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大きさの話

人間はほんとに小さいなあと思います。アリとかバクテリアになるともっと小さいですけど、人間も大した違いはありません。昨日、宇宙の写真を見ていたのです。夜中の3時に目が覚めて、音を消してテレビを見ていたのですが、それに宇宙のきれいな写真がたくさん出ていました。大分県で撮影されたものでしたが、そしたら割と近いです。家から外に出て空を見上げたって同じような美しい星空が見えそうなものなのに、あいにく見えるのは月だけ。よく見れば北斗七星なんかも見えますけど。

霊的な世界は創造全体の4分の1なのだそうです。しかし、無限大のクリシュナの創造もまた無限大です。そうすると、無限大の4分の1って、どういうことになるのでしょう。たくさんある宇宙は神様の毛穴から出るとか呼吸のときに出るとか言いますが、物質創造とか物質宇宙とかいうのは、この粒々の集合体を指すのかな。

無限に大きいように思える宇宙ですが、ただの粒です。それを無数倍しても4分の1にしかならない。その粒の中に銀河とか星雲とかたくさん浮いていて、、、これを外から見たらどんな感じかな。ホコリみたいに小さいキラキラが真っ黒い丸の中にたくさん浮いてる感じかな。それも、たぶんものすごくたくさん。

そして、そのホコリの粒の一つの中に太陽があります。地球なんか発光してないからそもそも見えないのでしょう。でも、これはあくまで人間の物質的な目には見えない、という話です。近付いてみたら、太陽の光に照らされてるのが分かるかもしれない。この小さな小さな粒の表面に水から出ているところがあって、それからさらに顕微鏡で見たら私たちがいる。一番最初の、神様の毛穴から出てきた粒のところから考えると、これはもう「小さい」という言葉では足りません。

それともう一つ、宇宙の粒は吐き出されては吸い込まれます。呼吸ですね。人生はまことにフラクタルです。まあそれで、そうやって始まりと終わりがあるので、時間という大きさもあります。人間が生きている時間というのは、これまた体の大きさに負けず劣らず小さいものだなと思います。神様が私たちにおっしゃいます。「物質の自然はものすごーく強いのですよ」と。そりゃそうでしょうね、と思います。抗った結果がどうなるか、考えても分からないほどの知能しか持ち合わせてないかに見える私たちですけれど。

原因には必ず相応の結果が伴う、というのも繰り返し繰り返し語られることの一つです。閉じた世界なのですから、どこかを押せばどこかがその分へっこむ、というのは考えるまでもない話です。神様は最大の存在ですが、最小の存在でもあります。そして完璧で完全な存在です。私たちはその一部なので、言ってみれば創造の中心です。無数にある創造の中心の一つです。自分の宇宙に自分で蒔いた種がいつか自分に戻ってくるのは、不思議とはいえません。

人間はいろんなことをやってますが、行為の結果や反応が「今日」我が身に降りかからなければ結果とは存在しないと思っているように見えます。最後の眠りについて、そして再び目覚めた「明日」になって結果が訪れても、自分で招いた客人を拒むわけにはいきません。想像すると胸が痛くなるようなことはたくさんありますが、考えると絶望的になるのは人間が天体に対して行っている破壊行為です。行為の相応な結果というのが、これほど分かりやすいものもないからです。

過去数年の間に、人間はわざわざ出掛けていって故意に天体に爆発を起こしました。一つは彗星、もう一つは月です。プラブパーダは、どこかで「彗星にも生物がいる」と書いていらっしゃいました。私たちの目には見えない生物かもしれないし、あるいは半神かもしれません。月にはチャンドラ様がいらっしゃいます。ヴェーダでは月は地球よりも高い次元にある天体とされています。それでなくても私たちには月を「お月様」と崇める心がありました。

さて、彗星について話せば長くなりますが、分かりやすい月について考えてみましょう。集合体としての人間が、高次の存在であるチャンドラ様のお住まいに爆弾を2発撃ち込みました。そのうちの一つには核弾頭が搭載された疑いが持たれているそうです。何らかの理由で不発に終わったそうですけれど。この爆撃は、その3年前に行われたディープインパクトという彗星爆破の結果から計算して、爆発規模の予想が計算されていました。「見ものだぞ」と言って前宣伝ばかり派手でしたが、不思議なことに、ちゃんと命中したのに予想したような巨大な爆発が生じなかったのです。では、なぜ彗星のときはあんなに派手に発光して大きく爆発したのでしょう。私は全く個人的な想像で彗星にも水爆が使われたのだろうと思っていますが、もちろん本当のところは分かりません。

この図の裏返しはどんな絵になるでしょう。こういう実験に嬉々として参加し、「お星様に名前を送ろう」などという絶望的に馬鹿げたキャンペーンに乗る人たちもいます。信じがたいことですが、本当なのです。どちらのときも、発射された弾頭には数百人の名前を書いた紙だかCDだかが搭載されました。SF的に言えば宇宙警察に犯罪者名簿を届けるようなものじゃないかなと思いますが、それはそれ。こういう実験の存在を知らなかった、あるいは知っていて反対していた者の上にも、集合的な行為の結果が訪れます。さて、いつ頃どんなお客様がいらっしゃるでしょうね。しっかり目を覚ましてお待ちすることにしましょう。
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by ammolitering4 | 2012-01-29 22:02 | Comments(0)

第20章 前半

第20章 ヴェダーンタ学習の目的

第1段落
主クリシュナ、すなわちヴィシュヌはこの物質世界のものではない、と結論づけられます。主は霊的な世界に属します。主を物質的な半神であると考える者は、大いなる侮辱者であり、冒涜者です。主ヴィシュヌは物質的な感覚による知覚の影響下にはなく(訳注:~によっては知覚し得ず)、精神的な推量による認識もされ得ません。物質的な世界ではいつも体と魂の間には違いがありますが、至高主の体と魂の間には違いがありません。

第2段落
物質的な物は生命体によって楽しまれます。なぜなら、生命体は優性であり、一方で物質自然は劣性の性質のものだからです。このように、生命体という優性な性質は物質という劣性な性質を楽しむことができます。

主ヴィシュヌは決して物質によって作用されない(touched)ので、主は生命体がするような方法で物質自然を楽しむことはありません。(He is not subject to enjoy material nature the way the living entities do.生命体がするような方法で楽しまねばならないということはない、というような意味。この場合の「楽しむ」は、「利用する、支配する」という意味合いになります。)

生命体は自分たちの「精神的な推量」という習慣を楽しむことによって(訳注:喜んで~することによって)ヴィシュヌに関する(of)知識を得ることはできません。微小な生命体はヴィシュヌを楽しむものではなく、ヴィシュヌによって楽しまれます。最もひどい侮辱者だけが、ヴィシュヌは楽しまれる、と考えます。最大の冒涜は、ヴィシュヌと生命体が同じ水準にあると考えることです。

第3段落
至高の完全真理、至高の人格神は、燃え盛る火になぞらえられます。そして無数の生命体はその火から放射している火花になぞらえられます。至高主と生命体はどちらも質的には火ですが、それでも区別はあります。

至高主ヴィシュヌは無限大であり、他方で、火花に過ぎない生命体は微小です。微小な生命体はもともとの無限大の霊から放射しています。彼らの微小な霊としての本質的な立場には、物質の痕跡はありません。

第4段落
生命体は、この物質創造を超越しているナーラーヤナ、ヴィシュヌと同じほど偉大ではありません。シャンカラーチャーリャでさえ、ナーラーヤナを「物質創造を超越している」として受け入れます。ヴィシュヌも生命体もどちらも物質創造のもの(of material creation)ではないので、誰かは「なぜそもそも霊の小さな粒が作られたのですか?」と尋ねるかもしれません。

答えは、至高の完全真理はご自分の完璧性において、同時に無限大で微小であるときに完全です。もしも主が単に無限大であって微小でないなら、主は完璧ではありません。無限大の部分がヴィシュヌ・タットヴァ、すなわち至高の人格神であり、そして微小な部分が生命体です。

第5段落
至高の人格神の無限の欲求が原因で霊的な世界の中に存在があり、そして生命体の微小な欲求が原因で物質世界に存在があります。微小な生命体が物質的な楽しみのための自分たちの微小な欲求に携わっている(engaged、「一生懸命になっている」)とき、彼らはジーヴァ・シャクティと呼ばれます。

しかし、彼らが無限大の存在と繋がっているとき、彼らは「解放された魂」と呼ばれます。したがって、なぜ神が微小な部分を創ったのか、と尋ねる必要はありません。彼らは単に至高存在の補足的な側面です。疑いもなく、無限大の存在にとっては、至高の魂の切り離せない、欠かすべからざる小片である微小な部分を持つのは、絶対必要です。

(訳注:parts and parcelという表現は、直訳すれば「部分と部分」となり、同じ意味の異なる言葉を繰り返しているだけです。しかし、組み合わさった慣用表現としては「絶対に欠かせない小さな一部分」という意味になります。生命体の描写に多用されます。)

生命体は至高存在の微小な欠かすべからざる小片なので、無限大の存在と微小な存在の間には気持ち(feeling)の交換があります。もしも微小な生命体がなかったら、至高主は非活性であったでしょう。そして、霊的な人生には多様性がなかったでしょう。

もしも国民がいなかったら、王には意味はありません。そして、もしも生命体がいなかったら、至高神には意味がありません。もしも支配する対象が誰もいなかったら、「支配者(lord)」という言葉にどうして意味があり得るでしょうか?

結論は、生命体は至高主のエネルギーの拡張体であると考えられ、そして至高主、至高の人格神、クリシュナはエネルギー的な存在(訳注:the energetic、これは以前にも出てきましたが、「エネルギーの源」という理解でいいかと思います。適切な訳語を思いつきません。)である、というものです。

第6段落
バガヴァッド・ギーターとヴィシュヌ・プラーナを含むすべてのヴェーダ文献において、エネルギーとエネルギー的なものの間の区別をつけるための多くの証拠が与えられています。バガヴァッド・ギーター(BG7.4)において、「土、水、火、空気、およびエーテルが物質世界の5つの基本的な濃密な要素であり、そして心と知性と偽りの自己が3つの希薄な要素である」と明白に述べられています。

すべての物質自然は、これらの8つの要素に分けられます。それらは合わさって主の劣性の自然(nature、性質)あるいはエネルギーを構成します。この劣性の自然のもう一つの名前はマーヤー、すなわち幻想です。

これらの8つの劣性の要素を超えたところにパラー・プラクリティと呼ばれる優性のエネルギーがあります。そのパラー・プラクリティが、物質世界全体を通して大変な数で見られる生命体です。彼(生命体)はバガヴァッド・ギーター(BG7.5)の中でジヴァ・ブータームとして示されています。

説明は、「至高主は完全真理、エネルギー的な存在であり、そのため主はご自分のエネルギーをお持ちである」ということです。主のエネルギーが正しく顕現していないとき、すなわちそれが何らかの影によって覆われているとき、それはマーヤー・シャクティと呼ばれます。物質的な宇宙の顕現は、その覆われたマーヤー・シャクティの産物です。

