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犬の体

こんばんは。皆様お元気でいらっしゃいますか。今日はうちに子犬が来ていたので膝に乗せてなでていたら、寝てしまいました。気持ち良さそうに一時間くらい寝てました。かわいいものですね。ときどき姿勢を変えてましたが、これでどうして寝られるのだろうと思うような姿勢のときもありました。寝ている犬にでまかせの子守唄を歌っていたのですが、そのうちに思いついてマハ・マントラを聞かせてあげました。小さいのに生きている犬を見ていると、なぜこの魂は犬の体の中で生きることになったのだろう、などと考えてしまったのです。

私はときどき、ちょうど自分がこの小さな犬を見ていたように、私を天井の辺りから見ている人がいるような気がします。いつもいつもそう思っているわけではないのですが、なんとなくそういう気がすることがあるのです。血管とホネと筋肉と皮と、そんなふうなものでできている私を見ている誰か。この体が魂の住みかなのですね。それは一種の屈辱のようなものです。私は子供の頃、食べることと声を出すことがあまり好きではありませんでした。もちろんちゃんと料理上手の母が作ってくれる手料理を食べて成長したので問題が起こるほどではありませんでしたが、それはなんとなく屈辱的な行為だったのです。人前で食べることはもっと苦手でした。声を出すことに関しては、自分の声で内心の平穏が乱されるような感じがするときがあり、頭の中で響く声で空想上の人々と話したり彼らの声を聞いたりするほうが馴染み易かったのです。

今日は災害のことをあれこれとテレビでやってました。私は12歳のときからテレビを全く見ないで育ったので、今でもあまり好きではないのですが、今は家でずっとテレビがついているのです。テレビでは建前に沿ったことしかいえないのかもしれませんが、疑問に思うことがよくあります。被災した人たちに「この苦しみを乗り越えれば必ずいいことがあるよ。それを信じてがんばって。私は信じてる」などと言う人がいます。努力すればきっと良くなる、というのは聞こえの良い台詞です。そんな台詞が毎日毎日聞こえます。でも実際には「泣きっ面に蜂」とか「踏んだり蹴ったり」とかの表現があるわけで、自然は人間の復興への思いとか全然関係なく、独自のスケジュールで物事を遂行します。「幸せが待ってることを信じてがんばろう」と無責任なことを言って励ましても、そうならない可能性だって否定できないのです。人類の歴史を見ても、ただ悲惨で無残としか言いようのない運命を辿った個人や文明は幾らでもあります。今後もそれは変わらないし、東北の被災地だって例外ではないかもしれません。

根拠のない未来の幸せを感傷的に約束しても、それは聞こえの良い虚言でしかありません。たとえ次なる大災害が起きなくても、個人の体は確実に老化し、病み、やがて死にます。テレビにはときどきお坊さんも出てきますが、わたしはいまだかつて一言も彼らが体を越えた魂に言及するのを聞いたことがありません。体やそれに伴う物質的なものがいかに簡単に滅びるか、あるいは痛めつけられるかをこれだけはっきりと見せ付けられたというのに、いったいなぜ人々は未来の幸せなどという単なる一時的な可能性に過ぎないものに信頼を置くことができるのでしょう。その無邪気な信頼が裏切られたとき、彼らの絶望を今度はどんな空約束で慰められるというのでしょう。なぜだかこの頃はこういう気持ちが募る日々なのです。
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by ammolitering4 | 2012-01-17 22:31 | Comments(2)

虚無感の推進

今日、なんとも悲しい話を聞きました。まあ、別に今さら驚くような新しいことでもないのですが。。。高齢の叔母がある有名なお坊さんから時々お話を聞くのだそうです。そして、人間は死んだらそれっきりで、無になってしまう、灰になるだけ、魂だとか言ってるけどほんとは何もない、というような教えを学んでくるのです。話の流れとしては、「だから物質に執着してはいけない、要らない物は捨てなさい」ということで、それはまあ部屋が片付くから別にいいのではないかと思うのですけれど。。。

しかし、それなら彼女の亡くなった両親も単に消えてしまったわけですよね。初七日だ四十九日だ三回忌だと、面倒で金のかかることをする必要もありません。生まれる前は無、死んだら無。それなら何をがんばってその中間を生きてる必要があるでしょうか。命は大切だの地球より重いだのと言うけれど、それほど実体のないものならわざわざ崇め奉る必要はないのです。たまたま偶然、無と無の間に、嬉しいの悲しいのと言ってうごめいているだけ。そんなしょうもないものなら別にいらない、と言って捨てたって、むしろそのほうが資源を無駄にしないからいいのではないかと思います。生まれたらできるだけ早く、今すぐにでも自殺したほうがいいのです。殺人にも罪はありません。ゼロをゼロに戻して何が悪いでしょう。

物質の体が究極的には執着に値しないものであることは事実であり、それに付随する物に執着することの愚かさを教えるのは大切だと思います。でも、そのついでに命そのものである魂さえも否定してしまう教えは、恐ろしい罪を犯しているんじゃないかなと思います。死んだら魂は神様と同化してしまうんだよ、という教えのほうがまだしもマシです。わざわざお寺にありがたい話を聞きに行く信心深い人々は、何を信心しているのでしょう。死んだら仏様や観音様や、あるいは閻魔様に会えるとは思わないのでしょうか。死んでも残る魂などない、無だ、灰だ、と言われて矛盾を感じないのでしょうか。あるいは、本当はお坊さんはちゃんと別な話をなさっていて、俗人の叔母が間違って理解しているのかもしれません。どちらにしても、結果として人生の最後に「命とは無である」という理解をしてしまう人がいるのはとても悲しいことだなと思います。80年以上も生きてきた彼女の人生は全く無意味な無駄な存在だったのですから。
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by ammolitering4 | 2012-01-13 20:24 | Comments(4)

第2章 最後まで

第2章第72段落より

第72段落
カルマ・ヨギーは、「至高の人格神クリシュナがすべてものの享楽者であり、主がすべての生命体の主である」と、よく知っています。彼は、人々が自分自身を享楽者あるいは放棄者の立場に置くように導く、偽りの権威(prestige、威信、威光)に、何の価値も見出しません。

学識のある賢人たちは、それを物質的な存在の主要な病であると見なし、この手の偽りの権威に嫌悪を感じます。すべての良い仕事、知識を培うこと、瞑想、禁欲、犠牲―――これらすべての活動は、この物質的な病を好転させるためにあります。

したがって、至高の人格神シュリー・クリシュナは、バガヴァッド・ギーター(5.29)において、「自分(訳注:クリシュナ)がすべての犠牲と禁欲の享楽者であり、すべての宇宙の主であり、また、すべての生命体の至高の友人である、ということを知ることによって、人は至高の平和を得ることができる」とおっしゃいます。

第73段落
私たちは既に、仕事を犠牲のためだけに、すなわちヴィシュヌの超越的な感覚を喜ばせるためだけにすることの必要性を議論しました。そして、バガヴァッド・ギーターの上記の言明は、至高の人格神シュリー・クリシュナだけがすべての犠牲の行為の結果を楽しむことができる、ということを明らかにします。

普通の労働者(worker)の犠牲と、経験主義的な哲学者の瞑想と禁欲は、すべて至高の人格神シュリー・クリシュナによって規定され、維持されます。また、超魂―――神秘的なヨギーにとって瞑想の対象である、ヴィシュヌの局地化された側面―――は、至高の人格神シュリー・クリシュナの完全部分です。

