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第7章

第7章 マーヤーの幻想の下で人間はクリシュナを主クリシュナを忘れてしまった

第1段落
カルミー、ジニャーニー、そしてヨギー、および一般の政治家と、この物質世界において快適で平和な状況を作るために一生懸命働いている他の誰もが、世界は一時的(transitory、はかない、つかの間の)で悲惨さに満ちていると、非常にはっきりと理解しなければなりません(訳注:to clearly realize、はっきりと理解する、という動詞を同義の副詞で強調)。

この世界の中に永遠の居場所(settlement、居留地、開拓地など)を作るために人がどれだけ骨折って働いても(however much one may toil to ~)、最後には誰もが去ることを強制されます。ここに留まる限り、人は苦しみという(of)現実を受け止めなければなりません(to come to grips with、直面する、真っ向から取り組む)。

記憶にないほどの昔から、魂は来たり去ったりし続けています。しかし主の献身者は、この世界において幸せに暮らすだけでなく、ここを去った後、主の永遠で常に喜びに満ちたお住まいに入ります。主はバガヴァッド・ギーター(8.15)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私のところに至ったあと、献身におけるヨギーである偉大な魂たちは、決して悲惨さに満ちたこの一時的な世界に戻りません。なぜなら、彼らは最高の完成に至ったからです。」(訳注:原文は長い一文。)

第2段落
上の節によれば、献身者は最高の完成に至ります---つまり(that is)、彼らは主の永遠の仲間たちの高い(elevated、高く上げられた)一団(corps、軍団や部隊のような共同体)に加わります。神秘的なヨギーの八重の神秘的な完成は、献身者のパラ・スィッディー、すなわち「最高の完成」と同じではありません。

神秘的なヨガが物質的で一時的な完成をもたらす一方で、至高主への献身奉仕は超越的で永遠な、完全な完成をもたらします。至高主は、ご自分がお作りになったこの無限の物質宇宙の中で、ご自分の常に若々しい(ever-fresh、新しい、鮮明な、生き生きとした)超越的な娯楽を絶えず(incessantly、絶え間なく)顕現なさいます。

ボーマ・リーラーとして知られるこれらの娯楽は、記憶にないほどの昔から続いています。太陽は一つの場所に留まりますが、それでも地上のどこかで人々はそれが昇るのを見て、一方で他のところでは人々はそれが沈むのを見ます。

この夜明けと日没(rising and setting)は創造の始まりのとき(dawn、物事の始まり、夜明け)から続いています。同様に、主クリシュナは永遠にご自分の永遠のお住まいであるゴロカにお住まいになるにも関わらず、主はこの宇宙の創造の無数の宇宙の中で常に(at every moment)ご自分の超越的な娯楽を顕現なさいます。

太陽が昇ったり沈んだりすると考えるのが間違いであるように、主クリシュナがいついつの日に生まれて、いついつの日に誰かによって殺された(slain)と考えるのはひどい思い違いです(gross misconception)。

主の誕生と活動はすべて(all、全く)超越的で奇跡的です。(訳注:この場合の allは構文的には「すべて、いずれも」という意味ですが、原書はインドの言葉からの古い翻訳でハイフンや大文字小文字の使い方が独特な場合も多いので、「全く」と読んでも差し支えないかと思います。)

そして、この深遠な(esoteric、奥義、秘儀、難解)真実を理解することができる者は最高の完成を得ます。主はバガヴァッド・ギーター(4.9)において次のように述べられます。

(サンスクリット引用)

「私の顕現と活動の超越的な性質を知る者は、体を去るときに(upon leaving the body)この物質世界において再び生を受けることはなく、(but、その代わり、そうではなく)、私の永遠の住まいに至ります、おお、アルジュナよ。」

第3段落
主クリシュナがご自分の地上での(earthly、この世、俗世での)娯楽を顕現したいと望まれるとき、主はご自分の永遠の両親、シュリーマティー・デヴァキーとシュリー・ヴァスデヴァを通してお現れになり、のちにご自分の育ての両親(foster parents)、母ヤショダーとナンダ・マハーラージャによって育てられます。

