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願い事

こんにちは。いつもご覧いただいてありがとうございます。このところ私のコンピューターがどうも調子が悪くて、初期化した上にちゃんと有料のウイルスソフトとスピードアップソフトも入れているのに、ものすごく遅いです。前の10倍くらいかかります。しかも、特にこのExblogのサイトだけが異様に遅いのです。ちゃんと専門の業者の方にやってもらったというのに、なぜでしょう。これはいったいどういう仕組みによるものか分かりませんが、何にしても困ったものです。ああ、秘書が欲しい、専任のパソコン係りが欲しい、と痛切に思います、ほんと。

そういえば、カナダの日本語情報サイトで「インド哲学の本を使って翻訳の仕方と英語を教えます」というような内容の宣伝をしてみました。マンツーマンにしては格安のお値段にしてみましたが、反応はゼロ。まあ、それでいいのでしょう。タダと書けばクリシュナ意識に興味のない人たちから問い合わせが来そうなので有料にしたのです。実は今は仕事とアパートを同時進行で探している状態で、アパートに関しては私は子供のころから住むところが安定しない星の下に生まれているようなので、いっそテントを買おうかと考えたりしてしまいます。仕事は、興味も関心もないことに大量の時間を費やすのは気が進みませんが、どんなことであれクリシュナが私の成長のために用意してくださる経験ですから、そう知って努力しようと思います。

どちらにしても、こうしてプラブパーダのご本を翻訳できるのはほんとに恵まれています。いつかは多少とも落ち着いて、自分の能力に合ったことで生計を立てられるようになりたいものです。
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by ammolitering4 | 2014-03-31 02:08 | Comments(0)

第3章から第7章まで

第3章 バークティによって得られる利益(Benefits of Bhakti)

第1段落
このバークティ・ラサへの永遠の携わり(this eternal engagement in~)は、「献身の甘露」を学ぶことによって(upon)真剣な生徒によって理解され得ます(訳注:~は、~によって、この永遠に~に携わるということを理解することができます)。

バークティ・ラサ、すなわちクリシュナ意識を受け入れる(to adopt)ことは、人を直ちに不安(anxiety)のない、縁起の良い(auspicious)人生に連れて行き、人を超越的な存在で祝福し、そうして解放の価値を最小化します(訳注:~すると、人生は直ちに不安のない、幸いなものとなり、人は超越的な存在となって、解放が取るに足らぬものに思えるでしょう)。

バークティ・ラサそれ自体が、解放の気持ち(feeling、解放されたという感覚)を作り出すのに十分です。なぜなら、それは至高主、クリシュナの関心を惹きつけるからです。一般に、初心者の献身者はしきりにクリシュナ、すなわち神を見たがりますが(anxious to see)、神は私たちの現在の物質的に鈍い(blunt)な感覚によっては見られ、あるいは知られ得ません。

「献身の甘露」において勧められている(as it is recommended)献身奉仕の過程は、徐々に人を人生の物質的な状態(condition)から霊的な状態(status)に上げて、そこで(wherein)献身者はすべての呼称(designation、日本人、女性、絵描き、などの身体的な区分)から清められます(to become purified of)。

そのとき感覚はバークティ・ラサと常に触れ合っていることで汚染がなくなります。浄化された感覚が主への奉仕のために使われるとき、人はバークティ・ラサの人生に位置するようになり、この人生の超越的なバークティ・ラサの段階においてクリシュナの満足のために行われたいかなる活動も、永遠に味わわれ得ます。

人がこのように献身奉仕に携わるとき、すべての種類のラサ、すなわち甘い関係(mellow)は永遠になります(to turn into eternity)。最初は、人はアーチャーリャ、すなわち霊的指導者の導きの下で規律の原則に応じて訓練されます。

そして徐々に、人が(訳注:高い水準に)上げられるとき、献身奉仕はクリシュナに奉仕をすることへの自動的で自発的な(spontaneous)熱意になります。「献身の甘露」において説明されている12種類のラサがあり、5つの主要なラサにおいてクリシュナとの自分の関係を回復させる(to renovate、修復、刷新)ことによって、私たちは完全な知識と喜びにおいて永遠に生きることができます。

第2段落
生きている状態(living condition)の基本的な原則は、私たちは誰かを愛する一般的な傾向(propensity、性質)を持っているというものです。誰も、誰か他のものを愛することなく生きることはできません。この傾向はすべての生命体の中に存在します。

虎のような動物さえも、この愛する傾向を少なくとも休眠状態(dormant)で持っており、そしてそれは確かに人間の中に存在します。しかし、見失われている(missing、欠けている)要点は、誰もが幸せになることができるようにするためには、私たちの愛をどこに置く(to repose、信頼を置く、望みをかける)かということです。

その見失われている要点はクリシュナであり、そして「献身の甘露」は私たちに、どうやってクリシュナへの自分のもともとの愛を刺激(to stimulate、鼓舞、活性化)することができるか、そしてどうやって私たちが喜びに溢れた人生を楽しめる立場に位置することができるかを教えます。

第3段落
最初の段階で、子供は自分の両親を、それから兄弟姉妹を愛し、そして日々育つにつれて彼は自分の家族、社会、共同体(community)、国(country)、国家(nation)、あるいは人間社会全体さえも愛し始めます。しかし、愛する傾向は人間社会すべてを愛することによってさえ満足されません。

その愛する傾向は、私たちが至高の愛される者は誰かを知るまで、不完全に満足されるに留まります。私たちの愛は、それがクリシュナに向けられる(to be reposed)ときだけ、完全に満足されます。この主題(theme)が、どうやってクリシュナを5つの異なる超越的な甘い関係(mellows)において愛するかを私たちに教える「献身の甘露」の真髄(sum and substance)です。

第4章 無限の(Boundless)愛
第1段落
私たちの愛する傾向は、ちょうど光の振動あるいは空気(訳注:光あるいは空気の振動、とも読める)が広がるように広がりますが、私たちはそれがどこで終わるか知りません。「献身の甘露」は私たちに、クリシュナを愛するという簡単な方法によって生命体の一つ一つすべて(every one of the living entities)を完全に愛する科学(the science of loving~)を教えます。

私たちは、国際連合のような大変な試み(great attempts as~)によってさえ、人間社会に平和と調和を作ることに失敗しました。なぜなら、私たちは正しい方法を知らないからです。その方法は非常に単純ですが、人はそれを冷静な頭で理解しなければなりません。

「献身の甘露」はすべての人に、クリシュナ、至高の人格神を愛する単純で自然な方法をどうやって行うかを教えます。もしも私たちがどうやってクリシュナを愛するかを学ぶなら、それならすべての生命体(living beings)を直ちに、そして同時に愛するのは非常に簡単です。

それは木の根に水を注ぐこと、あるいは人の胃に食べ物を与えることのようです。私たち一人一人が経験したように、木の根に水を注ぐことや胃に食べ物を与えることは、普遍的に(universally)科学的で実際的です。

誰もが、私たちが何かを食べるとき、あるいは言い換えると、私たちが胃に食べ物を入れるとき、そのような活動によって作られたエネルギーは直ちに体全体に配られることをよく知っています。同様に、私たちが根に水をそそぐとき、そうして作られたエネルギーは直ちに、最大の木でさえ全体にくまなく(throughout the entirety of even the largest tree)配られます。

木に部分ごとに水やりするのは可能ではなく、体の部分に別々に食べさせるのも可能ではありません。「献身の甘露」は私たちに、どうやってすべてのもの、すべての場所を直ちに明るくする一つのスイッチを入れるか(turn the one switch)を教えます。この方法を知らない者は、人生の要点を見失っています。

第2段落
物質的な必要性に関して言えば、現時点での人間の文明は心地よく暮らすことにおいて極めて(very much)発達していますが、それでも私たちは幸せではありません。なぜなら、私たちは要点を見失っているからです。

人生の物質的な心地よさだけでは、私たちを幸せにするのに十分ではありません。私たちの不満足の根源的な原因は、物質主義的な人生のあり方における私たちの大変な発達にも関わらず、私たちの休眠状態にある愛する傾向(dormant loving propensity)が満たされていないことです。

「献身の甘露」は私たちに、私たちがどうやって物質世界の中で献身奉仕に完全に携わって生きて、そうしてこの人生と来世において自分のすべての欲求(desires)を満たすことができるかを教えます。

第3段落
「献身の甘露」は物質主義的な人生のいかなるあり方を非難する(to condemn)ために著されたものではなく、(その)意図するところ(the attempts、試み)は、宗教家、哲学者、そして一般の人々に、どうやってクリシュナを愛するかという情報を教えることです。

人は物質的な挫折(discomfiture、失敗)なしに住んでいるかもしれませんが(訳注:安楽な暮らしをしているかもしれませんが)、しかし同時に人はクリシュナを愛する術を学ぶべきです。現時点では、私たちは自分の愛する傾向を利用する非常に多くの方法を発明していますが、事実としては(factually)私たちは本当の要点、クリシュナを見失っています。

私たちは木のすべての部分に水をやっていますが、木の根を忘れています(to miss、~しそこなう)。私たちはすべての方法によって(by all means、ありとあらゆる方法で)自分の体を健康に保とうとしていますが、胃に食べものを与えることを怠っています(to neglect)。

クリシュナを見失うことは人の自己を見失うことも意味します。本当の自己認識とクリシュナの認識は同時に生じます(to go together simultaneously、連動)。例えば、朝、自分自身を見ることは、日の出を見ることも意味します。日光を見ずしては、誰も自分自身を見ることはできません。同様に、クリシュナを認識しない限り、自己認識はあり得ません。

第5章 純粋な献身奉仕の定義

第1段落
バークティ、すなわち献身奉仕の権威ある定義は、以前のアーチャーリャたちの足跡を辿って、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによる次の言明に要約され得ます。「第一級の献身奉仕は、人の、完全にクリシュナ奉仕に携わり、主に好意的に(favorably)奉仕をする、という傾向によって知られます。」

解説は、人は非好意的(unfavorably)にクリシュナ意識であるかもしれないが、それは純粋は献身奉仕としては数えられない、というものです。純粋な献身奉仕は、いかなる物質的な利益、あるいは感覚の満足への欲望からも自由であるべきです。

なぜなら、これらの欲望は結果を求める活動と哲学的な推量を通して培われるからです。一般に、人々は何らかの物質的な利益を得るためにさまざまな(different)活動に携わりますが、一方でほとんどの哲学者はたくさんの(volumes of、書物何巻もの)巧みな言葉(word jugglery、言葉を巧みに操ること)と推量を通して、超越的な認識を提案する(to propose)ことに携わっています。

純粋な献身奉仕は、いつも必ず、そのような結果を求める活動と哲学的な推量から自由でなければなりません。人はクリシュナ意識、すなわち純粋な献身奉仕を自発的な愛情ある奉仕によって、権威のあるもの(authority)から学ばねばなりません。

第6章 クリシュナのために活動する:バークティの真髄
第1段落
この献身奉仕というものは、一種の修養(cultivation、修練)です。それは、非活動的であること、あるいは自分の時間を静寂なる瞑想に捧げることを好む人々のための単なる不活動(inaction)ではありません。

これを欲する人々のための多くの異なる方法がありますが、クリシュナ意識の修養は異なります。このことに関連して、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによって使われた特定の言葉はアヌスィーラナ、すなわち前任の(predecessor)教師たち(アーチャーリャ)を辿ることによる修養です。

修養といえば直ちに、私たちは活動に言及しなければなりません(to refer to)。活動なしでは、意識だけでは私たちを助けることはできません(訳注:意識だけで活動が伴わなければ助けにならない)。すべての活動は二つの階級に分けられるでしょう(may):

一つの階級は特定の目的を達成するためであり、そしてもう一つは、何らかの好ましくない状況を避けるためのものでしょう(may)。サンスクリット語では、これらの活動はプラヴリッティとニヴィリッティ---肯定的および否定的な活動と呼ばれます。否定的な活動の多くの例があります。例えば、病気の人は自分の病気をより悪くするのを避けるために、注意深くあり、薬を飲まねばなりません。