第7段落
生命体は、事実として、この覆われた劣性なエネルギーを超えています。彼らは、自分の純粋な霊的な存在と純粋な正体(identity)、そして純粋な精神的な活動を持っています。それらすべてはこの物質的な宇宙の顕現を超えています。

生命体の心と知性と正体はこの物質世界の枠を超えたものではありますが、彼(生命体)が自分の「物質を支配したい」という欲求からこの物質世界に来るとき、彼のもともとの心、知性、そして体は、物質自然によって覆われるようになります。

彼から再びこれらの物質的、すなわち劣性なエネルギーという覆いが取り除かれるとき、彼は「解放された」と呼ばれます。解放されたとき、彼は偽りの自己を持たず、彼の本当の自我が再び存在するようになります。

愚かな精神的な推量者たちは、解放の後は人の独自性(identity)は失われる、と考えますが、それはそうではありません。生命体は永遠に神の欠かすべからざる小片なので、解放されたとき彼は自分のもともとの永遠な「欠かすべからざる小片」という正体(identity)を回復します。

アハム・ブラーマースミ(「私はこの体ではない」)という認識は、生命体が自分の独自性を失うことを意味するのではありません。現時点では、人は自分を物質であると考えるかもしれませんが、解放された状態においては、彼は「自分は物質ではなく霊魂、無限大な存在の部分である」と理解するでしょう。

クリシュナへの超越的な愛情ある奉仕にいそしむことは、解放された段階のしるしです。ヴィシュヌ・プラーナ(6.7.61)の中に、明らかに述べられています。

(サンスクリット引用)

「至高主のエネルギーは3つに分けられます。パラー、クシェトラジニャおよびアヴィデャーです。」パラー・エネルギーは、実際は至高主ご自身のエネルギーです。クシェトラジニャ・エネルギーは生命体です。そしてアヴィデャー・エネルギーは物質世界、すなわちマーヤーです。この物質エネルギーの魔力の下で、人が自分の本当の立場と自分の至高主との関係を忘れるので、それはアヴィデャー、すなわち無明のエネルギーと呼ばれます。

結論は、生命体は至高主のエネルギーの一つを代表しており、そして至高存在の微小な欠かすべからざる小片として、それらはジーヴァと呼ばれます。もしも―――両方ともブラーマン、すなわち霊であるため―――ジーヴァが人工的に無限大の至高存在と同じ水準に置かれたら、幻惑が確かに結果として生じるでしょう。(訳注:「もしも両者を同列に並べるなら、人は間違いなく幻惑されるでしょう」)

第8段落
一般に、マーヤーヴァーディーは生命体の呪縛の原因を説明することができないので、マーヤーヴァーディー哲学者は学識のあるヴァイシュナヴァの前で当惑させられます。彼らは単に「それは無明が原因です」と言います。

しかし彼らは、「もしも生命体が至高であるなら、なぜ無明によって覆われたのか」ということを説明できません。実際の理由は、「質的には至高存在と一つであるにも関わらず、生命体は微小であり、無限大ではないから」というものです。もしも彼らが無限大であったなら、彼らが無明によって覆われる可能性はなかったでしょう。

生命体は微小であるので、彼は劣性のエネルギーによって覆われます。マーヤーヴァーディーたちの愚かさと無知は、彼らが「どうやって(how it is、一体どうして)無限存在が無明によって覆われたか」を説明しようとするとき、あばかれます。無限存在を「無明の魔力の影響を受けるもの」と決め付けようとする(to attempt to qualify ~ as ~)のは無礼です。

第9段落
シャンカラは至高主を自分のマーヤーヴァーディー哲学によって覆い被せようとしていましたが、彼は単に至高主の命令に従っていました。彼の教えはその時代に必要なもの(timely necessity)でしたが、永遠の事実ではない、と理解されるべきです。

ヴェダーンタ・スートラにおいて、エネルギーとエネルギー的なものの間の違いは初めから受け入れられています。そのヴェダーンタ・スートラにおいて、最初の格言(aphorism、金言、警句など)(ジャンマーディ・アシャ)は、「至高の完全真理がすべての放射物の源(訳注:the origin or source、同義の言葉の繰り返し)である」と明らかに説明します。

このように、放射物は至高存在のエネルギーであり、一方で至高存在ご自身はエネルギー的な存在です。シャンカラは、「もしもエネルギーの変容が受け入れられるなら、至高の完全真理は不変であり続けることはできない」と偽りの議論をしました(訳注:falsely argued、シャンカラは故意に誤った議論をしているため、「偽り」としています)。

しかし、これは本当ではありません。無限のエネルギーがいつも作られているという事実にも関わらず、至高の完全真理はいつも同じであり続けます。主は無限のエネルギーの放射によって影響されません。したがってシャンカラチャーリャは、自分の幻想の理論を不正確に確立しました。

第10段落
ラーマーヌジャーチャーリャは、この点を非常に良く議論しました。「もしもあなたが「この物質世界の創造の前には一つの完全真理しかなかった」と議論するなら、それならどうして、生命体が主から放射したというのが可能なのですか?もしも主がたった一人だったなら、どうやって主は微小な生命体を作り出したり、あるいは生み出したり(produced or generated)することができたのですか?」

この問いへの答えとして、ヴェーダは「すべては完全真理から生じ、すべては完全真理によって維持され、そして滅亡の後ですべては完全真理の中に入る」と述べています。この言明から、「生命体は解放されたときに至高の存在の中に入り、自分のもともとの本質的な立場を変えない」というのは明らかです。

第11段落
私たちはいつも、「至高主はご自分の創造的な機能を持ち、微小な生命体もまた自分の創造的な機能を持っている」ということを覚えておかねばなりません。彼ら(生命体)が解放されて物質的な体が滅びたあとで至高存在の中に入るとき、彼らの創造的な機能が失われる、というのではありません。

その反対に、生命体の創造的な機能は、解放された状態において正しく顕現します。もしも生命体の活動が彼が物質的に制約されているときでさえ顕現するなら、それならどうして、彼の活動が彼が解放を得たときに止まるということが可能でしょうか?

生命体が解放の状態に入るというのは、鳥が木に入ること、あるいは動物が森に入ること、あるいは飛行機が空に入ることに比べられるかもしれません。どの場合でも、独自性(identity)は失われません。
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by ammolitering4 | 2012-01-28 13:07 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

第19章 後半

第11段落
それから主はヴェダーンタについて次のように話し始めました。至高主は、ヴャーサデヴァとしての化身において、この偉大な哲学的な論文を編纂なさいました。ヴャーサデヴァは至高主の化身なので、彼は物質的な存在との接触によって生じる4つの欠陥を持つ普通の人間になぞらえられ得ません。

制約された魂の欠陥は以下のものです:
1、彼は必ず間違いを犯す
2、彼は必ず幻惑される
3、彼は必ず他者を騙す傾向を持つ
4、彼のすべての感覚は必ず不完全である

私たちは、神の化身はこれらすべての欠陥を超越していると理解しなければなりません。そのため、ヴャーサデヴァによって語られたり書かれたりしたことは、すべて完璧であると考えられます。ウパニシャッドとヴェダーンタ・スートラは、至高の完全真理という同じ目的を目指しています。

私たちがヴェダーンタ・スートラとウパニシャッドの意味(import、重要性)を、述べられているままに直接受け入れるとき、私たちは神聖な栄光を与えられるようになります(glorified)。しかし、シャンカラーチャーリャによってなされた注釈は間接的であり、(それを)読むのは俗人にとって非常に危険です。

なぜなら、ウパニシャッドの意味をそのような間接的で混乱させるような方法で理解することによって、人は実質的に自分自身を霊的な認識から阻むからです。

第12段落
スカンダとヴァーユ・プラーナによれば、スートラという言葉は、間違いや欠陥がなく、計り知れない強さのある意味や重要性を持つ、凝縮された作品を指します。ヴェダーンタという言葉は「ヴェーダの知識の終わり」を意味します。言い換えれば、すべてのヴェーダによって示されている主題に関するあらゆる本がヴェダーンタと呼ばれます。

例えば、バガヴァッド・ギーターはヴェダーンタです。なぜなら、バガヴァッド・ギーターの中で主は、すべてのヴェーダ研究の究極的な目標はクリシュナである、とおっしゃるからです。そのため、クリシュナだけを焦点とするバガヴァッド・ギーターとシュリマッド・バーガヴァタムは、ヴェダーンタであると理解されます。

第13段落
超越的な認識においては、プラスターナ・トラヤと呼ばれる、知識の3つの部門があります。(訳注:これは「プラスターナ・トラヤ」が「知識」を指すのか「三つの部門」を指すのかはっきり分かりませんが、以下の描写からおそらく3つを総称しているものと思われます。原文はthere are three divisions of knowledge called prasthana-trayaなので、trayaが「3」を指すのかもしれません。以下、文中の3つのプラスターナに下線を引いて分かりやすくしました。)

(ウパニシャッドのような)ヴェーダの教えによって認められた知識の部門はシルティ・プラスターナ(1)と呼ばれます。究極の目的を示し、ヴャーサデヴァのような解放された魂によって書かれた権威ある本(例えばバガヴァッド・ギーター、マハー・バーラタ、そして特にシュリマッド・バーガヴァタム、マハー・プラーナなどのプラーナ)は、スムリティ・プラスターナ(2)と呼ばれます。

ヴェーダ文献から、私たちは「ヴェーダはナーラーヤナの呼吸から生じた」と理解します。ナーラーヤナの力の化身であるヴャーサデヴァはヴェダーンタ・スートラ(ニャーヤ・プラスターナ(3))を編纂しましたが、シャンカラの注釈によれば、アパーンタラタマー・リシもまた、ヴェダーンタ・スートラの法典(code)を編纂したと見なされています。

主チャイタンニャによれば、パンチャラートラの法典とヴェダーンタの法典は全く同一です。ヴェダーンタ・スートラはヴャーサデヴァによって編纂されたので、それはナーラーヤナご自身によって語られたのだと理解されるべきです。

ヴェダーンタ・スートラを扱うすべての描写的な文献から、同じくヴェダーンタ・スートラを議論した、ヴャーサデヴァと同時代の他の多くのリシたちがいたように見えます。これらの賢人たちは、アートレヤ、アーシュマラテャー、オードゥロミ、カールシナージニ、カーシャクリツナ、ジャイミニ、バーダリー、そしてパーラーシャリーとカルマンディーなどの他の賢人たちです。

第14段落
実際、ヴェダーンタ・スートラの最初の二つの章の中で生命体と至高主の間の関係が説明されており、そして第3章の中で献身奉仕の遂行が説明されています。第4章は献身奉仕を遂行することから生じる関係を扱います。

ヴェダーンタ・スートラの自然な注釈がシュリマッド・バーガヴァタムです。4つのヴァイシュナヴァの注釈(サムプラダーヤ)の偉大なアーチャーリャたち―――すなわちラーマーヌジャーチャーリャ、マドヴァーチャーリャ、ヴィシュヌスヴァーミー、およびニムバールカ―――もまた、シュリマッド・バーガヴァタムの原則にのっとることによってヴェダーンタ・スートラの注釈を書きました。

