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英単語を調べる

こちらのページに便利なプログラムが紹介されているのを見つけました。ウェブページ上で単語の上にカーソルを置くだけで意味が表示されます。使わないときは画面右上に出てくるアイコンでオフにしておくこともできます。

プラブパーダの資料は圧倒的に英語が多いので、原文そのままで読みたいときなど便利だと思います。いちいち辞書を引くのはめんどくさいときなど、使ってみて下さい。

私はただいま手作りの折り紙ブックの売り込みと副業である技術翻訳と本業であるコーヒーショップのおばちゃんの仕事で忙しくしています。折り紙ブックはチャリティーショップに置いてもらって、売り上げの4割は寄付、ということになるのです。飛ぶように売れて笑いが止まらない、ということになりますでしょうか。ぜひともそうなってほしい、という現世利益を渇望しておりますが、そういう下心でクリシュナに取り入って良いものか。。。これに対しては、下心があったとしても神様の御足元に寄り付かないよりは寄り付いたほうがよろしい、とプラブパーダがおっしゃいましたし、それをいいことに神頼みとしようと思います。

折り紙ブックとは何ぞや、と思われる方のために説明しますと、これはそのへんの紙を10枚集めて折って組み合わせて作る小さなノートです。雑誌のページを使ってもいいし、綺麗な包装紙でもいいし、折り紙でも作れます。私はしばらく前にYouTubeで探偵ナイトスクープのビデオを次から次に見ながら、これを無駄に大量生産してしまったのです。こんなのが何百冊もあってどうする!?と我ながら思います。仕方がないので実益を兼ねてチャリティーショップに押し付けてしまおう、というわけです。手のひらサイズで色とりどりだし、けっこう可愛いです。たくさん売れるように皆様からもクリシュナによろしくお口添えくださいませ。
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by ammolitering4 | 2015-02-28 02:54 | 英語の勉強法 | Comments(0)

第10章 最後まで

第11段落
人々は一時的で物質的な欲望を満たすために半神を崇拝し、そして彼らがそのような崇拝から得る結果は、同じく一時的で物質的です。しかし、もしも人が、半神は至高主のエネルギーであるという知識をもって彼らを崇拝するなら、それならこの崇拝は正統的(authorized、公認、検定、権威者によって正当・正統であると認められた)であるとして受け入れられ、そして徐々にそのような崇拝者は主クリシュナ、至高神の献身者になります。

しかし、もしも人が、半神は主クリシュナと等しい水準にあるという考えをもって彼らを崇拝するなら、それならそのような崇拝は正統的ではありません(unauthorized)。なぜなら、主クリシュナは至高の人格神、比類するものなく(unequalled、匹敵するものがない)、主より優れたものもないからです(unsurpassed、卓絶)。

したがって、どんな半神も主クリシュナから独立して存在することはできません。主クリシュナはちょうど王のようであり、そして半神たちは彼の大臣のようなものです。大臣は王座(throne)に座って(訳注:統治権を持って)国家の業務(affairs)を管理する(to manage)かもしれませんが、彼は独立してはいません。彼の力は王から来るのです。

第12段落
至高の完全真理であることの力によって(by virtue of)、主クリシュナは永遠に、この物質世界を超越した知識と喜びに満ちていらっしゃいます。物質世界において、私たちはしばしば、立場と力という点で(in terms of、~に関して、~の見地から)、ある人を別の人と比較します。

そしてそのため私たちは、人間と比べると半神は非常に高い立場にあると正しく(rightly、確かに、当然ながら)言うことができます。しかし、至高神と、人間と同じ区分に属する単なる生命体とは、比較になりません(there is no comparison between)。

生命体、すなわちジーヴァは、主の超越的で内的な力から放射する、主の周辺的な力に属しています。したがって、誰であれ半神たちを独立した至高神たちであると考える者は推量しており、完全に間違っています。なぜなら、ジーヴァであるため(as jivas)、彼らは一時的な力と立場を授けられている(to be invested)に過ぎないからです。