第74段落
このように、シュリー・クリシュナはすべての人の友人です―――その人が普通の労働者であれ、経験主義的な哲学者であれ、あるいはたとえ神秘的なヨギーであれ。そして、至高の人格神の完全な従者である献身者については言うまでもありません。

至高の人格神は、特定の時、場所、そして聴衆に応じて、どこででも至高神への献身奉仕という超越的な過程を教え、普及するために、ご自分の献身者に力を授けられます。そうすることによって、(主は)いつも皆のために善をなさいます。したがって主は、すべての恩恵の宝庫です。そして一般の人々は、(彼らが)カルマ・ヨガに始まる献身奉仕の過程によって主を知るようになるとき、完璧な平和と幸せを得ることができます。

第75段落
至高の人格神シュリー・クリシュナへの超越的な奉仕のためにすべてのことをする者は、至高神への奉仕に関連のない何らの犠牲や苦行や瞑想をする必要もありません。私たちは先に、ブラーマナのしるしである徳の性質は、そのような献身者の性質に含まれる、と議論しました。

同じように、誠実な労働者の犠牲と専門知識、サンニャースィーの放棄と知識、神秘的なヨギーの静けさと神への深い集中―――これらすべての性質および至高神への愛が献身者の性質の中に含まれます。

第76段落
事実は、シュリー・クリシュナご自身が献身者によってなされた仕事の結果の享楽者である、というものです。そのため、献身者は自分の仕事の結果に対して何の責任もありません。その結果が俗世の人々の評価によれば良いものであれ、悪いものであれ。

献身者は、シュリー・クリシュナのためにすべてをするという自分の義務の衝動の下で行動します(訳注:「~という義務の念に駆られて行動します」)。彼は決して自分自身のためには行動しません。その反対に、至高神の献身者でないサンニャースィーは、あまねく存在する霊に関する知識を得るために、すべての俗世的な責任から逃れます。

神秘的なヨギーは、自分の瞑想をより良くし、自分の中に同じ至高の霊の局地化された側面をもっとよく見るために、同じような方法をとります。しかし、献身者は自己を満足させるという動機によって駆り立てられることなく、至高の人格(person)の満足のためだけに行動するので、そのため彼は実際に―――サンニャースィーと神秘主義者によってなされる別の努力をすることなく―――すべての俗世的な義務から自由です。

サンニャースィーによって得られた霊的な知識、および神秘的なヨギーによって得られた八重の完成は、どれも献身者にとっては簡単に得られるものです。それでも献身者は、何らの利益、賞賛あるいは栄誉を得たいと望みません。

彼は、至高神への超越的な奉仕にいそしむことを除いては、全く何らの利益を得たいとも望みません。そして単にそのような奉仕によって、彼はすべてを得ます。人がいったん、他のすべての利益を含む至高の利益を得るなら、他に何の得るべきものがあるでしょうか?

第77段落
パタンジャリによって説明されたヨガの体系を辿りながら、神秘的なヨギーは自分の様々な身体的な機能をほとんど完全に止めて、瞑想上の恍惚感(trance)を得ようとします。そのため彼は、自分の心臓の中に至高の霊の局地化された側面を見るために、あらゆる苦難に耐えます。

言い換えると、宇宙の中に比肩するもののない自分の理想を実現するために、たとえそれが死に直面することを意味したとしても、どんな代償をも厭いません。バガヴァッド・ギーター(6.22)において、至高の人格神がおっしゃいます。

「自分の心臓の中に至高の霊を認識すると、神秘的なヨギーは、その超越的な水準に至ることよりも価値のあるものは何もあり得ない、と考えます。その水準にいるということは、何らの苦しみによっても、それがどんなにひどくても動揺しない、ということを意味します。

第78段落
パタンジャリの体系によれば、神秘的なヨガは、その様々なきまぐれなやり方(inclination、傾向、性向)をもって精神面を完全に統御することを目的とします。パタンジャリは、「この超越的な状態は、感覚的な活動から自由になることと、浄化された霊魂にとってのみ知覚可能な完成の水準を得ることからなる」と言います。

そのような水準において、神秘主義者の注意は決してそのような霊的な達成からずれません。八重の霊的な完成は、単に神秘的なヨガにおいて最高の水準に至ることの副産物に過ぎません。(訳注:原文は箇条書きではない。)
1、アニマー(最も小さいものより小さくなる力)
2、ラグヒマー(最も軽いものより軽くなる力)
3、プラープティ(何であれ望むものを得る力)
4、イーシター(惑星を作る力)
5、ヴァシター(誰もを統御する力)
6、プラーカーミャ(すばらしい自然な偉業(feat、離れわざ、芸当)を為す力)
など。

上記の完成の一つか二つを得た後、多くの神秘的なヨギーは精神的なぐらつきという罠にはまります。そのような状態において、ヨギーたちは最高の完成、つまり至高の人格神への純粋な献身を得損ねます。

第79段落
しかし、献身者にはそのような堕落の恐れはありません。なぜなら、彼の注意は既に至高の人格神への超越的な奉仕に固定されているからです。そのため、彼は別に(separately、この場合は「既に行っている献身奉仕とは別に」の意味)恍惚感に入る必要がありません。

献身者にとって神秘的な完成は、彼の注意の対象である至高の人格神の、増える一方の新鮮さのおかげで、取るに足らぬものに見えます。俗人は必ず、至高の人格神への奉仕にどうしてそれほど多くの超越的な幸せがあるのか、理解することができません。

第80段落
主クリシュナは、バガヴァッド・ギーターの中で私たちに、たとえその過程が部分的にだけ完成されたとしても、神秘的なヨギーあるいはカルマ・ヨギーにとっても、彼らのそれぞれの超越的な活動を完成させようとする試みにおいて損失はない、と保証なさいます。

俗的なものは何でも―――知識であれ、富であれ―――物質的な体が滅びるのにあわせて消えますが、カルマ・ヨギーの超越的な仕事は物質的な体と心の俗的な限界を超えます。なぜなら、それは超越的な霊魂との関わりにおいてなされるからです。

このように霊化されることで、これらの活動は物質的な滅亡の限界を超えます。そのため、ちょうど魂が決して滅びないように、物質的な体あるいは心が滅びるときでも、これらの霊化された活動もまた、決して滅ぼされません。

第81段落
至高の人格神は、バガヴァッド・ギーター(6.40)においてこれらを確認なさり、そしてタークラ・バークティヴィノダはそれを次のように説明なさいます。「結局、人間(human race)は二つの部分に分けられます。一方は合法的で、もう一方は非合法的です。

生命の何らの法律も気にせず、単に感覚の満足という原則にのっとって働く者―――彼らは皆、非合法的です。彼らは文明化されているかもしれず、されていないかもしれず、学識があるかもしれず、文盲であるかもしれず、強力、あるいは薄弱であるかもしれませんが、そのような無法者はいつも、低位の動物のように行動します。あらゆる外見に関わらず、彼らの中には何の善もありません。

第82段落
他方、合法的、すなわち法に従う人々は、3つの超越的な区分に分けられます。すなわち、法に従う労働者(訳注:worker、この場合は一般的な意味での労働をする人を指すのではない)、経験主義的な哲学者、そして超越的な献身者です。法に従う労働者はさらに二つの部分に分けられます。

つまり、自分の仕事の結果を楽しみたいと望む労働者と、そのような望みを持たない超越的な労働者です。自分の仕事の結果を楽しみたいと望む労働者は、はかない物質的な幸せを追い求めます。そして、そのような労働者は物質的な世界の中で俗世的、あるいは天上の(heavenly)幸せで報われます。しかし、これらすべての幸せの形は一時的であることが知られねばなりません(訳注:「~を知っていなければなりません」)。