現在では、すべてのアーチャーリャの追従者たちが、ヴェダーンタの注釈としてシュリマッド・バーガヴァタムの原則にのっとって多くの本を書いています。シャリーラカ・バーシャとして知られるシャンカラの(書いた)ヴェダーンタ・スートラの注釈は、非人格主義者の学者たちによって非常に崇められています。

しかし、ヴェダーンタについて物質主義的な視点から書かれた注釈は、主への超越的な奉仕に完全に逆行しています。結果として、主チャイタンニャは「ウパニシャッドとヴェダーンタ・スートラの直接的な注釈は栄光があるが、シャンカラーチャーリャのシャーリーラカ・バーシャの間接的な道を辿る者は誰でも必ず不運な結果になる(doomed)」とおっしゃいました。

第15段落
主チャイタンニャは、シャンカラーチャーリャは主シヴァの化身であると認めました。そして、主シヴァはバーガヴァタ学派の最も偉大な献身者の一人(マハージャナ)であることが知られています。献身奉仕には12の偉大な権威者がおり、主シヴァはその一人です。

それではなぜ、彼はマーヤーヴァーディー哲学の過程を受け入れたのでしょうか?その答えは、パドマ・プラーナの中に与えられています。その中で主シヴァは次のように述べておいでです。

(サンスクリット引用)

「マーヤーヴァーディー哲学は、覆いを被った仏教である。」言い換えると、マーヤーヴァーディー哲学は「(自分たちは)ヴェーダの結論によって導かれている」と主張しているにも関わらず、仏陀の虚無主義(voidist)哲学が大なり小なりマーヤーヴァーディー哲学の中で繰りかえされています。

しかし主シヴァは、「この哲学はカリの時代において無神論者を誤って導くために自分が作ったのだ」と認めます。「実際は、至高の人格神はご自分の超越的な体をお持ちです」と主シヴァは述べます。「しかし私は至高存在を非人格的であるとして描写します。私はまた、ヴェダーンタ・スートラをマーヤーヴァーディー哲学の(訳注:至高存在は非人格的であるという)同じ原則に応じて説明します。」

第16段落
シヴァ・プラーナの中で、至高主は次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「ドヴァーパラ・ユガの初めに、私の命令によって指図されて、多くの賢人たちが一般の人々をマーヤーヴァーディー哲学によって惑わします。」パドマ・プラーナの中で主シヴァは、バーガヴァティーデヴィーに直接語ります。

(サンスクリット引用)

「我が親愛なるデヴィーよ。時として私は無明の相に埋没している(engrossed、没頭した)者のためにマーヤーヴァーディー哲学を教えます。しかし、もしも徳の相にある者がたまたまこのマーヤーヴァーディー哲学を聞くなら、彼は堕落します。なぜなら、マーヤーヴァーディー哲学を教えるとき、私は「生命体と至高主は全く同一である」と言うからです。」

第17段落
最も偉大なマーヤーヴァーディーのアーチャーリャの一人であるサダーナンダ・ヨギーは、自著「ヴェダーンタ・サーラ」の中に次のように書きました。「永遠性、知識、および喜びの完全真理はブラーマンです。無明および無明のすべての産物は非ブラーマンです。

物質自然の3つの相のすべての産物は無明に覆われており、(その)すべては至高の原因と結果(effect)とは異なります。この無明は集合的および個々に顕現します。集合的な無明はヴィシュッダー・サットヴァ・プラダーナと呼ばれます。

そのヴィシュッダー・サットヴァ・プラダーナが物質自然の無明の中に顕現するとき、それは主と呼ばれ、そして主は様々な無明を顕現なさいます。したがって主はサルヴァジニャとして知られます。」このように、マーヤーヴァーディー哲学のよれば、主はこの物質自然の産物であり、そして生命体は無明の一番低い段階にいます。それがマーヤーヴァーティー哲学の真髄です。

第18段落
しかし、もしも私たちがウパニシャッドの意味を直接的に受け入れるなら、至高の人格神が無限の力を持つ人格(a person)であることは明らかです。例えば、シュヴェターシュヴァタラ・ウパニシャッドには、至高の人格神はすべてのものの源であり、主は複数の(multiple)力を持つ、と述べられています。

至高の人格神は宇宙の顕現を超越しています。主はすべての宗教の源、至高の救済者、そしてすべての富の所有者です。ちょうど太陽のような至高の人格神は、この物質的な宇宙の顕現の雲の向こうにいながら、ご自分のエネルギーを豊富に配られます。

また、「ヴィシュヌは至高存在であり、聖なる人々はいつも主の蓮の御足を見ることを切望している」とも述べられています(リグ・ヴェーダ1.22.20)。アイタレヤ・ウパニシャッドの中には、「宇宙の顕現は主が物質自然をちらっと見たときに現れた」とも述べられています(1.1.1~2)。これはプラシャナ・ウパニシャッド(6.3)によっても確認されています。

第19段落
ヴェーダ文献の中にある(アパーニ・パーダーの中のような)主の否定的な描写においては、「主は物質的な体と物質的な形を持たない」ということが示されています。しかし、主はご自分の霊的で超越的な体と超越的な形を確かにお持ちです(He does have)。

マーヤーヴァーディー哲学者たちは主の超越的な性質を誤解するので、彼らは主を非人格的であるとして説明します。主の名、形、性質、側近、そしてお住まいは、すべて超越的な世界にあります。どうして主がこの物質自然の変容であり得るでしょうか?至高主に関わるすべてのものは永遠で、喜びに満ち、知識に満ちています。

第20段落
要するに、シャンカラーチャーリャは特定の種類の無神論者たちを惑わせるためにマーヤーヴァーディー哲学を布教しました。実際は彼は決して、至高主すなわち至高の人格神を、非人格的である、あるいは体や形を持たない、とは考えませんでした。

知性的な人にとっては、マーヤーヴァーディー哲学に関する講義を避けるのが最良です。私たちは、「至高の人格神ヴィシュヌは非人格的ではない」と理解すべきです。主は超越的な人格(person)であり、宇宙の顕現の基本的な原則は主のエネルギーです。

マーヤーヴァーディー哲学は至高主のエネルギー(訳注:の源あるいは本質)を突き止める(to trace、見極める、辿る)ことができません。しかし、すべてのヴェーダ文献は至高主の様々なエネルギー的な顕現の証拠を示します。

ヴィシュヌは物質自然の産物ではなく、物質自然がヴィシュヌの力の産物です。マーヤーヴァーディー哲学者たちはヴィシュヌを物質自然の産物であるとして理解しますが、もしもヴィシュヌが物質自然の産物であるなら、主は単に半神たちの中に数えられ得るだけです。

ヴィシュヌを半神と考える者は確かに誤っており、誤って導かれています。これがなぜそうであるのかは、バガヴァッド・ギーターにおいて説明されています。「3つの相によって惑わされ、世界全体が(それらの)相を超越していて無尽蔵である私を知りません。この、物質自然の3つの相から成る私の聖なるエネルギーは、打ち勝つのが非常に困難です。しかし、私に服従した者は簡単にそれを越えることができます。」(BG1.13-14)
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by ammolitering4 | 2012-01-27 20:17 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

第19章前半

第19章 プラカーシャーナンダとの更なる会話

第1段落
クリシュナの人格(person)と御名は同一であるということを完璧に理解することから結果として生じる、クリシュナへの超越的で恍惚的な執着は、バーヴァと呼ばれます。バーヴァに至った者は、たしかに、物質自然によって汚染されていません。

彼は実際にバーヴァから超越的な喜びを楽しみます。そしてバーヴァが強烈になったとき、それは至高神への愛と呼ばれます。主チャイタンニャはプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに、「マハー・マントラ(偉大な唱名)と呼ばれるクリシュナの聖なる御名は、それを唱える誰もに、至高神への愛、すなわち強烈になったバーヴァの水準に至ることを可能にする」とおっしゃいました。

そのような至高神への愛は、究極的な人間の必要性です(訳注:人間にとって究極的に必要なものです)。なぜなら、人がそれを他の必要性(つまり、宗教、経済的な発展、感覚の満足、および解放)と比べるとき、これらの他のいわゆる「必要性」は全く取るに足らないものに見えるからです。

人が一時的で特化された(designated)存在に没頭しているとき、彼は感覚の満足と解放を追い求めます。しかし、至高神への愛は魂の永遠の性質です。それは変わることなく、始まりがなく、終わりがありません。

したがって、一時的な感覚の満足あるいは解放への欲求は、神への愛の超越的な性質とは比べられ得ません。神への愛は、人間の努力における第5の次元です(訳注:他の4つは「 宗教、経済的な発展、感覚の満足、および解放」)。超越的な喜びの愛の海と比べると、非人格的なブラーマンの概念は一滴の水より重要なものではありません。

第2段落
主チャイタンニャは次に、「神の聖なる御名を唱えることから結果として生じた恍惚感の妥当性を自分の霊的指導者が確認なさり、そしてまた、すべてのヴェーダ文献の真髄は至高神への愛を得ることであるということを確認なさった」と説明しました。

主チャイタンニャの霊的指導者は、主は至高神への愛を得られて幸運だった、とおっしゃいました。そのような超越的な愛を得ることによって、人の心(heart)は主との直接的な接触を得ることを熱く切望するうになります。

そのような超越的な感傷を感じて、人は時として笑い、時として泣き、狂った人のように歌い踊り、そして時としてあちこちにじぐざぐと動き回ります。このように、表される様々な恍惚的な症状があります―――泣くこと、体の色が変わること、狂気、追悼(bereavement、愛する人の死を嘆く気持ち)、沈黙、誇り(pride)、恍惚感、そして穏やかさ(gentleness)です。頻繁に、神を愛している者は踊り、そしてそのような踊りは彼をクリシュナへの愛の蜜に置きます。

第3段落
主チャイタンニャは、自分の霊的指導者が自分にこうおっしゃった、と言いました。「あなたが至高神への愛というそのような完璧な水準に至ったのはとても良いことです。あなたがそれを得たので、私はあなたに対してとてもありがたく思っています。」

父親は、自分の息子が自分を越えて発達するのを見るとき、もっと元気づけられます。同様に、霊的指導者は、自分の弟子が発達するのを見ることの中に、自分自身が発達することの中よりももっと多くの喜びを感じます。

こうして、「踊り、歌い、このサンキールタン運動を広め、そして人々にクリシュナについて教えることによって彼らを無知から救おうとする」ようにと、主チャイタンニャの霊的指導者は言って、主を祝福なさいました。主チャイタンニャの霊的指導者はまた、シュリマッド・バーガヴァタムから主に次の節を教えられました。(11.2.40)

(サンスクリット引用)

「常にクリシュナへの献身奉仕に携わっており、主の聖なる御名を唱える者は、唱名に非常に超越的に執着するようになるので、彼の心(heart)は余分な(extraneous)努力なく柔らかくなります。これが起こるとき、彼は超越的な恍惚感を表し、時として笑い、時として泣き、歌い、踊ります―――必ずしも芸術的なやり方ではなく、むしろちょうど狂人のようにです。」

