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第5段落 後半

第15段落
クリシュナは、完全真理は3つの側面―――ブラーマン、パラマートマー、およびバーガヴァーン―――非人格的なブラーマンの光輝、局在的な超魂、および至高の人格神において知られる、と宣言なさいます。このように、人が完全真理を想起できる(may envision、心に描く)3つの視点(angle)があります。

人は山を遠距離から見るかもしれず、そしてそのようにして、それをある(一つの)視点(angle of vision)から知覚します。近付くにつれて彼は山の木々や枝葉(foliage、一本の木全体の葉)を見るかもしれず、そしてもしも彼が山を登り始めるなら、彼は木、草、そして動物に、非常に多くの多様性
(variegatedness、あまり一般的な用語ではない。古い表現で、インドの霊的な文献で限定的に使われているようです。)を見出すでしょう。

対象は同じですが、異なる視点により(due to~、~が原因で)、賢人たちは完全真理について(of)異なる概念を持っています。もう一つの例を挙げましょう:太陽光、太陽(sun disc、discは円盤。校正:ここではハイフンなし)、そして太陽神が存在します。太陽光の中にいる者は、自分は太陽そのものの上にいると主張することはできず、そして太陽の中に(in)位置している者は、視点という観点から見ると(from the point of view of vision)、より良い場所にいます。

太陽光は、あまねく広がるブラーマジョティの光輝に比べられるかもしれず、局在的な太陽(sun-disc)は超魂の局在的な側面に比べられるかもしれず、そして太陽の中に住む太陽神は至高の人格神に比べられるかもしれません。

この地球(校正:earth→Earth)という惑星の上で私たちが生命体の多様さ(multi-variety)を持っているように(訳注:~に~があるように)、私たちはヴェーダ文献から、太陽にも(in)また多様な生命体がいることを理解することができますが、ちょうど私たちの体は土(earth)でできているように、彼らの体は火でできています。

第16段落
物質自然の中には5つの濃い(gross、「かすかな、subtle」の反対語)要素があります:土、水、空気、火、そして空間(space、別の書籍ではエーテルとして出てくることもある)です。異なる惑星には、これらの5つの要素の一つが優勢(prevailing)であることによって、異なる大気(atmosphere、環境、雰囲気)があり、そして何であれ、ある特定の惑星において主体である(predominant)要素から成る、生命体のための異なる体があります(訳注:それぞれの惑星において優勢な要素があり、独自の環境が形成されます。そして、それぞれの惑星に住む生命体の体は、そこで主体となる要素からできています。)

私たちは、すべての惑星は同じ生命(life)の質(quality、特質)を持っていると考えるべきではありませんが、それでも、これらの5つの要素が何らかの形で(in some form or other)存在しているという意味では均一性があります。

このように、ある惑星では土が主体で、火が主体で、水が主体で、そして空気と空間が主体です。したがって私たちは、ある惑星が主に土からできていないからといって、あるいは大気(atmosphere、環境)が私たちのと同じでない(does not duplicate ours)からといって、これらの惑星には生命がないと考えるべきではありません。

ヴェーダ文献は私たちに、異なる種類の体を持つ生命体に満ち溢れた無数の惑星があるという情報を与えます。ちょうど、何らかの物質的な調整をすることによって私たちが異なる物質的な惑星に入る資格を得るように、資格によって、私たちは至高神がお住まいの霊的な惑星に入ることができます。

(サンスクリット引用)

「半神たちを崇拝する者は半神たちの中に生まれます:先祖を崇拝する者は先祖のところに行きます:そして私を崇拝する者は私と共に暮らします。」(Bg.9.25)

第17段落
より高い惑星に入ろうとしている者たちはそこに行くことができ、そしてゴロカ・ヴリンダーヴァン、クリシュナの惑星に入るための資格を得ようとしている者たちも、クリシュナ意識の過程によってそこに入ることができます。

インドに行く前に、私たちはその国がどんなふうであるかという描写を入手するかもしれません:その場所について聞くことは最初の経験です。同様に、もしも私たちが神がお住まいになっている惑星についての情報を得たいなら、私たちは聞かねばなりません。

私たちは、直ちに実験をしてそこに行くことはできません。それは可能ではありません。しかし、私たちはヴェーダ文献の中に、至高の惑星に関する非常に多くの描写を持っています(~には~があります)。たとえば、ブラーマ・サムヒターはこう述べます。

(サンスクリット引用)

「私はゴヴィンダ、太古の主、最初の祖先(progenitor)を崇拝します。主は牛の世話をなさっており、すべての望みを満たしておられます。霊的な宝石で作られたお住まいにおいて、何百万本もの願いを叶える木に囲まれ、いつも、何百何千のラクシュミー、すなわちゴピーたちによって、大いなる崇敬の念(reverence)と愛情をもって奉仕されていらっしゃいます。」(訳注:原文は長い一文。)特にブラーマ・サムヒターの中に、他の詳細な描写もあります。

第18段落
完全真理を認識しようとしている者は、彼らが集中する完全真理の側面に応じて区分されます。ブラーマンに集中する者、非人格主義者たちは、ブラーマヴァーディーと呼ばれます。一般的に、完全真理を認識しようとしている者は、まずブラーマジョティを認識します。

超魂、パラマートマーと呼ばれる、心臓の中の局在的な形に集中する者は、パラマートマーヴァーディーとして知られます。至高主は、ご自分の完全部分(plenary portion)によって、すべての者の心臓の中に座っておられ、そして瞑想と集中によって、人はこの形を知覚することができます。

主はすべての者の心臓の中におられるだけでなく、主は創造(されたもの)のすべての原子の中にもおいでになります。このパラマートマー認識が第二段階です。第三にして最後の段階は、バーガヴァーン、至高の人格神の認識です。

認識の3つの主な段階があるので、至高の完全真理には1回の誕生では到達されません(not attained)。バフーマーム・ジャンマナーム・アンテ。もしも人が幸運なら、彼は究極存在(校正:the ultimate→the Ultimate)を一秒で得ることができます。しかし一般的に、神が何であるかを認識するには何年も何年も、幾世も幾世も(many, many births)かかります。

(サンスクリット引用)

「私はすべての霊的および物質的な世界(訳注:複数)の源です。すべてのものが私から放射します。これを完全に知る賢者は、私への献身奉仕に携わり、そして心から私を崇拝します。」(Bg.10.8)

第19段落
ヴェダーンタ・スートラもまた、完全真理はそこからすべてのものが生まれる主であると確認します。もしも私たちがクリシュナがすべてのものの源であると本当に信じるなら、そしてもしも私たちが主を崇拝するなら、私たちの勘定書(account、賃借勘定の口座)は直ちに(in one second、1秒で)閉じられます。

しかし、もしも人が信じず、「おお、私は神が何であるかを見たい」と言うなら、彼は段階を追っていかねばなりません。(まず)非人格的なブラーマンの光輝を認識し、それからパラマートマー、局在的な
特徴(feature)、そしてやっと(before finally coming to~)認識の最後の段階にきます:「おお、ここに至高の人格神がいらっしゃる」。(訳注:原文は長い一文)

しかし、この過程はもっと時間がかかると理解されるべきです。人が多年の研究を通して完全真理を認識するようになるとき、彼はヴァースデヴァー・サルヴァム・イティ―――「ヴァースデヴァが存在のすべてである」と結論します。

