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第8章

第8章 生命体の本当の自己認識(real identity、正体)

(第1段落)ある人の、自分の姉妹の夫との関係は、彼の姉妹との関係に基づいています。姉妹との結婚の前、義理の兄弟は彼にとって全くの他人でした。そして、彼らの子供たちが彼の姪と甥になるとき、彼らとの関係もまた、彼の姉妹に基づいています。

生まれた国を中心として、同様の関係が人種と国籍の間に(among)育ちます。こうして、ヒンズー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒などができます。しかし、私たちがどんなに努力しても、そのような自己の部分的な人格を受け入れようと(to adopt)努力しても、そして私たちがどんなにこれらの断片的な自己認識(identity)の数を増やそうとしても、私たちは微小で部分的なままです。

至高主の欠かすべからざる小片として、もしも私たちが主に奉仕をしたいと望まないなら、それなら私たちは自分の実際の自己認識を失い(to forego、過失で権利を失う)、無知に落ちます。適切な同時進行(parallel、この場合は「協働」を意味する)は体の機能です。

もしも手足(limb、四肢を指すが、単に「体の一部」という意味で使われることもある)がその普通の義務を行うことを拒むなら、それは体にとって役に立たなくなります。同様に、もしも私たちの活動が主クリシュナに焦点を当てていないなら、それらは無力(impotent)で価値がないと見なされます(to render、判決を下す)。

自己の永遠にして本来の立場は、至高主クリシュナに奉仕をするというものです。実は、私たちのすべての苦しみは、主クリシュナの永遠の従者としての自分の本来の立場(capacity)において振舞うことを、私たちが拒絶することから始まります。

したがって、すべての生命体の主要な義務は、彼らのもともとの、本来の立場に再び任ぜられることです(to re-instate)。その目的のための最初の一歩は、カルマ・ヨガを行うことです。チャイタンニャ・チャリタームリタには、こう述べられています。「生命体は、マーヤーの鎖によって首の周りを縛られています。なぜなら、彼は自分が永遠にクリシュナの従者であることを忘れてしまったからです。」

(第2段落)人々は一般に無明であり、結果を求める活動に耽っています(to be addicted、中毒している)。彼らの心を乱すことなく、主クリシュナの従者としての人の永遠の立場について真実を説明することによって、カルマ・ヨガは彼らに利益を与えることができます。

このため、バガヴァッド・ギーター(3.26)において、主クリシュナはお教えになります。「定められた義務の結果(fruitive result)に執着している無明な人々の心を混乱させないように、学識のある人は彼らに仕事を止めるように促すべきではありません。むしろ、献身の精神において働くことによってクリシュナ意識を段階的に発達させるために、彼らを様々な活動に携わらせるべきです。」

(第3段落)結果を求める活動に固執している者に、彼らは主クリシュナに献身奉仕を捧げるべきだということを納得させるのは、非常に困難です。その理由は、ほとんどの結果を求めて働く者は愚かで、堕落していて、不信心だからです。

したがって、彼らのすべての活動は気まぐれで、悪によって動機付けられます。彼らの知性と技能は、こうして至高主に対する反抗(defiance、公然たる反抗、無視)において使われます。彼らは完全に幻想の力、マーヤーの統御の中にあり、そしてそのため、彼らは自分が至高主自身であると、あるいは少なくとも悪魔シシュパーラのような主の最大の競合者だと想像します。

彼らは単に、この物質世界を様々な方法で楽しもうとします。実は、この世界を楽しみたいという(
for)彼らの望みは単なる幻想(make-believe、偽り、作り事)、すなわちマーヤーであり、そしてこの幻想の熱望は彼らを絶望的に騙された状態にします。

それでも彼らは楽しみたいという望みを諦めることができません。そして、彼らが結果を求める活動は空しいと気づき、大なり小なりそれらを放棄するように強いられるとき、そのような放棄は単により大きな楽しみのためのもう一つの幻想の企み(scheme、計画、仕組み)になります。

(第4段落)自分の活動の結果を追い求める者は、自分の仕事を遂行する中で多くの苦しみを引き受け、彼らの想像力は繋ぎ縄をつけていない雄牛のようにさまよいます。そして、その間ずっと、彼らの心は彼らに、自分が実際の享楽者であると命令します。

したがって、これらの愚かで歪んだカルミーたちの心を混乱させることなく、知性的な人は彼らを自分が長けていることをすることに携わらせ、その結果を主クリシュナへの奉仕に使うようにさせるべきです。そのような一連の活動は、自動的に、結果を求めて働く者の主クリシュナとの永遠の関係を明らかにします(to uncover)。

そのため、人々を彼らの利益のために教えるため、結果を求める活動の反応から自由なクリシュナの従者は、結果を求めて働く者のそれと一見似ている人生を送りますが、実際は彼はその間ずっとカルマ・ヨガを行っています。

(第5段落)もしも主クリシュナが慈悲深くもご自分の献身者シュリー・アルジュナにカルマ・ヨガの過程を教えていらっしゃらなければ、無明な魂はずっと(for all time)惨めに苦しんだことでしょう。これらの哀れなカルミーたちは、常に自分の首の周りにマーヤーの輪縄(noose、引くと輪が締まる結び方をした縄)を巻きつけており、そして一つの苦しみからもう一つの苦しみへと生きています。

しかし、主の幻惑させる力が彼らの知性を覆い隠すので、彼らはこのいずれも(訳注:これを全く)理解することができません。どんなに統御者である振りをしようとも、彼らは継続的に彼らを無力(helpless)で非力(impotent)なままにするマーヤーによって追い立てられています。

主クリシュナはこれをバガヴァッド・ギーター(3.27)において説明なさいました。「偽りの自我の影響によって惑わされている霊魂は自分のことを、実際には物質自然の3つの相によって実行されている活動の、行為者であると考えます。」

(第6段落)愚かなカルミーは、主クリシュナを忘れて、主の立場を奪おうとしているので、主の外的な力、マーヤーが彼の首の周りに自然の3つの相という縄で輪縄を結び、彼に耐え難い痛みを味わわせている(to suffer、苦しむ)ということを理解することができません。