第4段落
主チャイタンニャはさらにプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに告げました。「私は自分の霊的指導者の言葉に全くの信頼を持っているので、いつも「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることにいそしんでいるのです。

私は、自分がどうやってちょうど狂人のようになったのか、はっきりとは分かりません。しかし私は、クリシュナの御名が私に(その状態を)誘発したのだと信じています。私は、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることから得られる超越的な喜びはちょうど海のようである、と知っています(to realize)。

比較すると、非人格的な認識の喜びを含む他のすべての喜びは、水路の中の浅い水のようです。」主チャイタンニャのお話から、霊的指導者の言葉に自分の信頼を保てず、独立して行動する者は、ハレ・クリシュナを唱える上で望む成功を得ることができないように見えます。ヴェーダ文献の中に、「すべての超越的な文献の意味(import、重要性)は、至高主と自分の霊的指導者にぶれることのない信頼を持つ者に明かされる」と述べられています。

主チャイタンニャはご自分の霊的指導者の言葉をかたく信じていて、そして主は決して、サンキールタン運動をやめることによってご自分の霊的指導者の教えを無視する、ということをなさいませんでした。こうして、聖なる名前の超越的な力は、主にハレ・クリシュナ、マハー・マントラを唱えるように力づけました。

第6段落
主チャイタンニャは直ちに、「現代の時代では一般の人々は大なり小なりすべての霊的な知性を奪われている」とプラカーシャーナンダに告げました。そのような人々が、最も内密なヴェダーンタ・スートラを始める前に、シャンカラーチャーリャのマーヤーヴァーディー(非人格主義者)の影響のもとに来るなら、彼らの至高存在への服従に対する自然な傾向は阻まれます。

すべてのものの至高の源は、自然に誰もによって尊敬されます。しかし、この自然な傾向は、人がシャンカラの非人格的な概念に染まるとき(to take to、習慣づける)、妨げられます。そのため主チャイタンニャの霊的指導者は、「人はシャンカラーチャーリャのシャーリーラカ・バーシャを学ばないほうがいい」と勧められました。

「なぜなら、それは一般の人々にとって、とても害があるからです。実に、俗人(common man)は言葉の操りを見抜くための知性さえ持ちません。彼(俗人)は、マハ・マントラを唱えるほうが良いのです(he is better advised to~)―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」。争いを好む、このカリの時代においては、自己認識のための代替策はありません。

第7段落
チャイタンニャ・マハープラブの議論と話を聞いた後、そこにいたすべてのマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちは心静まり(pacified、なだめられた)、温かい(sweet)言葉で答えました。「親愛なる方よ(Dear Sir,)、あなたがおっしゃったことは全く本当です。

至高神への愛を得た者はたしかに非常に幸運であり、そして疑いもなく、あなたはこの水準に至ったことで非常に幸運です。しかし、ヴェダーンタの中の何が欠陥なのですか?(訳注:どこがいけないのですか?)ヴェダーンタを読んで理解することはサンニャースィーの義務です。なぜあなたはそれを学ばないのですか?」

第8段落
マーヤーヴァーディー哲学者によれば、ヴェダーンタはシャンカラーチャーリャのシャーリーラカ注釈を指します。非人格的な哲学者がヴェダーンタとウパニシャッドに言及するとき、彼らは実際はマーヤーヴァーディー哲学の最も偉大な教師であるシャンカラーチャーリャの注釈を指しています。

シャンカリャーチャーリャの後には、サダナンダ・ヨギーが現れました。彼は、ヴェダーンタとウパニシャッドはシャンカラーチャーリャの注釈を通じて理解されるべきであると主張しました。事実は、これはその通りではありません。

ヴァイシュナヴァのアーチャーリャたちによってなされたヴェダーンタとウパニシャッドの多くの注釈があり、これらはシャンカラーチャーリャのそれよりも好まれます。しかし、シャンカラーチャーリャによって影響されたマーヤーヴァーディー哲学者たちは、ヴァイシュナヴァの理解に何の重要性も認めません。

第9段落
ヴァイシュナヴァ・アーチャーリャには4つの異なる宗派があります―――シュッダードヴァイタ、ヴィシシュタードヴァイタ、ドゥヴァイタードヴァイタ、およびアチンテャ・ベーダーベーダです。これらの学派のすべてのヴァイシュナヴァ・アーチャーリャたちはヴェダーンタ・スートラの注釈を書きましたが、マーヤーヴァーディー哲学者たちはそれらを認識しません。

マーヤーヴァーディーたちはクリシュナとクリシュナの体を区別し、そしてそのため、彼らはヴァイシュナヴァ哲学者によるクリシュナの崇拝を認めません。そのため、マーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちが主チャイタンニャに、なぜ主がヴェダーンタ・スートラを学習しないのかと尋ねたとき、主は次のようにお答えになりました。

「親愛なる皆さん、あなた方は、なぜ私がヴェダーンタ・スートラを学ばないのかと尋ねました。そして、その答えとして私は何かを語ります。しかし、申し訳ありませんが、あなた方はそれを聞いて残念に思うでしょう。」

第10段落
「私たちは非常に喜んであなたの話をお聞きしたいです」とすべてのサンニャースィーたちは答えました。「あなたはちょうどナーラーヤナのように見えます。そして、あなたのお話はすばらしく、私たちはそれに大変な喜びを感じています。私たちはあなたに会ってお話を聞くことを非常にありがたく思っています。ですから、私たちはあなたがおっしゃることは何であれ、非常に喜んで辛抱強く聞き、受け入れます。」
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by ammolitering4 | 2012-01-25 15:36 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

カリユガ進行状況

なぜこんな世の中になったのだろうか。なぜこんな目に遭うのだろうか。そんなことをときどき聞きます。それで思うのですが、こういう言葉を言うとき、人はあんまり本当に「なぜだろうか」と考えてはいないような気がするのです。「なぜだろうか」という形を借りて、「こんなことは理不尽だ」と天に訴えているだけ。大抵の場合は、たぶん「なぜだろうか、何が原因だろうか、どういう経緯でこうなったのだろうか」と考えてはいないのです。

ちょっと違うかもしれませんが、心の中のすり替えは例えば自分に対する悪い評価を聞いた場合にも起こります。その評価そのものを問題にする代わり、人は往々にして「誰がそう言ったのか」というふうに反応します。それを追及するのに一生懸命になって、「その評価は正当か、なぜそういう評価が生じたのか」と考えることをおろそかにします。

最近、変な電話や手紙が多いです。「北海道の海産物を送りますよ!」という電話だったり、金などの貴金属を買い取ります、というのだったり、どこかの国の不動産を買いませんかとか、いろいろです。この前送ったパンフレットを返してください、今から取りに行きます、なんてのもあります。官公庁っぽい名前の機関を名乗ってお役所っぽい手続きとか料金とかの「払い込みの手伝いをしてあげます」、という詐欺もあります。うん十万円の賞金が当たりました、という電話もあります。家にやってくる人もいます。

さて、なぜこういう世の中になってしまったのでしょうか。何が原因でしょうか。解決策はあるのでしょうか。過去と比べて具体的にどう違っているのでしょうか。これからどういうふうに変化していくのでしょうか。今はカリの時代なので、とりあえずどうなっていくかはあれこれ推量するまでもないですけれど。。。

プラブパーダもおっしゃるように、もともと生命体には「騙す」という欠陥があります。他者だけでなく自分も騙すのだからやっかいです。私たちの記憶が私たち自身を騙すことは、経験上分かっている人も多いと思います。自分に都合の悪いことは忘れ、私たちは無意識に記憶を歪めます。お化粧をした記憶は浅はかな私たちに「美化された過去」を見せてくれます。それは必ずしも「昔は良かった」というふうに現れるのではないかもしれません。「自分は正しかった」という大前提に合うように色づけされるかもしれません。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

両親は鑑定団のテレビ番組を喜んで見ます。大勢の人たちが一時的に存在するだけのものに高いの安いのと一喜一憂します。今日は袈裟を着たお坊さんが出てきました。世も末ですね。まあ、地獄の沙汰も金次第と言いますから、最初から死後もこのへんに留まるつもりなら、お坊さんだってせいぜい蓄えておくほうがいいのでしょう。いや、無が無をありがたがってるだけだから、ちょっと違うのかな。カリユガは順調に着々と進行しています。
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by ammolitering4 | 2012-01-24 22:31 | Comments(0)

第18章 後半

第16段落
すべての生命体は、主人と従者という関係において永遠にクリシュナと関係があります。いったんその奉仕が欠落すると―――あるいは、言い換えれば、人がクリシュナ意識に位置していないとき―――ヴェダーンタの学習が不十分であると理解されいます。

人がクリシュナを理解しなかったり、主への超越的な愛情ある奉仕にいそしまなかったりするとき、彼はヴェダーンタの学習と至高の人格神の理解に反対(adverse to、敵対、逆行)であると理解されます。主チャイタンニャによって示されたヴェダーンタ学習の道は、すべての者によって辿られるべきです。

いわゆる「教育」によって驕り高ぶっていて謙虚さを持たない者は、真正なる霊的指導者の保護を求めません。彼は、自分は霊的指導者を必要とせず、自分自身の努力によって最高の完成を達成することができる、と考えます。

そのような人々には、ヴェダーンタ・スートラを学ぶ資格はありません。物質エネルギーの魔力の下にある者は師弟継承の教えに従わず、自分の独自の何かを作りだそうとします。そしてそのため、ヴェダーンタ学習の領域から足を踏み出します(to step outside)。

真正なる霊的指導者は、いつもそのような独立した精神的な推量者を非難しなければなりません。もしも真正なる霊的指導者が直接的に弟子の愚かさを指摘するなら、それはそうではないとして理解されるべきではありません(it should not be taken otherwise)。

第17段落
神の科学に関して全く無知な者は、学識があるとは考えられ得ません。大なり小なり、クリシュナ意識にない者は誰でも愚かさの影響を受けます。時として私たちは、霊的指導者としての教育をほとんど受けていない者を受け入れることによって自分の愚かさをさらします。

その蓮の御足がすべてのヴェーダによって崇拝される至高の人格神を理解することは、私たちの義務です。主を理解せず、ヴェダーンタの誤った理解を誇りに思っている者は、実際は愚か者です。学術的な(academic)知識に対する俗世的な試みは、単に別の種類の愚かさです。

人が宇宙の顕現を物質自然の三つの相の表象(representation)であるとして理解できない限り、彼は酩酊の闇の中にいて、この物質世界の二重性の中に囚われていると考えられねばなりません。ヴェダーンタの完璧な知識の中にある者は、宇宙の顕現全体の維持者であり扶養者である至高主の従者になります。人が有限なるものへの奉仕を超越しない限り、彼はヴェダーンタの知識を持つことができません。

第18段落
人が結果を求める活動の限定された管轄(jurisdiction、権限、支配権)の中にあったり、あるいは精神的な推量に関わっている限り、彼はおそらくヴェダーンタ・スートラの理論上の知識を学んだり教えたりする資格はあるかもしれませんが、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」という至高で永遠で超越的な(完全に解放された)振動を理解することができません。

