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ハリナム

こんにちは。またまた間が空いていてすみません。皆様お元気でいらっしゃいますか?先日、ハロウィーンのパレードが行われているときにダウンタウンを通りかかると、久しぶりにハリナムの一団に出会いました。ちょっと離れたところからあの独特のリズムが聞こえてきて、もしかしたら、と思ったので、近づいていって彼らの姿が見えたときにはとても嬉しかったです。その割には後ろからひっそりとついていっただけで、声を掛けることもしなかったのですけれど。。。どうもすみません。

私はもともとハリナムの音が好きで、あの変な格好をした浮かれた人たちはいったい何の冗談なのだろうと思ったのがハレ・クリシュナとの出会いでした。当時仲良くなったお坊さんたちはみんなどこか遠くに散らばってしまって、この日見かけた方たちはみんな私にとっては顔見知りという程度ですが、それでもやっぱり献身者の皆さんの姿を見ることができてよかったです。

翻訳はぼちぼち進んでいます。最近はまたしょうもないクラフトを熱心にやっていて、私は非常に忙しいのです。対象年齢7歳以上という子供向けの組紐作りキットを買ったら、すっかりはまってしまったのです。皆さんも組みひもは中毒性があって危険ですのでうかつに手を出されないほうがよろしいかと思います。
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by ammolitering4 | 2014-10-22 12:51 | Comments(8)

第6章 第6段落まで

第6章 主クリシュナはカリ・ユガにおいてご自分の聖なる御名として化身なさる

第1段落
貧弱な(meagre)知性を持った人は、はかない(fleeting、あっというまに過ぎていく)幸運のために半神を崇拝します。そのため、人はこう尋ねるかもしれません。「もしも至高主を崇拝することによって人が自分のすべての欲望を満たしてもらうことができるなら、なぜ誰もが主を崇拝しないのですか?」

デヴァルシ・ナーラダは、かつて、ユディースティーラ・マハーラージャによって出された(to be posed、問題や要求を提出する)同様の質問に答えました。

(サンスクリット引用)

「おお、王よ。ほとんど敬虔さ(piety)を持たない人は、決して主ゴヴィンダ、主の慈悲、主の聖なる御名、あるいは主の純粋な献身者への信頼(faith、信仰)を育むことができません。」

第2段落
主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(7.28)においてこれを確証なさいました(to corroborate)。

(サンスクリット引用)

「過去生とこの生において、敬虔に活動し、その(訳注:自分の)罪深い活動が完全に根こそぎにされた(eradicated、撲滅)者は、幻想の二重性から解放され、そして彼らは決意をもって私への奉仕にいそしみます。」

第3段落
悪魔的な精神性を持った者は、罪にまみれています(to be steeped in sin、~に没頭している)。そのため、霊的な知識の大切さに関する彼らの理解は無(nil)です。自分の社会的および霊的な階層の命令(dictates、神や良心や理性の命令)に従って暮らすことによって自分の罪を根こそぎにする(to eradicate)ことができ、そしてそのようにして十分な敬虔さ(piety)を得た者は、カルマ・ヨガを実践する資格があります。

徐々に彼らはジニャーナ・ヨガへと進み、そしてついに、瞑想において、彼らは主の超越的で至高の立場に気づきます。そのような、大いに(highly)幸運な、自己を認識した魂は、自分の心臓(heart)の中に、シャーマスンダラとして知られる、笛を吹いておられ、永遠で超越的で、二本の腕を持った 至高主のお姿を見ることができます。シュリー・ブラーマサムヒター(5.30)の中の主の描写は次のようなものです。

(サンスクリット引用)

「私はゴヴィンダ、太古の主を崇拝します。主は(ご自分の)笛を吹くのに熟達(adept)しておられ、蓮の花びらのような美しい(blooming、咲き誇る花のように美しい)目、孔雀の羽で飾られた頭、青い雲の色(hue、色調)に染まった(tinged、薄く色づいた)美しい体(the figure of beauty)、そして何百万ものキューピッドを魅了する(主の)独特の愛らしさをお持ちです(訳注:原文は長い一文)。」

