<   2011年 12月 ( 6 )   > この月の画像一覧

宗教

新聞を見ていたら、震災後に供養をして回ったお坊さんの言葉が出ていました。短く一言書いてあっただけなので、それから判断するのは性急かもしれませんが、その言葉は「宗教がいかに無力か思い知った」というものでした。これはどういう意味なのでしょうか。この方は宗教とはもともと何だと思っていらっしゃるのでしょう。さすがに、この言葉の真意は「神様や仏様を信じていればこんな苦しみには遭わないはずだ」というわけではないのだと思います。「実際に苦しんで悲しんでいる人を宗教は慰めることができない」という意味でしょうか。人は宗教に何を期待するのでしょう。現世利益やより良い来世など、人によって違うのかもしれませんが、宗教の働きそのものは私たちの思惑に関係なく同じであり続けます。お坊さんから「宗教が無力だと思い知った」という言葉が出る現実は、バンクーバーの夏祭りで仏教会がビーフカレーを出してた現実と関係あるのかもしれない、と思ったことでした。少なくとも、そのうち私の体が死んだときには、こういうお坊さんの指図に従って出掛けたら必ずや俗世のどこかで道に迷うことでしょう。
[PR]
by ammolitering4 | 2011-12-30 20:05 | Comments(2)

第2章 31段落より

ほんの少しですが、できたぶんだけ載せます。続きは年が明けてからになります。一年間のお付き合いありがとうございました。来年もまたときどきお越しください。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
第2章第31段落より

第31段落
哲学的な研究の経験的な方法によっては、人はおそらく哲学的な(empiric、形而上学的、抽象的で難解な)主題を物理的な物体から区別することができます。しかし、真理を探究する者が至高真理の人格的な特徴に至ることができない限り、実際の超越的な利益は何もなく、彼は主の無味乾燥で非人格的な知識だけを得ます。

したがって、ガンディーのような指導者たちがヴィシュヌ、あまねく存在する至高神として知られる完全真理の人格的な特徴の超越的な足場に自らを確立して、カルマ・ヨガを通じて主への超越的な奉仕のための手配をすることが必要です。このようにして彼らは一般の人々のために善を為すことができます。

第32段落
ほとんどの人々は物質的な体と心の事柄において非常に多忙です。そのような俗的な活動の最低の段階にある者たちが霊的な水準の活動を理解できるのは非常に稀です。これらの人々は一般に、惑わされています。

なぜなら、彼らの様々な罪と徳の活動は、単に食べること、眠ること、身を守ること、そして感覚を満足させることなどの振る舞いを通して、一時的な体と心の苦しみを和らげて幸せを増すことだけに向けられているからです。

物質主義的な科学者たち―――そのような物質的な行いを呼び起こす擬似伝道者たちは―――目、耳、鼻、肌、舌、そして究極的には心を含む物質的な感覚を満足させるための多くのものを発明します。そしてこのようにして科学者たちは、世界全体を不必要な衝突に導く物質的な幸せを増幅させるための、不必要な競争の場を作ります。

最終結果は、世界中での不足です。それはあまりにもひどいので、食物、住居、そして衣類という生活に必要な最低限のものでさえ争いと統制の対象になります。そしてそのため、簡素な暮らしと高い思考という、伝統的な神に与えられた暮らしへの様々な障害物が生じます。

第33段落
そのような全くの物質主義者よりも多少上に位置する者は、死後の人生をかたく信じ、そしてそのため、彼らはこの一つの人生の全く感覚的な楽しみの水準よりも多少上に上がろうとします。彼らは、徳のある行いによって次の世への何かを蓄積しようとします。

ちょうど人が将来の幸せのために幾らかのお金を貯めるようなものです。しかしこれらの人々は、上で説明したように、徳のある行いでさえ人を仕事の呪縛から自由にすることはできない、ということを理解していません。その反対に、徳のある行いも罪深い行いも、行為と反応の車輪に人を縛り付けます。

第34段落
罪深い物質主義者も徳の高い物質主義者も、どんなときでも(always)カルマ・ヨガが、成長にとって非常に好ましくない仕事の呪縛からの解放を得るための唯一の方法である、ということを理解していません。したがって卓越したカルマ・ヨギーは、一般の人々にどうやって普通の仕事における行為と反応の絡まりから抜け出すかを教えるために―――同時に自分の仕事の結果をヴィシュヌに捧げながら―――ちょうど執着した物質主義者のように振舞います。

このようにしてカルマ・ヨギー自身と世界全体が同時に利益を受けます。至高の人格神はバガヴァッド・ギーター(3.26)において、次のようにおっしゃいます。「おお、バーラタの子孫よ。超越的な知識に精通していない執着した物質主義者のように仕事をし続ける方が良いのです。このようにしてあなたは人々をカルマ・ヨガの道へ導く(to recruit、募る)ことができます。」

第35段落
ですから、超越的な知識に気づいている者と、このように実際に学識のある者は、体と心を維持するために必要なすべての活動を行いますが、彼らは至高神ヴィシュヌの超越的な感覚を満足させることを念頭においてそうします。

普通の人々はこれらの学識ある超越主義者たちを普通の労働者と見なしますが、事実は、超越主義者たちは俗的な利益のために働く人々ではありません。彼らはカルマ・ヨギー、すなわち超越的な利益を求めて働く人々です。そしてそのような超越的な仕事において、物質的な結果は他に別の努力をすることなく自動的に得られます。

第36段落
現代では、私たちは物質的な活動の非常な拡大を目撃しています。工場(mill、製造工場。紡績、製粉、製材、製紙などを指す場合が多い)、工場(factory、機械で大量生産する製造所)、病院その他の施設(institution、公共施設)が今ではあちこちにあります(on vogue、流行している)。

古代には、物質的な活動のそれほど大きな拡大はありませんでした。そのころは、生活の様式は簡素であり、しかし思考は高尚でした。ですから今では、主の超越的な感覚の満足のためにヴィシュヌへの超越的な奉仕にすべての様々な現代の施設を使うことのできるカルマ・ヨギーにとって、活動の(ための)大変良い場があります。

第37段落
したがって、「古代の賢人たちによって主張された(to maintain、維持する、という意味もある)カルマ・ヨガという同じ精神で完全至高神を崇拝する」という同じ目的のために、ヴィシュヌの寺院(訳注:祭壇や神棚など小さなものを指すのだと思いますが、適切な言葉が分かりません)をすべての前述の施設と個人の家に据えることが肝要です。

あまねく存在する至高の人格神は、ご自分を化身、完全部分、あるいは様々な部分的な部分として、ご自分の様々な超越的で永遠な形に顕現なさいますが、賢人たちはシュリー・シュリー・ラクシュミー・ナーラーヤナ、シュリー・シュリー・スィーター・ラーマ、そしてシュリー・シュリー・ラーダー・クリシュナという永遠の二人の形を崇拝することを勧めます。