超越的なハレ・クリシュナの振動を唱えることにおいて完成を得た者は、ヴェダーンタ・スートラの哲学を別に(separately)学ぶ必要がありません。真正なる霊的指導者であるチャイタンニャ・マハープラブの教えによれば、超越的な振動を至高存在と異なるものではないとして理解しない者と、マーヤーヴァーディー哲学者やヴェダーンタ・スートラの専門家(expert、熟達者)になろうとする者は皆、愚か者です。

自分の独自の努力(知識の上方向の過程)によってヴェダーンタ・スートラを学ぶことは、愚かさのもう一つのしるしです。しかし、超越的な振動を唱えることへの好みを得た者は、実際にヴェダーンタの結論を得ます。このことに関して、シュリマッド・バーガヴァタムの中に非常にためになる二つの節があります。

最初の節の説明は、「たとえ低いカーストの者が超越的な音を唱えることにいそしんだとしても、彼はすべての種類の放棄、禁欲および犠牲を行い、すべてのブラーマ・スートラを学んだのだと理解される」というものです。

このように(Thus)人は「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることができるようになり得ます(訳注:can be able to、一般的な用法ではありませんが、「できるようになれる、そうなれる可能性がある」という意味合いであり、文法の間違いではありません)。

二番目の節の説明は、「「ハ・リ」という二つの音節を唱える者は、すべてのヴェーダ―――リグ・ヴェーダ、アタールヴァ・ヴェーダ、ヤジュール・ヴェーダ、そしてサーマ・ヴェーダ―――を学んだのであると考えられねばならない」というものです。

第19段落
他方で、ヴェダーンタは献身者のためのものではないと考える、多くのいわゆる「献身者」がいます。そのような人々は、ヴェダーンタが純粋な献身者の唯一の足場であるという事実を知りません。4つのヴァイシュナヴァ・サムプラダーヤのすべての偉大なアーチャーリャたちは、ヴェダーンタ・スートラに関して注釈書を作りました。

しかし、プラークリタ・サハジャーとして知られるいわゆる「献身者」たちは、ヴェダーンタ・スートラの学習を注意深く避けます。プラークリタ・サハジャーは誤って、純粋な献身者とヴァイシュナヴァ・アーチャーリャを、精神的な推量者、あるいは結果を求める活動を行う者と考えます。その結果、彼ら自身がマーヤーヴァーディーになり、至高主への奉仕から離れます。

第20段落
ヴェダーンタ・スートラを学術的な知識によって理解することは、決して人が超越的な振動の価値を理解するのを可能にしません。学術的な知識にとらわれている者は、「私」、「私のもの」、そして「私の」の理解という事実に関して混乱している、制約された魂です。

その結果、彼らは自分の心を外的なエネルギーから切り離すことができません。人が実際に超越的な知識を得るとき、彼はこの二重性から自由になり、至高主への超越的な愛情ある奉仕に携わります。主への奉仕は、人が物質的な活動に非執着になれる唯一の方法です。

真正なる霊的指導者によって正しく導かれ(to initiate、秘伝を授ける、入門させる)、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることにいそしんでいる者は、徐々に「私」と「私のもの」という概念から自由になり、5つの超越的な関係のうちの一つにおいて主への超越的な愛情ある奉仕に執着するようになります。

そのような超越的な奉仕は、濃密な、あるいは希薄な体にとっては、考慮の対象(subject matter)ではありません。「至高存在と主の御名の間には何の違いもない」と理解できるときにだけ、人はクリシュナ意識に位置することができます。

そのようなときには、人はもはや文法的な調整(grammatical adjustment)をする必要はありません(訳注:これはおそらく、「言葉の表面的な解釈をひねくり回して独自の理論で神を知ろうとする必要はなくなる」、ということではないかと思います。)

むしろ人は、主に請願することにもっと興味を持つようになります。「ハレ・クリシュナ―――おお、我が主よ。おお、主のエネルギーよ。どうぞ私をあなたへの奉仕に携わらせてください!」

第21段落
主チャイタンニャは、このすべてをプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに説明し、彼に、自分はこのすべてを自分の霊的指導者から聞いたのだ、と言いました。主はさらに、ヴェダーンタ・スートラの著者であるヴャーサデヴァによってシュリマッド・バーガヴァタムの中で述べられているように、「”シュリマッド・バーガヴァタムがヴェダーンタ・スートラの実際の注釈書である”と自分の霊的指導者が自分におっしゃった」とプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーにお告げになりました。

(訳注:構文がややこしいので注意してください。SBが~の注釈書である、と主に言ったのは主チャイタンニャの霊的指導者です。そして主チャイタンニャは「自分は彼にそう言われたんだ」とプラカーシャーナンダに言いました。そして、その同じことがヴャーサデヴァによってSBの中でも述べられています。)

第22段落
生徒は、彼が聖なる御名と至高主の正体(identity、本性、身元など)を理解するときに、完璧だと考えられます。人が悟りを開いた(realized、真理を認識した)霊的指導者の庇護の下にない限り、至高存在に関する彼の理解は単に愚かです。

しかし、人は奉仕と献身によって超越的な主を完全に理解することができます。主チャイタンニャが無礼をすることなく(offencelessly)ハレ・クリシュナ・マントラを唱えたとき、主は、そのマントラは直ちに制約された魂を物質的な汚染から解放することができる、と宣言なさいました。

このカリの時代においては、このマハ・マントラを唱えることの代替策はありません。すべてのヴェーダ文献の真髄は、クリシュナのこの聖なる御名―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」―――を唱えることである、と述べられています。

主チャイタンニャはまた、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに次のようにおっしゃいました。「このヴェーダの知識の本質的な(essential、非常に重要な)事実について私を納得させるために、私の霊的指導者はブリハン・ナーラディーヤ・プラーナから一節(38.126)を教えられました。

(サンスクリット引用)

この争いと欺瞞の時代にあって、解放のための唯一の方法は主の聖なる御名を唱えることです。他に方法はありません。他に方法はありません。他に方法はありません。」

第23段落
4つの時代のうちの3つ(つまりサッテャ・ユガ、トレター・ユガ、およびドゥヴァーパラ・ユガ)において、人々は師弟継承の道を通って超越性を理解することができるという光栄を得ていました。しかし、今の時代では、人々は師弟継承に何の興味も持ちません。

その代わり、彼らは理論と議論の多くの道(path)を作り出しました。至高の超越性を理解するこの個々の試み(上方向の方法と呼ばれる)は、ヴェーダによって認められていません。完全真理は完全な水準から下りて来なければなりません。

主は上方向の方法によって理解されるべきものではありません。主の聖なる名前―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」―――は超越的な振動です。

なぜなら、それは超越的な水準、クリシュナの至高のお住まいから来るからです。クリシュナと主の御名の間には何の違いもないので、クリシュナの聖なる御名はクリシュナご自身と同じくらい純粋で完璧で解放されています。学術的な学者たちは、神の聖なる御名の超越的な性質の理解に、論理とその他の議論という方向によっては入ることができません。

「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」の超越的な性質を理解するための唯一の道は、これらの御名を信仰(faith、信念)と信奉(adherence、固執、遵守)をもって唱えることです。そのような唱名は、人を濃密および希薄な体から生じる区分された状態から解放します。

第24段落
論理と議論と意見の不一致のこの時代においては、ハレ・クリシュナを唱えることが自己認識のための唯一の方法です。この超越的な振動だけが制約された魂を解放することができるので、それはヴェダーンタ・スートラの真髄であると考えられます。

物質的な概念によれば、人の名前、形、性質、感情および活動と、その人自身の間には、二重性があります。しかし、超越的な振動に関して言えば、そのような制限はありません。それは霊的な世界から下りてくるからです。

霊的な世界では、人の名前とその人の性質の間に違いはありません。もちろん、物質的な世界では、違いがあります。マーヤーヴァーディーの哲学者たちは、これを理解することができないので、彼らは超越的な振動を発声することができません。

第25段落
それから主チャイタンニャはプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに、自分は自分の霊的指導者から命令を受けたtので、常に「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えているのだ、とおっしゃいました。

「この唱名の結果として」と主はおっしゃいました。「私は時として非常に意思が弱くなり(impatient、忍耐力のない、気短な)、踊ったり笑ったりすることや、あるいは泣いたり歌ったりすることから自分自身を抑制することができません。実に、私はちょうど狂った人のようになります。

私が最初に、「自分はこの「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることによって狂ったのか」と思ったとき、私は自分の霊的指導者に近付き、彼に「自分は「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることによって狂った」と告げました。そうして私は彼に、私の本当の立場は何なのか、と尋ねました。」

第26段落
ナーラダ・パンチャラートラにおいて、こう述べられています。

(サンスクリット引用)

「すべてのヴェーダの儀式、マントラ、そして理解は、8つの言葉に集約されます―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ」。同様に、カリサンタラナ・ウパニシャッドには次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」という16個の言葉は、特にカリの汚染を中和するためにあります。自分自身をカリの汚染から守るためには、これらの16個の言葉を唱えるより他に方法はありません。」

第27段落
主チャイタンニャは、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに、ご自分の霊的指導者がご自分を理解してくださったとき、彼はこうおっしゃった、と告げました。「人を霊的な狂気へと運ぶのは、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」という聖なる御名の超越的な性質です。

これらの聖なる御名を誠実に唱える者は誰でも、まもなく神への愛という水準への上昇を得て、神に狂ったように夢中になります。神への愛から生じるこの狂気は、人間にとって最初の完成の段階です。」

第28段落
一般に、人間は宗教、経済的な発展、感覚の満足、そして解放に興味がありますが、神への愛はそれらすべてを越えています。真正なる霊的指導者が聖なる御名―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」―――を唱え、超越的な音の振動が弟子の耳に入り、そしてもしも(弟子が)自分の霊的指導者の足跡を辿って同じような敬意をもって聖なる御名を唱えるなら、彼は実際に超越的な名前を崇拝するようになります。

超越的な名前が献身者によって唱えられるとき、名前そのもの(Himself)がご自分の(His)栄光を献身者の心の中に広めます。献身者が完全に聖なる御名の超越的な振動を唱える資格を持つとき、彼は霊的指導者となって世界のすべての人々を解放するのに十分に適しています。

聖なる御名を唱えることは非常に強力なので、それは徐々に世界中のすべてのものの上に優位性を確立します。それを唱える献身者は、恍惚感の中で超越的に位置するようになり、時として自分の恍惚感の中で笑い、泣き、踊ります。

時として、非知性的な者がこのマハー・マントラを唱える道に妨害物を置きますが、至高神への愛の水準に位置する者は、すべての者のために(訳注:for all concerned、関係者一同のために)聖なる御名を大声で唱えます。

結果として、すべての人が聖なる御名―――「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」―――を唱える秘儀を伝えられる(to initiate)ようになります。クリシュナの聖なる御名を唱えることと聞くことによって、人はクリシュナの形と性質を覚えておく(to remember)ことができます。
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by ammolitering4 | 2012-01-23 23:16 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

第18段落 前半

第18章 プラカーシャーナンダとの会話

第1段落
マーヤーヴァーディーのサンニャースィーの原則によれば、歌うこと、踊ること、そして楽器を演奏することは厳しく禁じられています。なぜなら、それらは罪深い行いと考えられているからです。マーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちは、単にヴェダーンタの学習(study、学習、研究)に携わるべきだとされています。

