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第2章 第19段落途中まで

第10段落
このことに関して、聖なる町への巡礼の旅に出た泥棒の話があり、途中で彼と他の巡礼者たちは宿屋で一晩泊まって休むために歩を止めました。盗む癖があったので(being addicted to stealing)、泥棒は他の巡礼者たちの荷物を盗む計画を立て始めましたが、彼は考えました。

「私は巡礼の旅に出ている。だから、私がこの荷物を盗むのは正しい(appropriate)ようには見えない。いや、私はそれをすまい(No, I shall not do it)。」それでも、習慣によって、彼は荷物を触らずにはいられませんでした。

そのため彼は、ある人の袋を取り上げて他の場所に置き、そしてそれから別の人の袋を取ってそれを他の所に置きました。彼は一晩中たくさんの袋を様々に置き換えて過ごしましたが(placing different bags in different places)、良心が彼を苦しめたので、彼はそれらから何も取ることができませんでした。

朝、巡礼者たちが目覚めたとき、彼らは自分の袋を探して辺りを見て(looked around for~)、それを見つけることができませんでした。大きな声が上がり(there was a great row、rowは驚きや怒鳴り声などの騒々しさを指す)、そしてやがて、一つ、また一つ、彼らは袋を様々な場所で見つけ始めました。

それらがすべて見つかったあと、泥棒は説明しました。「皆さん、私は泥棒を生業としています(I am a thief by occupation)。夜に盗む習慣があるので、私は皆さんの袋から何か盗みたいと思いました。しかし、私はこの聖なる場所に向かっているので、盗むことは可能ではないと考えました。

そのため私は荷物を置き換えたかもしれませんが(I may have rearranged)、どうか許してください。」これが悪い習慣の特徴です。彼はもはや盗みを働きたくありませんが、習慣があるので、時として彼はそうします。

そのためクリシュナは、自分の不道徳な習慣から離れて(to refrain from ~)クリシュナ意識において発達する決心をした者は、たとえ過去の習慣あるいは偶然によって自分の欠陥に負ける(to yield to his fault)としても、サードゥーであると考えられる、とおっしゃいます。次の節において、私たちはシュリー・クリシュナがこうおっしゃるのを見ます(~は~とおっしゃいます)。

(サンスクリット引用)

「彼は素早く正しく(righteous)なり、永続的な平和を得ます。おお、クンティーの息子よ、私の献身者は決して滅びないと、高らかに宣言しなさい(declare it boldly that)。」(Bg 9.31)

第11段落
人がクリシュナ意識を決意したので(to commit himself to)、シュリー・クリシュナによってここに、ごく短い間に彼は聖人的になると宣言されています(to proclaim)。(訳注:~は、~を決意すると人は~になる、と宣言なさいます。)

人は扇風機のコンセントを抜くかもしれず、そして扇風機は電源を抜かれても動き続けるかもしれませんが、扇風機はすぐに止まる(come to a stop)と理解されます。いったんクリシュナの蓮の御足の庇護の下に入ると、私たちは自分のカルマ的な活動のスイッチを切り、そしてこれらの活動はそれでも回る(to revolve)かもしれませんが、それらはすぐに消えると理解されるべきです(it is to be understood)。

クリシュナ意識を習慣づける(to take to~)者は誰であれ、良い人になるために別に(independently、それとは別に)努力をする必要はないというのは事実です。すべての良い性質(qualifications)は自動的に来ます。

シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、クリシュナ意識に至った者は同時にすべての良い性質(qualities)を得たのであると述べられています。一方で、もしも人が神意識を持たず、それでも多くの良い性質を持っているなら、彼の良い性質は役に立たない(useless)と考えられます。

なぜなら、彼は望ましくないことをすることから全く禁じられていない(he will not in any way be prohibited from~)からです(訳注:彼を止めるものが何もないからです)。もしも人がクリシュナ意識を持たないなら、彼はこの物質の世界において必ず悪事を犯します。

(サンスクリット引用)

「私の顕現と活動の超越的な性質を知る者は、体を去るとき(upon leaving the body)、この物質世界に再び生まれず、そうではなく(but)私の永遠の住処に至ります、おお、アルジュナよ。」(Bg 4.9)

第12段落
クリシュナがお現れになる目的(mission、使命)は、ここでさらに説明されます。主が何かの目的を持っておいでになるとき、何らかの活動があります。もちろん、神が化身としておいでになるということを信じない哲学者もいます。彼らは、「なぜ神がこの腐った世界に来るべきだろうか?」と言います。