したがって、大きな工場(mill, factory)、病院、大学、ホテル、そして様々なほかの施設の所有者と管理者がヴィシュヌのこれらの超越的な形のいずれかを崇拝するために寺院(訳注:上の訳注に同じ)を据えることが非常に真剣に望まれます。これはこれらの施設の中のすべての労働者たちをカルマ・ヨギーに変えます。

第38段落
大きな工場(mill, factory)の労働者たちは、多くの忌まわしい習慣に染まっているということが一般に経験されており、そしてそのため、彼らは徐々に人間が下り得る最低の水準に滑り落ちます。しかし、もしも彼らが「ヴィシュヌに捧げられた食物の残り物を食べる」という利益を慈悲深くも(graciously)与えられたなら、徐々に彼らは霊性の超越的な感覚を育み、霊的に発達した名士(personality)のそれと同じ水準に上がります。しかし、これらの人々は単にそのように自動的に認められることによって(to rubber-stamp、めくら印を押す)ハリジャン(Harijan)―――’神の人’―――の卓越した立場に上がることはできません。

(訳注:「ハリジャン」とは、インドのカースト制度で最下層に位置する不可触賎民(untouchable)を指します。ガンディーは元来の名称を嫌い、「神の人」を意味する「ハリジャン」と呼びました。ここでは、プラブパーダは「単にこれらの人々を綺麗な名前で呼ぶだけでは現実は変えられない」とおっしゃっています。)

もしも彼らがヴィシュヌへの超越的な奉仕以外の欲望によって影響されるなら、彼らの堕落した立場から彼らを引き上げるすべての努力(訳注:ここでは物質的な努力を指す)は、大きな災いと、社会的な秩序の安定と静穏(the peace and the tranquillity)の混乱(disturbance)をもたらすでしょう。

単に一時的な利益のためにそのような虐げられた労働者を無用にそそのかす指導者たちは、決して労働者たちに何らの善も為すことはできません。指導者たち自身がそのような構想の悪い活動によって利益を得ることもできません。反対に、そのような物質的な活動によって労働者と資本家の両方が避けようもなく不健全ないさかいに陥り、そして社会的な秩序の大いなる混乱をもたらします。

問題は、カルマ・ヨガの決然とした計画によってのみ解決され得ます。もしもカルマ・ヨガが計画的に行われるなら、平等を目指す社会主義者によって、同胞愛の大いなる社会的な秩序を目指すボルシェヴィキ(訳注:共産主義者、ロシア共産党の前身)、あるいは労働者が富の蓄積において資本家をしのぐ俗世の天国を目指す(英国)労働党員によってであっても、私たちはすべての断片的な努力を超越し、満たして余りあるでしょう。
[PR]
by ammolitering4 | 2011-12-29 11:06 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(2)

第2章 第16段落から30段落まで

第2章第16段落より
(訳注:小冊子中の挿絵4枚目、「p.37」 とあるのはp.27の間違い)

第16段落
学識のある賢人たちは、ヴィシュヌの蓮の御足に近付くことは解放を得ることである、と言います。私たちは、カルマ・ヨガの究極の目的であるヴィシュヌの超越的な感覚を満足させることによって、自分の普通の欲求を満足させることができます。

もしも私たちがこのようにして自分の義務を果たさないなら、それなら必ず私たちが為すあらゆる、すべての仕事は、有害な物質的な結果だけをもたらし、そして究極的に世界には大きな災いが訪れるでしょう。

すべてのことをヴィシュヌの満足のために為し、ヴィシュヌに捧げられたものの残り物を食べる(to take)ことによって、私たちは自分に定められた義務を行う過程で蓄積する悪と罪深い(行いの)反応を捨てることができます。

第17段落
私たちはこれらの悪と罪深い(行いの)反応を避けるために非常に多くの注意をするかもしれませんが、普通の仕事(business)のやりとりや投機(venture)を通してでも、私たちは非常に多くの罪を犯さねばなりません。例えば、仕事の交渉では嘘を言うのは必要であり避けられない、ということが分かります。法律に関わる職業をもった人々によって話される嘘の量は言うまでもありません。

弁護士たちは、自分の客が絡まってしまった法律をうまく逃れるために、ありとあらゆるインチキに頼らねばなりません。そしてもちろん、他の職業を持つ人々も、他者への奉仕をする人々も、同じようなことをしなければなりません。意図的であれ意図的でないのであれ、全く疑いもなく、人は罪を犯し―――そして罪深い(行いの)反応を負わねばなりません。

第18段落
たとえ私たちがあらゆる罪を犯すことに対して自らを守ろうと(訳注:「何の罪も犯すまいと」)万全の注意を払っていても―――そしてヴァイシュナヴァ、すなわちヴィシュヌの献身者はもともとすべてのそのような注意を払いますが―――それでも無意識に私たちは、ある場所から別の場所へ歩くなどという全く普通の義務を果たしている間にさえも、多くのアリや他の虫を殺します。

単に水を飲んでいる間にも、私たちは多くの微細な水中の生物を殺し、そして私たちは単に家の掃除をしたり食べたり眠ったりすることによっても多くの生命体を殺します。つまり、普通の暮らしを通して、無意識にでさえも、私たちは自分が負うすべての罪を避けることはできません(we cannot avoid all the sins we incur)。

第19段落
人間の法律によれば、人は殺人を冒せば絞首刑になるかもしれませんが、低位の動物を殺すときは絞首刑になりません。しかし神の法律によれば、人は低位の動物を殺すことによっても罪を犯します。私たちは、どちらの行いに対しても神の法律によって罰せられます。

神の法律、あるいは主の存在でさえ信じない者は、そのような罪を犯し続けるかもしれません。そして彼らはそのような罪を犯すことによって自分が遭わされる無数の苦しみにも関わらず、正気に戻らないかもしれません。しかし、それは神あるいは主の永遠の法律の存在に影響しません。

第20段落
スムリティスとして知られる法律書は、誰もが避けがたく犯す、そう望まなくてさえ犯す5つの種類の罪を挙げます。以下のようなものです。
1、引っかくことによって犯す罪
2、こすることによって犯す罪
3、火を起こすことによって犯す罪
4、水差し(pot)から水を注ぐことによって犯す罪
5、自分の家を掃除することによって犯す罪

たとえ意図しては何の罪も犯さなくても、私たちは疑いの余地もなく、上記の5つの種類の罪を犯します。そのため、ヴィシュヌに捧げられた食物の残り物を食べることが絶対に必要です。なぜなら、これが私たちが避けようもなく犯したすべての罪に対する反応から私たちを逃れさせてくれるからです。

この理由により、ヴィシュヌの崇拝は今もサナータナ・ダールマの信奉者(follower)の家で、特にブラーマナの家で続いています。不幸にして、ヴィシュヌに捧げるためではなく自分の感覚を満たすためだけに食物を調理する者は、自分の定められた義務を遂行する間に意識的あるいは無意識的に犯したすべての罪に対する罰を受けねばなりません。

第21段落
したがって、すべての国々と共同体の指導者たちは、自分自身の利益と、自分が導くのだと公言する人々の利益のために、率先して必ずヴィシュヌを満足させるようにするべきです。至高の人格神シュリー・クリシュナは、次のようにアルジュナに助言なさいます。

「指導者によってなされることは、普通の人々によって従われます(訳注:「普通の人々は指導者がすることに倣います」)。指導者が真実であるとして確立することは何であれ、追随者たちは躊躇せず受け入れます。」

したがって、すべての指導者たちは、ヴィシュヌの超越的な感覚を満足させることができるようにして自分の義務を遂行することによって、自分がいかにして追随者たちのために良い手本を示すことができるかと熟考すべきです。

第22段落
しかし、嘆かわしいことに、普通の人々が指針(beacon、光明、かがり火)と見なす指導者たち自身が心の底では無神論者で、神によって定められた原則に反対している時代が既に来てしまいました。そんな状態ですから、彼らはヴィシュヌの超越的な感覚の満足のために何ができるでしょうか?