そのため、そのような労働者は、永久的で超越的な本当の幸せを得ることができません。この本当の超越的な幸せは、物質的な存在の呪縛からの解放の後でのみ得られます。そのような超越的な幸せを目的としないいかなる行いも、いつも一時的で気まぐれ(baffling、当惑させるような)です。」

第83段落
普通の仕事がそのような超越的な目標を目的とするとき、この仕事はカルマ・ヨガと呼ばれます。このカルマ・ヨガの過程によって、人は徐々に自己浄化(self-purification)、それから超越的な知識、それから完璧な瞑想、そして究極的に至高の人格神への超越的で愛情ある奉仕を得ます。

時として、俗的な労働者は、彼が自分の俗的な目標を達成するために行う多くの禁欲のため、タパスヴィー(苦行者)、あるいはマハートマー(偉大な魂)であると誤解されます。しかし、そのような俗人によってなされた厳密な禁欲は、結局単に物質的な感覚の満足だけを目的としています。

そしてそのため、これらの禁欲は超越的には無駄です。ラーヴァナやヒラニャカシプなどの一部の悪魔も、大変な禁欲と苦行を行いましたが、彼らは幾らかの、感覚的な喜びの一時的な対象の他には、何も得ませんでした。したがって、感覚的な喜びの限界を超えるときだけ、彼はカルマ・ヨギー、すなわち超越的な結果のための労働者として分類され得ます。

第84段落
本当の徳は、たとえ人が(訳注:カルマ・ヨガの)予備的な水準だけにあったとしても、カルマ・ヨガの活動の中にあります。さらに、カルマ・ヨギーはバガヴァッド・ギーター(6.43)において確認されているように、何度も生まれかわって(life after life)発達します。「生まれ変わった後で、カルマ・ヨギーは自分の過去の生で得た超越的な奉仕の感覚を取り戻します。そして、自分の自然な執着により、彼は再び自分の超越的な活動を完成させようとします。」

第85段落
たとえそのような超越主義者がどういうわけか発達の道から滑り落ちても、彼は再び発達する機会を与えられます。バガヴァッド・ギーター(6.41)において確認されているように、彼は次の生を真正なるブラーマナの家庭、あるいは至高神への奉仕に献身している富裕な商人の家庭に受けることを許されます。

第86段落
しかし、カルマ・ヨギー、デャーナ・ヨギー、ジニャーナ・ヨギー、ハター・ヨギーおよびバークティ・ヨギーと様々に分類される超越主義者の中で、バークティ・ヨギーが最も偉大です。なぜなら、バガヴァッド・ギーター(6.47)において確認されているように、彼らはいつも至高神への超越的で愛情ある奉仕の考えと活動に浸っているからです。明らかに、至高の人格神への超越的で愛情ある奉仕を得ることは、すべての神秘主義の究極的な目標です。それが上記の節の説明です。

第87段落
事実は、神秘主義の道は均一で、一つです。それは最高の目的地への一連の踏み石のようなものです。この神秘主義の道を受け入れることによって、人は霊的な完成に向けての巡礼者になります。カルマ・ヨガ、すなわち超越的な結果を伴う仕事は、この超越的な道における最初の踏み石です。

経験主義的で哲学的な(推論による)結論と放棄への望みが加えられるとき、次の踏み台、ジニャーナ・ヨガへの発達が生じます。思考の支配的な原則の明確な概念、すなわち至高神が加えられるとき、そして心臓の中に主の存在を認識しようとするとき、第三の踏み石、デャーナ・ヨガへの発達が生じます。

そしてついに、至高の人格神への愛情ある奉仕を捧げる過程を加えるとき、人は究極的な段階、バークティ・ヨガに発達します。したがって、神秘主義的な道は超越的な進化です。そこでは上記のすべての段階は霊的な発達の段階的な過程の一部です。最終的な段階を理解するために、上のすべての段階に言及することが必要です。したがって、至高の目的地に至ろうと望む者は、系統的な神秘主義の道を辿るかもしれません(may、~してもよい)。

第88段落
しかし人は、第一、第二、あるいは第三の踏み石の上で止まるべきではありません。人は最後の段階へ、至高の人格神への超越的な愛情ある奉仕という完璧な段階へ、最後まで発達しなければなりません。

中間的な段階まで至ったけれど、それ以上大した発達をせず、自分の発展のその段階で満足し続ける者は、カルマ・ヨギー、ジニャーナ・ヨギー、あるいはデャーナ・ヨギーなど、その特定の名前で呼ばれます。ですから結論は、超越的な献身者がすべての神秘主義者の中で最も偉大である、というものです。

第89段落
この時点で、超越的な神秘主義の道での発達は普通の物質的な発達と同じではない、ということが特記されるべきです。物質的な世界では、人は次の段階に受け入れられる前に特定の発達の段階を通り過ぎなければなりません。そして、この過程に代替策はありません。

例えば、もしも誰かが修士号の学位を得たいと望むなら、彼は非常に多くの試験に合格しなければなりません。代替策はありません。誰も、適切な試験に合格することなくして修士号の学位を受けることを期待することはできません。

しかし、超越的な神秘主義の道では、段階的な発達の過程によって、より低い水準から最高の水準へと人を導く認定された規律があるにも関わらず、至高神の慈悲によって、人は何らの予備的な試験に合格することなく、超越的な修士号の学位を受け取ることができます。

しかし、至高神のこの類稀なる(extraordinary)慈悲は、至高の人格神との内密な関係という方法によってのみ可能です。そしてこの至高の人格神との内密な関係は、至高の人格神の献身者との超越的な関わりという方法によってのみ可能です。

第90段落
それぞれの、そしてすべての魂は、至高の人格神との潜在的で内密で永遠の関係を持っています。しかし、幻惑的な物質エネルギーとの長い関わりのため、私たち一人一人皆がその関係を記憶にないほどの昔から忘れてしまっています。

私たちは皆、最も豊かな名士(personality)、至高の主の超越的な息子であるにも関わらず、路上をさまよう物乞いのようなものです。冷静な頭をもってしては、私たちはこの事実を非常によく理解できます(could)。それにも関わらず、私たちは自分の至高に豊かな父と、主と自分の関係に無頓着であり続けます。

そしてそのため私たちは、貧困と飢餓という自分の路上の物乞いの問題を解決するために、しかし何の明らかな結果もなく、多くの方法で苦しみ続けます。私たちは路上で同じく貧困に苦しむ多くの友人たちに会います。

時として、私たちよりも多少豊かな者が何らかの進歩的な(訳注:progressive、この場合は「より物質的に発達した」という意味でしょうか)人生の段階に私たちを導きますが、実際には私たちはそのような導きから何らの幸せも得ません。これらの人々は私たちに、仕事、知識、瞑想、神秘主義、そして様々な他の方法についても示します。

しかし不幸にして、そのどれも私たちに、私たちがずっと求めている幸せを与えることはできません。この理由により、主チャイタンニャは、ダシャーシュヴァメダー・ガータにて、プラヤーガのガンジス河の岸辺で、「至高の人格神と主の真正なる代表者の慈悲により、最も幸運な魂だけが献身奉仕の種を得ることができる」とシュリー・ルーパ・ゴスヴァーミーに助言なさいました。