しかし、バガヴァッド・ギーターから私たちは、そうではないと(otherwise)理解します。私たちはいつも、バガヴァッド・ギーターを聖典として読むということを覚えているべきです。そして、何であれバガヴァッド・ギーターにおいて語られていることは受け入れられねばなりません。

そうでなければ、それを読む理由はありません。ギーターの中でクリシュナは、自分は目的を持って化身として来たのだ、とおっしゃいます。そして主の目的に伴って、何らかの活動があります。例えば私たちは、クリシュナはアルジュナの戦車の運転手として活動的であり、そしてクルクシェトラの戦場で非常に多くの活動にいそしまれるのを見ることができます。

ちょうど、戦争があるとき、ある人あるいは国は別の人あるいは国に味方して偏向(partiality、ひいき、偏愛)を見せるかもしれないように、戦場での主クリシュナは幾らかの偏向を見せ、アルジュナに味方なさいます。実際はクリシュナは誰にも偏向してはいませんが(partial)、外的には主は偏向的であるように見えます。しかしこの偏向性は普通の意味で受け入れられるべきではありません。

第13段落
この節において、クリシュナはまた、ご自分の物質世界への降臨は超越的であると指摘なさいます。ディヴャムという単語は超越的を意味します。主の活動は全く(not in any way)普通(ordinary)ではありません。

今日でさえ、インドでは8月の終わりに人々は宗派(sect)を問わずクリシュナの誕生日を祝う習慣があります(are accustomed to~)。ちょうど西洋世界ではイエス・キリストの誕生日がクリスマスに祝われるようなものです。

クリシュナの誕生日はジャンマースタミーと呼ばれ、この節においてクリシュナは「私の生誕」を指してジャンマという単語をお使いになります。誕生があるので、何らかの活動があります。クリシュナの誕生と活動は超越的であり、それは、それらが普通の誕生や活動のようではないということを意味します。

人は、どうして主の活動が超越的なのか(how it is~)と尋ねるかもしれません。主はお生まれになり、種はアルジュナと共に戦いに参加し、主は(校正:he →He)ヴァスデヴァという名の父親とデヴァキーという名の母親と家族をお持ちです―――何が超越的だと考えられるでしょうか?

クリシュナは、エヴァム・ヨ・ヴェッティ・タットヴァターとおっしゃいます―――私たちは主の生誕と活動を正しく(in truth)知らねばなりません。人がクリシュナの生誕と活動を正しく知るとき、結果はテャクトヴァー・デハム・プナー・ジャンマ・ナイティ・マーム・エティ・ソ・ルジュナ―――この物質の体を去るとき、彼は再び生まれず、そうではなく、直接クリシュナのところに行きます。

これは彼が解放された魂になることを意味します。彼は永遠の霊的な世界に行き、喜びと知識と永遠性に溢れた彼の本来の立場に至ります(to attain)。これらすべてが、単にクリシュナの誕生と活動の超越的な性質を正しく知ることによって得られます。

第14段落
普通は、人が体を去るとき、彼はもう一つの体を取らねばなりません(to take up)。生命体の人生(lives)は、単に生命体がその働きに応じて一つの体から別のそれへと衣服を変えること―――魂の転生―――によって続いています。

現在では、私たちはこの物質の体が自分の本当の体であると考えるかもしれませんが、それは衣服のようなものです。現実には、私たちは本当の体、霊的な体を持っています(we do have)。この物質の体は、生命体の本当の霊的な体に比べると表面的です。

この物質の体が古くなって擦り切れると(old and worn out)、あるいは何らかの事故によって使い物にならなくなるとき(rendered useless)、汚れた、あるいは駄目になったスーツを捨てるように(as we might put aside)、私たちはそれを捨てて別の物質の体を取ります。

(サンスクリット引用)

「人が古いものを捨てて新しい衣服を着るように、同様に、魂は古くて役に立たないものを捨てて新しい物質的な体を受け入れます。」(Bg 2.22)

第15段落
初めに、体はエンドウ豆の大きさです。それからそれは育って、赤ん坊、それから子供、少年、若者、大人、そして老人となり、そして最後にそれが役に立たなくなるとき、生命体は別の体に変わります(to change into、着替える)。したがって、体はいつも変化しており、そして死は単に現在の体の究極的な変化です。