第4段落
不正な(illicit、恥となるような不誠実さ)性交、あら捜し、不当な(unjustified)暴力などの罪を犯している者は、滅多に自己認識という(of)霊的な知識を得ません(to attain、努力して獲得する、高みに到達する)。

罪深い活動は無知の暗い暗闇(gloom、心の陰鬱さ)を深め、一方で敬虔な活動は超越的な知識の光を人の人生にもたらします。この知識はついにクリシュナの認識となります(to culminate、最高に達する)。しかし、単に敬虔な活動を行うことは、人に神認識の資格を与えません。

人が敬虔な活動をして聖人的な人々と関わるときにのみ、霊的な知識は彼の意識の上に訪れます(to dawn on ~、夜明けが訪れるように何かについて分かり始める)。それから、二重性の水準を超越するとき---特に彼がもはや完全真理の一重的あるいは二重的な(monistic or dualistic、一元論的あるいは二元論的)存在に関する論争(controversy)に加わらないとき---彼は主クリシュナを自分の悟り(enlightenment)において見て、主を唯一無二、比類するものなく至高であるとして、決意をもって崇拝します。

敬虔な活動の完成された段階において、徳の相が意識を支配し、無明の相の産物である無知(nescience)と幻想の闇を消します。熱情の相が完全に抑えられれば(to be subdued、静められる)
直ちに、霊的な認識が人の意識の天空を照らします。

第5段落
この重大時に(at this juncture)考えるべき点は、現在の時代、カリ・ユガにおいて、火の犠牲、慈善における施し、苦行(penances)、あるいは禁欲(austerities)などの敬虔な活動を正しく行う手段を持っている者がいるか、ということです。

カリ・ユガの不運な人々はそのような豪華(訳注:な儀式など)(extravagances、浪費、過度の贅沢)を行う(to undertake、請け負う、企てる)ことが全くできないというのは、共通して(universally、普遍的に)受け入れられています。

この理由により、至高神の最も寛大な(munificent)化身でありカリ・ユガの救世主(savior)である主チャイタンニャは、ブリハン・ナーラディーヤ・プラーナから次のマントラの真実を宣言なさいました(訳注:~が真実であることを、という意味だと思われる)。

(サンスクリット引用)

「このいさかいと偽善(hypocrisy)の時代において、救済(deliverance、魂の救済)のための(of)唯一の方法は、主の聖なる御名を唱えること、主の聖なる御名を唱えること、主の聖なる御名を唱えることです。他の方法はありません。他の方法はありません。他の方法はありません。」

第6段落
カリの時代において、完成を得るための唯一の方法は至高主の聖なる御名を聞き、唱え、覚えている(to remember、思い出す)ことです。(訳注;複数の)聖典からの無数の引用文がこれを確証します(to substantiate)。

すべての不吉さ(inauspiciousness、縁起の悪さ)は、主クリシュナの完全に縁起のよい(all-auspicious)御名を唱えることによって滅ぼされます。シュリマッド・バーガヴァタム(12.12.55)はこれを確認します。

(サンスクリット引用)

「主クリシュナの蓮の御足を覚えていること(remembrance、思い出すこと)は、すべての不吉な(inauspicious)ものを滅ぼし、最大の幸運をもたらします(to award)。それは、自己認識(realization)と放棄によってより豊かにされた(enriched)知識を伴って(along with~)、心を浄化し、至高の魂への献身を授けます。」
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by ammolitering4 | 2014-10-12 04:30 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第5章 終わりまで

第12段落
マーヤーヴァーディーはエネルギーの変容という理論を避け、ブラーマンそのものの変容という理論に賛同します(to subscribe to~)。そのため彼らは、ブラーマンは非人格的であるという自分たちの信念に凝り固まるようになります(to become fixed in ~)。