第13段落
もしも王の宮廷(court)における地位の高い従者が誤って王として敬われる(to be honored)なら、それは王が従者になることを意味するのではなく、逆もまたしかりです(vice versa)。同様に、主クリシュナは唯一の至高の人格(Supreme Person)であり、他のすべての者は主の従者です。

ブラーマ・サムヒターは主クリシュナと半神の間の関係を明らかに説明します。ヴィシュヌ・タットヴァーの部類に属する存在(訳注:beings、複数)---主ヴィシュヌの水準にある至高の人格たち---は最高の完全存在(訳注:複数)であるという、多数の(numerous)証拠があります。

シュリマッド・バーガヴァタムはこの真実を、すべての種類の崇拝の中で主ヴィシュヌ、すなわちクリシュナの崇拝が最も高い、と宣言することによって確認します。

第14段落
インドでは、ヒンズー教徒は太陽神、月の神など、多くの神を崇拝します。しかし、崇拝の儀式はいつも主ヴィシュヌの崇拝で始まり、そして最後にすべてが主ヴィシュヌの蓮の御足に捧げられます。主が至高の人格神でいらっしゃるからです。

聖職者階層(priestly class)の一員であるブラーマナは、すべての儀式を至高存在としての(as)主ヴィシュヌに祈る(to invoke)ことによって始めなければなりません。そうしなければ、彼のすべての崇拝と儀式は無駄になります(to be rendered useless、to renderは「~を~にする」というような意味)。

この同じ主ヴィシュヌは、実は(in fact)すべての原因の究極の原因であり、もともとの至高主である主クリシュナの部分的な拡張体です。したがって主クリシュナはすべての捧げ物(oblations)と犠牲の受取人であり、すべての崇拝の究極の恩恵を施す人(benefactor、崇拝の結果として恩恵が施されるが、(それが誰から与えられているように見えても)究極的にそれを施すもともとの人、という意味)です。主はバガヴァッド・ギーター(9.24)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私は唯一の享楽者であり、すべての犠牲の主人(master)です。したがって、私の本当の超越的な性質を認識しない(to recognize、認める、はっきり知る)者は堕落します(to fall down)。」

第15段落
半神を崇拝するときに、主ナーラーヤナ、すなわちクリシュナを儀式あるいは犠牲の至高の享楽者として王座にすえる(to place)理由は、様々な半神たちもまた主を崇拝し、主に犠牲を捧げるからです。したがって主(He)は王(the Lord)であり、すべての犠牲の主人(master)です。

至高主は半神を通して(through the agency of)半神を崇拝する者の望みを叶えます(to fulfill)。半神を崇拝する者は至高主の超越的な立場を知らないので(to be ignorant of)、彼らの正式に認められない(unauthorized)半神崇拝は、彼らを混乱(confusion、困惑、混同)と幻想に導きます。

第16段落
半神を崇拝する者はしばしば、こう考えることによって自分たちの半神の崇拝を合理化しようとします(to rationalize、正当化)。「私はこの半神の献身者であるから、彼はきっと私に恩恵を下さり(to shower his grace upon me)、私の心のすべての望みを叶えてくださるだろう。したがって彼はまことに至高主である。」

しかし、正統な(authorized)聖典はそのような半神崇拝者と彼らの崇拝を、道理的でなく(unethical。非倫理的、非道義的)哲学的に間違っているとして非難します(to condemn)。そのような崇拝者は、クリシュナが至高主、すべてのエネルギーの究極の源であると理解することができません。

半神は、実は(in fact)主のエネルギーの顕現です。しかし(~, though、それなのに)、幻惑された半神崇拝者にとっては、彼らは自分たちの崇拝と献身の究極の対象であるように見えます。この誤解を続ける者は(to persist in~、やめる様子もなく繰り返し行う)、決して完全真理にたどり着けません。

他方で、厳密に聖典の命令に従って(according to)半神を崇拝する者は、自分たちの崇拝の対象は至高主クリシュナに従属している(to be subordinate to~)とすばやく理解します(to realize)。この理解をもって、彼らの幻想は滅ぼされ、彼らは主クリシュナの蓮の御足の庇護の下に入ります。
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by ammolitering4 | 2015-02-25 01:56 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

