<   2012年 03月 ( 13 )   > この月の画像一覧

クリシュナのヘビ

お久しぶりです。翻訳が進んでなくてすみません。最近ちょっと他の仕事で忙しくしてまして、ツクシを摘んだり実験的なクラッカーを焼いたりしているのです。春ですから、ツクシを摘まねばならないのです。春の義務ですね、ツクシ摘みは。しかし、場所によってはツクシを食べないんだそうですね。皆さんのお宅はいかがですか?

ところで、インドで頭が3つあるコブラが見つかったのだそうです。なんか神々しい感じですね。
頭が三つあるコブラ
[PR]
by ammolitering4 | 2012-03-25 17:43 | Comments(2)

第6章

第6章 クリシュナの現れ(Appearance)と活動に関する知識

第1段落
私たちの中で働いている自然の二つの力があります。(その)一つによって、私たちは今回の人生で霊的な発達をすることを決心します。しかし次の瞬間、もう一つの力、マーヤー、すなわち幻想エネルギーが、「なぜわざわざそういう面倒なことをするのですか(What is all this trouble that you're going to)?ただこの人生を楽しみ、気楽にしなさい(Be easy with yourself.)」と言います。

この、忘却に陥る傾向が、神と人間の間の違いです。アルジュナはクリシュナの友人であり仲間(訳注:a companion and associate、’companion’は行動を共にする親密な友人)です。どれであれクリシュナがどこかの惑星に現れるときはいつでも、アルジュナもまた生まれ、主と一緒に現れます。

クリシュナがバガヴァッド・ギーターを太陽神に語ったとき、アルジュナもまた主と共にいました。しかし、小さな生命体なので、アルジュナは覚えていることができませんでした。忘却は生命体の性質です。私たちは昨日のちょうどこの時間に、あるいは一週間前のこの時間に何をしていたかさえ思い出すことができません。

もしも私たちがこれを思い出せないなら、自分の過去生において何が起きたか、思い出すことがどうして可能でしょうか?この時点で、私はたちは「どうしてクリシュナは覚えていることができて、私たちはできないのか」と問うかもしれません。そして答えは、クリシュナはご自分の体を変えない、というものです。

(サンスクリット引用)

「私は生まれず、私の超越的な体は決して劣化しませんが(to deteriorate、悪くなる、衰える)、そして私はすべての感覚のある存在の主ですが、私はそれでも時代ごとに(in every millennium)自分のもともとの超越的な形で現れます。」(Bg.4.6)

第2段落
アートマー・マーヤヤーという言葉は、クリシュナがありのままの姿で降臨なさる、ということを意味します。主はご自分の体を変えられません。しかし私たちは、制約された魂として、自分の(体)を変えます。そしてこのため、私たちは忘れます。クリシュナは、ご自分の活動の過去、現在、および未来をご存知であるだけでなく、すべての者の活動の過去、現在および未来をご存知です。

(サンスクリット引用)

「おお、アルジュナよ。至高の人格神として、私は過去に起こったすべてのこと、現在起こっているすべてのこと、そしてこれから起こるすべてのことを知っています。私はまた、すべての生命体を知っています。しかし、私のことは誰も知りません。」(Bg.7.26)

第3段落
シュリマッド・バーガヴァタムにおいて私たちは、至高主が「すべてを知る者」と定義されているのも見出します。これは、ブラーマーとシヴァなどの最も高位の生命体でさえ、そうではありません。ヴィシュヌ、すなわちクリシュナだけが、すべてを知っています。

私たちはまた、「もしも主がご自分の体を変えないなら、なぜ主は化身としていらっしゃるのですか?」と問うかもしれません。この問いに関して、哲学者たちの間でたくさんの違い(訳注:much difference、見解の相違)があります。一部の者は、「クリシュナはおいでになるときに物質的な体をお取りになる」と言いますが、これはそうではありません。

もしも主が私たちのような物質的な体をお取りになるなら、主は覚えていることができません。なぜなら、忘却は物質的な体によるものだからです。実際の結論は、「主はご自分の体を変えられない」というものです。主は万能(all-powerful)と呼ばれます。

そして上に引用した節において、主の万能(omnipotence)が説明されています。クリシュナは誕生を持たず、そして主は永遠です。同様に、生命体も誕生を持たず、そして彼もまた永遠です。生まれるのは、生命体が(自分と)同一視する体だけです。

第4段落
バガヴァッド・ギーターの一番初めに、第2章で、クリシュナは、私たちが誕生と死として受け入れるのは体によるものであり、再び自分の霊的な体を得て、誕生と死の汚染から抜け出すとき、私たちは質的にクリシュナと同じくらい良くなる、と説明なさいます。

それがクリシュナ意識の全過程です---私たちのもともとのサック・チッド・アーナンダの霊的な体の復活です。その体は永遠であり(サット)、知識に満ち(チット)、そして喜びに満ちています(アーナンダ)。この物質的な体はサットでもチットでもアーナンダでもありません。

それは滅ぶものです。一方で、体に住んでいる者は滅びません。それはまた、無明に満ちており、そして、それは無知で一時的であるため、悲惨さに満ちています。私たちは物質的な体が原因でひどい暑さやひどい寒さを感じます。

しかし、自分の霊的な体を得れば直ちに、私たちは二重性によって影響されないようになります。物質的な体の中にいる間でさえ、暑さや寒さなどの二重性に影響されない(impervious)ヨギーたちがいます。物質的な体の中にいる間に霊的な発達をし始めると、私たちは霊的な体の性質を帯び始めます。

もしも私たちが鉄を火の中に入れるなら、それは熱くなり、それから熱く赤くなります。そしてついには、それはもはや鉄ではなく火になります---何であれそれが触れるものは、炎をあげて燃えます。私たちがクリシュナ意識において発達し始めると、私たちの物質的な体は霊化され、もはや物質的な汚染によって影響されなくなります。

第5段落
クリシュナの誕生、主の現れ(appearance)、そして消滅(disappearance)は、太陽の現れと消滅に比べられます。朝には、まるで太陽が東の地平線から生まれるように見えます。しかし、実際はそうではありません。太陽は昇っても沈んでもいません。それは自分の位置にそのままにあります。

すべての現れ(rising、日の出)と消滅(setting、日の入り)は、地球の回転が原因です。同様に、ヴェーダ文献の中に、シュリー・クリシュナの現われと消滅のための定められた予定表があります。クリシュナの現れは、ちょうど太陽のようです。太陽の現れと消滅は、いつも続いています。

世界のどこかで人々は日の出と日の入りを目撃しています。ある時点でクリシュナが生まれ、別の時点で主がいなくなる、というのではありません。主はいつもどこかにいらっしゃいますが、主は来たり去ったりするように見えます。

クリシュナは多くの宇宙において現れたり消えたりなさいます。私たちはこの一つの宇宙の経験しか持ちませんが、ヴェーダ文献から私たちは、「この宇宙は至高主の無限な顕現の一部に過ぎない」と理解することができます。

第6段落
クリシュナは至高主であり、生まれず、変化しませんが、主はご自分のもともとの超越的な自然(nature、性質)において現れます。プラクリティという言葉は「自然」を意味します。バガヴァッド・ギーターの第7章において、多くの種類の自然がある、と述べられています。

これらは3つの基本的な種類に分類されています。外的な自然、内的な自然、そして周辺的な自然があります。外的な自然はこの物質世界の顕現であり、バガヴァッド・ギーターの第7章において、これはアパラー、すなわち物質自然と描写されます。

クリシュナが現れるとき、主は劣性なる物質自然ではなく、より高い自然(プラクリティ・スヴァーム)を受け入れられます。時として、国家の首長は、刑務所を視察してそこにいる囚人を見るために、刑務所に行くかもしれませんが、囚人たちは、もしも「国家の首長が刑務所に来た。だから彼はちょうど私たちのような囚人だ」と考えるなら、間違っています。

先に指摘したように、シュリー・クリシュナは、人間の形で降臨なさるとき、愚か者はご自分をあざ笑う、と述べられます。(Bg.9.11)

第7段落
至高主として、クリシュナはいつでもここに来ることができます。そして私たちは、反対して「主は来ることができない(訳注:来てはならない)」と言うことはできません。主は完全に独立していらっしゃり、そして主はお好きなように来て、去ることができます。

もしも国家の首長が刑務所を訪ねるなら、私たちは「彼はそうすることを強要されているのだろう」と考えるべきではありません(we are not to assume)。クリシュナは目的をもっておいでになり、そしてそれは堕落した制約された魂を取り戻す(to reclaim、改心させる)ためです。

私たちはクリシュナを愛していませんが、クリシュナは私たちを愛していらっしゃいます。主は誰もをご自分の息子として主張なさいます(訳注:誰もが~だと主張なさいます)。

(サンスクリット引用)

「すべての生命の種は、おお、クンティーの息子よ、誕生によってこの物質自然の中に存在させられ(made possible by birth)、そして私が種をまいた(seed-giving)父であると理解されるべきです。」(Bg.14.4)

第8段落
父はいつも息子に愛情を持っています。息子は父を忘れるかもしれませんが、父は決して息子を忘れることができません。クリシュナは、私たちへのご自分の愛情から、私たちを誕生と死の悲惨さから救うために物質宇宙においでになります。主はおっしゃいます。「我が愛しい息子たちよ。

なぜあなたたちはこの惨めな世界で朽ちている(to rot、腐る)のですか?私のところに来なさい。そうすれば(and)私はあなたにすべての保護を与えます。」私たちは至高存在の息子であり、私たちは何の悲惨さも、何の疑いもなく、人生を非常にすばらしく(supremely、究極の素晴らしさをもって)楽しむことができます。

したがって私たちは、「クリシュナはここへ、ちょうど私たちがするように、自然の法則によって強制されて(being obliged to)おいでになるのだ」と考えるべきではありません。アヴァターラというサンスクリットの言葉は、文字通り「降りる者」(he who descends、降臨する者)を意味します。

自分の独自の意志(will)を通して霊的な宇宙から物質的な宇宙に降りる者は、アヴァターラと呼ばれます。時としてシュリー・クリシュナは自ら降臨なさり、そして時として主はご自分の代理人を送られます。世界の主要な宗教---キリスト教、ヒンズー教、仏教、およびイスラム教---は、神の王国から降りてくる何らかの至高の権威、あるいは名士を信じます。

キリスト教の宗教においては、イエス・キリストが、「(自分は)神の息子であって、制約された魂を改心(to reclaim)させるために神の王国から来た」と主張なさいました。バガヴァッド・ギーターの信奉者(followers)として、私たちはこの主張が正しいと認めます。

ですから、基本的に意見の相違はありません。細部では、文化、気候および人々の違いによる相違があるかもしれません。しかし、基本的な原則は同じであり続けます―――つまり、「神、あるいは主の代理人が制約された魂を改心させためにいらっしゃる」というものです。

(サンスクリット引用)

「いつでも、そしてどこでも、宗教的な実践(practice、慣習)において堕落(decline、低下、衰え)があるとき、おお、バーラタの末裔よ、そして無宗教(irreligion、非敬虔さ)の顕著な高まりがあるとき―――そのとき、私は自ら降臨します。」(Bg.4.7)

第9段落
神は非常に哀れみ深くて(compassionate)いらっしゃいます。主は私たちの悲惨さが止まるのを見るのを望まれますが、私たちはこれらの悲惨さに順応しようとしています。私たちは至高主の欠かすべからざる小片であるので、これらの悲惨さのためにはありません(we are not meant for~)(訳注:私たちは本来悲惨であるべきではない、というような意味)。

しかし、どういうわけか、私たちは自発的にそれを受け入れました。体と心から、他の生命体から、そして自然災害から生じる悲惨さがあります。私たちは、これらの悲惨さの3つすべてからか、あるいは少なくとも一つから、苦しんでいます。

私たちはいつもこれらの悲惨さへの解決策を作ろうとしており、そしてこの試みが存在のための私たちの苦労を成します(訳注:私たちの存在のための苦労とは、この試みです)。その解決策は、私たちのちっぽけな脳をもってしては作られ得ません。それは、私たちが至高主の庇護を受けるときにだけ作られ得ます。

第10段落
私たちは、自分の本来の立場に復帰させられるとき、幸せになることができます。そしてバガヴァッド・ギーターは私たちをその立場に復帰させるためにあります。神と主の代理人も助けにいらっしゃいます。以前に述べられたように、彼らは優位の自然から物質自然に降臨なさいます。

そして、誕生、老い、病そして死の法則の影響下にありません。クリシュナはアルジュナに、ご自分の(この)世界への降臨のための、次のような理由を与えられます。

(サンスクリット引用)

「敬虔な者たちを救い、邪悪な者たちを滅ぼすため、そして宗教の原則を再び確立するために、私は自ら時代ごとに(millennium after millennium)降臨します。」(Bg.4.8)

第11段落
ここでクリシュナは、ご自分はダールマに衰えがあるときにおいでになる、とおっしゃいます。サンスクリットのダールマという言葉は英語に「信仰(faith)」として翻訳されていますが、「信仰」はキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教などの名前で知られる(to go under the name of~)宗教体系を意味するようになりました。

しかし、ダールマという言葉は「信仰」と同じ意味は持ちません。個人の信仰はヒンズー教徒から仏教、キリスト教、イスラム教などに変わるかもしれません(訳注:from ~to ~to ~to~, etc.原文は「あれからこれへ、その次はそれへ」と、移りゆくような表現)。