至高主は、主がご自分自身をその非人格的な形において顕現する特定の状況を描写なさいました。この点を実証している(substantiating)、聖典からの多くの引用があります。至高主は、ご自分の人格的な特徴と非人格的な特徴の両方を顕現することによって、至高の完全人格(the Supreme Absolute Person)は、計り知れず、そして同時に(inconceivably and simultaneously)、ご自分のエネルギーと同一であり異なる、という原則をしっかりと確立なさいました。

アチンテャ・ベーダーベーダー・タットヴァと呼ばれるこの哲学的な結論は、主クリシュナご自身によってバガヴァッド・ギーター(7.12)において説明されています。

(サンスクリット引用)

「私は、ある意味ではすべてですが、私は独立しています。私は物質自然の相の下にはありません。なぜなら、その反対に、それらは私の内にあるからです。」

第13段落
至高のエネルギー的なものは、すべてのエネルギーの源です。それでも、すべてのエネルギーが主から放射するにも関わらず、主はこれらのエネルギーの働きから離れていらっしゃいます。このことから私たちは、半神たちの並外れた力は至高主の力の本質的な(intrinsic、本来備わっている)部分であり、しかし半神たちは主から離れている、と結論することができます。

そのため、半神によって授けられた恩恵(boons)は、受け取り手に一時的に利益を与えるだけです。主クリシュナはこの事実をバガヴァッド・ギーター(7.23)において確認なさいます。

(サンスクリット引用)

「知性の低い者(men of small intelligence)は半神を崇拝し、そして彼らの成果は限られており、一時的です。半神を崇拝する者は半神の惑星に行きますが、私の献身者は究極的に私の至高の惑星に至ります。」

第14段落
私たちは既に、もしも結果を求める欲望に満ちた「結果を求めて働く者たち」(訳注:長いので分かりやすくするために括弧に入れています)が半神のところに行く代わりに至高主に近づくなら、それなら彼らが至高主から受け取る恩恵は永遠に続く、ということを論じました。

彼らは自動的にヨガの階段において一段上がります---結果を求める活動からジニャーナ・ヨガ、すなわち完全な知識への道です。これは、この物質的な世界の中で天国のような惑星に上げられる代わりに、彼らがヴァイクンターの惑星、この物質的な世界を超えた主の霊的なお住まいにおいて解放を得る、ということを意味します。

半神崇拝者は、半神たちの惑星、一時的である天国のような惑星に行きます。いったん、人が溜め込んだ徳(piety、敬虔さ)が使い切られると、彼は地球に戻ってこなければなりません。他方で、至高主の献身者がヴァイクンター、霊的な天空の中の主の至高のお住まいに至ると、彼らは決してこの死が運命づけられた世界(this world of mortality)に戻る必要がありません。
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by ammolitering4 | 2014-10-12 04:24 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第5章 11段落まで

第5段落
(人が)どんな欲望を持っているのであれ、それを満たすために、彼は熱情的で(intense、極端、強烈、懸命)断固とした(unfaltering、ぐらつかない)献身(の念)をもって主クリシュナ、至高の人格神に奉仕をしなければなりません。

(この点は、先にシュリーラ・ヴィシュヴァナーター・チャクラヴァルティー・タークラによって論じられました。)もしもこの命令が守られるなら(to be followed)、それなら主クリシュナに反感(aversion、強い嫌悪感)を持つ者たちさえも、やがて主に服従する決意をするでしょう。

第6段落
主クリシュナは至高の統御者であり、至高の完全存在ですが、それでも主は決してご自分の意志を微細な生命体の上に強制なさいません。むしろ、主クリシュナだけが至高の人格神であって他のすべての者は主の従者であると認める(to recognize、はっきり知る)ことは、生命体自身の利益のためです(to ~'s own benefit)。

太陽神と他の半神たちは、主クリシュナのご意志(wishes)に応じて自分たちの義務を果たします。実に、これが彼らが半神と呼ばれる理由です。そして、至高主の献身者もまた、主のご意志に従うので、彼もまたスラ、すなわち半神として知られます。逆に、主のご意志に逆らう者たちはアスラ、悪魔として知られます。