第91段落
私たちはこの超越的な献身奉仕の種を、主のバガヴァッド・ギーターという超越的なメッセージの中で、シュリー・クリシュナ、至高の人格神ご自身から得ることができます。私たちが「バガヴァッド・ギーターの中のシュリー・クリシュナの本物のメッセージは主への献身奉仕である」と理解する(to grasp)ことができるとき、そのときはじめて私たちはバガヴァッド・ギーターの教えの真価を完璧に理解します(to appreciate)。

そうでなければ、私たちは何度も生まれかわってバガヴァッド・ギーターを読むかもしれず、そして私たちはそれに関する無数の(a thousand and one)解説書を書くかもしれませんが、しかし、バガヴァッド・ギーターを理解するためのすべてのそのような試みは無益に終わります。

第92段落
至高の人格神は、ご自分をバガヴァッド・ギーターにおいて説明なさいました。非常に多くの俗人(common men)が自分の自伝を書き、そして一般の人々は熱心にそれらを読んで受け入れましたが、至高の人格神がご自分について語るとき、人々は主のメッセージをありのままに受け取りません。

これは彼らの不運です。至高の人格神のメッセージをありのままに受け入れる代わりに、愚かな俗世の解説者たちは、バガヴァッド・ギーターによって決して裏づけされていない何らかの人工的な考えを確立するために、バガヴァッド・ギーターの単純な句節からでっちあげの意味を引き出そうとします。

愚かな解説者は、究極的にはそのように人工的に引き出すことによって自分のくだらない理論を確立することができません。そのため、最後に彼らは神の代わりに猿を置くことによって(by putting a monkey in place of God)自分の理論を確認しようとします。

第93段落
バガヴァッド・ギーターにおいて、シュリー・クリシュナが至高の人格神であるということが確かに確立されています。また、私たちの唯一の義務は主に超越的な愛情ある奉仕を捧げることである、ということも確立されています。バガヴァッド・ギーターのページから私たちがこれらの二つの事実を本当に理解したら、私たちは霊的な教育の初歩的な教室に入ることができます。

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(校正:最後の「ハレ・クリシュナ・マントラを唱える」は省略。このページはページ数(68ページ)の記載が抜けている。また、第4段落に「巻末の広告や住所を参照するように」との指示があるが、その記載が抜けている。)

裏表紙
人間の社会は、至高の人格神、主クリシュナによって4つに分けられています。この自然な社会の分割は記憶にないほどの昔から存在しており、社会をブラーマナ(知識層)、クシャトリヤ(管理層)、ヴァイシャ(商人層)、そしてシュードラ(労働者層)に分割します。

地球のすべての部分において、人間の人口が、人の心理と仕事という、この基本に添って自然に分割されているのを見ることができます。これらの4つの社会的な階層が協力して神に奉仕をするなら、そうすれば私たちは皆、幸せになれるでしょう。
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以上で本書の翻訳を終わります。編集、製本、配布などご自由になさってください。私の許可を取る必要はありません。興味のありそうな方へのサイトの紹介もよろしくお願いします。今後はしばらく仕事の翻訳に集中しますので、再開は時間が空くことと思います。ご了承ください。
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by ammolitering4 | 2012-01-11 17:30 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(4)

第2章 第62段落より

第2章 第62段落より

第62段落
様々な種類の犠牲が存在しますが、私たちは「すべての犠牲の究極的な目的は至高神ヴィシュヌを喜ばせることである」と理解すべきです。私たちが物質的に存在している間は、体と魂を一緒にしておくためだけにであっても、私たちは物質的な物と関わらねばなりません。

しかし、すべてのそのような物質的な活動において、私たちは「至高の霊は偏在である」というヴェーダの真実に関して(in terms of)、霊的な雰囲気をかもし出すことができます。この真実は、単に至高の霊が偏在であるからすべてのものが至高の霊である(原文は斜体)という誤解、すなわち汎神論を支持する者によって不完全に説明されています。

この誤解が解消され、そしてもしも私たちが至高の霊は本当に偏在であるということを覚えているなら、私たちは、すべてのことを自己を認識した魂によって指揮され、私たちのすべての活動を至高の霊との関係によって行うことによって、霊的な雰囲気を作り出すことができます。そうすれば全体(the whole thing)が霊に変化させられます。

第63段落
ここで、上記の霊化の過程を説明するために例を挙げます。鉄の棒が火に入れられるとき、棒は火の性質を帯び、鉄の棒として機能することをやめます。同じように、私たちのすべての活動が私たちのクリシュナとの関係の関してなされるとき、そのときすべては霊に満たされます。クリシュナを喜ばせることが私たちの究極の目的になるので、私たちのすべての活動は霊的になります。

犠牲には、次のような5つの主な要素があります。
1、捧げる過程
2、捧げ物そのもの
3、火
4、犠牲
5、犠牲の結果

これらすべての要素が至高の霊に関係するとき、それらはすべて霊化され、そしてそのときすべてのものは本当に犠牲たり得ます。言い換えると、上記の5つの要素が超越的な奉仕においてシュリー・クリシュナに捧げられるとき、それらは主と相互関係を持つようになり、そしてそのため、それらは完全に霊化されます。

第64段落
したがって、学識のある人々は自分のすべての活動を至高の人格神への超越的な奉仕に向けます。これらの本当に浄化された魂は、実際に自分のすべての感覚的な活動を統御し、また、自分の本当の霊的な自己を十分に習得します(to master)。

そのような霊化された人々だけが、個人、場所、そして時に応じて(in terms of)、堕落した魂に実際に同情を見せることができます。そして、一見すると物質的な活動を行っているにも関わらず、そのような霊化された人々は仕事の呪縛から自由です。

この過程はバガヴァッド・ギーターの5章の7節において説明されています。そこでクリシュナは、他のすべての者への同情から、超越的な結果を得ることを目的として自分の仕事を行う者だけが実際に公けの指導者となる資格がある、と述べられます。

第65段落
カルマ・ヨギーの敵―――自分の満足あるいは感覚の満足のために働き、奉仕という超越的な関係を通して至高の霊と関わっていない者―――は、時として、至高の意思の望みに従って働いているふりをします。実際彼らは、それを至高神への超越的な奉仕であると偽ってレッテルを貼ることによって自分の身勝手さを隠そうとしている汎神論者の詐称者です。

(訳注:「彼らは自分のしていることを「至高神への超越的な奉仕である」と偽り、そうすることで自分の身勝手さを隠そうとしています。彼らは汎神論を支持する詐欺師なのです」)しかし、心が純粋である者―――つまり、至高の人格神の蓮の御足にすべてを捧げた(to surrender)者―――は、そのような偽りの超越主義者から遠ざかっています。

第66段落
そのような、心が純粋な超越主義者は、生命体は非常に微細であるけれど完全真理の欠かすべからざる小片であり、そのため相応の独立性を持っている、と知っています。至高の人格神は万能(all-powerful)ではありますが、主は決して生命体の楽しむこの少々の自由に干渉なさいません。

そのため生命体は、自分のほんの少しの独立性を悪用して、自然の相によって制約される自由があります。徳、熱情、そして無明という自然の相によって制約されるとき、彼(生命体)は徳、熱情、そして無明という、それらのそれぞれの性質を育みます。

物質自然によって制約され続けている限り、彼(生命体)は自分の特定の自然の相に応じて行動しなければなりません。もしもこれらの相が活動していないなら、それなら私たちは現象の(phenomenal、自然現象の)世界の中でこれほど様々な種類の活動を見ることはありません。