人々は一つの信仰を受け入れて他のものを退ける能力を持ちます。しかし、ダールマは変えられ得ません。自分自身、自分の家族、自分の地域社会、国、あるいは人類全体(humanity at large)に対してであれ、奉仕をするのはすべての個人の性質です。

この、奉仕をするということは、決して生命体から離され得ません。そして、すべての生命体のダールマを成すのはこれです。奉仕をすることなくして、人は存在することはできません。世界は、私たちが皆、奉仕をささげ、(それを)交換しているから続きます。

私たちは、自分がキリスト教徒、イスラム教徒、イスラム教徒、あるいはヒンズー教徒であるかどうかを忘れなければなりません。そして私たちは、「自分は、その本質的な立場が至高の生命体に奉仕をすることである、生命体である」ということを理解しなければなりません。理解のその水準に至るとき、私たちは解放されます。

第12段落
解放は、私たちが物質自然との関わりから得た一時的な区分(designation)からの自由です。解放はこれ以上の何でもありません。私たちは物質的な体を持っているので、私たちは非常に多くの区分を呈します(to take on、性質を帯びる)。

こうして私たちは自分を、男、親、アメリカ人、キリスト教徒、ヒンズー教徒、などと呼びます。これらの区分は、もしも私たちが自由になることをほんの少しでも(at all)望むなら、放棄されるべきです。どのような状況の下でも、私たちは主人ではありません。

私たちは現在奉仕をしていますが、私たちは区分をもって奉仕をしています。私たちは、妻の、家族の、自分の(our own)感覚の、自分の子供たちの従者であり、そしてもしも私たちが子供を持たないなら、私たちは自分の猫あるいは犬の従者になります。

どの場合でも、私たちは奉仕をする誰か、何かを持たねばなりません。もしも私たちが妻、あるいは子供を持たないなら、私たちは(それに)奉仕をするために、どれかの(some)犬や、他の低位の動物を捕まえなければなりません。それが私たちの性質(nature)です。

私たちはそうすることを強いられています。私たちがついにこれらの区分から自由になって主に超越的な愛情ある奉仕を捧げ始めるとき、私たちは自分の完成の水準に至ります。そのとき私たちは自分の本当のダールマにおいて確立されるようになります。

第13段落
このようにシュリー・クリシュナは、生命体のダールマに食い違いがあるときはいつでも、つまり、生命体が至高存在に奉仕をするのをやめるときはいつでも、ご自分が現れる、とおっしゃいます。言い換えると、生命体が自分の感覚に奉仕することにあまりにも忙しく携わっているとき、そして感覚の満足における過度の耽溺があるとき、主はおいでになります。

例えばインドでは、人々が動物の屠殺に過度にふけっていたとき、主仏陀がアヒームサー、すべての生命体への非暴力を確立するためにいらっしゃいました。同様に、上に引用した節において、シュリー・クリシュナは、ご自分はサードゥー(パリトラーナーヤ・サードゥーナーム)を守るためにいらしたとおっしゃいます。

サードゥーは、他のすべての生命体への彼らの忍耐によって典型化されます。あらゆる不便さと危険にも関わらず、彼らは一般の人々に本当の知識を与えようとします。サードゥーは特定の社会、共同体、あるいは国の友ではなく、すべての者の友です―――人間だけでなく、動物と、生命のより低位な形(の者たち)の友でもあります。

つまり、サードゥーは誰の敵でもなく、すべての者の友です。結果的に、彼は常に穏やか(peaceful)です。主のためにすべてを犠牲にしたそのような人々は、主にとって非常に愛しいものです。サードゥーたちはもしも自分が侮辱されたら気にしませんが、クリシュナは彼らに対する何らの侮辱も我慢なさいません。

バガヴァッド・ギーターの第9章に述べられているように、クリシュナはすべての者に対して一様でいらっしゃいますが、主は特にご自分の献身者に心が傾いていらっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私は誰もうらやまず、また、誰に対しても不公平であることはありません。私はすべての者に対して平等です。しかし誰であれ、献身の念において私に奉仕をする者は、友人であり、私の中にあり、そして私もまた彼にとって友人です。」(Bg.9.29)

第14段落
クリシュナはすべての者に対して中立的ですが、常にクリシュナ意識に携わっている者、バガヴァッド・ギーターの教えを広めている者のために、主は特別の庇護を与えられます。主の献身者が決して滅びないというのは、シュリー・クリシュナの約束です(サンスクリット引用)。(Bg.9.31)

第15段落
クリシュナは、ご自分の献身者を守って救うためだけでなく、邪悪な者を滅ぼすためにもいらっしゃいます(ヴィナーシャーヤ・チャ・ドゥシュクリターム)。クリシュナは、「最も敬虔なクシャトリヤであって献身者であった、アルジュナと5人のパーンダヴァたちを、世界の統治者として確立したい」と望まれました。

そして主はまた、「ドゥリョダーナの無神論的な一団を打ち破りたい」とも望まれました。そして前述のように、主がおいでになった第3の理由は、本当の宗教を確立するためです(ダールマ・サムスターパナールターヤ)。このように、降臨のためのシュリー・クリシュナの目的は三重です。

主はご自分の献身者を守り、悪魔的な者たちを打ち負かし、そして生命体の本当の宗教を確立なさいます。主は一度だけでなく、何度も何度もいらっしゃいます(サムバーヴァーミ・ユゲ・ユゲ)。なぜなら、この物質世界は、調整がなされたあとで、時間が経つにつれて再び劣化するものだからです。

第16段落
世界は、たとえ私たちがとても良い配剤をしても徐々に劣化する、と考えられます(The world is so conceived that~、~であると考えられる)。第一次世界大戦の後で休戦が調印されました。そして短期間の平和がありましたが、すぐに第二次世界大戦が起こりました。

そしてそれが終わった今(and now that that is over)、彼らは第三次世界大戦に向けて準備をしています。これが物質世界における時間(カーラ)の働きです。私たちは非常に良い家を建て、そして50年後それは劣化し、100年後それはもっと劣化します。

同様に、体が若いとき、人々はそれを大事にし、いつもそれに惜しみなく愛情を与え、それに口付けします。しかし、それが古くなったとき、誰もそれを気にかけません。これが物質世界の性質です―――たとえとても良い調整がなされても、時が経つにつれてそれは打ち負かされます。

したがって、調整は定期的に必要とされます。そして、時代ごとに(from age to age)至高主あるいは主の代理人が、文明の方向について調整をするためにおいでになります。こうしてシュリー・クリシュナは多くの異なる宗教を確立する、あるいは生き返らせるために、何度も降臨なさいます。
[PR]
by ammolitering4 | 2012-03-15 17:32 | 「知識の王」 | Comments(0)

第5章 後半

第10段落
知識を得るための二つの過程があります---一つは帰納的なもので、もう一つは演繹的なものです。演繹的な方法は、もっと完全であると考えられます。私たちは「すべての人間は死ぬ(All men are mortal)」などの前提(premise)を取るかもしれません(訳注:~を例にあげましょう)。

(そして)、誰もどのように人間が死を運命づけられているか論じる必要はありません(訳注:no one need discuss、このneedは助動詞)。これがそうであるということは一般に受け入れられています。演繹的な結論は次のようなものです。「ジョンソン氏は人間である。したがってジョンソン氏は死ぬ。」

しかし、すべての人間が死ぬという前提はどうやって得られたのでしょうか(to arrive at)?帰納的な方法の信奉者(followers)は、実験と観察を通してこの前提に至りたいと思います。そのため私たちは、この人が死んだ、あの人が死んだ、などと研究するかもしれず、非常に多くの人々が死んだのを見たあとで、「すべての人は死ぬ」と結論づける、あるいは一般化するかもしれません。

しかし、この帰納的な方法には大きな欠陥があり、それは私たちの経験は限られているということです。私たちは、死なない人を一度も見たことがないかも知れず、それでも(but)私たちはこれを、有限である自分の個人的な経験に基づいて(on)判断しています。

私たちの感覚は限られた力を持っており、そして私たちの制約された状態には非常の多くの欠陥があります。その結果、帰納的な過程は必ずしも完全ではなく、他方、完璧な知識の源からの演繹的な過程は完璧です。ヴェーダの過程はそのような過程です。

第11段落
権威は認められていますが(although the authority is acknowledged)(訳注:これはおそらくクリシュナがBGの中で他の権威に敬意を表しているということだろうと思います)、バガヴァッド・ギーターの中には独断的であるように見える多くの節があります。例えば、第7章でシュリー・クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、富を征服するもの(アルジュナ)よ。私に優る真理はありません。すべてのものは私の上に拠り頼みます(to rest upon)。ちょうど真珠が糸に通されるようにです。」(Bg.7.7)

第12段落
シュリー・クリシュナはご自分より偉大な権威はないとおっしゃり、そしてこれは非常に独断的であるように見えます。もしも私が「私より偉大な者はいません」と言えば、人々は「おお、スヴァーミージーは非常に尊大だ」と考えるでしょう。

もしも非常に多くの不完全さによって制約されている者が自分はすべての者の中で最も偉大であると言うなら、彼は(神を)冒涜します。しかし、クリシュナはこれを言うことができます。なぜなら、私たちは歴史から、「この地上にいらした間でさえ、主は当時の最も偉大な名士と考えられた」と理解することができるからです。実に、主は活動のすべての分野において最も偉大でいらっしゃいました。

第13段落
ヴェーダの体系によれば、最も偉大な権威から得られた知識は完璧と考えられるべきものです(is to be considered)。ヴェーダによれば、3つの種類の証拠があります---プラテャクシャ、アヌマーナ、そしてシャブダです。一つは直接的な視覚上の知覚によるものです。

もしもある人が私の前に座っているなら、私は彼がそこに座っているのを見ることができ、彼がそこに座っているという私の知識は私の目を通して受け取られます。2番目の方法、アヌマーナは、聴覚によるものです。私たちは子供たちが外で遊んでいるのを聞くかもしれません。

そして、聞くことによって私たちは彼らがそこにいると推測することができます。そして3番目の方法は、より高い権威から真理を受け取る方法です。「人は死ぬ」などの言葉(saying、諺、言い習わし)は、より高い権威から受け入れられます。

誰もがこれを受け入れますが、誰もすべての人が死ぬと経験したことはありません。伝統によって、私たちはこれを受け入れなくてはなりません。もしも誰かが「誰が最初にこの真理を見出したのですか?あなたがそれを発見したのですか?」と尋ねるなら、それは言うのが非常に困難です(訳注:答えにくい)。

私たちが言えることのすべては、(その)知識は下ってきている(訳注:昔からそう言われている)ということ、そして私たちはそれを受け入れる、ということです。知識を得るための3つの方法のうち、ヴェーダは、知識をより高い権威から受け取るという第3の方法が最も完璧である、と言います。

直接的な知覚は、特に人生の制約された状態においては、いつも不完全です。直接的な知覚によって私たちは、「太陽はちょうど、私たちがものを食べるのに使う皿よりも大きいものではない、円盤のようである」ということを見ることができます。

しかし科学者たちからは、私たちは「太陽は地球よりも何千倍も大きい」と知るようになります。では、私たちは何を受け入れればよいのでしょうか(what are we to accept)?私たちは、科学的な宣言、権威者の宣言、それとも自分の独自の経験を受け入れるのでしょうか?