(サンスクリット引用)

「体に入った魂がこの体の中で少年時代から青年時代(youth)から老年へと絶え間なく通り過ぎるように(to pass)、魂は同様に死のときに別の体へと移ります(to pass into)。自己を認識した魂は、そのような変化によって惑わされません(bewildered)。」(Bg 2.13)

第16段落
体は変わっていきますが(is changing)、体の中に住んでいる者は同じままです。少年は大人へと育ちますが、体の中の生命体は変わっていません(is not changed)。少年のときにそこにいた(who was there as a boy)自己が去ってしまったというのではありません。

医学は、毎瞬間、物質の体が変わっているということに同意します。ちょうど、生命体はこれによって惑わされないように(bewildered)、悟りを開いた(enlightened)人は体が死のときにその究極の変化をする(to undergo、変化や苦しみを経験する)とき、惑わされません。

しかし、物事をありのままに理解しない者は嘆き悲しみます(to lament)。物質的な状態において、私たちはいつでも単に体を変えています。それが私たちの病気です。私たちはいつも人間に変わるのではありません。私たちは自分の活動に応じて、動物の体、あるいは半神の体に変わるかもしれません。

パドマ・プラーナによれば、840万種の生命があります。私たちは死のときにそのどれでも取る可能性があります(We can take on any of them)。しかしクリシュナは、主の誕生と活動を正しく知る者はこの転生の循環から解放されると約束なさいます。

第17段落
人はどうやってクリシュナの誕生と活動を正しく理解することができるでしょうか?これはバガヴァッド・ギーターの18章において説明されています。

(サンスクリット引用)

「人は献身奉仕によってのみ至高人格をありのままに理解することができます。そして人がそのような献身によって至高主を完全に意識するとき(in full consciousness of~)、彼は神の王国に入ることができます。」(Bg 18.55)

第18段落
ここで再びタットヴァター、「正しく」という単語が使われています。人は献身者になることによって、クリシュナの科学を正しく理解することができます。献身者でない者、クリシュナ意識を求めて努力しない(to strive for)者は、理解することができません。

第4章の初めにおいても、クリシュナはアルジュナに、アルジュナは「私の献身者であり、私の友人」であるからご自分はこのヨガの古代の科学(ancient science of yoga、ヨガという太古の科学)を彼に説明しているのだ、とおっしゃいます。(Bg 4.3)

単にバガヴァッド・ギーターの学究的な研究をする者にとっては、クリシュナの科学は神秘のままで留まります。バガヴァッド・ギーターは、人が単に書店で買って学究だけによって理解することのできる本ではありません。

アルジュナは偉大な学者(scholar)ではなく、ヴェーダ学者(Vedantist)、哲学者、ブラーマナ、また放棄階級者でもありませんでした。彼は家庭人であり、軍人でした。しかしそれでもクリシュナは彼をバガヴァッド・ギーターの受取人として、そして師弟継承の最初の権威者として選びました。

なぜでしょうか?「なぜならあなたは私の献身者だからです」それがバガヴァッド・ギーターをありのままに理解するための資格です―――人はクリシュナ意識にならねばなりません。

第19段落
そして、このクリシュナ意識とは何でしょうか?それは、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ / ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレを唱えることを通して心の鏡から埃を取り除く過程です。

このマントラを唱えることによって、そしてバガヴァッド・ギーターを聞くことによって、私たちは徐々にクリシュナ意識に至ることができます。イーシュヴァラー・サルヴァー・ブーターナーム―――クリシュナはいつも私たちの心臓の中にいらっしゃいます。

個々の魂と超魂はどちらも体の木の中に座っています。個々の魂(ジーヴァ)は木の果実(fruit)を食べており、そして超魂(パラマートマー)は見守っています(to witness)。個々の魂が献身奉仕の過程を始めて徐々に自分のクリシュナ意識を育み始めるとき、内に座っている超魂は、彼が心の鏡からすべての不純物を取りさる(to dust)のを助け始めます。
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by ammolitering4 | 2013-11-26 14:40 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(0)

第2章 第9段落まで

第2章 マントラを唱え、クリシュナを知る方法(The Way of Chanting and Knowing Krishna)

第1段落
ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラマ、ラマ、ハレ、ハレ。これは超越的な音の振動です。それは私たちが心の鏡から埃を洗い清める(to cleanse)のを助けます。

