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第1部 第9章 最後まで

第26段落
カルマ・ヨガについては何をか言わんや。八重のヨガの下位の(lesser)修行法においてさえ、ヨギーがサマーディーという目的地に至る道で為すいかなる進歩も、たとえ彼が一度の人生に究極の目的地に至れなかったにしても(although he many not reach~)無駄にはなりません。次の人生(next life、来世)で彼は進歩を続けます。

対照的に、結果を求めて働く者が死ぬとき、何であれ彼が得た富と教育は、それらを得るために為された努力と共に、すべてがゼロ(null、無効)で無(void、虚無)になります。純粋なカルマ・ヨギー、すなわち献身者に関して言えば、彼の献身的な活動はすべて心と体の水準を超えています。

それらは魂と至高の魂(the Supreme Soul)に関わっており、そしてそのため彼の活動は彼の純粋で永遠な魂の富になります。ちょうど魂が決して体の崩壊と共に滅ぼされることがないように、そのためこの献身奉仕という(of)富は決して価値を失いません。

そのためバガヴァッド・ギーターは、カルマ・ヨギーはいつも自分の魂の利益と上昇のために働く、そしてこの努力とその結果は今世と来世において恒久的な霊的な財産であり続ける、と述べます。これらの霊的な財産は、決して失われません(to liquidate、倒産して資産を整理する)。

主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(6.40)においてこうおっしゃいます。「プリターの息子よ、縁起の良い(auspicious)活動に携わる超越主義者は、この世界においても霊的な世界においても、破滅を迎える(to meet with destruction)ことがありません。善を為す者は、我が友よ、決して悪によって打ち負かされません。」

第27段落
人間は二つの部類に分けられます。法に従う者たちと法を破る者たちです。自分の感覚を満足させることだけを気にして規律(discipline)や法律に従わない者は、全く統御されておらず、動物のようです。そのような統御されていない人が文化的であろうがなかろうが、教育があろうがなかろうが、弱かろうが強かろうが、彼の行為はいつも動物的(bestial、獣のような、野蛮な)です。彼らは決して誰にも利益を与えることはできません。

第28段落
法に従う人間は、さらに3つの部類に分けられます。カルミー、すなわち結果を求めて働く人々、ジニャーニー、すなわち知識を探し求める人々、そしてバークタ、すなわち献身者です。カルミーは二つの区分に分けられます。サカーマ・カルミー、すなわち自分の労働の結果を楽しみたい結果を求めて働く人々、そして、行為の結果を放棄するニシュカーマ・カルミーです。(訳注:文字の区切りが分かりにくいですが、「結果を求めて働く人々」が一つの区切りです。)

サカーマ・カルミーは、取るに足らない、つかの間の幸せを貪欲に追い求めます。彼らは自分の俗的な活動において進歩し、来世で(in the life hereafter)天国的な惑星を楽しみますが、その楽しみのすべては一時的です。したがって、魂の本当の利益は彼らを避けます(to evade)(訳注:~は得られません)。

第29段落
物質的な呪縛の消散(dissipation)の後でのみ来る、本当の永遠の幸せを得ることは、魂にとって本当の利益です。そのため、この至高の目的地---永遠の超越的な幸せ---を魂が追い求めることに繋がらないあらゆる道は、役に立たないと考えられます。

永遠の喜びが儀式的な活動(カルマ・カーンダ)の目的地であるとき、そのときそれらはカルマ・ヨガに変わります(transformed)。カルマ・ヨガの実践を通して、心は物質的な汚染から清められ(purified of~)、そして人は完全存在に関する(of)知識を得ます。

その後、人は完全存在への(on)瞑想に位置するようになり、そして最終的に人はバークティ、純粋な献身奉仕に至ります。カルマ・カーンダの過程において、人は一時的に(for a time)身体的な喜びを放棄することが勧められます。そのため、カルミーは時として苦行者(ascetic、禁欲主義者)と呼ばれるかもしれません。

それでも、カルミーがどれだけ苦行を行おうと、究極的にこの苦行は感覚的な喜びのもう一つの形です。なぜなら、それがその究極の目的地だからです。悪魔もまた、自分の力を増すために苦行を行いますが、それはすべて単に自分の感覚を楽しむためです。

