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第3章

第3章 教育システムに関するアン博士の発言

第1段落
私たちは、1957年1月12日のカルカッタ大学会議(convocation、大学の評議会)でのアン博士の演説(address)を聞いて嬉しく思いました。アン博士は現在、ビハール州の名誉知事(the honorable governor)でいらっしゃいます。以下は彼の演説からの抜粋です。

「私たちの(訳注:社会の)若者たちは、宗教とすべての宗教的なものに対する無言の(veiled、覆い隠された)軽蔑 (contempt)という伝統の中で育てられています。霊性主義者(spiritualists)と宗教的な献身者は教育のある若者たちのもの笑いの種(laughing-stock)であり、そして一般大衆は宗教心があって(religious-minded)そのような献身者と霊性主義者に大いなる尊敬と崇敬の念(reverence)を持っているので、彼らは一般に教育のある階層の態度に嫌悪感を感じており(to feel disgusted)、彼らに何の敬意(regard、好意)も持ちません。

教育のある階層も、その人生のあり方が主に宗教的な考え(ideas)によって形作られている大衆に何の愛情(affection)も持ちません。その結果は、教育のある階層は大衆の苦しみの改善(amelioration)のために本当の伝道精神(missionary spirit)をもって働く十分な数の公務員(servants、使用人)を作り出すことができていない、というものです。」

第2段落
アン博士は続けて、学校や大学(schools and colleges)での既存の学究コース(academic courses)は宗教に関する授業を除外している、と言います。

第3段落
私たちは地元の新聞からとったアン博士の演説のこの部分を引用しました。なぜなら、私たちは読者に、大学に宗教学を導入することの緊急の必要性を強く認識していただきたいからです(to impress upon)。

過去には、学校に宗教の授業を含めることに対して強い反対の声が上げられたため、それは除外されました。そして今、今日の若者の中に甚だしい反応(severe reactions)が見られています。私は、教育から霊的な学習を除外することは、人間の心が目覚めて花開くためのすべての機会を妨害する(to thwart)と考えます。

霊的な教育の欠如によって、今日の若者は節操がありません(undisciplined、規律されていない)。早朝に、そして再び夜に、祈ったり瞑想したりしない学生は、徐々に不可知論者(agnostics)になり、そして彼らの心は目的なく漂いまわります(to float about)。

彼らは宗教的な考えと倫理(ethics、道徳原理)を退け、その代わりに論理と議論(argument)を至高として奉じます(to embrace)。往々にして、彼らは誰か非良心的な(unscrupulous)政治家の悪しき支配(vicious grip)の中に落ちます。

大学からの宗教コースの除外は、最近は学生と教師の間の純粋で高尚な(sublime)関係が見られないことの主な理由です。多くの教育者が今日、宗教教育の必要性を感じています。

第4段落
2~3ヶ月前(1957年1月18日)、パトナの政庁(the Government House)でアン博士と会う機会があり、私たちは少し話をしました(to have discussion)。敬虔な人なので、彼は私たちの霊的な話題を喜ぶ(to appreciate、真価を理解する)ことができ、悪魔的な精神性を大規模に撲滅する(to eradicate)ことを目的とした私たちの伝道(missionary)活動への、全面的な支援を提供してくださいました。彼の最近の演説は、私たちに改善の望みを与えてくれます。

第5段落
歪んだ知性を持っているので(possessed of)、悪魔、悪者(rascals)そして愚か者たちは、決して主クリシュナに服従することができません。同様に、主クリシュナは決して彼らにご自分の慈悲をお見せになりません。

至高神の最も鷹揚な(munificent、気前の良い)化身、主チャイタンニャは、罪人ゴパーラ・チャーパラを拒絶(to repudiate)なさいました。なぜなら、彼は主の献身者をねたんでいたからです。このことに関して、至高主はご自分の意見をバガヴァッド・ギーター(4.11)において述べられます。

(サンスクリット引用)

「すべての者が私に服従するとき(As all surrender ~)、私は彼らに相応に報いを与えます。」そのため主は悪魔には、生命のますます低い種に滑り落ちて、何百万回も生まれ変わって地獄を苦しむように手配なさいます。16章(19-20)において、主はこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「ねたみ深くて悪意のある(mischievous)者たち、人間のうちで最も低い者たちを、私は永久に物質存在の海へ、生命の様々な悪魔的な種へ投げ込みます(to cast into)。生命の悪魔的な種の間に繰り返し生を受けるので、おお、クンティーの息子よ、そのような人々は決して私に近づくことができません。徐々に彼らは、存在の最も忌まわしい種類へと沈み落ちます。」

第6段落
それでも、至高主の献身者は主ご自身よりも慈悲深いので、私たちのような最も低い悪魔にさえ同情的です。

第7段落
主の献身者は、主ご自身が退けられる者たちさえも救うことができます。これが彼らの特徴的な性質です。したがって、主の献身者は、堕落した邪悪な(reprobate、神に見捨てられた)魂を破滅(perdition、地獄に落ちること)から救うために、様々な方法を手配します。

事実、彼らは持っているどんな方法でも---策略(tricks、騙すための企み)さえ使って、彼らを霊的な完成に向けて奨励するために、これらの霊的な落伍者(derelicts、見捨てられた者)たちの間に住みます。

シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラ・プラブパーダ睨下は、ロンドンに学生のホステルを開きたいと望んでおられました。その理屈は、あの堕落した(debauched、放蕩、道楽)学生たちに少々の感覚の満足という形で砂糖がけした薬を与えることが必要だったからです。彼らを神認識の道に加わることに惹き付けるためです(訳注:原文は長い一文)。

第8段落
もしも彼らがそう望むなら、強力な霊的指導者たち、すなわち主の純粋な献身者たちは、直ちに宇宙全体を解放し(to deliver)、すべての者を至高主の蓮の御足の庇護の下へと連れて行くことができます。

シュリーラ・ヴァースデヴァ・ダッタは主チャイタンニャに、もしも主がすべての生命体を一度に解放する意志をお持ちなら(to will)、自分は宇宙の中のすべての生命体のすべての罪深い反応を引き受けて(to take on)、永遠に地獄で苦しむ用意がある、と宣言なさいました。

純粋な献身者は非常に寛大なので(magnanimous)、彼らはいつもすべての魂の霊的な幸せ
(well-being、健康、福祉)を気にかけています(to be concerned)。至高主の慈悲を受け取るための唯一の方法は、そのような純粋な献身者の蓮の御足の埃を浴びることです(to bathe oneself in)。

第9段落
主の献身者は、人々を駄目にして彼らを悪魔的にしたのはマーヤーの影響であると理解しています。そのため、献身者の生来(inherently)高潔な(noble、すばらしい、高貴な)性質(disposition)は彼らを、ねたみに染まる(a tinge of)ことなく、悪魔の利益だけを考えることに導きます。(訳注:~は本来高潔な性質を持っているため、ねたみの心が差すことなく、悪魔の利益だけを考えるようになります。)

したがって献身者は、パティラ・パーヴァナ、「堕落した者の救済者(saviors)」として知られています。事実、献身者は至高主ご自身よりももっと同情的です。もちろん、彼らを主よりも同情的にするのは、至高主の恵みだけです。そして、そのような献身者の慈悲によって、最も低い、罪深い男たちと女たちが、主の蓮の御足に至る(to attain)ことができます。

第10段落
他方で、そのような純粋な献身者を怒らせることは(to offend、機嫌を損ねる、感情を害する)、救いのすべての可能性を終わらせます。もしも人が至高主を怒らせるなら、主の純粋な献身者だけが怒らせた者(offender)を救うことができます。

しかし、もしも人が純粋な献身者を怒らせるなら、それなら至高主さえも怒らせた者を破滅(doom、悪い運命)から救いません。この理由だけのために、純粋な献身者は決して怒りを感じません(to feel offended)。イエス・キリストが十字架に掛けられていたとき、彼はそのことで誰をも責めませんでした。