彼のすべての活動は物質自然の3つの相の統御の中にあり、マーヤーによって巧みに操られているにも関わらず、それでも全く愚かなカルミーは、自分は自分の状況の主人であると信じます。こうして彼らは、二重性の世界における暮らしのためのより良い手配をしようとして、忙しく働きます。

(第7段落)主クリシュナは、私たち生命体はご自分の離れた(separated)部分であるとお教えになります。部分の義務は全体に奉仕をすることです。完全な体は、手、脚、目や耳などの様々な部分(parts and limb)を持っています。手と脚は最もよく働きます(work the hardest)が、彼らは胃に食べ物を与えることを拒否しません。

胃はほとんど何もしない(does very little)にも関わらずです。他方で、もしも手と脚が相容れないふうに(contrarily)行動し、実際に胃に食べ物を与えることを拒否するなら、そうすればどうしようもない(impossible)状況が作られます。

この状況において、手と脚が楽しもうとするのは不可能です(there is no question of、余地がない)。なぜなら、胃に食べ物が欠けていることで、手と脚は弱く、役に立たなくなるからです。ヒトパデシャという本は、「腹と感覚」という話の中でこの点を詳細に説明しています。

(第8段落)主クリシュナは、宇宙全体という(of)巨大な体の生命(訳注:life air、一般的な表現ではない。あえて言えば「命の息吹」のようなものと思われる)と魂のようなものです。バガヴァッド・ギーターの幾つかの場所で、主クリシュナはこの点を、すなわち主がすべてのものの源であり原因である、ということを明言なさいます(to make this point、主張が正しいことを証明する)。

特筆すべきは、7.7「私に優る真理はありません」と9.24「私は唯一の享楽者であり、すべての犠牲の主です」というものです。したがって、クリシュナが至高主であり、生命体は主の永遠の従者であるということに、どうしてまだ疑いがありえるでしょうか?

私たちはこの単純な真理を忘れてしまいました。そしてそのため、自分の心と感覚を至高主への奉仕のために使う代わりに、私たち自身が小さな至高主の振りをして、自分の心と感覚をこの物質世界を楽しむために使っています。これはマーヤーです。

(第9段落)今日では、様々な協会(societies)がキノコのように湧き出ています。中でも目立つ(that has made its presence felt、その存在を感じさせるようになった)そのような協会の一つは、主ラーマチャンドラの理想の王国を確立する(to establish、設立する)ために運動を始めたと主張します。

しかし、その協会が宣伝している(to propagate、主義などを宣伝する)ラーマの王国は、主ラーマを欠いているように見えます。主ラーマの最大の競合者はラーヴァニャという名前の悪魔であり、そしてラーヴァニャの現代の子孫たちもまた、主ラーマを殺そうとして躍起になっています(busy trying to kill)。

そのため、(彼らが)主ラーマの黄金の時代を招き入れたい(to usher in)と思う可能性がどこにあるでしょうか(Where is the question of wanting to usher in)?もしも人が主ラーマの理想の王国を築くことにおいて誠実であるなら、それなら世界のすべてが主ラーマへの奉仕に使われるべきです。

しかし、主ラーマの地位と威光を減らそうという試みは、実際は悪魔の王ラーヴァニャの圧政的な統治を確立しようとする試みです。そして、もしもそのような間違いが犯されるなら、それなら主ラーマの勇敢で無敵な従者ハヌマーンがやってきて、悪魔の一族すべて(the entire race of demons)を滅ぼすことによって状況を正さねばならないでしょう。

そもそも(at the outset、始まりのときに)この間違いを避けるために(訳注:そもそもそういう状況になることがないように)、私たちは主クリシュナによって教えられたカルマ・ヨガの道を辿らねばなりません。

(第10段落)カルミーは愚かで無明であり、他方でカルマ・ヨギーは賢明で学識があります。これらの賢人たちは、物質的な相と物質的な活動の性質は、魂のそれと全く反対であることを知っています。この理由により、カルマ・ヨギーは決して、カルミーがするように物質自然の相の下で物質的な活動に携わることはありません。

そうではなく(but rather)、主ヴィシュヌを満足させることを目的としたカルマ・ヨガを行います。そのような賢人たちはいつも、この現象の世界との密接な関わりから離れています(to keep themselves aloof)。なぜなら、彼らは魂をそのもともとの霊的な立場に上げたいと思っているからです。

彼らは、妙な配剤(freak arrangement、「不可解な偶然」のような意味)によってのみ、魂は物質(matter)と関わるようになった(to come into contact、接触)と理解しています。したがって、彼らの耳、目、そして他の感覚はこの現象の世界において(物質と)関わりを持っているにも関わらず、賢人たちは物質的な活動を控えます(to refrain from)。

主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(3.28)においてこうおっしゃいます。「完全真理を知る者は、おお、無敵の(mighty-armed)者よ、献身における仕事と結果のための仕事の間の違いをよく知って、感覚と感覚の満足に携わりません(訳注:感覚に振り回されたり、感覚の満足に耽ったりすることはありません)。」

(第11段落)それから、第3章30-31において、主クリシュナはそのような解放された水準に至るための方法を描写なさいます。「したがって、おお、アルジュナよ、あなたのすべての仕事を私に捧げ(to surrender、服従する、明け渡す)、私を完全に知り、利益を求めず、所有権を主張せず、そして無気力(lethargy、甚だしく元気や活力がないこと)になることなく、戦いなさい。

私の命令に従って自分の義務を果たす者、そして羨むことなくこの教えに忠実に従う者は、結果を求める活動の呪縛から自由になります。」

(第12段落)自己を物質的な体と心であると考えること(to identify)、あるいは魂は物質的であると考えること、あるいは体に関わるすべてのものは自分に属すると考えること---そのような幻想は人を無明のままに、そして自己認識が欠けたままに留めます。

したがって、主クリシュナは私たちに、自己を知っておくように(to be situated in knowledge of the self)助言なさいます。霊的に目覚めるとき私たちは、「私」、あるいは自己は体や心ではないと理解することができます。

私たちは、自分は至高主の優性な(superior)、霊的なエネルギーの産物であり、したがって完全に霊的で永遠である、と認識することができます。これらの超越的な真理の認識に伴って、純粋な形における物質エネルギーの本当の性質という知識が得られます。