私たちは自分では太陽がどれほど大きいかを証明することができませんが、天文学者の判断を受け入れます。このようにして、私たちは自分の活動のすべての分野において権威者の言明を受け入れています。私たちはまた、新聞とラジオから、「中国やインドや地球上全体の他のところで、あれこれのできごとが起こっている」ということを理解します。

私たちはこれらの出来事を直接的に経験してはいません。そして私たちはそのような出来事が実際に起こっていると知りません。しかし私たちは新聞とラジオの権威を受け入れます。私たちは知識を得るために権威を信じるより他に選択肢を持ちません。そして権威が完璧であるとき、私たちの知識は完璧です。

第14段落
ヴェーダの源によれば、すべての権威のうちでクリシュナが最も偉大で最も完璧です(サンスクリット引用)。クリシュナがご自分を最高の権威と宣言なさるだけでなく、これは偉大な聖人たちとバガヴァッド・ギーターの学者たちによっても受け入れられています。

もしも私たちがクリシュナを権威として受け入れず、主の言葉をそのままに受け入れないなら(訳注:if we do not accept ~ and take ~、この場合and はnorの意味だと思います)、私たちはバガヴァッド・ギーターから何らの利益も得ることができません。それは独断的ではありません。それは事実です。

もしも私たちがクリシュナがおっしゃることを詳細に(scrutinizingly、じろじろと凝視するように)研究するなら、私たちはそれが正しいことを見出すでしょう。至高の人格神と異なる意見を持つシャンカラーチャーリャのような学者でさえ、クリシュナがスヴァヤム・バーガヴァーン---クリシュナが至高主であると認めます。

第15段落
ヴェーダの知識は新しい発見ではありません。それはすべて、古い、明かされた知識です(it is all old revealed knowledge)。クリシュナはそれを、「太古の」を意味するプラータナーと呼ばれます。クリシュナは「大昔(millions of years before)、このヨガを太陽神に話した」とおっしゃり、私たちは、そのさらに大昔に、いつ主がそれを他の誰かに話されたのか知りません。

この知識はいつも繰り返されています。ちょうど、夏、秋、冬そして春が毎年繰り返されるようにです。私たちの知識量は極めて貧困です。私たちはこの惑星の歴史さえ5千年以上前のことは知りません。しかしヴェーダ文献は何百万年も前に遡る歴史を与えます(訳注:繰り返しになりますが、この「何百万年」は実際にはもっと長い時間を指します)。

3千年前にこの惑星上で何か起こったかについて知識を持たないからといって、私たちは「その頃は歴史がなかった」と結論づけることはできません。もちろん、人はクリシュナの歴史的な正当性(validity、妥当性、確実性)を否認することができます。

人は、マハーバーラタによればクリシュナは5千年前に生きていた、と言うかもしれず、これがそうであれば、主が何百万年(訳注:太古の時代)にバガヴァッド・ギーターを太陽神に語ったという可能性はありません。

もしも私が太古の時代に太陽の上で太陽神に話をしたと言ったら、人々は「スヴァーミージーは何か無意味なことを話している」と言うでしょう。しかし、クリシュナの場合はそうではありません。なぜなら、主は至高の人格神だからです。

私たちが「クリシュナはバガヴァッド・ギーターを太陽神に話した」と信じようが信じまいが、この事実はアルジュナによって受け入れられています。アルジュナはクリシュナを至高主として受け入れました。そしてそのため、彼はクリシュナにとって太古の時代に誰かと話すのは十分に可能だと知っていました。アルジュナは個人的にはシュリー・クリシュナの言明を受け入れますが、自分の後から来る人々のために状況を明らかにするために尋ねます。

(サンスクリット引用)

「太陽神ヴィヴァスヴァーンはあなたよりも年長です。あなたが初めに(訳注:太陽系の初めに、ということだと思います)この科学を彼に教えたということを、私はどう理解すればよいのでしょうか?」(Bg.4.4)

第16段落
実際は、これは非常に知性的な質問です。そしてクリシュナはそれにこのようにお答えになります。

(サンスクリット引用)

「あなたと私はどちらも、たくさん、たくさんの生を通り過ぎました。私はそれらすべてを覚えていることができますが、あなたはそうできません。おお、敵を鎮圧する者よ!」(Bg.4.5)

第17段落
クリシュナは神ではありますが、主は何度も何度も化身なさいます。アルジュナも、生命体なので何度も何度も生まれます。至高の人格神と生命体の間の違いは、ターニー・アハム・ヴェダ・サルヴァーニ、「クリシュナはご自分の過去の化身の出来事を覚えているが、生命体は覚えていられない」というものです。

それが神と人との間の違いの一つです。神は永遠であり、私たちもまた永遠です。しかし違いは、私たちはいつも体を変えているということです。死のとき、私たちは自分の生涯のできごとを忘れます。死は忘却を意味します。それだけです。

夜、眠るとき、私たちは自分がある妻の(such and such a wife)夫であって、ある子供たちの父親であるのを忘れます。私たちは眠りの中で自分自身を忘れますが、目覚めるとき、私たちは思い出します。「おお、私は誰それだ。そして私はこれこれをしなければならない。」

自分の以前の生において、私たちが他の国々で他の家族、父、母などと共に他の体を持っていたというのは事実です。しかし私たちはこれらすべてを忘れてしまいました。私たちは、犬、あるいは猫、あるいは人間、あるいは神(gods)であったかもしれません---何であったとしても、私たちは今は忘れてしまっています。

第18段落
これらすべての変化にも関わらず、生命体として私たちは永遠です。ちょうど以前の生において私たちがこの体のために準備をしたように、この人生において私たちはもう一つの体のために準備をしています。私たちは自分のカルマ、すなわち活動に応じて自分の体を得ます。

徳の相にある者は、より高い惑星に、人生のより高い水準に上げられます(Bg.14.14)。熱情の相において死ぬ者は地上に留まり、そして無明の相において死ぬ者は生命の動物の種に落ちるかもしれず、あるいは、より低い惑星に移されるかもしれません(Bg.14.15)。これがずっと続いている過程ですが、私たちはそれを忘れます。

第19段落
あるとき、天国の王様インドラが自分の霊的指導者の足元で(訳注:~に対して)無礼を犯しました。そして彼の霊的指導者は、彼に豚として生まれるように呪いをかけました。こうして、インドラが豚になるために地球に行ったので、天国の王国の王座が空になりました。

(この)状況を見て、ブラーマーが地球に来て豚に話しかけました。「我が親愛なる方よ。あなたはこの地球という惑星の上で豚になりました。私はあなたを救うために来ました。直ちに私と共に来てください。」しかし、豚は答えました。「おお、私はあなたと共に行くことはできません。

私には非常に多くの責任があります---私の子供たち、妻、そしてこの素敵な(nice)豚社会です。」ブラーマーが彼を天国に連れ帰ると約束したにも関わらず、豚の形において、インドラは拒絶しました。これは忘却と呼ばれます。同様に、主クリシュナがおいでになって私たちにおっしゃいます。

「あなたはこの物質世界で何をしているのですか?(サンスクリット引用)私のところに来なさい。そうすれば(and)私はあなたにすべての保護を与えます。」しかし私たちは言います。「旦那様(Sir)、私はあなたを信じません。私にはここにもっと大事な仕事があります。」これが制約された魂の立場---忘却です。この忘却は、師弟継承の道を辿ることによって、すぐに消されます。
[PR]
by ammolitering4 | 2012-03-15 15:03 | 「知識の王」 | Comments(0)

第5章 後半

第10段落
知識を得るための二つの過程があります---一つは帰納的なもので、もう一つは演繹的なものです。演繹的な方法は、もっと完全であると考えられます。私たちは「すべての人間は死ぬ(All men are mortal)」などの前提(premise)を取るかもしれません(訳注:~を例にあげましょう)。

(そして)、誰もどのように人間が死を運命づけられているか論じる必要はありません(訳注:no one need discuss、このneedは助動詞)。これがそうであるということは一般に受け入れられています。演繹的な結論は次のようなものです。「ジョンソン氏は人間である。したがってジョンソン氏は死ぬ。」

しかし、すべての人間が死ぬという前提はどうやって得られたのでしょうか(to arrive at)?帰納的な方法の信奉者(followers)は、実験と観察を通してこの前提に至りたいと思います。そのため私たちは、この人が死んだ、あの人が死んだ、などと研究するかもしれず、非常に多くの人々が死んだのを見たあとで、「すべての人は死ぬ」と結論づける、あるいは一般化するかもしれません。

しかし、この帰納的な方法には大きな欠陥があり、それは私たちの経験は限られているということです。私たちは、死なない人を一度も見たことがないかも知れず、それでも(but)私たちはこれを、有限である自分の個人的な経験に基づいて(on)判断しています。

私たちの感覚は限られた力を持っており、そして私たちの制約された状態には非常の多くの欠陥があります。その結果、帰納的な過程は必ずしも完全ではなく、他方、完璧な知識の源からの演繹的な過程は完璧です。ヴェーダの過程はそのような過程です。

第11段落
権威は認められていますが(although the authority is acknowledged)(訳注:これはおそらくクリシュナがBGの中で他の権威に敬意を表しているということだろうと思います)、バガヴァッド・ギーターの中には独断的であるように見える多くの節があります。例えば、第7章でシュリー・クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、富を征服するもの(アルジュナ)よ。私に優る真理はありません。すべてのものは私の上に拠り頼みます(to rest upon)。ちょうど真珠が糸に通されるようにです。」(Bg.7.7)

第12段落
シュリー・クリシュナはご自分より偉大な権威はないとおっしゃり、そしてこれは非常に独断的であるように見えます。もしも私が「私より偉大な者はいません」と言えば、人々は「おお、スヴァーミージーは非常に尊大だ」と考えるでしょう。

もしも非常に多くの不完全さによって制約されている者が自分はすべての者の中で最も偉大であると言うなら、彼は(神を)冒涜します。しかし、クリシュナはこれを言うことができます。なぜなら、私たちは歴史から、「この地上にいらした間でさえ、主は当時の最も偉大な名士と考えられた」と理解することができるからです。実に、主は活動のすべての分野において最も偉大でいらっしゃいました。

第13段落
ヴェーダの体系によれば、最も偉大な権威から得られた知識は完璧と考えられるべきものです(is to be considered)。ヴェーダによれば、3つの種類の証拠があります---プラテャクシャ、アヌマーナ、そしてシャブダです。一つは直接的な視覚上の知覚によるものです。

もしもある人が私の前に座っているなら、私は彼がそこに座っているのを見ることができ、彼がそこに座っているという私の知識は私の目を通して受け取られます。2番目の方法、アヌマーナは、聴覚によるものです。私たちは子供たちが外で遊んでいるのを聞くかもしれません。

そして、聞くことによって私たちは彼らがそこにいると推測することができます。そして3番目の方法は、より高い権威から真理を受け取る方法です。「人は死ぬ」などの言葉(saying、諺、言い習わし)は、より高い権威から受け入れられます。

誰もがこれを受け入れますが、誰もすべての人が死ぬと経験したことはありません。伝統によって、私たちはこれを受け入れなくてはなりません。もしも誰かが「誰が最初にこの真理を見出したのですか?あなたがそれを発見したのですか?」と尋ねるなら、それは言うのが非常に困難です(訳注:答えにくい)。

私たちが言えることのすべては、(その)知識は下ってきている(訳注:昔からそう言われている)ということ、そして私たちはそれを受け入れる、ということです。知識を得るための3つの方法のうち、ヴェーダは、知識をより高い権威から受け取るという第3の方法が最も完璧である、と言います。

直接的な知覚は、特に人生の制約された状態においては、いつも不完全です。直接的な知覚によって私たちは、「太陽はちょうど、私たちがものを食べるのに使う皿よりも大きいものではない、円盤のようである」ということを見ることができます。

しかし科学者たちからは、私たちは「太陽は地球よりも何千倍も大きい」と知るようになります。では、私たちは何を受け入れればよいのでしょうか(what are we to accept)?私たちは、科学的な宣言、権威者の宣言、それとも自分の独自の経験を受け入れるのでしょうか?

私たちは自分では太陽がどれほど大きいかを証明することができませんが、天文学者の判断を受け入れます。このようにして、私たちは自分の活動のすべての分野において権威者の言明を受け入れています。私たちはまた、新聞とラジオから、「中国やインドや地球上全体の他のところで、あれこれのできごとが起こっている」ということを理解します。

私たちはこれらの出来事を直接的に経験してはいません。そして私たちはそのような出来事が実際に起こっていると知りません。しかし私たちは新聞とラジオの権威を受け入れます。私たちは知識を得るために権威を信じるより他に選択肢を持ちません。そして権威が完璧であるとき、私たちの知識は完璧です。

第14段落
ヴェーダの源によれば、すべての権威のうちでクリシュナが最も偉大で最も完璧です(サンスクリット引用)。クリシュナがご自分を最高の権威と宣言なさるだけでなく、これは偉大な聖人たちとバガヴァッド・ギーターの学者たちによっても受け入れられています。

もしも私たちがクリシュナを権威として受け入れず、主の言葉をそのままに受け入れないなら(訳注:if we do not accept ~ and take ~、この場合and はnorの意味だと思います)、私たちはバガヴァッド・ギーターから何らの利益も得ることができません。それは独断的ではありません。それは事実です。

もしも私たちがクリシュナがおっしゃることを詳細に(scrutinizingly、じろじろと凝視するように)研究するなら、私たちはそれが正しいことを見出すでしょう。至高の人格神と異なる意見を持つシャンカラーチャーリャのような学者でさえ、クリシュナがスヴァヤム・バーガヴァーン---クリシュナが至高主であると認めます。

第15段落
ヴェーダの知識は新しい発見ではありません。それはすべて、古い、明かされた知識です(it is all old revealed knowledge)。クリシュナはそれを、「太古の」を意味するプラータナーと呼ばれます。クリシュナは「大昔(millions of years before)、このヨガを太陽神に話した」とおっしゃり、私たちは、そのさらに大昔に、いつ主がそれを他の誰かに話されたのか知りません。

この知識はいつも繰り返されています。ちょうど、夏、秋、冬そして春が毎年繰り返されるようにです。私たちの知識量は極めて貧困です。私たちはこの惑星の歴史さえ5千年以上前のことは知りません。しかしヴェーダ文献は何百万年も前に遡る歴史を与えます(訳注:繰り返しになりますが、この「何百万年」は実際にはもっと長い時間を指します)。

3千年前にこの惑星上で何か起こったかについて知識を持たないからといって、私たちは「その頃は歴史がなかった」と結論づけることはできません。もちろん、人はクリシュナの歴史的な正当性(validity、妥当性、確実性)を否認することができます。

人は、マハーバーラタによればクリシュナは5千年前に生きていた、と言うかもしれず、これがそうであれば、主が何百万年(訳注:太古の時代)にバガヴァッド・ギーターを太陽神に語ったという可能性はありません。

もしも私が太古の時代に太陽の上で太陽神に話をしたと言ったら、人々は「スヴァーミージーは何か無意味なことを話している」と言うでしょう。しかし、クリシュナの場合はそうではありません。なぜなら、主は至高の人格神だからです。