第67段落
もしも、自然の精緻な法律を知らないために私たちが「それらは至高の人格神の意思によってなされているのだ」と言って自分のすべての俗的な行為を正当化しようとするなら、それなら私たちは万善の(all-good)至高の人格神の行いに不公平さと酩酊と野卑さを持ち込むことになります。

様々な俗的な矛盾(discrepancy、期待はずれ)は至高の人格神の意思によって生じるのだと―――一部の人々は主の意思によって幸せで、他の人々は主の意思のよって不幸せであると―――決して想像されるべきではありません。

物質世界におけるそのような違いは、個々の生命体による自由意志の、正しい、あるいは正しくない使い方によるものです。至高の人格神クリシュナは、自然の様々な相によって支配されたすべてのそのような制約的な仕事を放棄するように、すべての人に命じられます。そのような仕事は、主の意思によってではなく、自然の相によって永続化された無明から生じます。

第68段落
バガヴァッド・ギーター(5.13)において主は、ご自分は誰の特定の仕事の原因でもなく、そのような仕事の結果の原因でもないが、これらすべては自然の様々な相が原因で生じる、とおっしゃいます。このため、生命体によってなされるすべての活動―――カルマ・ヨガのそれ(活動)を除く―――は、自由意思の悪用(abuse)から生じる、自分で作り出した仕事であり、そしてそのため、人は決して、そのような仕事の結果がどういうわけか万能の神によって定められた、と考えるべきではありません。そのような仕事はすべて物質的であり、そしてそのため、自然の相によって制約され、指示されています。至高の人格神はそのような仕事とは全く関係ありません。

第69段落
同様に、カルマ・ヨギーはいつも、自然の相の制約から遠く離れた超越的な立場に存在しています。なぜなら、彼のすべての仕事は完全存在の水準に辿りつくからです。人が自然の相からの自由という水準にあるとき、現象世界はその霊的な側面を顕現します。世界がこのように霊的に顕現するとき、その自然の相は人の霊的な発達に何らの障壁も呈することができません。そのような障壁が越えられるとき、人は完全な洞察力(view、視力、視界)を得ます。

第70段落
バガヴァッド・ギーター(5.18)はさらに、学識のある人が完全な洞察力を得るとき、彼はすべての生命体を―――学識があって柔和なブラーマナ、牛、象、犬、あるいは犬食い(訳注:シュードラのさらに下の階層の人々)であれ―――沈着さを持って見る(to observe、観察する)ことができる、と説明します。

人間の中で、学識があって柔和なブラーマナは自然の徳の相の具現であり、一方で、獣の中では牛が徳の相の具現です。象とライオンは自然の熱情の相の具現であり、犬とチャンダーラ(犬食い)は自然の闇、すなわち無明の相の具現です。

第71段落
しかし、これらの生命体の様々な外的な神殿(様々な自然の相の下での彼らの具現)に焦点をあてる代わりに、カルマ・ヨギーは自分の完全な洞察力をもって彼らを見、そして中に閉じ込められた霊に達します(to penetrate to、「見通します」)。

そして、この極微な霊は無限大の至高の霊から発しているので、最高の位置にあるカルマ・ヨギーは、すべての者とすべての物を沈着さをもって見ることができます。そのようなカルマ・ヨギーは、すべてを完全存在との関係において見て、そしてそのため、彼はすべてを完全存在への超越的な奉仕に使います。

彼は、すべての生命体を完全至高神シュリー・クリシュナの非常に多くの超越的な従者として見ます。彼の完全な超越的な洞察力は、すべての物質的な体の檻を突き抜けずにはおきません。ちょうど、赤く熱された鉄が触れるものすべてを焼かずにはおかないようなものです。このように、カルマ・ヨギーはすべての者とすべての物を至高の人格神への超越的な奉仕に携わらせることによって、超越的な性質の手本を示します。
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by ammolitering4 | 2012-01-08 14:46 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(0)

第2章 第52段落より

第2章 第52段落より

第52段落
シュリー・クリシュナ、至高の人格神は完全真理です。これはすべての権威ある聖典において立証されています。私たちの霊的な人生は、シュリー・クリシュナとの私たちの関係が再び目覚めさせられるとすぐに発達し始めます。シュリー・クリシュナは太陽のようであり、他方、無知は闇のようなものです。そのため、無知の闇はシュリー・クリシュナとの私たちの関係が築かれるとすぐに消えます。

シュリー・クリシュナが私たちの心臓の中に現れることによって、私たちから物質的な接触による不純物が洗い流されます。ちょうど、太陽が現れると朝が新しくさわやかに現れるようなものです。これは子供じみた想像が作り上げたものではなく、霊的な認識の実際の経験です。シュリー・クリシュナ、あるいは主の真正なる従者の足跡を誠実に辿る者もまた、この単純な真理を理解します。

第53段落
しかし、シュリー・クリシュナをうらやんで自分が主の競争相手である振りをする愚か者は、この事実の言明を受け入れません。そのため愚かな俗人は、カルマ・ヨガの優位を理解することなく、結果的に呪縛を生じさせる無制限な(unrestricted、制約されない、規律されない)物質的な活動にふけります。

彼らの仕事そのものが、彼らを永久に生と死の物質的な存在に留めます。そのような愚かな俗人たちは実際にシュリー・クリシュナをうらやみ、主を「自分たちの一人である」と嘲ります。シュリー・クリシュナに関する真実は、そのような俗人の歪んだ脳に簡単には入りません。それは哲学への経験主義的な方法で侵されているからです。

しかし、主の献身者はバガヴァッド・ギーターのページに実際に述べられていることそのままを忠実に(faithfully、正確に)理解し、想像、あるいは一般に「霊的な解釈」と呼ばれる経験主義的な哲学の手法に訴えません。そのような献身者だけがクリシュナに完全に服従することの論理を受け入れることができ、そのため仕事の危険な呪縛を逃れるためにカルマ・ヨガの過程を取り入れることができます。

第54段落
シュリー・クリシュナによって語られた言葉の中に、これらの献身者が特定のカースト、信条、(訳注:肌などの)色、あるいは国の境界の中に現れる、ということを規定するものはありません。そうではなく、彼らはカースト、信条、(訳注:肌などの)色、あるいは国の制限は全くなくどこにでも現れることができ、(実際に)現れます。ですから、何であれ、そして誰であれ、すべての人がシュリー・クリシュナの献身者になる資格があります。この事実を確認するために、バガヴァッド・ギーターにおいて至高の人格神はおっしゃいます。

「おお、プルターの息子よ。もしも献身奉仕において私に依り頼むなら、堕落した女たちや職業的な売春婦、無知な単純労働者、あるいは商人(など)、信仰のない(faithless、不誠実な)、より低い身分に生まれた者であっても、すべての者が完成を得て神の王国に至ります。」言い換えると、現在の不信心な社会において多数派である非良心的なカースト制度は、シュリー・クリシュナ、至高の人格神に近付くための障壁ではありません。

第55段落
シュリー・クリシュナご自身が、本物で普遍的なカースト制度の基本的な原則を数え挙げられました。4つの社会的な階層―――ブラーマナ(聖職者と知識人)、クシャトリヤ(政治家と軍人)、ヴァイシャ(商人と農民)そしてシュードラ(労働者)---は、それらの階層の構成員が自然の相の下で自分の活動を通じて得た性質に応じて、主によって定められました。

ですから、一面ではクリシュナは世界中のこのカースト制度を作った方ですが、それでも別の見方をすれば、主は(それを)作った方ではありません。つまり、主は不信仰な人々が人の出自に応じて地位を規定する、圧政的で不自然なカースト制度を作った方ではありません。そうではなく、主は、普遍的にあてはまる、自発的で自然で、そして人の性質と能力に基づいたカースト制度を作った方です。

