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著者の説明

お待たせしました。ほんのちょっとだけお届けします。とりあえず、まだこれだけしか訳してません。この後は目次ですが、省略します。手の平サイズで全105ページの小さな本です。訳注が多いので緑色にしてます。サテャラジャ・ダサの著作は面白そうですね。日本語ではたぶんないのでしょうけれど。。。クリシュナ意識に関する本は英語では膨大なので、細々とでも日本語でお届けし続けなければ、と思います。英語で読みたいと思う方は、可能であれば私の翻訳を原文と照らし合わせて何冊か読んでみてください。対訳で見て行くと用語や表現など理解の手助けになるかもしれません。それを手がかりにすれば、翻訳のない本やクリシュナ関連のブログに掲載されている膨大な論文や、Back to Godheadの記事など、読みやすくなるかもしれません。

こちらに本書の最初の部分だけが掲載されています。
http://www.exoticindiaart.com/book/details/krsna-consciousness-and-christianity-conversations-between-rev-alvin-v-p-hart-and-satyaraja-dasa-adhikari-IDJ860/
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クリシュナ意識とキリスト教

東西の対話

アルヴィン・V.P.ハート師とサテャラジャ・ダサ・アディーカリーとの間の会話

アルヴィン・ヴァン・ペルト・ハート師(the reverend 聖職者に対する敬称。フルネームで使う。尊師。 reverendだけでも良いが、正式ではない)は、著名なキリスト教神学者であり、1949年にニューヨーク市のジュネラル神学校(General Theological Seminary)から神学修士の学位を受けて以来、米国聖公会(Protestant Episcopal Church)の正式に任命された(ordained聖職者の役職のある)聖職者である。

1950年代半ば、彼はThe Handicapped and Their Rehabilitation( 「障害者と彼らのリハビリテーション」、編集Harry A. Pattison、出版者Thomas Publishing Company、Charles C Thomas · Publisher, LTD.、Springfield, IL )(本文中にはSt. Louisとあるが、間違いと思われる)という題名の本のために、「宗教と障害者」という主題で一章を書くように要請された。この書は今日、当該分野における多大な貢献であると考えられている。

ハート師は、1953年から1966年まで、 ベルビュー病院(Bellevue Hospital Center ニューヨークにあるアメリカ最古の総合病院、1736年創設)の臨床牧会訓練 (Clinical Pastoral Education)の牧師(chaplain、病院などの施設の礼拝堂勤務の牧師)および指導主事として働いた。その年(1966年)から現在(1989年現在)まで、ハート師は聖ルーク・ルーズベルト病院(St. Luke's-Roosevelt Hospital Center、ニューヨークにある総合病院。St. Luke'sは1858年、 Roosevelt Hospitalは1871年に創設され、1979年に合併した)で同じ地位に就いている。

サテャラジャ・ダサ・アディーカリー(スティーヴン・ローゼン)http://en.wikipedia.org/wiki/Steven_J._Rosenは、フリーランスの著述家であり、Food for the Spirit:Vegetarianism and the World Religions (New York, Bala Books, 1987)(霊のための食物:菜食と世界の宗教), India's Spiritual Renaissance:The Life and Times of Lord Chaitanya (New York, FOLK Books, 1988)(インドの霊的なルネサンス:主チャイタンニャの人生と時代), Archeology and the Vaishnava Tradition:The Pre-Christian Roots of Krishna Worship(Calcutta, India, Firma KLM Ltd., 1989)(考古学とヴァイシュナヴァの伝統:クリシュナ崇拝の前キリストの根幹)など、数冊の著作がある。(校正:最初の本の題名sprit→spirit)(いずれも邦訳があるかどうかは不明)

彼は国際クリシュナ意識協会(ISKCON)の創設者であり霊的指導者であるHis Divine Grace A.C. Bhaktivedanta Swami Prabhupadaの直弟子(initiated disciple)である。サテャラジャ・ダサはインド生まれではないが、彼の著作と学識はインドの宗教社会における重要な声としての評価を得た(to develop a reputation as)。アメリカ人のヴァイシュナヴァとして、彼はISKCONのニューヨーク支部で宗教間関係担当係官(Minister of Interreligious Affairs、Ministerは司祭、または大臣、担当係官)として働いている。
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by ammolitering4 | 2012-04-13 23:04 | 「クリシュナ意識とキリスト教」 | Comments(0)

新しい本

こんにちは。皆様お元気でいらっしゃいますか?私は最近はちょっと別のことをやってますが、同時にまた新しい本の準備もしています。リクエストも頂いていましたが、手元にないので今回はお受けできません。次の本は、ちょっと趣向を変えましてプラブパーダのお弟子さんによる本です。キリスト教の神学者との対話をまとめたもので、「クリシュナ意識とキリスト教」という題名です。原題:Krishna Consciousness and Christianity

調べ物をする分が多くて、訳注だらけになることをあらかじめご了承ください。今は下準備をしながら通読しているところで、実際に翻訳をお届けできるのはだいぶ先になります。どうぞ気長にお待ちください。キリスト教について基礎的な理解があると理解しやすいと思います。とても興味深い内容です。
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by ammolitering4 | 2012-04-11 12:09 | Comments(4)

第8章 後半

第17段落
カルマの道は非常に複雑です。したがって、私たちはカルマ、アカルマ、そしてヴィカルマの間の違いを理解すべきです。もしも私たちが単にクリシュナ意識に携わるなら、すべては明らかになります。そうでないなら、私たちは呪縛されないようにするために、自分が何をすべきかということ、そして自分が何をすべきでないかということの間の区別をつけなくてはなりません。

普通の人生において(in the ordinary course of life、人生の普通の過程において)、私たちは知らずに何らかの法律を破り、その結果に苦しまねばなりません。同様に、自然の法律は非常に厳しくて厳格なので、それらは何らの言い訳も受け入れません。

火が燃えるのは自然の法律であり、たとえ子供がそれを触っても、彼は火傷します。彼の無知と無邪気さにも関わらずです。このため私たちは、自然の厳格な法律が私たちを苦しみに縛り付けるような反応をしないように(lest)、自分の活動の方針(our course of action)を非常に注意深く選ばねばなりません。したがって、何の仕事をし、何の仕事を避けるかを理解することが必要です。

第18段落
カルマという言葉は、定められた義務を指します。ヴィカルマという言葉は、人の定められた義務に反する活動を指します。そして、アカルマという言葉は、全く何の反応もない活動を指します。アカルマ的な活動を遂行するにあたって、何らかの反応があるように見えるかもしれませんが、実際にはそれはありません。

私たちがクリシュナの指示の下で働くとき、これは実際にそうです―――反応がありません。もしも私たちが誰かを殺すことを自ら行うなら(if we take it upon ourselves to kill someone)、私たちは国家政府によって死刑にされます(we are subject to)。そのとき私たちの活動はヴィカルマと呼ばれます。

なぜなら、それらは定められた活動に反するからです。しかし、もしも政府が私たちを軍隊に徴兵し、そして私たちが戦いに携わって誰かを殺すなら、私たちは反応に苦しみません。そしてこれはアカルマと呼ばれます。

一つの場合には私たちは自分の気まぐれに応じて活動しており、もう一つの場合には私たちは政府の指示の下で活動しています。同様に、私たちがクリシュナの指示の下で活動するとき、私たちが行った活動はアカルマと呼ばれます。なぜなら、そのような種類の活動は反応を持たないからです。

(サンスクリット引用)

「活動の中に非活動を、そして非活動の中に活動を見る者は、人間の中の知性的な者です。そして彼は、あらゆる活動に携わっているにも関わらず、超越的な立場にいます。」(Bg.4.18)

第19段落
活動にも関わらずカルマ的な反応がないということを実際に見ることのできる者、アカルマの性質を理解する者は、実際に物事をありのままに見ます。アカルマという言葉は、カルマの反応を避けようとしている者を指します。

自分の活動をクリシュナ意識に繋げることによって、人はあらゆる種類の活動をするかもしれませんが、それにも関わらず彼は自由です。クルクシェトラの戦場において、アルジュナは戦いにいそしみ、そしてドゥリョダーナの側にいた者たちもまた、戦いにいそしみました。

私たちは、なぜアルジュナは反応から自由で、他方で、ドゥリョダーナはそうでないのか、ということを理解しなければなりません。外的には、私たちは両者とも戦いにいそしんでいるのを見ることができます。しかし私たちは、「アルジュナはクリシュナの命令の下で戦っているため、彼は反応によって縛られない」ということを理解すべきです。

このように、誰かがクリシュナ意識において働いているのを見るとき、私たちは彼の仕事は何の反応も持たない(to carry)、ということを理解すべきです。そのような仕事を見てそれを理解することができる者は、非常に知性的(サ・ブッディーマーン)であると考えられるべきです。その手法(technique)は、人が何をしているかを見ることにはあまりなく、なぜ彼がそれをしているかを理解することにあります。

