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第3章 最後まで

第16段落
このシュラヴァナム・キールタム―――聞くことと唱えること―――という方法(process)は、主チャイタンニャ・マハープラブによって認められました。主チャイタンニャが主の友人であって偉大な献身者であるラーマーナンダ・ラーヤと話しておられたとき、主は彼に霊的な認識の方法についてお尋ねになりました。

ラーマーナンダはヴァルナーシュラマ・ダーマ、サンニャーサ、仕事の放棄、そして非常に多くの他の方法を勧めましたが、主チャイタンニャは「いいえ、これらすべては、あまり良くありません」とおっしゃいました。ラーマーナンダ・ラーヤが何かを提案するたびに、主は霊的な発達のためのより良い方法を求めて(to request)それを却下しました。

最後にラーマーナンダ・ラーヤは、推量によって究極の真理に至ることは可能ではないため、人が神を理解するための精神的な推量におけるすべての不必要な努力を放棄することを勧めるヴェーダの格言(aphorism)を引用しました。

例えば科学者は遠い星や惑星について推量するかもしれませんが、彼らは経験なくしては決して何らの結論にも達することはできません。人は生涯を通して推量し続け、決して何らの結論にも至らないかもしれません。

第17段落
神について推量することは特に無駄です。したがってシュリマッド・バーガヴァタムは、あらゆる推量は放棄されるべきであると勧めます。その代わり、人は自分が取るに足らない生き物であるだけでなく、この地球は大きな(great)宇宙の中の一つの点に過ぎないことを認識して従順(submissive)になることが勧められています。(訳注: submissiveを「受動的、消極的」と訳してある場合もあるようですが、素直に聞いて受け入れる、という意味なので「従順」のほうが適切であるように思います。)

ニューヨーク市は非常に大きいように見えるかもしれませんが、地球はとても小さな場所(spot)で、地球上でアメリカ合衆国も小さな点に過ぎず、そして合衆国の中でニューヨーク市は小さな点に過ぎず、そしてニューヨークの中で個人は何百万人の中の一人に過ぎないことを認識するとき、そのとき人は自分は結局それほど重要でもない(not so very important)ことを理解することができます。

宇宙と神の前での(in the face of ~)自分の取るに足らなさを認識して、私たちは人工的に驕り高ぶる(to be puffed-up)べきではなく、従順であるべきです。私たちはカエルの哲学に陥らないように(to fall prey to ~)非常に注意深くあるべきです。

昔、井戸にカエルがいて、友人に大西洋の存在を教えられると、彼は友人に尋ねました。「おお、この大西洋というのは何ですか?」

「それは巨大な水溜り(a vast body of water)です」と彼の友人は答えました。

「どれくらい巨大なのですか?(How vast?)それはこの井戸の2倍くらいですか?」

「いえいえ、もっともっと大きいのです」と彼の友人は答えました。

「どれくらい大きいのですか?(How much larger?)10倍ですか?」このようにしてカエルは計算し続けました。しかし、彼が大海の大きさ(the depths and far reaches)を理解する可能性が少しでもあるでしょうか(what is the possibility of his ever understanding ~)?

私たちの能力(faculties)、経験、そして推量の力はいつも限られています。私たちはそのようなカエルの哲学を生む(to give rise to ~)ことができるだけです。したがって、シュリマッド・バーガヴァタムは、至高存在を理解しようとすることにおいて時間の無駄であるとして、推量という方法を放棄することを勧めます。

第18段落
推量を放棄した後で、私たちは何をすべきでしょうか?バーガヴァタムは、私たちが従順になって神の言葉(message)を従順に聞くことを勧めます。この言葉はバガヴァッド・ギーターそして他のヴェーダ文献の中にも―――どの真正なる聖典の中にも―――あるかもしれず、あるいは自己を認識した魂から聞かれるかもしれません。

要点は、人は推量すべきではなく、単に神について聞くべきであるというものです。そのようにして聞くことの結果は何でしょうか?人が何であれ―――貧しい人であれ豊かな人であれ、アメリカ人、ヨーロッパ人、あるいはインド人であれ、ブラーマナ、シュードラ、あるいは他の何であれ―――もしも人が神の超越的な言葉を聞くことさえすれば、どのような力(power or force)によっても決して征服され得ない主は、愛によって征服されます。

アルジュナはクリシュナの友人でしたが、至高神でありながらクリシュナはアルジュナの戦車の運転手、
卑しい(訳注:menial、身分が卑しいという意味ではなく、仕事が熟練を要しないいわゆる単純労働や召使いの仕事である形容)従者になりました。

アルジュナはクリシュナを愛しており、クリシュナは彼の愛をこのようにして報いられました(to reciprocate)。同様に、クリシュナが子供だったとき、主はふざけて(playfully)ご自分の父、ナンダ・マハーラージャの靴を取り、それらをご自分の頭に乗せました。

人々は神と一つになるために非常に熱心に試みるかもしれませんが、実際は私たちはそれを超えることができます―――私たちは神の父親になることができるのです。もちろん、神はすべての生き物の父であり、主はご自分では父親をお持ちでありません。