ちょうど、(ニューヨーク市の)二番街には、重交通(heavy traffic)によってすべてのものの上に埃をスス(soot)があるようなものです。私たちの物質的な活動の巧妙な操作(manipulation)によって(私たちが~を巧妙に操作することによって)、たくさんの(a great deal of)埃が私たちの心の透明な鏡の上にたまり、そしてその結果、私たちは物事を正しく(in perspective、全体的な視野で真相を正しく見ること)見ることができません。

この超越的な音(ハレ・クリシュナ・マントラ)の振動は、この埃を洗い流し、私たちが自分の本当の本来の立場をはっきりと見ることを可能にします。私たちが「私はこの体ではない:私は霊魂であり、そして私の状態(symptom、兆候、きざし、病状)は意識である」と理解するようになれば(to come to understand)直ちに、私たちは本当の幸せにおいて自らを確立することができるでしょう(訳注:本当の幸せを確かに感じることができるでしょう)。

私たちの意識がハレ・クリシュナを唱えるこの過程によって浄化されるにつれて、私たちの物質的な悲惨さのすべては消えます。この物質的な世界の上をいつも吹き荒れている(to blaze over ~)火があり、誰もがそれを消そうとしていますが、私たちが自分の純粋な意識に、私たちの霊的な人生に位置しない限り、物質自然の悲惨さというこの火を消せる可能性はありません。

第2段落 
主クリシュナの降臨、すなわち(or)この物質世界での現れの目的の一つは、ダールマを
論述する(setting forth、明らかにする、発表する)ことによってすべての生命体のために(for)物質的な存在の火を消すことです。

(サンスクリット引用)

「いつであれ、そしてどこであれ、宗教的な実践に衰え(decline、衰退、堕落)が、おお、バーラタの子孫よ、そして非宗教の優勢な高まり(predominant rise)があるとき―――そのとき私は降臨します。敬虔な者(the pious)を救い、そして悪人(the miscreants)を滅ぼすために、そして宗教の原則を再確立するために、私は時代ごとに(millennium after millennium)降臨します。」(Bg 4.7-8)

第3段落
この節の中で、ダールマという単語が使われています。この単語は様々に英語に翻訳されています。時としてそれは「信仰(faith、信頼、確信など)」と翻訳されますが、ヴェーダ文献によれば、ダールマは信仰の一種ではありません。

信仰は変わるかもしれませんが、ダールマは変わり得ません。水の液体性は変わり得ません。もしもそれが変わるなら―――、もしも、例えば水が個体になるなら―――それは実際はもはやその本来の立場にありません。それは特定の限定的な(qualifying)状態の下に存在しています。

私たちのダールマ、すなわち本来の立場は、私たちは至高存在の欠かすべからざる小片であるというものです。そしてそのため(this being the case)、私たちは自分の意識を至高存在に適合させる
(to dovetail、ぴったりと合わせる)、あるいは従属させ(to subjugate)なければなりません。

第4段落
この、至高全体(the Supreme Whole)への超越的な奉仕という立場は、物質的な接触によって(due to)誤用されています。奉仕は私たちの本来の立場において絶対的な(implicit、潜在的、内在的、暗示的な)ものです。誰もが従者であり、そして誰も主人ではありません。

誰もが誰か(someone or other、あの人でなければこの人)に奉仕をしています。大統領は国家の首長(the chief executive)であるかもしれませんが、それでも彼は国家に奉仕をしており、そして彼の奉仕がもはや必要とされないとき、国家は彼を捨てます。

自分で「私は自分が見渡す(to survey)すべてのものの主人である」と考えるのは、マーヤー、幻想と呼ばれます。このように、物質的な意識において私たちの奉仕は様々な区分(designations)の下で誤用されています。

私たちがこれらの区分(designations)から自由になるとき、つまり(that is to say)心の鏡から埃が取り去られた(to clear、汚れや曇りを取る)とき、私たちは自分をクリシュナの永遠の従者としての自分の本当の立場において見ることができるでしょう。

第5段落
人は、物質世界における自分の奉仕と、霊的な環境(atmosphere)における自分の奉仕が同じであると考えるべきではありません。私たちは、「おお、解放の後で私はまだ従者になるのだろうか(will I still be a servant)?」と考えて身震いする(to shudder、恐れや嫌悪で震える)かもしれません。

これは、私たちは物質的な世界において従者であるのはあまり楽しく(enjoyable)ないという経験を持っているからですが、超越的な奉仕はこのようではありません。霊的な世界においては、従者と主人の間に違いはありません。