アートの宣伝

皆様こんにちは。お元気でいらっしゃいますか?いつも辛抱強く翻訳を待っていてくださってありがとうございます。あんまり怠けなければ進むんだけどな、と思いつつ、ついつい漫画を読んだり猫のサイトを見たり、しなくていいことばっかりしています。

ところで、先日ふと思い立ってこれまでのガラス絵その他の作品をまとめてみました。このページから次へ次へと「懐古趣味シリーズ」と題して29ページに渡って続いています。)まとめたと言ってもあんまり脈絡はなく、膨大なガラス絵サイトに数百ページに渡って載せていたのをできるだけ一箇所にまとめたというだけです。製作時期もごちゃごちゃで、そもそも自分でも覚えていません。写真が残っているだけでもほんとにたくさんあって、過ぎてしまうとあっという間でもやっぱり20年という時間は長かったのだなと思います。私はよほどヒマだったのだな、ともいえますが。。。振り返ってみると、アルバイトを3つくらい掛け持ちしながら働いていたのでそれほど暇でもなかったはずなのですが、子供もいないし、仕事をしているときと寝ているとき以外は、他にすることがなかったのでしょうね。

なお、古い作品などは写真がないのもあるし、私の記憶にさえ残ってないのもあるだろうから、そういうのがどんな運命を辿ったかなと少し思います。他に、下絵にした写真の著作権の関係で公表できないのもありますし、最近では商品デザインの仕事をしたので、そういうのも公表できません。商店のガラス窓に描いていたこともあり、そのときの絵などは実家のどこかにプリント写真が残っていると思うので、いつかデジタル化して取り込んでみたいと思っています。他に、鉛筆でいろいろと心象風景ふうに、あるいは正確には心理分析のためにと言ったほうがいいかもしれませんが、そんなふうなのは描いては捨ててきたし、公表もしていません。

作品そのものは私の手元にはほとんど全く残っていません。残念ながら、最後まで残っていた古い練習作品の数々は数年前にすべて処分してしまいました。泣いて悲しむというのでもありませんが、正直なところ、人生がとりあえず一旦終わったような気がしました。自分でも不思議なのですが、私の人生はどうもリセットして一からやり直しということがたびたびあるのです。

並べてみたもののなかには、正直なところ、我ながら実にしょうもない練習作品や失敗作もたくさんあります。でも、そういうのも含めて練習を重ねてきたのだなと実感しますし、よろしかったら時間のあるときにでものんびりご覧ください。人物画などは特に、最初の頃のはほんとに下手くそです。モデルが気の毒です、ほんと。

今は傘に絵を描くというのをやってますが、既に行き詰っています。幸い、これはガラス絵と違って気に入らないなら何度でも塗り重ねてやり直せるし、その点では気が楽です。ガラス絵というのは人生と同じで、やってしまったことは消えません。どんなに覆い隠しても、向こう側から見たら丸見えです。下絵をひたすらなぞるだけという、言うなれば「木を見て森を見ない」ようなところもガラス絵の特徴です。そういうところは翻訳にそっくりで、私が単語の一つ一つを厳密になぞるのはガラス絵を描くときの気持ちと似ているのかもしれません。
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by ammolitering4 | 2015-02-20 13:59 | Comments(0)

第10章 第10段落まで

第10章 至高主:献身者の恋人(Lover of His Devotees)

第1段落
いわゆる学識のある階層の人々(members、構成員)は尋ねます。「もしも人がいつもいつも(all the time)主クリシュナに献身奉仕を捧げることに忙しくしているなら、どうやって自分と自分の家族を養うことができるのですか(how is one to maintain ~)?」

いわゆる学識のある人々は、愚か者だけが自分の間近で(immediate、すぐ近くの、当面の、直接的な)身体的な必要性に盲目で、マハートマーの水準に上がれるように献身奉仕で無駄に自分の時間を浪費する、と考えます。