ヴァースデヴァはクリシュナの(for)名前であり、そしてそれは「どこにでも住んでいる方」を意味します。ヴァースデヴァがすべてのものの根源である―――マーム・プラパデャテ―――と認識して、彼は服従します。服従の過程は究極の目的地です。

人はそれを直ちに行うか、あるいは何度も生まれかわって研究してのちかです(after many births of research work)。どちらの場合でも、「神は偉大であり、そして私は主の従者である」と認識することによる服従がなくてはなりません。

第20段落
これを理解して、賢い者は直ちに服従し、幾度もの誕生をすることを待ちません。彼は、この情報は至高主によって、主の制約された魂への無限の慈悲から与えられていると理解しています。私たちは皆、この物質世界の三重の悲惨さに苦しんでいる制約された魂です。今、至高主は私たちに、服従の過程によってこれらの悲惨さを逃れる機会を与えてくださいます。

第21段落
この時点で、人は、もしも至高の人格(神)が究極の目的地で、人は主に服従しなければならないなら、なぜ世界には非常に多くの異なる崇拝の方法(process)があるのかと尋ねるかもしれません。この質問は、次の節において答えられます。

(サンスクリット引用)

「心が物質的な欲望によって歪められている者は、半神たちに服従し、そして彼ら自身の性質(nature)に応じて、特定の規則と規律に従います。」(Bg.7.20)

第22段落
世界には多くの異なる種類の人々がおり、そして彼らは物質自然の異なる相の下で機能しています。一般的に言えば、ほとんどの人は解放を求めていません。もしも彼らが霊性(spirituality)を習慣づける(to take to~)なら、彼らは霊的な力によって何かを得たいと望みます。(訳注:彼らが霊性に興味を持つのは、その力で何かを得たいときです)

インドでは、人がスヴァーミーのところに行って、「スヴァーミージー、私に幾らかの薬をくださいませんか?私はこの病気に苦しんでいます」と言うのが珍しくありません。彼は、医者は高すぎるので、奇跡を起こすことのできるスヴァーミーのところへ行くことができる、と考えます。

インドには、人々の家に行って、「もしもあなたが私に1オンスの金をくれるなら、私はそれを100オンスの金にすることができます」と教える(to preach、福音などを説教する)スヴァーミーたちもいます。人々は、「私は5オンスの金を持っている。これを彼にあげて、500オンス手に入れよう」と考えます。

このようにして、スヴァーミーは村のすべての金を集め、そして集めたあとで彼は消え去ります。これが私たちの病です:私たちがスヴァーミー、あるいは寺院や教会に行くとき、私たちの心は物質的な欲望に満ちています。

霊的な人生から何らかの物質的な利益を欲して、私たちは単に健康を維持するために(to keep our health fit)ヨガを実践します(to practice、練習する)。しかし、健康であるために、なぜヨガに頼るのですか?私たちは規則正しい運動と規則正しい食生活を通して健康になることができます。

なぜヨガに頼るのですか(to resort to~)?なぜなら:カーマイス・タイス・タイル・フリター・ジニャーナー。私たちは、健康でいたい、そして教会に行って神を注文品提供者(order-supplier、命令されたことを遂行する人)にすることによって人生を楽しみたいという物質的な欲望を持っています(訳注:持っているからです)。

第23段落
物質的な欲望を持っているので、人は様々な半神を崇拝します。彼らは、どうやって物質(matter)から逃れるか(to get out of~)全く知りません。彼らは物質世界を最大限に活用したいと思っています。例えば、ヴェーダ文献の中で非常に多くのことが勧められています。

もしも人が自分の病を癒したいなら彼は太陽を崇拝し、あるいは、もしも女の子が良い夫を望むなら彼女は主シヴァを崇拝し、あるいは、もしも人が美しくなりたいなら彼はどれそれの(such and such)神を崇拝し、あるいはもしも人が教育を得たいなら(to become educated、教養)、彼は女神サラスヴァティーを崇拝します。

このようにして、西洋人はしばしば、ヒンズー教徒は多神教(polytheistic)であると考えますが、実際はこの崇拝は神に対してではなく、半神に対してです。私たちは、半神は神である、と考えるべきではありません。神は一つですが、ちょうど私たちと同じような生命体である半神たちがいます。

違いは、彼らは相当な力(considerable amount of power)を持っているということです。この地球上には、王様や大統領や独裁者がいるかもしれません―――これらは私たちのような人間ですが、彼らは幾らかの並外れた(extraordinary)力を持っており、そして彼らから恩寵を得るために、彼らの力を利用するために、私たちは彼らを何らかの方法で(in one way or another)崇拝します。

しかしバガヴァッド・ギーターは半神の崇拝を非難します(to condemn)。この節は明らかに、人々はカーマ、物質的な欲望(lust)のために(due to~、~が理由で)半神を崇拝する、と述べます。

第24段落
この物質的な人生は単に欲望に基づいています。私たちはこの世界を楽しみたいと望み、そして、自分の感覚を満足させたいので、私たちはこの物質世界を愛しています。この欲望は、私たちの神への愛(love of God)の歪んだ反映です。

もともとの本来の立場(original constitution)において、私たちは神を愛するように作られています。しかし、神を忘れてしまったので、私たちは物体を愛しています。愛はそこにあります。私たちが物体を愛するか、あるいは神を愛するかです。

しかし、どちらの場合でも、私たちはこの愛する傾向(propensity、生まれつきの傾向、性癖)から逃れることはできません。実に、私たちはしばしば、子供を持たないとき、人が猫や犬を愛するのを見ます。なぜでしょうか?なぜなら、私たちは何かを愛したいと欲し、愛することを必要としているからです。

現実の不在において、私たちは猫と犬に自分の信仰(faith、信頼)を置きます。愛はいつもそこにありますが、それは欲望の形に歪められています。この欲望が満たされないとき(baffled、挫折、失敗)、私たちは怒ります。怒るとき、私たちは幻惑されます。そして幻惑されるとき、私たちは不運になります(to be doomed)。

これが進行している過程ですが、私たちはこの過程を反転して欲望を愛に変えなければなりません。もしも私たちが神を愛するなら、私たちはすべてのものを愛します。しかし、もしも私たちが神を愛さないなら、何をも愛することは可能ではありません。

私たちはそれは愛であると考えるかもしれませんが、それは単に欲望の美化された(glamorized)形です。欲望の犬になった者は、すべての良識(good sense、思慮分別)を失ったと言われます:カーマイス・タイス・タイル・フリタジニャーナー。

第25段落
聖典には、半神の崇拝のための多くの規則と規律があり、人は、なぜヴェーダ文献は彼らの崇拝を勧めたのかと尋ねるかもしれません。必要性があるのです。欲望によって動機づけられた(to be motivated)者は、何かを愛する機会を欲しており、そして半神たちは至高神の役人(officers)として認められています(to be acknowledged)。

目的は(The idea is~)、人がこれらの半神たちを崇拝するにつれて、彼が徐々にクリシュナ意識を育む、というものです。しかし、もしも人が完全に無神論的で、何らの権威に対しても不従順(disobedient)で反抗的(rebellious)であるなら、何の望みがあるでしょうか?そのため、より高い名士(personality)への服従(obedience)は半神から始まります。

第26段落
しかし、もしも私たちが直接至高主の崇拝を習慣づけるなら(to take to~)、半神の崇拝は必要ありません。至高主を直接崇拝する者は、半神たちに心からの敬意を表します(to show all respect)が、彼らは半神たちを崇拝する必要はありません。

なぜなら彼らは、半神たちの背後の至高の権威は至高の人格神であることを知っており、主を崇拝することに携わっているからです。どの場合でも、それでも敬意はあります。主の献身者は、アリにさえも敬意を表します。半神においては何をか言わんや?