しかし、主はご自分の献身者、ご自分の恋人(His lover)を父親として受け入れられます。クリシュナは愛のために(out of love)ご自分の献身者によって征服されることに同意なさいます。人がしなければならないことのすべては、主のお言葉を非常に注意深く聞くことです(人は~しなければならないだけです。)

第19段落
バガヴァッド・ギーターの第7章において、シュリー・クリシュナは、主が人生のすべての歩みにおいて知覚され得る更なる方法を示されます(訳注:常に主を感じているための~)。
(サンスクリット引用)
「私は土(訳注:the earth、普通はthe をつけてEを大文字にした場合が「地球」ですが、そうしない場合もあります。この場合は次が「火」なので対応して単に「土」であると思われます)のもともとの香りであり、私は火の中の熱です。私はすべての生けるものの命であり、そして私はすべての苦行者(ascetics)の苦行(penances)です。」(Bg.7.9)

第20段落
プニョ・ガンダーという言葉は香りを指します。クリシュナだけが味(flavors)と香りを作り出すことができます。私たちは人工的に何らかの匂いや香りを作るかもしれませんが、これらは自然の中に生じるもともとのものほど良くありません。良い自然の香りを嗅ぐとき、私たちは「おお、ここに神がいる。ここにクリシュナがいる」と考えることができます。

あるいは、何らかの自然の美を見るとき、私たちは「おお、ここにクリシュナがいる」と考えることができます。あるいは、何か珍しい(uncommon)、力強い、あるいは素晴らしいものを見るとき、私たちは「ここにクリシュナがいる」と考えることができます。

あるいは、何らかの生命の形を見るとき、それが木、植物、あるいは動物、あるいは人間においてであれ、私たちはこの生命はクリシュナの欠かすべからざる小片であると理解すべきです。なぜなら、クリシュナの欠かすべからざる小片である霊的な火花が体から取り除かれれば、直ちに体は朽ちる(to disintegrate、組織が崩壊する)からです。
(サンスクリット引用)

「おお、プリターの息子よ、私はすべての存在のもともとの種、知的な者の知性、そしてすべての力強い者の力(prowess)であると知りなさい。」(Bg.7.10)

第21段落
ここで再び、クリシュナはすべての生ける者の生命である、と明白に(explicitly)述べられています。そのため(Thus、こうして)常に(at every step)私たちは神を見ることができます。人々は「あなたは私に神を見せることができますか?」と尋ねるかもしれません。はい、もちろんです。

神は非常に多くの方法(ways)で見られ得ます。しかし、もしも人が自分の目を閉じて「私は神を見まい」と言うなら、それなら主はどうやって見せられ得るでしょうか?

第22段落
上の節で、ビージャムという単語は種を意味し、そしてその種は永遠(サナータム)であると宣言(to proclaim)されます。人は巨大な木を見るかもしれませんが、この木の源は何でしょうか?それは種であり、そしてその種は永遠です。存在の種はすべての生命体の内にあります。

体そのものは非常に多くの変化を経るかもしれません―――それは母親の子宮の中で育ち、小さな赤ん坊として出てきて、子供時代と大人の時期を通して発達するかもしれません―――しかし、内にあるその存在の種は永遠です。したがって、それはサナータムです。

知らず知らずのうちに(訳注:Imperceivably、”perceivable”は「知覚できる」の意)、私たちは毎瞬間に、毎秒ごとに自分の体を変えています。しかしビーシャム、種、霊的な火花は変わりません。クリシュナはご自分をすべての存在の中のこの永遠の種であると宣言なさいます。

主は知的な人の知性でもあります。クリシュナによって恵まれる(to be favored)ことなくしては、人は卓越して知性的になることはできません。誰もが他の者たちより知性的であろうとしていますが、クリシュナの恵みなくしてはこれは可能ではありません。

したがって、卓越した知性を持った誰かに会った(to encounter、偶然出会う、遭遇する)ときはいつでも、私たちは「その知性はクリシュナだ」と考えるべきです。同様に、非常に影響力の強い(influential)人の影響力(influence)もまたクリシュナです。
(サンスクリット引用)

「私は、強く、熱情と欲望のない者の力です(I am the strength of the strong, devoid of passion and desire)。私は宗教的な原則に反しない(not contrary)性生活です、おお、バーラタの主(アルジュナ)よ。」(Bg.7.11)

第23段落
象とゴリラは非常に強い動物であり、私たちは彼らは自分の力をクリシュナから得ると理解すべきです。人間は自分自身の努力によってそのような力を得ることはできませんが、もしもクリシュナがそのように恵みを与えるなら、人間は象を何千倍も超える力を得ることができます。

クルクシェトラの戦いで戦った偉大な戦士ビーマは、象の一万倍の力を持っていると言われました。同様に、欲求あるいは宗教的な原則に反しない欲望(lust、主に性的な欲望を指す)(カーマ)もまたクリシュナとして見られるべきです。この欲望とは何でしょうか?