主の永遠の両親の足跡を辿ることによって自分の献身奉仕を完成させる聖人的な魂は、至高主の永遠の仲間という(as)最高の立場に上げられます。いったん主の永遠の超越的な娯楽に入ると、これらの偉大な魂たちは至高主への恍惚的な愛において非常にすばらしい(superexcellent)献身の甘さ(mellows、一般的には形容詞。熟成、円熟など)を味わいます。

第4段落
無数の宇宙において、主クリシュナはご自分の親密な友人であり永遠の仲間であるアルジュナと共に、ご自分の俗世の(earthly)娯楽を明かされます。主はバガヴァッド・ギーターの二つの節(4.5-6)においてこれを明らかになさいます。

(サンスクリット引用)

「私とあなたはたくさん、たくさんの人生を過ごしました(Many, many births both you and I have passed)。私はそれらすべてを思い出すことができますが、あなたはできません、おお、敵を征服する者よ(subduer、鎮圧)!私は生まれたことがなく(I am unborn)、そして私の超越的な体は決して滅びません(to deteriorate、悪化、劣化)が、そして私はすべての生命体の主ではありますが、私はそれでも自分のもともとの超越的な形において時代ごとに(in every millennium)現れます。」

第5段落
至高主の永遠の娯楽に入るという至高の目的に向かって努力せず(to strive for)、その代わり、究極的に人を天国のような惑星に上げるカルマ、ジニャーナそしてヨガという俗的な実践(mundane practice)に魅了されるようになる不運な魂たちに関して言えば、そのような魂は再びこの物質世界に生を受けねばなりません。

この宇宙の体系(cosmic system)において高い水準に至るかもしれませんが、彼らは観覧車(ferris wheel)の上にいるかのように降りてこなければなりません。クリシュナはバガヴァッド・ギーター(8.16)においてこの現象を描写なさいます。

(サンスクリット引用)

「物質的な世界の中の最も高い惑星から最も低いものまで、すべては悲惨さの場所であり、そこでは(wherein、その中)繰り返す誕生と死が起こります(訳注:~が繰り返されます)。しかし、私の住まいに至る者は、おお、クンティーの息子よ、決して再び誕生しません。」

第6段落
この物質的な世界の中の、より高い惑星系は、バーロカ、バーヴァーロカ、スヴァーガロカ、マハーロカ、ジャナロカ、タポロカ、そして上はサテャロカ、すなわち(or)ブラーマロカまであります。次の生においてこれらの惑星のうちのいずれに上がるのであれ、人は最後には地上(訳注:earth、この場合は小文字ということもあり、特にこの地球という惑星に限定しているのではなく、天国のようなところと相対してのこの世を指すと思われます)に戻らねばなりません。

来世のことは言わずもがな(what to speak of)、この(訳注:斜体で強調)生においてさえ、相当な努力ののちに得る高い立場---王、皇帝、大臣、知事(governor、長官)、あるいは大統領など---は、しばらくすると(after some time)失われ、人は身分の低い(mean and humble、同義の言葉を重ねて強調)地位に投げ戻されます。

このような屈辱(humiliation)を経験した指導者たちだけがそれに伴う戦慄(trepidation、身が震えるような恐怖、動揺)を知ることができます。しかし、人生のどの段階においてでも、もしもギーターにおいて描写されたひどく(grossly)愚かな悪者たち(miscreants、不信心者)が主クリシュナへ献身奉仕を捧げることを決心するなら、彼らはカルマの観覧車(ferris wheel)を逃れることができます。

この輪の上では、時として人は天国へ、そして時として地獄へ行き、時として人は王として、そして時として奴隷として生まれ、時として人はブラーマナに、そして時としてシュードラになり、そしてそのようにしてそれは続きます(and so it goes on)。