生命体がいったん感覚的な喜びを追い求める段階を超越すると、彼は簡単に、全ての点において(in all respects)善(good)であるカルマ・ヨガの段階に来ます。そのような人だけが社会に利益を与えることができます。

第30段落
カルマ・ヨギーがこの人生(this lifetime)において為す霊的な発達は完全なままで(intact、損なわれない)留まり、そして彼は来世においてその時点(point)から続けます。バガヴァッド・ギーター(6.43)において主クリシュナはおっしゃいます。

「そのような生を受けて、彼は前世の神聖な意識を蘇らせ、そして再び完全な成功を得るためにさらなる発達をしようとします、おお、クルの息子よ。」次の生において、不成功に終わったヨギーは敬虔なブラーマナあるいは裕福な商人の家庭に生まれるかもしれません。

ヨガにおける失敗について語るとき、私たちはカルマ・ヨギー、デャーナ・ヨギー、そしてジニャーナ・ヨギーを指しています。これらの道を辿る者の中で、カルマ・ヨギーは純粋な献身者になるのに一番近いところにいます。彼は自分の活動を至高主への奉仕に捧げたからです。徐々に、このように活動することで、彼はバークティ・ヨギーになります。そのようなヨギーは最も高い階級にあり、そして彼は他のすべてのヨギーを教え導く資格があります(fit to instruct)。

第31段落
バガヴァッド・ギーター(6.47)で主クリシュナはおっしゃいます。「そして、すべてのヨギーの中で、いつも私の中に留まり、大いなる信仰(faith)があり、自分の中で私のことを考え、そして私に超越的な愛情ある奉仕をする者---彼はヨガにおいて私と最も親密に結びついており、そしてすべての者のなかで最も高い者です。それが私の意見です。」

第32段落
結果を求めて働く者は、ヨギーのうちには数えられ得ません。本当のヨギーは、カルマ・ヨギー、ジニャーナ・ヨギー、アシュターンガ・ヨギー、そしてバークティ・ヨギーです。事実としては、彼らは異なる名前を与えられてはいますが、同じです。ヨガの過程は、人が完全真理という最終的な目的地にむけて徐々に上がるハシゴのようなものです。

ニシュカーマ・カルマ、すなわち自分の労働の結果を放棄することは、このハシゴの最初の一段です。それに知識と禁欲が加えられるとき、それはジニャーナ・ヨガ、このハシゴの第二の段になります。そして至高存在への瞑想がジニャーナ・ヨガに加えられるとき、第三の段階、すなわちアシュターンガ・ヨガに至ります。

最後に、アシュターンガ・ヨガとともに至高主への愛情ある献身奉仕が実践されるとき、それはバークティ・ヨガに変わります。この段階的な過程全体がヨガです。ヨガという主題の正確で明瞭な叙述のために、4つの段階のすべてが別々に説明される必要があります。

人類にとって最良のものを望む者は、ヨガの道を辿ります(to take to、習慣づける)。ヨガにおいて発達するための過程は、まず、決意と、それぞれの段階での修行を厳しく遂行することを必要とします。人がある段階にしっかりと位置しているとき、彼はそれから次の(next higher)段階に自らを上げるために、その段階の修練(practices)への執着と固守を放棄(to relinquish)しなければなりません。

何らかの理由で頂点に至ることができず、4つの段階のどこか一つで止まってしまった(to get stuck)者は、その特定の段階の名称を得ます。そうして、カルマ・ヨギー、ジニャーナ・ヨギー、アシュターンガ・ヨギー、そしてバークティ・ヨギーがあるのです。

主クリシュナはアルジュナに、ご自分、至高主に愛情ある献身奉仕を捧げる者はすべてのヨギーの中で最も高い者であり、アルジュナはそのため、そのようなバークティ・ヨギーになろうと努力すべきである、とお教えになります。

第33段落
段階的な、順を追った霊的な道は、物質的な世界における順を追った発達と同じではありません。俗的な過程では、発達の規則は厳密であり、飛び越えられ得ません。もしも人が大学で博士号を得たいと望むなら、彼は小学校の段階から始めて徐々に上へ向かって努力せねばなりません。