そして、それらの霊的な認識が徐々に成熟するとき、人は物質自然の二重性から自然な距離を得ます。霊的な発達のこの段階で、偽りの自我は滅ぼされ、すべての偽りの自己認識(identity)と肩書き(title)は取り除かれ、そして私たちは、超越性(the Transcendence、大文字であるため、この場合は「神」と同義)との霊的な関わりのおかげで、幻想的で物質的なエネルギーの呪縛から解放されます。もはやマーヤーは私たちを物質的な活動に縛り付けません。

(第13段落)主クリシュナが至高の完全真理であるということを実証する十分な聖典の証拠があります。聖書やコーランのような聖典でさえ、完全真理は万能で全知の至高の人格であると宣言します。ヴェーダ文献全体を通して、至高の人格は主クリシュナであると宣言されています。

そしてバガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナご自身が、自分が完全真理であるとおっしゃいます。そのため、単にクリシュナと何らかの形で(somehow、どうにかして、どういうわけか)関わることによって、私たちは聖なる自己(Self、大文字)について知る(to illuminate、知識の光で照らす、啓蒙する)ようになることができます。

朝、太陽が昇るとき、すべてのものが再び日光の中で目に見えるようになります。同様に、主クリシュナという太陽が私たちの認識という超越的で霊的な天空の地平線の上に昇るとき、幻想の闇は直ちにかき消されます。そのとき初めて(Then only)、人は浄化され、清純な美で輝きます。

(第14段落)これらの事実は、愚かな人には、誇張されている、あるいは神話である(mythical)と聞こえるかもしれません。しかし、これらは小さな子供(little boys)のためのおとぎ話ではありません。現実であり、真理です。主クリシュナに依り頼む者、すなわち主の献身者は、この主題の真価を知り、理解する(to fathom、真理を見抜く)ことができます。

この真理を受け入れない唯一の者は、主クリシュナに対して敵意のある者、そして歪んだ心のために
(because of)自ら至高主になりたがる者です。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(9.11)で、「私が人間の形で降臨するとき、愚か者は私をあざ笑います」とおっしゃいます。

そのような人々は主を妬んでいます(envious)。主クリシュナに関する真理と主の超越的な立場は、決してそのような混乱して幻惑された脳には入りません。
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by ammolitering4 | 2013-06-29 14:32 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

第7章

第7章 物質的な病を治すには

(第1段落)一般の大衆(populace)は、単に指導者たちの命令(dictates)と決定に従います。そして、その指導者たちが何らの霊的な認識も持ち合わせていません(The general populace simply follows ~the leaders, who are~)。したがって、社会の指導者たちは責任を持って行動すべきだということが助言されます。(訳注:「大衆は指導者たちに霊的な認識があろうがなかろうが彼らの命令に従うので、指導者たちは責任を持って行動すべきだ」)

これらの指導者たちがカルマ・ヨガの教え(precept)を知性的に実践するとき、繁栄への簡単な道が開きます(訳注:「繁栄への道が簡単に開きます」としたほうが自然な日本語になり、意味も変わりません)。まず自分自身の病を癒すことに熟達することなくして、なぜ多くの患者を治療しようとするのですか(訳注:「多くの患者を治療することなどできるでしょうか」)?これは理不尽です。

まず、指導者は自分自身の人生にカルマ・ヨガの原則を受け入れなければなりません。彼はそれから人々の病を診断せねばなりません。それから薬が処方され、正しい食事療法(diet)が与えられます(訳注:「指示されます」)。苦しむ人々に、単に彼らの感覚をくすぐる(to titillate、楽しく、または性的に刺激する)感覚の満足という治療を施すこと---これは彼らを健康にはしません。むしろ、これは病をさらに広め、やがて医者自身が侵され、ついにはそれで死にます。

(第2段落)至高主、ヴィシュヌを忘れていること(forgetfulness)が、人間の社会の本当の、もともとの病です。そのため、もしも人がこの病気(ailment、慢性の病)を治療せず、しかしその代わりに患者たちに不誠実で浅い関心(concern、気にかけること、心配)を見せるなら、人は彼らに何らかの一時的な救済(relief、安堵)と喜びを与えるかもしれませんが、究極的にそのような一連の行動(a course of action)は彼らを恒久的に治すことはできません。

もしも患者が正しい薬と食事療法を求めて行って、しかしその代わりに悪い薬と食事療法を処方されたら、それなら彼は確かに死の脅し(jaws、顎)の中にあります(訳注:「死の恐怖にさらされています」)。

(第3段落)至高主に捧げられた食べ物の残り、プラサーダムは、すべての患者にとって最高の食事療法です。そして、至高主を讃える話(topics)を議論することと聞くこと、主の神像(deity form)を見て主を崇拝すること、そして完全に主に服従すること---これらが最高の薬、万能薬です(to constitute、ある要素が何かを形成する)。

これらの活動は繁栄への唯一の確かな道であり、他方で、他の活動は大惨事をもたらします。主への献身奉仕を実践することは、決して社会に害を与えません。むしろ、それは単に機会と恩恵の時代を招き入れる(to usher in)ことができるだけです。日和見主義者(opportunist)で経済的な相場師(financial speculator)である者たちは、これらの事実を落ち着いて考慮すべきです。

(第4段落)マハトマ・ガンディーのような社会の猛者は、様々な方法で平和の時代を招きいれようとしましたが、そのような努力は霊的に進化した聖人たちによって霊的に導かれておらず(to inspire、霊感を与える、霊感で導く)、祝福されてもいないので、成功しておらず、未来においても成果を上げることはありません。

一元論者、すなわちマーヤーヴァーディーの神は、食べることも見ることも聞くこともできません。そのようなでっち上げられた、形のない神は、決して世界に平和をもたらすことはできません。感覚器官を持たない神が、どうやって人々の悲惨さを見たり、彼らの心からの祈りを聞いたりすることができるでしょうか?

