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第1章 27段落から35段落まで

第27段落
シュリーラ・サナータナ・ゴスヴァーミーは、これらの言葉をもって自分の立場を表しました。事実は、彼はそのとき、超越的な知識について本当に学識がありましたが、私たちのような物質主義的な愚か者であるふりをしました。シュリーラ・サナータナ・ゴスヴァーミーは、自分は超越的な知識を持たないのに人々が自分を偉大な指導者や博学な学者と呼ぶのを許すことについて、自分を非難しました。

間接的に、彼は、偉大な学者、偉大な指導者、偉大な哲学者、偉大なマハートマー、あるいは偉大なパラマハムサとして名声を得るために、自分を宣伝して同じような愚か者の安っぽい票を集める者よりもひどい物質主義的な愚か者はいない、と保証しました。

(彼らはこれらすべてのことを)自分の本当の自己、すなわち霊魂に関する何らの知識も無くして、そして魂そのものに何らの利益を与えることも無くして___単に一時的な物質の体と心の幸せと苦しみに関する事柄に時間を無駄にして、行います。(訳注:原文は上記の2つの文が長くつながっています)

サナータナは「永遠」を意味します。このように、サナータナ・ゴスヴァーミーは、生命体の一時的な体と心の一時的な幸せだけではなく、彼らの永遠の幸せに興味がありました。人がこのように永遠の魂の永遠の幸せに興味を持つようになるとき、彼はサナータナ・ゴスヴァーミーの弟子、あるいは本当の「サナータナ主義者」、つまり超越主義者になります。

第28段落
現在、世界中でほとんどすべての指導者、学者、そして「マハートマー」たちは、大なり小なり、超越的な知識への何らの嗜好も持たない物質主義者です。こうして至高の人格神シュリー・クリシュナは最初はアルジュナを非難し、本当は物質主義的な愚か者である、いわゆる博学な学者たちと指導者たちに教えるために、彼をパンディタ、すなわち学者として受け入れることを拒否しました。

第29段落
ほとんどすべての現代の指導者たちは、物質的な体と心だけに関係する様々な様相の宗教性を一般化しました。しかし、彼らの中には、体と心は単に魂そのものの上着とシャツに過ぎない、ということを知っている者はほとんどいません。

単に上着とシャツの世話をすることによっては、人は本当の自己、すなわち魂に何らの善をすることもできません。事実は、魂が主要な関心事です。正気の者であれば、自分の主な関心事、すなわち自分自身そのものをないがしろにする一方で、周辺の諸事物の利益に心を砕くということはありません。

もしも彼が自分の主要な関心事の必要性の面倒を見るなら、そうすれば彼の従属的な関心事、すなわち彼の物質的な体と心は、自動的に充足されます。しかし、誰も従属的なものに奉仕をすることによって主要なものに奉仕をすることはできません。言い換えると、単に注意深く人の外的な衣類の世話をすることによって人の内的な飢えを満たすのは可能ではありません。

第30段落
ですから、私たちが生命体について語るとき、私たちは生命力、すなわち霊魂を主要で中心的な存在として見る一方で、体と心を二つの外的な覆い、二層からなる周辺的なものとしてみなければなりません。外側の覆いは一時的な配剤であり、したがって外側の覆いに依存するすべてもまた、一時的な配剤です。

そのため、バガヴァッド・ギーターにおいて至高の人格神シュリー・クリシュナはおっしゃいます。「おお、クンティーの息子よ。冬の寒さや夏の暑さなどのすべての形の幸せと苦しみは、物質的な感覚による知覚のみによるものです。それらは自然の法則に応じて訪れたり去っていったりします。

そしてそのため、それらは、それによって私たちが惑わされることなく、忍耐されるべきものです。(訳注:そのため、私たちはそれらに惑わされずに忍耐すべきです。)これらすべての一時的な幸せと苦しみの去来に惑わされない者だけが、永遠の人生を得る資格を得ます。

第31段落
しかし、私たちの存在の現在の段階では、体と心に関する一時的な幸せと苦しみに影響されずにいることは困難です。また、現在では、私たちが体と心によって識別されない、ということを主張するのも可能ではありません。このように、超越的な知識を得ることは、私たちが自分の現在のあり方に無関心になるということを意味するのではありません。それは、私たちが幸せと苦しみの去来によって圧倒されるべきではない、ということを意味します。

第32段落
私たちは、それらの物質的な幸せと苦しみの一時的な状態の性質を知らねばなりません。霊魂に関する事柄に関して無関心であり続けるの(が馬鹿げているの)と同じように、それらを無視することは全く馬鹿げたことです。それ(霊魂)に基づいて物質的な体と心は存在しているからです。