そしてもしも彼らがすべてのことを至高神の超越的な満足のためにしないなら、どうして彼らは定められた義務を遂行する過程において犯された罪の泥沼から自分自身と自分に従う者たちを引き出すことを期待できるでしょうか?

もしも指導者たちが、同時に至高の超越的な人格であって、どこにでも存在している非人格の霊である、万能のヴィシュヌの存在を認識しないなら、それなら普通の人々は主について何を理解するでしょうか?

主はありとあらゆるものの至高の享楽者であり、したがって私たちの誰も、どんなに偉大な人であっても、宇宙とその付属物の享楽者ではありません。私たちの立場は万能のヴィシュヌのそれに従属するものであるため、私たちは主から主の慈悲のしるしとして与えられるものだけを楽しむことができます。私たちは、主あるいは他者に属する何ものをも得ようとして余分な努力をすべきではありません。それがヴァイシュナヴァ主義の精神です。

第23段落
イショパニシャッドにおいて、この同じ精神が次のように描写されています。「(私たちが見るように)宇宙の中全体に存在しているものは、本質的に至高の享楽者の所有物であり、そして人は主によって慈悲深くも与えられたものを楽しむことができます(may、~をしてよろしい)。しかし、人は決して他者の所有物に手を出してはなりません。」

第24段落
したがって、市民の(civic)、および他の人民の(popular)指導者たちは、自分の活動の中心にヴィシュヌを置くべきです。そして、この超越的な仕事という行いによって、彼ら自身が利益を受け、そしてそれぞれ自分の従う者たちのために善を為すことができます。

もしも、伝道者や国家元首を含むこれらの指導者たちがこのヴァイシュナヴァ主義の活動を行わないなら―――そしてその代わりに人工的に自分をヴィシュヌ、至高の享楽者の卓越した立場に置くなら―――そうすれば彼らは実際に一時的な得や崇拝や俗的な名声を楽しむかもしれず、そして偽りの放棄の誇示によって彼らは自分の不運な追従者たちを迷わせ、正しい道を退けることに導くかもしれませんが、そのような物質主義的で神を知らない指導者たちは、決して一群の羊のように屠殺場まで彼らについて行く無知なる魂のために善を成すことはできません。

そのような指導によって、指導者自身は一時的に利益を受けますが、追従者たちは最悪の立場に置かれます。指導者たちは彼らを幻想の利得へとそそのかし、そうして彼らを様々な罪深い行いに携わらせます。自らに一時的な利益を与えることによって、そのような指導者たちは追従者たちの本当の利益を犠牲にし、彼らを滅ぼします。

第25段落
そのような指導者たちは、自分の一時的な利得は自分の一時的な体の破滅と共に消滅する、ということを知りません。しかし、彼らが生涯の指導の間に行った命令と怠慢(commission and omission)の行いは、非常にかすかな形で心と知性と偽りのエゴの心的な(psychic)檻の中に留まり、そしてかすかな心的な生命は再び、霊魂の転生の過程によって別の適切な形の中で育まれます。

そしてこのようにして彼らのかつての行いは彼らに行為と反応の様々な車輪の試練を課し、何年も何年もの間、一つの体から別の体へと転生することを余儀なくさせます。そして一般の人々は無知なる指導者が自分たちに「しろ」と言うことに従います。

第26段落
したがって指導者たちは、関係するすべての人々の利益のためにいかに行動すべきかということに気づいていなければなりません。まず、彼らはカルマ・ヨガの本当の方法―――(人の)仕事の結果を主ヴィシュヌに捧げること―――を理解して実行せねばなりません。そうすれば彼らは実際に自分の追従者のために善を為すことができます。

もしも医者自身が病んでいるなら、彼はどうして他者を癒すことができるでしょうか?医者は一般市民の病を治療する前に、自分自身を癒さねばなりません。患者の感覚を満足させることは、本当の医者の仕事ではありません。良い、資格のある医者は、単に患者の気まぐれを満足させることによって彼を甘やかすことはできません。医者は、それが患者の感覚を満足させるか否かに関わらず、本当の薬を処方しなければなりません。

第27段落
したがって指導者たちは、一般の人々の本当の病は万能の至高神ヴィシュヌに奉仕をすることに対する彼らの嫌悪である、ということを知らねばなりません。しかし、もしも人々の根源的な病―――無神論―――を治療する代わりに指導者たちが単に病の症状への表面的な同情を見せるだけなら、確かに、苦しむ人類への益は全くないでしょう。

この病への本当の治療法は、至高神に捧げられたものの残り物を食べることにあります。これが患者のための理想的な食事療法です。そして、薬には以下のものが含まれます。(訳注:原文は箇条書きではありません。)

1、至高神の栄光を聞き、唱え、覚えていること。
2、至高神の超越的な形を崇拝すること。
3、主に超越的な奉仕を捧げること。
4、主を自分の至高の友人として受け入れること。
5、いかなる状況においても主に服従すること。

指導者たちは、もしも本当に人類の苦しみを消し去りたいのなら、この食事療法とこれらの薬のための手配をすべきです。

第28段落
老練な指導者マハトマ・ガンディーが世界中に神々しい雰囲気をもたらすための方法を発明しようとして最善を尽くしているのを見るのは喜ばしいことです。彼は、自制、忍耐、道徳の原則などを教えています。しかし、いつも必ず限度のあるものである、いかなる発明された方法を使っても、無限であるものに到達することは可能ではありません。(訳注:「人が発明する方法は、いつでも必ず限度があるものです。それを使って~」)

したがって至高の人格神シュリー・クリシュナは、バガヴァッド・ギーターにおいて「何度も生まれ変わった後で、学識のある賢人たちは主に服従する。そしてすべてのものをヴァースデヴ(ヴィシュヌの完全な顕現)に結び付けることのできるそのようなマハートマーを見るのは非常に稀である」とおっしゃいました。その意味は、いわゆるマハートマーはどこにでもいるが、本当のマハートマーは至高神と顕現された世界との関係を知っている者である、ということです。