欲望は一般的には性生活を意味しますが、ここでカーマは宗教的な原則に反しない性生活、つまり良い子供を得る(to beget)ための性交を指します。もしも人が良いクリシュナ意識の子供を得ることができるなら、彼は何千回も性交をすることができます。

しかし、もしも彼が猫や犬の意識において育てられる子供を作ることしかできないなら、彼の性生活は非宗教的であると考えられます。宗教的で文明化された社会では、結婚は夫婦が良い子供たちを得るために性交にいそしむことのしるし(indication)となることを意図しています(is intended)(~のためにあります)。

したがって、結婚における性生活は宗教的だと考えられ、そして結婚によらない性生活は非宗教的だと考えられます。実際は、もしも家庭人の性的な活動が宗教的な原則に基づいているなら、サンニャースィーと家庭人の間に違いはありません。
(サンスクリット引用)

「存在のすべての状態(訳注:All states of being、どんな状態のどんなものも)は―――それが徳、熱情あるいは無明のものであれ―――私のエネルギーによって顕現します。私は、ある意味では、すべてです―――しかし私は独立しています。私はこの物質自然の相の下にありません。」(Bg.7.12)

第24段落
人はクリシュナにこのように尋ねるかもしれません。「あなたは、ご自分は音、水、光、香り、すべてのものの種、力、そしてカーマであるとおっしゃいます―――それはあなた(you →You)が単に徳の相に存在するということを意味するのですか?」

物質世界には、徳、熱情、そして無明の相があります。これまでのところ、クリシュナはご自分を良いもの(例えば宗教的な原則にのっとった結婚における性交)として描写なさいました。しかし、他の相に関してはどうでしょうか?クリシュナはそれらには存在なさらないのでしょうか?

答えとして、クリシュナは、何であれ物質世界において見られるものは物質自然の3つの相の相互作用によるとお答えになります。何であれ見られる(to observe)ものは徳、熱情あるいは無明の組み合わせであり、すべての場合において、これらの3つの状態は「私によって作られます」。

クリシュナによって作られるため、それらの立場は主の内にありますが、主はそれらの中にはありません。なぜなら、クリシュナご自身は3つの相を超越していらっしゃるからです。このように、別の意味では、無明によって作られる悪くて邪悪なものもまた、それらがクリシュナによって用いられる(to apply、当てはめる、適用する)とき、クリシュナです。これはどういうことでしょうか?

たとえば、電気技師は電気的なエネルギーを作り出しています。家庭では私たちはこの電気エネルギーを冷蔵庫では冷たさとして、あるいは電気ストーブ(訳注:stove、調理用コンロという意味もある)では熱として経験しています。しかし、発電所では電気エネルギーは冷たくも熱くもありません。

このエネルギーの顕現は生命体にとっては異なるかもしれませんが、クリシュナにとってはそれらは異なりません。したがって、クリシュナは時として熱情あるいは無明の原則であるように見えるものに基づいて活動なさいますが、クリシュナにとってはクリシュナしかありません。

ちょうど、電気技師にとっては電気エネルギーは単に電気であって他の何でもないようなものです。彼は、これは「冷たい電気」あるいはあれは「熱い電気」といって区別することはしません。

第25段落
すべてはクリシュナによって作られています(to generate、引き起こす、発生させる、生成する)。実に、ヴェダーンタ・スートラはこう確認します。アタート・ブラーマ・ジジニャーサー・ジャンマーディ・アシャ・ヤター、すべては至高の完全真理から流れ出しています。

生命体が良いあるいは悪いと考えているものは、生命体にとってだけ、そうです。なぜなら彼は制約されているからです。しかしクリシュナは制約されていないので、主にとっては悪いあるいは良いという可能性はありません(there is no question of ~、~ということはありえません)。私たちは制約されているので、私たちは二重性によって(from)苦しんでいます。しかし、主にとってはすべては完璧です。
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by ammolitering4 | 2014-01-21 19:34 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(0)

翻訳歴など

こんにちは。先日献身者の方たちと翻訳についてお話ししましたので、ちょっとまとめてみようと思います。私の翻訳はご覧のように一語一句をできるだけ文字面に忠実に日本語に置き換えたものです。滑らかで読みやすい自然な日本文を目指したものではありません。これはなぜかというと、英語を日本語にするときにはまず原文を完全に理解できる人(Aさん)がぎこちないながらも正確な日本語にして、次にそれを日本語を母国語とする人(Bさん)がAさんと話し合って不明点を明確にしながら自然な日本語にするのが一番正確だからです。一人でやっているとこれができないし、私は日本語が母国語なので、できる範囲でAさんの役割をやろうとしています。つまり、私の翻訳は資料として機能すればそれで十分です。Bさん役が出来る人は日本にたくさんいると思うので、後は好きなように編集していただきたいと思っています。もちろん、読む人が私の文を読みながら心の中でそれぞれに自由な表現を楽しめれば、それに越したことはありません。プラブパーダの文章はそれ自体非常に味わい深いので、日本語が多少ぎこちなくても繰り返し読めば必ず心に染みとおるものです。