第56段落
4つの社会的な階層の制度は、決して出自によるカースト制度を目的としたものではありませんでした。この制度は、人々の俗的で現実的な資質と仕事に照らして、普遍的に当てはまります。ブラーマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャあるいはシュードラの分類は、決して人の偶然の出自に関連して作られるのではありません。(訳注:人が偶然の出自によって階層に分類されるというのは)単に誰かが著名な医者の息子であるからという生得権によって医者になれる、ということと同じ程度(に馬鹿げた)ものです。

医者の本当の資格は、相当の時間をかけた医学の熱心な学習を通してのみ得られます。そして、学習を完了したときに初めて人は医学の職業につくことができます。そのため当然、患者が医者のところに行くとき、彼は医者の出生証明書ではなく、職業的な資格を見ます。ちょうど医者がいつもすべての国とすべての時代にいるように、ブラーマナ、クシャトリヤなどはいつも、個人的で現実的な資質の力によって、地球のすべての場所にいます。

第57段落
私たちが世界の特定の部分の中に、そして特定の宗派の信仰の中に局地化したインドの現在のカースト制度は、疑いもなく誤っており、自然で普遍的なカースト制度の歪んだ姿です。もしも誰かが、何の医学の知識もなく、医学の学校に通いもせず、「自分は医者の息子であるから」と医者である振りをするなら、そしてもしもこの医者が市民の一部から「そうである」として受け入れられるなら、それならその医者と彼の盲目的な追従者たちは単に、騙す者と騙される者の社会の一員です。

ですから、至高の人格神シュリー・クリシュナによって作られ、そしてバガヴァッド・ギーターにおいて言及されているカースト制度は、騙す者と騙される者の社会のカースト制度と同じではありません。シュリー・クリシュナのカースト制度は、世界、そして実際は宇宙の、すべての時とすべての場所において普遍的に真実です。

第58段落
カースト制度の様々な階層の資格はバガヴァッド・ギーターにおいて数え挙げられており、私たちはここでそれらに短く言及します。ブラーマナは最高位の社会的な階層です。彼らは徳の相に位置しており、平等、自制、および許しの活動に携わります。

クシャトリヤは第二番目に高い社会的な階層です。創造的な熱情の性質に位置しており、様々な政治的および社会的な組織の管理的な支配者として公けの指揮に携わります。ヴァイシャは第三位の社会的な階層です。創造的な熱情と無明の闇の混じった性質に位置しており、彼らは一般に農民および商人として働きます。

シュードラは最低位の社会的な階層です。暗闇、すなわち無明の相に位置しており、一般に他の三つの社会的な階層への奉仕をします。階層として、シュードラは俗的な社会組織(social body)全体の従者です。現在の闇の時代―――カリ・ユガ、争乱と欺瞞と無明の時代―――においては、ほとんど誰もがシュードラとして生まれます。

第59段落
もしも私たちが至高の人格神によって作られたカースト制度の光に照らして人間のあり方を調べるなら、私たちは必ず、世界のすべての場所で四つの社会的な階層が機能しているのを見ることができます。地球のすべての場所で、人間が住んでいるところはどこででも、一部の人々はブラーマナの資質を持ち、他の人々はクシャトリヤ、ヴァイシャ、あるいはシュードラの資質を持っています。

自然の相の様々な相は宇宙の隅々にあり、そしてブラーマナ、クシャトリヤなどは単に自然の相の産物であるので、どうして人は世界の特定のところには四つのカーストが存在しないと言えるでしょうか?これは不条理です。

すべての国とすべての時代において、過去にも現在にも未来にも、四つの社会的な階層は存在します。したがって、カースト制度と呼ばれる四つの社会的な階層の制度がインドだけに存在するという理論に固執する者は、完全に誤っています。

第60段落
しかし、至高神の献身者になる機会は、カースト制度によって制限されていません。第四の社会的な階層である普通のシュードラの資質よりはるかに劣る者でさえ、至高の人格神シュリー・クリシュナへの超越的な奉仕をする資格があります。

資格のあるブラーマナが、すべてを魅了する至高の人格神であって完全真理であるシュリー・クリシュナに超越的な奉仕をすることによって得る霊的な完成は、シュードラのそれよりも低い地位にある者であっても、もしも彼がこの、シュリー・クリシュナへの超越的な奉仕をする、という同じ過程を辿るならば、他の誰によっても得られます。

(訳注:「たとえシュードラよりも低い地位にある者であっても、シュリー・クリシュナへの超越的な奉仕をする、という同じ過程を辿るならば、資格のあるブラーマナが得るのと同じ霊的な完成が得られます。」)

プラーナによれば、チャンダーラ、すなわち(シュードラより低い)第5の社会的な階層の者でさえ、自分の超越的な献身奉仕の力によって第一の階層の人(ブラーマナ)よりも高くなります。宇宙の中の至高の聖典バガヴァッド・ギーターの内密な教えは、したがって、人間の人生の最高の完成、つまりシュリー・クリシュナへの超越的な奉仕を得るためだけにあります。

第61段落
したがって、カースト、信条、あるいは(肌などの)色に関係なく、すべての人が、その初期の段階ではカルマ・ヨガとして知られる献身奉仕の過程を取り入れなければなりません。なぜなら、そうすることによってすべての人が世界のすべての活動を霊的なものにする手助けをするからです。

そのような活動によって、仕事をする人となされた仕事の両方が霊性で満たされ(to surcharge、加重積み込みする)、自然の相を超越します。そして、彼の活動が霊化するにつれて、行為者は自動的に最高位の社会的な地位、ブラーマナの資質を得ます。事実、献身奉仕を通して完全に霊化された者は自然の相を超越しており、そしてそのため彼はブラーマナ以上の存在です。

結局、最高位の俗的な階層にあるとはいえ、ブラーマナは超越的ではありません。人がどうやって単に至高の人格神に超越的な献身奉仕をすることによって至高の超越的な知識を得ることができるかは、バガヴァッド・ギーター第4章の24節において説明されています。そこでシュリー・クリシュナは、カルマ・ヨガを行うことによってすべてが霊化される、と説明なさいます。

「至高の霊は偏在である」というヴェダーンタの格言の歪んだ解釈を広めた、アーチャーリャ・シャンカラの汎神論の哲学は、そうは言うものの、上記の一節(BG4.24)に実際的な関わり(bearing 、意味、立場の認識など)を持ちます(has a practical bearing on the above verse)。(訳注:汎神論哲学は格言の歪んだ解釈を世に広めはしたが、この一節に関しては現実的な理解をしている、ということでしょうか。)
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by ammolitering4 | 2012-01-07 12:33 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(0)

第2章 第39段落より

第2章 39段落より

第39段落
人間の社会における同胞愛は、徐々に発達します。自己への愛から家族への愛、家族への愛から地域への愛、地域への愛から国への愛、そして国への愛から国際社会への愛、というふうにです。そして、この段階的な過程にはいつも、私たちの愛が一つの段階から別の(次の)それへと発達、発展するのを助ける魅力の中心があります。

しかし私たちは、同胞愛の発展のためのこの恒常的な苦闘の中で、究極的な魅力の中心は家族でも地域でも国でも国際社会でもなく、あまねく存在する至高神ヴィシュヌである、ということを知りません。この無知は、完全真理の幻想エネルギーである物質的なカーテンによるものです。