その前の学校教育無しで直接大学に行くことは不可能です。しかし、霊的な人生では、厳密な規則があるにも関わらず、至高主の恵み(grace)によって、人は多くの中間的な段階を飛び越え、頂点、すなわち「博士号」という段階に至ることができます。

人はこの神聖な恵みを、至高主との親密で絶え間ない関わりによって得ることができます。そしてそのような主との親密な関わりは、至高主の純粋な献身者との内密な関わり(confidential exchange)を通してもたらされます(to come about)。私たち一人一人は、至高主と親密に、そして永遠に関係しています。しかし、マーヤーの悪い影響によって、私たちは主との自分の関係を忘れてしまいました。

第34段落
生命体は主の息子のようなものであり、そしてそのため彼らは自分の裕福な父親の巨大な富の正当な継承者です。しかし、前世で犯した罪への反応のために(because of)、彼らは家を持たず、厳しい貧困に苦しみながらさまよっています。

生命体が苦しんでいるというのは誰の目にも明らかです。しかし、彼らは自分の裕福な父親が誰であるか、あるいは自分の価値ある遺産を受け取る(to reclaim、取り戻す)ためにどこに行けばよいのかを知りません。正しい知識無くして、彼らは無駄に(in vain、徒労に終わる)貧困から逃げ出そうとしています。

貧しい物乞いのように目的もなくさまよいながら、彼らは自分を助けてくれると約束する多くの者たちに出会いますが、最後にはそれらの助っ人たちは自らも物乞いであることが分かります。これらの見知らぬ者たちの中の2~3人は豊かで繁栄しているように見えますが、彼が出す指示は父の家には至りません。

そしてそのため、生命体の貧困には終わりがありません。豊かな見知らぬ人々は、カルマ、ジニャーナ、デャーナなど多くの道を勧めますが、貧困という問題は解決されないままです。生命体は、至高主への献身奉仕の科学を学んで実践することによってのみ、貧困から抜け出すことができます。

至高の人格神でありすべての化身の源であるチャイタンニャ・マハープラブは、プラヤーガ(アッラハバッド)でシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーに献身奉仕の科学を説明しました。これらの教えは、すべての人類にとって教えの至宝(crest jewel)です。

シュリー・チャイタンニャ・チャイタームリタ(マデャー19.151)において、主はおっしゃいます。「自分のカルマに応じて、すべての生命体は宇宙全体をさまよっています。一部の者は上位の惑星系に上げられており、別の者たちは低位の惑星系に下がります。

無数の(many millions)さまよう生命体の中で、非常に幸運な者は主クリシュナの恵みによって本物の霊的指導者と関わる機会を得ます。主クリシュナと霊的指導者の両方の慈悲によって、そのような人は献身奉仕のつる草の種を受け取ります。」

第35段落
主クリシュナの慈悲によって、この献身の種はバガヴァッド・ギーターの中で得られます。この献身の種を受け取ることのできる者だけがバガヴァッド・ギーターの解説を理解することができます。そうでなければ、単にバガヴァッド・ギーターを繰り返し読むこととその教えを議論することは、何らの結果も生じさせません。

第36段落
バガヴァッド・ギーターにおいて、主クリシュナご自身がご自分に関する真理を明かされます。普通の、命に限りのある者が自伝を書くとき、彼は多くの賞賛を受け取ります。しかし、至高主がご自分についてお書きになるとき、私たちは不幸にして主のお言葉を完全に信じません。

さらに、私たちは主の文章の中の極めて重要な(cardinal)事柄を見落とし、あまり重要でない(lesser)主題について、でっちあげた含意(connotation)と意味(meaning)を与えることでそれらを拡大しようとして、つまらない議論をします。

この実践はあまりの不条理さ(absurdity、馬鹿らしさ、愚かさ)にまで引き伸ばされているので、もともとの意味が失われ、一方に傾いた(lopsided)結論が読者から嘲笑だけを惹き付けます(訳注:馬鹿馬鹿しいまでに歪んだ拡大解釈がなされているので、本来の意味は失われて一方的な結論が出され、読む人に嘲笑される結果となっています)。

バガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナは、明解に(unequivocally)、ご自分が至高の完全真理であり、ご自分に愛情ある献身奉仕を捧げることがすべての者の義務であると宣言なさいます。バガヴァッド・ギーターは、これらの二つの主要な点を説明するという唯一の目的のために明かされました。

それらを理解する者は、初心者の献身者として霊的な人生を始める資格があります。シュラーッダー、すなわち信仰(faith)は、霊的な人生における最初の必修事項であり、初心者の献身と同義であると描写されています。このため、シュリー・チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー22.62)にはこう述べられています。

「クリシュナに超越的な愛情ある奉仕を捧げることによって、人は自動的にすべての補助的な活動を行います。献身奉仕の遂行にとって好ましい、この揺るぎない(confident、確信した、自信に満ちた)堅固な信仰は、シュラーッダーと呼ばれます。」

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以上で第一部を終わります。第2部は、、、またそのうち忘れた頃にお届けいたします。。。どうぞ気長にお待ちくださいませ。
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by ammolitering4 | 2013-08-28 15:16 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第1部 第9章 25段落まで

第12段落
このように振舞う人は次第に物体から離れ、主クリシュナへの献身奉仕に執着するようになります。こうして彼らは自分の心の鏡を清め、物質的な存在の山火事を消し、そして自分のもともとの霊的な立場に位置するようになることができます。

彼らは完全存在の非人格的な認識よりもはるかに高い認識の水準に存在します。なぜなら、彼らはいたずらに(vainly、徒労に終わる様子。うぬぼれた様子を表す意味もある)至高存在と同化しようとすること、そして主の完全な立場を奪おうとすること、という汚染から自由だからです(訳注:~や~などの邪な考えを持たないからです)。

彼らは決してこの意識の段階から落ちることがありません。自分自身の超越的な自己認識に完全に没頭しているので、彼らは自分の感覚の完全な主人です。彼らは、もしもそうしたいと思うのであれば、この宇宙を支配するための完璧な人々です(訳注:~するのにもっともふさわしい人々です)。

そして、彼らだけがすべての人に幸運をもたらします。しかし、制約された魂たちはどんな方法でも世界に利益を与えることはできません。浄化された稀な魂は、絶え間なくカルマ・ヨガを行い、いつも解放された状態にいます。

バガヴァッド・ギーター(5.7)にはこう述べられています。「献身において働く者、純粋な魂であり、自分の心と感覚を統御する者は、すべての人にとって友であり(dear to ~)、すべての人は彼の友です(dear to ~)。いつも働いているにも関わらず、そのような人は決して呪縛されません。」

第13段落
純粋な魂のそれと全く反対の在り方で生き、行動する者、いつもカルマ・ヨガにおいて行動している者たちがいます。そのような結果を求めて働く人々は、至高主、クリシュナと何の関わりも持ちません。したがって、彼らは自分の心から物質的な汚染を拭い去る(to cleanse)ことができません。

彼らは自分の感覚的な衝動の奴隷であり、思いつきに従って感覚を満たすことに自分の時間を使います。それでも彼らは恥知らずにも、自分のすべての行動は至高主によって促されている(to prompt)と言います。ペテン師であり、無神論者であるため、自分の非敬虔な行いが受容されるように(may be acceptable)、彼らはこのように話します。

そして、こうして彼らは世界に甚だしい(untold)不運と惨事(calamity、大きな不幸)をもたらします。対照的に、純粋な、自己を認識した魂は、常に自分の体と心と言葉で主クリシュナの蓮の御足に奉仕をすることに没頭しています。彼らは決して無神論的な人々と関わりません。

これらの聖人的な人々は、霊魂は微細であるけれど、それでもいつも小さな自由意志を授けられている、と知っています。至高主は完全に独立しており、すべてのものの上に(over all、全体に渡って)完全な自由意志を行使することができます。霊魂は至高主と性質的に同じであるため、主は彼の小さな自由意志を無効になさいません(to annul、取り消す、無にする)。

第14段落
不幸にして、霊魂はこの神に与えられた小さな自由意志を誤用し、無知と幻想の暗い井戸に落ちます。霊魂がいったんマーヤー、幻想的な物質エネルギーの手中に落ちると(to take shelter of)、彼は徳、熱情、無明という物質的な性質を育みます。