私は小学生の頃から国文法が好きで、説明文などの要約や読解も割と得意でした。小説などは読むのも書くのも全く苦手です。高校生の頃からは地元の小さな情報誌でときどきアルバイトをしていて、記事を書く手伝いをしたり、校正や編集の手伝いをしたりもしました。後になってみると、これがとても役立っていると思います。その後は大手の企業で機械類の取り扱い説明書の書き方を学び、校正や編集などもやって、そのうちに翻訳もするようになりました。カナダに移ってからは小さな人工知能の会社で論文の翻訳をしたり、大手のソフトウェアの会社でビジネス文書やマニュアルの翻訳をしたり、その他もろもろの関係する書類に手を出したりしていました。その傍らで頼まれれば論文でも何でも訳したり編集したり書いたりしていました。どれも経験何年と言えるほど続けたわけでもないし、資格だって何一つなく、100年ほど前に英検2級に合格したおぼろげな記憶があるようなないような、、、という程度ですが、塵も積もって少々の経験を積むことができました。

目の病気が理由でこうした仕事を辞め、しばらくはファストフードの仕事などいろんな雑用をしながらアート活動(ガラス絵など)を主にやっていましたが、数年前からはあるホテルグループの翻訳者(フリーランスです)として翻訳の仕事を再開しています。これはビジネス翻訳と新聞記事の翻訳などが主体で、その他にもやっぱり頼まれれば何でもやる便利屋さんです。私のやっているようなのはいわゆる実務翻訳になるのだと思います。これは一応滑らかな日本語にしてはいるものの正確性が第一で、訴訟を受けた場合に企業を守れるように気をつけて書くなど、情緒も何もない文章です。プラブパーダのご本を翻訳するにあたっても、同じようにドライに事を進めるのが私には合っているようです。今後も気まぐれなロボットのように突発的に味気のない翻訳文をお届けするつもりです。

この葉子さんというのは誰だろう、何の資格があるのだろう、どんな方針で翻訳をしているのだろう、という疑問にこれでお答えすることができましたでしょうか。何かご質問があればお尋ねください。
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by ammolitering4 | 2014-01-21 15:19 | Comments(0)

翻訳について

こんばんは。今日は福岡県で行われたフィーストに参加してきました。お誘いくださったBVDさん、ホストの皆さん、お会いした大勢の皆さん、お陰さまでとても楽しい時間を過ごすことができました。ありがとうございます。フィーストに参加したのはおよそ3年ぶりで、ほんとに懐かしかったです。時々、お寺に行きたいなあという気持ちがあったので、ほんとによかったです。きれいなロシア人女性の献身者にはロシア語の練習台になってもらいました。永遠に挨拶レベルから抜け出せない私の悲しいロシア語。。。いつの日かやはりロシア語をちょっとは話せるようになりたいのです。しかし、無理かもしれない。。。

まあそれはいいとして、翻訳についてもISKCONの皆さんと少しだけお話しすることができました。今ISKCONでは若い献身者を中心に翻訳を進める動きがあるそうで、ほんとに喜ばしいことだと思います。翻訳チームに参加してもらえないか、というお願いを「いやです」とあっさり断ってしまったのはまことに申し訳ございませんが、フリーな立場で翻訳を続けたい私の気持ちを理解してくださり、ありがたかったです。

繰り返しますが、布教あるいは学習のためであれば、私の翻訳はどなたでもご自由にご利用いただけます。私の許可を取る必要はありません。お好きなように編集したり出版したりしていただいて一向に構いません。謝礼や著作権使用料や翻訳料その他を支払っていただく必要もありません。編集にあたっては、念のために原典と照らし合わせて抜けや間違いなどがないか確認することをお勧めします。

今後の翻訳については、リクエストはお受けしますが、必ずするという保証はできない、ということでご了承ください。どうもとってもわがままなのです。できればプラブパーダのご本を優先的にしたいと思っているし、今も候補が何冊かあるのです。翻訳に関するご質問はいつでもお受けします。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

葉子
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by ammolitering4 | 2014-01-19 23:47 | Comments(0)

第3章 第15段落まで

第13段落
オームで始まるヴェーダのマントラを唱えるときも、私たちはクリシュナを思い出すことができます。ハレ・クリシュナのように、オームもまた神を指すものであり(an address to God)、そしてオームはクリシュナでもあります(訳注:om is also Krishna、「オームもまたクリシュナです」とも読めます)。

「シャブダー」は音を意味し、そして何かしらの音を聞くときはいつでも、私たちはそれはもともとの音、純粋な霊的な音オームすなわちハレ・クリシュナの振動であると知るべきです。何であれ私たちが物質世界において聞く音は、そのもともとの霊的な音オームの反映に他なりません(is but a reflection of ~)。

このように、音を聞くとき、水を飲むとき、何らかの光を見るとき、私たちは神を思い出すことができます。もしもこれをすることができるなら、それならいつ私たちは神を思い出さずにいるでしょうか(When will we not ~)?