ここ(訳注:物質世界)ではもちろん、区別(distinction)があります。しかし、完全な世界(in the absolute world、絶対的な世界)では、すべてのものが一つです。例えば、バガヴァッド・ギータにおいて私たちはクリシュナがアルジュナの戦車(chariot)の運転手として従者の立場を取ったのを見ることができます。

その(his)本来の立場において、アルジュナはクリシュナの従者です。しかし、振る舞い(behavior)において、私たちは時として主が従者の従者になるのを見ることができます。そのため私たちは、霊的な領域(realm)に物質的な考え(ideas)を持ち込むことのないように注意深くあるべきです。

何であれ私たちが物質的に経験したことは、霊的な人生(life)における物事の歪んだ反映に過ぎません(~ is but ~)。

第6段落
私たちの本来の立場、すなわちダールマが物質の汚染によって悪くなる(to deteriorate、堕落する、劣化する)とき、主ご自身が化身としておいでになるか、あるいはご自分の腹心の(confidential)従者の誰かをお送りになります。

主イエス・キリストはご自分を「神の息子」と呼びました。そしてそのため、(主イエス・キリストは)至高存在の代理人です。同様に、モハメッドは自分を至高主の従者と称しました(to identify himself)。このように、私たちの本来の立場における矛盾(discrepancy、食い違い)があるときはいつでも(訳注:本来の立場に関する理解が衰えたり誤解が生じたりする、というような意味)、私たちに生命体の本当の立場を知らせるために、至高存在が自らおいでになるか、あるいはご自分の代理人をお送りになります。

第7段落
したがって、人はダールマとは作られた信仰(created faith)であると考える間違いを犯すべきではありません。その正しい意味において、ダールマは生命体から全く離され得ません(cannot be divorced)。それは生命体にとって、砂糖にとって甘さが、あるいは塩にとって塩辛さが、あるいは石にとって硬さがそうであるようなものです(It is to the living entity what sweetness is to sugar, or ~)。

それは決して(in no case)切り離され得ません。生命体のダールマは奉仕することであり、そして私たちは、すべての生命体は自分自身あるいは他者に奉仕をする傾向を持っているということを簡単に見ることができます。

どうやってクリシュナに奉仕をするか、どうやって自分を物質主義的な奉仕から解放するか(to disentangle、絡まっているのをほどく)、どうやってクリシュナ意識を得て(to attain)、そして物質的な区分(designations)から自由になるかが、すべてバガヴァッド・ギーターにおいてシュリー・クリシュナによって科学として教えられています。

第8段落
上に引用された、パリトラーナーヤ・サードゥーナームで始まる節の中のサードゥーという単語は、聖者あるいは聖人的な人(a holy man or a saintly person)を指します。聖人的な人は忍耐強く、誰もに非常に親切で、すべての生命体の友であり(a friend to ~)、誰の敵でもなく、いつも温和(peaceful、平穏、平和的など)です。

聖者には26の基本的な性質(qualifications、資格、能力)があり、そしてバガヴァッド・ギーターにおいて私たちは、シュリー・クリシュナご自身が次の裁断(verdict、判決、決定、意見、審判)を与えるのを見ます。

(サンスクリット引用)

「たとえ人が最も忌まわしい振る舞いをしても(to commit ~ actions)、もしも彼が献身奉仕に携わっているなら、正しく位置しているので、彼は聖人的であると考えられます。」(Bg 9.30)

第9段落
俗的な水準(platform)においては、ある人にとっての道徳(morality)は別の人にとっての不道徳(immorality)であり、ある人にとっての不道徳は別の人にとっての道徳です。ヒンズー教の概念によればワイン(訳注:ブドウ酒に限らず酒類全体を指すこともある)を飲むことは不道徳ですが、他方で西洋世界ではワインを飲むことは不道徳とは考えられておらず、一般的なことです。

そのため、道徳性は時、場所、状況、社会的な立場その他によって変わります(dependent)。しかし、道徳性と不道徳性の感覚はすべての社会にあります。この節においてクリシュナは、たとえ人が不道徳な活動にいそしんでいても、同時に完全にクリシュナ意識であるなら、彼はサードゥー、すなわち聖人であると考えられる、と指摘なさいます。