霊的な真実を探るという名目でそのような形のない神を崇拝することは、世界に不運をもたらすことができるだけです。決して幸運をもたらすのではありません。哲学のマーヤーヴァーディー学派では、純粋な知識に関する議論が完全真理の本当の性質に幾らかの光を当てることができますが、それらは至高の完全存在の秘儀的で(esoteric、深遠な)個人的な側面を完全に明らかにすることはできません。

これらの無味乾燥な、経験主義的な議論は、その対象、すなわち完全真理の完全な理解には、遠く及びません。したがって、マハトマ・ガンディーのような指導者が、形のないエネルギーではなく至高の完全人格を認識しようと励みさえすれば、彼らは本当に人間社会に恩恵を与えることができます。

(第5段落)制約された人間は、この物質の体と心の扱いに長けています。これらの全くの(gross、「卑しい」という意味もある)物質主義者たち、物質的な活動を超えたものを見ることができない者たちは、私たちの物質的な宇宙の他に霊的な宇宙が存在するということを信じるのを不可能だと思います(「信じることができません」)。

自分を完全に体と思い込んでいるため(to identify with)、そのような物質主義者たちは単に食べ、眠り、性交し、身を守っており、動物のようです。彼らはこれらの4つの動物的な性質によって非常に魅了されているので、罪深い活動と敬虔な活動の間の違いを知る力を失います。

彼らはわずかな感覚の満足のために疲れを知らずに努力しますが、彼らのすべての努力は無益に終わります。多くの現代の科学者たちは、利益がなく破滅的な(fatal、致命的な)そのような卑しい(gross)活動を促す(to facilitate、容易にする)神父の役割を買ってでました(to take up the role of)。

これらの科学者たちは、単に感覚をくすぐることを目的とした様々な製品を作り出し、そうして物質主義者たちの間に非常に危険な(deadly)競合的な雰囲気を作り出し、それは次に社会に不快な(obnoxious)雰囲気を作り出しました。

人々は、そのような感覚的な活動を通して自由で独立した状態になると考えます。しかし事実は、彼らは鎖にもっと強く縛られるようになります。彼らが蓄えた富が大きければ大きいほど、彼らの不安と悪行(depravity、堕落、腐敗)も大きくなります。

唯一の享楽者であるという至高主の立場を彼らが奪おうとすれば、彼らはその分だけ、そしてそれ以上に、恐ろしい死の脅し(jaws、顎)に引きずり込まれます(「ますます死の恐怖に晒されます」)。そしてこれらの活動は、ほんのわずかな栄養だけを必要とする、体を維持するなどのとても単純で基本的な活動を(訳注:「体を維持することは本来わずかな栄養を要するだけの活動であり、そのような本来とても単純で基本的な活動を」)、非常に困難な(herculean、ヘラクレスのような大力を要する)仕事にします。

(第6段落)全くの(gross、「卑しい」という意味もある)物質主義者のこの卑しい(mean、さもしい、下品な)階級より一段高いのは、魂の転生を信じる者たちです。これらは、施しをするなどの敬虔な行いをする、結果を求めて働く者たちですが、彼らの唯一の目的は、自分の次の生が贅沢と感覚の楽しみのそれであるようにする、というものです。

これらの、結果を求めて働く者たちのどちらの階級も、敬虔な活動と罪深い活動の両方が呪縛を生じさせるということを知りません。これらの物質主義者たちは、カルマ・ヨガ、すなわち結果を求める欲求なくして行われる活動が活動の最良の形であることを知りません。

したがって彼らはしばしば、カルマ・ヨギーは全くの物質主義者と同じくらいこの物質世界に執着していると考えます。しかし、カルマ・ヨガの唯一の目的は、社会の人々を彼らの利益のために指導することです。主クリシュナとして、至高の人格神はバガヴァッド・ギーター(3.25)においてこうおっしゃいます。

「無明な人々が結果に執着しつつ自分の義務を果たすように、学識のある人々も、人々を正しい道において導くために、しかし執着はなくして、同様に活動するかもしれません。」

(第7段落)他の人々のように、完全真理を知った賢人も自分の体を維持します。しかし違いは、彼らのすべての活動の目的は主ヴィシュヌを満足させることだということです。一般の大衆は間違って、賢人の活動は自分たちのそれと同じだ、と考えるかもしれませんが、実は賢人たちは結果を求める活動ではなくカルマ・ヨガを行っています。

(第8段落)現代では、私たちの世界の中に様々な形で現代の科学と技術の大きな広がりが見られ、それは社会をカルマの危険な循環の中にもっともっと呪縛させました。巨大な工場、大学、病院などは、確かに社会をカルマの循環に絡み付けます。

過去の時代には、全くの物質的な活動のためのそのような巨大な、複雑な仕組み(arrangements)は全くありませんでした。間違っていて、単に悪い関わりが、無知な(innocent、罪の無い)大衆を卑しい活動に固く縛り付けました。しかし、学識のある人々、すなわちカルマ・ヨギーたちは、どうやってこれらすべての活動を主の満足のために行うかを社会に見せることができます。

(第9段落)かつて、賢人たちはほとんどすべての家庭で主ヴィシュヌの神像が崇拝されるように手配し、それによって人々がカルマ・ヨギーになる雰囲気を作りました。同様に、今、巨大な工場、会社(merchantile firm、商業企業)、病院などで主ヴィシュヌを崇拝して奉仕をするための同様の手配が緊急になされねばなりません。

これは、霊的な旗印の下で人々の間に本当の平等を確かに確立することができます。主ナーラーヤナは貧しくありません。主は主たちの至高の主です。そしてそのため、貧しい人々が「ナーラーヤナ」であると言おうとする試みは愚かです(訳注:貧しい人に物質的な施しをすることをNarayana Seva(ナーラーヤナ・セヴァ)『主への奉仕』という) 。

むしろ、主の崇拝と奉仕を広く組織することで、人は貧しい人々を含め、すべての人に大いに恩恵を与えることができます。至高の人格神はご自分を多くの形に顕現なさいますが、一般に賢人たちは、神像として奉仕して崇拝するために、主の様々な形の(うちの)3つを選びました。