このように、私たちはクリシュナを一日24時間思い出していることができ、そしてこのようにしてクリシュナは私たちと共にいらっしゃいます。もちろん、クリシュナはいつも私たちと共にいらっしゃいますが、私たちがこれを思い出せば直ちに、主の存在は事実的であり(訳注:is factual, ~となり)、感じられます。

第14段落
神と関わるための9つの異なる方法(processes)があり、最初の関わり方(method)はシュラヴァナム―――聞くことです。バガヴァッド・ギーターを読むことによって、私たちはシュリー・クリシュナのお話を聞き、それは私たちが実際にクリシュナすなわち神と関わっていることを意味します。

(私たちは、クリシュナについて話すときは神を指しているということを、いつも覚えているべきです。)
私たちが神と関わる限り(Inasmuch)、そして私たちがクリシュナの言葉と主の御名(訳注:複数)を聞き続けるにつれて(as we go on hearing)、物質自然の汚染は減ります。

クリシュナが音、光、水、そして非常に多くの他のものであると理解すると(in understanding that ~)、クリシュナを避けるのは不可能になります。もしも私たちがクリシュナをこのように思い出していることができるなら、私たちの主との関わりは永遠です。

第15段落
クリシュナとの関わりは、太陽光との関わりのようなものです。太陽光があるところには、汚染はありません。人が外に出て太陽の紫外線の中にいる限り(out in the ultraviolet rays)、彼は病気になりません。西洋の医学では太陽光が様々な病気に勧められており、ヴェーダによれば病人は治癒のために太陽を崇拝すべきです。

同様に、もしも私たちがクリシュナ意識においてクリシュナと関わるなら、私たちの病(訳注:maladies、主に慢性的な病を指す)は癒されます。ハレ・クリシュナを唱えることによって私たちはクリシュナと関わることができ、そして私たちは水をクリシュナとして、太陽と月をクリシュナとして見ることができ、そして私たちは音の中にクリシュナを聞くことができ、水の中に主を味わうことができます。

不幸にして、現在の状況では、私たちはクリシュナを忘れてしまっています。しかし今、私たちは主を思い出すことによって自分の霊的な人生を蘇らせねばなりません(to revive)。
............................................................
都合でほんのちょっとだけお届けします。マイペースでのんびりと、しかし一歩一歩着実に、、、いや、実際には途中で道草とか回り道とか、3歩進んで2歩下がったりしていますけど、それでもぼちぼちとクリシュナのもとへ歩み続けたいものです。
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by ammolitering4 | 2014-01-07 07:12 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(0)

第3章 第12段落まで

第3章 どこででも、そしていつでもクリシュナを見る

第1段落
私たちの実際の(practical)人生において、クリシュナは私たちにどのようにしてクリシュナ意識を目覚めさせる(to invoke、霊などを呼び出す、想起させる)かをお教えになります。私たちが自分の義務を果たすのを止めるべきである(we are to ~)、あるいは活動をしなくなる(to cease from)べきである、というのではありません。

そうではなく(Rather)、活動はクリシュナ意識においてなされねばなりません。誰もが人生において仕事(vocation、職業。適性、使命などの意味もある)を持っていますが、どのような(what)意識において彼はそれをするでしょうか(to enter upon、職務につく、始める)。

誰もが「おお、私は自分の家族を維持するために仕事(vocation)を持たねばならない」と考えています。社会、政府、あるいは家族が満足させられねばならず、誰もそのような意識から自由ではありません。どのような活動でも、よく(nicely)遂行するためには人は正しい意識にあらねばなりません(to be in proper consciousness)。

意識がかき乱されている(agitated)者、狂人のようである者は、どんな義務も果たすことができません。私たちは自分の義務を正しく遂行すべきですが、クリシュナを満足させることを考えながらそれをすべきです。自分の仕事の過程(our process of work)を変えねばならないというのではありませんが、私たちは自分が誰のために働いているかを考えねばなりません。

どんな活動であれ、遂行しなければならないことを私たちはしなければなりませんが、私たちはカーマ、欲望によって流されるべきではありません。カーマというサンスクリットの単語は、欲(lust)、望み(desire)、あるいは感覚の満足を指すために使われます。

シュリー・クリシュナは、私たちはカーマすなわち(or)自分の欲(our own lust)の満足のために働くべきではないとお教えになります。バガヴァッド・ギーターの教えのすべてはこの原則に基づいています。

第2段落
アルジュナは、自分の親戚と戦うことから退く(to refrain from)ことによって自分の感覚を満足させたがりましたが、クリシュナは至高存在の満足のために自分の義務を遂行することを納得させるために(to convince him to ~)彼にお話しになりました。

物質的には、彼が王国への権利(claim)を放棄して自分の親戚を殺すことを拒んでいるというのは非常に敬虔(pious)であるように見えるかもしれませんが、クリシュナはこれを認めませんでした。なぜなら、アルジュナの決心の原則(principle)は自分自身の感覚を満足させることだったからです。