献身者は、すべての生命体は至高主の欠かすべからざる小片であり、彼らは異なる役割を演じているだけだということを認識しています(to be aware)。

第27段落
至高主との関係において、すべての存在(being)は尊重されるべきです(are to be respected)。したがって、献身者は他者を「我が親愛なる旦那さま、我が親愛なるご主人(my dear sir, my dear lord)」を意味する「プラブ」と呼びます。

従順さ(submissiveness、素直さ)は主の献身者の資格(qualifications)です。献身者は親切で従順(kind and obedient)であり、彼らはすべての良い資格を持っています。結論として、もしも人が主の献身者になるなら、すべての良い資格は自動的に育まれます。

もともと(by nature)、生命体は完璧ですが、欲望による(of)汚染によって、彼は悪くなります(vicious、様々な悪い状態を表す言葉)。金の小片(that which is part and parcel of gold)もまた金であり、何であれ完全完璧存在(the Complete Perfect)の小片であるものもまた完璧です。

(サンスクリット引用)

「至高の人格神は完璧で完全です。主は完璧に完全でいらっしゃるので、この現象の(phenomenal、知覚可能な)世界のような主からのすべての放射は、完全な全体として完璧に装備されています(to be equipped)。何であれ完全な全体から作られるものは、それ自体でまた、完全です。

主は完全な全体であるので、非常に多くの完全な一部(unit)が主から放射するにも関わらず、主は完全な均衡をお保ちになります。」(シュリー・イーショパニシャッド、祈り)

第28段落
物体による(of)汚染によって、完璧な生命体が堕落しますが、このクリシュナ意識の過程は再び彼を完璧にします。それを通して、彼は本当に幸せになることができ、そして物質の体を去った後で、永遠の生命(life)、喜びと完全な知識のある王国に入ります。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
以上で本書の翻訳を終わります。辛抱強くお待ちいただきましてありがとうございました。

さ~て次は、、、既に翻訳があるかもしれませんが、"The Perfection of Yoga"、「ヨガの完成」を翻訳しようと思っています。手の平サイズでたった56ページで薄いから、という安直な理由でこれを先に済ませようとたくらんでいるのです。他にも既に翻訳があるかもしれない小冊子があります。"Krishna:The Reservoir of Pleasure", "Bhakti:The Art of Eternal Love", "The Laws of Nature:An Infallible Justice", "Dharma:The Way of Transcendence"の4冊です。どれが翻訳済みなのか、以前に伺っていたのに忘れてしまいました。これはもうある、というのがありましたら教えてください。よろしくお願いいたします。
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by ammolitering4 | 2014-02-23 15:28 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(4)

第5章 前半

第5章 至高存在に向けて舵を取る

第1段落
(サンスクリット引用)

「これらすべての献身者たちは疑いもなく寛容な(magnanimous、高貴で寛大な様子)魂ですが、私に関する知識のうちに位置する者(訳注:~を持っている者)は、たしかに(verily)私の内に住む(to dwell in Me)と私は考えます(he who is ~ I consider~)。」(Bg.7.18)

第2段落
ここでクリシュナは、主のもとにやってくるすべての者―――苦しんでいる、お金を必要としている、好奇心がある、など何であれ(whether they be~)―――は歓迎されるが、彼らのうちで、知識のある者が主にとって最も愛しい、とおっしゃいます。

しかし一般的に、人が利益を求めて教会に行き、お金が得られないとき(the money doesn't come)、彼は神に近付くことは無意味(non-sense)であると結論し、そして彼は教会とのすべての関わりを放棄します。それが隠された動機(ulterior motive、下心)で神に近付くことの危険です。

例えば、第2次世界大戦の間、多くのドイツ兵の妻たちが夫の無事な帰還のために祈るために教会に行ったと報告されましたが、彼らが戦いで殺されたことを知ったとき、彼女らは無神論的になりました(訳注:構文の関係で、「~と報告されました」が前の部分だけにかかるのか全体にかかるのか、よく分かりません。このような構文は頻繁に見られ、どちらでもそれほどの違いはない場合が多いので、読むときにはご自分で適宜ご判断ください。)

このように私たちは神に、私たちの命令を遂行する者(order-supplier、注文の品を提供する人)となることを望み、そして主が私たちの命令を遂行しないとき(訳注:願いを叶えてくださらないとき、という意味)、私たちは神はいないと言います。それが物質的なものを求めて祈ることの効果(effect、影響)です。

第3段落
このことに関して、5歳ほどでドゥルヴァという名前の、王族に属する小さな男の子の話があります。時が経つうちに、彼の父親、王は、彼の母親に嫌気が差し(tired of~、うんざりする)、彼女を彼の妃(の地位)から退けました(to depose、高い位から退ける)。

彼はそれから別の女性を妃として迎え、そして彼女は男の子の継母になりました。彼女は彼を非常に妬んでおり(envious)、そしてある日、ドゥルヴァが父の膝(knee、単数)に座っていると、彼女は彼を侮辱しました(to insult)。

「おお、あなたはあなたのお父さんの膝の上に座ることはできません」と彼女は言いました。「なぜなら、あなたは私から生まれたのではないからです。」彼女はドゥルヴァを彼の父親の膝から引きずり下ろし、そして男の子は非常に立腹しました。

彼はクシャトリヤの息子であり、そしてクシャトリヤはカッとしやすいこと(quick temper、短気)で知られています(notorious、悪名高い)。ドゥルヴァはこれを重大な侮辱(great insult)として受けとり、そして彼は退けられていた自分の母親のところに行きました。

第4段落
「お母さん(校正:M→ m)」と彼は言いました。「私の継母は、私をお父さんの膝から引きずり下ろすことによって私を侮辱しました。」

「愛しい息子よ」と母親は答えました。「私に何ができるでしょうか?私は無力(helpless)で、あなたのお父さんはもはや私を好きではありません(to care for)。」

「では(Well)、私はどうやって仕返しができるでしょうか(to take revenge)?」と少年は尋ねました。

「我が愛しい子よ、あなたは無力です。神様が助けてくださるなら、それで初めてあなたは仕返しをすることができます(Only if Good helps you can ~)。」

「おお、神様はどこにいらっしゃるのですか?」とドゥルヴァは熱心に尋ねました。

「非常に多くの賢人たちが神様を見るために密林や森に行くそうです(I understand~)」と母親は答えました。「彼らはそこで神様を見つけるために大変な苦行(penances)と禁欲(austerities、耐乏生活)をします(to undergo、苦難に耐える)。」

第5段落
ドゥルヴァは直ちに森に行き、虎や象に「おお、あなたは神様ですか?あなたは神様ですか?」と尋ね始めました。このようにして彼はすべての動物に尋ねていました。ドゥルヴァが非常に知りたがっている(very much inquisitive)のを見て、シュリー・クリシュナは状況に対処する(to see about、取り計らう、処置をする)ためにナーラダ・ムニを遣わしました。ナーラダはすぐに森へ行ってドゥルヴァを見つけました。