しかし、人がいったん至高主の霊的なお住まいに入ると、彼は自分のもともとの本来の立場において自分の永遠の人生を始めます。

第7段落
カルマの影響によって、物質的な体と心に執着している者は何度も生まれ変って(life after life)体を替えなければなりません。このようにして魂は、時として上がり、時として下がり、この物質的な宇宙の中の14の惑星系をさまよいます(to roam)。

これらの惑星は一時的(transitory)です---単にその上で魂が自分の俗的な存在を演じる(to enact)舞台(theatrical stages)に過ぎません。しかし、生命体が霊的な完成に上げられ、すべての俗的な呼称(designations)がない(devoid of)(訳注:いかなる俗的な呼称とも無縁な)自分の純粋な永遠の自己認識に位置するとき、彼は霊魂の自然な住みか(habitat)、(すなわち)この物質的な創造ならびに非顕現なるブラーマンの光輝という(of)中間の(intermediary)領域を超越した、超俗的な領域(supramundane realm)に至ります。

第8段落
土、水、火そして空気などの物質的な材料でできた(to be made up of)物質的な体は滅びる運命にあります(mortal)。同様に、この物質的な宇宙は土、水、火、空気などの混合物(amalgam)であるため、それもまた一時的(transitory)です(訳注:~も~なので~です)。

しかし、(ついでながら(incidently)、度重なる努力にも関わらず実験室において複製されていない)霊魂は不滅(imperishable)であり、その自然で永遠な家---神の王国も同様です。永遠の魂を彼(訳注:魂)の永遠の家に連れて行く過程(process)はサナータナ・ダールマ、すなわち「永遠の宗教」と呼ばれます。

第9段落
カピラのような経験主義的で(empirical)無神論的な哲学者は、この宇宙の創造の物質的な現象を研究して、非常に多くの冗長な時間を過ごしました(訳注:innumerable tedious hours、~をうんざりするほど長々と研究しました)。それでも、この顕現している物質的な世界を超越して、(それより)はるかに優れている領域が存在するということを理解するのは、彼らの限られた知性の理解(grasp)を超えたままでした。(訳注:~をもってしては、~を理解することは叶いませんでした。)

ついに、彼らの徹底的に探りを入れる(probing)心が推量の海に(in)陸地を見出す(to sight)ことに失敗したとき、彼らは完全真理は非顕現であると結論づけました。

第10段落
他の種と比べると、人間は確かに優れた(good)知性を授けられていますが(to be endowed with)、それでも主の献身者でない限り彼らのすべての思考は俗的な境界(boundaries)の中に限られます。したがって、俗的な心にとって超越性に近づくことは不可能です。

しかし、至高主あるいは主の代理人に服従する代わりに、経験主義的な(empirical)哲学者たちは自分たちの俗的な心を超えたものを「非顕現」として言いぬけようとします(to explain away、うまい言葉を使って言い逃れる、ごまかす、片付ける)。これは井戸の中のカエルの論理として知られています。

第11段落
とても小さな生命体がどれだけ大きな思考者であろうと(no matter how big a thinker a tiny living entity may be)、彼のすべての活動は俗的な境界によって限られます。ちょうど、井戸の中のカエルが決して自分の小さな領域(domain)の外に海などというものが存在すると理解することができないようにです。

彼は、自分のとても小さな水溜りより無限に(infinitely)大きな大量の水があり得る(a mass of water ~ can at all be possible)と認める(to acknowledge、事実や存在を認める)ことを拒みます。同様に、私たちは自分の体と心という暗い井戸に閉じ込められています(to be trapped)。

そして、私たちは自分の限界を乗り越えるためにヨガあるいは経験主義的な推量を通して大変な努力をする(to try hard)かもしれませんが、私たちがどんなに博識(erudite)であっても、私たちの自分で作った井戸(our self-made well)の限界を超えることは不可能です。

第12段落
それでは(So)、誰が私たちに大きな(great)海の知らせを持ってくることができるのでしょうか?この物質世界の井戸の中で浮かんでい続けるために(to stay afloat)、時としてより高い惑星に上がり、時として下りてきながら、私たちがどれほど長く水の中で苦しんでいるか、何らかの記録はあるでしょうか?