人の事業(business)あるいは職業は変えられる必要がありません(need not be changed)―――ちょうど、アルジュナのそれが変えられなかったように―――しかし人は自分の意識は変えねばなりません(one does have to change、強調表現)。

この意識を変えるためには、しかし、知識が必要とされます。その知識は、「私はクリシュナの、クリシュナの優性なるエネルギーの欠かすべからざる小片(part and parcel)である」と知ることです。それが本当の知識です。相対的な知識は私たちにどうやって機械を直すかを教えるかもしれませんが、本当の知識は、クリシュナにとって必須である(integral、完全体を成すのに不可欠な)という私たちの立場を知ることです。

主の部分であるため、部分的であるわたしたちの喜びは(our pleasure, which is partial)全体に依存しています。たとえば、私の手はそれが私の体についていてそれに奉仕をするとき、喜びを感じます(to take pleasure)。それは他の人の体に奉仕をすることには喜びを感じません(It does not take pleasure in serving another's body)。

私たちはクリシュナの一部であるため、私たちの喜びは主に奉仕をすることにあります。「私はあなたに奉仕をして幸せにはなれない(I cannot be happy serving you)」(訳注:ここで youは小文字になっていますが、クリシュナに対する呼びかけと考えるなら大文字にすべきところです。)と誰もが考えています。しかし、誰も自分(the self)が誰かを知りません。その自分(that self)はクリシュナです。
(サンスクリット引用)

「この制約された世界の中の生命体は私の永遠の小片(eternal, fragmental parts)です。制約された人生(life)のため(due to ~、~が原因で)、彼らは心を含む6つの感覚で大変苦しんでいます。」(Bg. 15.7)

第3段落
ジーヴァ、すなわち生命体は、今は物質的な接触が原因で全体から切り離されています。したがって、私たちにとって、自分の中にある(latent、潜んでいる、潜在的な)クリシュナ意識を通して再び自分自身を(訳注:クリシュナに)つけようとすることが必要です。

人工的に、私たちはクリシュナを忘れて独立的に生きようとしていますが、これは可能ではありません。クリシュナから独立して生きようとするとき、私たちは物質自然の法の影響の下に来ます。もしも人が自分はクリシュナから独立していると考えるなら、彼はクリシュナの幻想エネルギーに依存するようになります。

ちょうど、もしも人が自分は政府とその規則から独立していると考えると、彼は警察(police force)に依存するようになるようにです。誰もが独立的になろうとしており、そしてこれはマーヤー、幻想と呼ばれます。個人でも、共同体としても、社会としても、国家としても、あるいは宇宙としても(universally)、独立的になることは可能ではありません。

自分は依存的であると気づくようになるとき、私たちは知識を得たのです(we will have attained knowledge)。今日では、非常に多くの人々が世界の平和のために(for peace in the world)努力していますが、彼らはどうやってその平和の方法(formula)を実行する(to implement)かを知りません。国際連合は長年の間、平和のために努力していますが、それでも戦争は続いています。
(サンスクリット引用)

「さらに、おお、アルジュナよ、私はすべての存在のもともとの(generating)種です。動くものであれ、動かないものであれ、私なくして存在することのできるもの(being)はありません。」(Bg. 10.39)

第4段落
クリシュナは、このようにすべてのものの所有者(proprietor)であり、すべての結果の究極の受益者(beneficiary)であり、受領者(receiver)です。私たちは自分を自分の労働の結果の所有者であると考えるかもしれませんが、これは思い違い(misconception)です。

私たちは、クリシュナが私たちの働きすべての結果の究極の所有者であると理解するようにならねばなりません。何百人もの人が事務所で働いているかもしれませんが、彼らは何であれ会社(the business、事業)が生む収益は所有者に属すると理解しています。

銀行の窓口係が「おお、私は非常に多くのお金を持っている。私は所有者だ。家に持ち帰ろう」と考えれば、直ちに彼の困難(trouble)が始まります。もしも私たちが、どれだけであれ自分が溜め込んだ(to amass)富を自分自身の感覚の満足のために使うことができると考えるなら、私たちはカーマ、欲に基づいて(out of)活動しています。

しかし、もしも私たちが自分が持っているすべてのものはクリシュナに属すると理解するようになるなら、私たちは解放されます。私たちは自分の手に同じお金を持っているかもしれませんが、自分は所有者であると考えれば、直ちに私たちはマーヤーの影響下に入ります(we are under ~)。すべてのものはクリシュナに属するという意識の下に位置している者は本当の学識のある人(an actual learned man)です。
(サンスクリット引用)

「宇宙の中にある動くもの、あるいは動かないものすべては、主によって統御され、所有されています。したがって、人は自分の取り分として取り分けられた、自分に必要なものだけを受け取るべきであり、人は物(they = other things)が誰に属するかをよく知って、他のものを受け取ってはなりません(one must not accept other things, knowing well to whom (w→W) they belong.)。」(シュリー・イショパニシャッド、マントラ1)