したがって、ベナレスのマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちが主チャイタンニャが歌うことと踊ることと楽器を演奏することと、そしていつも「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることに耽っているのを見たとき、彼らは、主は教育がなく、感傷から自分の追従者たちを誤って導いている、と結論しました。

シャンカラーチャーリャの命令は、サンニャースィーはいつもヴェダーンタの研究に携わっているべきであり、単に一着の服だけで満足すべきである、というものでした。主チャイタンニャは正式にヴェダーンタを学習することもせず、歌うことと踊ることを止めもしなかったので、主はベナレスのすべてのサンニャースィーと彼らの家庭人の追従者たちによって批判されました。

第2段落
主チャイタンニャがご自分の生徒と弟子からこの批判の知らせを受け取ったとき、主は単に微笑んで、マトゥーラーとヴリンダーヴァンに向けて出発しました。主がマトゥーラーからジャガンナーター・プリーへ行く途中に再びベナレスに戻ったとき、主は、店員だったのでシュードラと考えられていたチャンドラシェクハラの家に滞在なさいました。

これ(訳注:家の主人がシュードラであること)にも関わらず、主チャイタンニャ・マハープラブは彼の家に居を構えました。主チャイタンニャは、ブラーマナとシュードラを区別なさいませんでした。主は献身的な者を誰でも受け入れました。

習慣的に、サンニャースィーはブラーマナの家に泊まり、食事をすることになっていますが、主チャイタンニャ・マハープラブは独立した至高の人格神でいらっしゃるので、独自の判断をなさり、チャンドラシェクハラの家に泊まることを決心なさいました。

第3段落
当時、自分たちのブラーマナとしての家系を誤用して、ブラーマナたちは、ブラーマナの家庭に生まれなかった者は誰でもシュードラと考えられる、とする法律を作りました。そのため、クシャトリヤとヴァイデャでさえもシュードラと考えられました。

ヴァイデャはブラーマナの父とシュードラの妻の子孫であるとされていたので、彼らは時としてシュードラと呼ばれました。そのため、チャンドラシェクハラ・アーチャーリャは、ヴァイデャの家庭に生まれたにも関わらず、ベナレスではシュードラと呼ばれていました。ベナレスにいらした間はずっと、主チャイタンニャはチャンドラシェクハラの家に留まり、タパナミシュラの家で食事をなさいました。

第4段落
サナータナ・ゴスヴァーミーがベナレスで主チャイタンニャに会ったとき、彼は2ヶ月の継続的な教えの間に、献身奉仕の過程と原則を学びました。主チャイタンニャのサナータナ・ゴスヴァーミーへの教えは、この本の最初の部分に描写されています。

これらの教えを受けた後、サナータナ・ゴスヴァーミーは献身奉仕の原則とシュリマッド・バーガヴァタムを広めることを認定されました。タパナミシュラとチャンドラシェクハラの両者が主チャイタンニャ・マハープラブへの強い批判に関してひどく(主に対して)気の毒に思っていたのはこの頃であり、彼らは一緒にやってきて、主にマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちに会うように懇願しました(to pray、祈る)

第5段落
「私たちは、あなたに対するマーヤーヴァーディーのサンニャースィーからの好意的でない批判を聞くことで屈辱を感じさせられています」と彼らは主チャイタンニャに告げました。「実に、それは私たちにとって耐えられないものとなっています。」

彼らは主に、これらの批判が止まるように何かしてほしい、と頼みました。彼らがこの事項について議論していたとき、一人のブラーマナが主チャイタンニャのところに来て、主を自分の家に招きました。チャイタンニャ・マハープラブ以外のすべてのサンニャースィーが招かれていたので、そのブラーマナは主を招きに来たのでした。

主はマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちとは関わらないことをしっていたので、ブラーマナはチャイタンニャ・マハープラブの足元にひれ伏して主に懇願しました。「私はあなたが招待をお受けにならないと知っていますが、私はそれでもあなたに、来て私の家で他のサンニャースィーたちと共にプラサーダを召し上がることを懇願します。もしもあなたがこの招待を受け入れてくださるなら、私はそれを特別な恩恵と考えます。」

第6段落
主はこの機会を利用し、マーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちと会うためにブラーマナの招待を受け入れました。実は、これは主ご自身によってなされた配剤でした。主を招待したブラーマナは、主がどんな招待も受け入れないと知っていたにも関わらず、それでも主を招くことに非常に熱心でした。

第7段落
次の日、主チャイタンニャはそのブラーマナの家に行き、すべてのマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちがそこに座っているのを見ました。主は習慣に倣ってすべてのサンニャースィーたちに敬意を捧げ、それからご自分の足を洗いにいらっしゃいました。

洗ったあと、主は他のサンニャースィーたちから少し離れた、足を洗う桶の横に座りました。主がそこに座っていた間に、サンニャースィーたちは主の体から放射しているまばゆい光輝を見ました。このまばゆい光輝に魅了されて、すべてのマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちは立ち上がって主に敬意を示しました。

彼らの中に、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーという名前のサンニャースィーがいました。彼は非人格主義者のサンニャースィーの中の長であり、彼は大いなる謙遜の念をもって主チャイタンニャに話し掛け(to address、名を呼ぶ)、主に、来て自分たちと共に座るように頼みました。

第8段落
「我が親愛なる方よ(My dear Sir,)、なぜあなたはその汚い場所に座っておいでなのですか?」と彼は尋ねました。「来て私たちと一緒に座ってください。」

第9段落
「おお、私はサンニャースィーの(中の)劣った学派に属しています」と主チャイタンニャは答えました。「したがって、私はあなた方と共に座るべきではないと考えます。この低いところにいさせてください。」

第10段落
プラカーシャーナンダは、そのような学識のある人からそのようなことを聞いて驚きました。そして、彼は実際に主の手をとり、主に、どうか来て自分と一緒に座ってくれるように、と頼みました。主チャイタンニャがとうとう彼らと共に座ったとき、プラカーシャーナンダ・サラスヴァティーは言いました。

「私は、あなたの名前はシュリー・クリシュナ・チャイタンニャだと思います。そして、あなたはシャンカラーチャーリャ・サムプラダーヤに属するケシャヴァ・バーラティーからサンニャーサを受けられたので、あなたは私たちのマーヤーヴァーディー学派に属する、と私は理解しています。」

第11段落
シャンカラ学派によれば、サンニャースィーには10個の異なる名前があります。それらのうち、3つの名前―――ティールター、アーシュラマ、およびサラスヴァティー―――が、最も啓蒙されて教養があると考えられるサンニャースィーに与えられます。

主チャイタンニャはヴァイシュナヴァなので、主はもともと謙虚で柔和(meek、腹を立てず、じっと我慢するような性質)です。そして主は、サラスヴァティー・サムプラダーヤに属するプラカーシャーナンダに、より良い座席を与えたいと望まれました。

シャンカラの原則によれば、バーラーティック学派のブラーマチャーリーはチャイタンニャと呼ばれます。しかし、シュリー・クリシュナ・チャイタンニャ・マハープラブは、サンニャーサとなったにも関わらず、ご自分のブラーマチャーリーの名前を保ち、バーラティーの称号を使いませんでした。

第12段落
「ところで、(Well, Sir)」と、プラカーシャナンダ・サラスヴァティーは続けました。「あなたは私たちのシャンカラ学派に属し、そしてあなたはベナレスにお住まいです―――では、なぜあなたは私たちと交流なさらないのですか?何が理由ですか?

もう一つ―――あなたはサンニャースィーで、単にヴェダーンタの学習にいそしむべきだとされています。しかし私たちは、あなたがその代わりにいつも聖名を唱えることと踊ることと音楽を奏でることにいそしんでいらっしゃるのを見ます。何が理由ですか?

これらは感情的で感傷的な人々の活動ですが、あなたは資格のあるサンニャースィーです。なぜヴェダーンタの学習をなさらないのですか?あなたの光輝からは、私たちには、あなたはちょうど至高のナーラーヤナ、至高の人格神のように見えます。

しかし、あなたの振る舞いからは、あなたはそうでないように見えます。ですから私たちは、なぜあなたがそのように振舞われるのか知りたいと思っています。」

第13段落
「我が親愛なる方よ。私の霊的指導者は、私を大変な愚か者とお考えになりました」と主チャイタンニャは答えました。「ですから彼は、私は大変な愚か者なので、ヴェダーンタを学ぶ能力はない、とおっしゃって、言うなれば(more or less)私を罰せられたのです。

そして、その代わり彼は私に「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることを与えられました。私の霊的指導者は私に、「ただこのハレ・クリシュナ・マントラを唱え続けなさい。それはあなたを全く完璧にします」とおっしゃいました。」

第14段落
実際は、主チャイタンニャは愚か者でもなければヴェダーンタの原則に関して無知でもありません。主の目的は、現代の社会に対して、「苦行と禁欲の歴史を持たない愚か者は、単に何らかの娯楽としての目的のためにヴェダーンタを学ぼうとすべきではない」と示すことでした。

ご自分のシクシャースタカの中で、主チャイタンニャは、人は謙虚な心の状態であるべきであり、自分を路上の草よりも低いと考えるべきであり、木よりも忍耐強くあるべきであり、そしていかなる名誉の感覚も持たないでいるべきであり、他者にあらゆる種類の敬意を捧げる用意ができているべきである、とおっしゃいました。

そのような心の状態において、人はヴェダーンタ哲学や神の聖なる御名を絶え間なく唱えることができます。主はまた、「超越的な科学の真剣な学徒は、自分の霊的指導者の言葉に従うべきである」ということも教えたいと望まれました。

(主の)霊的指導者の判断によれば、主チャイタンニャは愚か者であるように見えました。したがって彼は、主はヴェダーンタの学習に耽るべきではなく、ハレ・クリシュナを唱え続けるべきである、とおっしゃいました。主チャイタンニャは、この命令に厳密に従いました。言い換えると、主はマーヤーヴァーディーたちに、「真正なる霊的指導者の言葉は厳密に従われなければならない」と強く認識させました。それらに従うことによって、人はすべての面で完璧になります。

第15段落
ヴェダーンタは、ヴェーダの知識の最後の言葉はクリシュナの理解である、と指し示しています。

(サンスクリット引用)

「すべてのヴェーダによって私は知られるべきものです(I am to be known)。実に、私はヴェダーンタの編纂者であり、私はヴェーダを知る者です。」(BG15.15)人が実際にヴェダーンタを理解するようになるとき、彼はクリシュナと、自分のクリシュナとの関係とを、知るようになります。

クリシュナを理解する者はすべてを理解します。クリシュナを知る者はいつもクリシュナへの超越的な愛情ある奉仕にいそしんでいます。これは主ご自身によってバガヴァッド・ギーターの中で確認されています。

(サンスクリット引用)

「私はすべての霊的および物質的な世界の源です。すべては私から発します。これを完全に知っている知恵ある者は、私への献身奉仕にいそしみ、全身全霊で(with all their hearts)私を崇拝します。」(BG10.8)
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by ammolitering4 | 2012-01-23 23:15 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