偉大な献身者プラーラーダ・マハーラージャは、一般の人々は彼らの究極の魅力の中心は至高の人格神ヴィシュヌであるということを知らない、と確認なさいます。そしてヴィシュヌの区分の中にあって、シュリー・クリシュナが至高の魅力です。

第40段落
事実、クリシュナという言葉は「魅了するもの」を意味する「クリシュ」という語幹から派生しています。そのため、至高の完全真理には「クリシュナ」---「すべてを魅了するもの」以外の名前はありえません。学識のある賢人たちはこのことに関して詳細な研究を行い、クリシュナが至高神であると確実に結論付けました。

スータ・ゴスヴァーミーの主宰の下に集まったナイミシャーラニャ(現在はアッター・プラデシュ(訳注:U.P., Uttar Pradesh、かつては United Provinces)にあるスィタプール(Sitapur)地域のニムサル(Nimsar))の賢人たちは、完全真理の様々な化身のすべてを詳細に議論しました。

彼らは、クリシュナが至高の人格神であり、そして他のすべての化身は主の完全部分あるいは完全部分の部分である、という結論に達しました。至高の人格神はシュリー・クリシュナです。それが超越主義者のバーガヴァタ学派の評決です。

この結論は、この宇宙の創造主であるブラーマーによって編纂されたブラーマ・サムヒターの中で確認されています。「シュリー・クリシュナは、永遠の、喜びに満ちた、超越的な形を持つ、至高の人格神です。主はゴヴィンダとして知られるもともとの人であり、そして主はすべての他の原因の原因です。」

したがって、すべての原因の根本的な原因、シュリー・クリシュナという中心的な魅力の上に互いの関係を築きさえすれば、私たちは同胞愛と平等の概念を、永続的な平和の(ための)実現可能な(workable)方法に本当に変えるでしょう。(訳注:自然な日本語の一例としては「同胞愛と平和の理念は単なる理念を越えて、やがて永続的な平和として結実することでしょう」)

第41段落
(これに)関係のある原則をもう少しよく理解するために、私たちの周りの俗的な関係を見ることができます。(訳注:「私たちの身の回りの人間関係でもこの原則を学ぶことができます」)例えば、私たちの姉妹の夫は、彼が彼女と結婚する前は私たちにとって見知らぬ人であったかもしれませんが、それでも―――単に彼女との共有された中心的な関係の力によって(訳注:彼女という中心を共有しているおかげで)―--私たちの義理の兄弟となります。

そしてその共有された中心的な関係のおかげで、この、かつては知らなかった男の息子と娘は私たちの甥と姪になります。重ねて、これらすべての愛情ある関係は、私たちの姉妹を中心としています。この場合、私たちの姉妹が魅力の中心になります。

第42段落
同様に、もしも私たちが自分の国を魅力の中心にすれば、私たちは自分たちを「ベンガル人」、「プンジャビ人」、あるいは「イギリス人」などと、何らかの制限的で分割的な国のレッテルで区分します。あるいは、私たちが特定の信仰や宗教を信奉してこれを魅力の中心とするとき、重ねて、私たちは自分たちを「ヒンズー教徒」、「イスラム教徒」、あるいは「キリスト教徒」など、何らかの宗派的なレッテルで区分します。このように、私たちは他の多くの人々が私たちと共有できない魅力の中心を選んできました―――なぜなら、彼らにとって私たちの魅力の中心はすべてを魅了するものではないからです。

第43段落
私たちの互いとの人間関係は、私たちがすべてを魅了する至高の人格神クリシュナを自分たちの魅力の中心とするときにだけ完全であり得ます。私たちは本来、もともとの生命体であって、したがってすべての魅力の中心であるクリシュナと、永遠に関係があります。

ですから、私たちがしなければならないのは、マーヤー(幻想エネルギー)の覆い被せる過程が一時的な忘却を助長したために忘却に同化してしまったこの関係を復活させることです。(訳注:「真理を覆い隠す力を持ったマーヤーが一時的な忘却を促すため、私たちはクリシュナとの永遠の関係を忘れてしまいました。私たちがしなければならないのは、この関係を復活させることです。」)したがって、私たちのクリシュナとの永遠の関係の回復を始めるために、私たちはそのような超越的な認識への最初の段階であるカルマ・ヨガを取り入れるべきです。

第44段落
カルマ・ヨガは、すべての人が主の永遠の従者としての自分のクリシュナとの超越的な関係を復活するのを、助けることができます。そしてカルマ・ヨギーは、俗的な活動に完全に染まっている普通の生命体に、彼らの普通の仕事に混乱を生じさせることなく、この大変な利益を与えます。

事実、既に述べたように、クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、「俗的な労働者の利益のためには、彼らは自分たちの普通の仕事から離されるべきではない」と助言なさいます。その反対に、彼らはカルマ・ヨガの過程の中でそのように働き続けることを勧められます(they may be encouraged)。

第45段落
一般に、これらの俗人たちは自分たちのクリシュナとの永遠の関係を簡単に理解することができません。その代わり、彼らは幻想エネルギーの誘導の下で、自分がクリシュナであるかのように振舞います(to pose oneself as)。

この偽りの「至高の享楽者」の立場は、彼らが自然の力を司る力を探し求めるときに、彼らに多くの難題を与えます。しかし、それでもこれらの俗人たちはそれを支配する精神を放棄することができません。そして、彼らが落胆と失望の圧力の下で、楽しむ精神を放棄する振りをするとき、彼らは普通、もっと大きな享楽の精神をもって偽りの放棄に逃げ込みます。

(訳注:自然な日本語の一例:「俗人たちは自分が至高の享楽者であると思い込んで自然を司ろうとしますが、様々な困難に直面します。しかし、それでも彼らは自然を支配する精神を放棄することができません。そして、支配できずに落胆し、不満が募ると、「自然を支配して楽しむのはやめた」という振りをします。そして俗世を放棄した振りをすることに一層の楽しみを見出すのです。」)

いつも自分の俗的な活動の果実を楽しみたいと望む俗的な労働者は、ちょうど製粉機にきつく繋がれた雄牛のように、そのような活動の執拗な不利益の下で大いに苦しみます(訳注:「そのような不利益な活動にずっと苦しみ続けます」)。しかし、マーヤーによって支配された幻想の下で、彼らは自分が本当に楽しんでいると考えます。

したがって、彼らの一般的な活動を行う上でそのような愚かな俗人たちを妨害することなく(訳注:「そのような愚かな俗人たちが自分たちの通常の活動を行うのを妨げることなく」)、学識のあるカルマ・ヨギーたちは、クリシュナとの関係において特別の執着を持っているそれぞれの仕事に如才なくいそしみます。クリシュナの永遠の従者である、学識があって解放された魂たちは、この目的のためだけに、時として普通の活動の最中に留まります。愚かな俗人たちをカルマ・ヨガの過程に惹き付けるためだけにです。

第46段落
愚かな俗人たちは、もしも至高の人格神シュリー・クリシュナ、あるいはアルジュナなどの主の永遠の仲間が親切にも、個人的な例という直接的な方法によってカルマ・ヨガの過程を伝授するということをわざわざ行うことをしなかったなら、愚かな活動の闇の中に永遠に取り残されるでしょう。

愚かな俗人たちは、自分たちが俗的な活動を追及する上で直面する計り知れない困難を理解することができません。彼らの様々な活動の上で、支配という概念によっていかに彼らが自分自身を惑わそうとしても(訳注:「自分が何かを支配することができるのだと思い込んでも」)、彼らはいつも自然の相によって突き動かされます―――それがバガヴァッド・ギーターにおける至高の人格神シュリー・クリシュナの、熟考の上での結論です。