第5段落
このイーシャーヴァーシャ―――すべてのものはクリシュナに属するという意識が呼び覚まされなければなりません(to revive)。個人的にだけでなく、国家的、そして宇宙的にもです。そうすれば平和があるでしょう。私たちはしばしば、博愛的(philanthropic)で利他的(altruistic)でありがちであり、そして私たちは自分の同胞(countrymen)、自分の家族と、そして世界のすべての人々と友人であろうと努力します―――しかし、これは誤った概念(conception)に基づいています。

本当の友人はクリシュナであり、そしてもしも私たちが自分の家族、国、あるいは惑星に利益を与えたいと望むなら、私たちは主のために働くでしょう。もしも自分の家族の幸せ(welfare)を心に抱くなら、私たちはすべての家族員(members)をクリシュナ意識にしようとするでしょう。

自分の家族に利益を与えようとしている人々が非常にたくさんいますが、不幸にして彼らは成功しません。彼らは本当の問題が何かを知りません。バーガヴァタムが述べるように、人は自分の子供を死から、物質自然の支配(grip、掌握、掴むこと)から救えない限り、父、あるいは母、あるいは教師になろうとすべきではありません。

父親はクリシュナに関する知識を持っているべきであり(in knowledge of)、そして彼は自分に託された無知な(innocent、無邪気な)子供たちが誕生と死の循環を再び経験(to undergo、苦しみを経験する)しなくてよいように決意しているべきです(to be determined)。

彼は自分の子供たちを、もはや誕生と死の苦しい(painful)循環の影響下に(to be subjected to ~)なくていいように(in such a way)訓練すると心に決めているべきです(to be resolved)。しかし、これができる前に、彼は自分自身を熟達者にしなければなりません。もしも彼がクリシュナ意識において熟達者になれば、彼は自分の子供たちだけでなく、自分の社会と国も助けることができます。

しかし、もしも彼自身が無知によって縛られているなら、彼はどうやって同じく縛られている他の者たちを自由にする(to untie、結び目をほどく)ことができるでしょうか?他の者たちを自由にすることができる前に、彼は自分自身が自由でなければなりません。実際は誰も自由ではありません(no one is a free man)。なぜなら、誰もが物質自然の魔力(spell)の下にあるからです。

しかし、クリシュナに服従した者はマーヤーによって触れられ得ません。すべての者のなかで、彼こそは自由です(He, of all men, is free.)。もしも人が太陽光の中に身を置くなら、暗闇の可能性はありません(there is no question of ~)。

しかし、もしも人が人工的な光の中に身を置くなら、それは点滅し、消えるかもしれません。クリシュナはちょうど太陽光のようなものです。主がいらっしゃるところでは、暗闇と無知の可能性はありません。賢者、マハートマーはこれを理解します。
(サンスクリット引用)

「私はすべての霊的および物質的な世界(訳注:複数)の源です。すべてのものが私から生じます(to emanate from ~、放射する)。これを完璧に知っている賢者は私への献身奉仕にいそしみ、心を込めて(with all their hearts)私を崇拝します。」(Bg. 10.8)

第6段落
この節の中でブッダーという単語が使われており、それは賢者あるいは学識のある人を指します。彼の特徴(symptom)は何でしょうか?彼は、クリシュナがすべてのものの、すべての放射物(emanation)の源(fountainhead)であると知っています。

彼は、何であれ自分が見るものはクリシュナの放射物に他ならない(whatever he sees is but an emanation of Krishna)と知っています。物質世界において、性生活は最も目立った(prominent)要素です。性的な魅了はすべての生命の種において見られ、そして人はそれがどこから来るのかと尋ねるかもしれません。

賢者は、この傾向はクリシュナの中にあり、そしてそれは主のヴラジャの高貴な娘たち(damsel)との関係において明らかにされていると理解しています。何であれこの物質世界において(in)見られるものは、クリシュナにおいても完全に見られます。

違いは、物質世界においてはすべては歪んだ形で現れるということです。クリシュナにおいては、これらすべての傾向と顕現は、純粋な意識、霊において存在します。これを知り、完全な知識を備えた者は(one who knows this, in full knowledge,)、クリシュナの純粋な献身者になります。
(サンスクリット引用)

「おお、プリターの息子よ、幻惑されていない者、偉大な魂は、聖なる自然の保護の下にあります。彼らは私を至高の人格神、源であり、尽きることがない(inexhaustible)と知っているので、完全に献身奉仕にいそしんでいます。

いつも私の栄光を唱え、大いなる決意をもって努力し、私の前に頭を垂れ(to bow down)、これらの偉大な魂たちは永遠に(perpetually)献身の念をもって私を崇拝します。」(Bg. 9.13-14)

第7段落
偉大な魂、マハートマーとは誰でしょうか?それは優性なるエネルギーの影響下にある者です。現在では私たちはクリシュナの劣性なるエネルギーの影響下にあります。生命体として、私たちの立場は境界的です―――私たちは自らを二つのエネルギーのどちらかに移す(to transfer)ことができます。