ハリダーサ・タークラはイスラム教の法官(Muslim Kazi)の見張り番(sentries、歩哨)によって、22ヶ所の市場でひどく鞭打たれました(to be lashed)。それでも彼は主に、自分を苛む者たち(tormentors)を罰しないように祈りました。

主ニテャーナンダは、ジャガーイとマーダーイという二人の悪者によって怪我を負わされましたが、それでも主は、ひどく血を流しながら、一歩も引くことがありませんでした(stood His ground)。主は二人の悪名高い兄弟たちを解放なさり、そしてピティタ・パーヴァナという称号を鮮やかに(brilliantly)例証なさいました(to exemplify)。純粋な献身者の深い(profound)同情心とは、そのようなものです(Such is~)。

第11段落
したがって、堕落者(reprobates)が何らかの信心(piety、敬虔さ)を得る唯一の方法は、献身者との関わりを通してです。私たちは、あの、すべてのヴァイシュナヴァたちの輝かしい(illustrious、華々しい、著名な)宝珠(crest jewel、crestは冠のてっぺんや紋章を指す)、バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラ・プラブパーダ睨下の信念の固い(stalwart、猛者)弟子たちが、彼らの霊的指導者の祝福を受けて、世界全体の祝福(benediction)のために再び集まり、これ以上時間を無駄にすることなく、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーとシュリーラ・ラグーナータ・ダーサ・ゴスヴァーミーの教えを広める、その時を心待ちにしています。

シュリーラ・ゴーラキショラ・ダーサ・バーバージーは、いつもご自分の弟子シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラに、ご自分がカリ・ユガの要塞(bastion)と考えていらしたカルカッタに行くことを思いとどまらせよう(to dissuade)となさいました。

それでも、一部の人々はシュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラがご自分のグルの命令に逆らったと考えるかもしれませんが、彼はカルカッタだけでなく、ロンドン、ベルリン、ボンベイ、マドラス、そしてデリーなどの、他のカリ・ユガの中心地(capitals)でも布教なさいました。

彼は、どこか静かな場所に寺院を建てて、修道院で受身的で波乱の少ない(passive and uneventful)人生を送ることに、激しく(vehemently)反対なさいました。彼は、人類の霊的な向上(upliftment)のために自分のエネルギーの100%を神への奉仕に活用する、という考えを完璧に代表なさいました(to represent)。

あるグジャラティ(訳注:インド北西部の地方)の友人が彼に、ボンベイの静かな郊外、ヴィル・パールに寺院を建てることを申し出ました。彼は直ちに拒否しました。私たちは、彼がこのように活動して布教するのを見るという、最もすばらしい幸運を持ちました。

そして今、パティラ・パーヴァナの模範(exemplar)、シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラの亡き後、私たちが自分の低い(lowly)、堕落したあり方に戻ってしまったのは、私たちの不運(ill fate)です。私たちの解放(deliverance)のために、希望の光(glimmer、ちらちらと見え隠れするかすかな光)はあるでしょうか?

第12段落
完全に堰き止められてしまっていた(to be dammed up)、愛情ある同情心の海から、主ニテャーナンダは至高神への愛という運河を切り開き(to cut a canal of love)、世界中を(訳注:至高神への愛で)みなぎらせました(to flood、洪水を起こす)。

そしてそれから、ゴスヴァーミー階級(caste Gosvamis)と呼ばれる一部の人々が、主の子孫であると主張して、再び自分たちの結果を求める活動と儀式の不正利用(malpractices、職権乱用、不正行為など)をもって、その慈悲の海を堰き止めました(to dam up)。

シュリーラ・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・タークラは、再び至高神への愛の運河を切り開き、洪水の水をもたらしました。そして今、他ならぬ私たちが、 ゴスヴァーミー階級のように再びそれを堰き止めようとしているのでしょうか?

主の献身者との良い関わりの影響によって、破壊的で悪魔的な精神性を持った私のような愚かな悪者(a fool and rascal)でさえ、至高主に奉仕をする気持ちになるほどに十分な敬虔さを培うことができます(to accumulate、蓄積、長期に渡って積み上げる)。

第13段落
生来、子供は落ち着きがなく、よく遊ぶものです(playful)。そのため幼稚園では学習に興味を持たせるために彼らにおもちゃとゲームが与えられます。同様に、初心者は犠牲の雰囲気の中で活動を行うように訓練され、そして彼は聖典の命令に応じて神像を崇拝することを奨励されます。

熟達したヴァイシュナヴァの教師(preceptors)は、それから、クリシュナ意識の霊的に強力な(potent)話題を語り、至高主に捧げられた食べ物の残り物を彼に与えることによって、徐々に彼を純粋な献身奉仕の水準に向けて引き寄せます(to draw toward)。

献身生活のこれらの二つの側面は、世界の他の者たち(the rest of the world)と同じく物質的な病によって影響されている(to be affected)初心者に、薬のように働きます。主クリシュナへの献身奉仕は、生命体の永遠の生来の権利(birthright)です。

それは人間の心によってでっちあげられた(to be fabricated)新しい主題ではありません。卑しい(base)愚か者は、主クリシュナへの献身は単に俗的な心の心理的な状態であると考えます。しかし本当は、献身奉仕は私たちの永遠の霊的な実質(substance、資産)---シュリマッド・バーガヴァタム(1.1.2)によれば「必要不可欠な霊的な現実」(ヴァースタヴァヴァストゥ)です。

主クリシュナへの献身は、献身者の浄化された心の中に自然に引き起こされます(to be invoked)。病が癒されるとき、患者は空腹を覚えます。同様に、初心者が献身者との関わりによって十分な敬虔さを育む(to accrue、自然に増えて利益が増す様子)とき、彼は自分の心の中に献身奉仕への魅力(attraction、魅了される気持ち)を感じます。

第14段落
4種類の敬虔な人々が至高主、クリシュナとの関係を確立します。主はバガヴァッド・ギーター(7.16)(校正 : →. )において、次のように述べられます。

(サンスクリット引用)

「おお、バーラタのうちで最良の者よ、4種類の敬虔な人々が私に献身奉仕を捧げ始めます---苦しんでいる者、富を欲する者、知識欲のある者(the inquisitive)、そして完全存在に関する知識を探し求めている者です。」

第15段落
人は、ヴァルナーシュラマ・ダールマの体系、、4つの霊的な階層と4つの社会的な階層を含む社会体系の下で厳密に自分の義務を遂行することによって、もう一つの種類の敬虔さを得ます。学識のある賢人たちは、ずっとこの体系を伝えてきました(to propagate、宣伝、普及)。ヴィシュヌ・プラーナ(3.8.9)にはこう述べられています。

(サンスクリット引用)

「至高の人格神、主ヴィシュヌは、ヴァルナとアーシュラマの体系において、定められた義務の正しい遂行によって崇拝されます。至高の人格神を満足させるための他の方法はありません。人は4つのヴァルナとアーシュラマの制度(institution)に位置していなければなりません。」

第16段落
ブラーマナ(知識人、僧侶階級)、クシャトリヤ(王と管理者(administrators))、ヴァイシャ(商業コミュニティー)、そしてシュードラ(非熟練(menial)労働者)(訳注:この場合は「下層、卑しい、雑用」などの意味)は、4つの社会的な階層、すなわちヴァルナです。

もしも彼らが自分の特定のヴァルナに関係する(pertaining to)聖典の命令に応じて暮らすなら、それなら彼らは敬虔さを培うことができます。同様に、もしも4つのアーシュラマ---つまりブラーマチャーリー(独身の(celibate、宗教的な理由による性的な禁欲)学生)、グリハスター(家庭人)、ヴァーナプラスター(巡礼者)、そしてサンニャースィー(放棄階級者)---の構成員もまた、聖典の命令(edicts)にしたがって(in conformity with)活動するなら、同じく計り知れない(immense、莫大な)敬虔さを得ます。

しかし、カリ・ユガの悪い(ill)影響がこのヴァルナーシュラマ体系を壊す(to corrupt)とき、人間の社会は様々な堕落(degradations、退廃)によって悩まされます(to be beset、付きまとう、取り囲む)。その結果、生命体は主の幻想の力によって引き起こされる様々な自然の惨事(calamities)によって罰せられます。