それでも、もしも人が霊魂を理解して、そして超越的な知識への好みを育むほど幸運であるなら、それなら、体と心に関する俗世的な幸せと苦しみの最中にあってさえも、彼は(それらに)無頓着でありつづけ、超越的な平和を味わいます。

本当の平和は、存在のその超越的な水準においてのみ、得られます。それが本当の満足の状態です。もしも長い間家から離れていた後で誰かが家路につくなら、家へ向かっていることの喜びは旅に伴う苦痛を減らします。

旅の不便は家へ向かっていることの喜びの副次的なものになります。同様に、超越的な知識の力によって家へ向かっている者、至高神のもとへ向かっている者にとって、体と心の物質的な悲惨さは取るに足らないものです。

第33段落
感覚による知覚は、様々な幸せと苦痛を感じる原因です。形、味、匂い、音、そして感触は、心と相まって幸せと苦痛を与える様々な感覚による知覚です(訳注:形、味、匂い、音、感触そして心などの様々な感覚をとおして、私たちは幸せと苦痛を知覚します)。

冬には、冷たい水を浴びることは私たちに苦痛を与えますが、しかし夏には同じ冷たい水が私たちに喜びを与えます。冬には火は私たちに喜びと暖かさを与えますが、しかし夏には同じ火が私たちに苦しみを与えます。このように、火も水も、私たちに幸せや苦しみを与える本質的な力を持ちません。

しかし、それらは様々な状況における私たちの感覚による知覚の相に応じて、幸せや苦しみの代理人であるように私たちには見えます。したがって、世界に存在するものは何も幸せの対象あるいは苦しみの対象ではありません。そうではなく、幸せと苦しみは共に相対的、すなわち私たちの感覚による知覚に依存します。それらは私たちの内的な思考、感情、そして意志(willing)の過程に関連しているからです。

第34段落
しかし、そのような、偽りの自己のもとでの思考、感情、および意志の行為に関連する幸せと苦しみの一時的な感覚は、永遠に霊魂とは異なるものであり、そしてそのため、「本当ではない現実」です。このように、芸術においてであれ、科学においてであれ、俗的な学者たちが培った知識の発達は、もしもその知識が永遠なる霊魂に言及しない(without reference)ものであるなら、それは単に、物質的な体と心を取り囲んで制約する自然の幻惑的な相の顕現に過ぎません。

第35段落
本当の平和と幸せは、そのような物質主義的な知識の発達を通しては決して訪れません。そうではなく、至高の人格神シュリー・クリシュナがバガヴァッド・ギーターにおいて確認なさるように、永遠の霊魂との関連において超越的な知識を培う者、そして一時的な幸せと苦しみによって惑わされることなくそうする者たけが、誕生、死、老いと病の残酷な手を逃れ、自分の永遠の霊的な人生を取り戻すことによって本当に幸せになることができます。
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お待たせしました。ほんのちょっとですが、続きです。プラブパーダのおっしゃることって、ほんとにしみじみと「ほんとだなあ」と思います。いざそれを現実に応用できるかというとまた別問題ですけど。二極性に惑わされて振り回されないようにしたいと思います。お金がないとか、ありすぎて困るとか、あれこれ文句を言わずに忍耐できるようにならなきゃいけませんね。

これからまたしばらくお休みします。私の人生は何だかごちゃごちゃしているのです。今は日本にいます。仕事を探さなきゃいけないのですが、そうもできない中途半端なところです。私はガラス絵と仕事の翻訳とISKCONの翻訳と英語を教えるというのと、4足のわらじをはいています。つまり、どれも中途半端なのです。

しかも、11月半ばからは都合で2週間ほど旅行をするので、その準備もしなければなりません。しかし、その前にはガラス絵教室を開く予定があり、それだけでは絶対お金が足りないのであと2つくらい教室を開きたいと思っていて、しかしそれは非常に面倒臭く、英語を教えますという宣伝もしなければならず、、、どうしたらいいのでしょう。私は冬ごもりをしたいです。秋なのですが、そういう些細なことは気にしません。自分で招いてしまったこんなごちゃごちゃした人生をしばらく逃避できるのなら、梅雨時にでも冬ごもりします。

そういうわけで、皆さん、またしばらくさようなら。いつかどこかでお会いしましょう。
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by ammolitering4 | 2011-09-28 17:25 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(4)

第1章 14段落から26段落まで

「至高神の教え」第1章 26段落まで

第14段落
しかし現時点では、思想の指導者たちは一般の人々を、「私たちが住んでいる世界以外に世界はない」、そして「ここですべての平和と繁栄が得られる」と信じるように誤って導いてしまいました。そのような指導者たちによれば、物質的な体が本当の自己であり、体に関わるすべてのことを理解するということが自己認識を構成し(訳注:「自己認識とは体に関わるすべてのことを理解することであり」)、そして私たちは、体の感覚を満足させて、なんとしても体を維持すること以上の義務を持ちません。