第7段落
半神たちは何らの独立した力も持っていません。事実、彼らは自分たちへの尊敬の念を引き起こす(to invoke、霊的な力などによって心に抱かせる)のに十分な力さえ持ちません(to wield、権力を行使する、掌握)。それは至高主によってなされます。

主クリシュナの部分的な拡張体、超魂は、すべての人の心臓の中にお住まいであり、人の心(heart)のうちに様々な半神への信仰(faith)と尊敬を育む(to instill、しみこませる)のは主(訳注:He、超魂)です。太陽神と他の半神の中に見られる並外れた(extraordinary)力は、事実、至高主の力です。

いったんこれらの並外れた力に惹きつけられると、知性的な人は徐々にその力の源、至高のエネルギー的なもの(the Supreme Energetic)、主クリシュナに引き寄せられます。半神の崇拝は、間接的で劣っていて、そして非体系的な、至高主の崇拝です。

自分の物質的な欲望を満たすことに過度に執着している者たちは、自然に、エネルギー的なもの、そのエネルギーの源よりも、エネルギーにもっと魅了されます(訳注:エネルギーの源よりもエネルギーそのものに)。そのためバガヴァッド・ギーター(7.21~22)において主クリシュナはこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私は超魂としてすべての者の心臓の中にいます。人が何らかの半神を崇拝したいと欲すれば、直ちに、彼が自分自身をその特定の神(deity)に捧げられる(to devote)ように、私は彼の信仰(faith)を堅固(steady)にします。

そのような信仰を授けられ(to be endowed with)、彼は特定の半神を崇拝する努力をし、自分の欲するもの(desires、通常は単数形)を得ます。しかし実際には、これらの恩恵(benefits)は私だけによって授けられます。」

第8段落
半神の力は、王の役人(officers)のそれのようなものです。ジーヴァ、(すなわち)微細な(minute)生命体であるので、半神たちは何の独立した力も持ちません。王の役人は王によって彼に授けられた(to be invested)力のおかげで(because of)、何らかの恩恵(favor)を授けることができます。

同様に、至高主が半神に幾らかの力を与えたので、半神は自分の信者(worshipper、崇拝する者)に恩恵を施す(to shower、浴びせる)ことができます。もしも欲望に満ちた半神崇拝者が、自分が崇拝する半神は主クリシュナの恵み(grace、慈悲)によって自分の欲望を満たしている、という事実に関して少し知れば(to become a little enlightened)、それなら明瞭な知性をもって彼は主クリシュナを直接崇拝し始めるでしょう。

第9段落
異なる半神は異なる力を持っています。太陽神は病を癒す力を持ち、月の神は植物に味と栄養、あるいは医学的な力(訳注:薬用となる力、成分)を与え(to imbue、満たす、染める、育むなど)、女神ドゥルガーは力と勇気を与え、女神サラスヴァティーは学識(learning)を与え、女神ラクシュミーは富を授け、女神チャーンディーは人に肉と陶酔物を消費する機会を与え、そしてガネシャは人の努力における成功を与えます。

しかし、これらすべての力は至高主によって半神の中に授けられており、そしてそのため、主、完全な全体だけがすべての種類の恩恵を授けることができます。井戸と海の間には計り知れない違いがあります。

第10段落
私たちは既に、世界の中のすべてのものは主のクシェトラ・シャクティ(主の劣性なるエネルギー、「活動の場」からなる)と、主のクシェトラジニャ・シャクティ(主の優性なるエネルギー、すなわち「場を知るもの」)の相互作用によって作られた、という点に触れました。

従って、この世界の中のすべてのものは、単に主クリシュナのエネルギーの変容です。ある意味では、エネルギー原則とエネルギー的(なものの)原則は異なるものではありません。ちょうど、火とその燃やす力が切り離され得ず、異なるものではないようにです。

不幸にして、非人格主義者、一元論的な(monistic)哲学者たちは、主のエネルギーの変容に関する彼らの誤って導かれた意見をもって、世界に破壊をもたらしました(to wreak havoc、大惨事)。