第17章 後半

第11段落
純粋な献身者と内密な献身者の間には特定の違いがあります。主の異なる力は、異なる超越的な関係において至高主に奉仕することに携わっています。彼ら(訳注:主の異なる力)は、婚姻上の愛(訳注:conjugal love、この場合はむしろ恋愛を指すと思われる)、親としての愛情(parental affection)、友情、そして奉仕関係(servitude、通常は隷属、労役などを指す)に位置しています。

公平に判断することによって、人は「主との婚姻上の愛に携わっている至高主の内的な力が、すべての献身者の中で最も優れている」と知ることができます。このため、内的な献身者と内密な献身者の両方が、至高の完全真理の婚姻上の愛によって魅了されます。

これらは主チャイタンニャの最も内密な献身者です。シュリー・ニテャーナンダ・プラブとアドヴァイタ・プラブに大なり小なり執着している他の純粋な献身者は、親としての愛情、友情、そして奉仕関係(servitorship)などの、他の超越的な関係によって魅了されます。

そのような献身者が主チャイタンニャの活動に執着するとき、彼らは直ちに至高主との婚姻上の愛において内密な献身者になります。

第12段落
偉大な献身者であって主チャイタンニャからの師弟継承におけるアーチャーリャであるシュリー・ナロッタマ・ダーサ・タークラによって歌われた、とても良い歌があります。ナロッタマ・ダーサは、このように歌いました。

「単にゴーランガの名を聞くことによって超越的な振動が私の体中に伝わる(to be)のはいつでしょうか?単に主の名を口にすることによって私の目から涙が絶え間なく流れるのはいつでしょうか?主ニテャーナンダが私に恵みを下さるのはいつでしょうか?

そして、物質的な楽しみへの私のすべての欲求が取るに足らないものになるのはいつでしょうか?物質的な楽しみというすべての汚染を放棄することによって私が浄化されるのはいつでしょうか?そして、私が超越的な住まいヴリンダーヴァンを見ることができるのはいつでしょうか?

6人のゴスヴァーミーたちをおもな導きとして受け入れることに私が熱心になるのはいつでしょうか?そして、クリシュナへの婚姻上の愛を私が理解できるのはいつでしょうか?」誰も、ヴリンダーヴァンの6人のゴスヴァーミーたちのもとでの弟子としての訓練を経ることなく、クリシュナへの婚姻上の愛を理解することに熱心になるべきではありません。

第13段落
主チャイタンニャによって始められたサンキールタン運動は、主の超越的な娯楽です。「それによって、私は物質世界でこの運動を布教し、そして同時に広めるために生きます。(By it I live simultaneously to preach and popularize this movement in the material world.)」

その主チャイタンニャのサンキールタン運動において、ニテャーナンダとアドヴァイタは主の拡張体であり、ガダーダーラとシュリーヴァーサは主の内的および周辺的な力です。生命体もまた、周辺的な力と呼ばれます。

なぜなら、生命体は潜在的に二つの傾向(attitude)を持っているからです―――つまり、クリシュナに服従する傾向と、主から独立する傾向です。物質的な楽しみを好む性質のため、生命体は物質世界によって汚染されます。

生命体が物質的な楽しみへの欲求によって支配されて物質的な人生に絡まるとき、彼は物質的な存在の三重の悲惨さの影響の下に置かれます。彼はちょうど土に蒔かれた種のようです。もしも種が過度の水によって圧倒されるなら、それが実を結ぶ可能性はありません。

同様に、もしも人が物質的な楽しみによって虜になるなら、そして、たとえそのような楽しみの種が制約された魂の心(heart)の中にあるとしても、神への愛においてなされた超越的な活動の洪水によって圧倒され得ます。(訳注:構文がややこしいですが、「物質的な楽しみに惹かれてしまい、そのような誘惑に惹かれることの種が心の中に生じてしまったにしても」という理解で問題ないと思います。)

このようにして、彼の潜在的な種は物質的な存在という制約された人生へと結実することができません。特に、現在のカリの時代における、物質的な世界の中の制約された生命体は、主チャイタンニャと主の仲間たちによって始められた神への愛の洪水によって圧倒されます。

第14段落
このことに関して、プラボダーナンダ・サラスヴァティー睨下(げいか、His Holiness)によって、その著書「シュリー・チャンドラームリタ」の中に書かれた節があります。そこには、「物質的な人々は自分の家族、妻と子を維持することに非常に熱心であり、そして物質的な人生の悲惨さからの解放について推量することに携わり、そしてそのため様々な禁欲と苦行を行う多くの神秘主義的な推量者もいる」と述べられています。

しかし、主チャイタンニャ・マハープラブの運動の中に至上の(the greatest)超越的な味わいを発見した者は、もはやそのような活動への嗜好を持ちません。

第15段落
至高の人格神の形の中に、そして主への献身奉仕の中に物質的な汚染があると考える者は、マーヤーヴァーディーと呼ばれます。彼らの不完全な推量によれば、非人格的なブラーマンは宇宙の顕現の中の唯一の存在であると考えられます。

至高の人格神が導入されれば(訳注:議論の対象となれば)直ちに彼らは、主の人格はマーヤー、すなわち外的な物質エネルギーから生じる、と考えます。そのような人々は、至高主のすべての化身はこの物質自然によって汚染されている、と考えます。

彼らによれば、生命体を個別化する(to identify)物質的な体と物質の活動は、すべて物質的な顕現です。彼らによれば、解放とは個々の識別(identification)の、あるいは純粋な生命体の終わりを意味します。

言い換えると、マーヤーヴァーディーは「生命体が解放されるとき、彼(生命体)は至高の非人格的なブラーマンと一つになる」と主張します。そのようなマーヤーヴァーディー哲学によれば、至高の人格神、主のお住まい、主への献身奉仕および主の感情的な献身者(His emotional devotees)は、すべてマーヤーの魔力の下にあり、したがって物質的な状況の影響を受けます。

至高主、主のお住まい、主への献身奉仕、そして主の献身者の超越的な性質を忘れる者は、これらすべてが物質的な活動の顕現に過ぎないと考えます。人が超越性について議論する可能性(possibility)があると考えるとき(訳注:その存在を巡る議論の余地があると考えるとき)、彼は不可知論者(訳注:agnostic、神の存在の可能性は否定しないが、その存在について確かな知識を持つことは不可能だと主張する人々)と呼ばれます。

そして彼が超越性を批判する可能性があると考えるとき(訳注:上と同じく、「超越性には批判の余地があると考えるとき」という意味と考えられる)、彼は無神論者と呼ばれます。主チャイタンニャはあらゆる種類の不可知論者、無神論者、懐疑論者、そして不信心者(unfaithful、忠実でない)を受け入れて、彼らを神への愛の洪水の中に飲み込みたいと望まれました。そのため主は、これらすべての諸力(forces、軍勢、諸派)を魅了するために、放棄生活に入られました。

第16段落
主チャイタンニャは24歳のときまで家庭人として留まり、25歳のときに放棄階級に入られました。放棄階級(サンニャースィー)に入ったあと、主は他の多くのサンニャースィーたちを魅了しました。主がサンキールタン運動を家庭人として広めていたとき、多くのマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちは主の運動をあまり真剣に受け取りませんでした。

しかし、放棄生活に入られた後、主は推量的な学徒、無神論者、そして結果を求める活動と不必要な批判に執着していた者たちを救いました(to deliver)。主はとても親切でいらしたので、これらすべての人々を受け入れ、彼らに神への愛という人生における最も大切なものを授けました。

第17段落
制約された魂に神への愛を授けるというご自分の使命を果たすため、主チャイタンニャは神への愛に興味のないそれらの人々を魅了するための多くの方法を考え出しました。主が放棄生活に入られたあと、すべての不可知論者、批評家、無神論者および精神的な推量者は主の生徒と追従者になりました。

多くの非ヒンズー教徒とヴェーダの原則に従わない者も、主チャイタンニャを至高の教師として受け入れました。シュリー・チャイタンニャ・マハープラブの慈悲を避けた唯一の人々は、ベナレスのマーヤーヴァーディー哲学者として知られた人々でした。

そのようなマーヤーヴァーディー哲学者の様子(plight、窮状、悪い状態)は、シュリー・バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・ゴスヴァーミーによって描写されています。「ベナレスのマーヤーヴァーディー哲学者たちは、知性において劣ります。

なぜなら、彼らはすべてを直接的な知覚によって測りたがったからです。しかし、知覚されるすべてのものは物質的な知覚によって計算されます。完全真理は超越性ですが、彼らによれば超越的には多様性はありません。なぜなら、彼らは多様性に満ちたものはすべてマーヤーであると考えるからです。」

第18段落
チャイタンニャ・マハープラブの時代には、サラナーターのマーヤーヴァーディー哲学者として知られる別の非人格主義の哲学者たちもいました。サラナーターはベナレスの近くの、仏教徒の哲学者たちが住んでいたところです。

そして現在でも仏教徒のマーヤーヴァーディーの多くのストゥーパ(訳注:仏舎利塔)が見られます。サラナーターのマーヤーヴァーディー哲学者たちは、ブラーマンの非人格的な顕現を信じる非人格主義者たちとは違います。

サラナーターの哲学者たちによれば、霊的な存在は全くありません(there is no spiritual existence at all)。事実は、ベナレスのマーヤーヴァーディー哲学者とサラナーターの哲学者の両方が、物質自然によって陥れられているということです。

どちらも完全超越性の性質を実際には知りません。ヴェーダの原則を表面的に受け入れて自分たちを超越主義者だと考えてはいますが、ベナレスの哲学者は霊的な多様性を受け入れません。献身奉仕について何の情報も持たないので、彼らは非献身者、すなわち主クリシュナへの献身奉仕に反対する者、と呼ばれます。

第19段落
非人格主義者たちは、至高の人格神と主の献身者について推量し、彼らを直接的な知覚という試験にかけます。しかし、主、主の献身者、および主への献身奉仕は、直接的な知覚の影響の下にはありません。言いかえると、霊的な多様性はマーヤーヴァーディー哲学には知られていません。

したがって、すべてのマーヤーヴァーディー哲学者とサンニャースィーは、主チャイタンニャがご自分のサンキールタン運動を指揮なさっていたとき、主を批判しました。主チャイタンニャがケシャヴァ・バーラティーからご自分のサンニャーサー階級をお受けになったのを見たあと、彼は驚きました。

ケシャヴァ・バーラティーはマーヤーヴァーディー学派に属していたからです。そのため、主チャイタンニャはサンニャースィーのマーヤーヴァーディー学派に属したので、主が習慣に倣ってヴェダーンタを聞いたり読んだりする代わりに聖名を唱えたり踊ったりしているのを見て、マーヤーヴァーディーたちは驚きました。

マーヤーヴァーディー哲学者は非常にヴェダーンタを好み、それを独自に誤解釈します。自分の本当の(own)立場を理解する代わりに、彼らは「主チャイタンニャは感傷主義者なので実際には本当のサンニャースィーではない」と議論して、主を非正統的な(unauthrized、非正規の、認定されていない)サンニャースィーだと批判しました。