第2段落
霊的な人生を修養しており、献身奉仕を遂行している者は、いつも活動に携わっています。そのような活動は体で、あるいは心で行われ得ます。考えること、感じること、そして意志すること(willing)はすべて心の活動であり、そして私たちが何かをすることを意志するとき、鈍い(訳注:gross、精神の感覚より鈍い、密度の濃い)身体的な感覚によって活動が顕現するようになります。

こうして、自分の精神的な活動において私たちはいつも、偉大なアーチャーリャたちと個人的な霊的指導者の足跡を辿り、クリシュナのことを考えようとすべきであり、どうやって主を喜ばせるかと計画しようとすべきです。

体の活動、心の活動、そして言葉(speech)の活動があります。クリシュナ意識の人は自分の言葉(words)を主の栄光を広める(to preach the glories)ことに携わらせます(訳注:使います)。これはキールタナと呼ばれます。

そして自分の心によって、クリシュナ意識の人はいつも主の活動のことを考えます---主がクルクシェトラの戦場でお話しになっていることや、ヴリンダーヴァンでご自分の献身者たちとさまざまな娯楽に携わっていらっしゃることなどです。このようにして人はいつも主の活動と娯楽のことを考えることができます。これがクリシュナ意識の精神的な修養(mental culture、この場合のculture はcultivationと同じような意味)です。

第3段落
同様に、私たちは自分の身体的な活動で多くの奉仕を提供することができます。しかし、すべてのそのような活動はクリシュナと関わっていなければなりません。この関係は師弟継承におけるクリシュナの直接の代理人である真正なる霊的指導者と自分自身を結びつけることによって確立されます。

したがって、体でのクリシュナ意識の活動は霊的指導者によって指示され、そして信頼(faith)をもって行われるべきです。霊的指導者との結びつきは入門(initiation)と呼ばれます。霊的指導者による入門の日から、クリシュナとクリシュナ意識を培っている人の間の結びつきが確立されます。真正なる霊的指導者による入門なくしては、クリシュナ意識との実際の結びつきは決して行われません。

第4段落
このクリシュナ意識の修養は物質的ではありません。主は3つの主な(general)エネルギー、すなわち外的なエネルギー、内的なエネルギー、そして周辺的なエネルギーをお持ちです。生命体は周辺的なエネルギーと呼ばれ、物質的な宇宙の顕現は外的、すなわち物質的なエネルギーの活動です。

そして、霊的な世界があり、それは内的なエネルギーの顕現です。周辺的なエネルギーと呼ばれる生命体は、劣性な外的エネルギーの下で活動しているとき、物質的な活動を行います。そして彼らが内的な霊的エネルギーの下で活動に携わるとき、彼らの活動はクリシュナ意識であると呼ばれます。

これは、偉大な魂あるいは偉大な献身者である者は、物質的なエネルギーの魔力(spell)の下で活動せず、そうではなく変わりに霊的なエネルギーの保護の下で活動する、ということを意味します。献身奉仕において、あるいはクリシュナ意識においてなされるあらゆる活動は、直接、霊的なエネルギーの統御の下にあります。言い換えると、エネルギーは一種の力(strength)であり、そしてこの力は真正なる霊的指導者とクリシュナ両方の慈悲によって霊化され得ます。

第5段落
クリシュナダーサ・カヴラージャ・ゴスヴァーミーによる「チャイタンニャ・チャリタームリタ」において、主チャイタンニャは、クリシュナの恵み(grace)によって真正なる霊的指導者と巡り合うのは幸運な人である、と述べられます。

霊的な人生に関して真剣な者に、クリシュナは真正なる霊的指導者に巡り合う知性を与え、そしてそれから霊的指導者の慈悲によって、人はクリシュナ意識において発達するようになります。このように、クリシュナ意識の管轄(jurisdiction、権限、支配権)全体が直接、霊的なエネルギー---クリシュナと霊的指導者の下にあります。

第7章 純粋な献身者の定義
第1段落
ルーパ・ゴスヴァーミーによって彼の著作「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー」において与えられている純粋な献身者の定義は、このように要約され得ます:彼の奉仕はクリシュナに好意的であり、いつもクリシュナに関わっている、というものです。

そのようなクリシュナ意識の活動の純粋性を保つために、人はすべての物質的な欲望と哲学的な推量から解放されなければなりません。主への奉仕に対するものを除くすべての欲望は、物質的な欲望と呼ばれます。

そして「哲学的な推量」は、究極的に虚無主義あるいは非人格主義という結論に達する種類の推量です。この結論は、クリシュナ意識の人には役に立ちません。哲学的な推量によって人がヴァースデヴァ、すなわちクリシュナを崇拝するという結論に達することは稀です(Only rarely by ~ can one reach ~)。

これはバガヴァッド・ギーターそのものにおいて確認されています。哲学的な推量の究極的な終着点は、それなら、クリシュナがすべて、すべての原因の原因であり、したがって人は主に服従すべきである、という理解をもって、クリシュナでなければなりません(訳注:そうであれば、~という理解をもってすると、~は~でなければなりません)。

もしもこの究極の目的地に至るなら、哲学的な発達は好ましいものですが、もしも哲学的な推量の結論が虚無主義、あるいは非人格主義であるなら、それはバークティではありません。

第2段落
カルマ、すなわち結果を求める活動は、時として儀式的な活動から成るように理解されます。ヴェーダにおいて、儀式的な活動に非常に魅了されている多くの人々が描写されています。しかし、もしも人がクリシュナを理解することなく単に儀式的な活動に魅了されるようになるなら、彼の活動はクリシュナ意識にとって好ましくありません。

実際は、クリシュナ意識は単にクリシュナにつして聞くこと、主について唱えること、主を思い出すことなどに基づき得ます。シュリマッド・バーガヴァタムは9つの異なる過程を描写しており、それ以外には為されるすべてのことがクリシュナ意識にとって好ましくありません(訳注:それ以外のものはすべて~)。

第3段落
シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーはまた、次のように「ナーラダ・パンチャラートラ」からも定義を引用なさいました。「人はすべての物質的な呼称(designation)から自由であるべきであり、そしてクリシュナ意識によってすべての物質的な汚染を洗い清められねばなりません。

彼は自分の純粋な自己認識(identity)に戻される(to be restored)べきであり、そこにおいて彼は自分の感覚を感覚の所有者への奉仕に携わらせます。」ですから、私たちの感覚がクリシュナ、感覚の実際の所有者のために使われるとき(to be engaged)、その活動は献身奉仕と呼ばれます。

制約された状態において、私たちの感覚は身体的な要求(demands)に奉仕することに携わっています。同じ感覚がクリシュナの命令を遂行することに携わるとき、私たちの活動はバークティと呼ばれます。

第4段落
人が自分自身を特定の家族、特定の社会、あるいは特定の国に属すると認識する限り(to identify、同一視する)、彼は呼称によって覆われていると言われます。人が自分はどの家族、社会、あるいは国にも属せず、そうではなく永遠にクリシュナと関係があると完全に気づくとき、彼はそのとき、自分のエネルギーはいわゆる家族、社会、あるいは国の利益のためではなくクリシュナの利益のために使われるべきであると気づきます。

これが目的の純粋性(purity of purpose)であり、クリシュナ意識における純粋な献身奉仕の水準です。
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by ammolitering4 | 2014-03-29 13:38 | 「永遠の愛の術」 | Comments(0)

第1章と第2章

第1章 「献身の甘露」とは何か

第1段落
「献身の甘露」は、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダによってサンスクリット語で書かれた「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥ」の要約(summary study)です。彼は主チャイタンニャ・マハープラブの直弟子であった6人のゴスヴァーミーたち(Six Gosvamis)の筆頭者(chief、長)でした。

主チャイタンニャに初めて会ったとき、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダはインドのベンガル地方のイスラム教政府で大臣として働いていました。彼と彼の兄弟のサナータナは、それぞれダビラ・カーサとサーカラ・マッリカと名付けられており、彼らはナワブ・フセイン・シャーの大臣として責任のある役職に就いていました。

そのころ、500年前、ヒンズー教の社会は非常に厳格(rigid)で、もしもブラーマナの階層の者がイスラム教の支配者の下での仕事(a position of service、奉仕の立場)を受け入れたなら、彼は直ちにブラーマナの社会から退けられました。

それがダビラ・カーサとサーカラ・マッリカという二人の兄弟の立場でした。彼らは非常に位の高いサーラスヴァタ・ブラーマナの社会に属していましたが、フセイン・シャーの政府で大臣の役職を受け入れたことによって追放されていました(to be ostracized、排斥)。

これらの二人の身分の高い(exalted、高貴な)名士たちをご自分の弟子として受け入れ、彼らをブラーマナの文化における最も高い地位であるゴスヴァーミーの地位にまで上げたのは、主チャイタンニャのお恵みです。同様に、主チャイタンニャはハリダーサ・タークラもご自分の弟子として受け入れられました。

ハリダーサはイスラム教の家庭に生まれついたにも関わらずです。そして主チャイタンニャは、後に彼を主の聖なる御名、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレを唱えることのアーチャーリャになさいました。

第2段落
主チャイタンニャの原則は普遍的です。クリシュナ意識の科学を知って、主への奉仕に携わっている者は誰でも、ブラーマナの家庭に生まれた者よりも高い地位にあるとして受け入れられます。それがすべてのヴェーダ文献によって受け入れられているもともとの原則です。すべての人を教育してゴスヴァーミーという(of)卓越した役職に上げるという(the principle ~ in educating and ~)主チャイタンニャの運動の原則は、「献身の甘露」の中で教えられています。

第3段落
主チャイタンニャは、マルダー地方にあるラーマケリとして知られる村でダビラ・カーサとサーカラ・マッリカの二人の兄弟に会いました。そしてその面会(meeting、出会い)のあと、兄弟たちは政府の仕事を退いて主チャイタンニャに加わる決心をしました。

のちにルーパ・ゴスヴァーミーとなったダビラ・カーサは、退職して、働いていた間に貯めたすべてのお金を集めました。チャイタンニャ・チャリタームリタの中で、彼が金貨として集めた貯金は何百万ドルにも匹敵し、大きな船を一杯にしたと描写されています。

彼はお金を非常に模範的な方法で分けました。それは特に献身者によって、そして人類一般(humanity in general)によって倣われるべきものです。彼の集めた富の50%はクリシュナ意識の人々、つまりブラーマナとヴァイシュナヴァに配られました。

25%は親類に配られ、そして25%は緊急時のための費用(emergency expenditures)と個人的な困難に備えて保たれました。そののち、サーカラ・マッリカもまた退職の意を申し出たとき、ナワブは非常に動揺して(to be agitated)、彼を牢に入れました。

しかし、のちにシュリーラ・サナータナ・ゴスヴァーミーとなったサーカラ・マッリカは、村の銀行家の元に預けられていた彼の兄弟の個人的なお金を利用して、フセイン・シャーの刑務所から逃げ出しました。このようにして、兄弟は二人とも主チャイタンニャ・マハープラブに加わりました。

第4段落
ルーパ・ゴスヴァーミーは後にプラヤーガ(インドのアッラハバッド)で主チャイタンニャに会い、その聖なる都市のダシャースヴァメダー沐浴ガータ(訳注:on the Dasasvamedha bathing ghata of that holy city、ガンジス河沿いの沐浴の場。ghataは階段状の沐浴の場所を指す。ダーシャシュワメード・ガート )において、主は10日間通して彼にお教えになりました。

主は特にルーパ・ゴスヴァーミーにクリシュナ意識の科学について教えました。主チャイタンニャの、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダへのこれらの教えは、私たちの本「主チャイタンニャの教え」の中で語られています(to be narrated)。

第5段落
のちにシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダは、主の教えを、明かされた聖典に関する深遠な(profound、学識の深い)知識と様々なヴェーダ文献からの権威ある参照をもって(with)詳述しました(to elaborate)。

シュリーラ・シュリーニヴァーサ・アーチャーリャは、6人のゴスヴァーミーたちへのご自分の祈りの中で、彼らは皆、サンスクリット語だけでなくペルシャ語やアラビア語などの外国語においても非常に学識のある学者たちだったと描写しています。