市民が王の規則に従う(to abide by)とき、王国は滑らかに営まれ(to run)、誰もが豊かで(prosperous、繁栄、順調)満足しています(content)。しかし、泥棒、悪党(rogues)、そして犯罪者という悪魔的な人口が着実に(steadily)増えるとき、王国は混沌と恐怖(terror)に満たされます。
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ぼちぼち進んでおります。みなさま、のんびりお待ちくださってありがとうございます。教育システムに関する今回のお話も興味深いものだと思います。日本では宗教は悪いものの代表みたいに思われている節がありますので、私も母から「あんたは宗教をしているのか!?」と問い詰められたことがあります。何やらあれこれの犯罪をやっているのかと問われるような言い方ですね。しかもインドの宗教ということで、即座にオウムと同一視されますし、返事に困ります、ほんと。

こんな風潮にあっては、学校で霊的なことを教えることなど不可能だろうなという気がします。今でも道徳の授業というのはやっているのでしょうか。あれは霊的なこととは全く関係ないし、変な思想が入り込む隙もいっぱいありそうな気がするのですが、少なくとも日本の学校であれば昔ながらの神道や仏教の教えなどをもうちょっと、せめて一般教養として教えたらどうかと私は思います。お地蔵さんや祠や道祖神の意味、ご神木や注連縄の意味など、知っていれば身近にも感じるだろうし、大切に思う気持ちも育つでしょう。そしたらやがて霊的なことに対しても自然な畏敬の念や探究心もわくと思います。霊的な存在なのに霊的なことをばい菌みたいに嫌って怖がる今の社会の状態は異常です。
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by ammolitering4 | 2014-05-25 12:10 | 「英知による放棄」 | Comments(4)

第2章 最後まで

第19段落
しかし、この完璧な認識への道は、マーヤー、打ち勝ちがたい(insurmountable、克服するのが難しい、あるいは不可能な様子)物質エネルギーによって引き起こされる障害(hindrances、妨害)を伴います(to be fraught with)。このことに関して、人はこう尋ねるかもしれません。

「もしも主クリシュナに奉仕をすることによって人が自動的にすべての従属的な(subsidiary、補助、副次)義務を果たす(to discharge)ことができるなら、それならなぜ世界中のすべての人が主クリシュナに服従して主を至高の完全存在として崇拝しないのですか?

世界のほとんどすべての人は、大なり小なり(more or less)、神は二人あるいはそれ以上ではなく、一人だけだということに同意します。それでも、その唯一無二の(one and only)至高の人格、主クリシュナがこの真理を宣言するために個人的においでになるとき、なぜ人々はまだ、主に服従するのを拒否するのですか?

おそらく、文盲で無知な者は主クリシュナの優越性(supremacy、主権、至上性)を受け入れることができず、したがって主に服従しないというのは理解できます。しかし、聖典を広範に渡って(extensively)議論し、それでもなお主クリシュナの蓮の御足により頼まない、大勢の学識ある(erudite)学者、哲学者、そして社会の指導者たちがいます。なぜでしょうか?」主ご自身がご自分のバガヴァッド・ギーター(7.15)においてこの質問にお答えになります。

(サンスクリット引用)

「ひどく(grossly、悪いことの程度が著しい状態)愚かであり、人間のうちで最も低く、その知識が幻想によって盗まれ、そして悪魔の無神論的な性質を帯びた(to partake)それらの悪党たち(miscreants、不信心者)は、私に服従しません。」

第20段落
悪魔的な精神性を持った人々は決して至高主に服従しません。いつも2種類の人間が存在していました。良い、敬虔な人間と、非敬虔な堕落者(reprobates、道楽者、無頼漢)です。これらの2種類の人々はいつも、すべての国と、そして歴史上のいつの時代でも存在します。

敬虔な人々は神の法に従い、そして徐々に上げられます。他方で、非敬虔な人々は気まぐれに(capriciously)神の法を見せびらかし(to flaunt)、独立的であろうとします。(訳注: to flauntは誇らしげに振りかざすことを指します。したがって、ここでは「非敬虔な人々は自分で独自に考えたことを神の法だと言い張る」という意味だと思います。)

人種的な紛争(strife)、内戦(civil wars)、暴力的な革命、そして世界大戦は、現代において非常によくあることで、すべて非敬虔な人々の気まぐれでわがままな性格によって引き起こされます。

第21段落
敬虔な人々はどの国にでも住んで彼らの聖典の教えに従うことができ(訳注:「彼らの」は、この場合は「自分たちの」を指し、「その国の」ではないと思われる。原文は~ can live in any country and adhere to the instructions of their scripture)、あるいは他の国の他の敬虔な人々と関わって知識と認識を交換することができます。

結果として、これらの完全真理の探求者たちは、主クリシュナが至高の人格神であると、確かに知覚することができます。他方で、罪深い人々は一つの関心ごと(interest)を持っています。自分の利己主義的な熱望(egoistic cravings)を満足させることです。

彼らは宗教の先導者(vanguards、先鋒、前衛、アヴァンギャルド)である振りをするかもしれません(to make a show of~)が、この見かけ(facade)の背後で、彼らは自分たちの不埒な(reprehensible、非難すべき)活動を続けます。

彼らは自分の生まれついた宗教(the religion of their birth)の神聖(sanctity)をそしり(to vilify、けなす)、自分の国の利益(interest)に反することをします(to go against)。彼らの自己中心的な暮らしは、彼らが人間の振る舞いの一般的なエチケットに従うことさえも妨げます(to preclude、不可能にする)。

(彼らが)自分の人生を主クリシュナへの献身奉仕に捧げることについては、何をか言わんや?そのような悪魔的な人々は、毒蛇よりも危険です。

第22段落
一般に、ひどい愚か者と無知な結果を求めて働く者たちは、至高主に服従しません。そのような人々は決して完全真理について考えません(to enquire into~、調査、問い合わせ)。彼らは決して「神とは誰だろうか?」、「この世界とは何だろうか?」、「私は誰だろうか?」、「なぜ私は一生ロバのように働いているのだろうか?」、あるいは「私の努力の結果は何だろうか?」などの質問をしません。

ロバは一生、ただ一握りの草のために洗濯屋の重荷を担いで奴隷のように働きます(to slave)。同様に、カルミー(結果を求めて働く者たち)は、単に食べ物と他の必需品の供給を確保するために、疲れを知らずに骨折って働きます(to toil、継続的な労苦)。

ロバは愚かさの象徴です。なぜなら、彼はただ自分の腹を満たし、雌ロバと交尾する(to copulate with ~)ためだけに一所懸命働くからです。ですから、愚かな(asinine、ロバのような)カルミーもまた、愛情と執着から、自分の家、そしてさらには彼らが崇拝に値すると考える、自分が生まれた国を維持するために苦労して、疲れを知らずに働きます。

家では、カルミーの唯一の楽しみの源は、彼のために料理し、彼の惨めな(misery-ridden、-riddenは何かに支配された様子を表す)感覚のために喜びを提供する、彼の妻です。近視眼的なカルミーは、自分自身あるいは自分たちの世界に関する何らの幅広い事柄についても、知りたいとは思いません。

彼らは単に、自分の家庭と身体的な事柄(care、関心事、気がかり、世話)につながれています(to be tethered、鎖をつけて行動を制限する)。そして、人々の感覚的な人生を助長する(to foster、養育)指導者たちは、普通のカルミーよりも大きな(bigger、ひどい)愚か者と悪者です。

したがって、彼らは決してバガヴァッド・ギーターあるいは主クリシュナに触れるようにはなりません(to come in contact with)。「服従する」という言葉は、彼らにとって何の意味もありません。

第23段落
至高主に服従しない人々は、ナラーダーマ、「人間のうちで最も低い者」と呼ばれます。そのような人々は、動物のように振舞って、自分の人間の人生を浪費します(to fritter away、空費、棒に振る)。言い換えると、人がこの稀な人間としての誕生をその実際の目的を達成するために使わず、堕落した活動においてそれを無駄にするとき、彼はナラーダーマと呼ばれます。