事実、彼らは、本当のマハートマーとは自分の物質的な設備(facilities、利便)を良いものからより良いものへと改善するために努力する者であると考えます。彼らは、世界が食糧生産において大きな危機に直面しているのは経済学者の下手な(poor)計画によるものだと言います。

経済学者と彼らを批判する者(their critics)の両方が、バガヴァッド・ギーター(9.22)に目を向けて、主クリシュナがこの主題についておっしゃることを聞くべきです。

(サンスクリット引用)

「しかし、いつも私だけに対する(exclusive、限定的な)献身の念をもって私を崇拝し、私の超越的な姿(form、形)を(on)瞑想する者---彼らには(to them)私は彼らに欠けているものを与え(to carry)、そして私は彼らが持っているものをそのままにしておきます(to preserve、保存、保護)。(訳注:この場合は「取り上げない」という意味と思われる。)

第2段落
ここで、西洋で、ある無神論的な政府が無知な(innocent、無邪気、単純など)市民に無神論的な見方を受け入れる(to embrace、信奉する)ようにそそのかそうとした(to induce、誘って何かをする気にさせる)ことに言及するのは妥当なことです(relevant、適切、関連がある)。(訳注:~を例に取りましょう)

その政府は、村々の人々の考えを変えさせるために(to proselytize、改宗)、自分たちの政治的な宣伝者(propagandists)を送りました。彼らは無知な村人たちに尋ねました。「なぜあなたたちは皆、教会に行くのですか?何を求めて神に祈るのですか(what do you pray to God for)?」

村人たちは単に(simply)「神様は私たちに食べ物を下さるからです」と答えました。すると無神論者たちは村人たちを教会に連れていき、彼らに神に食べ物を求めて祈るように頼みました。単純な信仰を持った村人たちは神に祈り始めました。

祈りの終わりに、役人たちは彼らに食べ物を受け取ったかどうかと尋ねました。当惑して(Bewildered)、人々は頭を(訳注:横に)振りました。それから無神論者たちは村人たちに、(訳注:神にではなく)自分たちに食べ物を求めて祈るように頼み、村人たちはそうしました。

直ちに、勝ち誇ったような顔で(with a look of triumph、勝利、征服、成功)、無神論者たちはかご一杯のパン(baskets of bread、「かご」は複数で、この場合は単に「山ほどの食べ物」という程度の意味)を持ってきました。村人たちは幸せになり、政府の役人たち(representatives、代理人)は神よりももっと反応がよく(responsive)、生産性が高い(productive)と考えました。

第3段落
ああ(Alas)!主の献身者がそこにいさえすれば、村人たちの献身の念は苦しめられなかったでしょう(to molest、邪魔する、悩ませる)。初心者の献身者のか弱い(tender)献身の念は、いつも傷つけられやすい(susceptible to damage、susceptible は「影響されやすい」)ものです。

しかしパンは、つまるところ(after all)、神から来るのであり(does come, doesを斜体で強調)、無神論者からではありません。もしもそれらの村人たちがもっと聖典に精通していたら(conversant)、無神論者たちは決してその邪悪な計画において成功しなかったでしょう。

単純な村人たちは学がなく(illiterate、読み書きができない、教育がない)、そしてそのため(hence)彼らは至高主だけが彼らに食べ物を与えることができるということを全く知りませんでした(had no idea)。

もしも地球が穀物を作り出さなかったら(did not)、そうしたら無神論者たちは、その発達した物質的な科学にも関わらず、決してパンもその他の食べ物も作ることが出来ません(could never, 時制がdid notに対応)。

第4段落
多くの人々は、近年において(in modern age)物質的な科学者たちが農作物の収穫高(agricultural yield)を増すのを助けたと主張します。しかし私たちは、世界を現在の厳しい(acute)食糧難に陥れた(to bring)のはまさにそのような無神論的な見方であると、恐れることなく宣言します。