至高主ご自身あるいは、主の、力を与えられた代理人(訳注:His empowered representative、主が力をお授けになった代理人)だけが、この暗い井戸の幽閉(confinement)から私たちを自由にすることができます(訳注:can possibly、強調表現。この場合は、そうでなければ絶対に無理、という意味合いがある)。

彼らの指導の下で、私たちは霊的な天空という(of)無限の海について知ることができるようになります(to come to know of)。より高い権威者から聞くというこの過程は、知識の演繹的な(deductive、えんえき)、あるいは降下的な(descending、下方性)過程と呼ばれます。

それは超越的な知識を学ぶための唯一の正式に認められた方法です。この方法によってのみ、永遠の真理が伝えられます(to be transmitted)。

第13段落
そして、私たちはこの過程によって何を学ぶことができるでしょうか?主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(8.17-20)において霊的な世界と物質的な世界を次のように描写なさいます。

「人間の計算で1,000の時代が合わさったものが(a thousand ages taken together)ブラーマーの一つの昼(one day)の長さを成します。そして彼の夜の長さも同じです。ブラーマーの一日の始まりにおいて、すべての生命体が非顕現の状態から顕現し(to become manifest)、そしてそれからは(thereafter)、夜が訪れるとき、彼らは再び非顕現に同化します(to be merged into、交じり合う)。

繰り返し繰り返し、ブラーマーの昼(day)が訪れるとき、すべての生命体は現れ(to come into being)、そしてブラーマーの夜の訪れと共に彼らは非力にも滅ぼされます。それでも、永遠で、この顕現したり非顕現だったりする物体を超越した、もう一つの非顕現なる自然があります。

それは至高であり、決して滅ぼされません。この世界の中のすべてが滅ぼされるとき、その部分はそのままです(to remain as it is)。」

第14段落
ブラーマロカにおける寿命は何百万年もあるということを知る(to learn)とき、人々は畏怖の念に打たれます(to become awestruck)。ブラーマロカに至るために、人は放棄階級者となって厳しい禁欲(austerities)と放棄(renuncitation)を耐えねばなりません(to undergo、辛い経験を耐え忍ぶ)。

しかし、私たちは一つの非常に重要な(essential)事実を考慮しなければなりません:その惑星の主神(presiding deity)である主ブラーマーでさえ不滅ではないということです。ヴェーダの聖典を詳しく(in depth)研究した者は、ブラーマーの寿命(lifetime)を計算することができます。

人間はその一年に365日を数え、4つのユガの周期(cycle)はおよそ4,320,000(432万)のそのような年から成ります。4つのユガの1,000周期が主ブラーマーの人生の一つの昼(12時間)を成します。このようにして、彼の月と年が計算でき、そしてブラーマーは自分の時間の100年を生きます。

しかし、この長大な(vast)寿命---311兆400億年(311 trillion 40 billion)---にも関わらず、主ブラーマーは滅びることを運命づけられた(mortal)存在であり、彼によって作られたこの宇宙もまた滅びる運命にあります(perishable)。

そのため、同じく彼の創造である人間もまた滅びる(訳注:should、この場合「~であるというのは」という意味)というのは不思議ではありません。とても小さな虫には人間が不滅であるように見えるように、主ブラーマーと半神たちもまた、私たちには不滅に見えます。しかし事実は、いかなる形のどの物質的な体も、決して永遠ではありません。

第15段落
ブラーマーの昼の終わりに夜が近づく(to approach)とき、部分的な溶解(dissolution、分解、解散)が半神たちの住まいであるスヴァルガロカまで宇宙を水浸しにします(to inundate)。この世界のすべての生命体は主ブラーマーの昼の始まり(dawn)のときに作られ、日没のときに滅ぼされ、この創造と破壊(annihilation)は継続的な循環において続きます。
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毎度お待たせ致しております。ようやく第7章をお届けします。それにしても、311兆400億年ねえ。。。私は非常に数字に弱いという特技がありまして、その昔、血迷って会計学の入門コースを取ったときに絶対的な自信を得ました。何がどう間違っても自分は会計士には向いていないという自信です。311兆とか言われても、ゼロがいったいいくつつくのか、バケツですくえるほどたくさんあるのですから分かろうはずもありません。