第11段落
半神と他のすべての生命体は、エネルギー原則に属しており、物質自然そのものも同様です。主と主の完全(plenary)拡張体だけがエネルギー的な原則の区分にあります。このように(Thus)エネルギーとエネルギー的なものは一つであって、異なります。

主と主のエネルギーの、同時の、計り知れない一体性と相違、というこの精妙な(subtle)原則を理解(to grasp、ことの本質を理解する)できない者は、必ず非人格者、すなわちマーヤーヴァーディーへと堕落するでしょう(to degenerate)。

彼は強制的に献身の道から外され(to be forced from ~)、沈黙するでしょう(to become silent)。至高主、すべての富の源は、エネルギー的な原則です。もしも私たちが主を非人格的であると考えるなら、それなら私たちは主の完全性を制限します。

「至高の完全(Supreme Absolute)」という言葉(words)は主クリシュナだけに当てはまります。主は至高の完全原則、比類するものなく、超えるものもありません(unequalled and unsurpassed)。そのためヴェーダは、主は「唯一無二」であると言います。

主のエネルギーは様々な形で顕現し、そしてこれらの様々な顕現によって惑わされる(to become bewildered)者は多神論者(polytheists)となる結果になります。何であれ、私たちが宇宙の中に見る多様性は至高主の多様なエネルギーの変容に過ぎないということが、すべての人にとって明らかであるべきです(it should be clear to all)。
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by ammolitering4 | 2014-10-11 15:02 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第5章 第4段落まで

第5章 主クリシュナだけが至高神である:他のすべての者は主の従者である

第1段落
一般に、ジニャーニーの傾向は、非人格的で一元論的な(monistic)考えのほうに向かっていく(to veer toward、方向が変わる、それる)というものです。彼らの一元論(monism)に関する考え方はこうです。物質的な存在のはかなさ(transience)と苦さを経験し、結果を求める活動の無益さ(futility、徒労)を認識したので、彼らは今、自分は至高の自己(the Self)、ブラーマン、完全真理であると認識します。

事実は、超越性の認識が完全に完成するとき、人は最高の霊的なお住まいにおける完全真理の個人的な側面を知覚します。そして、至高の人格神の個人的な側面の知覚が深まるとき、人は自然に主クリシュナの完全な超越的な美しさに魅了されるようになります。主はバガヴァッド・ギーター(7.19)において次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「多くの誕生と死の後で、本当に知識のある(in knowledge)者は、私を(訳注:が)すべての原因の原因であり存在のすべてであると知って、私に服従します。そのような偉大な魂は非常に稀です。」

第2段落
主クリシュナを完全に理解する者は、物質存在全体の中のどこででも、決して何の苦さ(bitterness、苦しみ)も経験しません。彼は、主との自分の(校正:His → his)永遠の関係という知識で成長します(to thrive on ~、~によって栄える、大きくなる)。

実に、彼は世界の中のすべてのものを、そして世界そのものを、クリシュナとの関わりにおいて(in relation to)見ます。このように、彼はこの世界を単にはかない(evanescent、一過性の、消えていく)物体と見なす非人格主義的な救世主義者(salvationists、救世軍の軍人を指すことが多いが、ここでは単に魂の救済を述べ伝える人)とは異なっています。

そのような賢明な献身者は、すべてのものは主クリシュナへの奉仕に携わっていると、何もこの関係から外れて、主クリシュナから独立して存在することはできないと、認識します。言い換えると、献身者にとってこの世界は変容し(to become transformed)、すべてのものの中にクリシュナの存在が満ち溢れる(surcharged with ~ in everything)ようになります。

幻想の力は忘却(oblivion)へと退き(to recede、薄らぐ)、そしてこの世界は霊的な世界、ヴァイクンターの性質を帯びます(to take on)。そのような純粋なクリシュナの献身者は、自分だけが主クリシュナの蓮の御足に服従することの利益を楽しむと考えるほど自己中心的ではありません。