彼らは、チャイタンニャ・マハープラブの運動をヴェーダの知識の権威ある原則(authorized principles)の上に確立するために、非常に詳しく(scrutinizingly、じろじろと見る様子)すべてのヴェーダ文献を研究しました。

現在のクリシュナ意識運動もまた、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダの権威に基づいています。したがって、私たちは一般にルーパーヌガ、すなわちシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミー・プラブパーダの足跡を辿る者として知られます。

現在「献身の甘露」として提示されている(presented in the form of~)「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥ」という著作をシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーが用意なさったのは、私たちを導くためだけにです(It is only for our guidance)。

第2章 バークティとは何か?
第1段落
バークティは「献身奉仕」を意味します。すべての奉仕は、奉仕者(servitor、お供をする人)をますます(progressively on and on、前進的に継続して)駆り立てる(to drive~、人をある状態にしたり、何かさせたりする)何らかの魅力的な特徴を持っています。

この世界の中の私たち一人一人は永久に何らかの種類の奉仕に携わっており、そしてそのような奉仕のための刺激(impetus、機動力)は、私たちがそれから得る(to derive from)喜びです。自分の妻と子供たちへの愛情によって駆り立てられ、家庭人は昼も夜も働きます。

博愛主義者(philanthropist)は、より大きな家族への(of)愛のために、そして国家主義者(nationalist)は自分の国と同胞(countrymen)の主義(cause、主張、正当な理由)のために、同じように働きます。博愛主義者、家庭人、そして国家主義者を駆り立てるその力は、ラーサ、すなわちその味が非常に甘い、一種の芳醇な(mellow、円熟した)(関係)と呼ばれます。

(訳注:原文ではmellow (relationship)というふうに括弧付きで付け加えられていますが、これはプラブパーダが独特の表現をなさっていたためです。mellowは本来形容詞で、何かが時間とともに丸く柔らかく味わい深くなった状態を指しますが、プラブパーダはこれを「甘い関係」という意味の名詞としてお使いになることがよくあります。これが昔のインド辺りの独特の表現だったのかどうかは分かりませんが、こういう例はときどきあります。)

第2段落
バークティ・ラサは俗的なことのために働く者(mundane workers)が楽しむ普通のラサとは違う関係(mellow)です。俗的なことのために働く者は、感覚の満足として理解される特定の種類のラサを味わうために昼も夜も非常に一所懸命に働きます。

俗的なラサの味わい(訳注:relish or taste、どちらも同じ意味)は長持ちせず、したがって俗的なことのために働く者は、いつも自分の楽しみの立場を変えがち(apt to~、ともすれば~する)です。ビジネスマンは、一週間ずっと働くことでは満足しません。

したがって、彼は週末には変化を求めて、自分のビジネスの活動を忘れようとする場所に行きます(訳注:どこかに行って忘れようとする)。それから、週末が忘却において費やされたあと、彼は再び自分の立場を変え、自分の実際のビジネスの活動を再開します。

物質的な仕事(material engagement)は、特定の状態(status、立場)をしばらくの間受け入れ、そしてそれからそれを変えることを意味します。行ったり来たりするというこの立場(this position of changing back and forth)は、厳密にはボーガ・テャーガとして知られており、それは感覚の満足と放棄が交替に現れる立場(a position of alternating~)を意味します。

第3段落
生命体は、感覚の満足にも放棄にも安定して留まることができません。変化は永久に続いており、そして私たちは、私たちの永遠の、本来の立場のため(because of~)、どちらの状態でも幸せであることはできません(訳注:私たちは本来、永遠であるため~)。

感覚の満足は長くはもたず、したがってそれはチャパラ・スカー、すなわち点滅する(flickering、ちかちかと点滅するように不安定な)幸せと呼ばれます。例えば、昼も夜も一所懸命に働いて自分の家族(the members of his family)に心地よさ(comforts)を与えることに成功している普通の家庭人は、そして一種の甘い関係(mellow)を味わいますが、彼の物質的な幸せの発達全体は、彼の人生が終われば直ちに、彼の体と共にたちどころに終わります。

したがって死は無神論的な人々(atheistic class of men)にとっては神の代理人として受け取られます。献身者は献身奉仕によって神の存在に気づきます(to realize)が、他方で無神論者は神の存在を死の形で(in the shape of death)気づきます。

死のとき、すべてが終わります。そして人は新しい状況で、おそらくは、その前のものより高いか、低いかで、人生の新しい章を始めなければなりません。どんな活動の分野においても―――政治的、社会的、国家的あるいは国際的―――私たちの活動の結果は人生の終わりと共に終わります。それは確かです。

第4段落
しかし、バークティ・ラサ、主への超越的な愛情ある奉仕において味わわれる甘い関係(mellow)は、人生の終わりに伴って終わることはありません。それは永久に続き、したがってそれはアムリタ、死なず、永遠に存在するもの、と呼ばれます。

これはすべてのヴェーダ文献において確認されています。バガヴァッド・ギーターは、バークティ・ラサにおけるほんの少しの(a little)発達は献身者を最も大きな危険―――来世において人間となる機会を失うことから救うことができると言います。

社会生活、家庭生活、あるいは利他主義(altruism)や博愛主義(philanthropy)、国家主義、社会主義、共産主義などの拡大した家庭生活(greater family life)における私たちの気持ちから得られるラサは、人の来世が人間としてであるということを保証しません。

私たちは自分の来世を現在の人生における自分の実際の活動によって準備します。生命体は、現在の体における自分の活動の結果として(訳注:来世において)特定の種類の体を与えられます(~is offered)。(訳注:ここでは~will be offeredとしたほうが分かりやすい。)

これらの活動は、ダイヴァ、すなわち神の権威として知られる優位な権威(superior authority)によって考慮されます(to be taken into account、計上)。このダイヴァは、バガヴァッド・ギーターにおいてすべてのもののもともとの原因(prime cause)として説明されており、そしてシュリマッド・バーガヴァタムにおいて、人は自分の次の体を、至高存在の権威による(of)監督(supervision、管理)を意味するダイヴァ・ネトレナによって得る(to take)と述べられています。

普通の意味では、ダイヴァは「運命(destiny)」として説明されます。ダイヴァによる監督は、私たちに840万種の形から選ばれた体を与えます。その選択は私たちの選択によるものではなく(the choice does not depend on our selection)、私たちの運命に応じて授けられます(to be awarded、報いとして与えられる)。

もしも現在の私たちの体(our body at present)がクリシュナ意識の活動にいそしんでいるなら、それなら私たちは来世において少なくとも人間の体を得ることは保証されます。クリシュナ意識に携わる人間は、たとえバークティ・ヨガの過程を完成させることができなくても、人間の社会の、より高い地位(division、区分)に生まれます。

自動的にクリシュナ意識における自分の発達を進める(to further、さらに深める)ことができるようになるためです。したがって、クリシュナ意識におけるすべての真正なる活動はアムリタ、すなわち永遠です。これが「献身の甘露」の主題です。
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by ammolitering4 | 2014-03-26 06:27 | 「永遠の愛の術」 | Comments(0)

バークティ・ヨガ、永遠の愛の術 「はじめに」

Bhakti-yoga --- The Art of Eternal Love
バークティ・ヨガ、永遠の愛の術

はじめに

第1段落
愛とは、私たちが最も多く使い、最も理解していない言葉の一つです。問題は、多くの種類の愛が存在することです。異なる種類の愛を区別するための違いの一つ(One of the distinctions we can make between~)は、時間、期間―――愛がどれくらい長持ちするかということです。ある愛は2~3日もち、あるものは生涯もち、そしてあるものは永遠にもちます。ほとんどの恋人たちは後者を望みますが、徒労に終わります(in vain)。

第2段落
体の間の愛はどうしても一時的です(bound to be、避けられない)。なぜなら、恋人たちの体が一時的なものだからです。ああ、しかし、魂についてはどうでしょうか?恋人たちは永遠の霊的な世界で会って、そこで永遠の(deathless、死のない、終わりのない)愛を楽しむのではないでしょうか?

第3段落
そうかもしれません。しかし問題(question)は、「私たちはどうやって霊的な世界に辿り着くのか?」ということです。それは特別な種類の愛、個々の魂と至高の魂、神との間の愛を必要とします。実際は、どうやって神を愛するかを忘れてしまっているので、私たちは一時的で満足できない愛情関係の網にかかってしまっています。

ですから、個々の魂と至高の魂の間の霊的な愛は、最も大切な種類の愛です。それは、真に永遠な唯一の愛です。実際は、私たちが経験する他のすべての種類の愛は、個々の魂と至高の魂の間のもともとの愛情ある交換の単なる反映です。この特別の愛はサンスクリット語でバークティと呼ばれます。そして、その愛を目覚めさせるための過程はバークティ・ヨガ、永遠の愛の術(art)と呼ばれます。

第4段落
バークティには3つのものが関わります:愛する者、愛される者、そして愛情ある関係です。バークティにおいては、3つどれもが永遠です。愛する者、(すなわち)個々の魂は永遠です;そして愛される者、至高の魂は永遠です;そして愛情ある関係、バークティもまた永遠です。

第5段落
16世紀において、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーという名前の、バークティ・ヨガにおける傑出して発達した熟達者が、その理論と実践に関する手引き(handbook)を書きました。彼はその本を「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー」、すなわち「神聖なる愛の蜜の海」と呼びました。

長い間、その秘密は古い(ancient)サンスクリット語に閉じ込められていました。私たちにとって幸いなことに、バークティ・ヨガの知識と技法の現代の師(master)であるA.C.バークティヴェダンタ・スワミ・プラブパーダ(広くシュリーラ・プラブパーダとして知られる)(校正:原文は閉じ括弧が抜けている)がこの本を英語に翻訳し、弟子(students)たちにその神秘(mysteries)を教え(to train、訓練する)始めました。シュリーラ・プラブパーダは訳書を「献身の甘露」と題されました。

第6段落
愛は、その物質的な顕現において、通常、場所と関わっています―――パリのような都会の春の季節、あるいは人が愛する人と歩いた浜辺などです。同じように、霊的な愛も場所と関わっています。そのような場所の中で最も高いのは、神が霊的な天空においてご自分の永遠の仲間たちと愛情ある娯楽をお楽しみになる永遠の霊的な場所の、地上の顕現である、ヴリンダーヴァンです。

ヴリンダーヴァンには多くの寺院があり、そしてその一つであるラーダー・ダーモダラ寺院は、永遠にルーパ・ゴスヴァーミーと関わっています。なぜなら、彼の身体的な体がそこで埋葬された(to be interred)からです。(サマーディーと呼ばれる)彼への小さな記念碑が、寺院の中庭の一つに建てられています。

第7段落
1965年にアメリカに来る前、シュリーラ・プラブパーダはラーダー・ダーモダラ寺院の中の静かな部屋に住み、そして自室の窓からルーパ・ゴスヴァーミーのサマーディーを見て、それから霊的な刺激を得る(to draw inspiration)ことができました。

7年後、シュリーラ・プラブパーダはラーダー・ダーモダラ寺院に戻られました。そして中庭にて、ルーパ・ゴスヴァーミーのサマーディーの近くで、弟子たちに「献身の甘露」について一連の講義をなさいました。バークティへの深い霊的な洞察に満ちたそれらの講義の一部(selection、選んだもの)は、「献身の甘露」からの抜粋と織り交ぜられ(to be interwoven)、この本の中身を形成しています。

第8段落
バークティ・ヨガ、永遠の愛の術に関するルーパ・ゴスヴァーミーの教えを、師弟継承によって現代の主要な(foremost)信者(follower)から私たちへと下りてきた姿のままに、皆さんと分かち合いたいと思います。もしも私たちがバークティ・ヨガを通して神を愛することを学ぶことができるなら、それなら私たちは他のすべてのものとすべての人を正しい方法で、私たちに最大の幸せ、最良の幸せ、永遠の愛の幸せをもたらす方法で、愛することを学ぶことができます。