第29段落
そのようなマハートマーは、決して何らの発明された方法を使っても―――帰納的で上方向の知識の過程を通じて作りだされたもの―――至高神に近付こうとすることはありません(訳注:「そのようなマハートマーは、どのようなものであっても、人が発明した方法を使って至高神に近付こうとすることは決してありません」)。

そうではなく、彼は演繹的で下方向の考えを受け入れます。それは至高主から直接、あるいは主の真正なる代理人を通して下りてくる方法です。誰も、何年も何年もの間努力した後でさえ、上方向的な方法によって主に至ることはできません。この上方向的な方法によって得られるもののすべては、人を完全真理から逸脱させる、不完全で部分的で非人格的な知識です。

第30段落
私たちは、ガンディーによって支持された(訳注:「~が採用した」)布教の方法の中にそのような不完全さのしるしを見ることができます。ラーマの名を唱えてはいますが、彼はその名の超越的な科学に気づいていません。彼は非人格的な至高神の崇拝者です。

それはつまり、彼の至高神には超越的な活動がない、ということです。言い換えると、彼の至高神は食べることができず、見ることができず、聞くことができません。経験主義的な哲学者が完全真理に近付こうとするとき、主の超越的な娯楽について何も知らないので、彼は至高神の非人格的な特徴までしか至ることができません。

完全真理に何らの超越的な感覚や感覚的な活動が認められないとき(not credited with)、確かに主は無力と考えられます。そしてもちろん無力な至高神は主の献身者の祈りを聞くこともできず、宇宙の苦しみを和らげることもできません。
[PR]
by ammolitering4 | 2011-12-28 15:22 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(0)

第2章 第15段落まで

第2章 カルマ・ヨガ―――超越的な結果を伴う仕事

第1段落
学識ある賢人たちは私たちに、「人はインド、すなわちバーラタヴァルシャという聖なる地に、90万の水中の種、200万の野菜などの動かない種、110万の爬虫類と虫の種、100万の鳥の種、300万の獣の種、そして40万の人間の種を含む840万の生命の種を通った、段階的な進化の過程の後に生を受ける」と教えます。

生きた霊は一つの生命の種から別のそれへと転生し、そして彼(霊)は巨大な宇宙の中空の中を、何百万年も何百万年も、そのようにして動いています。この理由により、霊魂は「あまねく存在する」と描写されます。

第2段落
既に述べたように、「シュリー・チャイタンニャ・チャリタームリタ」は、「長い時間の後でようやくバーラタヴァルシャという聖地に生を受けた者は、自分自身が自己認識によって啓蒙された後で、他の人たちに至高の恩恵を授けるべきである」と述べています。

偉大な賢人たちが霊なる自己(spirit self)の認識のためにそれほどの努力をしたことは、他のどの国ででもありませんでした。西洋の国々では、人々は物質的な体と心を中心とした物質的な科学の文化を発達させるために最善の努力をしたのは事実です。

しかし、西洋におけるすべてのそのような物質的な知識の発達にも関わらず、一般の人々は霊的な科学の文化(culture、培うこと)についてほとんど気にかけなかったので、彼らは物質主義の有害な影響に苦しんでいます。西洋の国々の偉大な思索家たちは、したがって、至高神の教えが彼らの耳に届くようにするためには、インドに目を向けねばなりません。

第3段落
物質主義の火を消して人類の未来を明るくするために、至高の人格神シュリー・クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、カルマ・ヨガ、すなわち超越的な結果を伴う仕事を詳しく議論なさいました。カルマ、すなわち物質的な利益を求める仕事と、カルマ・ヨガ、すなわち超越的な結果を伴う仕事の間には、大きな違いがあります。

バガヴァッド・ギーター全体を通して、数箇所で、至高の人格神は「超越的な結果を伴う知性的な仕事」を意味するブッディ・ヨガという言葉を使われます。そして私たちはまた、ブッディ・ヨガが「超越的な献身の活動」を意味すると理解することができます。

なぜでしょうか?なぜなら、至高の人格神クリシュナは、自分はいつも自分の献身者を特に好み(to favor)、彼らに献身活動を行う知性を授け、最後には彼らが自分のところに至ることができるようにする、とおっしゃるからです。

他の箇所でも、神へは献身活動を通してのみ到達し得る、と述べられています。結論は、私たちは(訳注:原文は誤字で大文字になっている)ブッディ・ヨガあるいはカルマ・ヨガにいそしむことによってのみ自分の仕事(カルマ)の結果を捨てることができる、ということです。

第4段落
バガヴァッド・ギーターの2章において、至高の人格神シュリー・クリシュナは次のように助言なさいます。「これまでのところ、私はあなたに超越的な知識を説明しました。これから私は、超越的な結果を伴う仕事を説明します。このようにして働くことによって、あなたは普通の仕事によって生じる呪縛を捨てることができます。この過程には損失や減少はありません。たとえこの仕事をほんの少し行っても、それは人を最も深刻な問題(trouble)から救うことができます。」

第5段落
超越的な結果を伴って働くことは、主クリシュナへの献身奉仕の活動にいそしむことを意味します。そして、これらの献身の活動がいかにして私たちの日々の活動的な人生に組み込まれ得るかが、バガヴァッド・ギーターにおいて説明されています。

この組み込みは、厳密にはカルマ・ヨガとして知られています。知識を培うことと組み合わせられるとき、同じ献身の活動は厳密にはジニャーナ・ヨガと呼ばれます。しかし、そのような献身の活動がそのような仕事と知識のすべての限界を超越するとき、この物事の状態は、純粋で超越的な献身、すなわちバークティ・ヨガと呼ばれます。

第6段落
私たちがこの世界で行う様々な行為は、様々な特定の結果を生じさせます。私たちがこれらの結果―――私たちの働きの結果―――を楽しみ始めるとき、これらの楽しみという行為もまた、順次(in their turn)、当然更なる結果を作り出します。

こうして私たちは、行為と反応、そしてそれぞれの結果、という大きな木を育みます。そしてこれらの実を楽しむ者として、私たちは働きの木とその実の網の目にぐるぐる巻きになります。何度も生まれ変わって、霊魂はそのような実を作り出して、それらを楽しむ過程にぐるぐる巻きであり続けます。

第7段落
私たちには、この行為と反応―――働きとその結果(fruitive results)の呪縛から逃れる機会はほとんどありません。すべての仕事を捨ててサンニャースィー、すなわち出家者の人生を受け入れた後でさえも、人はまだ、自分の空腹を満たすためだけにであっても、働かねばなりません。ですから、たとえ腹のためだけであっても、逃れる術はありません―――仕事をすることを避けることはあり得ません。

第8段落
結果的に、至高の人格神シュリー・クリシュナは、アルジュナに助言なさいます。「おお、アルジュナよ。あなたはいつも自分の義務を果たさねばなりません。何かをすることは、何もしないより、はるかに優れています。あなたは、何らかの仕事をすること無くしては、日々の糧を得ることさえできません。」