第20段落
実際は、アルジュナは戦場において非常に喜ばしくない(unpleasant)活動に携わっていました。しかし、クリシュナ意識だったので、彼は何の反応にも苦しみませんでした。私たちは、自分が非常に良い仕事だと考えるかもしれない何らかの活動を行っているかもしれません。

しかし、もしも私たちがそれをクリシュナ意識において行わないなら、私たちは反応に苦しまねばなりません。物質的な観点からは、戦わないというアルジュナの最初の決断は良いものでした。しかし、霊的な観点からは、それはそうではありませんでした。

徳のある(pious、敬虔な)仕事をするとき、私たちは特定の結果を得ます。私たちは、とても良い家庭に、(つまり)ブラーマナの、あるいは裕福な人の家庭に生まれるかもしれず、非常に豊かになったり、学識があったりするようになるかもしれず、あるいは非常に美しくなるかもしれません。

他方で、もしも私たちが非敬虔な(impious、卑俗な)仕事をするなら、私たちは身分の低い家庭、あるいは動物の家庭に生まれなければならないかもしれず、あるいは文盲(illiterate、無学)や愚鈍(foolish)になったり、あるいは非常に醜くなったりしなければならないかもしれません。

たとえ非常に徳のある仕事に携わって良い生を受けても、私たちはそれでも活動と反応の厳格な法律の影響下にあります。私たちの主要な目的は、この物質世界の法律を逃れることであるべきです。もしもこれを理解しないなら、私たちは貴族的な家庭、富、あるいは良い教育、または美しい体に魅了されるようになるかもしれません。

私たちは、「自分は物質的な人生のためのこれらすべての設備を持っているにも関わらず、誕生、老齢、病気と死から自由ではない」ということを理解するようになるべきです。このことに関して私たちに注意を促すために、シュリー・クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて警告なさいます。

(サンスクリット引用)

「物質世界の中の最高の惑星から最低のそれに至るまで、すべては繰り返す誕生と死が存在する悲惨な場所です。」(Bg.8.16)

第21段落
ブラーマロカ、物質的な宇宙の中の最高の惑星においてさえも、誕生と死の繰り返しが存在します。これから自由になるためには、私たちはクリシュナの惑星に行かねばなりません。裕福な人や美しい人であることは非常に素敵(nice)かもしれませんが、どれくらい長く私たちはそうしていられるでしょうか?

それは私たちの永遠の人生ではありません。私たちは50年、60年、あるいは最長で100年の間、学識があって豊かで、そして美しくいられるかもしれません。しかし、本当の人生は50年や100年ではなく、千年でもなく、百万年でさえありません。

私たちは永遠であり、そして私たちは自分の永遠の人生を得なければなりません。私たちがそれを得ていないというのが、私たちの問題全体です。その問題は、私たちがクリシュナ意識であるとき、解決され得ます。

第22段落
もしも私たちがクリシュナ意識においてこの物質的な体を去るなら、私たちはもはや物質世界に戻る必要はありません。要点は、この物質的な存在を完全に避けることです。物質世界における自分の状況を改善する、ということではありません(it is not the question of)。

刑務所において人は第一級の囚人になるために自分の状態を改善したいと思うかもしれず、そして政府は彼に第一級の評価を与えるかもしれませんが、正気の者は誰も囚人になることによって満足するようになることはありません。

彼は完全に刑務所から出ることを望むべきです。物質世界において、私たちの一部の者は一級、(そして他の者は)二級、あるいは三級の囚人ですが、どの場合でも私たちは皆、囚人です。本当の知識は、単に修士号、あるいは博士号を得ることにあるのではなく、存在のこれらの基本的な問題を理解することにあります。

(サンスクリット引用)

「そのすべての行いが感覚の満足への欲求を含まない者は、完全な知識の中にあるとして理解されます。彼は賢人たちによって、『自分の結果を求める活動が完璧な知識の火によって燃え尽くされた者』と言われます。」(Bg.4.19)

第23段落
パンディタムという言葉は学識があることを意味し、ブダーは「精通している」を意味します。10章の中で、私たちは「ブダー・バーヴァサマンヴィター」という節においてもブダーという言葉を見出します。(Bg.10.8)バガヴァッド・ギーターによれば、単に大学から多くの教育を受けたからといって、人は学識のある人とは限りません(may not be)。バガヴァッド・ギーターは、すべてのものを等しい水準において見ることができる者は学識がある人だ、と言います。

(サンスクリット引用)

「本当の知識の力によって、謙虚な賢人は等しい見方をもって、学識があって柔和なブラーマナ、牛、象、犬、そして犬食い(賎民)を見ます。」(Bg.5.18)

第24段落
インドでは、ヴェーダの文明によれば、学識のあるブラーマナは人間の社会において最高の者と考えられます。学識があって柔和なパンディタは、そのようなブラーマナを犬、あるいは犬を食べる賎民と同じ水準において見ます。言い換えると、彼は最高と最低の間に区別を見ません。

これは、学識のあるブラーマナであることは犬であることよりも優れたものではない、ということでしょうか?いいえ、それはそうではありません。しかし、パンディタは彼らを同じとして見ます。なぜなら、彼は皮膚を見ず、霊を見るからです。

すべての生命体の中に同じ霊魂を見る術(art、すべ)を学んだ者は、パンディタと考えられます。なぜなら、実際はすべての生命体は霊的な火花(校正. →,)、完全な霊的な全体の欠かすべからざる小片だからです。

霊的な火花はすべてにおいて同じですが、それは異なる衣服によって覆われています。立派な(honored、名誉ある)人は、非常にみすぼらしい服を着て来るかもしれませんが、これは彼が軽んじられる(dishonor、名誉を汚す)べきだということを意味するのではありません。バガヴァッド・ギーターにおいて、これらの物質的な体は霊魂によってまとわれる衣服になぞらえられます。

(サンスクリット引用)

「人が古いものを捨てて新しい衣服をまとうように、同様に、魂は古くて役に立たないものを捨てて新しい物質的な体を受け入れます。」(Bg.2.22)

第25段落
何かの生命体を見るときはいつでも、私たちは「ここに霊魂がいる」と考えるべきです。そのような生命の霊的な見方を理解することのできる者は誰でもパンディタです。チャーナキャ・パンディットは、このようにパンディタのための教育あるいは資格のための基準を与えます。

「学識のある人は、自分の妻を除いて、すべての女性を自分の母として見ます。彼はすべての物質的な所有物を路上のゴミとして見て、そして彼は他者の苦しみを自分の中に見ます(as he would look on them in himself)。」

主ブッダは、「私たちは動物でさえ、言葉あるいは行いによって傷つけるべきではない」と教えられました。これがパンディタのための資格であり、これは人生の基準であるべきです。したがって、「人は彼の学位によってではなく、自分の人生の見方(his vison of life)およびその見方に応じた自分の活動に応じて、教育があると考えられるべきだ」と理解されるべきです。

これがバガヴァッド・ギーターからの、パンディタという言葉の理解です。同様に、ブダーという言葉は特に、聖典の研究に造詣の深い者を指します。そのような認識と聖典の学習の結果は、バガヴァッド・ギーターにおいてこのように描写されています。

(サンスクリット引用)

「私はすべての霊的および物質的な世界の源です。すべてのものが私から放射します。これを完璧に知る賢者は私への献身奉仕にいそしみ、そして心から(with all their hearts)私を崇拝します。」(Bg.10.8)

第26段落
造詣の深い者、すなわちブダーは、クリシュナがすべての放射の源であると理解した者です。何であれ私たちがたまたま見るものは、クリシュナの放射に他なりません。何百万年も何百万年もの間、太陽光は太陽から放射しています。そしてそれでも太陽はそのままです。同様に、すべての物質的および霊的なエネルギーは、クリシュナから来ています。これを知ることの結果として、人はクリシュナの献身者になります。

第27段落
このように、自分はクリシュナ意識のいて働かねばならないと知っている者、もはやこの物質世界を楽しみたいと望まない者は、実際に学識があります。誰もが、欲望(カーマ)が原因で物質世界で働いています。しかし、賢い人はこの欲望の指図から自由です(カーマ・サンカルパ・ヴァルジター)。

どうしてこれが可能なのでしょうか?ジニャーナーグニ・ダグダー・カルマーナム。知識の火は罪深い活動のすべての反応を焼き尽くします。それは浄化するものの中で最も強力です。私たちの人生は、私たちがすべての知識の王であるクリシュナ意識というこの超越的な知識、ラージャ・ヴィデャーを得ようと努力する限りにおいて、意味と方向性を持ちます。

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以上で本書の翻訳を終わります。以下、索引など全て省略します。
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by ammolitering4 | 2012-04-06 11:28 | 「知識の王」 | Comments(2)