編集者(複数)
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こんにちは。「はじめに」だけですけれど、ご覧ください。本文はまたそのうちにお届けします。ところで、私はこのところ現代文明との折り合いがはなはだよろしくなく、あれこれの家電は壊れる、携帯電話は壊れる、コンピューターにはなぜか変なプログラムが入ってしまってどうやっても取れない(マルウェアという迷惑なやつです)など、えらい目に遭ってます。苦労の末、今のところFireFoxの「ツール→アドオン→拡張機能」という順路を辿って「AdBlockPlus」というのをオンにしたら、だいぶおさまっています。こういうのはほんとに苦手なのですが、皆さんも妙な広告が出てきて困る事態になってしまったらお試しください。
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by ammolitering4 | 2014-03-21 05:40 | 「永遠の愛の術」 | Comments(0)

ジャガナータのガラス絵

久しぶりにガラス絵を描きました。すっかり忘れてましたが、私は絵描きだったのです。絵の具のチューブを開けようとしたら固まってるし、ガラス絵の要領も「え~と。。。」という感じだし、何だか悲しいです。どうもいろんなことが中途半端で、二兎を追う者どころか三兎も四兎も追ってる感じなので、少し頭を冷やさねばと思います。

ともあれ、マントラと共に現れましたるジャガナータ、ご覧のように裏返しです。単になぞっただけなのです。鏡に映してみたら表に戻ります。中学校で美術部に入っている姪に送るつもりです。宗教色の希薄な家庭なので本人も何の関心もないと思いますが、単にアート的な関心からでも傍に置いてくれたら、クリシュナが見守ってくださるだろうと思うのです。

ガラス絵というものに馴染みのない方に簡単にご説明しますと、これはガラスの片面から絵の具の層を重ねていって、反対側から鑑賞するという絵です。私はこれをずっと前から独学でやっていて、ガラス絵博物館というサイトで細かいことを紹介しています。ご興味と暇があればご覧ください。膨大なサイトです。
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by ammolitering4 | 2014-03-17 09:40 | Comments(2)

おまけ

こちらのサイトにいくつか絵があるので一枚だけ拝借しますが、、、
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その昔、ライディーンというアニメがありましたね。どういうわけか姉がこれが好きで、喜んで見ていました。その頃は巨大ロボットが花盛りだったような気がしますが、あれを私は今でもときたま思い出すのです。人間の体というのは巨大ロボットのようなもので、たぶん目のあたりに操縦席があります。パラマートマーは心臓にいらっしゃいますが、個々の魂は脳に近い感覚器官をコントロールしているその操縦席にいるのだと思うのです。

実際どうなのかは分かりませんが、そうだと思うと感覚のコントロールもしやすくなるような気がします。特に食べ物など、ロボットの燃料のようなものなので、適切なものを注入しないといけない、という気持ちになるのです。いつもそう感じているわけではないのでいい加減なものを好きなように食べてたりもしますが、よかったら一度自分がそうやって操縦席にいて体を動かしているところを想像してみてください。けっこう面白いですよ。特に声を出したりすると、ロボットの内部に響いて余韻が残ったりするので、この気持ちに浸っているときにはあまり声を出したくない気持ちになります。
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by ammolitering4 | 2014-03-14 14:48 | Comments(0)

第2部 後半

第14段落
さて、バガヴァッド・ギーターにおいて描写されている過程全体は、目覚めているためのものです(~is to be awake)。あなたは純粋な意識―――霊魂です。そして、目覚めているためだけでなく、それに応じて活動するためでもあります(訳注:to act accordingly、この場合は「目覚めている者として、目覚めている状態で」などの意味)。

これは、それによって、究極の最後のときにあなたの純粋な意識がこの身体的な呪縛から解放されるようになるためです(訳注:原文は前の「そして~」から繋がる長い一文)。そのときあなたは健康な人生を得るでしょう。これは、この物質的な人生は、病です(This is a disease, this material life)。

この身体的な体は、私の人生の病んだ形(my diseased form of life)のしるしです。私は実際は誕生と死の影響下にはありません(subject to~)。私は永遠です。私は決して生まれません(I never take my birth)。私は決して死にません。これが私の本当の立場です。それなら、この誕生と死とは何でしょうか?それはこの体によるものです(due to~、原因)。衣服(dress)のように体を替えることが誕生と死と呼ばれます。しかし実際は私は純粋な魂です。

第15段落
今、人々は神が死んだと言っています。この理論は人気があります。彼らは、主がお亡くなりになったというプロパガンダを広めています(to make)。しかし、神も私たちも決して死にません。また、私たちは生まれもしません。バガヴァッド・ギーターにおいて、バーガヴァーン、至高の人格神シュリー・クリシュナは、こうおっしゃいます。

「アルジュナよ、なぜあなたは戦うことを恐れているのですか?私自身、あなた自身、私たちの前に集まったこれらすべての王たちと兵士たち―――彼らすべて―――彼らは以前、存在していて、そして今、存在していて、そして未来も存在し続けるでしょう。誕生と死はありません。

ですから、この戦争(warfare)は身体上のものです(訳注:This warfare should be on the condition of the body、体の状態に関するもの。この場合のshould は単に未来のことを表す)。それを恐れてはいけません。」

第16段落
この点を私たちは既に論じました。人はこの点を理解しなければなりません:私は純粋な魂である。純粋な魂としての私の存在は、私の意識がそのしるしです(to be symptomatized、特徴づけられる)。私は人生で過去に何が起こったか(what has happened in my past life)を知っています。

そして、今起こっていること(what is happening)、それも私は覚えていることができます。そして、私は自分の未来の人生(my future life)について推測する(to guess)ことができます。少なくとも、私は自分の未来のために計画を立てます。未来を持たないなら(unless、~でない限り)、なぜ私は計画を立てるべきでしょうか?

しかし、私はこの過去、現在と未来を超えています(beyond)。私は永遠です。主は永遠であり、至高神の欠かすべからざる小片として私も永遠です。したがって、私の自己利益はその永遠の人生を得る(to attain)ことです。完全な喜びの人生。完全な知識の人生。

それが私の人生の使命(mission、任務、役目)です。そして、その立場を真剣に受け止める者、この人生の使命を果たし始めた(訳注:who has taken up this mission of life、to take upは「申し出や約束に応じる、問題を取り上げる、特定の能力を要する仕事を始める」など)者、そしてその完成のために努力している者、彼は実際に目覚めています。

そして、この地点にいない他の者たち、彼らは眠っています。これが眠っている者のしるし(mark)です。一日中、熱心に(strenuously)働いている者、彼は実際には目覚めていません。彼の本当の知性が眠っているので、彼は眠っています。彼は自分の自己利益を失ってしまっています(he has lost)。彼は、人間の人生の本当の利益は何であるかを知りません。

第17段落
すべてのヴェーダ文献はこのように私たちに嘆願しています(to implore)。「眠ってはいけません!眠ってはいけません!目覚めていなさい!目覚めていなさい!起き上がりなさい(to get up)!この眠りから起き上がりなさい!あなたが今持っている恩恵(boon)を活用しなさい。愚かであってはいけません。」

第18段落
人々は一所懸命に働き、食べるのに十分なお金を稼いでいます。特に皆さんの国では、食べることのために十分な手段(means)があり、誰も飢えていません。それは良い(That's all right)のですが、彼らはそれでも(still)満足していません。私はこれを非常に注意深く研究しました(to study)。

若者たち(younger people)は皆、不満があるように(to be frustrated、失望、挫折)見えます。国の未来の希望である若い世代が、希望がないと感じるのは、あまり良い状態ではありません。彼らの未来は暗黒(dark)です。なぜでしょうか?なぜなら、彼らは方向(direction、指導、指示)を持たないからです。

人生の目的(aim)は何でしょうか?彼らは何になるでしょうか?(訳注:彼らに与えられている)哲学は、一所懸命に働き、お金を稼ぎ、好きなように楽しむというものです。これは誤った導き(misguidance)です。したがって、若者たち(the young)は幸せではありません。

そのため彼らは満足のために、好ましくない何か(something which is objectionable)に頼ります(訳注:to take center of とあるが、レクチャーなのでto take shelter ofの聞き取り違いではないかと思われる。好ましくないものとは麻薬その他の退廃したものを指す)。しかし、それは完全な満足を与えることはできません。

第19段落
今、ここに機会があります。バガヴァッド・ギーターはあなたに、あなたの実際の人生を見せることができます。それを利用してください。特に若者たち(younger people)に(訳注:そうするように)頼んでください(to appeal、訴える、懇願する)。不満を持っていてはいけません(to be frustrated、挫折、失敗);落胆していてはいけません。

あなたの未来には完全な楽しみがあります。あなたがたは皆、至高存在の欠かすべからざる小片です。イーシュヴァラ・パラマ・クリシュナ、サック・チット・アーナンダ・ヴィグラハ。主は、こうおっしゃいます。「おお、これらの気の毒な生命体よ。彼らは非常に苦しんでいます。彼らは不満に感じています。おお、彼らは私の欠かすべからざる小片です。」

そのため主は、あなたを取り戻しに(to claim、返還を要求する)いらっしゃいます。「我が愛しい息子たち(boys)よ、なぜあなたたちは苦しんでいるのですか?私の言葉を聞いてください(Please hear me)。あなたのすべての仕事(engagement)を放棄しなさい。ただ、私の言葉を聞きなさい。

私の言うことに従おうとしなさい。私はあなたを罪のすべての反応から自由にします(shall)。」あなたはバガヴァッド・ギーターの中で、これが保証されているのを見るでしょう。単に主に服従しなさい。もちろん、シュリー・クリシュナだけではありません。

主イエス・キリストもまた、同じようにお話しになりました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。 (『口語 新約聖書』日本聖書協会、1954年 )

(“Come unto me, all ye that labour and are heavy laden, and I will give you rest. Take my yoke upon you, and learn of me; for I am meek and lowly in heart: and ye shall find rest unto your souls. For my yoke is easy, and my burden is light.” (Matthew: 11/28-30))

それが霊的な世界から―――至高神の王国から来るすべての人のメッセージです。それが唯一のメッセージです。

第20段落
そのため実際には、このバガヴァッド・ギーターはあなたに幸せな人生への光を与えています。この機会を逃してはなりません。それを聞こうと、得ようと(to have)しなさい。シュリー・チャイタンニャ・マハープラブは、それを非常に簡単になさいました。

私たちの人生の使命を果たすために(to fulfill the mission of our life)、献身奉仕の9つの異なる過程があります。聞くこと、唱えること、覚えていること、崇拝すること、受け入れること、奉仕をすること(service)、すべてを差し出すこと、友情、そして祈ることです。

これらの9つの中で、主たる、そして基本の(訳注:principal and primary、どちらも同じような意味で、基本的で主要なものを形容する)ものである最初の二つの過程は、シュラヴァナム・ナールタナム・ヴィシュヌです。聞き、讃えなさい。それは非常に多くの人生を通して(for so many lifetimes)溜まった埃をあなたの心(heart)から洗い落とし、そしてあなたは物事を非常にはっきりと見るようになるでしょう。

第21段落
スヴァーミンとゴスヴァーミンは、「感覚を完全に統御している者」を意味する同義(synonymous)語です。自分は感覚を統御することができない、と考えていてはいけません。誰もがそうできます。あなたはこの過程によって力を得るでしょう。

この、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ、ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレを唱えることは、あなたを助けるでしょう。自分には力がないと考えることによって落胆してはいけません(to be dejected)。あなたは力を得るでしょう。この過程を続けなさい。

キールタム・シュラヴァナムは、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレを唱えることを意味します。そして、バガヴァッド・ギーターとシュリマッド・バーガヴァタムからいくつかの節(passage)を聞きなさい(訳注:この場合は文脈上、「~を聞くことも意味します」という意味)。これらの二つの過程を利用しなさい。そうすれば(and)あなたは自分の霊的な人生のための力を見出すでしょう。人はその感覚の統御という立場に位置するようにならねばなりません。