第6段落
「我が親愛なる少年よ」とナーラダは言いました。「あなたは王家に属しています。あなたはこれらすべての苦行と禁欲(penances and austerities)に苦しむことはできません(cannot、この場合は禁止の意味。こんな苦行や禁欲をしていてはいけません)。家に帰ってください。あなたのお母さんとお父さんは、あなたのことを大変心配しています。」

「そのように私(の心)をそらそうとしないでください(to divert)」と少年は言いました。「もしもあなたが神様について何か知っているなら、あるいはもしもあなたが、私がどうやって神様を見る(to see、会う)ことができるかを知っているなら、教えてください。そうでなければ、去って、私を邪魔しないでください。」

第7段落
ドゥルヴァが非常に決意が固い(determined)ことを見て取ったとき、ナーラダは彼を弟子として入門させ(to initiate)、彼に「オーム・ナモ・バーガヴァテ・ヴァースデヴァーヤ」というマントラを与えました。ドゥルヴァはこのマントラを唱えて完璧になり、そして神様が彼の前に現れました。

第8段落
我が親愛なるドゥルヴァよ、あなたは何が欲しいですか?あなたは私から何であれあなたが欲しいものを取ることができます。」

「我が親愛なる主よ」と少年は答えました。「私は単に私の父の王国と土地のために大変厳しい苦行をしていましたが、今、私はあなたを見ました。偉大な賢人や聖人でさえ、あなたを見ることができません。私の利益は何でしょうか?

私は、ただ(merely)幾らかのガラス片とゴミ(some scraps of glass and rubbish)を見つけるために家を出て、そしてその代わりに私は大変価値のあるダイヤモンドを見つけました。今、私は満足しています。私はあなたから何も求める必要はありません(I have no need to ask anything of You)。」

第9段落
このように、たとえ人が非常に貧しくても(poverty-stricken)、あるいは苦しんでいたとしても(one may be~)、もしも彼がドゥルヴァと同じ決意を持って、神を見て主の恩恵を受けることに熱心になって(intent on~、一心に、没頭して)神のところに行くなら(訳注:何が何でも~しようとして)、そしてもしも彼がたまたま神を見るなら、彼はもはや何らの物質的なものも欲しません。

彼は、物質的な所有の愚かさを理解するようになり、そして彼は本当のもののために幻想を脇に置きます。人がドゥルヴァ・マハーラージャのようにクリシュナ意識に位置するようになるとき、彼は完全に満足するようになり、何も欲しません。

第10段落
ジニャーニー、賢人は、物質的なものはうつろいやすい(flickering、不安定に光る、ちらつく)と知っています。彼はまた、すべての物質的な益(gain)を複雑にする(to complicate、事を紛糾させる)3つの側面があることを知っています―――

人は自分の仕事から利益を欲すること、人は自分の富(riches)のために(because of)他者から崇敬(adoration)を欲すること、そして人は自分の富(wealth)のために名声を欲することです。どの場合でも、彼はこれらすべては体だけにあてはまるのであり(all of these apply but to the body)、そして体が終わるときそれらもまた去る、ということを知っています。

体が死ぬとき、人はもはや金持ちではなく霊魂であり、そして自分の仕事に応じて彼は別の体に入らなくてはなりません。ギーターは、賢人はこれによって惑わされないと言います。なぜなら、彼は物事をありのままに知っているからです(he knows what is what、何が何かを心得ている)。

それなら、なぜ彼はわざわざ物質的な富を得ようとすべきでしょうか(why ~ bother himself attaining)?彼の態度は次のようなものです。「私は、クリシュナ、至高神と永遠の繋がりを持っている。今、クリシュナが私をご自分の王国に連れ帰ってくださるように、その関係を確かなものにしよう(establish ~ firmly)。」

第11段落
宇宙の状況(cosmic situation)は私たちに、クリシュナとのこの関係を再確立して至高神のもとに戻るためのすべての設備を与えています(訳注:宇宙には私たちが~するための手はずがすべて整っています)。これが人生における私たちの使命であるべきです。私たちが必要なものすべて―――土地、穀物、果物、牛乳、住まい(shelter)と衣類―――は、神によって与えられています。

私たちはただ、平和に暮らしてクリシュナ意識を育まねばならないだけです。それが人生における私たちの使命であるべきです。したがって私たちは、神が食べ物、住まい、防御(defence)、および性交の形で与えてくださったもので満足しているべきであり、もっと、もっと、もっと、と欲しがるべきではありません。

最良の種類の文明は、「簡素な暮らしと高い思考」という格言(maxim、金言、行動原理)に適う(to ascribe to ~、~に帰する)ものです。工場で食べ物と性を作り出すことはできません。これら、および他の何であれ私たちが必要とするものは、神によって供給されます。私たちの仕事は、これらのものを利用して神意識になることです。

第12段落
神が私たちに、この地上で平和に暮らし、クリシュナ意識を育み、そしてついに主のもとに至るためのすべての設備を下さったにも関わらず、この時代において私たちは不運です。私たちの寿命は短く(we are short-lived)、そして、食物、住まい、結婚した人生、あるいは自然の猛襲(onslaught)からの防御のない、非常に多くの人々がいます。

これはこのカリの時代の影響によるものです。したがって主チャイタンニャ・マハープラブは、この時代におけるひどい状況をご覧になって、霊的な人生を育むことの全くの必要性を強調なさいました。そして、私たちはそれをどのように行うべきでしょうか?チャイタンニャ・マハープラブは方法をお与えになりました。

(サンスクリット引用)

「ただ、いつもハレ・クリシュナを唱えなさい。」あなたが工場にいるか、あるいは地獄か、掘っ立て小屋(shack)か、あるいは高層ビルかを気にしてはなりません(Never mind)―――それは関係ありません。ただ、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレと唱え続けなさい。

お金はかからず、障害物(impediment)はなく、カースト(による区別)はなく、教義(creed)(による区別)はなく、色(訳注:肌や目の色)(による区別)はありません―――誰でもそれをすることができます。ただ、唱え、そして聞きなさい。

第13段落
どうにかして(somehow or other)、もしも人がクリシュナ意識に触れ、真正なる指導者(guide)の導きの下で過程を実践する(to execute the process)なら、彼は必ず神のもとへ戻ります。

(サンスクリット引用)

「多くの誕生と死のあとで、実際に知識のある者は、私をすべての原因の原因であり、存在するすべてである(all that is)と知って、私に服従します。」(Bg.7.19)

第14段落
神の科学への(into)哲学的な研究は、何度も生まれ変わって(for many births)なされねばなりません。神認識はとても簡単ですが、同時に非常に難しくもあります。それは、クリシュナの言葉を真実として受け入れる者には簡単ですが、研究(research work)を通して、知識の発達の力によって(by dint of)理解しようとする者は、非常に多くの研究を終えたあとで自分の信仰を作らねばならず、この過程は多くの誕生を必要とします(this process takes many births)。

完全真理を知っている、タットヴァヴィットと呼ばれる、異なる種類の超越主義者たちがいます(There are different types of transcendentalists, called tattvavit, who know the Absolute Truth、単数?)。超越主義者たちは完全真理を、「その中に二重性のないもの(that in which there is no duality)」と呼びます(訳注:原文はカッコなし)。

完全真理の中には二重性はありません―――すべては同じ水準にあります。これを本当に知っている者(one who knows this in truth)はタットヴァヴィットと呼ばれます。
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by ammolitering4 | 2014-02-23 10:44 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(0)