そうではなく(rather)、彼は世界のすべての人を主クリシュナに惹きつけようとします。そして、この努力によって彼はマハートマー、寛大な(magnanimous、度量の大きい、太っ腹な)魂として知られるようになります。そのような寛大な魂は本当に稀です。

第3段落
最初に、この世界全体に主クリシュナの存在が行き渡っている(to be pervaded with~)と認識することなく、多くのいわゆる(so-called、名前だけの)マハートマーたちが、自分たちが主(the Lord and master、同じ意味の言葉を重ねた強調表現)となって、それとして(in that capacity、主として)奉仕されたがるのが見られます。

このようにして彼らは主の幻想の力によって完全に捕らわれます(to be imprisoned、囚人になる)。彼らは、終わりのない欲望によって追い回され(to be hounded、猟犬に追い立てられるような様子)、爆撃されます(to be bombarded、攻撃、砲撃)。

その欲望は最終的に、彼らに至高主よりも劣る半神たちを崇拝し始めることを強います。クリシュナはバガヴァッド・ギーター(7.20)においてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「物質的な欲望によってその知性を盗まれた者は半神に服従し、彼ら自身の性質に応じて特定の規則と規律に従います。」

第4段落
このように無限の欲望によって常に苦しめられている者たちは非常に苦しみ、その苦しみが彼らの知性を駄目にします(~suffer much distress, which spoils their intelligence)。それが、クリシュナが彼らをフリタ・ジニャーナー、「知性を失った者たち」と呼ぶ理由です。

彼らは多神論者(polytheists)となり、様々な半神たちを崇拝することを急ぎます(to hasten)。多神論者たちは「クリシュネ・バークティ・カイレ・サルヴァ・カルマ・クリタ・ハヤ」、「主クリシュナを崇拝することによって人は自動的に他のすべての従属的な義務を果たします(to take care of)」ということを理解することができません。

多神論者たちは、太陽神のような半神たちは至高主クリシュナと同等であると考えます。そのような歪んだ知性を持った者たち(men of distorted intelligence)は、決してクリシュナの蓮の御足により頼む(to take shelter of)ことができません。

他方で、鋭敏な(incisive)知性を持った、高尚な心の(lofty-minded)者たちは、主クリシュナが至高存在であると納得しています。もしもどういうわけか(somehow)彼らが何らかの物質的な欲望を心に抱く(to harbor、船が港に停泊している様子)なら、彼らは直ちに主クリシュナに近づき、主に祈ります。シュリマッド・バーガヴァタム(2.3.10)の中に、私たちはこの節を見出します。

(サンスクリット引用)

「より広い知性を持った者は、すべての(all、ありとあらゆる)物質的な欲望に満ちていようが、全く物質的な欲望がなかろうが、あるいは解放を欲していようが、とにかく(by all means、絶対に、なんとしても)至高の全体(the Supreme Whole)、至高の人格神を崇拝しなければなりません。」
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by ammolitering4 | 2014-10-09 14:42 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第4章終わりまで

第9段落
もしも何かの偶然によってマーヤーヴァーディーのサンニャースィーが少しの敬虔さ(piety)を得ることができ、そしてそれから純粋なヴァイシュナヴァの献身者によって恩恵を与えられるなら(to be graced)---ちょうどベナレスのマーヤーヴァーディーたちが主チャイタンニャによってそうされたように---そうすれば彼らは、非人格的なブラーマンあるいは超魂に関する(of)知識は不完全であると簡単に理解する(to realize、はっきりと認識する、悟る)ことができます。

それから彼らは至高の人格神に関する超越的な知識をもって(with)啓蒙されることができます(to be enlightened、霊的で明瞭な理解)。(訳注:この場合の withは、目的語を指して「~に関する超越的な知識を与えられて悟りを開く」というふうにも取れるし、ヴァイシュナヴァたちが教えてくれた~の知識によって啓蒙される、とも取れると思います。大きな違いはないとは思いますけれど。)