物乞いが突然宝を見つけ、それでも物乞いのように暮らし続けるなら、彼は確かに守銭奴(miser、惨めな人)であり、ナラーダーマです。同様に、誰かが人間としての誕生という貴重な(priceless、値段が付けられないほど貴重な様子)贈り物を受け取り、それでもそれを動物のように生きること---単に食べ、眠り、性交し、そして身を守ること---によって浪費する(to squander)とき、それならそのような人はナラーダーマです。

これらの愚か者たちは、より低い種における無数の(many millions)誕生の後で、魂がついに稀な人間としての誕生を受け取るということに気づきません。そして、自分自身を超越的な水準に上げ、完全真理に至り、そして霊的な世界の中の自分のもともとの家に戻るために魂が真摯に努力しなければならないのは、この誕生においてです。

もしもこの人間の人生において、何百万もの前世においてどれほどひどく苦しんだかを知った(to learn)後でさえも、魂が自分の状況を楽にする(to alleviate、苦しみを軽減する)ために何の試みも行わないなら(to make attempt)、それならそのような人は確かに惨めな守銭奴であり、ナラーダーマです。

しかし、もしも人が、ブラーマナの階級に上げられるようになることによって、自己認識のために自分の稀な人間としての誕生を活用しようとするなら、そのとき彼の人生は成功します(his life is successful)。ブラーマナは、生まれによるブラーマナを意味するのではありません。

ブラーマナは、主クリシュナ、ブラーマナたちの主に服従する者です。ナラーダーマは、そうするこができません。したがって、ナラーダーマ(訳注:という言葉)のもう一つの意味は、「献身奉仕を退ける者」です。

第24段落
主クリシュナに服従しない人間のもう一つの階級は、主に頑固に(staunchly、しっかりと、主義や方法に忠実に)反目する(inimical、敵意)悪魔たちです。ラーヴィナ、ヒラニャカシプ、ジャラーサンダー、そしてカムサなどの有名で強力な悪魔の王たちは、学習と厳しい修行(austerities)を通して多くの力を得ました。

しかし、いつも主ラーマ、主ヌリスィムハデヴァ、主ヴィシュヌ、そして主クリシュナなど至高主の様々な化身に挑戦したため、彼らは悪魔として知られています。往々にして、悪魔たちは教育や知性には欠けていませんが、至高主への極悪な(fiendish)精神性のため、彼らの学習と脳の能力(capacity)は無価値(naught)になります。

完全に物質自然の支配(grip、掌握)のうちにあるので、彼らの能力は究極的には彼らから取り去られます。悪魔たちの失敗の理由は先に述べられています。もしも人が主クリシュナに服従しないなら、物質自然を克服する(to surmount)ことは不可能です。

第25段落
クリシュナの献身者を苦しめることは(to torture、拷問)、主ラーマと主クリシュナは死ぬ運命にある普通の存在(ordinary mortals)なので自分たちを罰することはできない、と考える悪魔たちの関心事(preoccupation、没頭する事柄)です。

そのため悪魔たちは、自分たち自身(they themselves)、主ラーマと主クリシュナと同じくらい学識があって知性的であると結論します。ナヴァドヴィーパの無神論的な学徒たちは、主チャイタンニャは普通の人間だと考えました。

そしてそのため、彼らの尊敬を勝ち取るために、主は(訳注:俗世を)放棄していて厳格な(austere)、人生のサンニャーサの階級を受け入れられました(the renounced and and austere sannyasa order of life)。

このようにして主は、ご自分を神聖なる寛大さ(magnanimity)の化身(personification、権化、人格化)としてお見せになりました。悪魔たちはいつでも(invariably、常に、例外なく)物事を混乱させます。彼らは人間を神として崇拝し、神を人間と呼びます。

バガヴァッド・ギーター(9.11)において、主はそのようなひどく愚かな人々を適切に(fittingly)描写なさいます。(サンスクリット引用)「愚か者は、私が人間の形で降臨するとき、私をあざ笑います(to deride)。」

悪魔たちの学習、知性、そして称号は、毒蛇の頭(hood、傘のように広がったコブラの頭部)の上で輝く(to glitter)宝石のようなものです。蛇の頭の上の貴重な宝石の存在は、彼の毒液(venom)を減らしません。

同様に、悪魔の学識(erudition)、知性、そして称号は彼の悪魔らしさを減らすことはなく(~do not make him less of a demon)、そしてそのため、彼は毒のある(venomous)蛇と同じくらい恐ろしい(horrendous、ひどく悪い)のです。

第26段落
死体を飾ってそれを華やかさ(pomp、無駄な飾り)と共に葬式の薪(pyre、火葬のために積み上げた薪壇)に持って行くのは、確かに娯楽のためだけの目に余る見せびらかし(flagrant display)に他なりません。

一般の人々は、至高主の極悪の(arrant、途方もない)競争者である悪魔の上に栄誉(accolades)と
学究的な学位(degrees)が積み重なっているとき、同様に騙されます。現代の大学で若者たちに授けられる無神論的で悪魔的な教育は、単に称号を持った悪魔たちの集団(a bunch of demons、束)を作り出しています。

このことの証拠は、アリガー大学のガーグ学長が、ある学生たちにょって殺された最近の事件です。ウッター・プラデシュ州全体が衝撃を受け、この危険な(vicious、悪意のある)行いを徹底的に調査しました(to open a probe)。

州知事は指導者たちと教師たちの会議を召集しましたが(to call for)、過去にはすべてのそのような会議は同じ残念な結果(frustrating fate、挫折、失敗、落胆の運命)に遭いました。解決策がない、というものです。私たちは、現在の会議もまた、失敗に終わると考えます。

社会における悪魔的な精神性を根絶する(to eradicate)唯一の方法は、クリシュナ意識の科学を教えることです。悪魔たちによってもたらされた(to be wreaked、損害を生じさせる)すべての大惨事(disaster)と堕落(corruption、腐敗)を考慮すると(to take note of)、クリシュナ意識の科学を学んで教えることは、世界のすべての市民の道徳的な責任です。
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by ammolitering4 | 2014-05-20 10:57 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第2章 18段落まで

第13段落
このように、この物質世界の中のすべての現象は、単に至高主の優性なる霊的エネルギーと主の劣性なる物質エネルギーとの相互作用(interactions)です。物質エネルギーはクシェトラ、すなわち活動の場として知られ、そして霊的エネルギーはクシェトラ・ジニャ、すなわち活動の場を知る者として知られます。

生命体のすべての異なる種、そして(with)それぞれの様々な特徴は、クシェトラとクシェトラ・ジニャの相互作用によって作られます。エネルギー的な原則、これらのエネルギー両方の統御者は、至高の人格神、クリシュナです。

主は、この宇宙の顕現の創造、維持、そして破壊の究極の原因として認識されねばなりません。主はバガヴァッド・ギーター(7.6~7)において次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「すべての創造された存在は、その源をこれらの二つの自然(主の劣性および優性なるエネルギー)のうちに持っています。この世界の中の物質的であるものすべて、そして霊的であるものすべてについて(of)、私が源でもあり消滅(dissolution、溶解、滅亡)でもあると、確かに知りなさい。

おお、富を征服する者よ、私に優る真実はありません。真珠が糸でつながっているように(as pearls are strung on a thread)、すべてのものは私により頼みます(to rest upon)。」

第4段落
ブラーマンに関する、私たちがヴェーダから聞く様々な引用(訳注:ヴェーダの中にある、ブラーマンに関する様々な叙述)---エカム・エヴァードヴィティーヤム・ブラーマナ:「ブラーマンは唯一無二である」、

ネハ・ナーナースティ・キンカナ:「これの他には何も存在しない」、サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ:「すべてのものとすべての場所(everything and everywhere)はブラーマンである」、アハム・ブラーマースミ:「私はもともと(by nature、生来)ブラーマンである」など---は、その結論を上に引用したバガヴァッド・ギーターからの節において見出します。
(訳注:~など様々な叙述がありますが、それらすべての結論は~に集約されています。)6つの超越的な富を完全な水準で備えた至高主は、最高の統御原則です。主に等しい、あるいは優る名士(personality)は他にありません。