それらは、ラクシュミー・ナーラーヤナ、スィーター・ラーマ、そしてラーダー・クリシュナです。これらの3つの神像の御二人(couple)は、インド亜大陸全体で広く崇拝されています。したがって、私たちは大きな工場と企業の所有者たちに、自分の会社(establishment)でこれらの3つの神像のどれかの崇拝と奉仕を習慣づける(to establish、確立する)ことをお願いします。

それから所有者たちは、プラサーダム、お供えの食べ物を皆に配ることができます。この実践は、労働者と所有者の間のいかなる意見の相違も繕うことができます。なぜなら、どちらもカルマ・ヨギーになるからです。

(第10段落)ほとんどの工場労働者や他の単純労働者(laboror)は良い性質を維持することができず、そのため悪行に滑り落ちます。そしてもしもそのような落伍者(derelict、見捨てられた者)が人口の中に増えると、世界は豊かで幸運な未来への機会を持ちません(世界に~は望むべくもありません)。

しかし、もしも所有者たちが自分の労働者や事務員たち(office staff)にプラサーダムを与えるなら、それなら与える者と受け取る者の両方が徐々に浄化され、至高主にもっと魅了されるようになります。社会全体が高められ、文明化され、調和の中で結びつくようになります。

他方で、自分の自己中心的な利益(interest)だけを達成しようとすることによって、所有者たちは、いかなる調和や結びつきも、脆いだけでなく危険であるような状況を作ります。そして、所有者が自分の愚かな(crass、愚鈍な)自己利益を追求する中でこれらの堕落した労働者たちを解雇するとき、所有者自身も労働者も利益を受けません。まもなく、労働者たちは自動的に自分たちの雇用者に対して敵意を持つようになります。

(第11段落)労働者たちと上司たちが、主ヴィシュヌを喜ばせるためのものではなく、実際に主にとってやっかいな(troublesome)活動を行うとき、彼らは互いに言い争って戦う結果になり、そうして社会にひどい状況を作り出します。

共産主義者と社会主義者は、自分たちの主義を宣伝するのにお金と知性と、そして生命さえも費やしています。ボルシェヴィキ(共産党員)たちは、ロシアの地全体を崩壊させ、大規模な豊かな家庭生活という人々の夢を叶えることを約束して反乱を起こしました。

労働組合は常に雇用者と争っています(at odds)。これらすべての複雑な問題には、一つの単純な解決策があります。誰もがカルマ・ヨガ、すなわち至高主を喜ばせるための仕事をすべきだ、というものです。

(第12段落)互いに密接で調和のとれた関係を築くために人間が行った努力は、国際連合に極まりました。この組織は、家族(family unit)という概念に基づいています。家族から大きな地域共同体へ、村へ、州(state)へ、国へ、そして最後には大陸へと徐々に拡大することが、国際連合の形成のための糸口となりました。

しかし、注意すべきはその中心です。何が中心的な魅力でしょうか?もしも拡大の過程が反対にされるなら、私たちは基本単位として人間の体に行き着きます。体では、感覚が最も大切です。感覚よりもっと大事なのは心、それから知性、そして最終的に偽りの自我です。そして、偽りの自我よりもっと大切なのは本当の自己、至高主ヴィシュヌの欠かすべからざる小片である純粋な霊的な存在です。したがって結論は、すべてのものの源泉は主ヴィシュヌであるというものです。

この理由により、プラーラーダ・マハーラージャはこうおっしゃいました。「物質的な人生を楽しむという意識によって強く囚われている者たち、そして、したがって自分たちの指導者、すなわちグルとして、外的な感覚の対象に執着している似たような盲目の者を受け入れた者たちは、人生の目的は家に、至高神のもとに戻ること、そして主ヴィシュヌへの奉仕に携わることである、ということを理解することができません。」

(第13段落)中心を見失い、外的なものに魅了される者は、浅はかであり、誤って導かれています。これらの誤って導かれた人々は、ある意味では盲目です。そのため、世界は彼らに、啓蒙(enlightenment)への何らの導きをすることも期待することはできません。しかし、多くのこれらの盲目の人々は、他の盲目の人々を導いて利益を与える振りをするかもしれず、事実は彼らは天の意思によって完全に統御されています。

私たちは、すべてのものの原因と源は主ヴィシュヌ、完全真理であるということを、そしてこの完全真理の最も完全な顕現は主ヴィシュヌの源でさえある主クリシュナであるということを、理解する努力をすべきです。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(7.7)においてこうおっしゃいます。「おお、富を征服する者(アルジュナ)よ。私に優る真理はありません。」

(第14段落)このように、すべてのものの究極の源は、まことに主クリシュナご自身、すべてを魅了する至高の人格神です。相当な熟考の後、過去の賢人たちは、主クリシュナが至高存在、至高の完全真理のすべての拡張体と顕現の源である、と結論づけました。シュリマッド・バーガヴァタム(1.3.28)は、このように宣言します。

「上記の化身のすべては、主の完全な部分、あるいは完全な部分の部分ですが、主シュリー・クリシュナがもともとの至高の人格神です。。。」

後に、私たちは主ヴィシュヌの拡張体という主題をもっと完全に論じますが、今は主クリシュナが至高存在の最高の側面であるということを確立させましょう。ブラーマ・サムヒター(5.1)は、これを確認しています。「ゴヴィンダとして知られるクリシュナは、至高の人格神です。主は永遠の、喜びに溢れた霊的な体をお持ちです。主はすべてのものの源です。主は他に源を持たず、主はすべての原因の根源的な(prime)原因です。」

(第15段落)このように、もしも私たちが物質的な体とその身体的な関係(訳注:physical relationships、家族その他の関係を指すものと思います)を超越して、主クリシュナ、もともとの至高神を通して誰もと繋がるようになるなら、わたしたちは真実と現実の水準において(互いに)関係することができます。そうすれば、同胞愛(fraternity、兄弟愛、人類愛)と平等の実際の意味が結晶化するでしょう。                                                               
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by ammolitering4 | 2013-06-28 16:02 | 「英知による放棄」 | Comments(0)