偉大なサナカ・リシのような過去の多くの賢人たち、そして有名なシュカデヴァ・ゴスヴァーミーのような、自己を認識した多くの放棄階級者たちは、(自分の)非人格的な修行(disciplines)を実践した後で、至高の人格神に関する知識への味を得ました(訳注:好むようになった)。

それから彼らは、至高主の超越的な娯楽を聞くことによって、得も言われぬ(indescribable、言葉で描写できないような)喜びを味わいました。シュリマッド・バーガヴァタム(2-1-9)において、シュカデヴァ・ゴスヴァーミーはこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、聖人的な王(パリクスィット)よ、私は確かに超越性の中に位置していましたが、それでも私は、啓蒙された節(enlightened verses)によって描写されている主の娯楽の叙述(delineation、描写)によって魅了されました。」

第10段落
ゴーディーヤ・ヴァイシュナヴァの霊的な継承(line、系列)における猛者(stalwarts、信念の強い者)の一人、シュリーラ・ヴィシュヴァナーター・チャクラヴァルティー・タークラは、主に近づく4種類の敬虔な人々、すなわち苦しんでいる者、物質的な利益を欲している者、知識欲のある者(the inquisitive、知りたがる者)、そして物事をありのままに知っている者について、ご自分の意見を述べられました。彼はこうおしゃいました。

(1)「苦しんでいる者、物質的な利益を必要としている者、そして知識欲のある者---これらの3つは、初心者の、結果を求めて働く(fruitive)献身者です。彼らの献身は、結果を求める欲望と混じっています。かれらのすべては、自分の特定の性質に応じてその欲望を満たしたいと欲します。

最後に、浄化されたとき、彼らは至高主の神聖なるお住まい---ヴァイクンターの惑星(訳注:複数)に辿りつきたいと欲します。彼らは、天国のような惑星(訳注:複数)に辿りつきたがるカルミー、すなわち結果を求めて働く者たちのようではありません。

クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.25)において「ヤーンティ・マッド・ヤージノ・ピ・マーム」:「私を崇拝する者は私の至高の住まいに至ります」とおっしゃいます。ジニャーニー、すなわち物事をありのままに知っている者は、4番目の種類の敬虔な者であり、彼は他の3つの種類(訳注:の者たち)よりも優れています。

彼の献身は知識と混じっているので、彼はより高い結果を得ます。サナカ・リシのように、彼は献身の中立性という味わい(devotional mellow of neutrality)を得ます(訳注:これは何のことかよく分かりません)。さらに、主と主の純粋な献身者が彼の上にいわれのない慈悲をお注ぎになるので、ジニャーニー献身者もまた、シュカデヴァ・ゴスヴァーミーの場合のように、至高神への純粋な愛を得ることができます。

結果を求める欲望と混じった献身が、それらの結果を求める欲望から自由になるとき、それは自動的に、知識と混じった献身へと変容します(is ~ transformed)。この、知識と混じった献身を実践することの結果は上に言及されています(訳注:先述の通りです)。

(2)「時として、混じりけのある(mixed)献身の部類に属する献身者が奉仕(servitude、隷属)の献身の味わい(mellow)への好みを育み、それを実践するとき、彼らは畏敬(awe)と崇敬(reverence)が混じった、奉仕(servitude)における献身を得ます。

彼らの献身がもっと浄化されるとき、彼らは奉仕(servitude)、友情などの味わいにおける純粋な献身を得て、主への愛のおかげで(due to)彼らは主の永遠の仲間(associates)になります。これらはすべてシュリマッド・バーガヴァタムにおいて明らかに描写されています(to be delineated)。ここで私たちは参考として2、3の要点だけを論じました。
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by ammolitering4 | 2014-10-09 09:54 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第4章 8節まで

第7段落
ほとんどの家庭人は、物質的な利益を欲します。特に最近では、ほとんどの人が貧困の危機(the pinch of poverty、 pinchは「ピンチの時」などの意味の他に、苦痛を伴う事態、ひとつまみ、つねって痛みを与えることなどの意味もある)を感じています。