第8章 前半

第8章 クリシュナの知識における活動

(サンスクリット引用)

第1段落
「私に影響を与える仕事はありません。また、私は活動の結果を望むこともありません。私に関するこの真理を理解する者もまた、仕事の結果的な反応に絡まることはありません。」(Bg.4.14)

第2段落
世界全体がカルマによって縛られています。私たちは皆、1ミリメートルの長さの中に何百万と存在する微生物や菌の存在を知っています。ブラーマ・サムヒターの中で、「インドラゴパと呼ばれる微生物に始まり、天国のような惑星の王であるインドラまで、皆がカルマ、仕事の反応に縛られている」と述べられています。

私たちは皆、良いものであれ悪いものであれ、自分の活動の反応を苦しんだり、あるいは楽しんだりしなければなりません。これらの反応を苦しんだり楽しんだりしなければならない限り、私たちはこれらの物質的な体に縛られています。

第3段落
自然の配剤によって、生命体には自分の苦しみ、あるいは楽しみのための物質的な体が与えられます。異なる目的のために異なる種類の体が得られます。虎の体は、殺すことと生肉を食べることのために作られています。同様に、豚は糞を食べるように作られています。

そして、人間として、私たちの歯は野菜と果物を食べるように作られています。これらの体のすべては、生命体によって過去の生においてなされた仕事に応じて作られています。私たちの次の体は、私たちが今行っている仕事に応じて準備されています。

しかし、先に引用した節において、シュリー・クリシュナは、ご自分の活動の超越的な性質を知っている者は、活動の反応から自由になる、と示されます。私たちの活動は、私たちが再びこの物質世界において呪縛されることのないようにするものであるべきです。

これは、もしも私たちが、「クリシュナを研究することと、主の活動の超越的な性質を学ぶこと、そして主がこの物質世界と霊的な世界においていかに振舞われるかを理解すること」によってクリシュナ意識になるなら、可能とされ得ます(this can be made possible)。(訳注:一文が長いので、理解の補助のために括弧を入れています)

第4段落
クリシュナがこの地上においでになるとき、主は私たちのようではありません。主は完全に超越的です。私たちは自分の活動の結果を望みますが、クリシュナは何の結果も望まず、また、主の活動には何の反応もありません。また、主には結果を求める活動(ナ・メ・カルマパーレ・スプリハー)のための何の欲求もありません。

取引に入るとき、私たちは利益を欲します。そしてその利益で私たちは自分の人生を楽しめるものにするための物を買いたいと望みます。制約された魂が何かをしようとするときはいつでも、その背後に楽しみへの欲求があります。しかし、クリシュナは望むべき何も持ちません。

主は至高の人格神であり、そして主はすべてのもので完全に満たされています。クリシュナがこの地上にいらしたとき、主は多くの女友達と1万6千人以上の妻たちを持っていました。そして、一部の人々は主は非常に官能的だったと考えます。しかし、これ(訳注:主が官能的だったということ)は事実ではありませんでした。

第5段落
私たちは、クリシュナとの関係の意味を理解しなければなりません。この物質世界において、私たちは父、母、妻、あるいは夫として、多くの関係を持っています。何であれ私たちがここで見出す関係は、私たちが至高主と持っている関係の歪んだ反映に他なりません。

何であれ私たちがこの物質世界の中において見出すものは、完全真理から生じていますが、ここではそれは、時間の中で歪んで反映されています。何であれ私たちがクリシュナと持っている関係は続きます。もしも私たちが友情において関係を持っているなら、その友情は永遠で、幾世も(from life to life)続きます。

物質世界では、友情は2~3年存在し、そして壊れます。したがってそれは「歪んだ」、「一時的な」、あるいは「本物でない」、とよばれます。もしも私たちがクリシュナと友情を結ぶなら、それは決して壊れません(校正:,→ .)。もしも私たちがクリシュナを自分の主人とするなら、私たちは決して騙されません。

もしも私たちがクリシュナを自分の息子として愛するなら、主は決して死にません。もしも私たちが主を自分の恋人として愛するなら、主はすべてのうちで最良となり、別離はありません。クリシュナは至高主であるため、主は無限であり、無限の数の献身者をお持ちです。

一部の者は主を恋人あるいは夫として愛そうとしており、そしてそのためクリシュナはこの役割を受け入れます。どのような方法で私たちがクリシュナに近付くのであれ、バガヴァッド・ギーターにおいておっしゃるように、主は私たちを受け入れられます。

(サンスクリット引用)

「彼らすべてに―――彼らが私に服従するとき―――私は相応に報います。すべての者がすべての側面において私の道を辿ります、おお、プリターの息子よ。」(Bg.4.11)

第6段落
ゴピー、すなわちクリシュナの牛飼いの女友達は、過去の生において、クリシュナを自分の夫として得るために大変な苦行を行いました。同様に、シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、シュカデヴァ・ゴスヴァーミーは、「クリシュナと遊んでいた少年たちは、クリシュナを遊び相手として得るために、自分の過去において大変な苦行と禁欲を行った」とおっしゃいます。

このように、クリシュナの遊び友達、仲間たちと妻たちは、普通の生命体ではありません。私たちはクリシュナ意識について何も知らないので、主の活動を取るに足らないものとして受け取ります。しかし、実際はそれらは荘厳です。私たちの欲望の完全な完成(all perfection)がそこにあります。何であれ私たちが本質的に持っている欲望は、私たちがクリシュナ意識にあるときに完全に満たされます。

第7段落
クリシュナは、ご自分と遊ぶ友人を必要としませんでした。また、主はただ一人の妻も欲しませんでした。私たちは、満たしたい何らかの欲望を持っているために、妻をめとります。しかし、クリシュナはご自分だけで完全です(プールナム)。

貧しい人は銀行に千ドル持つことを望むかもしれませんが、何百万(ドル)も持っている豊かな人は、そのような望みは持ちません。もしもクリシュナが至高の人格神であるなら、なぜ主は欲望を持つべきでしょうか?そうではなく、主は他の者たちの欲望を満たします。

人が乞い、神が与えます。(訳注:Man proposes, God disposes.諺。「人事を尽くして天命を待つ」、「計画は人に在り、成敗は天に在り」。To proposeは、申し入れる、提案する、などの意味。)もしもクリシュナが何かの欲望を持っていたなら、主は不完全です。なぜなら、主は何かを欠いていることになるからです。

したがって主は、ご自分は何の満たすべき欲望もない、とおっしゃいます。ヨゲシュバラ、すなわちすべてのヨギーたちの主人として、何であれ主が意志なさるものは直ちに実現します(to realize)。欲望の余地はありません(There is no question of desire)。

主は、ただご自分の献身者の欲望を満たすために、夫、あるいは恋人、あるいは友人になります。もしも私たちがクリシュナを友人、主人、息子あるいは恋人として受け入れるなら、私たちは決して失望しないでしょう(to be frustrated)。すべての生命体はクリシュナと特定の関係を持っています。しかし、現在はこの関係は覆われています。私たちがクリシュナ意識において発達するにつれて、それは明かされるでしょう。

第8段落
至高主は完全であって何もすることがありませんが、主は例を示すために働かれます。主は物質世界におけるご自分の活動に縛られず、そしてこれを知る者もまた、反応的な活動から自由になります。

(サンスクリット引用)

「古代におけるすべての解放された魂は、この理解をもって活動し、そしてそのため解放を得ました。(原文:All the liberated souls in ancient times acted with this understanding and so attained liberation.)したがって、古代人(ancients)(がした)ように、あなたは自分の義務をこの神聖なる意識において行うべきです。」(Bg.4.15)

第9段落
クリシュナ意識の過程は、霊的な人生において成功を得た偉大なアーチャーリャたちの足跡を私たちが辿るということを必要とします。もしも人が、偉大なアーチャーリャたち、賢人たち、献身者たち、そして自分の人生においてカルマ・ヨガを行った啓蒙された王たちによって示された例に従うことによって活動するなら、彼もまた自由になるでしょう。

第10段落
クルクシェトラの戦場において、アルジュナは戦争に携わることによって自分の活動の中に呪縛されることを非常に恐れていました。したがってクリシュナは彼に、もしも彼がご自分のために戦ったなら、呪縛の可能性はない、と保証なさいました。

(サンスクリット引用)

「知性的な者でさえ、何が活動であって何が非活動(inaction)であるかを区別することにおいて幻惑されます。今、私はあなたに、何が活動であるかを説明します。それを知れば、あなたはすべての罪から解放されるでしょう(shall)。」(Bg.4.16)

第11段落
人々は実際に、何が仕事(カルマ)で何が仕事でない(アカルマ)かについて混乱しています。ここでクリシュナは、「偉大な学者たち(カヴァヤー)でさえ、仕事の性質について幻惑されている」と示されます。どの活動が本物でどれがそうでないか、どれが真正でどれがそうでないか、どれが禁じられていてどれがそうでないか、を知る必要があります。