第22段落
さて、海を見たことがあるので、あなたは何の疑いも持ちません。なんと満ち溢れていることでしょう!(How full it is!)海はとても力強いので、もしもそれが上がったなら、ニューヨーク市全体が水の下に沈む(to be submerged)でしょう。しかしそれは私たちの心を乱しません(to disturb)。

それはその限界以上には行きません。例えば、ナロー水道(訳注:the Narrows、ニューヨーク港に通じる ロング・アイランドとスタテン・アイランドとの間の狭い海峡 )は、海の境界線(brink)です。海はナロー海峡の反対側には来ません。これが例です。感覚を統御したとき、私たちはちょうど大きな海のようになります―――霊的な知識に満ちていますが、誰の心も乱さず、そして(訳注:何者にも)心を乱されず、穏やかで静か。平安です。

第23段落
ベンガル地方にはおよそ500本の川があります。これらすべての川が水を海へ運びます(~flow down water, to the ocean)。しかしそれでも、海、ベンガル湾は穏やかで静かです。静かなのです。同様に、海と同じくらい満ちて大きくなった(as full and as big as the ocean)者にとって、物質的な欲望は来るかもしれませんが、彼らは心乱されません。

非常に多くの川が水を運んでいるにも関わらず、それ(訳注:海)は全く溢れることなく(訳注:you won't see an inch of water out of it、1インチの水さえ出てくるのを見出せない)、そしてどれだけでも水を注ぎいれることができます。水面の高さ(sea level)はいつも同じです。この例が与えられています。

欲望は、私たちは必ず持っています(Desires we must have)。私たちは欲望を消す(to extinguish、火を消す)ことはできません。自分は欲望を抑える(to subdue)ことができると考えるのは愚かさです。欲望は生命のしるしです。欲望は存在するに任せなさい(Let there be desires)。

もしも私が生命と意識を持っているなら、それなら欲望もまた、必ずそこにあります(desire must also be there)。ちょうど、水が川から海へ流れるときに海が乱されないように、人はこれらの欲望によって心乱されるには及びません(need not be、必要がない)。これが術(art、技量、技能、芸術、熟練)です。これがあなたの人生の完成の秘密です。

第24段落
欲望は来るかもしれませんが、もしもあなたが正しい理解をしっかりと持っているなら(to be fixed with~)、あなたは自分の欲望を転換します(to convert)。過程全体は、あなたの欲望を主のとぴったり合わせる(to dovetail、繋げる、緊密に結びつく)ことです。

例は、アルジュナは戦わないことを望みますが、バガヴァッド・ギーターを聞いた後で彼の欲望が変わったことです。彼は「はい、私は戦います!」と言いました。彼は戦うことを欲しました。ですから、欲望がありました。欲望の相(mode)が変わりました。それだけです。

同様に、私たちは欲することを止めることはできません。それは可能ではありません。しかし私たちは欲望の性質を変えなければなりません。それだけです。それはあまり難しくありません:私はこれをしよう、私はこれをすまい(I shall do this, I shall not do this)。

バガヴァッド・ギーターは、私たちにこれらのことを見せるためにあります。バガヴァッド・ギーターを聞く前に、アルジュナは何かを欲しており、そしてバガヴァッド・ギーターを聞いた後で彼は他の何かを欲しました。欲望の性質が変わりました。

同様に、ギーターを聞くことによってあなたは自分の欲望を変えることができます。あなたは自分の欲望を止める必要はありません。あなたは単に自分の欲望を浄化しなければならないだけです。そうすればあなたはそれらによって心乱されないでしょう。

自分の欲望があなたの心を乱すとき、あなたは、自分はまだ霊的に確立していないと知るでしょう(you may know)。そしてあなたの欲望があなたを啓発し(to enlighten)、あなたを元気づけ(to enliven)、あなたに幸せを与えるとき―――あなたはその欲望は霊的であると知るでしょう。ちょうどアルジュナのときのように(just as with~)、欲望は変えられねばなりません。

第25段落
欲望をあるに任せなさい。今、あなたは欲望を変えることができます。クリシュナのために欲しなさい(Desire for Krishna)。自分自身のために欲してはいけません。クリシュナのために欲しなさい。私はどうやってクリシュナのために欲することができるでしょうか?

実際的な例を挙げましょう(Take a practical example)。クリシュナは私たちにこう呼びかけるためにこの物質世界においでになりました。「我が愛しい息子たちよ、あなたのすべての意味のない仕事(nonsensical engagement)を放棄してください。私の信者(follower)になりなさい。

そうすれば(and)私はあなたを守ります。」これがクリシュナのメッセージです。今、バガヴァッド・ギーターが存在します。クリシュナのメッセージです。もしもあなたがこのギーターのメッセージを世界の人々に布教したい(to preach)と望むなら、それはあなたが自分の欲望を変えたことを意味します。

そしてあなたはそれによって(thereby)自分自身を浄化することができます。欲望を遂行する(to execute)ための十分な活動があるでしょう(訳注:~ためにたくさんのことをするでしょう)。しかし、これらすべての活動は浄化されるでしょう。

第26段落
そのため、私たちは自分の活動も、欲望も、止める必要はありません。しかし私たちは、アルジュナがしたように、それらを主の欲望とぴったり合わせなければなりません。自分の欲望をシュリー・クリシュナのとぴったり合わせたあと、彼の活動はもっと責任のあるものになりました。

ちょうど臆病者(coward)のように、彼は戦うことを拒否していました。彼はクシャトリヤ、軍人でした。彼の義務は正義(a good cause、正当な理由)のために戦うことでした。そして、正義とは何でしょうか?シュリー・クリシュナは彼に戦うように命じました(to instruct、はっきりと指示する、教える)。

「これが私の計画です。」これより良い理由があるでしょうか(what can be a better cause than this)?至高の人格神がこれが私の望みであるとおっしゃるとき、何がもっと重要であり得るでしょうか?そして、何が至高の人格神から直接来ているものより良い目的であり得るでしょうか?

第27段落
私たちが至高主の欲望にぴったり合わせるとき、そのとき私たちの責任はもっと重要(imperative、ぜひとも果たすべき、緊急の、断固とした、必須の)になり、そして私たちはもっと(than we are otherwise)活動的になります。物質的な活動では、人は疲れます(you will get tired)。

これが物質的な活動と霊的な活動の違いです。霊的な活動に携わっているとき、人は疲れません。あなたは活動するためのますます新しい(newer and newer)力を得るでしょう。したがって、欲望は止められるべきではありません。

何であれあなたが自分の内に持っている力は、それは至高主によって与えられたものです。なぜならあなたは至高主の欠かすべからざる小片だからです。そして、もしもあなたがそれを至高主の目的のために活用するなら、それならあなたは主とぴったりと合うようになり、そしてあなたの人生は成功します(to become successful)。

あなたは物質的な欲望によって心乱されません;あなたは平和を得るでしょう。何度も生まれ変わって、いつもいつも求めていた平和(The peace for which you are hankering in life after life, moment after moment)―――あなたの欲望が浄化され、主のとぴったり合ったとき、そのときにあなたはその平和を得るでしょう。

感覚の満足、物質的な満足の楽しみを欲する者は、決して幸せになりません(will never be happy)。それは可能ではありません。もしもあなたが平和を望むなら、もしもあなたが幸せを望むなら、もしもあなたが人生における完成を望むなら、それなら、ただ、あなたの欲望、活動、そして力(potential、潜在能力、可能性)を至高の人格神にぴったり合わせ始めなさい。そうすればあなたは、本当の幸せとは何かを知るでしょう(you will see)。そして、誰が本当に(訳注:本当は誰が)狂っているのかを見分けることができるでしょう(will be able to tell)。
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以上で本書の翻訳を終わります。

今回のはほんとに小さな本でしたが、いつもながら学ぶところの多い内容でしたね。さて、こうして字面で眺めたことが実際に血となり肉となってくれるでしょうか。それは私の努力次第ということなのでしょうけれど、世の中には睡眠学習とか(今もやってる人がいるのかな)速読術とか、個人の努力とあんまり関係なく情報が染み込んでくるような現象もあるようですから、日々なんとなく見ているうちにいつのまにか立派な人になっている、というようなことを期待しております。

続きましては、同じく小さくてすぐに完成しそうな「Bhakti-Yoga、The Art of Eternal Love」を予定しています。他に翻訳があるかどうかは、あまり気にしないことにしました。自分の勉強として、気が向いたのを訳していこうと思います。まだ全然手をつけてませんので、のんびりお待ちください。
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by ammolitering4 | 2014-03-14 13:03 | 「クリシュナ、喜びの宝庫」 | Comments(0)

第2部 前半

第2部 誰が狂っているのか?(訳注:狂っているのは誰か?)

第1段落
主シュリー・クリシュナはこうおっしゃいます。「我が親愛なるアルジュナよ。異なる階級の人間が存在します。一つの階級の人間たちは、彼らは眠っています。そしてもう一つの階級の人間たち、彼らは目覚めています。彼らは眠っていません。」

そして、これはどうしてそうなのでしょうか(how is this so)?私たちがちょうどいま行った、この唱えることは、眠っている魂のための目覚めの(wakening)過程です。魂は、この物質的な体に覆われて眠っています。これらの身体的な活動は、眠っている状態(stage、段階)にあります。

ちょうど私たちが眠っている状態で夢を見るように、同様に、これらすべての身体的な活動は夢です。ただ、自分で考えてみてください(Just think for yourself)。あなたの人生の過去において(訳注:in your past life、この場合はいわゆる過去生ではない)、幾つの出来事が起こりましたか?

もしもあなたがそれらのことを考えるなら、それらはちょうど夢のように見えるでしょう。少なくとも私にとってはそうです(for myself this is the case)。私はインドで生まれ、教育を受け、それから結婚し、それから妻と非常に良い日々を過ごし(to have)、何人かの子供を得て、そのうちの何人かは死に、何人かは生きており、何人かは結婚しました。

今、彼らは子供をもうけました(訳注:to begetは男性が子供をもうけるという意味で、女性の場合はto bear、産む )。これらすべてが私の人生の過去において起こりました。今、それらはすべて夢です。私はそれと何の結びつきもありません。

同様に、夢の中で私は時として自分が王様になったのを見出します。おお、非常に多くの富(riches)と非常に多くの栄華(訳注:opulence、どちらも同じような意味だが、前者は財宝や巨万の富を表し、後者は豪華絢爛で贅沢な様子を表す)があります。そして、夢が終われば直ちに私は家に戻り、すべては去ってしまいます(all is gone)。

第2段落
そのため実際は、私たちが今いそしんでいるこれらの身体的な活動は、私たちの実際の人生ではありません。したがってヴェーダのマントラはこう言います。「おお、人類よ、目覚めてください。あなたが今持っている機会を活用しなさい(to utilize)。」

あなたは特別の機会を持っています。そして、それは何でしょうか?この、生命の人間の形です。活用しなさい:それを無駄にしてはいけません。眠り続けていてはいけません。この全く同じ事柄がシュリー・クリシュナによって取り上げられています(to take up、問題を取り上げる)。

ヨガの過程に慣れている(to be accustomed to~)者は、これを知っています。ヨガの過程の最初の原則は感覚を統御することです。これはすべての過程にとってそうです。霊的な認識のためのいかなる真正なる過程においても、最初の原則は感覚を統御することです。これは、感覚が私たちを人生の最も暗い領域(region)に引きずり込んでいるからです。しかし、私たちはこれを理解しません。

第3段落
シュリマッド・バーガヴァタムの中に、良い(nice)節があります。それは、まず、人間はこの人生の物質主義的なあり方(way)に過度に依存している(to be addicted、中毒)と言います。物質主義的な人生のあり方(way of life)は、食べること、お酒を飲むこと、遊び興じること(to make merry、酔って騒ぐ)と楽しむことに関わります。

それだけ―――それだけです(That's it---that's all)。とてもおいしい食べ物を食べ、よく眠り、自分の国や、あるいは家に敵が入って来ないように身を守る。そして心行くまで(to your heart's content)性的な楽しみにふける。これが物質主義的な人生のあり方です。