都市計画の本ができました

都市計画の本ができました。
こんにちは。皆様お元気でいらっしゃいますか?以前こちらにごちゃごちゃと載せていた市民参加型都市計画の本がとうとうできあがりました。イラストもたくさん入っています。この後はちゃんと建築家の方に見直しをしていただく予定ですが、とりあえず今私ができる分はぜんぶ終わったのです。道草ばっかり食ってたもので、やたらと時間がかかってしまいました。でも、ようやく終わってほっとしています。ご興味があればぜひともご覧ください。例に寄ってブログ形式なので、本の一番最後から並んでてすみません。

この手法は「相違ではなく一致に目を向けて理想像を作り、それを基に皆の合意を探る」という哲学に基づいています。クリシュナ意識とは全然関係ないとはいえ、どことなく通じるものがあるような気もします。人間の社会は共通の理想や焦点があって初めて調和的に機能すると思うからです。この翻訳は今86歳だか87歳だかになる多忙な御老人スタンレー・キングさんへの私からの贈り物です。スタンレーさんは日本文化に高い評価と敬意をお持ちなので、日本でこの技法が広まれば喜んでくださると思います。興味のありそうな方をご存知でしたら、ぜひともこの都市計画ブログを紹介してください。よろしくお願いします。

キングさんが開発したこの技法は、カナダその他の英語圏では既に高い評価を得ています。この本の中ではこれを実際に活用するための手法を具体的に丁寧に解説しています。都市計画以外の分野でも活用できる事柄だと思うし、現にカナダではこれを応用した環境教育が行われています。なお、感想などあればぜひお寄せください。スタンレーさんにお伝えしようと思います。

それから、ふと思ったのですが、「相違ではなく一致に目を向けて理想像を作り、それを基に皆の合意を探る」、つまり理想をガイドラインとして設置した上で諸々の現実的な制約を照らし合わせて可能な限り理想に近い形を探る、というのは、自分の人生にもあてはまるような気がします。いや、別に私が大勢いるというわけでもないのですが(小さいときは心の中に大勢の「誰か」がいて話をしてました)、自分の理想を見据えた上で現実を見て、辿るべき道を探す、というのは大切だと思うのです。私は今仕事を探しているので、それでそういうことを思ったりします。実際には現実を見てあまりの落差に落胆して落涙するのが落ちという気もしますが、まあ、できるだけ落ち着いて考えようと思います。
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by ammolitering4 | 2013-06-23 01:49 | Comments(0)

映画のギーター

今日はこんなのを見つけて眺めていたのですが、、、お芝居そのものは落ち着いてていいなと思うのですが、英語の字幕に致命的な問題があります。「神」というべきところを「社会」と訳してあるのです。クリシュナがアルジュナに「あなたは社会の一部だから社会のために仕事をしなさい」と説教を垂れています。プラブパーダが口を酸っぱくして気をつけろとおっしゃることですが、ほんとにこれでは意味が全然違ってくるし、「こんな社会など願い下げだ」と思ってる人には何の説得力もありません。戦争になれば社会は破壊されるのに、「社会のために戦いなさい」と言われても「そうですか、それじゃあ」というのもおかしなものです。

もともとのインドの言葉ではなんて言ってるのか分かりませんが、ヨガの教室で「人類の平和と調和のために言葉と行動をコントロールしましょう。オ~ム、ナマステ」と言ってるのと同程度の馬鹿馬鹿しい内容になっていて、もはや冗談にもなりません。この英文を書いた人は自分で矛盾に気づかないのでしょうか。この手の翻訳が昔からたくさんなされているのでしょう。こういうのを有難がって本気にすると、むしろ何も学ばないより害になるのかもしれないと思ってしまいました。

ところで、この映画にもエキストラの人たちがたくさん出てきますが、クリシュナとアルジュナが延々と話し合ってる間、彼らの役目はただひたすらじーっと直立不動で炎天下に突っ立っていることです。立ってるだけなら私にもできそう、と思ったのですが、日陰が欲しい、喉が乾いた、と思っても動いてはいけないことを考えると、やっぱり無理かもしれません。私は毎日暇な上に仕事がないので、映画のエキストラの仕事をしようかな、と考えています。面白そうだし、前から一度やってみたいと思っているのです。今はカナダドルが高いのであんまり流行ってないみたいですが、バンクーバーでは映画産業が盛んなのです。ハリウッド映画の撮影などが行われています。映画など見たこともない私がするべき仕事ではないかもしれませんが、もしかしたらいつの日か、私がハリウッド映画で立派に通行人役を演じてるところが見られるかもしれません。

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by ammolitering4 | 2013-06-15 13:35 | Comments(2)

ドラマをどうぞ

こんばんは。再びお待たせしておりまして申し訳ありません。待ってる間のお楽しみと言っては何ですが、バガヴァッド・ギーターのお芝居などご覧ください。途中までですが、探せば続きもあるようです。私も全部は見ていないのです。インドの子供はこういうのをたくさん見て育つことができるので幸せだなあと思います。最近はインドといえばろくなニュースがありませんが、こういう教えがおろそかになっているのでしょうか。



探し始めるといろいろあるものだなと思いますが、私が好きなのはこちら、サンスクリットでのギーター詠唱です。節と節の間のピーンという電子音がやたらと耳ざわりですが、それ以外はすばらしいものだと思います。なお、ここで皆様に発表しますが、私は本日から毎日ヨガ教室に通います。途中で怠けて三日坊主になることは決してありません。30日間限定で通い放題のチケットを頂いてしまったので、ぜひとも活用しようと思うのです。ほっとくと怠けてしまいそうなので、ときどき「ちゃんと通ってるでしょうね」と釘を刺してください。

今日はさっそく第1日目で行ってきましたが、ヨガ本来の姿とは全然まったく関係のない体操教室でした。まあ、運動不足の私にはそれでもいいのですが、プラブパーダがお嘆きになるのも然りという気がします。レッスンの最後にとってつけたように手を合わせて「オーム」と発声したのが冗談みたいで面白かったです。

最近は建築の文書の仕上げをやってますが、あれこれと目移りするたちなので、ガラス絵を描いてみたりアルバム作りをしたり、道草ばかりでなかなか進みません。でも、プラブパーダのご本の翻訳も少しずつ進んでいます。

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by ammolitering4 | 2013-06-13 15:10 | Comments(0)