もしも私たちが仕事の原則を理解するなら、私たちは物質的な呪縛から自由になることができます。したがって、どうやって仕事を行うかを知る必要があります。私たちが物質の体を去るとき、もはやもう一つ(の体)を取ることを強制されず、自由に霊的な天空に入れる(be free to enter into)ようにするためです。正しい仕事の原則は、11章の最後の節においてシュリー・クリシュナによって明確に述べられています。

(サンスクリット引用)

「我が親愛なるアルジュナよ。過去の活動の汚染から、そして精神的な推量から自由になって、私への純粋な献身奉仕に携わっている者、すべての生命体に対して友好的である者は、確かに私のところに来ます。」(Bg.11.55)

第12段落
この一節は、バガヴァッド・ギーターの真髄を理解するのに十分です。人は「私の仕事(訳注:My work、クリシュナのために働くこと)」に携わらねばなりません。そして、この仕事とは何でしょうか?それは、クリシュナがアルジュナにご自分に服従するようにおっしゃる、バガヴァッド・ギーターの中の最後の教えにおいて示されます。(Bg.18.66)

第13段落
アルジュナの例によって、私たちは、自分はクリシュナによって認められた仕事だけをすべきである、ということを学ぶべきです。これが人間の人生の使命ですが、私たちはそれを知りません。自分の無知のため、私たちは人生の身体的あるいは物質的な概念に関わる非常に多くの仕事に携わります。クリシュナはアルジュナに戦うことを望まれ、そしてアルジュナは戦いたくなかったにも関わらず戦いました。クリシュナがそれを望まれたからです。私たちはこの例に倣うことを学ばねばなりません。

第14段落
もちろん、クリシュナはアルジュナに彼の仕事が何であるのかを言うためにそこにいらっしゃいましたが、私たちについてはどうでしょうか?シュリー・クリシュナはアルジュナに個人的に、これこれこういうふうに活動するように、と指示していらっしゃいましたが、単にクリシュナが私たちの前に個人的にいらっしゃらないからといって、私たちは指示がないのだと考えるべきではありません。実に、指示は存在します。バガヴァッド・ギーターの最後の章において、私たちが行うべき正しい仕事が与えられています。

(サンスクリット引用)

「献身者に至高の秘密を説明する者にとって、献身奉仕は保証されています。そして最後に彼は私のもとに戻ります。この世の中に、私にとって彼より愛しい従者はいません。また、もっと愛しい者が未来において現れることもありません(nor will there ever be one more dear.)。」(Bg.18.68-69)

第15章
したがって、バガヴァッド・ギーターの方法(method)を布教し、人々をクリシュナ意識にすることは、私たちの義務です。クリシュナ意識が欠けているので、人々は実際に苦しんでいます。世界全体の利益のために、私たちは皆、クリシュナの科学を広めることに携わるべきです。

主チャイタンニャ・マハープラブは、クリシュナ意識を教えるという、この使命をもっておいでになり、そして主は、「身分に関わらず、もしも人がクリシュナ意識を教えるなら、彼は霊的指導者と考えられるべきです」とおっしゃいました。

バガヴァッド・ギーターとシュリマッド・バーガヴァタムは、どちらも、どうやってクリシュナ意識になるかという情報に満ちています。主チャイタンニャ・マハープラブはこれらの2冊の本を選び、世界中のあちこちの人々(people in all corners of the world)が、このクリシュナの科学をすべての町と村で広めることをお頼みになりました。

主チャイタンニャ・マハープラブはクリシュナご自身であり、そして私たちはこれを、私たちの正しい仕事に関するクリシュナの指示として受け取るべきです。しかし、私たちは、個人的な解釈や動機なくして、ありのままにバガヴァッド・ギーターを提示するように注意すべきです。一部の人々はバガヴァッド・ギーターの解釈を提示します。しかし、私たちは(訳注:バガヴァッド・ギーターの、あるいはクリシュナの)言葉をシュリー・クリシュナによって話されたように提示すべきです。

第16段落
クリシュナのために働く者は、物質世界の中の他の誰ものように働いているように見えるかもしれませんが、これはそうではありません。アルジュナはちょうど普通の軍人のように戦ったかもしれませんが、彼はクリシュナ意識において戦ったので、自分の活動の呪縛から自由でした。

このように、物質的であるように見えたにも関わらず、彼の仕事は全く物質的ではありませんでした。それが何であるかに関わらず―――クリシュナによって認められたいかなる活動も、反応を持ちません。戦うことはあまり良い(nice)ことではないかもしれません。

しかし時として、クルクシェトラの戦いの場合のように、それは絶対に必要です。他方で、世界の意見においては非常に利他的あるいは人道的であるかもしれない仕事を私たちはするかもしれませんが、それでも私たちは物質的な活動に縛られます。ですから、重要なのは活動そのものではなく、活動がなされるときの意識です。

(サンスクリット引用)

「活動の複雑さは理解するのが非常に困難です。したがって、活動とは何か、禁じられた活動とは何か、そして非活動とは何かを、人は正しく知るべきです。」(Bg.4.17)
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by ammolitering4 | 2012-04-06 11:28 | 「知識の王」 | Comments(0)

第7章 後半

第17段落
その荘厳で純粋な知識とは何でしょうか?それは、私たちは神の欠かすべからざる一部である、そして私たちは自分の意識を至高の意識と繋げるべきものである、という知識です。これが物質世界における最も純粋な知識です。

ここでは、すべてが物質自然の相―――徳、熱情、そして無明―――によって汚染されています。徳もまた、一種の汚染です。徳において人は自分の立場と超越的な主題その他について気づくようになりますが、彼の欠陥は、「今、私はすべてを理解した。もう、私は大丈夫だ」と考えることにあります。

彼はここに留まりたいと思います。言い換えると、徳の相にある者は第一級の囚人になり、そして刑務所で幸せになるため、そこに留まりたいと望みます。そして、熱情と無明の相にある者については、何をか言わんや?

要点は、私たちは徳の特質でさえも超越しなければならない、というものです。超越的な立場は、アハム・ブラーマースミー―――「私はこの物体ではなく、霊である」―――という認識で始まります。しかし、この立場さえ不安定です。より多くのものが必要とされます。

(サンスクリット引用)

「このように超越的に位置している者は、直ちに至高のブラーマンを認識します。彼は決して嘆かず、何かを得たいと望むこともありません。彼はすべての生命体に対して平等です。その状態において彼は私への純粋な献身奉仕を得ます。」(Bg.18.54)

第18段落
ブラーマ・ブーターの段階において、人はもはや物体と(訳注:自分を)同一視しません。人がブラーマー・ブーターの水準において確立したことの最初のしるしは、彼が陽気(プラサンナートマー)になるということです。その水準においては、嘆きも渇望もありません。

しかし、たとえ私たちがこの水準に上がっても、クリシュナへの愛情ある奉仕を習慣づけなければ、再び物質的な渦に落ちる可能性があります。(原文:But even if we rise to this stage and do not take to the loving service of Krishna, there is the possibility of falling down again into the material whirlpool.校正:But even if we rise to this stage, provided we do not take to ~)

私たちは非常に空高く上がるかもしれませんが、もしもそこに拠り所(shelter、避難所)を持たないなら、もしもどこかの惑星の上に着地しないなら、私たちは再び落ちます。単にブラーマ・ブーターの水準を理解することは、私たちがクリシュナの蓮の御足に依り頼まない限り、私たちを助けません。私たちがクリシュナへの奉仕に携われば直ちに、もはや再び物質世界に落ちる可能性はありません。

第19段落
私たちの性質は、何か携わることを欲する、というものです。子供は何か悪さをするかもしれませんが、何かすること(engagement)を与えられない限り、彼はいたずらをしないでおくことができません。何かおもちゃを与えられると、彼の注意はそらされ、彼のいたずらな活動は止まります。

私たちはちょうどいたずらな子供のようです。そしてそのため、私たちは霊的な仕事(engagement)を持たねばなりません。単に自分は霊魂であると理解することは助けになりません。自分は霊であると理解して、私たちは霊的な仕事によって霊を維持しなければなりません。

人がすべての物質的な仕事を放棄し、家と家族を捨てて放棄階級、サンニャーサとなり、しばらくの間瞑想した後で、幾つかの病院を開くことや政治に関わることによって博愛的な仕事をし始めることは、インドでは珍しくありません。

病院を建てる仕事は政府によってなされています。それによって人々が自分の物質的な体を、修復するのではなくて実際に捨てることができる病院を作るのは、サンニャーサの義務です。しかし、本当の霊的な活動とは何かを知らないため、私たちは物質的な活動をします(to take up、従事する)。