私たちが「クリシュナはバガヴァッド・ギーターを太陽神に話した」と信じようが信じまいが、この事実はアルジュナによって受け入れられています。アルジュナはクリシュナを至高主として受け入れました。そしてそのため、彼はクリシュナにとって太古の時代に誰かと話すのは十分に可能だと知っていました。アルジュナは個人的にはシュリー・クリシュナの言明を受け入れますが、自分の後から来る人々のために状況を明らかにするために尋ねます。

(サンスクリット引用)

「太陽神ヴィヴァスヴァーンはあなたよりも年長です。あなたが初めに(訳注:太陽系の初めに、ということだと思います)この科学を彼に教えたということを、私はどう理解すればよいのでしょうか?」(Bg.4.4)

第16段落
実際は、これは非常に知性的な質問です。そしてクリシュナはそれにこのようにお答えになります。

(サンスクリット引用)

「あなたと私はどちらも、たくさん、たくさんの生を通り過ぎました。私はそれらすべてを覚えていることができますが、あなたはそうできません。おお、敵を鎮圧する者よ!」(Bg.4.5)

第17段落
クリシュナは神ではありますが、主は何度も何度も化身なさいます。アルジュナも、生命体なので何度も何度も生まれます。至高の人格神と生命体の間の違いは、ターニー・アハム・ヴェダ・サルヴァーニ、「クリシュナはご自分の過去の化身の出来事を覚えているが、生命体は覚えていられない」というものです。

それが神と人との間の違いの一つです。神は永遠であり、私たちもまた永遠です。しかし違いは、私たちはいつも体を変えているということです。死のとき、私たちは自分の生涯のできごとを忘れます。死は忘却を意味します。それだけです。

夜、眠るとき、私たちは自分がある妻の(such and such a wife)夫であって、ある子供たちの父親であるのを忘れます。私たちは眠りの中で自分自身を忘れますが、目覚めるとき、私たちは思い出します。「おお、私は誰それだ。そして私はこれこれをしなければならない。」

自分の以前の生において、私たちが他の国々で他の家族、父、母などと共に他の体を持っていたというのは事実です。しかし私たちはこれらすべてを忘れてしまいました。私たちは、犬、あるいは猫、あるいは人間、あるいは神(gods)であったかもしれません---何であったとしても、私たちは今は忘れてしまっています。

第18段落
これらすべての変化にも関わらず、生命体として私たちは永遠です。ちょうど以前の生において私たちがこの体のために準備をしたように、この人生において私たちはもう一つの体のために準備をしています。私たちは自分のカルマ、すなわち活動に応じて自分の体を得ます。

徳の相にある者は、より高い惑星に、人生のより高い水準に上げられます(Bg.14.14)。熱情の相において死ぬ者は地上に留まり、そして無明の相において死ぬ者は生命の動物の種に落ちるかもしれず、あるいは、より低い惑星に移されるかもしれません(Bg.14.15)。これがずっと続いている過程ですが、私たちはそれを忘れます。

第19段落
あるとき、天国の王様インドラが自分の霊的指導者の足元で(訳注:~に対して)無礼を犯しました。そして彼の霊的指導者は、彼に豚として生まれるように呪いをかけました。こうして、インドラが豚になるために地球に行ったので、天国の王国の王座が空になりました。

(この)状況を見て、ブラーマーが地球に来て豚に話しかけました。「我が親愛なる方よ。あなたはこの地球という惑星の上で豚になりました。私はあなたを救うために来ました。直ちに私と共に来てください。」しかし、豚は答えました。「おお、私はあなたと共に行くことはできません。

私には非常に多くの責任があります---私の子供たち、妻、そしてこの素敵な(nice)豚社会です。」ブラーマーが彼を天国に連れ帰ると約束したにも関わらず、豚の形において、インドラは拒絶しました。これは忘却と呼ばれます。同様に、主クリシュナがおいでになって私たちにおっしゃいます。

「あなたはこの物質世界で何をしているのですか?(サンスクリット引用)私のところに来なさい。そうすれば(and)私はあなたにすべての保護を与えます。」しかし私たちは言います。「旦那様(Sir)、私はあなたを信じません。私にはここにもっと大事な仕事があります。」これが制約された魂の立場---忘却です。この忘却は、師弟継承の道を辿ることによって、すぐに消されます。
[PR]
by ammolitering4 | 2012-03-15 15:02 | 「知識の王」 | Comments(0)

第5章 前半

第5章 パラムパラー:師弟継承を通した知識

(サンスクリット引用)
第1段落
「神聖なる主はおっしゃいました。『私はこの不滅のヨガの知識を太陽神ヴィヴァスヴァーンに教えました。そしてヴィヴァスヴァーンはそれを人類の父マヌに教え、そしてマヌは次にそれをイクシュヴァークに教えました。』」(Bg.4.1)

第2段落
大昔(訳注:Many ages ago、’age’は「時代」)、クリシュナはバガヴァッド・ギーターの神聖なる知識を太陽神ヴィヴァスヴァーンに授けました。私たちの知る限り、太陽は非常に熱い場所であり、私たちは、誰にとってもそこに住むのは可能であるとは考えません。

これらの体をもってしては、太陽に非常に近付くことさえ可能ではありません。しかし、ヴェーダ文献から私たちは、「太陽はちょうどこれ(訳注:地球)のような惑星であり、ただ、そこ(にある)すべてのものは火でできている」ということを理解することができます。ちょうどこの惑星が土でできているように、主に火、水、あるいは空気でできた、他の惑星があります。

第3段落
これらの様々な惑星の上の生命体は、その惑星の主な要素に応じた要素でできた体を得ます。したがって、太陽の上に住む生命体(being)は火でできた体を持っています。太陽の上のすべての生命体(being)のうち、主要な名士(personality)はヴィヴァスヴァーンという名の神です。

彼は太陽神(スーリャナーラーヤナ)として知られています。すべての惑星の上に主要な名士がいます。ちょうど合衆国では主要な人は大統領であるようにです。マハーバーラタと呼ばれる歴史から、私たちは、かつてこの惑星(訳注:地球)にはマハーラージャ・バーラタという名前の唯一の王様がいたと理解します。

彼はおよそ5千年前に統治しており、そして惑星は彼にちなんで名付けられました。その後、地球は非常に多くの異なる国に分けられるようになりました。このようにして、宇宙の中の様々な惑星の、普通は一人、時として多くの統治者が存在します。(訳注:~には~が存在します)

第4段落
第4章のこの最初の節から、私たちは「何百万年も前にシュリー・クリシュナがカルマ・ヨガの知識を太陽神ヴィヴァスヴァーンに授けた」と学びます。

(訳注:millionは数字の百万ですが、単に非常に大きな数字であることを指すのにも使われるので、ここでは「大昔」という意味です。millenniumも同様で、千年という本来の意味ではなく、非常に長い一つの時代を指して使われています。適宜変えて読んでください。)

バガヴァッド・ギーターの教えをアルジュナに授けるシュリー・クリシュナはここで、「これらの教えは全く新しいものではなく、そうではなくて太古に(Many ages ago)異なる惑星において明らかに語られた(to enunciate)」と示されます。

ヴィヴァスヴァーンは次に、これらの教えを自分の息子マヌに繰り返しました。そして次にマヌはその知識を自分の弟子のイクシュヴァークに授けました。マハーラージャ・イクシュヴァークは偉大な王であり、主ラーマチャンドラの先祖です。

ここで明らかにされる要点(the point being made here)は、「もしも人がバガヴァッド・ギーターを学んでそれから利益を得たいと望むなら、それを理解するための過程があり、そしてその過程がここで描写されている」ということです。

クリシュナがバガヴァッド・ギーターをアルジュナに初めて語っているのではありません(訳注:クリシュナがBGを語るのはアルジュナに対してが初めてではない)。ヴェーダの権威者によって、「主はこれらの神聖なる教えをヴィヴァスヴァーンにおよそ4億年前に授けられた」と推定されています。

マハーバーラタから私たちは、バガヴァッド・ギーターはアルジュナにおよそ五千年前に語られたと理解します。アルジュナの前に、(この)教えは師弟継承によって手渡されていましたが、非常に長い時間の間に、教えは失われてしまいました。

(サンスクリット引用)

「この至高の科学はこのように師弟継承の鎖を通して受け取られました。そして聖人的な王たちはそれをそのようにして理解しました。しかし、時間が経つうちに(in course of time)継承は途切れ、したがって、ありのままの科学は失われたように見えます。

その非常に古い(very ancient)、至高存在との関係の科学は、今日、私によってあなたに語られます。なぜなら、あなたは私の献身者であって私の友人でもあるからです。したがって、あなたはこの科学の超越的な神秘を理解することができます。」(Bg.4.2-3)

第5段落
バガヴァッド・ギーターの中で多くのヨガの体系が描写されています---バークティ・ヨガ、カルマ・ヨガ、ジニャーナ・ヨガ、ハター・ヨガ---そしてそのため、それはここでヨガと呼ばれます(and therefore it is here called yoga)。(訳注:これは文章のつながりがよく分かりません。)

ヨガという言葉は「つなげる(to link up)」を意味し、その意味するところは(the idea is)、「ヨガにおいて私たちは自分の意識を神に繋げる」というものです。それは、神と再び結びつくための、すなわち主との私たちの関係を再構築するための方法です。

時間が経つうちに、シュリー・クリシュナによって授けられたこのヨガは失われました。これはなぜでしょうか?シュリー・クリシュナがアルジュナに話していたとき、学識のある賢人たちはいなかったのでしょうか?いいえ、当時、多くの賢人たちが存在していました。

「失われた」ということによって、バガヴァッド・ギーターの解説(purport)が失われた、ということが意味されます(訳注:~という表現の意味するところは~です)。学者たちはバガヴァッド・ギーターを自分の独自の気まぐれに応じて分析し、バガヴァッド・ギーターの自分の独自の解釈を与えるかもしれません。

しかし、それはバガヴァッド・ギーターではありません。これがシュリー・クリシュナが強調していらっしゃる要点であり、バガヴァッド・ギーターの学徒はそれをよく心に留めるべきです(to note)。人は物質的な視点からは非常に良い学者であるかもしれませんが、それは彼にバガヴァッド・ギーターの解説をする資格を与えません。

バガヴァッド・ギーターを理解するためには、私たちは師弟継承(パラムパラー)の原則を受け入れなければなりません。私たちはバガヴァッド・ギーターの精神(spirit)に入らねばならず、単に学識の視点からそれに近付いてはなりません。

第6段落
すべての人々のうち、なぜシュリー・クリシュナはアルジュナをこの知識の受け取り手として選んだのでしょうか?アルジュナは全く偉大な学者ではなく、ヨギー、瞑想者、あるいは聖なる人(holy man)でもありませんでした。彼は、もうすぐ戦いに臨もうとする戦士でした。

当時は多くの偉大な賢人たちが生きており、そしてシュリー・クリシュナは(そうしたければ)バガヴァッド・ギーターを彼らに与えることができました。答えは、「普通の人であったにも関わらず、アルジュナは一つの偉大な資格を持っていた」というものです(サンスクリット引用)。

「あなたは私の献身者であり、私の友人です。」これがアルジュナの非凡な資格、賢人たちが持たなかった資格でした。アルジュナはクリシュナが至高の人格神であると知っており、そしてそのため、彼は主を自分の霊的指導者として受け入れ、主に服従しました。

人が主クリシュナの献身者でない限り、彼は決してバガヴァッド・ギーターを理解することができません。もしも人がバガヴァッド・ギーターを理解したいなら、彼は他の方法からの助けを受けることはできません(訳注:他の方法で理解することはできません)。彼はそれを、バガヴァッド・ギーターそのものの中で定められているように、アルジュナがそれを理解したように理解することによって、理解しなければなりません。

もしも私たちがバガヴァッド・ギーターを異なるふうに理解したいなら、あるいは個々の解釈を与えたいなら、それは私たちの学識の披露ではあるかもしれませんが、それはバガヴァッド・ギーターではありません。

第7段落
学識によって私たちはバガヴァッド・ギーターに関する(of)何らかの理論を作り出すことができるかもしれません。ちょうどマハートマー・ガンディーが、自分の非暴力の理論を支えるための努力においてバガヴァッド・ギーターを解釈したときのようにです。

バガヴァッド・ギーターから非暴力を証明することがどうして可能なのでしょうか?バガヴァッド・ギーターの中心的な主題(the very theme)は、戦うことに対するアルジュナの抵抗感と、クリシュナが彼に敵を殺すように勧めることに関わっています。

事実、クリシュナはアルジュナに「戦いは既に至高存在によって決定されている、そして戦争に集まった人々は決して(家に)戻らないということがあらかじめ運命づけられている」とおっしゃいます。「戦士たちが皆、死を運命づけられている」ということはクリシュナの計画であり、そしてクリシュナはアルジュナに、彼らを征服したという名誉(credit)を得る機会を与えられました。

もしもバガヴァッド・ギーターにおいて戦うことが必要なものであると宣言されているなら、それから非暴力を証明することがどうして可能でしょうか?そのような解釈は、バガヴァッド・ギーターを歪める試みです。ギーターが個人の動機に応じて解釈されれば直ちに、(BGの)目的は失われます。