大きな数字と言えば日本の国家予算ってどれくらいかな、と思って見てみたら、220兆円という数字が出てきました。どこからひねり出した数字かということは分かりませんが、要するにブラーマー様の寿命は国家予算より多いということで、比較対象になってない気もしますけれど、どことなく納得しました。1円稼ぐのに1年かかるとして、一年半分の国家予算を一人で稼ぐのにかかる時間、、、そうね、がんばってみようかな。
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by ammolitering4 | 2014-11-30 16:05 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第6章 終わりまで

慣性の法則というのがありますね。私の人生に当てはめると惰性の法則と言ったほうが当たってるような気もするわけですが、それについては深く考察しないこととして、要するにこれはボールは投げた方向に飛んでいくしかないということであると理解してよろしいかと思います。生きている間中ろくでもないことを考えたり行動したりしていて、しかし死んだら反対方向に行きたいというのは無理というものです。野球の投手のように大きく振りかざして、手から離れたボールが真後ろに飛んでいくことを期待するようなものです。

別の例を挙げれば、記憶の草原があって、地獄行きの小道を何度も何度も通ってしっかり高速道路ができてしまっていたら、それはもちろん一直線にそっちへ行くのが自然です。反対に、神様のことを何度も何度も思い出していれば、嫌でも自動的にそっち方向に魂が進んでいくことでしょう。私みたいにあちこちうろうろと歩き回って方々に獣道ばっかり作っていると、体から放たれたときに魂がうろうろして迷ってしまいそうです。ガラス絵の神様のほうに行きかけ、クリシュナのほうも横目で見て、いや、やっぱり行ったことのないロシアにも未練があるし日本の温泉にも入りたいし、地獄にも温泉があるならそれでもいいかなと心が揺らぎ、、、どうしましょう。

目を転じてみますと、私が今こうしているということは、そしてこんなふうに生まれてしまったということは、良かれ悪しかれ私がこっち方面に向かってしまったからであって、ということはつまり、、、褒めるべきも責めるべきも自分でしかないのだなと思います。もうちょっと美人でもよかったのにとか、もっと頭が切れてても一向に構わなかったのにとかぶつぶつ言っても始まりませんね。ここにこうしているというところから始めるしかないのです。後ろから寄せる波のような惰性や慣性に流されつつも、少しずつでもちらちらとクリシュナのほうを見やりつづけたいものです。

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第7段落
したがって、幻惑と二重性の手が届かないところに留まるために、人はいつも、黒っぽい(darkish)肌色をして(ご自分の)笛を吹いておられる主クリシュナの祝福に満ちた(beatific、幸福に輝く、至福を与えるような)姿をいつも思い出して、それを瞑想しなければなりません(to meditate on~)。

人はまた、主と同じであり(nondifferent、違わない)、その性質は永遠で、完全で、純粋で、そして独立している、クリシュナの聖なる御名も思い出して唱えなければなりません。バガヴァッド・ギーター(8.6-7)において、主クリシュナはいつもご自分を思い出していることの大切さを説明なさいます。

(サンスクリット引用)

「何であれ人が自分の体を去る(to quit)ときに覚えている状態を、おお、クンティーの息子よ、その状態を彼は必ず得ます。したがって、アルジュナよ。 あなたはいつもクリシュナの形で私のことを考え、同時に、戦うことという(of)あなたの定められた(prescribed)義務を果たすべきです。

あなたの活動が私に捧げられ、あなたの心と知性が私に定められているとき(with your activities dedicated to Me and your mind and intelligence fixed on Me)、疑いもなく、あなたは私のところに至るでしょう。」