第9段落
「義務」とは、聖典と聖なる法典に定められている仕事を意味します。そのような仕事は、出家者や神秘的なヨギーであるという気取りの下での怠惰よりも(訳注:~を気取って怠惰であるよりも)、はるかに優れています。

生計を立てるために、人は名誉をもって道路の清掃をする職業につくことができますが、人は単に自分の空腹を満たすために出家者のサフラン色(訳注:黄色がかったオレンジ色)の衣に衣装を着替えてはいけません。これが、偉大なる一元論者の哲学者であって宗教改革者である、シャンカラーチャーリャの教えです。

現在の争いと偽り(pretension、見せかけ、うぬぼれ、など)の時代にあっては、人は出家者の人生を送るよりも普通の定められた義務を果たすことを好むべきです。本当に俗世を捨てた者は、社会的な秩序の中の自分の定められた日々の義務を行うことを放棄してはならない、ということを理解しています。

そうすることは破滅をもたらします。単純明快なことです。私たちが何らの仕事をすることもなく自分の日々の糧を得ることができないとき、どうして自分の定められた義務を放棄することが可能でしょうか?そしてそれでも人は、自分が霊魂を物質的な存在に縛り付けている行為と反応の網の目の中にいる、という難しい立場を忘れてはなりません。

第10段落
そのため、この葛藤を解決するため、至高の人格神シュリー・クリシュナは、私たちに次のように助言なさいます。「仕事をするための最善の方針は、すべての定められた義務をヤジニャ、すなわち至高存在であって完全真理であるヴィシュヌの満足のために為すことです。そうでなければ、すべての行為は呪縛を生じさせる反応を生みます。もしも仕事がヤジニャのためになされるなら、人はすべての呪縛から自由になります。」

第11段落
いかなる呪縛をも生じさせないこの働き方は、超越的な結果を伴う仕事、すなわちカルマ・ヨガと呼ばれます。このようにして働くことによって、人は仕事の呪縛をまぬがれることになるだけでなく、至高の人格神への超越的な献身の念も育みます。

自分の働きの結果を自分で楽しむのではなく、人はそれを至高の人格神への超越的な愛情ある奉仕のために捧げるべきです。これが献身奉仕のハシゴの最初の段です。主チャイタンニャは、この献身奉仕の方法をプラヤーガのダシャーシュヴァメダー・ガータにおいて、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーに教えられました。

そこで主は、至高の人格神シュリー・クリシュナの慈悲と霊的指導者の慈悲によってのみ、幸運な魂は超越的な愛情ある献身奉仕の種を得ることができる、とおっしゃいました。カルマ・ヨガは、この純粋な献身奉仕の最初の段階です。

この科学は、シュリー・クリシュナご自身、あるいは主の真正なる内密な従者たちによってのみ教えられます。そのような源から教えを受けるのでない限り、しばしば自分をカルマ・ヨガの達人だと宣伝する普通の俗人がそうするように、人は必ずカルマ・ヨガの意味(訳注:import、「重要性」という意味もある)を誤解します。

第12段落
私たちは、単に自分の物質的な存在を続けていくためだけにでも、幾らかの富を稼がねばなりません。その富と引き換えに私たちは、主として自分の空腹のためのものですが、生活に必要なものを得ます。食べるとき(訳注:食事をすれば)私たちは健康な体を保ち、そして健康な体を保つとき(訳注:体を健康に保てば)私たちは自分の生計を立てます(訳注:立てることができます)。

これが仕事の車輪であり、私たちはそれに乗って宇宙全体を巡ります。何度も何度も生まれ変わって、きつね火のような幻想の物質的な幸せのための苦闘から生じる、付き物の困難に苦しみながら、私たちがどれほど遠くまで、そしてどれほど長い間こうして巡っているか、推定することはできません。

偽りの享楽者の能力の範囲内で、至高に強力な主に全く従うことなく、魂は何度も生まれ変わって永遠の幸せを探しますが、彼(魂)は本当の幸せがどこにあるか知りません。プラーラーダ・マハーラージャはおっしゃいます。「自分の至高の利益はヴィシュヌ、万能の至高神に至ることであるのを、誰も知りません。」

第13段落
自分の本当の利益(が何なのか)を知らず、私たちは何度も生まれ変わっては目的も無く物質的な存在の海の上を航海しています。そして、行為と反応の波に翻弄され、私たちはそのような不吉な旅をすることによる苦しみの大きさを確かめることができません。

私たちは、自分の旅の目的は完全真理、ヴィシュヌ、あまねく存在する至高神に到達することであるのを知らねばなりません。シュリー・クリシュナはこれを、すべてのことはヴィシュヌ、すなわちヤジニャの満足のために行われなければならない、と言って確認なさいます。

リグ・ヴェーダの中で同じ真理が描写されています。「ヴィシュヌは至高の神であり、そのためすべての従属的な神々はヴィシュヌと主の蓮の御足に依り頼む。」ヴェーダの著者は至高の人格神ご自身です。したがって、主のバガヴァッド・ギーターはヴェーダのすべての教えの最良の要約です。

それに関して疑いの余地はありません。したがって、シュリー・クリシュナの教えは、もしも私たちが仕事の車輪の呪縛から自由になりたいと望むなら、私たちはすべてのことをヴィシュヌとヴィシュヌの満足だけのためにしなければならない、ということです。

第14段落
かつて、インドの人(今では「ヒンズー」と誤って名付けられている)は、ヴァルナーシュラマ・ダールマ、あるいはサナータナ・ダールマ、すなわち人間の社会(affairs:状況、業務など)を4つの社会的な秩序と4つの霊的な秩序に従って組織するシステムに従っていました。

社会の秩序の上の3つの階層に属する者―――すなわちブラーマナ(指導的な階層)、クシャトリヤ(管理的な階層)、そしてヴァイシャ(生産的な階層)―――は皆、ヴァイシュナヴァ主義、すなわちすべての行為を至高神、ヴィシュヌに捧げる(centering every action upon the Supreme Deity, Vishnu)生活を送ります。

4つの霊的な秩序のすべて―――学生、家庭人、引退者、そして放棄階層者―――において、特に家庭人の階層において、ヴィシュヌが崇拝されていました。特にブラーマナの家庭人は例外なくヴィシュヌを崇拝します。そして今でもなお、それらのブラーマナたちの子孫は、自分の家庭の神(像)としてヴィシュヌを崇拝し続けています。

第15段落
これらの霊的に文化的な人々は、すべてのことをヴィシュヌのために行います。それぞれの能力に応じて彼らは食べ物を買い、それをヴィシュヌの崇拝のために料理します。そして、彼らがヴィシュヌを満足させるために捧げた食べ物の残りはプラサーダム―――「主の慈悲」、すなわち主の食事の残り物―――になり、彼らによって食べられました(訳注:彼らはそれを食べました)。

過去において可能であり、今日でさえあちこちでまだ行われていることは、時間と場所と人々に合うように多少の都合をつけることによって、人生のすべての側面で為され得ます。このようにして、すべての人が行為と反応の呪縛的な網の目から自由になることができます。
。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
ほんの少しですけど、今日はこれだけ載せます。
[PR]
by ammolitering4 | 2011-12-27 23:42 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(0)