第20段落
クリシュナ意識において完璧になることによって、やがて知識と英知が見出されます。最初は何らかの挫折(discouragement、落胆、失望、支障)があるかもしれませんが、「やがて」を意味する「カーレナ」という言葉は、もしも単に辛抱するなら私たちは成功する(will)、ということを示します。次の節に述べられているように、信仰(faith)が必要とされます。

(サンスクリット引用)

「超越的な知識に浸っていて、自分の感覚を抑える信仰深い(faithful)者は、すぐに至高の霊的な平和を得ます。」(Bg.4.39)

第21段落
躊躇していて、何の信仰(faith)も持たない者にとって、クリシュナ意識は非常に難しいものです。私たちの日常の事柄においてさえ、ある程度の信頼(faith)が必要とされます。切符を買うとき、私たちは「航空会社が自分を目的地に連れていってくれる」という信頼を持っています。

信頼なくして、私たちは物質世界の中で生きることさえできません。霊的な発達を遂げることに関しては、何をか言わんや?(校正:疑問符が抜けている)私たちはどこに信頼を置けばよいのでしょうか?(Where are we to keep our faith?)権威にです。

私たちは、自分の切符を正式に認められていない会社に予約すべきではありません。信頼はクリシュナ、バガヴァッド・ギーターの話者に置かれねばなりません。私たちはどうやって信仰深く(faithful)なるのでしょうか?感覚の統御(サムヤテンドリヤー)が必要とされます。

私たちは、自分の感覚を満足させたいがため、物質世界にいます。もしも私たちが、医者が自分を治してくれる、という信頼を持っていて、そして彼が私たちに「これこれの物を食べるな」と言い、そして私たちがどちらにしてもそれを食べるなら、私たちはどのような信頼を持っているのでしょうか?

もしも私たちが自分の医者に信頼を持っているなら、私たちは治癒のための彼の処方に従います。要点は、私たちは信頼をもって指導に従わねばならない、ということです。そうすれば英知が訪れます。私たちが英知の段階に至るとき、結果はパラーム・シャーンティム―――至高の平和です。

クリシュナは、「人が感覚を統御するとき、信仰は近い将来(アチレナ)に訪れる」と示されます。クリシュナへのその段階の信仰を得たとき、人は自分が世界で最も幸せな者だと感じます。これが私たちの立場です。私たちは処方(formula)を受け入れて、それを信頼をもって実行しなければなりません。

この信頼は、三流の人にではなく、至高の権威に置かれねばなりません。私たちは信頼を置くことのできる霊的指導者を探し求めねばなりません。クリシュナは最も権威のある名士です。しかし、クリシュナ意識である誰でもが(訳注:霊的指導者として)受け入れられ得ます。

なぜなら、完全にクリシュナ意識である人はクリシュナの真正なる代理人だからです。クリシュナの代理人の言葉を味わうと、私たちは満足を感じます。ちょうど、私たちが十分な食事をしたときに満足を感じるようなものです。

(サンスクリット引用)

「しかし、明かされた聖典を疑う、無知で信仰のない(ignorant and faithless)者たちは、神意識を得ません。疑い深い魂には、この世界にも次のにも、幸せはありません。」(Bg.4.40)

第22段落
この知識の道を辿ることを躊躇する者には、機会はありません。躊躇は無知(アジニャス・チャ)が原因です。クリシュナ意識を習慣づけることを躊躇する者にとっては、この物質世界でさえ幸せではないでしょう(will)。そして次の世については何をか言わんや?物質世界は既に悲惨です。

しかし、もしも人が信仰を持たないなら、それはもっと悲惨でしょう(will)。このように、信仰のない者にとって、状況は非常に不安定です。私たちは銀行に何千ドルも預けるかもしれません。なぜなら、私たちは銀行が潰れないという信頼を持っているからです。

もしも私たちが銀行や航空会社に信頼を持っているなら、なぜ非常に多くのヴェーダ文献によって、そして非常に多くの賢人たちによって至高の権威であるとして認められているシュリー・クリシュナに信頼を持たないのでしょうか?

私たちの立場は、シャンカラーチャーリャ、ラーマーヌジャチャーリャ、そしてチャイタンニャ・マハープラブなどの偉大な権威者の足跡を辿るというものです。もしも私たちが自分の義務を果たすことと彼らの足跡を辿ることによって自分の信仰を保つなら、成功は保証されます。

第23段落
前述のように、私たちは完全真理を見た者を探し求めて彼に服従し、彼に奉仕をしなくてはなりません。これがなされるとき、人の霊的な救済に疑いはありません。誰もが神を見たいと切望しています。しかし、私たちの人生の現在の段階では、私たちは制約されており、幻惑されています。

私たちは物事のありのままの姿について何も知りません。私たちはブラーマンであって、もともと陽気なのですが、どういうわけか、私たちは自分の本来の立場から落ちてしまいました。私たちの性質はサック・チッド・アーナンダ、永遠で、喜びに満ち、知識に満ちています。

しかし、この体は死ぬことが運命づけられており、存在している間は無明と悲惨さに満ちています。感覚は不完全であり、そしてそれらを通して完全な知識を得るのは可能ではありません。したがって、バガヴァッド・ギーターの中で、「もしも超越的な知識を学びたいと少しでも望むなら、私たちは実際に完全真理(タッド・ヴィッディー・プラニパーテナ)を見た者に近づかねばならない」と述べられています。

伝統的に、ブラーマナは霊的指導者になることになっています(be meant to be)。しかし、このカリの時代においては、資格のあるブラーマナを見つけるのは非常に困難です。結果として、資格のある霊的指導者を見つけるのは非常に困難です。

したがってチャイタンニャ・マハープラブは、(サンスクリット引用)を勧められました。「人がブラーマナ、あるいはシュードラ、あるいはサンニャースィー、あるいは家庭人であれ、それは関係ありません。もしも彼がクリシュナの科学を知っているなら、彼は真正なる霊的指導者です。」

第24段落
バガヴァッド・ギーターはクリシュナの科学であり、もしも私たちがそれを自分の議論、感覚、そして哲学的な知識のすべてをもって詳細に研究するなら、私たちはその科学を知るようになるでしょう。私たちが自分を盲目的に服従させるべきだというのではありません(訳注:私たちは盲目的に服従すべきなのではありません。)

霊的指導者は自己を認識していて完全真理に位置しているかもしれません。しかし(yet)私たちは、すべての霊的な要点を理解するために彼に質問しなければなりません。もしも人が本当にクリシュナの科学に関して質問に答えることができるなら、どこで生まれたか、あるいは何であるかに関わらず―――ブラーマナ、あるいはシュードラ、あるいはアメリカ人、インド人、あるいは他の何であれ―――彼は霊的指導者です。

医者に行くとき、私たちは彼に、彼がヒンズー教徒、キリスト教徒、あるいはブラーマナであるかと尋ねません。彼は医師の資格を持っており、私たちは「先生、私を治療してください。私は苦しんでいます」と言って単に服従します。

第25段落
クリシュナは霊的な科学の究極の目的地です。もちろん、私たちがクリシュナについて語るとき、私たちは神を指しています。世界中、そして宇宙中に神を指す(for)多くの名前があります。しかし、ヴェーダの知識によれば、クリシュナが至高の名前です。

したがって、主チャイタンニャ・マハープラブは、この時代における(自己)認識のための至高の方法として、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることを勧められます。

チャイタンニャ・マハープラブは、カーストあるいは社会的な地位に何の区別もつけられませんでした。実に、主の主要な弟子のほとんどは、社会において堕落していると考えられていました。チャイタンニャ・マハープラブは、イスラム教徒であったハリダーサ・タークラをナーマーチャーリャ、すなわち聖なる御名の教師として任命することさえなさいました。

同様に、主チャイタンニャの主な弟子の二人であるルーパ・ゴスヴァーミーとサナータナ・ゴスヴァーミーは、かつてサーカラ・マッリクとダビル・カースとして知られており、彼らはイスラム政府によって雇われていました。当時、ヒンズー教徒は非常に厳格だったので、もしもブラーマナがヒンズー教徒でない者からの奉仕を受け入れたなら、彼は直ちにヒンズー教徒社会から追放されました。

これにも関わらず、ルーパ・ゴスヴァーミーとサナータナ・ゴスヴァーミーはチャイタンニャ・マハープラブによってクリシュナの科学における主要な権威とされました。ですから、誰にも制約はありません。もしもクリシュナの科学を知っているなら、誰でも霊的指導者になれます。

これが唯一の資格であり、そしてこの科学の本質がバガヴァッド・ギーターの中に含まれています(this science in essence is contained in)。現時点では、世界中にこの偉大な科学を広めるために何千人もの霊的指導者が必要とされています。