第1部 第6章

第6章 人生の唯一の目的地

(第1段落)私たちの目標は、物質的な世界で得られる一時的な平和と幸せではありません。生命体である(as living entities)私たちは永遠であり、そしてそのため、永遠の幸せが私たちの主な目的(motive、衝動、動機)であるべきです。

それでも私たち魂は、14の物質的な惑星系を上がったり下がったりし、幻想の平和と喜びを追い、大量の血とエネルギーを費やして、何百万もの体を替えます。私たちが悪魔に取り付かれたように(demonically)追う永遠の平和と幸せは、常に私たちを避けます(to elude、巧みに身をかわして逃げる)。私たちは、本当の平和と幸せがどこで得られるか知りません。プラーラーダ・マハーラージャはシュリマッド・バーガヴァタム(7.9.25)の中でこうおっしゃいます。

「この物質世界の中で、すべての生命体はちょうど砂漠の中の蜃気楼のような何らかの未来の幸せを欲します。砂漠の中で、水はどこにあるのでしょうか?あるいは、言い換えれば、この物質世界の中で幸せはどこにあるのでしょうか?」

(第2段落)真実を探し求める中で、私たちは道を外れ、物質的な体と心という船に依り頼み、どこにも陸地が見えないままで物質的な存在という海の中を目的もなく旅します。無慈悲に翻弄され、私たちは鬱々と考え込みます。「天の配剤において、人は何らの休息も得ることができない。」

私たちの究極の目的地は主ヴィシュヌ、至高の人格神であることを知っていさえすれば!そうすれば、私たちは自分の苦しみを終わらせることができます。この事実に関する私たちの無知をかき消すために、私たちはすべての活動を主ヴィシュヌの満足のための犠牲として行わなければならない、と主クリシュナは私たちにお教えになりました。

リグ・ヴェーダはこれを確認しています。「主ヴィシュヌはすべてのものの至高の拠り所(shelter、避難所)です。すべての半神たちは常に主を瞑想しています。」このように、私たちは半神たちもまた主ヴィシュヌの蓮の御足を自分たちの至高の目的地と考えていることを知ります。

そして彼らは、単にすべての活動を主の喜びのために行うことによって解放されます。危険な(vicious、悪意のある、凶暴な)カルマの循環からの解放を望む者は、自分の最終的な目的地として主ヴィシュヌの蓮の御足を定めねばなりません(to have)。そうでなければ、彼は悪魔的になるしかありません(will have to)。

(第3段落)ヴァルニャーシュラマの生き方、すなわちサナータナ・ダールマを辿る者は、今ではヒンズー教徒と呼ばれます。彼らの先祖たち、特に上位のカースト、すなわちブラーマナ、クシャトリヤ、そしてヴァイシャに属していた者たちは、自分たちの人生の中心に主ヴィシュヌを置きました。

人生のすべての段階において、特に家庭人の段階において、人々は主の満足のために献身奉仕を行って、家庭で主ヴィシュヌを崇拝しました。ごく少数の非常に献身的な魂は、今日でさえそうし続けています。彼らは主への奉仕のためだけにお金を集めます。

彼らはそのお金で穀物と野菜を買い、それを献身の念をもって料理し、そして主ヴィシュヌに捧げます。その後、献身者はこのプラサーダム、すなわち食べ物の形をした主の恵みに対し、それを食べることによって敬意を払います。

これらすべての活動の中で、主ヴィシュヌが享楽者であり、人は主を喜ばせる方法を探し求めます(one seeks to please Him)。過去において、時代はそのような活動に伝導的でした(訳注:かつてはそのような活動が広く行われていました。)そして今でさえ、それらは多くの場所で実践されています。実際は、そのような献身奉仕は、すべての人に、すべての場所に、そしてすべての時(to all times)にあてはまります。

(第4段落)主ヴィシュヌは至高の人格神、すべてのものの目的地です。すべての仕事を主の満足のために行うことは、結果を求める活動の循環、すなわちカルマからの解放の道を開く唯一の方法です。すべての前向きで(progressive)利益のある活動が至高主、ヴィシュヌの喜びのために為されることが勧められています(訳注:~のために~をすることが勧められています)。

聖典の言葉を繰り返して、学識のある賢人たちは、「主ヴィシュヌの蓮の御足に至ることは解放されることと同じである」と宣言します。カルマ・ヨガの過程における最後の段階は主ヴィシュヌを満足させることであり、その時点で人の独自の欲求(one's own desire)は自動的に満たされます。

この点を明確に述べながら(to delineate)、主クリシュナは、もしも仕事がご自分の満足のために為されないなら、それならすべての活動は罪で汚され、罪深い反応という結果になり、それは社会に大混乱をもたらす、とおっしゃいます。

バガヴァッド・ギーター(3.13)において、主クリシュナはこうおっしゃいます。「主の献身者は、あらゆる種類の罪から解放されます。なぜなら、彼らはまず犠牲のために捧げられた食べ物を食べるからです。個人的な感覚の楽しみのために食物を調理する他の者たちは、まことに罪だけを食べます。」

(第5段落)上に述べられたような方法で食べ物を調理して食べることは、至高主ヴィシュヌへの奉仕です。時として、それを為すことにおいて何らかの罪が犯されているように見えるかもしれません。しかし、もしも人が犠牲、すなわち主ヴィシュヌへの捧げ物の残りを取って食べる(to honor、敬意を払う)なら、それなら人は自動的にすべての呪縛する反応を免れ、解放されます。

私たちは罪を避け、そして非暴力の道を厳しく辿ろうとして非常に注意深く生きるかもしれませんが、それでも私たちの人生はカルマの反応の循環によって統御されます。したがって、私たちは知らずに多くの種類の罪を犯すことを強いられます。

私たちは仕事の上で(business transactions)、普通のやり取りで(common human dealings)、日々の雑用で(daily chores)、そして特に政治的および行政的(administrative)な活動において、非常に多くの罪を犯します。

大声で非暴力を支えるのは構いません(it is fine)が、実際の暮らしにおいて人は暴力行為を犯すことを強いられます。人は多くの種類の罪を避けることに成功するかもしれませんが、パンチャ・スーナーと呼ばれる5つの大きな罪を犯すことを逃れることは不可能です。