主クリシュナはこの点を、「私に優る真実はありません」と言うことによって、そしてそれからご自分がどのようにどこにでも存在していて、ご自分のあまねく存在する(all-pervasive)エネルギーを通してすべてのものと密接に関わっているか、ということを説明することによって、確認なさいます。(訳注:構文がややこしいですが、「どのように」はそれに続く2つの項目に掛かります。)

第15段落
物質自然は、主のエネルギーの変容(transformation)の結果です。エネルギーとエネルギー的なものの両方が計り知れず(inconceivable)、それらは同時に一つであり、異なっています。そのため(Hence)、サルヴァム・カールヴ・イダム・ブラーマ(「すべてのものはブラーマンである」)という句は、事実、すべてのものは至高主の物質的および霊的なエネルギーの変容から成るということを宣言します。

主のエネルギーの変容は、至高の完全真理を増しもせず、減らしもしません。そのためブラーマンは変化のないものとして描写されます。そして、劣性なるエネルギーは、ブラーマンの反映に過ぎないため、ニラーカーラ、非人格的です。

第16段落
シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは、主と主のエネルギーの同時の一体性と相違(訳注:~は同時に一体であって異なる)という哲学を広められました。最高の深遠な(esoteric、秘儀の)真理は、主クリシュナが至高の完全真理であり、生命体と物質世界の両方が主の従属的なエネルギーである、というものです。

この原理を理解し損ねる者は物質主義者であり、他方で、それを理解し、主クリシュナとの自分の関係を再確立しようとしている者は、解放された魂、主の献身者です。主クリシュナはこれをバガヴァッド・ギーター(7.13-14)において説明なさいます。

(サンスクリット引用)

「3つの相(徳、熱情および無明)によって幻惑され、世界全体が、相を超えていて尽きることのない(inexhaustible、無尽蔵)私を知りません。物質自然の3つの相から成る、私のこの聖なるエネルギーは、乗り越えるのが困難です。しかし、私に服従した者は容易にそれを越えることができます。」

第17段落
好むと好まざる、良いと悪いなどの二重性は、すべて物質自然の3つの相---徳、熱情、そして無明によるものです。これらの相は、すべての制約された生命体をそれらの支配(sway、ゆらぎ、振動、影響力)の下に保ちます。

したがって、制約された魂にとっては、至高主は完全に霊的であるため3つの相を超えていて、そのためパラム・アヴャヤム、完全に無尽蔵である、と理解するのが困難です。主がこれらの単語、パラム・アヴャヤムをお使いになる理由は、主はご自分の超越的なエネルギーを用いて(by means of)すべてのものに染み渡ります(to permeate)が、永遠に普遍で、完全な全体であり続けるからです。

人は、ブラーマン、至高の完全真理は宇宙の顕現全体に行き渡る(to pervade)ので、したがって主は決定的な(definitive)形あるいは人格を持つことができない、と考える間違いを犯すことを避けるべきです。

火から放射している熱はすべての方向に広がりますが、それでも火は不変のままに留まります。同様に、太陽は記憶にないほどの昔から光と熱を放射していますが、それでもそれはその力を少しも失っていません。

そして、太陽は至高主の無尽蔵な力のほんのわずかな部分を持っているに過ぎません(to possess but a minuscule fraction)。それでは(So)、主の力が変容したり減ったりすることについて、何の問いがあるでしょうか(what question is there)?(訳注:~することがあり得るでしょうか?)

(訳注:「変容」については第15段落に「物質自然は、主のエネルギーの変容(transformation)の結果です。」とありますが、この場合は同じ単語を使ってあっても意味は違うものと思われます。)

主のエネルギーは、火の熱と光のように、どこにでも広がりますが、それでも主のエネルギーはいつでも決して減り(to diminish)得ません。そのためバガヴァッド・ギーターにおいて主は、ご自分をパラム・アヴャヤム、無尽蔵、至高のエネルギー的な原則と描写なさいます。ヴェーダは主を次のように描写します。

(サンスクリット引用)

「何であれ完全な全体から作られるものは、それ自身もまた完全です(also complete in itself)。主は完全な全体でいらっしゃるので、非常に多くの完全体(complete unit)が主から放射するにも関わらず、主は完全な均衡を保たれます。(イーショパニシャッド、祈り)」

第18段落
至高主ご自身のように、自分自身を物質エネルギーの催眠的な(mesmerizing、魔法のように魅了し続ける様子)支配(grip、掌握)から自由にして主に近づくための過程もまた、唯一無二です。ちょうど、太陽を見るための唯一無二の方法は太陽光の助けによってであるように、至高の人格、主クリシュナを見るための唯一の方法は、太陽のようなクリシュナご自身の光(illumination、照明、啓蒙)によってです。

主の蓮の御足に服従し、主に愛情ある献身奉仕をすることによってのみ、人は主に近づくことができます。身体的な努力(strain、骨折り、重い負担)を通しての結果を求める(fruitive)活動も、精神的な体操(gymnastics)を通しての推量的な知識も、人が神意識の最高の完成を得るのを助けません(訳注:~の助けにはなりません)。

バークティ、すなわち献身を通してのみ、至高主に到達し得ます(can be achieved)。推量的な知識と神秘的なヨガは、最良でも人に完全真理の部分的な認識を---つまり、それぞれブラーマンとパラーマートマー(超魂)の認識を与える(to accord、許可などを与える)だけです。

人が至高の人格神、クリシュナ、永遠性と知識と喜びの体現を直接(face to face)知覚することができるのは、唯一、バークティという方法によってのみです。昇る太陽が夜の暗闇を追い払うとき、すべてのものがはっきりと見えるようになります。

同様に、クリシュナという太陽が人の意識の地平線の上に昇るとき、マーヤー、幻想エネルギーの地獄のような陰鬱さ(stygian gloom、stygianは地獄、暗黒、陰鬱、非道などの様子、gloomも同じく陰鬱さを指す)は追い払われ(to drive away)、すべてのもの(objects)のもともとの形がはっきりとした(distinct)焦点のうちにきます(訳注:~がはっきりとします)。このように、完全真理に関する(of)完全な知識と認識は、ただ至高主への献身を通してのみ来ます。
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by ammolitering4 | 2014-05-16 15:21 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第2章途中まで

第2章 主クリシュナは至高の完全真理である

第1段落
有名な無神論者カピラは、サーンキャーの哲学を広めました(to propagate、思想を普及させる)。彼は、物質世界は24個の物質的な要素から成ると結論しました。すなわち、土、水、火、空気、そしてエーテル;形、味、匂い、音、そして触覚(touch);目、舌、鼻、耳、そして肌;口、手、脚、肛門、そして性器;心、知性、そして偽りの自我;そして自然の3つの相の非顕現なる状態(プラーダーナ)です。

カピラが24個の要素を分析した後で非顕現なる魂を知覚できなかったとき(訳注:~は~の後でも~を知覚できなかったので)、彼は神は存在しないと結論しました。そのため、献身者のコミュニティーは(訳注:献身者たちは)カピラを無神論者と見なします。

第2段落
デヴァフーティの息子である主カピラは、無神論的なカピラとは別人です。主カピラは、至高の人格神の、権限を与えられた化身(an empowered incarnation of the Supreme Godhead)として受け入れられています。

バガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナは、無神論者カピラのサーンキャー哲学と、非顕現なる魂は不存在であるというその主張(contention、論点)を論駁なさいます(to refute、誤りを明らかにする)。ギーター(7.4)において、主クリシュナはまた、物質的な材料はすべてご自分の統御と監督の下にあるとも立証なさいます(to establish、確証)。

(サンスクリット引用)

「土、水、火、空気、エーテル、心、知性、そして偽りの自我---これらの8つは、総合して私の離れた物質的なエネルギーを構成します。」

第3段落
主クリシュナとは誰で、主のもともとの形とは何でしょうか?主の富(opulence、贅沢で豊富な様子)、力、名声、美、知識、そして放棄について知らない限り、人は決して純粋な献身奉仕の領域に入ることはできません。チャイタンニャ・チャリタームリタ(アーディ2.117)にはこのように述べられています。