言い換えると(校正:”.” →“,”)、ある人は彼の過去の関わりによって何らかの不道徳な習慣を持っているかもしれませんが(although a person may have ~)、もしも彼が完全にクリシュナ意識であるなら(engaged fully in ~)、これらの習慣は重要であるとは考えられません。

どのような場合であれ(whatever the case)、もしも人がクリシュナ意識になるなら、彼は徐々に浄化され、サードゥーになるでしょう。人がクリシュナ意識を遂行することにおいて進歩するにつれて、彼の悪い習慣は消え(to diminish)、そして彼は聖人的な完成に至ります(to attain to)。
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by ammolitering4 | 2013-11-21 15:13 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(0)

第1章後半

第8段落
私たちはヴリンダーヴァンの牛飼いの娘たちとのクリシュナのラーサ・リーラーのことをしばしば耳にしました。それはこれらの物質的な体の間で行われる(to take place)普通の触れ合い(exchange、交換)のようではありません。

むしろ(Rather)、それは霊的な体を通した感情(feelings、気持ち、感覚)の交換です。これを理解するためには、人はある程度(somewhat)知性的でなければなりません。なぜなら、本当の幸せとは何かを理解することができない愚かな者は、この物質的な世界の中に幸せを求める(to seek happiness in~)からです。

インドには、サトウキビとは何かを知らず、それは噛むととても甘いと教えられた者の話があります。「おお、それはどのように見えますか?(What does it look like?)」と彼は尋ねました。「それはちょうど竹の節(bamboo rod)のように見えます」と誰かが言いました。

そのため、愚かな者は様々な竹の節を噛み始めました。どうして彼はサトウキビの甘さを経験し始めることができるでしょうか?同様に、私たちは幸せと喜び(happiness and pleasure)を得ようとしていますが、私たちはこの物質的な体を噛むことによってそれらを達成しようとしています(to try for)。

したがって、何の幸せも喜びもありません。一時的には(for the time being)少々の喜びの感覚(some little feeling of pleasure)があるかもしれませんが、それは本当の喜びではありません。なぜならそれは一時的だからです。

それは、空で光っているのを見ることもある(we may see)稲妻(a show of lightning)のようなものです。それは一時的には稲妻のように見えるかもしれませんが、本当の稲妻はそれを超えたところにあります。幸せとは何かを本当には知らないので、人は本当の幸せから逸れます。

第9段落
自分を本当の幸せにおいて確立する過程は、このクリシュナ意識の過程です。クリシュナ意識によって、私たちは徐々に自分の本当の知性を育むことができ、そして霊的な発達をするに伴って自然に霊的な幸せを味わうことを楽しむことができます。

霊的な幸せを味わい始めるにつれて、私たちはそれに比例して物質的な幸せを放棄します。完全真理を理解することにおいて発達するにつれて、私たちは自然にこの偽りの幸せから離れ始めます。もしもどうにかして(somehow or other、どういうわけか、どうにかこうにか、など)人がそのクリシュナ意識の水準に上げられるなら、その結果は何でしょうか(訳注:どんな結果になるでしょうか)?

(サンスクリット引用)

「これを得ると、彼はそれに優る得はないと考えます。そのような立場に位置すると、人は決して、大変な(greatest、”the”を伴わないので、この場合の”est”は比較級ではない)困難の只中にあってさえ揺るぎません。」(BG 6.22)

第10段落
人がその水準に達するとき、他の達成(achievements)は取るに足らないように見えます。この物質の世界において、私たちは非常に多くのものを得ようとしています―――富、女、名声、美、知識、など―――しかし、クリシュナ意識に位置すれば直ちに、私たちは「おお、他のどの達成も、これより優れてはいない」と考えます。

クリシュナ意識は非常に強い(potent、効果や効能が強い)ので、ほんの少し味わうこと(a little taste)が(訳注:ほんの少し味わっただけでも)人を最も大きな危険から救うことができます。人がクリシュナ意識の味を味わい始めるにつれて、彼は他のいわゆる楽しみと獲得(attainments)を無味乾燥(flat and tasteless)だと見なし始めます。

そしてもしも人がクリシュナ意識にしっかりと位置しているなら、最も大きな危険は(訳注:~も)彼をかき乱す(to disturb、平穏を妨げる)ことはできません。物質の世界は危険の場所(place of danger)なので、人生には非常に多くの危険があります。