第4章 後半

第11段落
この体の父親に服従することには何らかの困難があるかもしれません。なぜなら、彼は限定された知識と力を持っているからです。しかし、クリシュナは普通の父親のようではありません。クリシュナは無限であり、完全な知識、完全な力、完全な富、完全な美しさ、完全な名声と完全な放棄を持っています。

私たちは、そのような父(father→ Father)のところへ行って彼の(His)財産を楽しむ自分を幸運だと考えるべきではありませんか?それでも、誰もこれについて関心を持たないように(to care about)見え、そして今、誰もが神はいないという宣伝をしています(to make propaganda、propagandaは主義や主張の宣伝)。

なぜ人々は主を探し求めないのでしょうか(to seek Him out)?答えはバガヴァッド・ギーターの次の節において与えられています。

(サンスクリット引用)

「非常に(grossly、良くないことを強調する表現)愚かで、人類のうちで最も低く、その知識が幻想によって盗まれており、そして悪魔の無神論的な性質を帯びた(to partake of)それらの悪者たち(miscreants)は、私に服従しません。」(Bg.7.15)

第12段落
このように愚か者は区分されています。ドゥシュクリティーは、いつも聖典の命令に反して活動しています。現在の文明の仕事(business、関心事)は聖典の規則を破ること―――それがすべてです。定義によって、敬虔な人とは、そうしない人です。

ドゥシュクリティー(悪を為す者)とスクリティー(敬虔な人)を区別する何らかの水準がなくてはなりません。すべての文明化された国は、何らかの聖典を持っています―――それはキリスト教、ヒンズー教、イスラム教、あるいは仏教であるかもしれません。

それは関係ありません。要点は、権威の書、聖典があるということです。その命令に従わない者は、無法者(outlaw)と考えられます。

第13段落
この節において言及されているもう一つの区分は、ムーダー、一番の愚か者です。ナーラーダーマは人間の基準において低い者で、マーヤヤーパーリタ・ジニャーナは、その知識がマーヤー、すなわち幻想によって運び去られている(to be carried away)者を指します(訳注:幻想によって知識を見失っている者)。

アースラム・バーヴァム・アーシュリターは、全くの(out and out)無神論者である者を指します。父(Father)に服従することには何の不利益(disadvantage)もないにも関わらず、このように区分される人々は、決してそうしません。

その結果、彼らは常に父(Father)の代理人たちによって罰せられています。彼らは、ひどく叩かれ、鞭打たれ(caned)、蹴られねばならず、そして彼らは苦しまねばなりません。ちょうど、父親が自分の手に負えない(unruly、言うことを聞かない)息子を罰せねば(to chastise、体罰などで厳しく罰する)ならないように、そのため物質自然は特定の罰を与えねば(to employ、適用する)なりません。

同時に、自然は食物と他の必要なものを供給することによって私たちに恵みを与えています(to nourish、栄養を与える)。私たちがすべてのうちで最も豊かな父(Father)の息子であるため、両方の過程が続いています。そして、私たちが主に服従しないにも関わらず、クリシュナは親切です。

それなのに、父(Father)によって非常に良く待遇されている(to be furnished、設備などを与えられる)にも関わらず、ドゥスクリティーはそれでも、許されていない(unsanctioned、はっきりとした公の許可を得ていない)行為を行います。

人は、もしも罰されることに固執するなら(to persist in being punished)愚かであり、もしも生命のこの人間の形をクリシュナを理解するために使わないなら、人間の基準において低位に位置します。もしも人が自分の人生を、自分の本当の父(Father)との間に持っている関係を呼び覚ます(to reawaken)ために使わないなら、彼は人間の基準において堕落していると考えられるべきです(he is to be considered)。

第14段落
動物は単に食べ、眠り、身を守り、性交し、死にます。彼らはより高い意識を利用しません(to avail himself of)。なぜならそれは、生命の、より低い形においては、可能ではないからです。もしも人間が動物の活動に倣って(to follow)、自分の意識を高める能力を利用しないなら(to avail himself of)、彼は人間の基準(の中)を落ちて(he falls down the human scale)、来世における動物の体のために準備をします。

クリシュナの恵み(grace)によって、私たちは高度に発達した体と知性を与えられていますが、もしも私たちがそれを使わないなら、なぜ主はそれらを再び私たちに与えるべきでしょうか?私たちは、この人間の体は何百万年何千万年(millions and millions of years)という進化のあとで発達し、それ自体が(in itself)、その中で800万以上の生命の種が進化する誕生と死の循環から抜け出す機会であると、理解しなければなりません。

この機会は、クリシュナの恵みによって与えられます。そして、もしも私たちがそれを受け取らない(to take)なら、私たちは人間の中で最も低い者ではありませんか?人はどこかの大学からの学位保持者―――修士号(M.A.)、博士号など―――であるかもしれませんが、幻想エネルギーはこの俗的な知識を取り去ります。

本当に知性的である者は、自分は誰であるか、神は誰であるか、物質自然とは何か、なぜ自分は物質自然の中で苦しんでいるのか、そしてこの苦しみへの治療法(remedy)は何かを理解することに自分の知性を使います(to apply)。

第15段落
私たちは、感覚の満足のために自動車、ラジオ、あるいはテレビを製造することに自分の知性を使うかもしれませんが、私たちはこれは知性的ではないと理解しなければなりません。そうではなく(Rather)、これは奪われた(plundered、価値のあるものを取り去られた)知性です。

知性は人生の問題を理解するために人間に与えられましたが、それは誤用されています。人々は、自動車をどうやって製造して運転するかを知っているので、自分たちは知識を得たと考えています。しかし、自動車が現れる前(before the car was here)、人々はそれでも(still)一つの場所から別の場所へ行っていました。

道具(the facility)が増えたというだけですが、この道具と共に、さらなる問題―――空気の汚染と過度に混雑した高速道路―――が訪れます。これはマーヤーです。私たちは道具を作り出していますが、これらの道具は今度は(in their turn、順番に、次に)非常に多くの問題を作り出しています。

第16段落
非常に多くの道具と現代的な設備(amenities)を手に入れる(to supply ourselves with~)ために自分のエネルギーを無駄にする代わりに、私たちは自分は誰で何であるかを理解するために知性を使うべきです。私たちは苦しみたくありません(we do not like to suffer)が、私たちはなぜ苦しみが自分に強いられている(suffering is being forced upon us)かを理解すべきです。

いわゆる知識によって、私たちは単に原子爆弾を製造することに成功しました。こうして、殺す過程が加速しました(killing process has been accelerated)。私たちは、これが知識の発達だと考えて非常に誇っていますが(we are so proud to think~)、もしも死を止めることのできる何かを製造することができるなら、私たちは本当に知識において発達しました(~と言えます)。

死は既に物質自然の中にありますが、私たちは一撃で(at one drop)誰もを殺すことによってそれを促進することに非常に熱心です(so eager to promote it by~)―――これはマーヤヤーパーリタ・ジニャーナ、幻想によってさらわれた(to be carried away)知識と呼ばれます。

第17段落
アースラ、悪魔と、公に宣言した(proclaimed、自他共に認める)無神論者は、実際に主に挑戦します。もしも私たちの至高の主のおかげでなかったら(it it were not for~)、私たちは日の光を見ることもできないでしょう(we would not see the light of the day、日の目を見る、という意味もあるが、この場合は文字通りの解釈でいいと思われる)。