私たちは自分の独自の理論あるいは議論の力によってヴェーダ文献の結論に至ることはできない、と述べられています。私たちの理論の感覚の範囲内にない(not to come within)多くのものごとがあります。聖典に関して言えば、私たちは異なる聖典が完全真理を異なるふうに描写しているのを見出します。もしも私たちがそれらすべてを分析するなら、幻惑があるでしょう(訳注:幻惑されるでしょう)。

また、異なる意見を持つ多くの哲学者たちがいます。そして彼らはいつも互いに矛盾しています。もしも真理が様々な聖典を読むこと、論理的な議論、あるいは哲学的な理論によって理解され得ないなら、それならそれはどうやって得られることができるでしょうか?事実は、「完全真理の英知は非常に内密であるが、もしも私たちが権威に従うなら、それは理解され得る」というものです。

第8段落
インドでは、ラーマーヌジャーチャーリャ、マドゥヴァーチャーリャ、ニムバールカ、ヴィシュヌスヴァーミー、そして他の偉大な賢人たちから来ている師弟継承があります。ヴェーダ文献は、より優れた霊的指導者を通して理解されます。

アルジュナはクリシュナからバガヴァッド・ギーターを理解しました。そしてもしも私たちがそれを理解したいなら、私たちはそれを他のどの源でもなくアルジュナから、理解しなければなりません。もしも私たちが何であれバガヴァッド・ギーターに関する何らかの知識を持っているなら、私たちはそれがアルジュナの理解とどう符合するかを見なければなりません。

もしもバガヴァッド・ギーターをアルジュナがしたのと同じように理解するなら、私たちは自分の理解は正しいと知ります(we should know)。これが私たちのバガヴァッド・ギーターの学習のための判断基準であるべきです。

もしも実際にバガヴァッド・ギーターから利益を得たいと望むなら、私たちはこの原則に従わねばなりません。バガヴァッド・ギーターは、私たちが市場で買って読むことができ、理解するためには単に辞書で調べればよいような、普通の知識の本ではありません。これは可能ではありません。もしもそれがそうであったなら、クリシュナは決してアルジュナに(BGの)科学が失われたとはおっしゃらなかったでしょう。

第9段落
バガヴァッド・ギーターを理解するために師弟継承を通ることの必要性を理解するのは難しくありません。もしも私たちが弁護士、技師、あるいは医者になりたいなら、私たちは権威のある弁護士、技師、および医者から知識を受け取らねばなりません。

新米の弁護士は経験のある弁護士の見習にならねばならず、あるいは医者になるために勉強している若者はインターンになって、既に免許のある開業医である者と共に働かねばなりません。私たちの(ある)主題に関する知識は、それを権威ある源から受け取らない限り、完成され得ません。
[PR]
by ammolitering4 | 2012-03-15 15:00 | 「知識の王」 | Comments(0)

追悼の日

昨日はあちこちで追悼の集いが行われていたようです。日本だけでなく、世界の各地でも犠牲者や被災者の苦しみを思ってそれぞれに思いを寄せてくださった方が大勢いらっしゃいました。私はたまたまテレビでモスクワの様子をちらっと見たのですが、静かに献花する人々の様子がいかにもロシア的に思えて、やっぱりロシアはいいなと思いました。私はロシアに行ったこともないのにロシアびいきなのです。

私も昨日はバプテスト連合が主催した追悼集会に参加しました。受付の名簿を見たら参加者はほとんど教会関係者ばかりで、私のような無関係者はいなかったように思います。集会の前半は通常の礼拝の形式で行われました。聖書の言葉を読み、賛美歌を歌い、牧師さんの説教を聴く、というものです。お話しをなさった牧師さんは震災後に福島に出向いて精力的に活動をなさっている女性の方です。とても元気な方みたいで、神学生その他の若者集団を引き連れて行って、脅しをかけてビシバシと働かせてる、という発言をなさってました。

そんな気さくな方なので地元の人々とも仲良くなり、悲しみを抑えてがんばってる人たちに「泣いてもいいんだよ、こんなときに泣かないでどうする」と言って、抱きしめて一緒に泣いて、立ち直って一緒に笑って、一年を過ごしていらっしゃいました。頭の下がる活動をしていらっしゃると思います。放射線量の高いところでのご活動なので健康にも良くないことだろうし、避難生活は今後何年も続く見通しだそうです。何と言ったらいいのか分からないけれど、ご活動に神様の支えがあることを願っています。

しかし、、、やっぱりキリスト教の教えは腑に落ちないのです。牧師さんは、「正直なところ、『主よ、あなたはあの日どこにおられたのですか?なぜ地震を止めてくださらなかったのですか?』と思います」とおっしゃいました。もちろん、信仰の強い方ですのですぐに立ち直り、苦しみの中にも神の働きを見て感謝する、とおっしゃいます。でも、彼女は被災者の笑顔の中にそれを見るとおっしゃいます。「感謝が浮かばない、でも感謝しなきゃ」と言って前に進もうとする被災者の強さの中に神を見るのです。「もう限界だ、と感じることがある、でも神はやっぱりこうして私たちと共にいてくださる。」

ひねくれた私が悪いのか、とも思うのですが、東北とのつながり、隣人とのつながり、立ち直る笑顔の中に神を見ていても、それはいつ根っこから断ち切られるか分からないと思うのです。もう一度何か大きな打撃が来たらどうなるでしょうか。自然災害でなくても、個人的に打ちのめすような打撃が訪れるかもしれません。今度こそ本当に限界に来て、復興への望みも、笑顔を見せる気力も二度と見られないかもしれません。絆、絆と連呼して、必ずや助けてくれると信じていた隣人たちも、保身のために私を見捨ててしまうかもしれません。牧師さんは被災者たちと共に食事をして暮らしと気持ちのつながりを深めていらっしゃいますが、切り刻まれて彼らの食卓に乗せられた動物たちも、殺されるときに「神様、どこにいらっしゃるのですか。なぜ私を助けてくださらないのですか」と思ったかもしれません。

テレビを見ていたら、被災した若者がヘリコプターの操縦士になるためにがんばっているというニュースをやってました。命を助けられた彼は、自分もまた一人でも多くの人命を救助できるようになるため、ヘリコプターの操縦士になる道を選んだのです。これもまた若者の純粋な感動が彼を動かしたものであり、すばらしいことであると思います。そして、彼にはおそらく実際にそういう活躍の場が与えられるでしょう。人助けをしたい、一人でも多くの命を救いたい、という彼の夢の実現のためには、助けられる人がいる、という前提があります。私たちのいる物質世界とはそういう場所なんだということを私は思うのです。文字通り寄せる波のように苦しみが押し寄せます。転んでは立ち上がるたびに「助けてくれてありがとうございます、支えてくれてありがとうございます」と神に感謝するのであれば、ここで助からなかった人はやはり神様が見捨ててしまったからなのでしょうか。

被災者からの「どうしてこんなことが起こるのか」という心からの問いに対して、牧師さんは「『私には分からない』と答えるしかない」とおっしゃいます。巨大な力とそれに打ちのめされた人を前にして、他に答えようがない、という気持ちは分からないではありません。別の牧師さんたちも同じようなことをおっしゃいました。でも、せめて牧師さんたちや教会関係者の集まりでは、魂と神のつながりとは、という問いが突き詰められてしかるべきではないかと思ったのです。今、私は一応年齢だけは大人ですが、これは子供の頃から変わらない問いです。ここはどこなのか、なぜ私はここにいるのか、私は誰か、この体は何か、なぜ生まれてなぜ死ぬのか、どこから来て、どこへ行くのか。幼い頃に通っていたキリスト教会で全く教えてもらえなかったことであり、昨日の集会でも一言も述べられなかった事柄でした。
d0152550_9285695.jpg

[PR]
by ammolitering4 | 2012-03-12 10:08 | Comments(7)

第4章

第4章 マハートマー、すなわち偉大な魂の方法による知識

第1段落
創造のすべての側面におけるクリシュナの存在は、いつもクリシュナの崇拝にいそしんでいるマハートマー、偉大な魂によって知覚されます。クリシュナご自身が述べられるように、これらの偉大な魂たちはバガヴァッド・ギーターの第9章に見出される内密な知識に精通しており、そして彼らはクリシュナをすべてのものの源であると知っています。

(サンスクリット引用)

「おお、プレターの息子よ。幻惑されていない者、偉大な魂たちは、神聖なる自然の保護の下にあります。彼らは完全に献身奉仕にいそしんでいます。なぜなら、彼らは私を至高の人格神、もともとであって(original)であって尽きることがないと知っているからです。」(Bg.9.13)

第2段落
偉大な魂は、「クリシュナは至高の人格神であって主はすべての放射(されたもの)の源である」と、疑いもなく知っています。ヴェダーンタ・スートラは「アタートー・ブラーマー・ジジニャーサー」、人間の人生はブラーマンについて問うためにある、と述べます。

現在では、私たちは皆、一時的な小さなものを学ぶことにいそしんでいます。ブラーマンは最も偉大なものを意味しますが、最も偉大なものについて考える(concerning ourselves with ~)代わりに、私たちは食べること、眠ること、身を守ることと性交すること、という動物の問題を解決しようとすることに、網に捕らえられたように(enmeshed)なりました。

これらの小さな問題は自動的に解決します。動物でさえ、性交すること、眠ること、食べること、そして身を守ることを楽しんでいます。これらの配剤はすべて提供されています。これらの体の欲求は、本当は問題ではありませんが、私たちはそれらを問題に作り上げました。

ヴェダーンタ・スートラは、これらの問題を気にしない(not to concern ourselves with)ように私たちに命じました。なぜなら、それらは生命のどんな形(any form of life、どんな形の人生)においても満たされるからです。私たちの問題は、これらすべての顕現の源について問うことです。

人間の形の人生(the human form of life)は、豚、糞を食べる者でさえ解決することのできる物質的な問題を解決するために大変な苦労をするためにあるのではありません。豚は動物の中で最低のものと考えられています。

それでも彼は、食べる設備、性交する設備、眠る設備、そして身を守るための設備を持っています。たとえこれらのものを得ようと努力しなくても、私たちはそれらを得るでしょう。そうではなく、人間はこれらすべてのものが来ている源を見つけるために存在します(Man is meant to find out)。

ヴェダーンタ・スートラは、「ブラーマンはすべてのものが放射している源である」(Brahman is that from which everything is emanating)(ジャンマーディ・アシャ・ヤター)と述べます。哲学者、科学者、ヨギー、ジニャーニー、そして超越主義者は、皆、すべてのものの究極の源を探そうとしています。

この源はブラーマ・サムヒターの中に与えられています。サルヴァ・カーラナ・カーラナム、クリシュナがすべての原因の原因です。

第3段落
クリシュナがすべてのものの根本の源であると知って、偉大な魂たちはどのように活動するでしょうか?クリシュナご自身が彼らをこのように特徴づけられます。

(サンスクリット引用)

「いつも私の栄光を唱え、大いなる決意をもって努力し、私の前にひれ伏し(訳注:to bow down、文字通りでは「お辞儀をする」ですが、ひれ伏す、こうべを垂れる、屈服する、などの意味もあります)これらの偉大な魂は恒久的に献身の念をもって私を崇拝します。」(Bg.9.14)

第4段落
その賛美は、このバークティ・ヨガの過程、ハレ・クリシュナを唱えることです。偉大な魂は、神の性質、主の降臨と主の使命を知って、主を非常に多くの方法で讃えます。しかし、主を受け入れない他の者たちがいます。クリシュナは彼らのことにも第9章で言及なさいます。

(サンスクリット引用)

「愚か者たちは、私が人間の形で降臨するとき、私をあざ笑います。彼らは私の超越的な性質と、私の(校正:my → My)存在するすべてのものの上の至高の支配を知りません。」(Bg.9.11)

第5段落
動物より低いムーダー、すなわち愚かな人々は、主をあざ笑います。誰であれ神を信じない者は、狂人であるか、あるいは一番の愚か者であるか、どちらかです。神を信じない理由はありません。そして、主を信じるすべての理由があります。人は、自分は神を信じない、と言うかもしれません。

しかし、誰が彼にこれを言う力を与えるのでしょうか?死が来るとき、この話す力は終わります---では、誰が話す力を与えているのでしょうか?話す力は自動的に石から来たのでしょうか?話す力が至高の権威によって取り上げられれば直ちに、体は石より優れたものではなくなります。

話す力それ自体が、私たちにすべてを与えている至高の力が存在するという証拠です。クリシュナ意識の人は、何であれ自分が持っているものは自分の統御の下にはない、と知っています。もしも私たちが神を信じないなら、私たちは、いついかなる時も(at every step)私たちを統御している、私たちを超えた何らかの力を信じなければなりません。

その力を神、あるいは自然、あるいは他の何と呼ぶのであれ。宇宙には統御する力があり、正気の者は誰もそれを否定することはできません。

第6段落
クリシュナはこの地上に存在しておられ、ちょうど超自然的な力を持った人間のように見えました。しかしそのとき、99%の人は主を神として認識することができませんでした。どうやって神を認識することが可能でしょうか?

