem from)、と論じました。

献身の念に満ちている者は、至高主の感覚を満足させる(to satisfy)ことを目指しますが(to aim)、他方で、物質的な欲望に満ちている者は自分自身の感覚を満足させる(to gratify)ことを目指します。自分の心の中に自分自身を満足される欲望を持っている(to carry)のに至高主に奉仕を捧げる振りをする(to make a show of)者は、決して本当の献身者であることの喜びを経験することができません。

聖典は適切に(aptly、ふさわしく)彼らを金銭ずくで働く人々(mercenaries、傭兵)と描写しました(訳注:聖典には~と描写してありますが、言い得てしかりです)。献身の主要な目的(objective)は、神に至ること(attainment)です。

したがって人は、カルマ・ヨガ、ジニャーナ・ヨガ、神秘的なヨガ、禁欲、瞑想などの結果を含み、自分の所有しているものすべて(everything in one's possession)を主に捧げなくてはなりません。この完璧な服従の過程は神への到達に繋がります(to lead to the attainment of God)。このため主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.27)において公けに(openly)宣言なさいます(to proclaim)。

(サンスクリット引用)

「何であれあなたがすること、食べるもの、捧げ、あるいは与えるもの、そして行う苦行(austerities、禁欲)(のすべて)を---それを、おお、クンティーの息子よ、私への捧げ物として行いなさい(whatever you do, whatever you eat~)。」

第10段落
もしも人がこの命令に従い、愛情をもって主に自分の持っているすべてのもの---妻、家、家族、知性、学識、仕事(business)、宗教心(religiosity)、労働、食べ物、水、何であれ身体を維持するために必要なもの、そして欲望(lust, greed、ほぼ同義の繰り返し)や怒りさえも---を捧げるなら、そうすれば主はこれらの捧げ物をお受け取りになり、捧げた人を完全に満足させます。そして死のときに主はそのような服従した魂をご自分の至高のお住まいにお連れになります。

第11段落
半神は、特定の種類の捧げ物だけを受け取る力を授けられていますが、他方で主クリシュナはすべての人のカルマ・パーラ、すなわち「結果を求めて行う活動の結果」(訳注:fruitive results、分かりやすくするために括弧をつけています)を受け取ることができます。

至高主だけが互いに矛盾する(conflicting)「結果を求めて行う活動の結果」と崇拝の雰囲気(mood)を受け取るだけの力をお持ちです。これは、クリシュナの至高の覇権(lordship)と完全な立場を示します。

人類全体が純粋な献身奉仕の科学を理解できるようになるのは考えにくい(unlikely that ~ will be able to~)ですが、それでもすべての人はいつも、主の蓮の御足に至る能力を持っています。
(この一文には”even in the face of striking odds”、「たとえ際立った確率に直面していても」という一節が入りますが、これは文脈から考えると、誰にでも一縷の望みがある、というような意味でしょうか。)

したがって、最良の道(course)はすべてのものを至高主に捧げることです。

第12段落
ニシュカーマ・カルマに関して私たちが論じたすべての要点は聖典に詳細に言及されています。パンディタはニシュカーマ・ヨガを「結果(fruitive gain)あるいは経験的な(empirical)知識への欲望を伴わない(to be free from)活動」と定義します。

そのような超越的な活動だけが主クリシュナに捧げられ得ます。しかし、すべての活動は---言葉によるもの(verbal)、身体的なもの、あるいは精神的なものであれ---、愛と献身の念をもって主に捧げられるなら、超越的です。そして主はそのいわれのない慈悲によって、これらの捧げ物をきちんと(duly)お受け取りになります。

第13段落
しかし、この命令(injunction、この場合は「愛と献身の念をもって主にすべてを捧げなさい」というもの)において、私たちは間違いを犯すことを避けなくてはなりません。私たちの現在の議論は、物質主義的なブラーマナ階層(caste brahmana)が主ナーラーヤナに供物(oblations)あるいは「結果を求めて行う仕事」を捧げることを含みません(訳注:これまでの議論では、~には触れていませんでした。)

そのような捧げ物には欲望が伴うので(not devoid of lust)、それらには愛も献身の念もありません。私たちは既に、主への正しい捧げ物の主な基準(criterion、特徴)は、それが主の感覚の満足のために愛と献身の念をもってなされるということである、と論証しました(We have earlier established that~)。

そのため私たちは、至高主の喜びのためだけに捧げられた物や奉仕(service)だけが実際に主によって受け取られると理解せねばなりません。

第14段落
自分自身の飢えを満たすために努力すること(exerting oneself)はカーマ・カルマ、結果を求める活動ですが、至高主においしいご馳走(delicacies)を捧げるための疲れを知らぬ努力はニシュカーマ・カルマ、主を喜ばせることを目的とした超越的な仕事です。