(サンスクリット引用)

「真摯な学徒は、論争の的になる(controversial、議論の余地がある)と考えて、そのような哲学的な結論の議論(訳注:~について議論すること)を怠る(to neglect、軽視する、無視する)べきではありません。なぜなら、そのような議論は心を強めるからです。そのようにして、人の心はシュリー・クリシュナに執着するようになります。」

第4段落
クリシュナの知識のうちに位置し、それに応じて活動する者は、献身奉仕を遂行しています。カピラによって伝授された(to be initiated)過程を辿る(to pursue、遂行、追求)にあたって、人間は何百年も何千年もの間、同じことを見抜く(to fathom)ことに失敗してきました。(訳注:文脈から、「同じこと」とは「カピラによって伝授された過程」を指すものと思われます。)

至高主クリシュナは、ほんのいくつかの言葉で神秘の覆い(shroud)を持ち上げ(to lift、取り除く)、真理を明らかになさいました。「土、水、火、空気、エーテル、心、知性、そして偽りの自我---これらの8つは、総合して私の離れた物質的なエネルギーを構成します。

これらの他に、おお、強大なる(might-armed、mightは腕力や権力、armは武器や武力を指す)アルジュナよ、もう一つの、私の優性なるエネルギーがあり、それはこの物質的な、劣性なる自然の資源を搾取している生命体から成ります(to comprise)。

すべての作られたものは、これら二つの自然にその源を持っています。この世界の中の物質的であるもののすべて、そして霊的であるもののすべてについて(Of all that is material and all that is spiritual in this world)、私が源でもあり終わり(dissolution、溶解、解体、解散)でもあると、確かに知りなさい。」

第5段落
この真理を理解できない者は献身奉仕の科学から遠いままに留まり、他方でそれを理解する者は自分の献身生活において強められます。主クリシュナは至高の人格神、至高の男性です。そのため、至高の男性が存在するとき、自動的に物質自然、主の女性の片割れ(counterpart、相対物、対になったものの片方)は、主に奉仕をするために存在します。

偽って至高の人格の振りをする者は、物質自然を支配した(to have ~ at their disposal、~を自由にする)と主張し、自然はもはや主クリシュナの支配下(beck and call)にはないと結論します。もちろん(naturally)、これは馬鹿げており(absurd、不合理)、愚か者だけがそのような主張をします。

第6段落
同様に、至高の人格はプラクリティ、すなわち自然に従属している(subservient、卑屈、屈従)と提議する(to propound、説を述べる)哲学的な学派もまた、真理から遠くかけ離れています。人が自然についてだけ考えるとき(when one thinks about nature and nothing further)、考えは不完全なままになります。

人は、「それは誰の自然だろうか」と問わねばなりません。自然は誰かに所属しなければなりません;彼女は自分だけで存在することはできません。そのため、確立されなくてはならないのは、至高の人格、すなわちプルシャの自己認識(identity)---男性の要素(factor)です。

プラクリティはシャクティ、すなわちエネルギーと同じです。エネルギーを通して、知性的な人はエネルギーの所有者を探し求めます。ウパニシャッドと他のヴェーダの聖典は、ブラーマンが完全真理、そして様々な(multifarious)エネルギーの所有者であり源であると、明らかに述べます。

バガヴァッド・ギーター(14.27)において、このブラーマンはクリシュナの身体的な光輝であると言われます(ブラーマノ・ヒ・プラティシュターハム)。これはブラーマ・サムヒター(5.40)において確認されています。

(サンスクリット引用)

「私はゴヴィンダ、太古の主を崇拝します。主の光輝は、ウパニシャッドにおいて言及されている、区別されていない(nondifferentiated)ブラーマンの源です。俗的な宇宙の栄光の無限( infinity)から区別されているので(differentiated)、分割できない(indivisible)、無限の(infinite)、限りない(limitless)真理であるように見えます。」(訳注:原文は長い一文)。

第7段落
ブラーマンは、この現象の世界において、あまねく存在する(all-pervading)エネルギーとして存在します。したがってヴェーダはブラーマンを、形がない、非人格的、純粋などと定義しました。しかし、ブラーマンの源は、物質的な形は持たないけれど、霊的な力とすべての神聖なる性質に満ちた超越的な形を持つ、永遠の人格(personality)です。

主は至高の人格神、永遠性と知識と喜びの体現です。主は六つすべての超越的な富を無限の(infinite)程度に持っておられ、主は非常にすばらしい(superexcellent)娯楽をなさり、そして主だけがすべての聖典において捜し求められ、知られています。

物質主義的な、結果を求めて働く者たちは、この至高の超越的な人格(personality、名士)が俗的であると考える間違いを犯し、そしてそのため彼らは偽の献身者へと堕落することになります。

そして、無味乾燥な推量者たちは、完全存在に関する知識を求める探求において、物質的な現象によってはねつけられた(to be repulsed、後退させられた)ため、至高の人格神の超越的な形もまた反発的(repulsive、ぞっとするほど不快な様子、という意味もある)であると考え、そうして、知識を得るための自分たちの上昇的な(ascending、昇順)過程は不十分で劣っていると、明らかに証明しています(to prove)。

(訳注:「上昇的な知識」の反対は「下降的な知識」、すなわち「権威のあるものから従順に学んで得る知識」であり、知るべくもない事柄について限られた能力と経験からあれこれと推量する人々は、その過程で「はねつけられる」、つまり壁にぶつかって嫌な思いをする。そして、そのような不快な経験を元に推量して、至高の人格神についても不快さを投影した考え方をする、というような意味と思われます。)

これらのグループはどちらも霊的に痛ましい(pathetic、哀れ)状態にあります。したがって、彼らの上にご自分のいわれのない慈悲を授ける(to shower、浴びせかける)ために、至高主はご自身とご自分の超越的な力に関する真理をバガヴァッド・ギーターにおいて明かされました。

第8段落
前述の8つの材料が物質自然、すなわち至高主の外的な力を構成します。これらの物質的な材料---土、水、火、空気など---は自由意志を持たず(to be devoid of~、欠けている)、そしてそのため、それらは主の劣性なエネルギーとして知られています。

対照的に、劣性なエネルギーを活性化させる力は、主の優性なエネルギー、すなわち霊的な力として知られています。本質的に(on principle、主義として)、エネルギーは享楽者ではあり得ません。一つのエネルギーがもう一つのエネルギーを楽しむこともできません。エネルギーは楽しまれる者であり、エネルギー的なもの(the energetic)が享楽者です。

第9段落
生命体は主の優性な、霊的なエネルギーの産物であり、そしてそのため彼らは、常に意思力(volition)を持たない(devoid of)土、水、火などより優れています。しかしそれは、生命体が完全な統御原則である至高主と同じ水準にあることを意味するのではありません。

不活性な(inert、自動力のない)物体に対する霊の優位性を識別する(discern、はっきりと分かる)のは簡単です。ジーヴァの原則は、動いて(to set into motion)この物質世界の中のすべてのものを維持する(to sustain、支える、養う)ことです。

そしてもしもジーヴァが物質自然を支配しようとしなかったなら、それならこの現象の世界に多様性
(訳注:variegatedness、一般的な言葉ではなく、インドの霊的な文章において限定的に用いられる。variegatedは葉のまだら模様を指す言葉)はなかったでしょう。

物質的な要素は、もしもジーヴァがそれらを統御して楽しむ傾向を持たなかったなら変わらないままだったでしょう。物質エネルギーの、意識的な生命体との結びつきを通してのみ(訳注:~が~と結びつくことによって初めて)、土、木、石、そして鉄などの物質(substances)は、巨大で立派な建物、工場、そして都市などを生じさせるように組織化(to be orchestrated、統合)され得ます。物体はそれ自身を組織化することはできません。