主は、超自然的な力を通して、権威(者)の証拠を通して、そして聖典の証拠を通して認識され得ます。クリシュナに関して言えば、すべてのヴェーダの権威が主を神として受け入れました。主が地上にいらしたとき、あらわされた主の活動は超人的でした。もしも人がこれを信じないなら、彼はどんな証拠が与えられても信じないと結論されるべきです。

第7段落
人はまた、神を見るための目を持たねばなりません。神は物質的な感覚によっては見られ得ません。したがって、バークティ・ヨガの過程は、神が何であって誰であるかを理解することができるようにするために感覚を浄化する過程です。

私たちは、見ること、聞くこと、触ること、味わうことなどの力を持っています。しかし、もしもこれらの感覚が鈍ければ、私たちは神を理解することができません。クリシュナ意識の過程は、規律された原則、特にハレ・クリシュナを唱えることを通してこれらの感覚を訓練する過程です。

第8段落
シュリー・クリシュナは、さらにムーダーを特徴づけられます。

(サンスクリット引用)

「このように幻惑されている(bewildered)者は、悪魔的、および無神論的な見方によって魅了されます。その幻惑された(deluded)状態において、解放のための彼らの希望、彼らの結果を求める活動、および彼らの知識の蓄積(culture)は、すべて打ち負かされます。」(Bg.9.12)

第9段落
モガーシャーという言葉は、「無神論者の希望(aspiration)は挫かれる」ということを示します。カルミー、すなわち結果を求めて働く者たちは、いつも、自分の感覚を満足させるための、より良い何かを希望しています。彼らが止まる限界はありません。

彼らは自分の銀行の残高を増やそうとしており、ある特定の時点において幸せであることを希望しています。しかし、その時点は決して来ません。なぜなら、彼らは満足の究極の地点を知らないからです。幻想エネルギーの魅力に心奪われた者は、人生の究極の目的を理解することができません。

モガーカルマーナーという言葉は、「彼らは非常に熱心に働いているが、最後にはただ挫折(frustration、失望、欲求不満)に直面するだけだ」ということを示しています。私たちがクリシュナ意識において確立していない限り、私たちの活動のすべては最後には挫かれます。

第10段落
これは普通の人の裁決ではなく、シュリー・クリシュナご自身のです。もしも私たちが知識を探しているなら、私たちはクリシュナが神で「ない」のかどうかを知る(to find out)ための研究をすべきです。何らの対象(objective、目的)なくして、何千年もの推量に何の意味があるでしょうか(What is the point of ~?)

(訳注:この一文はどうもよく分かりません。「感覚の満足のために幾ら努力しても最終的には無駄である」とクリシュナがおっしゃり、知識を求めるならクリシュナが神ではないことの証明を追究すべきであり、そうでないなら永久に理屈をひねくっても無駄である。。。では、ここで「対象あるいは目的」とはやっぱり「クリシュナが神でないことの証明」でしょうか。)

至高主は非常に広大(vast)なので、人は精神的な推量によって主に至る(to reach)ことはできません。もしも私たちが心と風の速さで何百万年も旅するなら、推量によって至高存在に至ることは可能ではありません。(訳注:主は広いので主に至れない、というのは、「全容あるいは本質を知ることができない」という意味だと思います。)

人が自分の独自の精神的な推量という方法によって至高の完全真理に至った例は、ただの一つもありません。したがって、モガージニャーナーという言葉は「俗的な知識の過程は人を途方に暮れさせるようなものだ(bewildering)」ということを示します。

私たち自身の努力を通しては、太陽が沈んだ後で太陽を見ることは可能ではありません。私たちは、朝、日の出のときに太陽が自分自身を明らかに見せるまで待たねばなりません。もしも私たちの限られた感覚によって太陽のような物質的なものを知覚することが可能でないなら、どうして非物質的なものを知覚することが可能でしょうか?

私たちは、自分の独自の努力によってクリシュナを見出す、あるいは理解することができません。私たちは、クリシュナ意識を通して自らに資格を与え、主がご自身を明かされるのを待たねばなりません。

(サンスクリット引用)

「常に献身の念を持っていて、愛情をもって私を崇拝する者に、私は彼らが私のところに来ることができるための理解を与えます。」(Bg.10.10)

第11段落
クリシュナは内にいらっしゃいますが、私たちの物質的な状態が原因で、私たちはそれを認識しません(to realize)。鬼や悪魔(fiends and demons)の性質を持つ者(ラークシャシーム・アースリム)は、「この物質の人生がすべてであり、物体から可能な限りたくさんの快楽(pleasure)を搾り出すことが人間の人生の目的だ」と考えます。

彼らは搾り出すことを試みますが、常に挫折させられます。物質自然を絞ることは、本当の喜びを見つけるための方法ではありません。もしも私たちが本当の喜びを探しているなら、私たちはクリシュナ意識を習慣づけねばなりません。物質世界の中のすべては始まりと終わりを持っています。

しかし、クリシュナにおける(in)幸せは無限であり、終わりを持ちません。この幸せを得るために、私たちは単に少しの時間を犠牲にしてハレ・クリシュナを唱えなければならないだけです。前の時代には、偉大な賢人たちと半神たちは至高存在を認識するために自分の人生のすべてを犠牲にしていたものでしたが、それでも彼らは成功を得ませんでした(would not)。

この時代のために、チャイタンニャ・マハープラブは神認識のための簡単な方法(process)を与えてくださいました。必要なことの全ては、注意深く聞くことです(訳注:「ただ注意深く聞かねばならないだけです」)。私たちはバガヴァッド・ギーターを聞かねばなりません。

そして私たちは、クリシュナの御名を唱え、それらを注意深く聞かねばなりません。私たちは、誤って「自分の知識は偉大である」、あるいは「自分は大変学識がある」と考えておごり高ぶるべきではありません。私たちはただ、クリシュナから教え(message)を聞くために、少し柔和(gentle)で従順にならねばならないだけです。

第12段落
現在では、この世界はラークシャサによって管理されています。ラークシャサは、自分の感覚の満足のために自分の息子を食べる人食いです。今、ラークシャサ感覚の満足のために、非常の多くの人々を強打する(to smash、この場合は「搾取する」という意味と思われます)ため、巨大な政治体制(regimes)が作られています。

しかし彼らは、自分の感覚は決してこのようにして満足させられることはない、と気づきません。それでもラークシャサたちは、自分の気まぐれな欲望を満足させるためにすべてを犠牲にする用意があります。彼らにとって、本当の状況を理解するのは大変困難です。

なぜなら、彼らは物質的な文明に過剰に心を奪われているからです。それでは、誰が理解できるでしょうか?マハートマーである者、その心(heart)が拡大された者は、「すべての者は神に属し、そして私もまた神に属する」と理解します。

第13段落
そのようなマハートマーは、物質自然の統御の下にありません。(マハートマーナス・トゥ・マーム・パールター・ダイヴィーム・プラクリティム・アーシュリター)。神は偉大であり、マハートマーの心(heart)もまた、偉大なる者に奉仕をすることによって偉大になります。

マハートマーは政治的な指導者のための印章ではありません。人は投票によってマハートマーだと押印されることはできません。マハートマーのための水準は、バガヴァッド・ギーターの中に与えられています。マハートマーは主の優性なエネルギーの庇護の下に入った者です。

もちろん、すべてのエネルギーは主のものであり、そして主は霊的なエネルギーと物質的なエネルギーを区別なさいません。しかし、物質エネルギーと霊的なエネルギーの間に周辺的に位置する制約された魂にとっては、区別が存在します。マハートマーはこの区別を見て、そのため霊的エネルギー(ダイヴィーム・プラクリティム)の庇護の下に入ります。

第14段落
偉大なる者に奉仕をすることによって、マハートマーもまた、優性エネルギーと一体化(to identify with)することを通して偉大になります。(アハム・ブラーマースミ)「私はブラーマン---霊である。」彼らはおごり高ぶって自分は神だと考えるのではありません。

そうではなく、もしも人がブラーマンになるなら、彼はブラーマンにおいて自分の活動を表さねばなりません。霊は活動的です。そして、ブラーマンになることは非活動的になることではありません。ブラーマンは霊であり、そしてこれらの物質的な体は、ただその中にブラーマンがいるからこそ、活動的です。

もしも私たちが(自分の)物質自然との接触にも関わらず活動的であるなら、私たちが自らを物質的な汚染から清め、自らを純粋なブラーマンとしての正しい自己認識において確立するとき、私たちは活動的であることを止めるでしょうか?

「私はブラーマンである」と気づいていることは、霊的な活動に携わることを意味します。なぜなら、私たちは霊であり、そして私たちの活動はたとえ私たちが物体によって汚染されていても表されるからです。ブラーマンになることは虚空になることを意味するのではなく、自らを優性なる自然、つまり優性なるエネルギーと優性なる活動において確立することを意味します。

ブラーマンになることは、主に献身奉仕を捧げることに完全に携わることを意味します。こうしてマハートマーは、「もしも奉仕がなされるなら、それはクリシュナに対してであるべきであり(it is to be to Krishna)、他の誰にでもない」と理解します。私たちは本当に長い間、自分の感覚に奉仕をしてきました。今、私たちはクリシュナに奉仕をすべきです。

第15段落
奉仕をやめるということはあり得ません(no question of ~、論外である)。なぜなら、私たちは奉仕のためにあるからです。奉仕をしない人が誰かいるでしょうか?もしも私たちが大統領に「あなたは誰に奉仕をしていますか?」と尋ねるなら、彼は「自分は国に奉仕をしているのだ」と言うでしょう。

奉仕をしていない者は誰もいません。奉仕は、私たちは止めることができません(訳注:語順による強調表現)。しかし私たちは、自分の奉仕を幻想から現実へ向け直すことは、しなければなりません(we do have to、強調表現)。これがなされるとき、私たちはマハートマーになります。

第16段落
いつも主の栄光を讃えるこのキールタン(キールタヤンター)の過程は、マハートマーの始まりです。その過程は、人類にこの「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を授けた主チャイタンニャ・マハープラブによって簡略化されます。

献身奉仕の9つの異なる過程(process、方法)があり、そのうち、シュラヴァナム・キールタナム、聞くことと唱えることが最も大切です。キールタナムは、実際は「描写すること」を意味します。私たちは、音楽、言葉、絵などで描写することができます。シュラヴァナムは、キールタナムとよく合います(to go hand in hand)。

聞かない限り、私たちは描写できないからです。私たちは、至高存在に至るために何らの物質的な資格も必要ありません。私たちがしなければならないことのすべては、権威ある源から聞いて、自分が聞くことを正確に繰り返すことです。(訳注:~しなければならないだけです)

第17段落
かつては、ヴェーダは霊的な指導者から(語られ)、生徒によって聞かれました。そしてそのため、ヴェーダは「聞かれるもの」を意味するシュルティとして知られるようになりました。例えば、バガヴァッド・ギーターの中で、私たちはアルジュナが戦場でクリシュナの話を聞いているのを見ます。

彼はヴェダーンタ哲学の研究にいそしんではいません。私たちはどこででも、戦場においてさえ、至高の権威から聞くことができます。知識は受け取られるのであり、作り出されるのではありません。一部の人々はこう考えます。「なぜ私は主のおっしゃることを聞くべきでしょうか?

私は自分で考えることができます。私は何か新しいものを作りだすことができます。」これはヴェーダの下降的な知識の過程ではありません。上昇的な知識によって、人は自分の独自の努力によって自分自身を上昇させようとします。

しかし、下降的な知識によって、人は知識をより優れた源から受け取ります。ヴェーダの伝統においては、バガヴァッド・ギーターにおいてのように、知識は霊的指導者から生徒へ授けられます。(サンスクリット引用)。従順に聞くことは非常に強力なので、単に権威ある源から聞くことによって、私たちは完全に完璧になります。

従順になる過程において、私たちは自分の(our own)不完全さに気づくようになります。制約されている限り、私たちは4種類の不完全さの影響下にあります。私たちは必ず過ちを犯し、幻惑され、不完全な感覚を持ち、そして騙します。

したがって、私たちの欠陥のある感覚と経験によって完全真理を理解しようとすることは無駄です。私たちはクリシュナの献身者であるクリシュナの代理人から聞かねばなりません。クリシュナは、アルジュナがご自分の献身者であったので、アルジュナをご自分の代理人になさいました(サンスクリット引用)(Bg.4.3)

第18段落
誰も神の献身者になることなくして神の代理人になることはできません。「私は神である」と考える者は代理人になれません。私たちは神の欠かすべからざる小片であるので、私たちの性質は主のと同じです。したがって、もしも私たちが自分の中のこれらの性質を研究するなら、私たちは神について何らかを学ぶことになります。

この自己認識の過程は、神を理解するための一つの方法ですが、私たちは決して「私は神である」と布教することはできません。私たちは、神の力をあらわすことができずして神であると主張することはできません。クリシュナに関して言えば、主は大変な力をあらわすことによって、そしてアルジュナにご自分の普遍的な力を明かすことによって、ご自分は神であると証明なさいました。

クリシュナは、神であると主張する(would claim)人々の気をそぐ(to discourage、反対する、思い留まらせる)ために、この素晴らしい姿をお見せになりました。私たちは、神であると主張する者によって騙されるべきではありません。

私たちはアルジュナの足跡を辿り、誰であれ誰かを神として受け入れる前に、普遍的な姿を見ることを要求すべきです。愚か者だけが別の愚か者を神として受け入れます。

第19段落
誰も神と対等であり得ず、誰も主を超えられません(no one can be above him)。最も位の高い半神である主ブラーマーとシヴァでさえ、主に従属的であり、(主に)心からの敬意を捧げます。何らかの瞑想の過程や他の何かによって神になろうとする代わりに、私たちは神について従順に聞き、主と、私たちと主との関係を、理解しようとするほうが良いのです(we had better)。