クリシュナは完全に独立しており、そして私たちは主の欠かすべからざる小片であるため、私たちもまたこの独立性という性質(quality)を持っています。したがって私たちは、どちらのエネルギーの下で自分が機能するかという選択肢を持っています。

優勢な性質(nature、自然)について無知なので、私たちは劣勢な性質の下に留まるより他はありません(we have no alternative but to ~)。

第8段落
一部の哲学は、私たちが現在経験しているものの他に自然はなく、そしてこのことへの唯一の解決策はそれを無にして(to nullify、取り消す、無効にする)無(void)になることだ、と提議します(to propound)。しかし、私たちは無ではあり得ません。なぜなら、私たちは生命体だからです。

単に体を変えるから私たちは終わるというのではありません(It does not mean that we are finished~)。物質自然の影響から逃れることができる前に、私たちは自分の立場が実際にはどこであるか(where our place actually is)、私たちはどこへ行くべきか(where we are to go)を理解しなければなりません。

もしもどこに行くかを知らないなら、それなら私たちは単に「おお、私たちは何が優性で(何が)劣性かを知らない。私たちが知っているのはこれだけだ、だからここに留まって朽ちよう(to rot、腐る)」と言うでしょう。しかしバガヴァッド・ギーターは私たちに優性なエネルギー、優性な性質に関する情報を与えます。

第9段落
クリシュナがお話しになることは、主は永遠のためにお話しになります(What Krishna speaks, He speaks for all eternity. 訳注:クリシュナのお話は永遠です)。それは変わりません。私たちの現在の職業が何であるか、あるいはアルジュナの職業が何であったかは関係ありません―――私たちはただ、自分の意識を変えなければならないだけです。

現在では、私たちは自己の利益(self-interest)という意識によって導かれていますが、私たちは自分の本当の自己利益が何であるかを知りません。実際は私たちは自己利益を持たず、そうではなく感覚の利益を持っています。

何であれ私たちがしていることは、私たちは感覚を満足させるためにしています。変えられなければならないのは、この意識です。その代わりに、私たちは自分の本当の自己利益―――クリシュナ意識を植えつけなければなりません(to implant)。

第10段落
これはどのようにしてなされるでしょうか?私たちの人生のすべての歩みにおいて(in every step、常に)クリシュナ意識になることは、どのようにして可能でしょうか?実際にはクリシュナはそれを私たちにとって(for、~のために)非常に容易になさいます。
(サンスクリット引用)

「おお、クンティーの息子(アルジュナ)よ、私は水の味、太陽と月の光、ヴェーダのマントラの中のオームの音節です。私はエーテルの中の音であり、人の中の能力です。」(Bg. 7.8)

第11段落
この節において、シュリー・クリシュナは、私たちがどうやって人生のすべての場面(stages)において完全にクリシュナ意識になることができるかを描写なさっています。すべての生命体は水を飲まねばなりません。水の味はとてもおいしい(nice)ので、喉が渇いているとき、渇きを癒せるのは水しかないように見えます(when we are thirsty nothing but water seems to do)。

どの製造業者も、水の純粋な味を作り出すことはできません。こうして私たちは水を飲むときクリシュナ、すなわち神を思い出すことができます。誰も人生において毎日水を飲むことを避けることはできません。そのため、神意識はそこにあります―――私たちはどうやって忘れることができるでしょうか?

第12段落
同様に、何らかの光があるとき、それもまたクリシュナです。霊的な天空におけるもともとの光輝、ブラーマジョティは、クリシュナの体から放射します。この物質の世界は覆われています。物質的な宇宙の本質的な性質(the very nature)は、私たちが夜に経験する闇です。

それは太陽によって、月の反射された光によって、そして電気によって人工的に照らされています。この光はどこから来ているのでしょうか?太陽はブラーマジョティ、すなわち霊的な世界の明るい光輝によって照らされています。霊的な世界では、太陽、月、あるいは電気の必要はありません。

なぜなら、そこではすべてはブラーマジョティによって照らされているからです。しかしこの地球上では、私たちはいつであれ、太陽からの何らかの光を見るときにクリシュナを思い出すことができます。
(an address to God)
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こんにちは。第3章の翻訳が途中までできました。この本はまだ第5章まであるし、今年中に済ませることはできませんでしたが、まあいいでしょう。毎晩YouTubeで笑点を見ていなければもっと進むのですけれど。。。ともあれ、今年も辛抱強くお待ちくださいまして、ほんとうにありがとうございました。もう少しでカナダでも年が明けます。闇に浮かぶ地球を太陽が照らし、その循環を朝と呼び、新年と呼んでありがたがっていますが、せめて自分が闇の中にはまり込んでしまっていることを覚えていたいものです。来年が皆様にとってますます永遠の光を希求する年となりますよう。

葉子
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by ammolitering4 | 2014-01-01 13:24 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(0)