第8段落
死のとき、私たちの意識の状態が私たちの次の生を決定します。死は5つの粗い(gross、密度の濃い)要素からなる体を滅ぼしますが、心、知性、および偽りの自我からなる精妙な(subtle、密度の薄い)体は残ります。

ちょうど空気が(それが)上を吹く場所の香りを運ぶように、そのように魂は、心、知性、および偽りの自我という(of)人の精妙な体を、意識の状態と共に次の生に運び(to carry ~ on to ~)、そして彼の体は相応に決定されます。

風が花園(garden)の上を吹くとき、それは(with it、それと共に)花の香りを運びますが、それがゴミの上を吹くとき、風は悪臭(stench)で満たされます。同様に、人が自分の生涯の間に行うことは継続して彼の精神性に影響を与え、そして死のときにこれらの活動の累積した(cumulative)効果が彼の意識の状態を決定します。

こうして、人の生涯の間に形作られた精妙な体は、人の次の生に持ち越され、魂の次の密度の濃い体(gross body、肉体)として顕現します。したがって、自然と、密度の濃い体は人の意識の状態を反映します。よく知られたことわざにあるように、「顔は心の鏡」(The face is the index of the mind)です。

そして心は人の現在および過去の人生の活動の産物です。言い換えると、この生および過去の生における(人の)習慣によって影響される、人の心、知性、および偽りの自我は、人が次の生において得る体と精神性の種類を決定する鋳型(matrix、基盤、発生源、原盤など)を形成します。このように(Hence)、人の過去、現在そして未来の生の間の結びつきは、心、知性、および偽りの自我です(訳注:~を結びつけるものは~です)。

第9段落
日中の活動は夜に夢を生じさせ(to evoke)、それらの活動に応じた(appropriate)感情を引き起こします(to induce)。同様に、人の生涯において行われた活動は、死の瞬間に人の心に瞬間的に蘇り(to flash across one's mind)、人の次の生を決定します。

したがって、もしも人の現在の活動が、主の美しさ、性質、娯楽、仲間、そしてその他の主に関わる事柄(paraphernalia)と共に、至高主の超越的な御名を唱えること、聞くこと、そして覚えていることに向けられるなら、それなら人が自分の体を去る瞬間の意識は自動的に主に惹き付けられるでしょう。

死の瞬間のそのような意識の霊的な状態は、彼の直後の(very next、すぐ次の)生における、至高主の永遠のお住まいへの魂の入場を確実にします。(訳注:死の瞬間に意識がそのような霊的な状態にあると、魂はそのすぐ後に生まれ変わるとき、必ず主の永遠のお住まいに入ることができます。)

この霊的な意識を目覚めさせることが人生における人間の主要な目的(goal)です。したがって私たちは、制約された魂への同情(compassion)から、主クリシュナがアルジュナに、戦い、そして同時に主を覚えているようにお教えになるのを見ます。(訳注:そのため主はアルジュナに~とお教えになります。)

これはカルマ・ヨガと呼ばれます。したがって献身者は、自分のすべての活動において---食べ物と安全のための努力において、そして戦争で戦っている間に戦場の只中においてさえ---いつも主を思い出します。

人生は、その中で人がいつでも死ぬかもしれない戦場のようなものなので(Life being like a battle field, in which one may die at any time)、献身者はどの瞬間でも主を思い出していて、そして主はすすんで(willingly)彼らの、戦車にも似た体の御者になられます。

彼らの体、心、そして言葉の活動は、こうして至高主のご意志によって駆り立てられ(to be prompted、促す)、そして最後には、彼らが自分の密度の濃い体と密度の薄い体を去るとき、彼らは直接、霊的な天空に行きます。

第10段落
純粋な献身奉仕の主要なしるし(symptom)は、聖なる御名を常に唱え、聞き、そして覚えていることです。先に論じたように、混じり気のある献身奉仕とはカルマ(結果を求める欲望)とジニャーナ(知識への執着)によって混ぜ物をした(to be adulterated、混ぜ物をしたことで質が落とされた)献身奉仕です。