クリスマス

昨日はクリスマスだったので、教会に行きました。この時季に日本にいるときは、いつも姉のバプテストの教会に行くのです。私は幼稚園の頃から賛美歌を歌ったり「主の祈り」を唱えたりしていました。家が信仰深かったからではなく、単に家から近いキリスト教の幼稚園に通っていたからです。もちろん何のことやらさっぱり分からず、「手を合わせろ」と言われれば合わせ、「光の子ども~」と歌えと言われれば歌い、言われるままに「我らにニチヨウの糧を与えたまえ」とつぶやきました。私はこれをずっと「日曜」の糧と思っていたのです。ご飯は日曜日の分だけお願いすればいいのだろうか、と、いつも不思議でした。

小学校になってからは、バプテストの教会に通いました。無宗教の両親が私と姉を無理矢理通わせていたのですが、タダでオルガンなど習えるかもしれない、という打算があったようです。今思えば、日曜日だけでもタダでうるさい子供を見ていてもらえる、という計算もあったのでしょう。献金の10円玉でも持たせればいいだけで、おやつも出ますしね。私の個人的な楽しみはキラキラのシールをもらえることでした。しかし、こうして打算ばかりで図々しく通っていたため、説教の内容をしっかり自分のものにすることは全然できませんでした。

私が知りたいことは、教会では教えてもらえませんでした。聖書の内容も納得できませんでした。これも今思えば、分からなくて当然だったのです。私が出会ったキリスト教では、私という存在、神様が聖書を通じて語りかける対象である私という存在が、いったい誰なのかを教えてもらえなかったのです。牧師さんたちや聖書勉強会の人たちは、それぞれが「私はこう思う、ああ思う」と言いました。それはどれも体の人間を「私」と見なして語るものであり、それぞれの人が自分なりに考えて解釈したものでした。精霊、という言葉も何度も出てきますが、これも具体的に何なのか理路整然と説明してくれた人はいませんでした。

クリスマス礼拝の説教では「はじめにことばがあった~すべてのものはこれによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」という節が語られました。牧師さんは「この節は誤解されていると思います」と前置きして説明をなさいました。「神様は世界を作り、そこに私たち一人一人を作られた。この世界にあるすべてのものは、つまりあなたも私も、神様のことばによって作られた。だから、この節は”あなたは在ってよい、あなたは生きよ”という意味なのだ」というものです。彼は、震災で両親を亡くした少女が生き残った祖母に「おばあちゃんが代わりに死ねばよかったのに」と言ってしまった、悲しい逸話を紹介しました。震災で大勢の方が亡くなって生と死が身近に感じられる今年の説教としては、それはとても説得力のある解説かもしれません。上手な説教をなさるといって評判の牧師さんなのです。

でも、私はどうも納得できないのです。「誤解されてる」とおっしゃる彼の解説もまた誤解である可能性はないのでしょうか。「私たち一人一人」、あるいは「すべてのもの」に動物は含まれないのでしょうか。「存在してよろしい、生きなさい」というメッセージも、人間の形で地上に在ることが生きることであるのなら、「いえ、もう結構です、辞退します」と本気で思う人も少なからずいると思うのです。まあ、そういうことを考えたクリスマスでした。
d0152550_21325479.jpg

[PR]
by ammolitering4 | 2011-12-26 22:15 | Comments(0)

第1章 36段落から最後まで

至高神のメッセージ第1章36段落から最後まで

第36段落
したがって私たちは、他者のために善を為そうと最善を尽くしたが、あらゆる正直な努力にも関わらず失敗したすべての人々に、アルジュナにならって、シュリー・クリシュナ、あるいは主の真正なる従者たちに近付くことを勧めます。

そうしなければ、もしも人が誤った利他主義の感覚から他者の利害を自分のものとして扱うなら、人は幾らかの利得、崇敬、あるいは栄誉という形で一時的な利益を得られるに過ぎないからです。

第37段落
ヒトラー、ムッソリーニ(訳注:原文はa Hitler, a Mussolini)、あるいはそのような物質主義的な説得をするいかなる指導者も、暴力的あるいは非暴力的な施策によって、自分に従う者たちに「一緒に良いことをしている」という思い込み(mental concoction、精神的なでっち上げ)を提供するかもしれません。

そして、そのようないわゆる慈善という行いによって、指導者は自分に従う者たちから、しばらくの間は(功労の)認識を得るかもしれません。しかし、この手の指導者が「良くしてあげよう」と努力した対象である信奉者たちは(訳注:このような指導者たちは人々のために良かれと思って努力をするのですが、彼に付き従う人々は)、そのような一時的な恩恵をもたらす働きからは決して永続的な利益を得ることができません。

すべてのそのような「慈善的」な活動が発展するにつれて、空虚さが感じられるようになります。事実、従う人々はこのようないわゆる「指導者」によって計画された道を辿ることによって、ますますの苦しみに入れられます。

もしも目の見えない人が、別の目の見えない人が道を渡るのを助ける振りをするなら、そうすれば目の見えない指導者と目の見えない従う者の両方が、どこかの見えない溝の更なる暗闇に落ちるでしょう。超越的な知識のない者は、ちょうど目の見えない人のようです。そのような目の見えない人は、他の者たちを光に導こうとすることができるようになる前に、まず自分の盲目性を根治しなければなりません。

第38段落
たまたまインドに生まれたすべての人は、他の人に利益を与える潜在力を持っています(is a potential benefactor of others)。なぜなら、古代から現在まで、超越的な知識の文化が最も詳しく表されてきたのはインドの地においてだからです。

長い間、インドはバーラタヴァルシャとして知られていましたが、そのバーラタヴァルシャの聖人たちや賢人たちは、決して体と心の必要性だけを満足させようとはしませんでした。彼らはいつも、物質的な体と心を超越した霊魂の知識を培いました。

今でも聖人たちと賢人たちは、様々な困難にも関わらず、そうしつづけています。しかし、もしもインドの人々がまず自ら超越的な知識を得ること無くして他の者たちに利益をもたらそうとするなら(to do good to others)、それは全くの愚かさです。

第39段落
さて、もしも私たちが超越的な知識を得たいなら、私たちの最初の義務は、霊魂は永遠なる真理であるということを理解することです。霊魂の周りに育つ体と心という外部的な要素は、すべて相対的、あるいは部分的な真理です。バガヴァッド・ギーターの第2章において、至高の人格神はこの事実を詳しく説明なさいます。

第40段落
「この体にあまねく行き渡る霊魂は永遠であり、そしてそのため人は、誰も永遠に存在する霊魂を滅ぼすことはできない、と理解すべきです。物質的な体は滅びる運命にありますが、体の所有者、すなわち魂は永遠です。したがって、おお、バーラタの御曹司よ、この永遠の真理を知り、あなたは戦うべきです。」