もしも私たちが注意深くなければ、果物はただ皮と種だけになり、牛の乳房(udders)は干上がり、そして田畑(paddy fields)は草だけを生やすときがもうすぐ(soon、すぐに)訪れるでしょう。聖典は、これらのことがカリユガにおいて起こる(to come to pass、実現する)と予言します。

第5段落
現実には、至高主がいつも私たちを守っていらっしゃいます。刑務所の囚人は政府によって罰されていますが、それでも同じ政府が彼らに食べ物を与え、彼らの世話をします。同様に、罪深い、無神論的な人々は、主の幻想エネルギー(ドゥルガー・デヴィーとして人格化したマーヤー)によって罰されているにも関わらず、それでも(still)主ご自身によって食べ物を与えられ、面倒を見てもらっています。

そして、もしも至高主が最も悪い悪人(reprobates、堕落した者)、そして救いようのない(helpless)魂たちさえ食べ物を与えて養われるのなら、それなら主の蓮の御足に永遠に服従した者については何をか言わんや?

主は、自分の家来(subjects)を良く世話する(to take proper care of)けれど、自分の親密な(near and dear、近くて愛しい)親戚の必要性を特に世話する王のようなものです。したがって、「快適な暮らしは結果を求める活動(action)と経験的な(empirical)知識から自由な(訳注:free from~、~がない)献身者によってではなく、普通の徳のある活動(activities)を行う者によってのみ楽しまれ得る」というのは本当ではありません。(訳注:分かりやすくするために括弧を入れました。)

献身者はいつも苦しむのではありません(The devotees do not always suffer)。なぜなら、至高主が個人的に(personally、自ら)彼らの面倒を見られるからです。献身者は主の親戚であり家族です。ちょうど、普通の人々が自分の家族の必要性と快適さの面倒を見るときに喜びと満足を感じるように、主もまた、ご自分の献身者の幸せの世話をする(to tend to the well-being)ときに喜びを感じられます(校正:he →He)。

このため(Thus)、至高主はバークタ・ヴァツァラ、「献身者を養う方」として知られます。しかし、主は決してカルミー・ヴァツァラ、「結果を求めて働く者を養う方」と、あるいはジニャーニー・ヴァツァラ、「経験主義的な哲学者を養う方」と呼ばれる(to be referred to as~)ことはありません。

第6段落
主の献身者はすべてのものに関して(for)完全に主に依存しており、そしてそのため、何であれ彼らが自分自身と自分の家族を養うために行うことは、献身的な服従にとって良いものです(favorable)。

そのような純粋な魂は、いつも献身に心を定めており(fixed in ~)、主への奉仕に関係のない(outside the Lord's service)活動には決して一瞬も無駄にしません。彼らがすることのすべては主の喜びのためであるため、彼らは物質主義的な欲望によって悩まされません(to assail、攻撃)。したがって彼らだけが本当に平和的です。

第7段落
献身者自身は、献身奉仕を遂行するに当たって生じる(to incur)すべての費用(expenditures)のために手配します(to arrange)(訳注:献身者は、~に当たって生じる~をまかなうために、自ら稼ぎます・働きます)。

普通の目には、このようにお金を稼いで使うことは、感覚の満足のように見えるかもしれません。しかし、献身者に物質的な欲望が全くないとき(devoid of all ~)、至高主は彼のすべての必要性を満たすことに大きな満足を感じられます。

従順な息子は自分の欲求(wants)を自分の父親に決して表さないかもしれませんが、愛情ある父親は自発的に(spontaneously)自分の息子を幸せにしようとし、そしてそうすることから喜びを得ます(to derive ~ from ~)。したがって、主の献身者は、物質的にさえ、決して何も事欠きません。

そして、この人生に終わりに、体を去った後、彼らは永遠の喜びに位置します。これが献身者が受け取る(to inherit、受け継ぐ、相続)超越的な富です。他の者たち---結果を求めて働く者、経験主義的な哲学者、半神を崇拝する者、そして神秘的なヨギー---は、永遠の喜びを得ることができません。

第8段落
主クリシュナは、すべての者に平等でいらっしゃる(to be equally disposed)にも関わらず、主はそれでも特にご自分の献身者の幸せについて気遣われます(to be concerned)。しかし、人は主が縁者びいき(nepotistic)であると結論づけるべきではありません。