第10段落
上述のこと(foregoing)から、この巨大な宇宙の創造、およびその無数の惑星系と天体(heavenly bodies)は、何らかの優性で強力な意識の干渉(interference)を通してのみ生じた(to come about)と、(人は)理解することができます。

物体は不活性で、自発的な活動をする能力がなく、そして意識が24個の物質的な材料を活性化して物質自然の中に多様性を見せるようにしたというのは、疑いの余地がありません。これらすべては、物質自然の中の生来の不十分さと部完全さを証明します(to go to prove)。

そのため、超越的な幸せは霊的な多様性においてのみ可能です。バガヴァッド・ギーター(7.5)において主クリシュナは、ジーヴァがご自分の優性なるエネルギーに属すると確認なさいます。

(サンスクリット引用)

「これらの他におお、強大なるアルジュナよ、もう一つの、私の優性なるエネルギーがあり、それはこの物質的な、劣性なる自然の資源を搾取している生命体から成ります。」(訳注:これは第4段落で引用されたものと同じ。)

第11段落
霊魂(ジーヴァ)は、主の優性なる、霊的なエネルギーから生まれるため、それは物質エネルギーとはほとんど共通するところがありません。ちょうど、水生生物が陸に何の関係(affinity、密接な関係、親近感)も持たず、陸の獣は水中では場違いであるようなものです。

物質的なエネルギーと霊的なエネルギーの間の外見上の(apparent)密接な関わりは、実は幻想です。ジーヴァは霊的なエネルギーの産物であるため、物質エネルギーを搾取しようとします。しかし、究極的にそのような試みは失敗します。

なぜなら、一つのエネルギーにとって、もう一つのエネルギーをいつも搾取して支配するのは不可能だからです。しかし、ジーヴァは永遠に、至高のエネルギー的なもの(the Supreme Energetic)、主クリシュナに奉仕をすることができます。

ジーヴァが主に奉仕をするための努力において物質エネルギーを搾取するとき、その活動は超越的---犠牲の遂行です。他のどの種類の活動も、(訳注:結果として)物質主義的な、結果を求める仕事だけになります(to amount to~、本来は数量が最終的に特定の数となって計上されることを指す)。

第12段落
ヴィシュヌ・プラーナ(6.7.61)において、3つの種類のエネルギーについて読むことができます(訳注:~についての記述があります)。

(サンスクリット引用)

「主ヴィシュヌの力は、3つの区分に要約されます---すなわち、霊的な力、生命体、そして無明です。霊的な力は知識に満ちています。生命体は、霊的な力に属してはいますが、幻惑の影響下にあります(subject to bewilderment)。そして、無明に満ちた第三のエネルギーは、いつも、結果を求める活動において見られます。」
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
ほんのちょっとですみません。翻訳そのものは第4章まで進んでますが、最近どうも忙しくてくたびれているので、家に帰って清書する気力があんまりないのです。最近はほぼ毎日プールで歩いて運動しています。泳げばもっといい運動になると思うのですが、泳ぐのはあまり上手じゃないし、水に顔をつけるのがあまり好きではないという情けない理由もあって、歩いているのです。それからジェットバスに入って温まり、さらにサウナに入って蒸し上がる、という日課です。そのおかげですご~く健康になったかというと、そうでもないような気もするのですが、まあ、基礎体力をつけるためにできるだけ続けようと思っています。
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by ammolitering4 | 2014-05-15 15:09 | 「英知による放棄」 | Comments(6)

「英知による放棄」 第2部 第1章

第2部 バークティ・カター、献身の科学

第1章 主クリシュナに奉仕をすることによってすべてが得られる

第1段落
シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーに献身奉仕の科学について教えておられる間に、主チャイタンニャは物質世界と生命体について幾らかの詳細を論じられました。主は、生命の840万種---90万の水生生物、200万の植物、110万の虫、100万種の鳥、300万種の獣、そして40万種の人間のうち、ホモ・サピエンスは明らかに少数派に属すると指摘なさいました。

さらに、人間は3つの区分に分けられます。すなわち、文明化されていない者、半分文明化された者、そして文明化された者です。また、文明化された部類に属するはずの多くの者たちが、楽しみという目的のためだけに制約も規律もなく(without restraint and discipline)振舞います。

このようにして彼らは他の者たちに(for the rest)混沌を作り出します。人生における彼らの唯一の目的(intention、意図、意思)が自分の感覚(楽しみのための彼らの道具)を満足させることであるため、彼らはいつも自分の感覚を良好な動作状態に(fit working condition)保とうとします。

彼らは、若さの活力(vigor、精力、元気)をもって楽しむのに年を取りすぎると、自分の体に猿の臓器を移植することさえします(to go to the extent of~)。

第2段落
そのような全くの(gross)感覚享楽者たちは、心は感覚器官(sense organs)よりも精妙(subtle)で、それらより優れている(superior)ということを理解しません。心より優れているのは知性であり、そして知性の背後には偽りの自我があります。

それは知性より遥かに優れており、霊魂を覆っています。魂の存在に関する哲学的な探究(inquiry)は、これらの全くの物質主義者にとって手の届かないものであり続けるでしょう。全くの感覚享楽者は、実際は動物の中に数えられます。

なぜなら、人間には単に自分の感覚をくすぐる(to titillate、(性的に)刺激する)より他に、取り組むべきもっと真剣な事柄があるからです。そのため、彼(訳注:人間)はすべての生命体の中で最も発達していると考えられます。

そして実に、私たちは一部の人間が人間の人生の重さ(gravity、重大さ)を理解しているのを見出します(訳注:そして実際、一部の人々は人間の人生の重さを理解しています)。彼らは混沌とした暮らしを注意深く避け、聖人的な人々の模範的な人生を熱心に見習い(to emulate、手本として真似る)、そして自分の人生を人間の人生の目的を満たすように方向付けます(to direct)。

第3段落
様々な宗教---キリスト教、ヒンズー教、イスラム教、仏教など---の信者は皆、自分の信仰(belief)の強さと彼らのそれぞれの国における状況に応じて、自分の信仰(faith)の規則に従います。主クリシュナは、バガヴァッド・ギーター(7.3)において、これらの人々のことをこう語られます。

(サンスクリット引用)
「何千人もの人々のうち、一人が完成のために努力するかもしれません。そして、完成を得た者のうち、ほとんど一人も私を本当には知りません(hardly one knows Me in truth)。」

第4段落
記憶にないほどの昔から、生命体は多くの、より低い生命の種を通り抜けて来ており、徐々に進化の過程を通して上がってきて、そして何らかの幸運が原因で人間の生を受けます。より低い生命の種においては、霊魂は物質的な相に厚く覆われており、そしてそのため、肉欲(carnal appetites、肉体的、現世的な欲求、色情など)が彼らの人生を支配します(to dominate)。

人間の種の中では、一部の人々は感覚の喜びを弾劾し(to denounce、公然と非難する様子)、聖人、ヨギー、哲学者、学者などとして称えられます(to be honored)。彼らは鈍い(gross)感覚的な経験よりはるかに優れた精神的な(mental)知覚(perceptions、認識、理解、物の見方)を経験し、そして優れた知性(fine intellect、理知、英知)という、さらに精妙な水準に至るかもしれません。

しかし、知性(intellect)よりもさらにもっと精妙なのが霊魂です。そのため、本当の霊性(spirituality)、すなわち生命体の本当の宗教は、自己のうちに位置することを意味します。

第5段落
自己の宗教以外、すべての道と宗教は、食べること、眠ること、性交すること、そして危険から身を守ることのみから成る、偽りの(pseudo-)霊的な練習(exercises、運動、儀式)です。これらは、動物の主要な活動です。

より低い種は、自己、すなわち魂の宗教を遂行することによって自分自身を上げることができません。しかし、人間は本質的に(inherently、生得的)に自己の宗教を実践する(to practice)ことができるので、一部の者は完成に至るために努力します。

人間としてのみ、人は「自分は誰だろうか?」そして「なぜ三重の悲惨さがいつも私に問題(trouble)を与えるのだろうか?」などの問いかけをすることができます。

第6段落
人間の人生だけが人に終わりのない幸せを得る機会を与えます(to afford~the chance to~)。この人生において、人はこう考えるべきです。「私は苦しみを欲しないにも関わらず、それはそれでもやってくる。私は死を望まないにも関わらず、それは力づくで私の命を取り去る。