道を歩いているとき、私たちは望まずして多くの蟻を潰して殺すかもしれません。家を掃除している間に、私たちは多くの虫を潰して殺すかもしれません。穀物を挽いて粉にしたり火を灯したりする間に、私たちは多くの小さな命を滅ぼします。

このようにして、普通の、日々の雑用を為す間に、私たちは暴力をふるって多くの罪のない命を奪うことを強いられます。意図的に、あるいは意図せずして、私たちは罪を犯します。そのため、人間の脳によってでっち上げられた宗教が人にそれ(宗教)自身のために非暴力の道を辿るように促すとき(訳注:「それ自身のため」というのはその宗教の独自の教えに基づいてという意味と思われる)、それは必ずある者に利益を与え、別の者に困難を与えます。

(第6段落)精神的に(mentally、頭で)作り上げられた信念(belief)によって起こされた災難を免れることは不可能です。人工の法律によれば、もしもある人が別の人を殺せば、彼は絞首刑を宣告されますが、動物を殺すことに対しては、その人に対して何らの行為も為されません。

天の法はそのようなものではありません。神の法は、人と動物の両方の殺害者を罰するというものです。無神論者は、神の存在を否定します。なぜなら、彼らはそうすることで妨げられずに罪を犯すことができると考えるからです。

しかし、すべての明かされた、権威ある聖典は、家庭人は自分の普通の日々の活動を行う間に、罪のない生き物を殺すことによって、意図的に、あるいは意図せずして多くの罪を犯す、と述べます。これらの罪からの解放を得るために、家庭人は特定の犠牲を捧げることを命じられます。これらのうちで主要なものは、主ヴィシュヌに捧げられた食べ物の残りを食べて敬意を払うことです。

自分の感覚的な喜びのためだけで、主ヴィシュヌへの奉仕のためではなく食物を料理する自己中心的な家庭人に関して言えば、料理して食べている間に起こったすべての罪深い反応を苦しまねばなりません。これが天の法です。したがって、これらの罪を捨てるために、ヴェーダの宗教の信者たちは自分の家庭の活動を主ヴィシュヌへの奉仕に捧げます。

(第7段落)したがって、社会の指導者たちは主ヴィシュヌの満足のために献身奉仕をすることが勧められます。彼ら自身の利益のため、そして彼らが導く者たちの利益のためです。主クリシュナは、シュリー・アルジュナにバガヴァッド・ギーター(3.21)においておっしゃいます。

「何であれ、偉大な人の為すことを一般の人々はなぞります(to follow)。そして、何であれ彼が手本となるような行いによって定める水準を世界中が追求します。」誰もが彼らの例に倣うので、指導者たちは主ヴィシュヌへの献身奉仕の過程を注意深く研究することを要求されます。

これらは彼らの義務です。そのため、人間の社会の利益のために、献身奉仕の知識を教える(to impart、知識を授ける)大学を建てる大いなる必要性があります。

(第8段落)悲しいかな!今は社会の指導者や猛者(stalwart、強い信念を持った頑強な人)と見なされる人々が、他の人々よりももっと激しく(viciously、悪意をもって)神に反目している時代です(The times are such that ~)。

したがって、主ヴィシュヌの満足のための何の献身奉仕を彼らは為すことができるでしょうか?そして、もしも彼らが献身奉仕を為すことができないなら、それなら彼らはどうやって自分の無数の罪からの解放を得るでしょうか?

もしも社会の猛者に、主ヴィシュヌが偏在する完全真理であると、そして主は同時に人(person)であり無形でもあるためにあまねく存在する、と宣言する意思がないなら、それなら、より劣った者、路上の者は、この深遠な主題について何を理解することができるでしょうか?

至高主はすべてのものの唯一の所有者です。私たちはこの物質世界の享楽者および所有者の立場を取ることはできません。何であれ、至高主が慈悲深く私たちにご自分の残り物として与えてくださるもの、それだけを私たちは受け入れるべきです。

私たちは決して他者の所有物を欲してはなりません(must never、非常に強い否定)。イーショパニシャッドにはこう述べられています。「宇宙の中の動くものと動かないもののすべては、主によって統御され、所有されています。

したがって人は、自分の分として取り分けられた、自分にとって必要なものだけを受け入れるべきです。そして、人はそれが誰に属しているかをよく知って、他のものを受け入れるべきではありません。」

(第9段落)社会の指導者たちが自分のすべての活動の中心に至高主、ヴィシュヌを置くときにだけ、これらの活動は指導者自身に、そして彼らに従う者たちにも幸運と恵みをもたらします。しかし、もしも指導者たちが自分の活動を主ヴィシュヌのために行うことを避け、そしてその代わりに自らヴィシュヌの振りをするなら、つまり自分に従う者たちから崇拝と富と賞賛を受け、そして彼らに同じものを残り物として返すなら、それなら他の者たちは彼らの偽りの放棄に魅了され、そうして滅亡への道を辿るかもしれません。

しかし、それ以上の何も得られません。そのような指導者たちは、自分の無知な追従者(sycophant、ゴマをする者)を無駄に興奮させ、彼らに多くの罪深い活動をさせます(to induce、誘って何かをする気持ちにさせる)。

このようにして、そのような自己中心的な指導者たちは、単に自分自身の栄誉、崇拝、そして富を増すためだけに、自分に従う者たちの滅亡をもたらします。不幸にして指導者たちは、これらのわずかな量の栄誉、崇拝、そして富は彼らの死と共に焼かれて灰になる、ということを知りません。

しかし、これらの一時的な物質的な利益を得るために使われた罪深い方法は結果を生じさせ、それはそれから非常に微妙に(subtly)彼らのかすかな(subtle、繊細な、薄い)体、すなわち心、知性、および偽りの自我と混ざります。

そしてこれらの結果は後にさらなる罪深い行いの種となり、それは幾生も繰り返してカルマの反応の循環の中に魂を呪縛し、彼が多くの異なる生命の種を辿ることを強います。
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by ammolitering4 | 2013-06-06 09:21 | 「英知による放棄」 | Comments(2)