しかし、そのように眠っている人は(persons who are so sleeping)自分の本当の自己利益(self-interest)は(訳注:それとは)異なるということを理解しません。私たちの本当の自己利益は、私たちは至高の完全真理との自分の失われた関係を知らねばならないというものです。

第4段落
至高の完全真理は、非人格的なブラーマン、あるいは局在的な超魂、あるいは至高の人格神シュリー・クリシュナという異なる視点から理解されます。至高の人格神シュリー・クリシュナを理解する者は、自動的に他の二つの形(feature、特徴、容貌)を理解します。

しかし、至高の完全真理の非人格的な形だけに近付いた者は、至高の人格神シュリー・クリシュナについて(of)何の情報も持ちません。さて、ここで、バガヴァッド・ギーターにおいて、至高の人格神があなたの前にいらっしゃいます(to be present)。

第5段落
ここに、シュリー・クリシュナと主の(校正:his →His)永遠の恋人(訳注:consort、普通は妃を意味する)シュリーマティー・ラーダーラーニー、すなわち主の喜びの力の絵があります。この物質の世界では、シュリー・クリシュナと主の喜びの力は歪んだ形で(pervertedly)存在しています。

この絵の中で見ることができるように、シュリー・クリシュナはいつも シュリーマティー・ラーダーラーニーとご一緒です(to consort with~、付き合う、交わる)。主の特徴はヴェーダ文献において描写されています。主は、とても美しい(nice)曲線状の(curved、曲がった、湾曲した)姿勢でお立ちになり、横笛を吹いておられます。この絵は芸術的な想像から描かれたのではありません。それはヴェーダ文献からの描写的な絵です。この描写はヴェーダ文献の中にあります。

第6段落
さて(So)、物質世界にはシュリー・クリシュナのラーダーラーニーとの娯楽(pastime)の歪んだ反映があります。それは、そう見えはしても、私たちが持っているような性生活ではありません。それは超越的です。しかし、ここで私たちが求めているもの(that which we are after here)―――それは本物です。

若い男は若い女を欲し、そして若い女は若い男を欲します―――これは自然です。これは人工的ではありません。私たちは皆、その至高存在クリシュナの欠かすべからざる小片であるので、これは自然です。私は主の欠かすべからざる小片であるため、主の気持ち(attitude、心構え、姿勢、態度)は私の中にあります。

ちょうど、金の性質が微小な(minute)金の粒の中にも存在するようにです。金の化学的な成分(composition)は、金の小さな粒の中に100%存在しています。質的には、です。したがって、私たちが男と女の間に欲する楽しみは、愛と友情の歪んだもの(perversion、曲解、こじつけ)ではありません。

それは単に歪んだ反映(斜線で強調)です。本当の楽しみ(enjoyment)は、至高主シュリー・クリシュナとの関わりにおいて目覚めさせられます。それは同じ喜び(pleasure)ですが、その純粋な形にあります。その同じ喜び(bliss)があなたのためにありますが、楽しみのこの歪んだ形の中に呪縛されるようになってはいけません(don't become entangled)。眠ったままでいてはいけません。この、夢を見ている状態に留まってはいけません。本当のものを持ちなさい。夢から覚めなさい。それがヴェーダのメッセージです。

第7段落
これが機会です(訳注:あなたは今、その機会を手にしている)。もしもあなたが生命の人間の形―――発達した意識―――におけるこの機会を逃すなら、あなたは再び、ある形から別の形へと発達している生命の840万種の循環へと滑り落ちるでしょう。それが進化の段階的な過程です。

私たちはまだ進化の過程の中にいますが、その進化の過程は前向き、前進的(forward, progressive)であるべきです。退化ではありません(not degraded)。滑り落ちてはいけません。下向きに行ってはいけません。長年の努力によって、あなたは生命のこの段階に上がってきました(you have come forward)。今、更なる発達をしなさい。シュリー・クリシュナへの発達です。戻ってはいけません。

第8段落
シュリマッド・バーガヴァタムは、ほとんどの人は人生における自分の自己利益を知らないと言います。それは十字路(crossroad、交差点)に来て方向を知らないようなものです。たとえば、あなたがフィラデルフィアに行こうとしていて、ニューヨーク市を横切ったあと、十字路を見ますが、道を知らないと仮定しましょう。

もちろんアメリカには道路上に非常に効率的な方向体系があります。そのため(that way)、道に迷うことはありません(you have no misguidance)。同様に、聖典の中ではヴェーダ文献があなたに道を示します(to give direction)。はい、ここが横断するところ(crossing)です。

もしもあなたがこちらに行きたいなら、そうして構いません(you may)。ですから、バーガヴァタムは、人は発達するための方向を知らないと言います。人は、自分はヴィシュヌに向かって更なる進歩をしなければならないと知らねばなりません。なぜでしょうか?なぜなら、これは非常に高く発達した人生だからです。

生命のこの形において、私たちは非常に高い知性を持っています。私たちは、猫や犬や他の動物たちよりももっと多くの知性を持っています。なぜそれを誤用する(to misdirect、誤った方向に導く)のですか?迷い(misdirection)は、生命のこの身体的な概念に魅了されたことによります。人は、「私は、体と感覚を最大限に(to the utmost)活用して幸せになろう」と考えています。

第9段落
自分の前進的な人生とは何かを知らないので、私たちはこの体からエキス(essence、真髄)を搾り取ろうとしています。それを楽しむためです。バーガヴァタムの中に、これらの愚かな人々について語った
(to cite)非常に良い例があります。彼らはラクダに例えられます。

ラクダは、棘のある小枝を非常に好む、砂漠の動物です。彼らは非常に長い首を持っており、そして彼らは棘のある小枝を口に入れ(to take a bunch of~)、噛み始めます。棘が刺さって、舌から血が染み出ます(to ooze out)。もちろん(Naturally)、棘を噛めば舌が切れます。

そのため、彼らがこれらの棘を口に入れて噛み始めると、血が出ます。そしてそのように(in that form)混ざると、彼らはそれを食べます。なぜなら、血は彼が好きな味をしているからです。彼は、棘のある小枝はとてもおいしいと考えます。私たちの性生活もそのようなものです。単にそれを体から搾り出し、そして私たちは自分がそれを楽しんでいると考えます。これが私たちの立場です。

第10段落
もう一つの例が挙げられています。インドでは、洗濯屋はロバを飼います。彼らはロバにできるだけたくさんの荷物を積みます。ロバは一日中働き、そして夕べには幾らかの草を与えられ、そして彼は満足しています。

一掴みの草(a morsel of grass)のために、彼は背中に重い(a half ton of、半トンの)衣類を積んで一日中働く用意があります。同様に、私たちもまた、カルミンたちは、昼も夜もずっと(all day and all night)非常に忙しく働いています。そして家に帰ってきたとき、私たちは一切れのパンだけを食べます。

10セントもしないパン一切れのために、人は昼も夜もずっと働いています。そのため、ロバに比べられます(the comparison is to the ass)。ロバは誰のために自分がそれほど一所懸命に働いているかを知らず、幾らかのパンを食べます(to take)。「これが私の人生の目的です。」

それは私の人生の目的でしょうか―――何か食べて眠り、そして幾らかの性的な喜びを持ち、そしてそれから死ぬことが?いいえ、これは人生の目的ではありません。あなたの人生の目的は、自分自身を―――自分は至高の完全人格神シュリー・クリシュナの欠かすべからざる小片であると理解することであるべきです。クリシュナはあなたの到着を待っておられます。あなたが主との関わりにおいて人生を楽しむことができるようにです。

第11段落
人は、人生の前進的なあり方とは何かを知りません。なぜでしょうか?なぜなら、彼はこの感覚的な楽しみが人生の最大の(greatest)喜びであると理解したからです。彼は愚かにも、この感覚の楽しみによって自分は幸せになると考えています。

これはちょうど、正しく馬勒(ばろく。くつわや手綱などの総称)をつけて(bridled)いない馬を持っているようなものです。それは走って走って(it is running on, running on)、そしてあなたはどこでそれがあなたを投げ落とす(to throw)か知りません。

同様に、統御されない感覚はちょうどあなたの戦車を引きずっている、馬勒をつけていない(unbridled)馬のようです。あなたは、それがどこであなたを投げ落とすか知りません。私たちは、自分がすべての行動にどれほど責任があるかを理解していません。

私たちの行動のすべての小さな部分に、反応があります。そして、私たちの統御されない感覚は私たちを行動と反応(action and reaction、作用と反作用)の鎖に投げ込んでおり(to put us through~)、私たちを宇宙の最も暗い部分に引きずり込んでいます。

第12段落
したがって、主シュリー・クリシュナは、どうやって感覚を統御するかを学んだ者はスヴァーミーンと呼ばれる、とおっしゃいます。統御の取れた(controlled)人にとって、世俗的な(worldly)活動は暗闇です。純粋な意識の中に位置する者は、単に食べること、眠ること、性交することと身を守ることのために一所懸命に働く人々―――これらの人々は眠っていると見ます。

そして、これらの物質的な活動に携わっている人々にとって、私たちは眠っています。彼らは、スヴァーミージー(訳注:プラブパーダのこと)は私たちを非活動的にする何かを布教するためにアメリカに来た、と見ます。

彼はただ私たちを普通の仕事(general engagement)から引き摺り下ろそうとしていて、そして彼は私たちがキールタンとバガヴァッド・ギーターを聞いて時間を無駄にするように仕向けている(he is trying to engage us in the process of~)。ですから、彼らは私たちが眠っていると信じています。

誰かはこう考えるかもしれません。「これらの気の毒な連中(fellows)は、意味もなく、何ももたらさない(to bring forth)、無味乾燥な何かを論じることで時間を無駄にするためにここに集まった。そこから何か得られるように、何かのビジネスの話をしよう。」私たちは(斜体で強調)これらの人々が眠っているのを、そして彼らは(斜体で強調)私たちが眠っているのを見ます。

第13段落
さて、実際には誰が眠っているのでしょうか?私はこの体ではない―――私は意識であるという意識の水準に来る者は目覚めています(He is awake who~)。私はこの体ではない、私は意識であるというこの単純な事実を理解した者は目覚めています(One is awake who~)。

意識がなくては、私の体は役に立ちません。したがって、私は実際は意識です。私は純粋な意識であり、私の存在のしるしは意識です。私はこの体ではありません。深く考えるとき、私はこれは私の(斜体で強調)体であると理解することができます。これは「私は」体ではありません(This is not I, body)。これは私の(斜体で強調)体です。そのため、これを理解した者―――彼は目覚めています。
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by ammolitering4 | 2014-03-10 05:55 | 「クリシュナ、喜びの宝庫」 | Comments(7)

第1部 最後まで

第21段落
私たちは自分自身が人生のすべての状況において喜びに溢れているのに気づく(to find)でしょう。私たちは決して不機嫌(morose、気難しい、むっつりした)に感じません。バガヴァッド・ギーターにおいて
私たちは、これが私たちのブラーマ・ブータ(徳の最も高い段階)な状態であるということを見出します。

ヴェーダは私たちに、私たちはこの物体ではない、ということを教えます。私たちはブラーマンです。アハム・ブラーマースミ。主シャンカラーチャーリャは、世界にこの福音を布教なさいました。私たちはこの物体ではありません。私たちはブラーマン、霊です。

霊的な認識が実際に達成されたとき、そのとき私たちのしるし(symptoms)は何でしょうか?人が自分の(his own)霊的な認識に位置しているとき、そのとき彼は何の切望(hankering、手の届かないものへの渇望)も何の嘆きも持たないでしょう。

嘆きは失ったもの(loss、失うこと、損失)のためであり、そして切望は得られないもの(gain、得ること、利益)のためです(訳注:hankeringが得られないものを求める気持ちであることから、この場合のgainは「まだ得られていない、あるいはとうてい得られない利益」となるため、否定形にしています)。

二つの病気がこの物質世界を特徴づけます。持っていないものを私たちは切望します(to hanker after、飢えたように欲しがる、ないものねだりをする)。「もしもこれらのものを得たら、私は幸せになるだろう。私はお金を持っていないが、もしも100万ドル得れば、そうすれば私は幸せになるだろう。」