私は老いを嫌悪する(to detest、忌み嫌う、憎悪)にも関わらず、若さが終わると私は必ず老い始めるだろう。そして私は病気と災害から自由であろうとするが、それらは決して私を一人にしておかない。」これらすべての苦しみを見るにも関わらず、愚か者は自分の人生を快適にするために一所懸命に働きます。

他方で、知性的な人は自分の状況を冷静に考え、自分の苦しみを完全に(once and for all、これを最後にきっぱりと、一思いに)終わらせるための最良の方法を考えます。そのような考えが頻繁で真摯(sincere、嘘偽りのない、心からの誠実な気持ち)になるとき、彼の探求は彼を完全真理について問うことに導きます(訳注:~になるとき、彼は~について探求し始めます)。」

そのような人は自己認識の道を歩み始めます(to take up)。彼は多くの義務を持っているかもしれませんが、過去の徳のある活動のおかげで、そのような賢い人はこれらの義務を果たし、同時に、誕生、死、老いと病気という現実に向き合います(to confront、直面し、大胆に立ち向かう)。

第7段落
完成のために努力する者たちの、より低い階級(stratum、層)は、カルミー、すなわち自分の感覚を満足させることを求める(to look to~、関心を向ける)、結果を求めて活動する者たち(fruitive workers)です。彼らより上なのはジニャーニー、すなわち知識を求める者であり、彼らは自分の感覚の衝動(urges)を抑制し(to restrain)、精妙な、精神的な水準に位置するようになります。

彼らより優れているのは、神秘的な完成を求めるヨギーたちです。主チャイタンニャは、これらすべての人たちをアシャーンタ、落ち着きがないと表現なさいました。彼らの中で、すべての物質的な呼称(designation)から自由で、偽りの自我を捨て去っていて、自己のうちに位置していて、そうして解放されている者---彼らだけが主クリシュナ、至高の人格を真に理解することができます。

彼らがクリシュナ意識の科学に完全に精通するようになるとき、そのような聖人的な魂は、いかなる外的な呼称にも関わらず、すべての人類にとって霊的指導者として活動することができます。主チャイタンニャはこれをチャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー8.128)において確認なさいます。

(サンスクリット引用)
「人がブラーマナ、サンニャースィー、あるいはシュードラ---何であれ---もしもクリシュナの科学を知っているなら、彼は霊的指導者になることができます。」

第8段落
したがって私たちは、カルミーもジニャーニーも、クリシュナへの献身奉仕の科学の深さを見抜く
(to fathom、深さや心中を推し量る)ことができないと結論することができます。特に愚かなカルミーは資格がありません(to be disqualified)。

なぜなら、彼らは主クリシュナを死ぬべき運命にある存在(mortal)と考え、主へのこの軽視(disregard)が彼らを、バガヴァッド・ギーターにおける主のお言葉の意味を誤解する(to misconstrue、解釈を誤る)ことに導くからです(訳注:彼らは~と考え、そのように主を軽視することで~するようになるからです)。

第9段落
今はカリの時代の邪悪な影響の呪縛のうちにある人類は、いかなる霊的な文化にも無感覚(callous)になりました。そのため人々は自分の時間を、食べること、眠ること、性交すること、そして身を守ることという動物的な活動において過ごします。

至高主、クリシュナに関する霊的な知識を培うことに関しては何をか言わんや?彼らは宗教的な儀式や超越的な知識の探求に時間を割くことさえできません。もしもカルマとジニャーナを培うための霊的な指針に厳密に従うなら、人はクリシュナの科学をある程度理解するのに十分なほど、自分の意識を浄化することができます。

ジニャーナの最終的な結論は、人がいったん完全存在との一体化の段階に至れば、そのとき、より高い水準、すなわち主クリシュナへの献身奉仕の扉が開く、というものです。この一体化の段階はカリ・ユガの人々にとって到達するのがほぼ不可能なので、バガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナご自身が、ご自分にどうやって献身奉仕をするかという科学をお教えになりました。

それから、この時代の不運な人間たちはご自分自身(訳注:クリシュナ)のお言葉さえも誤解することをご存知だったので、主クリシュナはご自分の個人的な例を通してバガヴァッド・ギーターの真髄を世界に教えるために、再び---今度は主の純粋な献身者、チャイタンニャ・マハープラブという形で---お現れになりました。

第10段落
主クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、ご自分がすべてのものの源であるとおっしゃいます。ねたみ深くてずる賢い(cunning)人々はこの事実を論駁(to refute、論破、異議を唱える)しようとします。そのため主は主チャイタンニャとして現れ、主クリシュナがすべてのものの源であるとお教えになりました。

主クリシュナの教えと主チャイタンニャのそれとの間には、何の違いもありません。崇拝の対象は同じです。それでも、この時代の不運な人々は、これらの教えを受け入れることを拒否します。彼らにクリシュナ意識を与えようとするのは、有名なことわざ(expression)にあるように、「豚に真珠(casting pearls before a herd of swine)」です。

カリ・ユガによって苦しめられている(to be afflicted)人間たちは、豚の群れのようです。主は、主ブラーマーによってさえ滅多に得られないクリシュナへの献身奉仕の科学を広く教えることによって、彼らに限りない慈悲をお見せになりました。

それでも、彼らにとってこの貴重で稀なもの(commodity、価値があって役にたつ物)を手に入れる(to come by)のがとても簡単だったので、彼らは自分たちに見せられた慈悲を悪用しました(to abuse、粗末に扱う)。これは彼らの不運のもう一つの顕現です。

彼らに自己認識の科学を教えることによって、主クリシュナはこの時代の人々を肉体的な(carnal)喜びの中で屈服する(to grovel、這いつくばる、卑屈になる)ことから救おうとして、二度、個人的に試みられました。そしてどちらのときも、彼らはそれらの神聖なる教えを感覚の満足を追及するための方法(means)と口実(excuse)に変えました(to convert、改造する)。

第11段落
色鮮やかなガラスの人形とダイヤモンドを見せられたとき、子供は自然に、高価な(priceless、値段がつけられないほど大変に貴重な)ダイヤモンドではなく、人形に魅了されます。同様に、カリ・ユガの人々は限られた知性を授けられているので、クリシュナへの献身奉仕という高価なダイヤモンドを退け、代わりに、結果を求める活動と無味乾燥な推量という安い人形を選びました。

ちょうど、子供が貴重な(invaluable)ダイヤモンドで何千もの安いガラスの人形が買えることを理解できないように、カリ・ユガの知性に劣る人々は(サンスクリット引用)ということを理解できません:「主クリシュナに超越的な献身奉仕を捧げることによって、人は自動的にすべての従属的な(subsidiary)活動を行います。」

第12段落
クリシュナ意識の科学を知る者は、自動的に、結果を求める活動、推量的な知識、ヨガ、慈善、苦行(penance)、禁欲(austerity)、そしてマントラを唱えることなどの従属的な主題(subsidiary subjects)を知ります(to know of~、何かを間接的に知る様子)。

主クリシュナはこれをシュリマッド・バーガヴァタムにおいて確認なさいます。「私への献身奉仕を行うことによって、私の献身者は簡単に、苦行(penances)、結果を求める活動、哲学的な推量、放棄、ヨガ、慈善、宗教性、そしてその他の徳のある行いをすることによって得られるすべてのものを得ます。」
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ずいぶんお待たせいたしました。「英知による放棄」を再開します。分厚いのは嫌だ、という理由でためらっていたいたので、とんでもないことと知りながらも、本を分割して薄くしてしまいました。プラブパーダ、ごめんなさい。。。まあ、その甲斐あって軽く小さくなったので気分的にも楽で、あちこち持ち歩いては隙間の時間に進めています。続きはまたそのうちにお届けします。ごきげんよう。
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by ammolitering4 | 2014-05-05 05:03 | 「英知による放棄」 | Comments(4)