神の代理人、あるいは神の化身は、決して神であると主張せず、そうではなく、神の従者であると主張します。これが真正なる代理人のしるしです。

第20段落
何であれ私たちが権威ある源から神について学ぶことは、描写されることができ、そしてそれは私たちが霊的な発達をするのを助けます。この描写はキールタンと呼ばれます。もしも私たちが自分が聞くことを繰り返そうとするなら、私たちは知識において確立されるようになります。

シュラヴァナム・キールタナム、聞くことと唱えることという過程によって、私たちは物質的な制約から自由になって神の王国に至ることができます。この時代には、犠牲、推量、あるいはヨガを行うことは不可能です。私たちには、権威ある源から従順に聞くことの他には道は開かれていません。

これがマハートマーたちが最も内密な知識を受け取った方法です。それがアルジュナがそれをクリシュナから受け取った方法であり、そしてそれが私たちがそれをアルジュナを源とする(stemming from)師弟継承から受け取らねばならない方法です。
[PR]
by ammolitering4 | 2012-03-10 12:30 | 「知識の王」 | Comments(1)

おまけ

あんまり筆記具にこだわらない私は、今は手当たり次第にありあわせのジェルペンを使ってます。蛍光ピンクでも使ってます。
d0152550_17382582.jpg



メタリックだったりもします。てきとーですね: )
d0152550_1740978.jpg

[PR]
by ammolitering4 | 2012-03-08 17:41 | Comments(0)

第3章 後半

第28段落
これが起こった多くの例があります。インドには、サークシ・ゴパーラと呼ばれる、あるお寺があります(クリシュナはしばしばゴパーラと呼ばれます)。ゴパーラ・ムールティ、すなわち(訳注:クリシュナの)彫刻が、かつてヴリンダーヴァンのある寺院にありました。

あるとき、一人の年老いた者と一人の若者の二人のブラーマナが、巡礼でヴリンダーヴァンを訪れました。それは長い旅でした。そして当時は鉄道がなかったので、旅人は多くの困難を経験しました。老人は、旅の途中で自分を助けてくれたことに対して若者に深く感謝していました(be obliged to)。

そしてヴリンダーヴァンに着いたとき、彼は若者に言いました。「我が親愛なる少年よ。あなたは私に非常に多くの奉仕をしました。そして私はあなたに深く感謝しています。私はぜひともその奉仕に報い、あなたに何らかの褒美を与えたいと思います。」

第29段落
「我が親愛なる方よ(My dear sir,)」と若者は言いました。「あなたはちょうど私の父のような老人です。あなたに奉仕をするのは私の義務です。私は何の褒美も必要としません。」

第30段落
「いいえ、私はあなたに恩があり(I'm obliged to you)、そして私はあなたに褒美を与えねばなりません」と、老人はあくまで主張しました。彼はそれから、若者に自分の若い娘を結婚において与えると約束しました。

第31段落
老人はとても裕福な人でした。そして若者は、学識のあるブラーマナではありましたが、非常に貧乏でした。これを考えて、若者は言いました。「これを約束しないでください。なぜなら、あなたの家族は決して同意しないだろうからです。私は大変貧乏な男です。そしてあなたは貴族的です。ですから、この結婚は成立しないでしょう。神像の前でこれを約束しないでください。」

第32段落
会話は寺院の中で、ゴパーラ・クリシュナの神像の前でなされていました。そして若者は神像に無礼をしないようにと心配していました。しかし、若者の懇願にも関わらず、老人は結婚をあくまで主張しました。しばらくの間ブリンダーヴァンに留まったあと、彼らはとうとう家に帰りました。

そして老人は自分の長男に、彼の若い妹(his young sister)が貧しいブラーマナの若者と結婚することになったと告げました。長男は非常に立腹しました。「おお、どうしてあなたはあの貧乏人を私の妹のための夫として選んだのですか?これは許されません(This cannot be.「そうであってはならない」)。」

第33段落
老人の妻も彼のところに来て言いました。「もしもあなたが私たちの娘をあの少年と結婚させるなら、私は自殺します。」

第34段落
老人はこうして当惑しました。しばらくして、ブラーマナの若者は非常に心配になりました。「彼は自分の娘を私と結婚させると約束した。そして彼は神像の前でその約束をした。今、彼はそれを守りに来ていない(He is not coming to fulfil it.)。」それから彼は、約束を思い出させるために老人に会いに行きました。

第35段落
「あなたは主クリシュナの前で約束なさいました」と若者は言いました。「そして、あなたはその約束を守っていません。それはどうしてですか?(How is that ?)」

第36段落
老人は無言でした。彼はクリシュナに祈り始めました。なぜなら彼は当惑していたからです。彼は自分の娘を若者と結婚させて自分の家族の間にそれほど大変な問題を起こすことを望みませんでした。その間に、長男が出てきてブラーマナの若者を責め始めました。

「あなたは巡礼の地で私の父を略奪しました。あなたは彼に幾らかの(some、何らかの)陶酔物を与え、彼のすべてのお金を盗り、そして今、あなたは、彼があなたに私の一番若い妹を与えると約束したと言っています。悪者め!(You rascal!)」

第37段落
このようにして大声がしたので(there was much noise)、人々が集まり始めました。若者は、「老人はまだ賛成であったけれど家族が彼にとって物事を難しくしている」と理解することができました。人々は長男の大声のせいで集まり始めました。

そしてブラーマナの若者は彼らに、「老人が神像の前でこの約束をしたが、家族が反対しているので彼はそれを守ることができない」と声高に反論(to exclaim)し始めました。無神論者であった長男は、突然若者の話を遮って言いました。

「では(Well,)、もしも主が来て私の父のこの約束を証言する(to bear witness)なら、あなたは結婚において私の妹を得ることができます。」

第38段落
若者は答えました。「はい、私はクリシュナに証人として来てくださるように頼みます。」彼は、神が来てくださるという自信がありました。皆の前で、「もしもクリシュナがヴリンダーヴァンから老人の約束の証人としておいでになったなら、娘は結婚において与えられる」という同意がなされました。

第39段落
ブラーマナの若者はヴリンダーヴァンに戻り、ゴパーラ・クリシュナに祈り始めました。「親愛なる主よ、あなたは私と一緒に来なければなりません。」彼は非常に筋金入りの献身者だったので、彼はクリシュナに、ちょうど人が友人に話すように話しました。

彼は、ゴパーラは単なる彫刻あるいは像であるとは考えていませんでした。そうではなく、彼は主(訳注:神像)を神ご自身と考えていました。突然、神像が彼に話しかけました。

第40段落
「どうしてあなたは私があなたと一緒に行けると考えるのですか(How do you think that~)?私は彫刻です。私はどこにも行けません。」

第41段落
「でも(Well,)、もしも彫刻が話すことができるなら、彼は歩くこともできます」と少年は答えました。

第42段落
「では、いいでしょう」と神像はとうとう言いました。「私はあなたと一緒に行きます。ただし、一つ条件があります。決して、あなたは私を見るために振り向いてはなりません(In no case shall you~)。私はあなたについて行きます。そしてあなたは私がついて来ているということを、私の脚の足首飾りのたてるチリンチリンという音によって知るでしょう。」

第43段落
若者は同意し、そしてそのようにして彼らは別の町へ行くためにヴリンダーヴァンを去りました。旅がほとんど終わりかけ、ちょうど彼らが彼の故郷の村に入ろうとするとき、若者はもう足首飾りの音を聞くことができませんでした。そして彼は恐れ始めました。「おお、クリシュナはどこだろうか?」

もはや自制しきれず、彼は振り返りました。彼は彫刻がじっと立っているのを見ました。彼が振り返ったので、それはもはや先へ進みませんでした。彼は直ちに町に走っていき、人々に「出てきて、証人としておいでになったクリシュナを見るように」と言いました。

誰もが、そのように大きな彫刻がそれほど遠くから来たということに驚愕し、そして彼らは神像に敬意を表して(in honor of)その場に寺院を建てました。そして今日、人々は今でもサークシ・ゴパーラ、証人としての主を崇拝しています。

第44段落
したがって、私たちは「神はどこにでもいらっしゃるので、主はご自分の彫刻の中、ご自分の姿に作られた像(the image made of Him)の中にもいらっしゃる」と結論づけるべきです。非人格主義者でさえ認めるように、もしもクリシュナがどこにでもいらっしゃるなら、それならなぜ、主がご自分の像の中にいらっしゃらないことがあるでしょうか?

像あるいは彫刻が私たちに話しかけるか、そうでないかは、私たちの献身の念の程度によります。しかし、もしも私たちが像を単に一片の木あるいは石として見ることを選ぶなら、クリシュナはいつも私たちにとって木あるいは石であり続けるでしょう。クリシュナはどこにでもいらっしゃいます。

しかし、私たちが霊的な意識において発達するにつれて、私たちは主をありのままに(as He is)見始めることができるようになります。もしも私たちが手紙を郵便箱に入れるなら、それはその目的地に行きます。なぜなら、郵便箱は正式に認められている(authorized)からです。

同様に、もしも私たちが神の正式に認められた像を崇拝するなら、私たちの信仰は何らかの効果を持つでしょう。もしも私たちが様々な規則や規律に従う準備ができているなら---つまり、もしも私たちが資格を得れば---神をどこにでもいたるところに(anywhere and everywhere)見ることが可能です。

献身者がいるとき(present)、クリシュナはご自分の偏在のエネルギーによって、ご自分をどこにでもいたるところに顕現なさいます。しかし、ご自分の献身者がいないとき、主はこれをなさいません。これの多くの例があります。プラーラーダ・マハーラージャは、クリシュナを柱の中に見ました。

多くの他の例があります。クリシュナはそこにいらっしゃいます。必要とされるもののすべては、主を見るための私たちの資格です(訳注:必要なのは~だけです)。

第45段落
クリシュナご自身がこのようにしてご自分の偏在の例を挙げられます。

(サンスクリット引用)

「どこにでも吹いている強い風がいつもエーテルの空間にあるように(to rest in)、同じようにすべての存在(being)が私の中にある(to rest in)ことを知りなさい。」(Bg.9.6)

第46段落
誰もが風は空間(space)の中を吹くことを知っており、そして地上ではそれはどこにでも吹いています。空気も風のない場所はありません。もしも私たちが空気を追い出したいと望むなら、私たちは何らかの機械によって人工的に真空を作らねばなりません。ちょうど空間の中で空気がどこにでも吹いているように、おなじように(so)、すべてはクリシュナの中に存在しています。もしもこれがそうであるなら、物質的な創造が分解されるとき、それはどこに行くでしょうか?

(サンスクリット引用)

「おお、クンティーの息子よ。時代(millennium)の終わりにすべての物質的な顕現は私の自然(nature)の中に入ります。そしてもう一つの時代の初めに、私の力によって、私は再び創造します。」(Bg.9.7)

第47段落
ちょうど人が時計のネジを巻くように、クリシュナはご自分の自然(プラクリティ)を始動なさいます(to set into motion)。そして自然が休止して安らかになる(to unwind)とき、それは主の中に吸収されます。しかし、霊的な創造はこのようではありません。なぜなら、それは永遠だからです。

物質的な創造の中では、すべては一時的です。ちょうど私たちの体が内にある霊的な火花が原因で成長しているように、創造全体が、内にある主の霊が原因で、存在し始め(to come into being)、成長しており、そして消えています(to pass out of being)。

ちょうど私たちの霊が体の中に存在している(present)ように、主は宇宙の中にパラマートマーとして存在していらっしゃいます。クシーロダカシャーイー・ヴィシュヌの存在が原因で、物質創造は存在します。ちょうど私たちの存在が原因で私たちの体が存在しているようにです。

時としてクリシュナは物質創造を顕現させ、そして時としてそうなさいません。どの場合でも、その存在(existence)は主の存在(presence)が原因です。
[PR]
by ammolitering4 | 2012-03-08 15:59 | 「知識の王」 | Comments(4)

第3章 前半

第3章 クリシュナのエネルギーに関する知識

第1段落
この時点で、「バガヴァッド・ギーターの第9章は特に、既にシュリー・クリシュナを至高の人格神として受け入れた者のためのものである」ということが特記されるかもしれません。言い換えると、それは主の献身者のためのものです。

もしも人がシュリー・クリシュナを至高存在として受け入れないなら、この第9章は、それが本当にそうであるものとは異なる何かであるように見えるでしょう。初めに述べられているように、第9章の主題はバガヴァッド・ギーター全体の中で最も内密な題材です。

もしも人がクリシュナを至高存在として受け入れないなら、彼はこの章が単なる誇張であると考えるでしょう。これは、クリシュナのご自分の創造との関係に関する節においては、特にそうです。

(サンスクリット引用)

「私が、私の非顕現の形において、この宇宙全体に充満しています(By Me, in My unmanifested form, this entire universe is pervaded.)すべての存在(being)が私の内にあります。しかし、私はそれらの中にいません。」(Bg.9.4)

第2段落
私たちが見る世界もまた、クリシュナのエネルギー、主のマーヤーです。ここで、マーヤーは「私によって」を意味します。ちょうど人が「この仕事は私によってなされた」と言うようにです。この「私によって」は、「主がご自分の仕事をなさり、終わった、あるいは引退した」ということを意味するのではありません。