そのような献身奉仕は、往々にして、人がたまたま陥った特定の状況や人間関係によって(by the particular situation or association a person finds himself in)妨げられます(to be impeded)。しかし、純粋な献身奉仕には決して何らの妨げ(impediment)もありません。

至高主の完璧な認識(realization、はっきりとした理解)は、人が混じり気のない献身奉仕に堅固に位置するまで生じません。主クリシュナはこれをバガヴァッド・ギーター(18.15)において確認なさいます。(サンスクリット引用)

「人は、純粋な献身奉仕によってのみ、私をありのままに(to understand Me as I am、私を私として)
(without deviation)、至高の人格神として、理解することができます。」そして8.14の節において、主はこの純粋な献身奉仕の主要な特徴に言及なさいます。

(サンスクリット引用)

「それることなく(without deviation)いつも私を覚えている者にとって、私は得るのが簡単です、おお、プリターの息子よ。なぜなら、彼はいつも献身奉仕に携わっているからです。」(訳注:原文は長い一文。)

第11段落
至高主へのぶれることのない集中は、純粋な献身の最初のしるしです。言い換えると、純粋な献身者とは、至高主への断固たる(unflinching、ひるむことのない)献身奉仕に関係のないすべての欲望と思考を払いのける(to ward off、撃退する)者です。

多くの霊的な猛者(stalwarts、信念の固い者)が純粋な献身奉仕について言及しています(to comment upon~)。例えば、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブの時代の偉大な霊的な教師たち(preceptors)の筆頭であるシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、自著「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー」(1.1.11)においてこう書きました。

(サンスクリット引用)

「人は、至高主クリシュナに好意的に、そして結果を求める活動や哲学的な推量を通した物質的な利益(profit or gain。訳注:同義の言葉)への欲望なく、超越的な愛情ある奉仕をするべきです。それは純粋な献身奉仕と呼ばれます。」

第12段落
人々は自分の物質的な欲望を満足させるために半神たちの機嫌をとります(to propitiate)。病から逃れるために(in order to escape ill health)太陽神のような半神たちをなだめようとする(to appease)、あの、クリシュナの初心者の献身者たちは、主クリシュナの至高の神性(divinity、神格)についての深刻な(serious)疑念に屈する(to succumb to~)ので、そうします。(訳注;~が~するのは~であるためです。)

アニャービーラーシャ(「主クリシュナに奉仕をすることに向けられたもの以外の欲望」)という言葉を分析するとき(in analyzing)、私たちは、人が、至高主の力の顕現に過ぎない太陽神は人を病(ill health)から守ることができるが至高主クリシュナはできない、と考えるとき、この種の歪んだ知性を心に抱く(to foster)、ということを見出します。

これらの心を曇らせる疑いがいったん晴れると(to disperse)、人は純粋な献身奉仕の扉をくぐります。カルミーとジニャーニーもまた、物質的な欲望によって汚されています(to be tainted)---それぞれ、自分の感覚を楽しみたいという欲望と、解放を求める欲望です。

純粋な献身奉仕は、これらの物質的な欲望が消え(to be dissipated)、人が主クリシュナに途切れず(unbroken)好意的な献身奉仕を行うときにだけ得られます。偉大な聖人ナーラダはこう言いました。

(サンスクリット引用)

「バークティ、すなわち献身奉仕は、私たちのすべての感覚を主、至高の人格神、すべての感覚の主への奉仕に携わらせることを意味します。霊魂が主に奉仕をするとき、二つの副作用があります---人はすべての物質的な区分(designations、呼称)から解放され、そして単に主への奉仕に携わることによって(by being employed in ~)、人の感覚は浄化されます。」(ナーラダ・パンチャラートラ)

第13段落
人が自分の心と体に関係して受け入れる(to adopt)様々な自己認識(identities)は、すべて物質的な区分(designations)です。純粋な魂はそのような俗的な区分によって煩わされません(to be unencumbered、心配や負担がない)。