第41段落
「霊魂が(誰かを)殺すことができると考える者、そして霊魂が殺され得ると考える者の両方が、霊魂はいかなるときも殺す者でもなく殺されることもないという事実を知りません。霊魂は決して生まれず、死ぬこともできません。

そして彼(霊魂)は永遠であるため、彼(霊魂)には過去も現在も未来もありません。非常に古いのに、彼(霊魂)はいつも若々しく、そして彼(霊魂)は、体が滅ぼされた後でさえ、決して滅ぼされません。霊魂は永遠で滅ぼされ得ないと理解している者―――どうして彼が誰かを傷つけたり殺したりできるでしょうか?滅ぼされるのは外側の体と心だけです。」

第42段落
「体と心はちょうど人の衣服(outer clothes)のようなものです。衣服が古くなると、人はそれを捨て、一揃いの新しい衣服を着ます。同様に、魂が死のときに自分の古い体を放棄するとき、彼(魂)は新しい体をまといます。」

第43段落
「霊魂は決して鋭い刀で切られず、火によって焼かれず、あるいは水や空気によって影響されることもありません。すなわち、霊魂は永遠に滅ぼされ得ず、燃えず、蒸発し得ず、そして腐食され得ません。彼(霊魂)は恒久的であり、あまねく存在し、そして永遠です。

彼(霊魂)はいかなる人間の言語によっても説明され得ず、いかなる人間の心によっても、完全に想像され得ることもありません。彼(霊魂)は、いつも変化し得ない状態に留まります(訳注:「霊魂は決して変化しません」)。これらすべての事実を知り、人は体の死を嘆くべきではありません。」

第44段落
バガヴァッド・ギーターの言語において、霊魂はクシェトラ・ジニャ、すなわち「場を知る者」と呼ばれ、一方で、霊魂の覆いである体と心はクシェトラ、すなわち「場」と呼ばれます。バガヴァッド・ギーターの13章において、至高の人格神シュリー・クリシュナは、クシェトラとクシェトラ・ジニャの主題について、また、プラクリティ(楽しまれる存在であるところの、自然、すなわち現象的な世界)、およびプルシャ(現象的な世界を楽しむ者)についても議論します。

主クリシュナは、この現象的な世界で生じるすべての行為と反応はクシェトラとクシェトラ・ジニャ、すなわち自然と自然を楽しむ者の、この組み合わせの行為と反応である、と説明なさいます。例えば、田んぼ(rice padd)は田(field)と(それを)耕す者の行為と反応によって作られ、また、子供はプラクリティ、すなわち楽しまれる者と、プルシャ、すなわち楽しむ者の組み合わせによって得られます。同じように、現象的な世界の中で私たちが見るもののすべては、クシェトラとクシェトラ・ジニャのこの組み合わせによって生じます。

第45段落
クシェトラ・ジニャは生きた霊であり、一方クシェトラは生命体が利用する(to exploit、搾取する、食いものにする)物質です。物理学、化学、天文学、薬理学、経済学、性科学、そして他の物質的な化学はクシェトラの物質を扱います。

しかし、クシェトラ・ジニャに関する科学、すなわち霊的な存在を扱う科学は、超越的な知識を明かします。知識を本当に培うこと(real culture of knowledge)は、したがって、クシェトラではなくクシェトラ・ジニャに関係します。私たちは(のちほど)これらすべての事柄をもっと詳しく論じます。

しかし今は、私たちは単に、クシェトラ・ジニャ(プルシャ、すなわち楽しむ者)がすべての知識の中心的な対象であると知ることによって満足するのが良いでしょう(we may be satisfied simply by knowing~)。なぜなら、このクシェトラ・ジニャだけが、物質的な体と心、および(それらと)同類の物理的な要素と一体化してすべてを作り出すからです。

第46段落
クシェトラ・ジニャは永遠の霊であり、一方でクシェトラは一時的ではかない物質です。この永遠の真理は、ヴェーダの中で「ブラーマ・サテャム・ジャガン・ミトヤー」という格言において要約されています。「霊は事実であり、世界は偽りの影である」。

「偽りの影」と言うとき、人は「世界は一時的であり、しばらくの間存在しているに過ぎない」と理解すべきです。しかし、人は誤って「世界は全く存在を持たないのだ」と考えるべきではありません。私たちは本当に自分の一時的な物質の体と心を持っており、そして私たちは自分の体と心の存在を否定することによって自らを笑い者にすべきではありません。

同時に、私たちはいつも、体と心は一時的な配剤であることを覚えていなければなりません。しかし、この体と心に閉じ込められている霊は永遠であり、破壊され得ない真理です。誰も永遠の霊を破壊することはできない―――それが今、私たちが理解しなければならないことです。破壊され得ない霊は、このため、暴力と非暴力の概念を超えています。

第47段落
今日では、世界中が濃密な物質的な体と希薄な物質的な心のための一時的な配剤に関する知識を培うことに夢中になっています。しかし、体と心よりももっと大切なのは、何ら正しく知識を培われることもなく脇に追いやられている霊です。

その結果、無知の闇が世界を覆い、大いなる社会的な不安、騒乱、そして苦しみをもたらしました。人はどれくらい長く外的な幸せを楽しむことができるでしょうか?それは、胃に何らの栄養も入れずに衣服を洗うようなものです。本当の栄養は、すべての体一つ一つに生命体として存在する永遠の真理、つまり破壊され得ない霊に関する知識を得ることから来ます。

第48段落
生命体は非常に小さく、最も小さな原子よりも小さいものです。学識のある専門家たちは、魂の大きさはおよそ髪の先の千分の一だと言いました。このため私たちは、体のどの一部にほんのわずかに触れただけでも私たちが感じる敏感さは、この生命体が体全体に存在していることによるものである、と理解すべきです。

しかし、この小さな生きた火花が体から去ったとき、体は死んで横たわり、地に倒れ(prostrate、腹ばいの状態)、そしてそれは何らの痛みも感じません―――たとえ斧で滅多切りにされても。

第49段落
この小さな生きた火花、すなわち霊が物質的なものでないということは、いかなる物質的な科学者も、物質的な物質のいかなる組み合わせによっても生命の火花を作り出せていないという事実によって暗示されています。

物体を操作することによって作られ得る物は何でも、破壊されることができ、一時的です。しかし、生きた火花は破壊され得ないため、物質的な科学者たちは、生きた火花は物質的な科学によって複製され得ないという事実を受け入れねばなりません。彼らは原子爆弾を作ることはできますが、生命の霊的な火花を作りだすことはできません。

第50段落
物質的な科学者たちは世界中で大変な発達を遂げましたが、残念なことに、これらの発達した科学者たちは、常に最も大切な主題である生きた火花、すなわち霊について理解する試みを全くしませんでした。これは全くの無知です。これが彼らの救いの無さです。

第51段落
シュリー・ジャガディッシュ・チャンドラ・ボーズ、アイザック・ニュートン卿、ベンジャミン・フランクリン―――これらの人々のそれぞれの優秀な脳(brain substance)は、彼らのそれぞれの体から生命(living substance)の小さな火花が離れたと同時に、完全に機能を停止しました。