第20段落
主チャイタンニャがベナレスにいらしたとき、これらすべての批判が主に伝えられました。そして主はそれらに全く驚きませんでした。知らせが伝えられたとき、主は微笑みさえしました。主はマーヤーヴァーディーのサンニャースィーたちと関わらず、その代わりずっと一人でいて、ご自分の独自の使命を遂行なさいました。ベナレスに数日滞在したあと、主はマトゥーラーに出発なさいました。
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by ammolitering4 | 2012-01-23 16:34 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

第17章 前半

「主チャイタンニャの教え」を再開しました。少しずついきます。
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第17章 もともとの至高の人格神、主チャイタンニャ

第1段落
カヴィラージャ・クリシュナダーサ・ゴスヴァーミーに倣い、私たちは主チャイタンニャの蓮の御足に心からの敬意を捧げます。

第2段落
主チャイタンニャは次のように描写されています。「主は、孤独な者(forlorn、孤独で惨めで絶望的な様子)にとって、最も堕落した者にとって、唯一の避難場所(shelter、庇護を与えるもの)である。そして主は、霊的な知識が全く欠けている者にとって唯一の希望である。」献身奉仕という主の偉大な貢献について議論を試みましょう。

第3段落
至高に強力な主クリシュナは、5つの異なる力において顕現なさっています。主は比肩するもののない存在なのですが、5つの特定の霊的な目的に適うように、5つのあり方で顕現なさっています。そのような多様性は、単調な一体性(oneness)とは対照的に、永遠で、喜びに溢れています。

ヴェーダ文献から、私たちは「完全真理、至高の人格神は、ご自分の多様なエネルギーと共に永遠に存在なさる」と理解することができます。主チャイタンニャは多様なエネルギーのすべてと共にお現れにあり、そしてそれら(訳注:エネルギーの種類)は5つです。したがって主チャイタンニャは、多様なエネルギーを伴ったクリシュナである、と言われます。

第4段落
シュリー・チャイタンニャ・マハープラブおよび、ご自分の4人の仲間たち―――ニテャーナンダ・プラブ、アドヴァイタ・プラブ、ガダーダーラおよびシュリーヴァーサ―――としての主の顕現(appearance、現れ、降臨)に関して言えば、エネルギーとエネルギー的なもの(訳注:the energetic、エネルギーの源)の間に違いはありません。

至高主の(主ご自身と主の化身、拡張体、そしてエネルギーとしての)これらの5つの(訳注:ここでは4つしか挙げられていないが、エネルギーが2つと数えられる)の多様な顕現の中で、霊的な違いはありません。

それらは一つの完全真理において5つです(They are five in one Absolute Truth.)完全真理において(in)超越的な味わいを楽しむために、5つの多様な顕現があります。これらは、献身者の形、献身者の本質(identity、正体、身元)、献身者の化身、純粋な献身者、そして献身的なエネルギー、と呼ばれます。

第5段落
完全真理における5つの多様性のうち、主チャイタンニャの形はもともとの至高の人格神、クリシュナのそれです。主ニテャーナンダは至高主の最初の拡張体の顕現です。同様に、アドヴァイタ・プラブは至高主の化身です。

これらの3人―――チャイタンニャ、ニテャーナンダ、およびアドヴァイタ―――は、ヴィシュヌ・タットヴァ、すなわち至高の完全真理の区分に属します。シュリーヴァーサは純粋な献身者を表象し(to represent、代表する、表す)、そしてガダーダーラは純粋な献身の発達のための主の内的なエネルギーを表します。

したがって、ガダーダーラとシュリーヴァーサは、ヴィシュヌ・タットヴァに含まれているにも関わらず、至高主の従属的で多様なエネルギーです。言い換えると、彼らはエネルギー的な存在と異なるものではありませんが、超越的な関係を味わうために多様に顕現しています。(訳注:「エネルギー的な存在」とはエネルギーの源を指す。)

献身奉仕の過程全体が、崇拝する者と崇拝される者との間の関係における超越的な交換に関わっています。超越的な味わいのそのような多様な交換無くしては、献身奉仕は意味を持ちません。

第6段落
ヴェーダ文献(カター・ウパニシャッド)において、至高主はすべての生命体の中の至高の生命体である、と述べられています。無数の生命体が存在しますが、至高の完全神(the Supreme Absolute Godhead)である生命体は一つです。

単数の生命体と複数の生命体の違いは、単数の生命体がすべての主である、ということです。主チャイタンニャはその至高の生命体であり、そして主は無数の堕落した生命体を改心させるために降臨なさいました。

言い換えると、主チャイタンニャの降臨の特定の目的は、「すべての生命体の無数の人格を支配し維持している一人の至高の人格神がいる」というヴェーダの事実を確定することでした。非人格主義者(マーヤーヴァーディー)の哲学者はこれを理解することができないので、至高存在と多くの生命体との間の関係の本当の性質について一般の人々を啓蒙するために、主チャイタンニャは降臨なさいました。

第7段落
バガヴァッド・ギーターにおけるクリシュナの最後の教えは、すべての人は他のすべての仕事(engagement)を放棄して主に献身奉仕を捧げるべきである、というものでした。しかし、クリシュナが去った(disappearance)後、知性において劣る人々が主を誤解しました。

彼らはマーヤーヴァーディー哲学に侵されました。それは非常に多くの精神的な推量者を生み出し、人々は完全真理と生命体の本当の立場を忘れました。したがって、主クリシュナに近付く方法をこの物質世界の堕落した魂に教えるために、主シュリー・クリシュナご自身が、主チャイタンニャとして再びお現れになりました。

バガヴァッド・ギーターは、「人はすべてを放棄して、この物質的な執着の世界と決別(be done with)すべきだ」と教えます。主クリシュナの純粋な献身者と、主チャイタンニャの哲学を辿る者は、全く同じです(one and the same)。

チャイタンニャの哲学は、「人はすべてを放棄して、神、すなわちクリシュナを崇拝すべきだ」というものです。クリシュナは、至高主、至高の人格神として、ご自分を至高主であると示して、同じ言葉を語られました。しかし、マーヤーヴァーディー哲学者たちは主を誤解しました。

したがって主チャイタンニャは、状況を明らかにするために、主クリシュナの教えを繰り返しておっしゃいました。「人は自分を、クリシュナと同じくらい良い、と宣言すべきではなく、クリシュナを至高主として崇拝すべきです。」

第8段落
私たちは、もしも主チャイタンニャを制約された魂として受け入れるなら、大変な間違いを犯します。主は、至高の完全真理、至高の人格神、シュリー・クリシュナご自身として理解されるべきです。したがって、チャイタンニャ・チャリタームリタにおいて、主チャイタンニャについてこう述べられています。

「クリシュナは今、ご自分の5つの多様な顕現において存在しておられる。」人が汚染されていない徳に位置しない限り、主チャイタンニャを至高の人格神ご自身として理解するのは非常に困難です。そのため、主チャイタンニャを理解するためには、人は主チャイタンニャの直接の弟子たち―――6人のゴスヴァーミーたち―――に(従い)、そして特にシュリーラ・ジーヴァ・ゴスヴァーミーによって計画された道(the path chalked out by)を辿らねばなりません。

第9段落
もっとも驚愕すべき事実は、至高の人格神クリシュナであるにも関わらず、主チャイタンニャが決してご自分をクリシュナとして表されなかったことです。むしろ、知性的な献身者によって主クリシュナであると察せられて主クリシュナと呼ばれたときはいつでも、主はそれを否定しました。

実に、主は「人は至高主と呼ばれるべきではない」と抗議しながら、時としてご自分の耳を手で覆われました。間接的に、主はマーヤーヴァーディー哲学者たちに、「人は、偽って至高主の振りをして、そうすることで人々を誤って導くべきではない」と教えていらっしゃいました。

追従者たちもまた、誰も彼もを至高の人格神として受け入れるほど愚かであるべきではありません。人は、聖典を調べ、問題の人物の活動を見ることによって、(訳注:その人を)試験すべきです。しかし人は、主チャイタンニャと主の5つの多様な顕現を、普通の人間であるとして誤解すべきではありません。

主チャイタンニャは至高の人格神クリシュナご自身です。主チャイタンニャの良いところ(the beauty)は、主は至高神であるにも関わらず、すべての制約された魂に献身奉仕はいかになされるべきかを教えるために、偉大な献身者としておいでになった、ということです。

献身奉仕に興味のある制約された魂は、献身奉仕によってどうやってクリシュナに至れるかを学ぶために、主チャイタンニャの模範的な軌跡を辿るべきです。このように、いかに献身奉仕においてご自分に近付くべきかを、至高主ご自身が制約された魂に教えられます。

第10段落
至高主の5つの多様な顕現を分析的に研究することによって、私たちは、主シュリー・チャイタンニャ・マハープラブが至高の完全存在であって、そして主ニテャーナンダが至高の完全真理の非常に(関係が)近い(immediate)拡張体であることを知るようになることができます。

私たちはまた、アドヴァイター・プラブもまた至高の人格神の区分にあるけれど、主チャイタンニャとニテャーナンダ・プラブに従属している、ということを理解するようになることができます。至高の人格神と主の非常に(関係が)近い従属的な拡張体は、他の二つ―――つまり内的な力の表象と周辺的な力の表象―――にとって崇拝の対象です。

内的な力の表象であるガダーダーラは内密な献身者を表し、そして周辺的な力の表象は純粋な献身者です。これらの両方とも他の三つの区分の崇拝者ですが、これらのすべてが至高の人格神、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブへの超越的な奉仕に携わっています。
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by ammolitering4 | 2012-01-22 22:37 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(4)

混沌の時代

おはようございます。実は仕事の翻訳は事情で今は中断していて、その代わりに「主チャイタンニャの教え」を再開してます。やっぱりチャンティングの重要性を重ね重ね強調するという内容ですが、それを見ていて心に浮かぶ様子をボールペンで絵に描きました。いえ、決して逃避しているわけではありません、ということもないのでしょうね、やっぱり。ときどき(頻繁に)休憩しながらやってます。

混沌と欺瞞と争いの時代であることは、日々痛感します。鎮痛剤とか麻酔とか消毒薬とか、現代の科学から私たちはたくさんの恩恵を受けましたが、素粒子の実験とかウイルスや遺伝子の実験とか天体の爆破とか、好奇心が暴走して火遊びをしているような世界になってしまいました。視界もはっきりしない、嵐がごちゃごちゃのめちゃくちゃに吹き荒れる中では、手渡しで伝わってきたマントラというレンガの上を一歩一歩辿る他に安全な道はあるわけがないな、と納得します。私は以前登山をしていたので、悪天候の様子を経験しました。ほんとうに、腕を伸ばすを自分の手の先が見えないようになります。そんな中では動かないのが一番ですが、どうしても進まざるをえないときは一本のロープと足元の一歩だけが頼りなのです。

さて、仕事に戻りましょう、と思いますが、そろそろ家事の仕事の時間です。ごきげんよう。
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by ammolitering4 | 2012-01-22 07:08 | Comments(2)