それでは(so)、主に挑戦することの意味(the point)は何でしょうか?ヴェーダにおいて、二つの階層の人間、デヴァとアースラ、半神と悪魔がいると述べられています。デヴァとは誰でしょうか?至高主の献身者はデヴァと呼ばれます。なぜなら、彼らもまた神のようになるからです。

他方で、至高存在の権威を侮る(to defy、挑む、無視する)者はアースラ、すなわち悪魔と呼ばれます。これらの二つの階層はいつも人間の社会の中に見られます。

第18段落
ちょうど、決してクリシュナに服従しない4種類の悪者がいるように、主を崇拝する4種類の幸運な人間がおり、そして彼らは次の節において区分されています。

(サンスクリット引用)
「おお、バーラタの中で最良の者(アルジュナ)よ、4種類の敬虔な人々が私に献身奉仕を行います(to render)―――苦しんでいる者、富を求める者、知識を求める者(the inquisitive)、そして完全存在に関する知識を探し求めている者です。」(Bg.7.16)

第19段落
この物質世界は苦しみに満ちており、そして敬虔な者と非敬虔な者の両方がその影響下にあります。冬の寒さは誰もを同じように扱います(to treat everyone alike)。それは敬虔か非敬虔か(校正:theが抜けている)、富める者か貧しい者かを気にしません(it does not care for)。

しかし、敬虔な者と非敬虔な者の違いは、敬虔な者は自分が悲惨な状況にいるときに神のことを考えるということです。しばしば、苦しんでいるとき、人は教会に行って祈ります。「おお、我が主よ。私は困難な状態にあります。どうか助けてください。」

何らかの物質的な必要物のために祈ってはいるものの、そのような人は、それでも敬虔であると考えられるべきです。なぜなら、彼は苦しみの中で神のところに来たからです。同様に、貧しい人は教会に行って祈るかもしれません。「我が親愛なる主よ、どうか幾らかのお金をください。」

他方で、知識を求める人は普通は知性的です。彼らは物事を理解するためにいつも研究しています(to research)。彼らは、「神とは何だろうか」と尋ねるかもしれず、そしてそれから、(それを)知るために(to find out)科学的な研究をします。彼らもまた敬虔であると考えられます。

なぜなら、彼らの研究は正しい対象に向けられているからです。知識のある者(the man in knowledge)はジニャーニー、自分の本来の立場を理解した者と呼ばれます。そのようなジニャーニーは神について(of)非人格的な概念を持っているかもしれませんが、究極存在(the ultimate)(校正:u→ U)、至高の完全真理の庇護の下にあるので、彼もまた敬虔であると考えられるべきです。

これらの4つの種類の人々はスクリティー、敬虔と呼ばれます―――なぜなら、彼らは皆、神を求めているからです(they are all after God)。

(サンスクリット引用)

「これらの中で、純粋な献身奉仕を通して私との繋がりにおいて(in union with Me)完全な知識を持っている者(in full knowledge)が最良です。なぜなら、私は彼にとって非常に愛しく(dear)、そして彼は私にとって非常に愛しいからです。」(Bg.7.17)

第20段落
神に近付く4つの階層の人々のうち、神の性質を哲学的に理解しようとしている者、クリシュナ意識になろうとしている者―――ヴィシシャテ―――が最良の資格があります(best qualified)。実に、クリシュナは、彼(訳注: ヴィシシャテ)は神を理解することの他に仕事を持たない(to have no other business、~にしか関心がない)ので、そのような人はご自分にとって非常に愛しいとおっしゃいます。

その他の者たちは劣っています。誰も、何らのものを求めても神に祈る必要はなく(No one has to ~ to ask for anything)、そしてそうする者は愚かです。なぜなら、彼はすべてをご存知の神が彼の心臓の中におられ、彼が苦しんでいるとき、あるいはお金が必要なときはよく分かっておられる(to be well aware)ことを知らないからです。

賢い人はこれを認識し、物質的な悲惨さからの解放のために祈りません。むしろ、彼は神を讃えて、他の者たちに主がいかに偉大かを知らせるために祈ります。彼は、自分の個人的な利益(interest)、パン、衣服、あるいは住居のために祈りません。

純粋な献身者は、苦しんでいるとき、こう言います。「親愛なる主よ、これはあなたの親切です。あなたはただ私(の過ち)を正す(to rectify、修正する、直す、矯正する)ために私を苦しみの中に置かれました。私はもっと大きな苦しみの中に置かれるべきですが、慈悲からあなたはこれを最小化なさいました。」これが惑わされていない(not disturbed)純粋な献身者の見方です。

第21段落
クリシュナ意識にある者は、物質的な苦しみ、侮辱(insult)、あるいは栄誉を気にしません(to care for)。なぜなら、彼はこれらすべてから離れているからです。彼は、苦しみ、栄誉、そして侮辱は体だけに関係する(to pertain to)のであり、自分は体ではない、とよく知っています。

例えば、魂の不滅を信じていたソクラテスは、死刑を宣告され(to be condemned to death、condemnは判決を下すという意味)、そしてどのように埋葬して(to bury)欲しいかと尋ねられたとき、答えました。「まず、あなたは私を捕まえなくてはならないでしょう(may)。」

このように(so)、自分は体ではないと知っている者は惑わされません(to be disturbed)。なぜなら彼は、魂は捕まえられ得ず、拷問され得ず、殺され得ず、あるいは埋められ得ないと知っているからです。クリシュナの科学に精通している(conversant)者は、自分は体ではなく、自分はクリシュナの欠かすべからざる小片であり、自分の本当の関係はクリシュナとであり、そして自分は物質の体に入れられたにも関わらず、どうにかして(somehow or other)物質自然の3つの性質から離れたままでいなければならない(to remain)と完全に(perfectly well)知っています。

彼は、徳、熱情、あるいは無明の相にではなく、クリシュナに関心があります(to be concerned with、関係がある、関心がある)。これを理解する者はジニャーニー、賢者であり、彼はクリシュナにとって非常に愛しい者です。

苦しんでいる者は、栄華(opulence)の中に置かれたときは神を忘れるかもしれませんが、神の本当の立場を知るジニャーニーは、決して主を忘れないでしょう。

第22段落
非人格的な存在を崇拝するのは難し過ぎるので、神の形(a form of God)が想像されねばならない、と言う、非人格主義者と呼ばれるジニャーニーの階層があります(訳注:~と呼ばれる~は、~なので~しなければならないと言います)。

これらは本当のジニャーニーではありません―――彼らは愚か者です。誰も神の形を想像することはできません。なぜなら、神は非常に偉大だからです。人は何らかの形を想像するかもしれませんが、それはでっちあげたもの(concoction)です。それは本当の形ではありません。

神の形を想像する者たちがおり、神の形を否定する者たちがいます。どちらもジニャーニーではありません。形を想像するものは聖像破壊主義者(iconoclasts)と呼ばれます。インドでのヒンズー教徒とイスラム教徒の戦い(riots)の間、一部のヒンズー教徒たちはイスラム教徒の寺院(mosque)に行って神の彫刻や像(statues and images)を壊し、イスラム教徒も同じような方法で報復しました(to reciprocate)。

(訳注:このくだりは内容がよく分かりません。イスラム教の神像とは何のことか、また、形を想像する者が聖像破壊主義者になるのもなぜか分かりません。)

このようにして彼らはどちらも「私たちはヒンズー教の神を殺した。私たちはイスラム教徒の神を殺した」などと考えていました。同様に、ガンジーが自分の抵抗運動を率いていたとき、多くのインド人は道に行って郵便箱を壊し、そしてこのようにして自分たちは政府の郵便制度(postal service)を滅ぼしていると考えました。