霊魂は自分のもともとの性質を失い、物質自然の3つの相によって統御される新しい性質を育みます。そしてこれは彼がそれらを超越するときまで続きます。彼の行動は相応に促されます。もしもそれが、どんなものであれ他の方法で起こったなら、それなら物質的な多様性はこの現象の世界において見えなかったでしょう(訳注:そうでなかったら、この現象の世界に物質的な多様性は存在しなかったでしょう)。

そのため、もしも人が物質自然の非常にかすかな法と働きについて自分に知らせ損なったなら(訳注:学び損なったなら)、そして同時に、すべての活動は至高主によって認められ、導かれた(to inspire、霊感で示唆する)ものだと論じるなら、それなら彼は至高主の立場を低め(to reduce)、主を不完全(partial、不公平)で不公平(unjust、不条理)であると理解しています(to make out、人の性質などを~と理解する)。

主は決して、ある者をひいきし、別の者を差別することはなさいません。事実は、主はすべての人に、本質的に不安定で一時的なすべての物質的な活動を放棄するように助言なさいます。神を忘れてしまうことにより、人は無明の永遠の犠牲者となり、それはそうして彼のすべての行動を染めます(to color、影響する)(訳注:それは彼の行動すべてに影響します)。

バガヴァッド・ギーター(5.14)には、このように述べられています。「自分の体という都市の主人、体を持った(embodied)霊は、活動を作り出すことはなく、人々に行動するように促すこともなく、行動の結果を作り出すこともありません。このすべては物質自然の相によって演じられます。」

第15段落
したがって、主ヴィシュヌへの犠牲として行われたものを除くすべての活動は、自分自身の意思(volition)によって(of)なされた気まぐれな行動です。それらは至高主の指示あるいは認可の下で行われてはいません。そのような活動は自然の物質的な相から生じる(to stem)ので、それらは自動的に自然の完全な統御の下にあります。至高主は、そのような活動の単なる公平で静かな目撃者です。

第16段落
カルマ・ヨギー、あるいは献身者の活動は、いつも完全真理と繋がっています。そのため、献身者は俗的な領域をはるかに超えた超越的な水準に位置し続けます。そのような(自己を)認識した(realized)立場では、彼はこの物質的な創造を至高主から離れたものとしてではなく、主のエネルギーが形を変えたもの(transformation)として見ます。

そのような知覚は、自然の物質的な相によって妨げられていません。実に、すべてのものの主クリシュナとの本来の(inherent、内在的な)繋がりというカルマ・ヨギーの認識は、均衡が取れており(equipoised)、超越的です。ギーター(5.18)にはこのように述べられています。「本当の知識の力によって、謙虚な賢人は、学識があって穏やかなブラーマナ、牛、象、犬、犬食い(賎民)を同じ見方で見ます。」

第17段落
そのような学識(learning)を授けられたブラーマナは、主に徳の物質相にあります。動物の中では、牛も徳の相にあります。象、ライオンなどは主に熱情の相に位置しています。犬と一部の人間(チャンダーラとその他の賎民)は無明の相にあります。

いつも至高存在を(on)瞑想しているカルマ・ヨギーは、決して魂のこれらの外側の覆いを見ず、その代わり(but rather) 純粋な魂そのもの(proper)を見ます。これが至高存在との関係における(in relation to)本当の平等な見方です。カルマ・ヨギーは、この世界のすべての生命体は主クリシュナの永遠の従者であると知覚します。

魂の外側の覆いである体を考慮に入れるのをやめ、そうではなく(but rather) 魂の「主に奉仕をする」という生来の(innate)性質をしっかりと認識するとき(be established in)、人は平等な見方の最も純粋な段階に至ります。

この段階において、主ヴィシュヌを喜ばせるための犠牲の材料として使うことによって、人はすべてのものを至高主への献身奉仕において使います(to engage ~ in)。

第18段落
カルマ・ヨギーは、主クリシュナがすべての物質的なものの唯一の享楽者および利用者(to exploit、普通は使用人などを私的な目的のために利用することを指す言葉)であり、そして主はすべての生命体の唯一の主(Lord)であり主人(master)であると知っています。