第26段落
私たちは、クリシュナがバガヴァッド・ギーターの中でアルジュナに語っているとき、主は単にアルジュナだけでなく人類全体に語っていらっしゃるのだと理解すべきです。シュリー・クリシュナご自身が、「単にクリシュナの科学を知っていることによって、アルジュナは幻想の影響を受けない(ヤジ・ジニャートヴァー・ナ・プナル・モハム)」と宣言なさいます。

もしも非常に良い船を持っているなら、私たちは簡単に大西洋を渡ることができます。現在では、私たちは無明の海の只中にいます。なぜなら、この物質世界は無知の巨大な海になぞらえられているからです。したがって主チャイタンニャ・マハープラブは次のようにクリシュナに祈りました。

(サンスクリット引用)

「おお、マハーラージャ・ナンダの息子よ。私はあなたの永遠の従者です。そして、そうであるにも関わらず、どういうわけか私は誕生と死の海に落ちてしまいました。どうか私をこの死の海から拾い上げ、あなたの蓮の御足の下で(at)原子の一つとして据えてください。」(スィクシャーシュタカム、5)

第27段落
もしも私たちが完璧な知識という船を持っているなら、恐れはありません。なぜなら、私たちは非常に簡単に海を渡ることができるからです。たとえ人が非常に(most)罪深かったとしても、もしもクリシュナの科学という船を受け取るなら、彼は非常に簡単に海を渡ることができます。

前述のように(Bg.4.36)、私たちが過去の生において何であったかは関係ありません。無明の中にあったため、私たちは非常に多くの忌まわしい行いをしたかもしれません。実に、誰も「自分は罪深い行いから自由である(訳注:~はしていない)」と言うことはできません。しかし、バガヴァッド・ギーターによれば、これは関係ありません。ただクリシュナの科学を知ることによって、人は自由になります。

第28段落
したがって、私たちが知識を探し求めることが、絶対に必要です。そして知識の完成はクリシュナを理解することです。今日では非常に多くの理論があり、そして誰もが生きるための最良の方法を知っていると主張します。そのため、非常に多くの「主義」が発達しました。

これらのうち、共産主義は世界で非常に有力になりました。しかし、シュリマッド・バーガヴァタムの中に、私たちは霊的な共産主義のための種を見出します。そこでナーラダ・ムニは、この物質宇宙の中では―――人が低位、中位、あるいは高位の惑星系にあろうが、あるいはその外(outer space、通常は宇宙空間を指す)にいるのであってさえも―――すべての自然の資源は至高主によって顕現される、と説明します。

私たちは、何であれこの世界に存在するものはどの人間によって作られたものでもなく、すべては神によって作られたのだ、と理解しなければなりません。どの正気な者もこれを否定することはできません。シュリー・イショパニシャッドは命じます。

(サンスクリット引用)

「宇宙の中にあるすべての動くものと(or)動かないものは、主によって統御され、所有されています。したがって人は、自分の取り分として取り分けられた、自分に必要なものだけを取らねばなりません。そして人は、それが誰に属するかをよく知って、他のものを受け取ってはなりません。」(シュリー・イショパニシャッド、マントラ1)

第29段落
結果として、最高位の半神、ブラーマーから始まって最も低いアリまで、すべての生命体は自然の資源を使う権利を持っています。ナーラダ・ムニは、私たちは必要なだけこれらの資源を使うことができると指摘します。しかし、もしも私たちが必要とされる分以上を取るなら、私たちは泥棒になります。

不幸にして、誰もが征服し、支配しようとしています。国々は旗を立ててその惑星の所有権を主張するために、競って月に向かいます。ヨーロッパ人がアメリカに来たとき、彼らは自分たちの旗を立ててそれ(訳注:アメリカ)を自分の国のために主張しました(訳注:自分の国の領地だと主張しました)。

この、旗を立てることと旗を振ることは、すべて無明が原因です。私たちは、自分たちがどこに自分たちの旗を立てているのか、立ち止まって考えません。それは私たちの所有物ではなく、神のです。これを知っていることが知識であり、そしてそれが自分の所有物だと考えることは無明です。

私たちは利用する権利を持っていますが、所有権を主張したり溜め込んだりする権利は持ちません(原文:We have the right to utilize but not (the right) to claim or hoard、カッコ内の2語が抜けている)。

第30段落
もしも私たちが通りに一袋の穀物を投げるなら、ハトが来て4粒か5粒の小さな穀物を食べ、そして去るかもしれません。彼らは自分が食べることができるより多くは取りません。そして、食べるとさっさと去っていきます。しかし、もしも私たちが歩道に小麦粉の入ったたくさんの袋を置いて、来て取るようにと人々を招くなら、一人の人は10袋か20袋を取り、そして他の者は15袋か30袋取り、などということになるでしょう。

しかし、それほど多くを運んでいく手段を持たない者は1袋か2袋以上を取ることはできないでしょう。このように、分配は不公平(uneven)になります。これが文明の発達と呼ばれます。私たちは、ハトや犬や猫が持っている知識さえ欠いています。

すべては至高主に属しており、そして私たちは何であれ必要とするものを受け入れることができますが、それ以上を受け入れることはできません。それが知識です。主の配剤によって、世界はどんなものの何の不足もないようにできています。

もしも私たちがそれをどのように分配するかを知っているなら、すべては十分です。しかし、今日の嘆かわしい状態は、ある者が必要以上を取り、別の者は飢えている、というものです。結果として、飢えた群衆は反乱し、「なぜ私たちは飢えるべきなのか?」と尋ねています。

しかし、彼らの方法は不完全です。霊的な共産主義の完成は、すべてのものは神に属する、という知識の中に見出されます。クリシュナの科学を知ることによって、私たちは簡単に偽りの所有権という無明を超えることができます。

第31段落
自分の無明が原因で、私たちは実際に苦しんでいます。法廷では、無知は言い訳にはなりません。もしも私たちが裁判官に「自分は法律を知らない」と言うなら、私たちはどちらにしても罰せられます。もしも人が非合法的に非常に多くの富を集め、おそれでも自分の犯罪の無知を主張するなら、彼はそれでも罰せられます。

世界全体がこの知識を欠いています。そしてそのため、クリシュナの科学の何千人もの教師が必要とされています。今、この知識の多大な必要性があります。私たちは、クリシュナがインドに生まれたのでバガヴァッド・ギーターの知識は宗派的であるとか、クリシュナは宗派的な神であるなどと考えるべきではありません。

実に、第14章において、シュリー・クリシュナは、以前に指摘したように、ご自分をすべての存在の父(father→Father)であると主張なさいます。(Bg.14.4)

第32段落
霊魂として、私たちは至高の霊の欠かすべからざる小片です。しかし、この物質世界を楽しみたいという自分の欲求が原因で、私たちは物質自然の中に置かれました。それでも、私たちがどの生命の主であるのであれ、クリシュナが父です。

このように、バガヴァッド・ギーターは何かの特定の党派や国のためにあるのではなく、世界中のすべての人のためのもの―――動物のためのものでさえあります。今、至高存在の息子たちが、無明が原因で盗みを働いているので、この至高の知識をすべての存在に広めるのはバガヴァッド・ギーターに精通している者の義務です。このようにして、人々は自分の本当の霊的な性質と、至高の霊的な全体との自分の関係を認識するかもしれません。
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by ammolitering4 | 2012-04-05 17:15 | 「知識の王」 | Comments(0)

第7章 前半

第7章 グルへの信頼(faith)とクリシュナへの服従としての知識

第1段落
バガヴァッド・ギーターの第4章でシュリー・クリシュナは、すべての犠牲のうちで最良のものは知識を得ることである、と結論なさいます。

(サンスクリット引用)

「おお、敵を懲らしめる者よ。知識の犠牲は物質的な所有物の犠牲よりも偉大です。おお、プリターの息子よ。結局、仕事の犠牲はついに超越的な知識になります。(to culminate in、~で最高に達する)」(Bg.4.33)

(訳注:「犠牲」とはクリシュナのために、あるいはクリシュナという方向へ向けるすべてのエネルギーを指します。日本語での英語でも、一般的な用法としての「犠牲」とは意味が異なりますのでご注意ください。この場合は、”クリシュナを知るために努力すること、つまりエネルギーの「犠牲」は、クリシュナのために何かの物を差し出す、あるいは放棄することよりも優れている”、という意味になると思います。)

第2段落
知識は最良の犠牲です。なぜなら、この制約された人生は無明によるものだからです。犠牲、苦行、ヨガ、そして哲学的な議論の目的は、知識を得ることです。人が神の非人格的な側面(ブラーマン認識)、心臓の中とすべての原子の中の神の局地的な側面(パラマートマー、すなわち超魂認識)、および至高の人格神(校正:the realization ofは不要)(バーガヴァーン認識)を認識するための、超越的な知識の3つの段階があります。

しかし、知識を得ることにおける一番最初の段階は、「私はこの体ではない。私は霊魂であり、私の人生の目的はこの物質的な呪縛から抜け出すことだ」ということを理解するようになることです。要点は、何であれ私たちが行う犠牲は、私たちが本当の知識という地点に至ることを可能にすることを目的としているということです。

知識の最高の完成は、バガヴァッド・ギーターの中でクリシュナへの服従として与えられています。(サンスクリット引用)(Bg.7.19)愚か者ではなく、ジニャーナヴァーンが、クリシュナに服従します。そしてそれが知識の最高の水準です。同様に、バガヴァッド・ギーターの終わりでシュリー・クリシュナはアルジュナに助言なさいます。

(サンスクリット引用)

「すべての種類の宗教を放棄し、ただ私に服従しなさい。私はあなたをすべての罪深い反応から救います。恐れてはなりません。」(Bg.18.66)

第3段落
これは知識の最も内密な部分です。すべての観点から、もしもヴェーダ文献の分析的な研究を行うなら、私たちは「知識の究極の頂点はクリシュナに服従することである」ということを見出します。そして、どのような種類の服従が勧められているのでしょうか?