そのような精神性の人々はジニャーニーではありません。ヒンズー教徒とイスラム教徒、そしてキリスト教徒と非キリスト教徒の間の宗教的な戦争は、すべて無明に基づいて行われました(to be conducted、指揮する、行う)。知識のある者は、神は一つであると知っています。主は、イスラム教徒、ヒンズー教徒、あるいはキリスト教徒ではあり得ません。

第23段落
神はああであり、こうである(such and such and such and such)というのは、私たちの想像です。それはすべて想像です。本当の賢者は、神は超越的であると知っています。神は物質的な相を超越していると知っている者は、本当に神を知っています。

神はいつも私たちの傍らに、私たちの心臓の中にいらっしゃいます。私たちが体を去るとき、神は私たちと共にいらっしゃいます(to go)。そして私たちがもう一つの体を得る(to take on)とき、主は、ただ私たちが何をしているかを見るために、私たちと共にそこに行かれます。

私たちはいつ自分の顔を主に向けるのでしょうか?主はいつも待っておられます。私たちが自分の顔を神に向ければ直ちに、主はおっしゃいます。「我が親愛なる息子よ、いらっしゃい―――サ・チャ・ママ・プリヤー―――あなたは永遠に私にとって愛しい者です。今、あなたは自分の顔を私に向けており、そして私は大変喜んでいます。」

第24段落
賢者、ジニャーニーは、実際に神の科学を理解しています。「神は良い」とだけ理解する者は予備的な(preliminary、準備の)段階にありますが、神がいかに偉大で良いかを実際に理解する者たちは、さらに発達しています。その知識は、シュリマッド・バーガヴァタムとバガヴァッド・ギーターにおいて得られます(~is to be had)。実際に神に興味のある者は、神の科学、バガヴァッド・ギーターを学ぶべきです。

(サンスクリット引用)

「我が親愛なるアルジュナよ、あなたは決して私を羨まない(envious、ねたむ)ので、わたしはあなたにこの最も秘密な知恵(wisdom)を授けます(to impart)。それを知ると、あなたは物質的な存在の悲惨さから解放されるでしょう。」(Bg.9.1)

第25段落
バガヴァッド・ギーターにおいて授けられた神の知識は非常にかすか(subtle、微妙、繊細、難解)で内密(confidential)です。それはジニャーナ、形而上学的な知恵(metaphysical wisdom、抽象的、哲学的、難解)、そしてヴィジニャーナ、科学的な知識に満ちています。そしてそれは神秘に満ちてもいます。

人はどうやってこの知識を理解することができるでしょうか?それは神ご自身、あるいは神の真正なる代理人によって授けられねばなりません。したがってシュリー・クリシュナは、神の科学を理解することに意見の不一致(discrepancy、矛盾、食い違い)があるときは、いつでも自らおいでになる(He incarnates Himself)とおっしゃいます。

第26段落
また、知識は感傷から来るのでもありません。献身は感傷ではありません。それは科学です。シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーはこうおっしゃいます。「ヴェーダの知識への参照がない霊性の見せびらかし(show)は、単に社会への妨害(disturbance、邪魔、騒動の種)です。」

人は、道理(reason、理性、判断力、良識)、議論、そして知識によって献身の甘露を味わわねばならず、そしてそれから彼はそれを他の者たちに渡さねば(to pass it on to、次にまわす)なりません。人はクリシュナ意識は単なる感傷だと考えるべきではありません。

踊ることと歌うことは、すべて科学的です。科学があり、そして愛情ある交換(reciprocation、返礼)もあります。クリシュナは賢者にとって非常に愛しく、そして賢者はクリシュナにとって非常に愛しいのです。クリシュナは私たちの愛を千倍にしてお返しになります。

私たち有限な(finite)生物は、クリシュナを愛するためのどんな力(capacity)を持っているでしょうか?しかし、クリシュナは愛のための莫大な(immense)力―――無限の力をお持ちです。
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さてさて、苦しいときはどう言えばよいか、ちゃ~んと書いてありましたね。さすがはプラブパーダ、私の現在の苦境をお見通しです。なかなか素直にそう言えないのですが、胸に手を当てて反省すれば、うーん、確かにほんとはもっとでっかい罰をくらっても仕方のないようなことをしてしまったかもしれないような。。。そう、したよね、やっぱり。。。というわけで、ただいま個人的にちょっと割引サービスの艱難辛苦を頂戴しております。因果応報、こういうときはおとなしく反省してクリシュナに反省文を提出し、刑期満了を待とうと思います。
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by ammolitering4 | 2014-02-21 14:56 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(2)

第4章 前半

第4章 愚者の道と賢者の道
The Roads of the Foolish and the Wise

第1段落
クリシュナはこのようにご自分をありのままにご説明なさっています。それでも私たちは主に魅了されていません。これはなぜでしょうか?理由はクリシュナご自身によって与えられています。

(サンスクリット引用)
「物質自然の3つの相から成る、私のこの神聖なるエネルギーは、乗り越える(to overcome)のが困難です。しかし、私に服従した者は、簡単にそれを乗り越える(to cross beyond)ことができます。」(Bg.7.14)(訳注:この引用文は本文の内容と合っていない。)

第2段落
物質世界には物質自然の3つの性質が満ちています(is pervaded by、浸透する、充満する)。すべての生命体は、これらの性質によって影響されます。もしも主として徳の相によって影響されるなら、彼らはブラーマナと呼ばれ、そしてもしも熱情の相によって影響されるなら彼らはクシャトリヤと呼ばれます。

もしも熱情と無明の相によって影響されるなら彼らはヴァイシャであり、そしてもしも無明によって影響されるなら、彼らはシュードラです。これは誕生あるいは社会的な階級による人工的な押し付け(imposition、義務などを課すこと)ではなく、人がその下で機能しているグナ、すなわち自然の相に応じたものです。

(サンスクリット引用)
「物質自然の3つの相、およびそれらに対応する(ascribed to、~に帰する)仕事に応じて、人間社会の4つの区分が私によって作られました。そして、私はこの制度の創造者ではありますが、不変であるため、私はそれでも非行為者であると、あなたは知るべきです。」(Bg.4.13)

第3段落
この制度がインドの歪んだカースト制度を指しているというのではありません。シュリー・クリシュナは特にこう述べられます。グナ・カルマ・ヴィヴァーガシャー、人はその下で自分が機能しているグナ、すなわち相に応じて区分され、そしてこれは宇宙全体の人々に当てはまります。

クリシュナがお話しになるとき、私たちは、何であれ主がおっしゃることは制限されておらず、宇宙全体で(universally、普遍的に)正しいと理解しなければなりません。主はすべての生命体の父であると主張なさいます―――動物、水生生物、木、草(plants)、毛虫(worms、這う虫)、鳥、そして蜂さえも、皆、主の息子たちである、と主張されます。

シュリー・クリシュナは、宇宙全体が物質自然の3つの性質の相互作用によって幻惑されていて、私たちはその幻想の魔力の下にある、と断言なさいます(to assert)。したがって、私たちは神が何であるか理解することができません。

第4段落
この幻想の性質(nature)は何で、そしてそれはどうやって乗り越えられ得るでしょうか?それもまた、バガヴァッド・ギーターにおいて説明されています。

(サンスクリット引用)

「物質自然の3つの相から成る、私のこの神聖なるエネルギーは、乗り越える(to overcome)のが困難です。しかし、私に服従した者は、簡単にそれを乗り越える(to cross beyond)ことができます。」(Bg.7.14)(訳注:第1段落に出てきた引用文と同一。)

第5段落
誰も、精神的な推量によって物質自然の3つの性質の呪縛(entanglement)を捨てることはできません。3つのグナは非常に強く、乗り越えるのは困難です。私たちは、自分がいかに物質自然の呪縛(grip、掴むこと)の中にあるかを感じることができませんか?