主を喜ばせることが商業(commerce)と交易(trade、この場合はほぼ同義の繰り返し)、そしてまた研究、科学、慈善活動、禁欲(austerity、苦行)、そして他のすべての活動の唯一の目的であるべきです。そのような実践は人に、主クリシュナに関わる超越的な話題を聞き、唱える気持ちにさせます(to inspire)。

そして、この聞くことと唱えることは、九重の献身活動の最たるもの(foremost)です。ヴェーダの時代には、すべての人間の活動は至高主への献身奉仕と強く結びついていました(to be affiliated)。今日(も)、同じ永遠の原則が当てはまります。すべてのものは主への奉仕のために使われねばなりません。

第15段落
主クリシュナはすべての犠牲の至高の享楽者です。そのため主はすべての者の働き(labor)の結果をお受け取りになり、そしてそうすることによって主はご自分のすべての献身者の努力に輝かしい(glowing、赤々と燃えるような)成功を授けられます(to crown ~ with~、栄冠を与える)。

それが万能の主がお持ちの超越的な力です(Such is ~ possessed by~)。しかし私たちは、献身奉仕を行っている間に、自分の意識に自己増大(self-aggrandizement、増長)や感覚の満足への欲望を決してこっそりと(surreptitiously)滑り込ませないように、注意深い用心(heed)をしなければなりません。

私たちは単に、かつての霊的指導者たちの足跡を辿るべきです。主の存在において(訳注:主の御前では)すべての者が平等です。したがって、ゆるぎない(unwavering)専心(single-mindedness)を持って主に奉仕をする者は、主の親しい仲間のうちに数えられます(to be listed)。

彼らは本当にハリ・ジャナ、主ハリの側近(own men)です。前提となる必要条件(prerequisite、この場合は「資格」)---献身奉仕---を持たない人をハリ・ジャナと呼ぶ(to rubberstamp、ゴム印を押す、深く考えずに認める)のは、献身的な服従の道における馬鹿げた(farce)やっかいな(onerous)妨害物(hindrance)です。

第16段落
主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.29)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私は誰もうらやまず、誰にも肩入れしません(partial to )。私はすべてのものに平等です。しかし、誰であれ献身の念をもって(in devotion)私に奉仕をする者は友であり、私の中にあり、そして私もまた彼にとって友です。」

第17段落
人は「サマー」、”平等”という単語の意味を誤解してはいけません。それは、主が非人格的であり、どんな気まぐれな行い、始末に終えない(unruly、節操がない、乱暴)振る舞いであっても祝福なさるということを意味するのではありません。

主は完全に人格的で、神聖な情念(sentiments)の宝庫(reservoir)であり、超越的な娯楽の至高の演者(performer、行う人)です。そして主はすべての生命体の幸せを願う友です。しかし、友情には異なる程度の親密さ(intimacy)があります。

そのため、主の平等の性質(disposition、気持ち、傾向)は、個々の違い(varieties of personalism)のないものではありません。言い換えると、主は私たちの主への愛の強さ(intensity)に応じて私たちに報われます(to reciprocate)。

ギーター(4.11)において、主は(サンスクリット引用)とおっしゃいます。「すべての者が私に服従するとき(As all surrender ~)、私は彼らに相応に報いを与えます。」主は、すべての異なる献身的な関係(mellow)---従者の愛(servitorship)、友の愛(fraternity)、親の愛(parental affection)、そして恋人の愛(conjugal love)---にお応えになります。

同様に、主は(校正:he →He)ご自分を普通の「死を運命付けられた存在」(mortal、括弧は訳者)だと見なして敬意を払わない者を無視なさいます。逆に(Conversely)、主はいつも、過去の聖人的な指導者たちの足跡を辿って、主を至高主として受け入れ、愛情ある献身の念をもって主に奉仕をする者を庇護し、守られます(to shelter, to protect)。
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クリシュナって、水のようだなという感じがします。おいしい材料を入れればおいしくなるし、まずいものをぶちこめばとても飲めたものではなくなる。。。ちょっと違うかな。鏡のようだ、とも言えるのかもしれませんが、これはやっぱり上等のクリームを見れば鏡の向こうに資生堂のモデルのような自分が見えるというわけにもいかず、、、残念ですね。立ち止まって深く考えてみようと思います。
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by ammolitering4 | 2015-03-08 06:13 | 「英知による放棄」 | Comments(0)