主クリシュナとのこの関係を忘れているため、生命体はマーヤー、幻想の手中(clutches)に落ちます。マーヤーの影響の下で、彼は無駄に享楽者あるいは放棄階級者(renouncer)の役割を演じようとします。しかし、これはすべて単なる幻想(fantasy、空想)です。

事実、生命体の本当の不幸の原因(affliction)は、自分が享楽者あるいは放棄階級者であるという振りをすること(pretence)です。すべての種類の良い、敬虔な活動---ヨガ、知識を培うこと、禁欲および放棄など---は、もしもそれらが至高主に関する事柄(topics)への愛情ある魅了の炎を心の中に灯すことができないなら、誤用された労働(misapplied labor)です(訳注:どんなに敬虔な活動をしても、それによって神に関する事柄を愛する心が芽生えないなら、それは見当違いな努力である)。

主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(5.29)においてこのように宣言なさいます。「私を完全に意識している者は、私をすべての犠牲と禁欲の究極の受領者、すべての惑星と半神たちの至高主、そしてすべての生命体に恩恵を施す者であり幸せを願う者と知って、物質的な悲惨さという(of)苦しみから(逃れて)平和を得ます。」

第19段落
この本の初めのほうで、仕事を犠牲として行うことの必要性を論じました。そして今、この節から、主クリシュナがもともとの至高の人格、すべての犠牲の享楽者であるという真実が明らかになります(to come out with clarity)。カルマ・ヨギーによって捧げられた犠牲の結果、および知識を求める者たちの禁欲は、すべて主クリシュナただ一人によって楽しまれるためのものであると理解されねばなりません。

ヨギーの瞑想の対象、心臓の中の超魂は、実際は主クリシュナの部分的な拡張体です。この主題は、この本のあとのほうで論じます。

第20段落
主クリシュナは、すべての異なる修行法---カルマ・ヨガ、ジニャーナ・ヨガ、アシュターンガ・ヨガ(瞑想)そしてバークティ・ヨガ---の信奉者(followers)の幸せを願う方(well-wisher)です。そして、主クリシュナはすべての者の幸せを願う方であるため、主は時代(millennium、本来は千年の期間を指す)ごとに正しい宗教的な教えを確立するためにご自分の近しい仲間たちを世界にお送りになります。

主クリシュナはすべての惑星の至高の主人、もともとの主、そしてすべての原因の原因です。平和への唯一の道は、完全真理、主クリシュナの認識につながる(leading to)カルマ・ヨガにおける段階的な(gradual)上昇です。

第21段落
既に主クリシュナの満足のために自分の仕事を遂行している者は、純粋なクリシュナ意識の水準上にない犠牲、禁欲、あるいは瞑想を別に行うことは必要ありません。以前に、純粋なカルマ・ヨギーは自動的にブラーマナ、サンニャースィー、そしてヨギーであると説明しました。

カルミー、すなわち結果を求めて働く者のように、彼は犠牲を捧げることと自分の義務を果たすことにおいて卓越しています。ジニャーニー、すなわち知識を探し求める者のように、彼は放棄していて禁欲的です。そしてヨギーのように、彼は自分の仕事の結果からも離れていて、自分の感覚を統御の下に置きました。

結果を求めるすべての仕事から離れ、至高主と主への愛情ある奉仕に魅了されるようになった者は、同時にすべての良い性質で飾られます(訳注:to ornament、~を備えます)。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(6.1)でおっしゃいます。

「自分の仕事の結果に非執着である者、そしてするべき義務を果たす者は、放棄階級にあり、そして彼は本当の神秘主義者です。(訳注:犠牲のための)火を灯さず、何の義務も果たさない者ではありません(訳注:もともとの文はつながっていて、「放棄階級にあって本当の神秘主義者であるのは前者であって後者ではない」という内容です)。」

第22段落
カルマ・ヨギーは自分のすべての活動の結果の究極的な享楽者は主クリシュナであることを知っているため、彼は結果を追い求めず、それから離れています。彼はいつも、すべてのことを主クリシュナのためにすることを考えます。

そのような非執着なるカルマ・ヨギーは、決して「クリシュナ意識における活動は感覚的な喜びを楽しんだり痛みを避けたりするためのものだ」とは考えません。サンニャースィーは、完全存在に関する知識を培うことのほうを選んで(in favor of)、聖典によって定められた活動も含めてすべてを放棄します。