グナ(相)という単語は、縄も意味します。ある人が3本の強い縄で縛られているとき、彼は確かに非常にしっかりと捕らえられています。私たちの手と脚はすべて、徳、熱情、そして無明という強い縄によって縛られています。

それでは、私たちは望みを捨てるべきでしょうか(Are we therefore to abandon hope?)?いいえ、なぜなら、ここでシュリー・クリシュナが、誰であれご自分に服従する者は直ちに自由になると約束なさるからです。人がクリシュナ意識になるとき―――この方法であれ、あの方法であれ(訳注:どんな方法ででも)――-彼は自由になります。

第6段落
私たちは皆、クリシュナと関係があります(to be related)。なぜなら、私たちは皆、主の息子だからです。息子は自分の父親と意見の不一致があるかもしれませんが、彼にとってその関係を壊すことは可能ではありません。

人生において(in the course of his life)、彼は自分が誰であるかと尋ねられます。そして彼は、「私は誰それの息子です」と答えねばなりません。その関係は壊され得ません。私たちは皆、神の息子であり、主とのその関係は永遠ですが、私たちは単に忘れてしまっています。

クリシュナは完全に力強く(all-powerful)、完全に有名で、完全に豊かで、完全に美しく、完全に知識があり、そして主は放棄にも満ちています。そのような素晴らしい人物(personality、強烈で魅力的な性質の持ち主、名士)の友人であるにも関わらず、私たちはそれを忘れてしまいました。

もしも豊かな人の息子が自分の父親を忘れ、家を離れて狂うなら、彼は路上に横たわって眠りにつくかもしれず、あるいは食物のためにお金を乞うかもしれません。しかし、これらすべては彼の忘却によるものです。

しかし、もしも誰かが彼に、彼は単に自分の父親の家を去ったから苦しんでおり(simply suffering because~)、そして大変な金持ちで、莫大な財産(vast property、広大な土地)の所有者である彼の父親は、彼が戻るのを待ち望んでいるという情報を与えるなら―――その人は偉大な恩人(benefactor)です。

第7段落
この物質世界では、私たちはいつも三重の悲惨さ―――体と心から、他の生命体から、そして天災から生じる悲惨さの下で苦しんでいます。幻想によって、物質自然の相によって覆われているので、私たちはこれらの悲惨さを考慮しません(to take account of)。

しかし、私たちはいつも、物質世界においては私たちは非常に多くの苦しみを受けている(to undergo、苦しみを耐え忍ぶ、経験する)と知っているべきです。十分に意識を発達させた者、知性的な者は、なぜ自分は苦しんでいるのかと問います。

「私は悲惨さを望まない。なぜ私は苦しんでいるのだろう?」この問いが生じるとき、クリシュナ意識になるための機会があります。

第8段落
クリシュナに服従すれば直ちに、主は私たちを非常に手厚く(cordially)迎えられます。それはちょうど、自分の父のもとに戻ってこう言う、迷っていた子供のようなものです。「我が親愛なるお父さん、何らかの誤解のせいで、私はあなたの保護を離れましたが、私は苦しみました。今、私はあなたのもとに戻ります。」

父親は自分の息子を抱きしめ、こう言います。「我が親愛なる息子よ、いらっしゃい。私はあなたがいなくなっていた日々、ずっと、非常にあなたを案じていました。そして今、あなたが戻ってきて、私は非常に幸せです。」

父親は非常に親切です。私たちは同じ立場にいます。私たちはクリシュナに服従せねばならず、それはあまり難しくありません。息子が父親に服従するとき、それは非常に難しい仕事でしょうか?それは非常に自然で、父親はいつも息子を受け入れるのを待っています。無礼(insult、侵害、侮辱)の可能性はありません。

もしも私たちが自分の至高の父の前にひれ伏して(to bow down)、主の御足に触れるなら、私たちに害(harm、差し支え、不都合、危害)はなく、それは難しくもありません。実に、それは私たちにとって名誉(glorious)なことです。なぜ私たちはそうせずにおくべきでしょうか(Why should we not?、そうしない理由があるだろうか、ぜひそうしよう)?

クリシュナに服従することによって私たちは直ちに主の保護の下に来て、すべての悲惨さから解放されます。これはすべての聖典によって確認されています(to validate)。バガヴァッド・ギーターの終わりにシュリー・クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)
「すべての種類の宗教を放棄して、ただ私に服従しなさい。私はあなたをすべての罪深い反応から救います。恐れてはいけません。」(Bg.18.66)

第9段落
自分を神の足元に投げ出すとき、私たちは主の保護の下に来て、そしてそのときから先は私たちには恐れはありません。子供たちが自分の親たち(parents)の保護の下にあるとき、彼らは恐れを知りません(fearless)。

なぜなら、彼らは自分の親たちは自分に危害が加わるようにはしないと(訳注:親たちがいる限り自分は安全だと)知っているからです。マーム・エヴァ・イェ・プラパデャンテ、クリシュナは、ご自分に服従する者は恐れの原因を持たない(訳注:何も恐れるものはない)と約束なさいます。

第10段落
もしもクリシュナに服従することがそんなに簡単なことなら、それならなぜ人々はそれをしないのでしょうか。その代わり、自然と科学がすべてであり、神は無である(God is nothing、この場合のnothing には、取るに足らないつまらないものという意味がある)と主張して神の存在そのものに挑戦している多くの人々がいます。

いわゆる、知識における文明の発達は、大衆(populace)がもっと狂ってきているということを意味します。癒される代わりに、病が増えています。人々は神は好みません(to care for~)が、自然は好み、そして三重の悲惨さという形で苦しみを与える(to give kicks)のは自然の仕事です。

彼女(訳注:自然)は、いつも、一日24時間これらの苦しみを与えて(to administer、薬などを与える、規則や儀式を執り行う)います。しかし、私たちは蹴られる(訳注:苦しめられる)ことに非常に慣れてしまっているので、それで構わない(all right)と考え、それを物事の普通のあり方であると考えます。

私たちは自分たちの教育を非常に誇らしく思うようになりましたが、私たちは物質自然にこう言います。「私を蹴ってくれて本当にありがとうございます。さあ、続けてください。」こうして幻惑されているので、私たちは自分たちは物質自然を征服さえしたと考えます。

しかし、どうしてこれがそうなのでしょうか(訳注:そんなことがあるでしょうか)?自然は今も私たちの上に、誕生、老い、病、そして死という悲惨さを与えています(to inflict upon~)。誰か(any one)これらの問題を解決したでしょうか?

それなら、私たちは知識と文明において、実際に何の発達をしたでしょうか?私たちは物質自然の非常に厳しい(stringent)規則の下にありますが、それでも私たちは、自分たちは征服したと考えています。これはマーヤーと呼ばれます。
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by ammolitering4 | 2014-02-19 14:10 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(2)