なぜなら、彼が持つ唯一の自己認識は、至高主の従者であり切り離せ得ない部分である、というそれだからです。そのため(Thus)、すべての偽りの区分が剥がれ落ちること(shedding)に伴って、人は超越性の状態(state)に入り、そして超越性に堅固に位置するとき、人は純粋になります。

そのような浄化された感覚をもって至高主、すべての感覚の主に奉仕をすることが、混じり気のない献身奉仕です。

第14段落
バガヴァッド・ギーターの8章14節において、アナニャ・チェター(それることなく)とニテャ・ユクタ(常に、定期的にregularly)という二つの単語は大変重要です。人は、それることのない信仰に堅固に位置することなくしては(being fixed in ~)、献身の実践においてそれないようになることはできません。

人がこの信仰をもって常に至高主に奉仕をするとき、彼は自動的に、結果を求める活動、推量的な知識、半神の崇拝、そして儀式的な敬虔な活動へのすべての欲望を失い、そして彼は(自分の)献身奉仕においてそれないようになります。

サタラム(「いつも」、always)という単語は、献身奉仕は時間、場所、状況、逆境(adversity、不運、災難)などと関係がない(to be independent of~)ということを暗示する(to imply)として理解されねばなりません。

人種、カースト、性、あるいは他の物質的な区分に関わらず、すべての人が精神的な推量、結果を求める活動、およびヨガの実践を放棄し、それることなく主クリシュナの蓮の御足の完全な庇護の下に入ることができます。

ニテャという単語は、「毎日(daily)」、「定期的に(regularly)」、あるいは「常に(constantly)」を意味します。主クリシュナの蓮の御足に(on)常に瞑想する者は、簡単に主に至ることができます。主ブラーマーは、「ブラーマ・サムヒター」(5.33)において次のように述べられます。

(サンスクリット引用)

「私はゴヴィンダ、太古の主を崇拝します。主はヴェーダにとっては到達し得ず(inaccessible to the Vedas)、しかし魂の純粋な混じり気のない献身によって得られ得ます(obtainable)。主は唯一無二であり、滅びることがなく(not subject to decay)、主は始まりがなく、主の形は終わりがなく、主は始まりであり、永遠のプルシャです。それでいて主は(咲き誇る花のような)若々しい美しさ(the beauty of blooming youth)を持つ人格(person)です。」(訳注:原文は長い一文。)

第15段落
宗教的な義務を遂行すること、結果を求める活動を行うこと、経験主義的な(empiric)知識を培うこと、そして神秘的なヨガを実践する過程で、多くの労力、時間、そしてお金が使われます。人は、そのような活動の良い(pious、敬虔な)結果と共に、悪い(sinful、罪深い)反応も受け入れなければなりません。

これらの結果と反応を無にする(to nullify、無効にする)唯一の方法は、至高主クリシュナを崇拝することです。このように(Thus)、主クリシュナを崇拝して(主に)奉仕をすることは、世界全体にとって唯一の有利な(advantageous)活動です。

第16段落
至高主は永遠の喜びの体現(embodiment)であり、いつも超越的な娯楽にいそしんでおられます。主を崇拝するために唯一必要とされるものは、それることのない献身です---虚飾(ostentation、誇示)は主を喜ばせません。

主クリシュナへの献身奉仕は憎しみやねたみを作り出しません。不可知論的な(agnostic、神の存在を否定はしないが、その存在の確かな理解は不可能だとする理論)ならず者(reprobates)だけが、主への献身奉仕と主の献身者に強く反対します。

人は献身奉仕において最大の喜びを得ます。実に、人がついに主を得るとき、それは無限の至福(ecstasy)の海でおぼれるようなものです。主クリシュナの献身者だけが、この至福を味わい、いつも喜びに満ちていることができます。
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by ammolitering4 | 2014-11-08 13:58 | 「英知による放棄」 | Comments(1)