そして私たちが100万ドルを持っているとき、どういうわけかそれは失われるでしょう。そのため私たちは泣きます。「おお、私はそれを失ってしまった!」私たちが収入(earning)を求める(to hanker for~、ここではfor ですが、afterでも意味は同じ)とき、それは一種の苦しみ(distress)です。

そして私たちが損失に苦しむとき、それも苦しみです。しかし、もしもわたしたちがブラーマ・ブータに位置しているなら、私たちは苦しむことも切望することもありません。私たちはすべての人とすべてのものを平等に見るでしょう。たとえ燃え盛る炎のような(fiery)動乱(turbulence、社会不安、騒乱、乱気流)のなかにあっても、私たちは心を乱されないでしょう(will not be disturbed)。それが徳の相です。

第22段落
バーガヴァタムは神の科学を意味します。もしも神の科学が固守されるなら(to persevere in、続ける、忍耐する)、私たちはブラーマ・ブータの状態(status、地位)に位置するでしょう。ブラーマ・ブータの状態から、私たちは働かねばなりません。なぜなら、ここで仕事が勧められているからです。

この物質の体を持っている限り、私たちは働かねばなりません。私たちは働くことを止めることはできません。それは可能ではありません。しかし私たちはヨガの方策(tactics、戦術)を取り入れ(to adopt、採用する、自分のものとして取り入れる)なければならず、そしてこのようにして(訳注:~なりません。そうすれば)、たとえ運命あるいは状況によって私たちに強いられた(to be put into)何らかの普通の仕事をすることによっても(訳注:~をしても)、害はありません。

たとえば、自分の仕事において、嘘を言わなければビジネスが続かないと仮定しましょう。嘘をつくのはあまり良いことではありません。そのため人は、そのビジネスはあまり道徳的な(moral)原則に基づいておらず、したがって自分はそれを放棄すべきだと結論します。

しかしバガヴァッド・ギーターにおいて私たちは、放棄すべきではないという(not to give it up)教えを見出します。たとえ私たちが何らかの不公正な(unfair)実践なくしては自分の生計が続かないような状況に入れられたとしても、私たちはそれを放棄すべきではありません。

しかし、私たちはそれを浄化しようとすべきです。それはどのように浄化されるでしょうか?私たちは仕事の結果(fruitive results)を取る(to take)べきではありません。それは神のためのものです(to be meant for)。

第23段落
スクリタは敬虔な活動を意味します。そしてドゥシクリタは不敬虔な活動を意味します。物質的な水準において、私たちは敬虔、あるいは不敬虔であることができます。私たちは、何らかの敬虔な活動を行っているか、あるいは何らかの不敬虔な活動を行っているか―――あるいは私たちは敬虔と不敬虔の混じったものを持っています(訳注:~活動をしています)。

主クリシュナは、私たちは至高存在に関する知識、あるいは至高存在への献身の念を持って活動すべきであると助言なさいます。その知識とは何を意味するのでしょうか?それは、私は至高の意識の欠かすべからざる小片である、あるいは私はこの体ではない、ということを意味します。

もしも私が自分をアメリカ人として、インド人として、あるいはこれやあれと考える(to identify、同一視する)なら、それなら私は物質的な水準(plane、段階)にいます。私たちは自分をアメリカ人としてでもインド人としてでもなく、純粋な意識と考えるべきです。

私は至高の意識の従属的な(subordinate)意識です。言い換えれば、私は神の従者です。神は至高の意識であり、そして私は主の従者です。そのため、私たちの現在の理解にとっては、従属的とは従者を意味します。

第24段落
私たちは普通は神との関係において従者としての仕事を行いません(to carry out、実行する)。誰も従者でありたいと願わず、そうではなく誰もが主人でありたがります。なぜなら、従者であることはあまり心地よい(palatable、楽しい、快い)ことではないからです。

しかし、神の従者になることはこのようなものではありません(not exactly like this、これとは少し違う)。時として、神の従者は神の主人になります。生命体の本当の立場は神の従者であることですが、バガヴァッド・ギーターにおいて私たちは主人、クリシュナが、アルジュナの従者になったのを見ることができます。

アルジュナは戦車に座っていて、そしてクリシュナは彼の運転手です。アルジュナは戦車の持ち主ではありませんが、霊的な関係においては、私たちは物質的な関係という(of)概念に執着すべきではありません(訳注:「クリシュナは戦車の持ち主ではない」の間違い?戦車というのが運転手の持ち物なのか戦士の持ち物なのか分かりませんが、たぶん単なる間違いだと思います)。

ちょうどこの世界において私たちがその経験を持っているように、関係全体は霊的な世界に存在しますが、その関係は物体によって汚染されていません(訳注:この場合は、「主人と従者という」関係そのものは物質世界にも霊的世界にもあるが、霊的な世界のそれは汚染されていない、という意味)。

したがって、それは純粋で超越的です。それは異なる性質を持っています(it is of a different nature)。生命の霊的な概念において発達するにつれて、私たちは霊的な、超越的な世界における(訳注:生命体の)本当の立場は何であるかを理解することができます。

第25段落
ここで主は私たちにブッディー・ヨガについて(in)お教えになります。ブッディー・ヨガは、私たちが自分はこの体ではないという完全な意識を持つことを意味します。そして、もしも私がこの理解をもって活動するなら、それなら私は体ではありません―――私は意識です。それは事実です。さて、もしも私たちが意識の水準において活動するなら、それなら私たちは良い仕事あるいは悪い仕事の結果(fruitive results)を乗り越えることができます。それは超越的な段階です。

第26段落
それは私たちが別の誰かのために(on another's account)―――至高存在のために活動していることを意味します。私たちは損失あるいは利益に責任がありません。利益があるとき、私たちは思い上がる(to be puffed up)べきではありません。私たちは「この利益は主のためだ」と考えるべきです。

そして損失があるとき、私たちはこれは自分の責任ではないことを知るべきです。それは神の仕事―――主のです。そうすれば私たちは幸せになります(Then we will be happy)。これを私たちは実践(to practice)しなければなりません:すべてを至高存在のために(on account of)。

この超越的な性質を私たちは育まねばなりません。これが、これらの現在の状況の下で仕事を行う秘訣(trick、要領、コツ)です。身体的な意識の水準において働けば直ちに、私たちは自分の仕事の反応によって縛られるようになります。しかし、霊的な意識を通して働くとき、私たちは敬虔な活動によっても、悪い(vicious)活動によっても縛られません。それが技法(technique)です。

第27段落
マニーシナー―――、この言葉は大変重要(significant)です。マニーシンは思慮深いこと(thoughtful)を意味します。思慮深くない限り、人は自分がこの体ではないと理解することができません。しかし、もしも人が少し思慮深いなら、彼は「おお、私はこの体ではない。私は意識だ」と理解することができます。

時として、暇なときに(in our leisure time)、私たちは「おお、これは私の指で、これは私の手だ。これは私の耳で、これは私の鼻だ。すべて私のものだが、私は何か、私は何か?」と見ることができます。私はこれを私のものだと、そして私がいると感じています(訳注:I am feeling this is mine, and that I am、「I am」というのは「私は存在する、私は私である」という感覚)。

単に少しの思考が必要とされます。すべてのものが私のものです―――私の目、私の指、私の手。私の、私の、私の、そしてその私とは何でしょうか(what is the I)?その私とは、そこで私が「これは私のものだ」と考えている、その意識です。

第28段落
さて、もしも私がこの体でないなら、それならなぜ私はこの体のために活動すべきでしょうか?私は私自身のために活動すべきです。それでは、私はどうやって自分自身のために活動することができるでしょうか?私の立場は何でしょうか?私は意識です。しかし、どんな種類の意識でしょうか?

従属的な意識―――私は至高の意識の一部です。それでは、私の活動とは何になるでしょうか?私の活動は至高の意識の導きの下になります(will be)。ちょうど、事務所において、管理者(managing director)が至高の意識であるようにです。

たとえば、事務所では誰もが管理者の指示の下で働いています。したがって、彼らは責任を持ちません。彼らは自分の義務を果たさねばならないだけです。敬虔な義務であれ不敬虔な義務であれ―――気にしてはいけません(never mind)。

軍隊(military line)でも、隊長(captain)あるいは司令官(commander)の命令があります。兵士はそれを遂行しなければなりません。彼はそれが敬虔であるか不敬虔であるかを考慮しません。それは関係ありません。彼は単に活動しなければなりません。そのとき彼は本当の兵士です。

彼はそのように行動し、そして彼は褒美を得ます(to be rewarded、報われる)。彼は称号と栄誉を得ます。彼は気にしません。司令官が「ただ、行って敵を殺しなさい」と言い、彼は褒美を得ます。殺すことによって人が褒美を得ると思いますか?いいえ―――それは遂行された義務に対してです。

第29段落
同様に、ここで状況はクリシュナがアルジュナに教えているというものです。クリシュナは至高の意識です。私は意識、至高の意識の欠かすべからざる小片です。そのため私の義務は、その至高の意識に応じて活動するというものです。

例えば、私は自分の手を自分の体の一部だと考えます。今、それは独自に(in its own way)動いています(訳注:これは「独自に動いてはいない」の間違いであると思われます)。「私が望むように手を動かそう(let my hand be moved)、脚を動かそう。目を開けて見よう(let my eyes be open and see)。」

ですから、私が命令していて(to dictate)、そしてこれらの部分が働いています。同様に、私たちは皆、至高存在の欠かすべからざる小片です。私たちが自分を至高の意識に従って(in accordance with~)活動するように訓練するとき、そのとき私たちはこれらすべての敬虔あるいは不敬虔な活動を超越するようになります(to become transcendental to~)。それが技法です。この技法の結果は何でしょうか?私たちは誕生と死の呪縛から自由になります。もはや誕生と死はありません。

第30段落
現代の科学者と哲学者は、誕生、死、病、そして老いというこれらの4つのことについて考えません。彼らはそれらを脇に置きます。「おお、幸せになりましょう。この人生を楽しみましょう。」しかし、人間の人生はこの誕生、死、病および老いという呪縛への解決策を見つけるためにあります。

もしも、どの文明であっても(any civilization)これらの4つの問題への解決策を見つけていないなら、それならそれは人間の文明ではありません。人間の文明は、これらのことに完全な解決策を見つけるためにあります。

第31段落
さて、ここでバガヴァッド・ギーターの中で主はカルマ・ジャム・ブッディーユクターとおっしゃいます。カルマ・ジャムは、行為(action、作用)があるときはいつでも何らかの反応(reaction、反作用)があるということを意味します。もしも人が悪(badness)において振舞うなら、悪い反応があるでしょう。

しかし、良いものであれ悪いものであれ、反応は、より高い意味では、すべて苦しみです。たとえば、良い行いによって私が良い誕生、美しい(fine)身体的な特徴、そして良い教育を得ると仮定しましょう。これらすべての良いものを私は持っているかもしれませんが、それは私が物質的な痛みから自由であることを意味しません。

物質的な痛みは、誕生、死、老い、そして病です。たとえ私が富裕な人、美しい人、教育のある人、貴族の(aristocratic)家庭に生まれた等であっても、私はそれでも死、老い、そして病を避けることはできません。

第32段落
ですから私たちは、敬虔な活動や不敬虔な活動に関わってはなりません(訳注:to be concerned with~、関わる、携わる)。私たちは超越的な活動だけに関わらねばなりません。それは私たちをこの誕生、死、老いと病の呪縛から救います。それが人生における私たちの目標であるべきです。

私たちは良いことあるいは悪いことを切望している(to hanker after~)べきではありません(訳注:損失を嘆いたり利益を欲しがったりするべきではない)。たとえば、人が何かの病気に苦しんでいると仮定しましょう。彼は寝床に横たわり、食べ、不快さを感じながら排泄し(passing nature's call uncomfortably)、苦い薬を飲んでいます。

彼はいつも看護人たちによって清潔に保たれなければなりません。そうでなければひどい匂いがします。彼がこのような状態で横たわっている間に、何人かの友人たちがやってきて、大丈夫か(how he is feeling)と聞きます。「はい、私は大丈夫です(I am feeling well)。」この大丈夫とは何でしょうか?