ヨギーは活動的な奉仕から退き、自分の心臓の中の超魂を見たいと望んで、半分閉じた目で瞑想をすることで日々を過ごします。しかし、自分の仕事が至高存在の満足のための犠牲である者は、自分の身体的な必要性のために努力をしません。

彼は至高主への献身奉仕に携わっているため、聖典の中で勧められている儀式的な活動を遂行することを求められません(~する必要がありません)。そのような非執着な(detached)カルマ・ヨギーは、単に自分の仕事の結果に非執着である者よりも優れています。カルマ・ヨギーは自動的に、サンニャースィーが探し求める完全存在に関する知識と、瞑想するヨギーが欲する8つの神秘的な完成において達成しています。

第23段落
本当のカルマ・ヨギーは、事実、至高主の献身者です。完成に達したので、彼らは利益、賞賛(adoration)、あるいは栄誉(distinction)を追い求めません。完成の状態において、すべての知識と神秘的な力が自動的に彼らを飾ります(to embellish)。望ましいすべてのものが手に入るとき、なぜ彼らは他の何かを必要とすべきでしょうか(訳注:他に必要なものなどあるでしょうか)?

第24段落
パタンジャリの八重の道を辿り、瞑想的なヨギーは徐々に自らを高めます。サマーディー、すなわち超魂への没頭の段階に至るまで、様々な段階を習得して、完成に至りたいという望みの中で、彼らはあらゆる逆境(all sorts of adversities)と苦しみを耐え、自分の目標に心を定めたままでいます(remain fixed on)。

究極的に、彼らはこの物質世界の何物とも比べられ得ない意識の状態に至ります。この神秘的な完成の状態においては、いかなる苦しみも---死でさえ---恐ろしく(formidable、恐るべき、手に負えない)見えません。そのようなヨギーに関する主クリシュナの言明は、バガヴァッド・ギーター(6.22)に記録されています。

「このように確立すると、人は決して真理から離れず、そしてこれを得ると(upon gaining this)彼はこれに優る得(gain)はないと考えます。そのような立場に位置すると、人は大変な(greatest)困難の只中にあってさえ、決して動揺しません。」

第25段落
この節への解説の中で、シュリーラ・バークティヴィノダ・タークラは、感覚的な世界から離れて(to detach oneself)サマーディー、完全真理への完全な没頭に位置するようになるとき、人は純粋な霊的な自己を知覚し、強烈な喜びをもって報われる、とおっしゃいます。

そのようなヨギーは、決して完全真理、自分の瞑想の対象から集中をそらしません。ヨギーが修行(discipline)の間に得る8つの神秘的な完成---アニマー、ラギーマー、プラープティ、プラーカーミャなど(*)---は、彼のヨガの実践の副産物です。

(*)8つの神秘的な完成は、主クリシュナによってシュリマッド・バーガヴァタム11.15.4-5においてウッダーヴァに描写されています:アニマー(一番小さなものより小さくなること)、マヒマー(一番大きなものより大きくなること)、ラギーマー(一番軽いものより軽くなること)、プラープティ(望むものを何でも得ること)、プラーカーミャ(この世でも来世でも、楽しむべきどんな対象でも経験すること)、イスィーター(マーヤーの副次的な力(subpotency)を操作すること)、ヴァスィーター(自然の3つの相によって妨げられないこと(to impede、妨げる)、カーマーヴァサーイター(どこからでも、可能な限り最も高い限界まで、何でも得ること)

サマーディーにおいて、ヨギーはこれらすべての神秘的な完成を取るに足らないと見なします。多くのヨギーは、これらの神秘的な完成の幾つか(a few)を習得したあとで、それらをすべて習得した振りをします。そして、落ち着きのない心のせいで、彼らは永遠のサマーディーという目標から逸れます。

他方で、カルマ・ヨギー、主の献身者にとっては、そのような可能性はありません。彼の心と集中は目標に定まったままです。なぜなら、彼はいつも主クリシュナの喜びのために働くからです。彼はいつもサマーディー、ヨギーの究極の目的地(destination)にいます。