普通の人は、ただ自分の感覚を楽しむためだけにお金を渇望します(to thirst for)。人がいったん、感覚を満足させる者たちとの無駄な関わり(company)の中に落ちると、彼は自分の富を華美な装飾品(fineries)、黄金、そして女性に費やします。

富が増えると(with more wealth)、彼は賞賛(adoration、崇拝、尊敬)と栄誉(distinction、他と違う優秀さ、名声)を求め、そしてこれらに伴って彼は豪邸、自動車などを得ます。この努力にはただ一つの関心事(interest、重要性)があり、そしてそれは感覚を楽しむことです。

人生における唯一の目的が感覚を満足させることである人々は、先に(訳注:前述のように)、知性において劣る、結果を求めて働く者、すなわちカルミーと呼ばれました(to be referred to)。もしも彼らのうちの誰かがたまたま幾らかの敬虔さを持っているなら、それならこれらの選ばれた(select、より抜きの)個人は、単に感覚をくすぐることに自分のすべての時間を浪費する(to fritter away、浅はかに無駄に費やす)のではなく、至高主を崇拝することに幾らかの時間を費やすでしょう。

これらの精鋭の(elite)カルミーたちは主の純粋な献身者とは関わりませんが(to associate with)、彼らは自分たちを霊性主義者(spiritualists)と呼びます。実際は、彼らは自分の肉体的な(carnal、肉感的、現世的)な欲望を満足させる欲望を抱いています(to harbor、心に抱く、かばう。港に停泊させる、という意味から来ている)。

彼らは、至高主がフリシーケシャ、「感覚の至高の主(master)」として知られていることを理解し損ないます(to fail to comprehend)。時として、ジニャーニー(知識を探し求める者)あるいは神秘的なヨガの実践者もまた、主を崇拝します(will worship)が、彼らもまた、究極的には単に感覚的な喜びだけに興味があります。

これらの不純な(adulterated、不純物が混じった)献身者が純粋な献身者になることができるための唯一の方法は、もしも彼らがシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーの「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー」を読むならばです。この本は、献身奉仕の科学における権威です。

第8段落
本物のジニャーニーは、どのようにすべてのものがブラーマン、完全真理とつながっているかを知っています。彼らは控えめで(humble、謙遜)、高ぶらず(unassuming、でしゃばらない、気取らない)、清潔で、教養があり(brahminical、「ブラーミン」は主にアメリカ東部の社会的なエリート、インテリを指すが、語源はインドのブラーマナ)、そしてグルに対してうやうやしく(reverent toward~)、そして彼らは他の多くの良い性質を持っています。

ほとんどの場合、彼らは放棄階級者(サンニャーサ)となり(to take to the renounced order)、純粋で聖人的な人生を送ります。それでも、頻繁に、これらのサンニャースィーたちは一つの大きな欠点を持つようになります(to develop)。彼らは自分を神だと考えるのです。

彼らはヴェーダの節「アハム・ブラーマースミ」、「私はブラーマンである」の意味を誤って解釈し、そしてそのため彼らはブラーマンに関する(of)純粋な知識をはっきりと理解することができません(to realize)。

彼らは否定(negation、無、非実在)の過程を神聖視する(to deify、神としてあがめる)結果となり、そしてそれは最終的に完全な一元論(monism)につながります。(訳注:「否定の過程を神聖視する」とは何のことか私は分かりません。)

このようにして、完全真理、至高のブラーマンを知りたいと欲する多くのジニャーニーたちが、どういうわけか(somehow)、幻想の力、マーヤーによって誤って導かれます。マーヤー(訳注:女性)は、その(her)最後の致命的な(fatal、運命的)罠、(訳注:すなわち)解放を用意し、それによって彼女は一元論者たち(monists)を物質存在の海の中に取り残されたままにします(stranded、座礁)。

彼女は彼らを、まるで酔った虚脱状態(daze、ぼーっとした状態)の中にいるかのように、「私はあれである」、「私は主(He)である」と考えるように惑わします(to delude)。
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by ammolitering4 | 2014-10-08 13:50 | 「英知による放棄」 | Comments(0)