主は、「偽りの自己を本当の自己であると思うこと(false egoism、直訳すれば「偽りの利己主義」ですが、それだと意味が通じなくなるので、 'false ego'-ism、すなわち「偽りの自己」主義として訳しています)が原因で、自分のすべての働きにおいて、それをするように自分を導くのは自然の相であることを知らずして、愚かな俗人は’自分が自分のすべての活動の著者である’と考える」とおっしゃいます。

(訳注:「愚かな俗人は、自分の行動はすべて自然の相の導かれているのだということを知らない。そして、偽りの自己を本当の自己だと思っているため、自分で自分の行動を決めているのだと考える」と、主はおっしゃいます。」)

愚か者は、自分が主クリシュナの幻想エネルギーであるマーヤー・デヴィーの支配の下にあることを―――彼女が望むように自分に強制して行動させるということを―――理解することができません。結果として彼は、自然の相によって支配された隷属というひどい罰を受けながら、自分の活動の一時的な結果―――たちまち消え去る俗的な幸せ、あるいは苦しみ―――だけを経験します。

第47段落
バガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナは、すべての生命体の一つ一つは、主の欠かすべからざる一部であり、そのためすべての生命体の一つ一つは主の永遠の超越的な従者である、と断言なさいます。欠かすべからざる部分である者の自然な立場は、完全全体に奉仕をすることです。

古代の寓話のヴェーダの本であるヒトパデシャの中に、体の部分の全体への関係を説明する、ウッデシャ・インドリヤーナームという題の明快な類推があります。手、脚、目、鼻などは、すべて体という完全な全体の部分です。さて、もしも手や脚や目や鼻などが胃に食物を与えるために努力せず、その代わり自分で集めた食物を自分で楽しもうとしたら、そうすれば体全体の調整不良が生じるでしょう。

身体的な部分は全体としての体の利益に反して働くことになります。そのような愚かな活動によっては、手、脚などは自分のそれぞれの立場を決して改善することはできません。その反対に、胃という媒体を通して体全体に栄養が行き渡っていないので、身体的な構造と機能の体系全体が弱り、病みます。同様に、もしも欠かすべからざる部分である生命体が完全な全体であるシュリー・クリシュナの喜びのためにすべてを捧げることを拒否するなら、そうすれば生命体自身が苦しむでしょう。

第48段落
バガヴァッド・ギーターは、至高の人格神シュリー・クリシュナはすべての原因のもともとの原因、想像全体の木の根である、と述べています。バガヴァッド・ギーターには、シュリー・クリシュナご自身よりも優れた(superior、優位、上位の)人はいない、とも述べられています。

主はすべての犠牲と活動の至高の享楽者です。しかしそれでも、本当に罪深い者は主に服従しません。彼らは、主が至高の人格神であって他のすべての生命体は主の超越的な永遠の従者である、ということを受け入れるのを拒むからです。

第49段落
生命体と至高の人格神との間のこの超越的な関係を忘れてしまったことは、すべての人が矮小なクリシュナである、という偽りの感覚を作り出しました。すべての人が自分の能力の限界まで世界を世界を楽しもうとしており、その一方で、完全な全体であって全ての源である完全真理、至高の人格神への超越的な奉仕を見落としています。

このような種類の、結果を求める仕事は、マーヤー、すなわち幻想エネルギーとしても知られる、物質自然の相の魔力の下でなされます。実際は、生命体は自然の力を支配する能力を全く持ちません。生命体が自分をシュリー・クリシュナ、至高の享楽者の立場に置こうと試みれば、彼は直ちに自然の相によって征服されます。

偽りの自我という感覚(訳注:a false egotistic sense、上記と同様に、直訳すれば「偽りの利己的な感覚」となるため、a sense of false egoとして訳しました。)の下で働きながら、生命体は至高の享楽者のように振舞おうと大変な努力をしますが、彼は本来的にそうすることができません。

手、脚、目などが体全体として機能することができないようなものです。そのため、生命体は享楽者の振りをしているときに、多くの困難を経験します。ですから、幻想の下で働くことが原因で経験するこれらすべての困難を捨てるためには、私たちはカルマ・ヨガの過程を取り入れなければなりません。

第50段落
普通の生命体とは対照的に、超越主義者、すなわちカルマ・ヨギーは本当に学識があり、そしてそのため彼らは普通の俗人のようには働きません。彼らは、自然の相の下でなされる俗的な活動は主クリシュナへの超越的な献身奉仕の活動とは完全に異なる、と知っています。

自分は物質的な体と心とは異なると知っているので、超越主義者たちはいつも自分のクリシュナとの本来的な関係において活動しようとします。彼は、俗的な存在の中に一時的にあるにも関わらず、自分は永遠の霊、至高の霊の欠かすべからざる部分であることを知っています。

そのため、彼の物質的な感覚―――彼の手、脚、目など―――は非常に多くの活動に携わっているにも関わらず、彼はいつも俗人から離れてあり続けます。これらのシュリー・クリシュナへの超越的な奉仕の活動は彼を仕事の呪縛から自由にします。

至高の人格神シュリー・クリシュナはアルジュナにおっしゃいます。「おお、アルジュナよ!あなたのすべての俗世的な仕事を楽しむ精神を放棄し、この意識を通して超越主義者になりなさい。あなたは、自分にとって義務である、戦闘というあなたの境遇上の職業に就くかもしれません(訳注:「あなたの立場では戦うことは義務なので、あなたはそれを仕事として行うでしょう」)。

しかし、それを私への奉仕の精神において行いなさい。このようにすれば、あなたは仕事の呪縛から自由であり続けます。そして自分のすべての活動を―――私への何らの恨みもなく、私の指示に従って―――この超越的な意識をもって行う者もまた誰でも、仕事の呪縛から自由になります。」

第51段落
身体的な自意識の過程―――「私はこの物質的な体と心である」、そしてさらに言えば、「私はこの物質世界の欠かすべからざる部分であり、したがってこの物質世界の中のすべてのものは私の楽しみの対象である」という誤解―――は、私たちを本物の超越的な知識から遠ざけます。

この超越的な知識に基づいて、至高の人格神シュリー・クリシュナは私たちに、霊的な傾向を持つこと(to become spiritually inclined)、超越主義者になること、を助言なさいます。そうして初めて私たちは、自分は決して全くこの物質世界のものではなく、永遠の霊的な存在であることを理解することができます。

そのような自己認識によって、私たちの物質的な(ものへの)親和力の崩壊は自然に始まります。そして、私たちがもっと霊的に発達すれば、物質的な関わりとの接触によって(訳注:物質的な物事と関わることによって)感覚知覚から生じる幸せと苦しみによって影響されることも少なくなります。

物質的な(ものとの)接触によって作られた偽りの自我は、そうすれば徐々に消え、そしてこの、偽りの自我を自分であると考えること(訳注:false egoism、上記と同様の理由により 'false ego'-ismとして訳しています)の分解は、すべての物質的な区分からの解放と、私たちの完全真理との関係の刷新された認識の原因となります。(訳注:「偽りの自我を自分であると考えることがなくなると、私たちはすべての物質的な区分から解放され、完全真理との関係を全く新しく認識することができるようになります。」)これが「人生における解放」と呼ばれます。
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by ammolitering4 | 2012-01-06 23:31 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(0)