主への献身奉仕において、献身者はいつも新鮮な(ever-fresh)感情を経験し、そして彼の完成がもっと成熟するにつれて、彼が味わう超越的な喜びは、俗的な欲得ずくで動く者(mercenary)には不可解で計り知れません(訳注:~は、目先の損得で動く俗人にはますます不可解で計り知れないものとなります)。
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by ammolitering4 | 2013-08-28 15:12 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

科学的な若者

こんにちは。皆様お元気でいらっしゃいますか?全然更新していなくてすみません。私は今、バンクーバーから北へ車で一時間ほどのところにある森の中で暮らしています。夏の間だけキャンプ場のお掃除おばさんのようなことをしているのです。キャンプ場とは言っても、広大な敷地の中に結構立派な山小屋が幾つもあり、近代的なキッチンには腕の良いシェフがいて、山羊や豚もいて、というところです。仕事はかなりハードですが、森の中にいられるだけでも嬉しいし、楽しいものです。

今日はここで同僚の男の子とちょっとした話をしました。何かの拍子で「神様」という言葉が出たとき、彼は私に「あなたは宗教的なのか」と尋ねました。そうだ、と言うと、彼は「じゃあ、進化論をどう思う?」と聞きました。出ました、宗教論と必ずセットでついてくる相方です。「進化論は信じてない」と言うと、19歳の彼は急に熱心に進化論の正しさを論じ始めました。かなりレベルの高い大学に通う彼は知的な懐疑主義者で、「人間はとても制約されているので分からないことばかりだ」と言いつつも、滑らかな弁舌でいろんな例を挙げながら理路整然と語ります。

私は弁の立つほうでは全然ないので、「何となく違うような気がするのよ」と言うしかありません。一つ反論すると10くらいその反論が返ってくるので、本来すべき山小屋の掃除が全然進まない、という事情もあります。彼はほっとくと一日中でも喋ってそうな勢いでしたが、人間は限られた経験と学習から推論するしかない、それが科学だ、というのが彼の主な主張でした。巨大な海の浜辺で水溜りを観察し、海とは何かを知ろうとしています。とても真面目で心優しい若者なのですが、小さな力を信頼し切っているところも若さゆえの一途さなのかもしれません。やがて、どうしようもない神秘が彼の扉を叩きます。経験と推論をいくら繰り返しても、やがて彼はいなくなるのです。そこにあるのに、そこにいない。物質の体の進化を語るときに見落としていた何かが、熱弁を振るっていた彼の体をあっけなく捨てていきます。

ブラーマー様は、一瞬で全部を創造なさいました。「一瞬」という時間の観念は、あれこれの制約のある私たちにはどうしても逃れにくいものですが、創造の灯りが灯ったようなものだと思います。その中にすべてがあり、私たちは小さいのでそのうちの一部だけを「時間」と認識して存在します。進化論で出てくる絶滅というのは、制約された物質的な見方からすると現実のものですが、創造全体としては全然そんなことはないのだと思います。こういうのは何となく私が感じていることで、具体的に言葉で説明しにくいのですが、そんな感じがします。

私たちがカリユガにいるのは、素行が悪いから刑務所の一番悪い部屋に入れられてるようなものです。遠い昔のサッテャ・ユガからだんだん悪くなってきている、と思うのは、別にそれが昔だったからではなく、単に遠いところにあるからです。ヴェーダではよく生き物の種の数が出てきて、人間は40万種類、と言います。これを「心のありようによって人は40万種類に分けられるのですよ」と教える人もいますが、私はそうではないと思っています。単に、(おそらく地球に関する)創造全体の中に40万種いるのだと思います。ただ、今の私たちのいる場所で表面に出ている、あるいはスイッチがオンになってるのはホモサピエンスだけ、あるいは少々の雪男もいるかもしれない、ということなんだと思うのです。

こういうのを推論と言うのでしょうから、これ以上深く考えるのはやめておきましょう。私がどんなに考えようと、あるいはどのように感じていようと、真理は一つです。翻訳はまたそのうち再開します。一応この部の最後まで終わっているのですが、単語の調べ物などがまだなのです。
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by ammolitering4 | 2013-08-12 12:06 | Comments(2)