私たちはこれに目をつぶりがちであり、そして私たちは愚かなので、これらの危険を調整しようとします。私たちは人生において多くの危険な目に遭う(to have many dangerous moments)かもしれませんが、しかしもしも自分をクリシュナ意識において訓練し、自分を家へ、至高神のもとへ帰るように準備しているなら、私たちはそれを気にしないでしょう。

私たちの態度は、それなら、「危険はやって来ては去る―――だから、起きるに任せよう」というものになるでしょう。人が物質主義的な水準にあって、やがて滅びる要素でできている肉体(the gross body)を自分だと思っている(to identify with)限り、この種の調整をするのは非常に困難です。

しかし、人がクリシュナ意識において発達すればするほど、彼は身体的な区分(designations、日本人である、女性である、仏教徒である、などのアイデンティティー)とこの物質的な絡まりからもっと自由になります。

第11段落
シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、物質的な世界は大変大きな海に例えられます。この物質的な宇宙の中には、空間の中に無数の(millions and billions)惑星が浮かんでおり、そしてそこに幾つの大西洋と太平洋があるか、想像してみてください(we can just imagine)。

事実、物質的な宇宙全体が悲惨さの巨大な海、誕生と死の海になぞらえられます。この無知の大海を横切るために、強い船が必要です。そして、その強い船がクリシュナの蓮の御足です。私たちは直ちにその船に乗るべきです。

私たちは、クリシュナの足はとても小さいと考えて躊躇すべきではありません。宇宙全体が単に主の脚(leg)に寄りかかっているのです(to rest on)。主の御足に依り頼む者にとって、物質宇宙は子牛の足跡にできた水溜りよりも大きな(significant)ものではないと言われます。そのような小さな水溜りを横切るのは、確かに難しくありません。

(サンスクリット引用)

「実に、これが物質的な接触から生じるすべての悲惨さからの本当の自由です。」(BG 6.23)

第12段落
私たちは、統御されない感覚のため、この物質の世界の中で絡まっています(entangled、動きが取れなくなっている、巻き込まれている)。ヨガの過程は、これらの感覚を統御するためにあります。もしも何とかして(somehow、どういうわけか)私たちが感覚を制御することができるなら(can manage to、何とかやってのける)、私たちは自分の顔を本当の霊的な幸せに向けて、人生を成功させることができます。

(サンスクリット引用)

「人は、逸れることのない決意と信仰(faith、信頼)をもってヨガの実践に携わるべきです。人は、例外なく、偽りの自我から生じるすべての物質的な欲望を放棄し、そしてそのようにして(and thus)、心によって、すべての側面におけるすべての感覚を統御すべきです。

徐々に、一歩一歩、完全な納得(conviction)をもって、人は知性によって(by means of)恍惚(trance)に位置するようになるでしょう(should)。そして、そのようにして心は自己(the Self、偽りでない本当の自己)だけに定まり、他の何も考えないでしょう(should)。

どこであれ、心がその落ち着きなく不安定な(flickering and unsteady、どちらも同じような意味)性質のためにさまよって行くところから(from whatever and wherever the mind wanders)、人は確かにそれを引き戻し、そしてそれを自己(the Self)の統御のもとに戻さねばなりません。」(BG 6.24-26)

第13段落
心はいつもかき乱されています。それは時としてこちらに行き、時としてあちらに行きます。ヨガの実践によって、私たちは文字通り心をクリシュナ意識に引きずり(こみ)ます。心は、クリシュナ意識から非常に多くの外部の対象(exterior objects)に逸れます。

なぜなら、記憶にないほどの昔から、何度も生まれ変わっても(life after life)、それが私たちの習慣(practice、実践)であるからです。これによって、人が自分の心をクリシュナ意識に定めようとするとき(to fix、固定する)、最初は大変な困難があるかもしれませんが、これらの困難はすべて乗り越えられ得ます。

第14段落
心が一つの考えから別の考えへと行くのは、心がかき乱されていて(agitated)、クリシュナに定まっていないからです。例えば、私たちが仕事にいそしんでいるとき、10年、20年、30年、あるいは40年前に起こった出来事の記憶が突然、何の明らかな(apparent)理由もなく私たちの心に来る(訳注:浮かぶ)かもしれません。

これらの考えは私たちの潜在意識から来て、そして、それらがいつも浮かび上がっている(to rise)ので、心はいつもかき乱されています。もしも私たちが湖や池をかき乱すなら、底の泥がすべて表面にやってきます。同様に、心がかき乱されているとき、何年もの間潜在意識に収められていた非常に多くの考えがそこから上がってきます。