主はバガヴァッド・ギーター(4.11)においてこう宣言なさいます。(サンスクリット引用)「すべての者が私に服従するとき(As all surrender unto Me)、私は彼らに相応に報いを与えます。」献身者には欲望がなく、要求もしませんが(desireless and undemanding)、主はいつも彼らの必要を気におかけになります(to see to ~、注意する、取り計らう)。

献身者は主からそのような恵みを受け取ってとても幸せ(ever-joyful、いつも、とても)であり、そして主の恩恵を受け取ることには何の無礼(offense)も罪もありません。

第9段落
ここで、人は疑問を持つ(to pose、問題を提示する)かもしれません。「なぜ主クリシュナの献身者だけが主の超越的なお住まいに至るのだろうか?結局、半神たちは単にクリシュナのエネルギーであり、そして聖典の結論は、エネルギーとエネルギー的なものは異ならない(nondifferent)というものだ。したがって(therefore)、なぜ半神、クリシュナのエネルギーを崇拝する者が主の超越的なお住まいに至れないことがあろうか?」

第10段落
答えとして、まず、主クリシュナご自身がバガヴァッド・ギーター(9.23)においてこの主題に関しておっしゃることを参照します。

(サンスクリット引用)

「他の神々の献身者であり、信仰をもって彼らを崇拝する者は、実際には私だけを崇拝します、おお、クンティーの息子よ、しかし彼らは間違った方法でそうします。」

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う~む、やっぱりさすがはプラブパーダ、と改めて思います。皆様、緑の革命を覚えていらっしゃいますか?若い方はご存じないかもしれませんが、あれは鳴り物入りで華々しく登場したのに結果はさんざんなものでした。インドの農民が大勢自殺しましたね。こちらのサイトに日本語でいろいろ書いてありますが、プラブパーダのこのお話がなされたのは革命がまだまだ現在進行形だった頃だと思いますので、その洞察には本当に敬服いたします。はっきり言って、政府が大々的にやろうとしていることを「これは大失敗する!」と真っ向から否定していらっしゃるわけですから、政府としても「坊さんでなかったら叩きのめすぞ、この野郎」くらいには思ったかもしれません。ともあれ、21世紀になった今でもやっぱり世の中はプラブパーダのおっしゃるとおりに進んでるように見えますね。世紀の初めなのに既に世紀末の様相を呈している今日この頃、続きをお届けしますまでどうぞご無事でお過ごしくださいませ。
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by ammolitering4 | 2015-02-09 14:01 | 「英知による放棄」 | Comments(2)

プラブパーダのレクチャーと賛歌

怠惰な日々を送っているこの頃、鑑定団とか探偵スクープを見たりするのにも飽きて、なぜかいまだに飽きない折り紙ブックを延々と作りながらいろんなビデオを見て(聞いて)います。最近は熱狂的なキリスト教のビデオなど見ていろんな奇跡があるものだと感動したりしてましたが、やっぱりプラブパーダが恋しいと思って探してこれを見つけました。いつもの迫力あるお声も素敵だし、後のほうの優しい歌声もいいです。その歌の向こうでお元気そうに動いていらっしゃるプラブパーダを見たらやっぱり嬉しいです。お会いすることは叶いませんでしたが、こうしてビデオを通してでもいいから会えるのは幸運なことだなと思います。

レクチャーの中で、寺院に来なさい、話を聞きなさい、と言っておきながら「盲信するな、私の言うことを論理的に分析しろ」と言い、しかし「ただ単に唱えて受け入れるのでもいいからね」とも言う、そんなところがほんとに好きなのです。矛盾というのとも違う、両面併せ持つ懐の深さであり厳しさであるという感じがします。厳しさとも違うかな。強さなのかな、本物ならではの強さや大きさを感じます。英語だけで申し訳ありませんが、よかったら聞いてみてください。

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by ammolitering4 | 2015-02-05 05:45 | Comments(0)