もしも化学的あるいは物理的に物質を組み合わせることによってこの生命(living substance)を作り出すことが可能であるなら、それならきっとこれらの偉大な科学者たちの弟子などが彼らを生き返らせ、そうやって世界への彼らの科学的な貢献を長引かせたでしょう。

しかし、どの物質的な科学者も、どんな物質的な方法によっても生命の火花を作り出すことはできず、そして、未来にはそうできる、と言う者は最大の愚か者であり、最大の偽善者です。生きた霊は永遠です。彼には終わりも始まりもなく、そのためいかなる方法によっても決して作り出され得ません。

それに、すべての作られたものには滅亡があるというのは、私たちの経験の範囲内のことです。(訳注:「形あるものは皆壊れる、というのは、私たちも経験上よく知っていることです。」)霊魂の永遠性は、それが物質的な手段によって作り出され得ないということによって証明されます。

第52段落
そしてそのため、生命の火花を滅ぼすことができると考える者もまた、それ(霊魂)について何も知りません。したがって至高の人格神シュリー・クリシュナは、断固として、生命体は霊であるため決して生まれない、と宣言なさいます。生命体は永遠に存在し、過去も現在も未来も持ちません。

霊は決して、物質的な体が滅びた後でさえ、滅びません。また、体が物質的な誕生と死を繰り返すことによっても、成長することも衰えることもありません。何よりも古いにも関わらず、霊的な存在(spiritual entity)は常に若々しくて新しいのです。彼(霊)はいつでも、常に死と滅亡の影響を受ける物質的な体と心とは異なっています。

第53段落
ここで人は、「なぜ主クリシュナはこれらすべての超越的な知識をクルクシェトラの戦場でアルジュナに説明なさったのですか?」と問うかもしれません。答えは単純明快です。軍事的な義務を遂行するために行われる戦いは、魂ではなく体だけに関係するからです。

ちょうど、たくさんのご馳走を食べることが心の飢えではなく胃の飢えだけに関係するようなものです。これらの物質的な影響は決して永遠なる生命体には関係しません。なぜなら、生きた霊は征服され得ず、燃えず、湿らされることなく、乾くこともないからです。

物質的な物だけが切られたり、焼かれたり、湿らされたり、空中で乾かされたりされ得ます。このため、アルジュナを励まして戦わせるため、クリシュナは様々な方法で「生命体すなわち霊魂は完全に非実質的(metaphysical、抽象的、哲学的、形而上学的な)である」と説明しました。

第54段落
インドで「サナータナ・ダールマ」、すなわち「永遠の宗教」として知られているものは、この永遠の、あまねく存在し、変化し得ず、滅ぼされることのない生きた霊のためのものです。つまり、本当の宗教は、濃密な物質の体と希薄な物質の心に焦点を当てた様々な宗教的な信仰を超越しています。

サナータナ・ダールマは、単にある特定の人々、場所、あるいは時代(time)のためのものではありません。そうではなく、それは永遠で、あまねく存在します。サナータナ・ダールマ以外のすべての宗教は、身体的あるいは心理的な変化を培うためにあります。

第55段落
様々な人々、場所、そして時代の影響は、私たちが自分たち自身をヒンズー教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒、社会主義者、ボルシェビキ(訳注:ロシア共産党の前身であるロシア社会民主労働党の党員、あるいは単に共産主義者)、などと区別して考える(to designate)ようにさせました。(訳注:「~の影響によって、私たちは~と考えるようになりました」)

特に宗教の分野においては、様々な人々、場所そして時代に応じて、私たちは多くの種類のはかない身体的および精神的な配剤、そして(訳注:原文ではandが抜けている)様々な宗派を確立しようとしました。そしてまさにこの理由のため、私たちは自分が「宗教を変える」のを想像することができます。

今日ヒンズー教徒である者は翌日にはイスラム教徒になるかもしれず、あるいは今日イスラム教徒である者は翌日にはキリスト教徒になるかもしれず、等々。しかし、私たちが超越的な知識に到達して、サナータナ・ダールマ、すなわち生命体―――霊魂―――の本当の永遠の宗教において確立するとき、そのとき、そしてそのときだけ(訳注:「そうなってはじめて」)私たちは世界で本当の、否定され得ない平和、繁栄、そして幸せを得ることができます。

第56段落
非常に小さく、私たちの物質的な目には見えないので、霊魂は、不可解、知覚し得ないなどと呼ばれます。それでも霊魂は永遠であると理解されます。なぜなら、彼(霊魂)は決して誕生、死、病および老齢や、他のいかなる身体的な変化にも影響されないからです。

したがって、もしも私たちがこれらの身体的な変化から解放されて永遠の平和と幸せを得たいと望むなら、霊魂の永遠の宗教の精力的な普及がなければなりません(訳注:「霊魂の永遠の宗教を精力的に普及させなければなりません」)。しかし私たちは、この魂の永遠の宗教は決して人や場所や時間のいかなる限界(limitation、制約)によっても束縛されないということを、いつも覚えているべきです。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
どうもずいぶんお待たせしております。なぜだか人生がごちゃごちゃとしてまして。。。しなきゃいけないことを書き出して、優先順位をつけて、多少なりとも心を落ち着けようと思っています。何と申しましょうか、犬みたいに走り回ってるうちに大事なことをすっかり忘れてしまう、という落とし穴にはまりこんでる気がします。私は一応しろうと絵描きだったはずなのですが、それもすっかり忘れさられています。続きはまたいずれ載せます。どうぞ気長にお待ちください。

それにしても思うのは、体はナマモノのマネキンだなということです。夜にはいつもプラブパーダのご本を拝読するのですが、体という超巨大ロボットを運転してる自分を想像しながら読んでます。私が運転席から降りれば体は用無しになって、北朝鮮の将軍様の死体と違ってカネがかけられることもないのでほっとけば腐敗していって、、、しかしそれが今は動いてるんですよね。すごいことです。私はとろいので車の運転はできないけど、体の運転もあんまり上手ではありません。体操選手とか見てると、私があれをやったらいっぺんにこの体は廃車だな、と思います。それがどうした、という要点のない文章を書いてますが、夜に一人でひっそりとプラブパーダのお話を伺っていると、いろいろと想像力が暴走するものであるようです。

それでは皆様、どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。そうは言っても法王様も衰えが目立ち始めていらっしゃいますし、来年はアメリカもロシアも大きく動くだろうし、地球全体で地盤も動く気まんまんみたいだし、北朝鮮もアラブもアフリカもじーっとしてる様子はないし、中国もヨーロッパも、もちろん日本も危うい、しかも大気圏の外も何やら方々で慌しいみたいだし、、、進行するカリユガの名に恥じず何かと騒動の多そうな気配が充満してますが、嵐の雲の向こうには(最近ちょっと活動期みたいな)太陽があるように、クリシュナのことを心のどこかで思い出していられるといいなと思います。
[PR]
by ammolitering4 | 2011-12-21 19:40 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(2)