もしも私が大きな工場を始め、「この工場は私によって始められた」と言うなら、決して、私がいなくなった(I am lost)、あるいはどのような状況であれ、いない、と結論されるべきではありません。製造者は自分の製品を「私によって作られた」のであるというかもしれませんが、それは彼が個人的に自分の製品を作った、あるいは建設した、ということを意味するのではなく、そうではなくて、その製品は彼のエネルギーによって作られた、ということを意味します。

同様に、もしもクリシュナが「何であれ、あなたが世界の中に見るものは、私によって作られた」とおっしゃるとき、私たちは「主はもはや存在していない」と仮定すべきではありません(We are not to suppose that ~)。

第3段落
創造のどこにでも神を見るのは、あまり難しくありません。なぜなら、どこにでも、神はいらっしゃるからです(訳注:for He is everywhere present、語順による強調表現)。ちょうどフォードの工場では労働者がフォード氏を隅々に見るように、クリシュナの科学に精通している者は、主を創造のすべての原子の中に見ることができます。

すべてのものはクリシュナの上に依り頼みます(to rest on、頼りにする、よりかかる、基礎を置く)。(マット・スターニ・サルヴァ・ブーターニ)。しかし、クリシュナはそこにはいらっしゃいません。(ナ・チャーハム・テシュヴァヴァスティーター)。

クリシュナと主のエネルギーは異なるものではありませんが、それでもエネルギーはクリシュナではありません。太陽と太陽光は異なりませんが、太陽光は太陽ではありません。太陽光は私たちの窓を通ってきて私たちの部屋に入るかもしれません。

しかし、これは太陽が私たちの部屋の中にあるというのではありません。ヴィシュヌ・プラーナは述べます。パラシャ・ブラーマナー・シャクティー。パラシャは至高を意味し、ブラーマナーは完全真理を意味し、そしてシャクティーはエネルギーを意味します。

至高の完全存在のエネルギーは、すべて(everything)です。しかし、そのエネルギーの中にクリシュナは見出されません。

第4段落
2種類のエネルギーがあります---物質的および霊的なものです。ジーヴァ、すなわち個々の魂は、クリシュナの優性のエネルギーに属します。しかし、彼らは物質エネルギーに魅了される傾向がある(訳注:prone to、良くない傾向がある)ので、周辺エネルギーと呼ばれます。

しかし、実際は二つのエネルギーだけが存在します。すべての惑星系と宇宙(訳注:複数)は、クリシュナのエネルギーに依存しています(to rest on)。ちょうど太陽系のすべての惑星が太陽光の中にあるように、創造の中のすべてはクリシュナの光(Krishna-shine)に依存しています(to rest on)。

(訳注:to rest inは、熟語としては「~で永眠する」、「(希望など)~にかける」という意味ですが、この場合は「(休むように)じっとそこにある」という意味と思います。一方to rest on は「頼りにする、よりかかる、~に基礎を置く、~に支えられる」などの意味ですが、ここではどちらも同じように使われている場合が多いようです。)

主のこれらの力のすべては献身者に喜びを与えます。しかし、クリシュナをねたむ者はそれらを退けます。人が非献身者であるとき、クリシュナの言明は大変な空威張り(so much bluff)であるように見えますが、人が献身者であるとき、彼は「おお、私の主は大変強力だ」と考え、愛と憧憬で満たされるようになります。

非献身者は、クリシュナが「私は神である」とおっしゃるので、彼らと他の誰もが同じことを言うことができると考えます。しかし、もしも自分の普遍的な(universal、宇宙の、万有の)形を見せるように頼まれると、彼らはそれをすることができません。

それが偽りの神と本物の神の違いです。クリシュナの娯楽は真似され得ません。クリシュナは16,000人以上の妻たちと結婚し、彼女らを16,000の宮殿に良く保ちました(訳注:~に住まわせて、幸せな暮らしをさせました)。しかし、普通の男は一人の妻を良く保つことさえできません。

クリシュナは、ただ非常に多くの素晴らしいことを語ったというのではありません。主はまた、素晴らしく振舞われました。私たちは、クリシュナがおっしゃったりなさったりすることのうち、あることを信じ他の事を退けるべきではありません。もしも信仰(belief)がそこにあるなら、それは完全な信仰でなければなりません。

第5段落
このことに関して、ナーラダ・ムニの話があります。彼はあるとき、一人のブラーマナによって尋ねられました(~が~に尋ねました)。「おお、あなたは主にお会いになるのですか?どうか主に、私はいつ自分の救済(salvation)を得るのか、聞いてくださいませんか?」

第6段落
「いいでしょう」とナーラダ・ムニは同意しました。「私は主にお尋ねしましょう。」

第7段落
ナーラダが進んでいくと、彼は木の下に座って靴の修理をしている靴直し職人に会いました。そして、靴直し職人も同じようにナーラダに尋ねました。「おお、あなたは神にお会いになるのですか?主に、いつ私の救済が訪れるのか、尋ねてくださいませんか?」

第8段落
ナーラダ・ムニがヴァイクンターの惑星に行ったとき、彼は彼らの願いを叶え、ナーラーヤナ(神)にブラーマナと靴直し職人の救済について尋ねました。するとナーラーヤナは答えました。「この体を去ったあと、靴直し職人はここに、私のところに来ます。」

第9段落
「ブラーマナはどうですか?」とナーラダは尋ねました。

第10段落
「彼はそこに幾生も(for a number of births)留まらねばなりません。私は彼がいつ来るか知りません。」

第11段落
ナーラダ・ムニは驚愕しました。そして彼はついに言いました。「私は、このことの謎を理解することができません。」

第12段落
「それを、あなたは知るでしょう」とナーラーヤナはおっしゃいました。「彼らが私は自分の住まいで何をしているのかとあなたに尋ねるとき、彼らに私は針の穴に象を通していたと言いなさい。」

第13段落
ナーラダが地球に戻ってブラーマナに近付いたとき、ブラーマナは言いました。「おお、あなたは主にお会いになりましたか?主は何をしておいででしたか?」

第14段落
「主は針の穴に象を通しておいででした」とナーラダは答えました。

第15段落
「私はそのような無意味なことは信じません」とブラーマナは答えました。ナーラダは直ちに、その人は何の信仰(faith)も持っておらず、彼は単に本の読者である、ということを理解することができました。

第16段落
ナーラダはそれから、去って次に靴直し職人のところに行きました(to go on、次の約束の場所に行く)。彼はナーラダに尋ねました。「おお、あなたは主にお会いになりましたか?話してください。主は何をしていらっしゃいましたか?」

第17段落
「主は針の穴に象を通しておられました」とナーラダは答えました。

第18段落
靴直し職人は泣き始めました。「おお、私の主は大変すばらしい。主は何でもおできになる。」

第19段落
「あなたは本当に主は針の穴に象を通すことができると信じますか?」とナーラダは尋ねました。

第20段落
「どうして信じないことがあるでしょうか?(Why not?)」と靴直し職人は言いました。「もちろん私はそれを信じます。」

第21段落
「それはどうしてですか?(How is that?)」

第22段落
「あなたは私がこのバンヤンの木の下に座っているのを見ることができます」と靴直し職人は答えました。「そしてあなたは、非常に多くの果実が毎日落ちているのを見ることができます。そして、一つ一つの種の中に、この木のようなバンヤンの木があります。

もしも小さな種の中にこれのような大きな木があり得るなら、主が針の穴に象を通していらっしゃるということを受け入れるのは、難しいでしょうか?」

第23段落
ですから、これが信仰(faith)と呼ばれます。それは盲目的に信じることに関わる事柄ではありません(It is not a question of、問題、可能性、論点)。もしもクリシュナが大きな木を非常に多くの小さな種の中に入れることができるなら、主がご自分のエネルギーを通してすべての惑星系を宇宙の中に漂わせ続けているというのは、それほど仰天するようなことでしょうか?

第24段落
科学者たちは、「惑星は自然だけによって宇宙の中に保持されている」と考えるかもしれません。自然の背後には至高主がいらっしゃいます。自然は主の導きの下で活動しています。シュリー・クリシュナは次のように述べられます。

(サンスクリット引用)

「この物質自然は私の指揮の下で働いています、おお、クンティーの息子よ。そしてそれは、すべての動く存在(being)と動かない存在(being)を作り出しています。その(訳注:自然の)規則によって、この顕現は繰り返し繰り返し創造され、破壊されています。」(Bg.9.10)

第25段落
マヤーデャークシェニャは「私の監督の下で」を意味します。物質自然は、その背後に主の手がない限り、非常に素晴らしく(so wonderfully)活動することはできません。私たちは、物質的なものが自動的に働いている、何らの例も考えることができません。

物体には自動力がありません。そして、霊的な接触なくしては、それが活動する可能性はありません。物体は独立して、あるいは自動的に活動することはできません。機械は非常に素晴らしく構築されているかもしれませんが、人がその機械に触れない限り、それは働くことができません。

そして、その人は何でしょうか?彼は霊的な火花です。霊的な接触なくしては、何ものも動くことができません。したがって、すべてのものはクリシュナの非人格的なエネルギーに依存しています(to rest on)。クリシュナのエネルギーは非人格的ですが、主は人格(a person)です。

私たちはしばしば、人々(persons)が素晴らしい行いをしているのを聞きます。それでも、彼らのエネルギー的な達成にも関わらず、彼らはやはり人格(persons)で在り続けます。もしもこれが人間にとって可能であるなら、なぜそれが至高主にとって可能でないでしょうか?私たちは皆、人格です。しかし、私たちは皆、クリシュナ、至高の人格(The Supreme Person)に依存しています。

第26段落
私たちは何度もアトラスの絵を見たことがあります。自分の肩の上に大きな惑星を担ぎ、それをそこに保とうとして大変な苦労をしている頑強な男です。私たちは、「クリシュナは宇宙を維持しているので、主はアトラスのようにその重荷の下で苦しんでいらっしゃる」と考えるかもしれません。しかし、これはそうではありません。

(サンスクリット引用)

「そして、それでも、作られたもののすべては私の中に存在しません(to rest in)。私の神秘的な富を見なさい。私はすべての生命体の維持者であるけれど、そして私はどこにでもいるけれど、それでも私の自己は創造のもともとの源です。」(Bg.9.5)

第27段落
宇宙の中のすべての存在(being)はクリシュナのエネルギーの中にあります(to rest in)が、それでもそれらは主の中にありません。クリシュナはすべての生命体を維持しておられ、そして主のエネルギーはあまねく広がっています(all-pervading)が、それでも主は他のところにいらっしゃいます。

これはクリシュナの計り知れない神秘的な力です。主はどこにでもいらっしゃいます。それでも主はすべてのものから離れていらっしゃいます。私たちは主の(his → His)エネルギーを知覚することができますが、主を見ることはできません。なぜなら、主は物質的な目では見られ得ないからです。

しかし、私たちが自分の霊的な性質を発達させるとき、私たちは自分の感覚を浄化し(to sanctify、罪や心などを清める)、このエネルギーの中においてさえ主を見ることができるようになります。(We sanctify our senses so that even within this energy we can see Him.)

例えば電気はどこにでもあり、そして電気技師はそれを利用する能力があります。同様に、至高主のエネルギーはどこにでもあり、そして私たちが超越的に位置するようになるとき、私たちはどこにでも神を面と向かって見ることができます(We can see God eye to eye everywhere)。

(訳注:’to see eye to eye with ~’は熟語表現で、誰かと見解が一致する、という状態を指します。でもこの場合はちょっと違うようですので、このように訳しています。)その感覚の霊化は、献身奉仕と神への愛を通して可能です。

主は宇宙全体にあまねく広がっておられ、魂や心臓や水や空気の中---どこにでもいらっしゃいます。そのため、もしも私たちが神の像(image)を何ででも---粘土、石、木、あるいは他の何であれ---作るなら、それは単なる人形であると考えられるべきではありません。それもまた神です。

もしも私たちが十分な献身の念を持っているなら、像もまた私たちに語りかけるでしょう(will speak to us)。神は非人格的にどこにでもいらっしゃいます(マヤー・タタム・イダム・サルヴァム)が、もしも私たちが何であれ何かから主の個人的な形を作るなら、あるいはもしも私たちが自分たちの中に(within ourselves)神の像を作るなら、主は私たちのために個人的に存在なさるでしょう(He will be present personally for us.)。

シャーストラの中に、勧められている8つの種類の像があります。そして、(訳注:その中の)どの像も崇拝され得ます。なぜなら、神はどこにでもいらっしゃるからです。人は抗議して尋ねるかもしれません。「なぜ神は像として崇拝されるべきであって、ご自分のもともとの霊的な形においてではないのですか?」答えは、私たちは主の霊的な形においては神を直ちに見ることができない、というものです。

私たちの物質的な目をもってしては、私たちは石、土、木---何か実体的なものだけを見ることができます。したがって、クリシュナはアルチャー・ヴィグラハ、私たちが主を見るために至高主によって便宜よく提示された形としておいでになります。その結果は、もしも私たちが像の上に(訳注:精神を)集中し、愛と献身の念をもって捧げものをするなら、クリシュナは像を通して反応してくださる(to respond、返答する)、というものです。
[PR]
by ammolitering4 | 2012-03-08 14:14 | 「知識の王」 | Comments(0)