完全な知識における服従―――人が完成の地点に来るとき、彼は必ず、ヴァースデヴァ、クリシュナがすべてである、と理解します(he must understand)。これはブラーマ・サムヒターにおいても確認されています。

(サンスクリット引用)

「ゴヴィンダとして知られるクリシュナは至高の人格神です。主は永遠で喜びに満ちた霊的な体をお持ちです。主はすべてのものの源です。主は他の何の源も持たず、そして主はすべての原因の根本的な原因です。」(ブラーマ・サムヒター5.1)

第4段落
サルヴァ・カーラナという言葉は、クリシュナがすべての原因の原因である、ということを示します。もしも私たちが、自分の父親の父親が誰であるか、そして彼の父親が誰であるか、そしてさらにその先は、と知るために探すなら、もしもどうにかして時間を遡って自分の先祖を辿ることが可能なら、私たちは至高の父、至高の人格神に至るでしょう。

第5段落
もちろん、誰もが直ちに神を見たいと思います。しかし私たちは、自分が資格を得て、そして完璧な知識にあるとき、神を見ることができます。私たちは神を面と向かって(eye to eye)見ることができます。ちょうど、私たちが互いを見ているようにです。

しかし資格が必要とされ、そしてその資格はクリシュナ意識です。クリシュナ意識は、シュラヴァナム、すなわちバガヴァッド・ギーターおよび他のヴェーダ文献を通してクリシュナについて聞くこと、そしてキールタナム、すなわち私たちが聞いたことを繰り返して、主の御名を唱えることによってクリシュナを讃えることで始まります。

クリシュナ(の御名)を唱え、聞くことによって、私たちは実際に主と関わることができます。なぜなら、主は完全であって、ご自分の御名、性質、形および娯楽と異ならないからです。私たちがクリシュナと関わると、主は私たちが主を理解するのを助け、そして知識の光で無明の闇を消してくださいます。

クリシュナは、グルとして活動しながら私たちの心臓の中に座っていらっしゃいます。私たちが主に関する話を聞き始めるとき、多年に渡る物質的な汚染によって私たちの心の上にたまった埃が徐々に清められます。クリシュナはすべての者の友(friend to everyone)ですが、主はご自分の献身者にとって(to)特別な友です。

私たちが少し主に傾けば直ちに、主は私たちの心(heart)の中から好ましい教えを与え始められます。私たちが徐々に発達できるようにするためです。クリシュナは最初の霊的指導者であり、そして私たちが主にもっと興味を持つようになるとき、私たちは外から霊的指導者として働く(to serve)サードゥー、すなわち聖なる人のところに行かねばなりません。これはシュリー・クリシュナご自身によって次の節で命じられています。

(サンスクリット引用)

「ただ、霊的指導者に近付くことによって真実を学ぼうとしなさい。彼から従順に聞き(inquire from him、知ろうとして問い、答えを聞く)、そして彼に奉仕をしなさい。自己を認識した魂はあなたに知識を授けることができます。なぜなら、彼は真理を見たからです。」(Bg.4.34)

第6段落
私たちが服従することのできる人を選ぶことが必要です。もちろん、誰も誰にも服従することを好みません(No one likes to surrender to anyone)。私たちは、何であれ自分が持っている知識で驕り高ぶっており、そして私たちの態度は「おお、誰がこの私に知識を与えることができるだろうか?」というものです。

一部の人々は、霊的な知識のためには霊的指導者の必要はない、と言います。しかし、ヴェーダ文献に関して言えば、そしてバガヴァッド・ギーター、シュリマッド・バーガヴァタム、そしてウパニシャッドに関して言えば、霊的指導者の必要はあります。

物質世界においてさえ、もしも人が音楽家になるために学びたいなら、彼は自分に教えてくれる音楽家を探さねばなりません。あるいは、もしも人が技師になりたいなら、彼は技術学校(technological college)に行って、技術を知っている者から学ばねばなりません。

また、誰も単に市場から本を買ってきてそれを家で読むことによって医者になることはできません。人は、医学校への入学を許されて、免許のある医者の下で訓練を経なければなりません。単に本を買ってそれらを家で読むことによっては、どの主要な学問も学ぶことは可能ではありません。

本の中に見出される知識をどうやって応用するかを私たちに見せるために、誰かが必要とされます。神の科学に関して言えば、シュリー・クリシュナ、至高の人格神ご自身が私たちに、私たちが服従することのできる人のところに行くように助言なさいます。

これは、ある人がバガヴァッド・ギーターおよび神認識の他の文献の中の教えを与えることができるかどうかを知るために、私たちが査定(to check)しなければならない、ということを意味します。私たちが気まぐれに霊的指導者を探し求めなくてはならない、というのではありません。

私たちは、実際に主題の知識のうちにある(訳注:この主題に精通している)人を見つけるのに、非常に真剣であるべきです。

第7段落
バガヴァッド・ギーターの初めに、アルジュナはクリシュナにちょうど友人のように話していました。そしてクリシュナは、彼が軍人としてどうして戦うことを放棄できるのか、と問いかけていました(to question)。しかし、アルジュナが友人としての(friendly)会話は自分の問題への解決をなさないということを見て取ったとき、彼はこう言ってクリシュナに服従しました。

(サンスクリット引用)「今、私はあなたの弟子であり、あなたに服従した魂です。どうか私に教えてください(to instruct、教え導く)。」(Bg.2.7)これが過程です。私たちが盲目的に服従すべきであるというのではありません。そうではなくて、私たちは知性をもって問うことができるべきです。

第8段落
問うことなくして、私たちは発達することはできません。学校では、教師に質問をする生徒は普通、知性的な生徒です。小さな子供が自分の父親に「おお、これは何ですか?あれは何ですか?」と問うとき、それは一般に知性のしるしです。

私たちは非常に良い霊的指導者を持つかもしれませんが、もしも問う力を持たないなら、私たちは発達することができません。また、問いは挑戦的な性質のものであるべきではありません。人は、「さて、彼がどのような類の霊的指導者であるのか見てみよう。私は彼に挑戦しよう(will)」と考えるべきではありません。

私たちの問い(パリプラシュネナ)は、奉仕という主題(セヴャヤー)に関するものであるべきです。奉仕なくしては、私たちの問いは無益です。しかし、問いかけをする前にさえ、私たちは何らかの資格を持つべきです。もしも私たちがいくらかの金、あるいは宝飾品を買うために店に行って、宝石や金について何も知らないなら、私たちはおそらく騙されます(likely to be cheated)。

もしも私たちが宝石商のところに行って「ダイヤモンドをくれませんか?」と言えば、彼は「この人は愚か者だ」と理解するでしょう。彼は私たちに何でも言い値で売りつけることができます(He could charge us any price for anything)。そのような類の探求は何の役にも立ちません(will not do at all)。私たちはまず、多少、知性的にならねばなりません。なぜなら、そうでなければ霊的な発達をするのは可能ではないからです。

第9段落
ヴェダーンタ・スートラの始まりの命令は、アタート・ブラーマ・ジニャーサーです。「今がブラーマンについて問うときです。」アターという言葉は、「知性的である者、物質的な人生の基本的な苦しみ(frustration、挫折、失望、いらだち、など)を認識する地点に来た者は、問いかけをする能力がある」ということを意味します。

シュリマッド・バーガヴァタムの中で、「人は霊的指導者に(from)『この闇を超えた』主題について問うべきである」と述べられています。この物質世界は本質的に暗く、そしてそれは火によって人工的に明るくされています。私たちの問いは、この宇宙を越えたところにある超越的な世界に関してであるべきです。

もしも人がこれらの霊的な世界について知りたいと望むなら、彼は霊的指導者を探し求めるべきです。そうでなければ、探求することに意味はありません。もしも私が物質的な向上をするためにバガヴァッド・ギーターあるいはヴェダーンタ・スートラを学びたいなら、霊的指導者を見つけることは必要ではありません。