もしも私たちが池をかき乱さないなら、泥は底に沈むでしょう。このヨガの過程は、心を鎮めてこれらすべての考えが底に沈むようにさせる(to allow ~ to settle)方法です。この理由により、心がかき乱されるのを防ぐために守るべき非常に多くの規律や規則があります。

もしも私たちが規律と規則を守るなら、徐々に心は統御の下に来るでしょう。非常に多くの禁止事項(don't's)と非常に多くの順守事項(do's)があり、もしも人が心を訓練することに関して真剣であるなら、彼はそれらに従わねばなりません。

もしも彼が気まぐれに振舞うなら、心が統御される可能性はあるでしょうか(what is the possibility)?心がついにクリシュナのことだけを考えるところ(point)まで訓練されたとき、それは平和を得て、非常に平穏(tranquil)になるでしょう。

(サンスクリット引用)

「その心が私に定められたヨギーは、必ず(verily、「確かに」を意味する古い表現)最高の幸せを得ます。彼が自分をブラーマンであると認識することの力によって(By virtue of his identity with Brahman)、彼は解放されます。彼の心は平和に満ち、彼の熱情は鎮められ、そして彼は罪から解放されます。」(BG 6.27)

第15段落
心はいつも幸せのための対象(objects)を作り出しています(to concoct、でっち上げる)。私はいつも「これは私を幸せにするだろう」、あるいは「あれは私を幸せにするだろう。幸せはここにある。幸せはあそこにある」と考えています。このようにして、心は私たちをどこにでも(anywhere and everywhere)連れて行っています。

それはまるで、私たちが馬勒(「ばろく」。手綱、くつわなどの総称)をつけていない(unbridled)馬の後ろの馬車に乗っているようなものです。私たちは自分がどこに向かっているのかについて何の力も持たず、恐ろしい思いで座って、どうすることもできずに(helplessly)見ることができるだけです。

心がクリシュナ意識の過程に携われば直ちに―――特に、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ/ ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレを唱えることによって―――そうすれば、心の荒れ馬たちは徐々に私たちの統御の下に来るでしょう。

私たちは、一時的な物質の世界の中で幸せを求める無駄な(vain)探求において、落ち着きのない、荒れ狂った(turbulent)心が私たちを一つの対象から別のものへと引きずらないようにするために(in order to keep ~ from)、人生の全ての瞬間、クリシュナへの奉仕に携わらなければなりません。

(サンスクリット引用)

「自己において安定しており(steady in the Self)、すべての物質的な汚染から自由にされたため(being freed)、ヨギーは至高の意識との接触において(in touch with)幸せの最高の完成の水準に至ります。」(BG 6.28)

第16段落
クリシュナは、主に献身する者にとって、後援者(patron、パトロン、保護者)として奉仕します。人が困難にあるとき、彼の後援者が彼を救います。バガヴァッド・ギーターに述べられているように、クリシュナはすべての生命体の本当の友であり、私たちは主との私たちの友情を回復しなければなりません。

この友情を回復するための方法がクリシュナ意識の過程です。クリシュナ意識の実践(practice)によって、俗世の情熱的な熱望(hankering)はやがて止まるでしょう(will come to stop)。この情熱的な熱望が私たちをクリシュナから離れた(divorced)ままにします。

クリシュナは私たちの内におられ、私たちが主のほうを向くのを待っておられますが、私たちは情熱的に物質的な欲望の木の果実を食べるのに忙しくしています(too busy、忙しすぎて主のほうを向いていない)。これらの果実を楽しむこの情熱的な衝動(compulsion)が止まらねばならず、そして私たちはブラーマン―――純粋な霊としての私たちの本当の正体(identity、本性、身元、アイデンティティー)に位置しなければなりません(to situate ourselves in、純粋な霊という本来の自己認識を確かなものとしなければなりません)。

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例によってのんびり進んでおります。このところ私の人生には各種の危機と困難が、というほどでもありませんが、小規模な艱難辛苦が降りかかっています。自業自得という側面もなきしもあらず、という事情はありますものの、「来るなら来なさい」という大らかな心構えになるのはなかなか難しいものです。どうしよう~とおたおたしてしまうのが悲しい現実です。。。


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by ammolitering4 | 2013-11-13 15:52 | 「クリシュナへの途上」 | Comments(2)