不快さを感じながら寝床に横たわり、苦い薬を飲み、動くことができません!それでも、これらすべての不便にも関わらず、彼は「私は大丈夫だ」と言います。同様に、私たちが持っている人生の物質的な概念において(in our material conception of life)、もしも私たちが「私は幸せだ」と考えるなら、それは愚かさです。

物質的な人生には幸せはありません。ここで幸せを得ることは不可能です。この状態において、私たちは幸せの意味を知りません。それが、他でもないこの言葉(this very word)マニーシナー―――「思慮深さ」が使われる理由です。

第33段落
私たちは何らかの外部的(extraneous、外来性の、外側から来る)で人工的な方法によって幸せを探しますが、それらはどれくらい長くもつでしょうか?それは長持ちしません(It will not endure)。私たちは再び悲しみ(sorrow、不幸)に戻ってきます。

たとえば、陶酔物を摂取すること(intoxication、中毒状態)によって私たちが幸せに感じると仮定しましょう。それは私たちの本当の幸せではありません。たとえば、私がクロロフォルムによって無意識にされ、手術の痛みを感じないとしましょう。それは私が手術を受けていないことを意味するのではありません。これは人工的です。本当の喜び、本当の人生が存在します。

第34段落
シュリー・クリシュナによってバガヴァッド・ギーターにおいて命令されているように、思慮深い者は純粋な意識の水準に位置して、仕事の反応を放棄します。結果は、この誕生と死、病と老いの呪縛が終わるというものです。

この終わりは、本当の自己認識(identity)、クリシュナ、喜びと永遠の幸せの宝庫との調和です。(訳注:この一文は分かりにくいです。in union with~はin unison with~、すなわち「ユニゾン、調和や一致」の間違いと思われます。「ユニオン、結びつき」でも意味は通りますが、一般的な表現とは言えません。また、原文はin union with the true identity, Krishna, the reservoir of pleasure and eternal blissですが、どこでどう区切って理解したものやら判然としません。)

実に、そこに私たちが得るべき本当の幸せ(訳注:the true happiness for which we are intended、 to intendは意図を示す)があります。

(訳注:このレクチャーの場所と年代の表示がない。)
翻訳の元にしているのはKrishna Booksが2001年に発行した小冊子です。原本は1960年代後半から1970年代初めに発行されたという表示があります。
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とりあえずこれで第1部がおしまいですが、どうも何だか間違いが多いような気がします。このあと第2部があるので、それもそのうちお届けします。
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by ammolitering4 | 2014-03-09 05:14 | 「クリシュナ、喜びの宝庫」 | Comments(0)

第1部 20段落まで

第10段落
自分の最後のカルマ、すなわち活動に応じて、人(訳注:one、ここでは「人」としていますが、生命体全体を指します)は楽しむために、あるいは苦しむために、この体を得ます。それが誕生と死の過程です。そして、この人生を終えたあと、再び人は死に、そして再びある母親の子宮に入ります。それからもう一つの種類の体が出てきます。これが輪廻転生の過程です。

第11段落
私たちは、どうやってこの繰り返す誕生と死と体の交代(change of body)という過程を止める(to discontinue)ことができるかということについて、非常に熱心に学ぶ(diligent、熱心に学ぶ様子)べきです。それが生命の人間の形の特典(prerogative)です。

私たちは、誕生と死を通した繰り返す変化(repeated change through birth and death)というこの過程を止めることができます。私たちは自分の本当の霊的な形を再び得て、喜びに満ちた状態、知識に満ち、そして永遠の生命(訳注:のある状態)になることができます。(訳注:原文は説法の文字起こしであるため、やや文法の乱れがある。)

それが進化の目的です。私たちはこれを得損なう(to miss)べきではありません。解放の過程全体が、ちょうど今、私たちがこの唱えることと聞くことを始めたことで始まります(~ begins just as we have now begun~)。私は、この、神の聖なる御名を唱えること(ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」と、ギーターの真実を聞くことは、クリシュナとの身体的な関わりと同じくらい良いのであるということを指摘したいと思います。

それはギーターの中に述べられています。この過程はキールタナと呼ばれます。たとえ人が言語(the language、この場合はマントラのサンスクリット語)を理解しなくても、それでも単に聞くことによって、彼は何らかの信心(piety、祈り、敬虔さ)を得ます。たとえ彼が理解しなくても、彼の財産(訳注:assets、貴重なもの、この場合はマントラを聞くことによって得られた信心を指す)は彼を敬虔な(pious)人生に導きます―――それはそのような力を持っています。

第12段落
クリシュナに関して2つの話題(topics)があります。正しくは2種類の話題です。一つの話題はこのバガヴァッド・ギーターです。それはクリシュナによって(訳注:byを斜体で強調)話されます。そしてクリシュナに関するもう一つの話題はシュリマッド・バーガヴァタムです。

それはクリシュナについて(訳注:aboutを斜体で強調)話されます。ですから(So)2種類のクリシュナ・カター(話題)があり、どちらも同じく力があります(both of them are equally potent)。なぜなら、それらはクリシュナと結びついているからです(to be connected)。

第13段落
バガヴァッド・ギーターはクルクシェトラの戦場で語られているので、一部の人々は私たちが戦場と何の関係があるのか(what we have to do with the battlefield)と尋ねました。私たちはどの戦場とも何の関係もありません。私たちは霊的な領域(sphere、分野)の知識を探し求めています(we are after~)。

それなら、なぜ私たちはこの戦場に関心を持つべきでしょうか(why should we bother about~)?クリシュナが戦場にいらっしゃるので、そしてそのため、戦場全体がクリシュナ化しました(to have become Krishna-ized)。ちょうど、何かの金属に電流が流れるとき、金属全体が電力で満たされる(訳注:to be surcharged、過度に入る、という意味だが、この場合は単に「帯びる」という意味だと思われる)ようなものです。

そのため同様に(so too)、クリシュナが何かの物体(matter、事柄)に興味を持たれるとき、その物体はクリシュナ化します。そうでないなら、クルクシェトラの戦場を論じる必要はありません。それが主の万能性です。

第14段落
この万能性はシュリマッド・バーガヴァタムにおいても描写されています。多くのクリシュナ・カターが存在します。ヴェーダ文献はそれらに溢れています。ヴェーダ(複数)は、それらがクリシュナ・カターであることを意味します。

ヴェーダを含め、聖典(訳注:文法的には整合しない単数となっているが、「一つの聖典は他のものから」、すなわち互いに違うという意味)は異なっているように見えるかも知れませんが、それらはすべてクリシュナ・カターのためにあります(they are all meant for~、用途、目的、意図)。もしも私たちが単にクリシュナに関するこれらの話題を聞くなら、それならそれなら結果は何でしょうか?それは純粋な超越的な振動であり、そして結果は霊的な意識です(will be)。

第15段落
たくさん、たくさんの誕生の間の(during the course of~)物質的な汚染によって(due to~)、私たちは心(hearts)の中にたくさんの縁起の悪い(inauspicious、忌まわしい)ものを溜め込みました(to accumulate)。たくさん、たくさんの誕生―――この(訳注:今回の)誕生だけでなく、過去の誕生もです。

そのため、私たちがクリシュナ・カターをもって(with)自分の心の中を調べる(to search into~、調査、詮索)とき、そのとき私たちが溜め込んだ汚染は洗い流されます。私たちの心からすべてのゴミ(rubbish)が洗い落とされます(to be cleansed of~)。そして、すべてのゴミが取り除かれれば直ちに、そのとき私たちは純粋な意識に位置します。

第16段落
自分自身からすべての偽りの呼称(designation)を根こそぎにする(to eradicate)のは非常に困難です。たとえば、私はインド人です。私はインド人ではなく純粋な魂だと直ちに考えるのはあまり簡単ではありません。同様に、これらの身体的な呼称との同一視(identification、身元確認)を終わらせるのは、誰にとってもあまり簡単な仕事(task、課題)ではありません。

しかしそれでも、もしも私たちがクリシュナ・カターを聞き続けるなら、それは非常に簡単になります(it will be)。実験をしてください(Make an experiment.)。どれほど簡単にあなたが自分自身をこれらすべての呼称から解放することができるかを見るために、実験をしてください。もちろん、突然、心(mind)からゴミを取り除く(to clear out)のは可能ではありませんが、私たちは物質自然の影響が弱まった(to be slackened、ゆるんだ)ことに直ちに気づきます。

第17段落
物質自然は、3つの相―――徳、熱情、および無明において働いています。無明は望みのない(hopeless)人生です。熱情は物質主義的です。熱情の相によって影響されている人は、物質存在のこの偽りの楽しみを欲します。

真実を知らないので、彼は単にこの物体を楽しむために体のエネルギーを搾り出したいと望みます。それが熱情の相と呼ばれます。無明の相の中にいる者に関して言えば、彼らは熱情も徳も持ちません。彼らは人生の最も深い暗闇の中にいます。

徳の相に位置すれば(Situated in the mode of goodness)、私たちは少なくとも理論上は(theoretically)、私は何であるか、この世界は何であるか、神は何であるか、そして私たちの相互関係(inter-relationship)は何かということを理解することができます。これが徳の相です。

第18段落
クリシュナ・カターを聞くことによって、私たちは無明と熱情の段階から自由になります。私たちは徳の相に位置するようになります(we will be situated~)。少なくとも、私たちは本当の知識―――私たちは何であるかという知識を持つようになります。無明は動物の存在のようなものです。

動物の人生は苦しみに満ちていますが、動物は自分が苦しんでいることを知りません。豚を例に取りましょう。もちろん、ここニューヨーク市では豚は見られません。しかしインドの村では豚を見かけます。おお、彼の人生の何と惨めなことか。非常に汚い(filthy)ところに住み、糞を食べ、いつも不潔です。

それでも豚は、糞を食べ、そして雌豚(she-hog)と絶え間ない性交をし、ただ太っていくだけで、とても幸せです。豚はそこにある楽しみの精神によって(because of the spirit of enjoyment which is there)大変太ります―――しかし(although)彼にとって、それは感覚的な楽しみです。(訳注:「そこにある楽しみの精神によって」太るというのは何のことか私は分かりません。)

第19段落
私たちは、誤って自分は非常に幸せであると考える豚のようであるべきではありません。昼も夜も(all day and night)熱心に働き、それからいくらかの性生活を持つ―――私たちはこのようにして自分は非常に幸せだと考えます。しかしこれは幸せではありません。これはバーガヴァタムにおいて豚の幸せと描写されています。人間の幸せは、彼が徳の相に位置しているときです。そのとき彼は本当の幸せは何であるかを理解することができます。

第20段落
私たちの日常の仕事(routine、決まりきった仕事)において、もしもこのクリシュナ・カターを聞くなら(訳注:毎日欠かさず~を聞くなら)、結果は、何度も生まれ変わって(life after life)溜まった、心の中のすべての汚れたものが取り除かれる(to be cleared out)というものです。事実、私たちは自分がもはや無明あるいは熱情の中におらず、そうではなく徳の相に位置しているのを見るでしょう(訳注:~に気づくでしょう)。その立場(position)とは何でしょうか?
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さあ、いったい何でしょうか!?来週をお楽しみに!、、、という連続ドラマのような展開になってきましたが、ここで終わったのは私のノートのページがなくなったから、という即物的な理由によります。案外早く前回の続きが来ましたね。仕事がなくてヒマですので、こういうときはやっぱり進みますね。しかし、喜んでばかりもいられないのが困ったところです。隕石に乗って何か降ってこないかなあ。今は仕事だけじゃなくて住むところも探さなくちゃいけませんので、どうぞ皆さん、気の毒な葉子さんに少々の現世利益があるように色づけしたマントラをお願いいたします。
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by ammolitering4 | 2014-03-05 04:28 | 「クリシュナ、喜びの宝庫」 | Comments(0)