人はまず、ブラーマンについて問いたいと思うべきであり、そしてそれから完全真理(ジニャーニナス・タットヴァ・ダルシナー)に関して完璧な見識を持つ指導者を探し求めるべきです。クリシュナは至高のタットヴァ、完全真理です。バガヴァッド・ギーターの第7章において、シュリー・クリシュナは述べられます。

(サンスクリット引用)

「人の中の何千人もの者のうち、一人が完成のために努力するかもしれません。そして、完成に至った者のうち、ほとんど誰も私を本当には知りません(hardly one knows Me in truth)。」(Bg.7.3)

第10段落
このように、多くの完成した心霊主義者(spiritualist)のうち、一人がクリシュナが実際は何であるかを知るかもしれません。この節が示すように、クリシュナという主題はそれほど簡単ではありません。そうではなく、非常に難しいものです。それでもバガヴァッド・ギーターは、それが簡単であるとも示します。

(サンスクリット引用)

「人は、ただ献身奉仕のみによって、至高の人格をありのままに理解することができます。そして、人がそのような献身(の念)によって至高主を完全に意識するとき、彼は神の王国に入ることができます。」(Bg.18.55)

第11段落
もしも私たちが献身奉仕の過程を受け入れるなら、私たちはクリシュナを非常に容易に受け入れることができます。それを通して私たちはクリシュナの科学を完璧に理解することができ、そして霊的な王国に入る資格が得られるようになることができます。

もしもバガヴァッド・ギーターが言うように、多くの誕生の後で私たちがやがてクリシュナに服従しなければならないなら、なぜ直ちに主に服従しないのですか?(訳注:~しませんか?)なぜ、たくさん、たくさんの誕生を待つのですか?

もしも服従が完成の最終地点であるなら、なぜ直ちに完成を受け入れないのですか?もちろん答えは、人々は一般的に確信がない、というものです。クリシュナ意識は一秒で到達され得て、あるいはそれは何千もの誕生と死の後でさえ持たれ得ません。

もしも私たちが(それを)選ぶなら、私たちはクリシュナに服従することによって直ちに偉大な魂になることができます。しかし、私たちはクリシュナが実際に至高存在であるかどうか疑いを持っているので(校正:コンマが抜けている)、聖典の学習を通してこれらの疑いを消すために時間をかけねばなりません。真正なる霊的指導者の導きの下でバガヴァッド・ギーターを学ぶことによって、私たちはこれらの疑いを取り除いて確実な発達をすることができます。

第12段落
すべての疑いと結果を求める活動を燃やして灰にすることができるのは、知識の力です。シュリー・クリシュナは、実際に真理を見た者から真理について問うことの結果について、次の情報を与えられます。

(サンスクリット引用)

「そして、こうして真理を学んだとき、あなたは、すべての生命体は私の部分に他ならないと―――そして彼らは私の中にあり、そして私のものであると、知るでしょう。たとえすべての罪人のうちで最も罪深い者と考えられているにしても、超越的な知識という船の中にあるとき、あなたは悲惨さの海を越えることができるでしょう。燃え盛る火が薪を燃やして灰にするように、おお、アルジュナよ、知識の火も物質的な活動へのすべての反応を燃やして灰にします。」(Bg.4.35-37)

第13段落
知識の火は、霊的指導者によって点火されます。そしてそれが燃えているとき、私たちの仕事へのすべての反応は灰に変えられます。私たちの仕事、すなわち私たちのカルマへの反応は、私たちの呪縛の原因です。良い仕事と悪い仕事があり、そしてこの節においてサルヴァ・カルマーニという言葉は両方を指します。

この物質的な呪縛から解放されたいと望む者にとって、良い仕事と悪い仕事の両方の反応が有害です。この物質世界において、もしも徳の相にあるなら、私たちは良い仕事を行うことに執着しています。しかし、もしも熱情と無明の相にあるなら、私たちは熱情と無明において悪い仕事をします。

しかし、クリシュナ意識になる(be going to)者にとっては、良い仕事も悪い仕事も必要ありません。良い仕事によって、私たちは貴族的あるいは裕福な家庭において、良い生を受けるかもしれません。そして悪い仕事によって、私たちは動物の王国あるいは堕落した人間の家庭に生を受けさえするかもしれません。しかし、どの場合でも誕生は呪縛を意味します。

そしてクリシュナ意識を求めて努力している者は、転生の呪縛からの解放を求めて努力しています。もしも人が自分の物質的な悲惨さを捨てないなら、富裕な、あるいは貴族的な家庭に生まれることの利点は何でしょうか?良い仕事の反応を楽しもうが、悪い仕事の反応に苦しもうが、私たちは物質的な体を取らねばならず、そしてそれによって物質的な惨めさを経験しなければなりません。

第14段落
クリシュナへの超越的な奉仕に携わることによって、私たちは実際に誕生と死の循環から逃れます。しかし、知識の火が私たちの心(mind)の中で燃えていないので、私たちは物質的な存在を幸福として受け入れます。犬や豚は、自分がどんなに悲惨な人生を送っているか、理解することができません。

彼は実際に自分は人生を楽しんでいると考え、そしてこれは物質的なエネルギーの、覆い隠すような、あるいは幻想の影響、と呼ばれます。バウアリー通り(訳注:ニューヨークのマンハッタンにある、ホームレスの多い安ホテル街)では、非常に多くの泥酔した人々が路上に倒れています。

そして彼らは皆、「私たちは人生を楽しんでいる」と考えています。しかし、彼らの横を通り過ぎる人々は、「おお、(校正:句読点が抜けている)彼らはなんと惨めなことだろう」と考えています。それが幻想エネルギーのあり方(way、方法、やり方)です。

私たちは悲惨な状況にあるかもしれませんが、私たちは自分は非常に幸せであると考えて、それを受け入れます。これは無明と呼ばれます。しかし、人が知識に目覚めるとき、彼はこう考えます。「おお、私は幸せではない。私は自由が欲しいが、自由がない。

私は死にたくないが、死がある。私は年を取りたくないが、老齢がある。私は病が欲しくないが、病がある。」これらは人間の存在の大きな問題です。しかし、私たちはそれらを無視し、非常に小さな問題を解決することに集中します。

自分がここ物質世界の中にどれくらい長く生きるかを忘れ、私たちは経済的な発展を最も大切なものと考えます。経済的な発展があろうがなかろうが、60年か100年かのあとで、私たちの人生は終わります。たとえ100万ドル蓄えても、私たちはこの体を去るときに、そのすべてを置いていかねばなりません。私たちは、物質的な世界では何であれ自分がしていることは物質自然の影響によって打ち負かされている、ということを理解するようになる必要があります。

第15段落
私たちは自由を望みます。そして私たちは世界中を、そして宇宙全体を旅したいと望みます。実に、それは霊魂としての私たちの権利です。バガヴァッド・ギーターにおいて霊魂はサルヴァ・ガターと呼ばれ、それは彼がどこであれ好きなところに行く能力を持っているということを意味します。

スィッダーロカには、飛行機や他の機械的な装置の助けなくして、どこであれ望むところに旅することのできる、完成した存在、あるいはヨギーがいます。いったん物質的な制約から解放されると、私たちは非常に強力になることができます。

実際は、私たちは霊的な火花として自分がいかに強力であるか、全く知りません。その代わり私たちは、この地上に留まり、いくつかの宇宙船を打ち上げることで、自分たちは物質的な科学において多いに発達したと考えて非常に満足しています。私たちは、自分がどこへでも望むところへ無料で旅する能力を持っていることを知らず、宇宙船を作るのに何百万ドルも何百万ドルも使っています。

第16段落
要点は、私たちは知識の力によって自分の霊的な力を培うべきである、というものです。知識は既にそこにあります。私たちは単にそれを受け入れなければならないだけです。以前の時代では、人々は知識を得るために非常に多くの苦行や禁欲を行いました。

しかし、この時代においては、この過程は可能ではありません。なぜなら、私たちの人生は非常に短く、私たちはいつも(訳注:心の平安や仕事など)妨害されているからです。この時代のための過程は、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブによって始められたクリシュナ意識の過程、ハレ・クリシュナを唱えることです。

もしも、この過程によって私たちが知識の火を燃え立たせることができるなら、私たちの活動のすべての反応は灰になり(will be reduced to ashes)、そして私たちは浄化されるでしょう。

(サンスクリット引用)

「この世界には、超越的な知識ほど荘厳で純粋なものはありません。そのような知識はすべての神秘主義の熟した果実です。そして、これを得た者は、やがて自分の中の自己(the self within himself)を楽しみます。」(Bg.4.38)
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by ammolitering4 | 2012-04-05 17:14 | 「知識の王」 | Comments(0)