これらの指導者たちによれば、神と、主に哲学的に近づくことは、単に脳を運動させるための娯楽的な追及、あるいは室内ゲームに過ぎません。しかし、この種の理解によっては、世界は何ら実体のあるものを得ません。

第15段落
ですからアルジュナは、自分を物質世界において幻惑されている普通の人々の部類に置き、弱さを表しました。そして、この行動によってアルジュナはバガヴァッド・ギーターが至高の人格神の超越的なくちびるから顕現するのを助けました。

至高の人格神が死を運命づけられたこの世界に降臨なさるときはいつでも、主はご自分の内密な従者につき従われています。アルジュナは至高の人格神シュリー・クリシュナのそのような永遠の内密な従者の一人であり、そのためバガヴァッド・ギーターの哲学は一般の人々の利益のために彼に直接教えられました。

第16段落
至高の人格神の純粋な献身者であるため、アルジュナはクルクシェトラの戦場においてさえバガヴァッド・ギーターの超越的な哲学を議論することができました。私たち現代人は、自分の通常の日常的な義務の間にあって、バガヴァッド・ギーターの哲学の詳細を論じる時間がないことになっています。

しかし、私たちに教えるためだけに、アルジュナはただ一瞬でさえ無駄にするのが不可能であるように見えたときにバガヴァッド・ギーターの哲学を熟考しました。これらすべてを彼は私たちのような人々のために行い、そして彼はいったんバガヴァッド・ギーターの哲学を理解すると、精力的に戦いました。

第17段落
アルジュナを典型的な現代人と同じように圧倒したように見える家族関係の親和性は、超越的な知識が欠落していることのしるしです。しかし、超越的な知識を得ることは、必ずしも普通の生活の義務を放棄することを意味するのではありません。

アルジュナがバガヴァッド・ギーターの哲学を理解したあと、至高の人格神シュリー・クリシュナは、決して彼に自分の普通に見える義務を放棄することは助言なさいませんでした。対照的に、シュリー・クリシュナによって授けられた超越的な知識を得たあと、アルジュナは前よりももっと精力的に戦いました。

私たちが超越的な知識を通して得る本当の精神は、自己を服従させることと、至高の人格神に超越的な奉仕を捧げる決意です。バガヴァッド・ギーターの趣旨はこれであり、他の何でもありません。

第18段落
アルジュナが切迫したクルクシェトラの戦いによって自分に呈された問題を解決できないでいたとき、自分の問題の解決策を尋ねるために、彼は全くの従順さをもってシュリー・クリシュナに主の弟子として服従しました。

最初は、至高の人格神はアルジュナと、友人同士が語り合うように話しました。しかし、そのような友人同士としての議論は、普通、実りのない話し合いに終わります。そのためアルジュナはシュリー・クリシュナの弟子として服従しました。弟子は自分の霊的指導者の命令に逆らうことはできないからです。それが弟子と彼の師との関係です。

第19段落
至高の人格神シュリー・クリシュナは、アルジュナが自分自身の学識に関する何らのうぬぼれもなく、そして全く無条件でご自分に服従したのを見てはじめて、バガヴァッド・ギーターの極めて重要な教えを授けました。

服従する前のアルジュナのように、私たちは一般に自分の問題を、自分の俗世的な経験から集めた独自の手段によって解決しようとします。しかし、一時的な手段によって自分の日々の身体的および精神的な困難を取り除こうとするこの試みは、いつも誤って導かれます。

第20段落
人が自分の永遠の人生を取り戻すという問題を解決しようとしない限り、この人生においても死後の人生においても、何らの平和もありえません。それがバガヴァッド・ギーターの至高の教えです。

第21段落
私たちの至高の必要性は、物質的な体と心の切望を超越した活動に関わる主題を理解することです。この、活動の超越的な水準に(訳注:超越的な水準にある活動)に至らない限り、私たちは本当の平和を得ることができません。

この霊的で超越的な水準は永遠の人生の水準であり、それなくしては物質的な体と心は存在しません(would have no existance)。しかし、現在私たちは、自分たちの物質的な知識を大いに誇りに思っているにも関わらず、この永遠の人生に関する何の情報も持ちません。

第22段落
私たちは大なり小なり、永遠に生きている魂を今は覆っている外的で物質的な区分に浸っています。そして、自分をこれらの外的な区分に浸らせてしまったため、私たちは非常に多くの苦しみと苦闘に直面します。

私たちがそのような区分から自由になるとき___私たちの本当の性質が明らかになるとき___そのとき、そしてそのときだけ、私たちは本当の幸せと平和という、自分の夢を実現します。学識ある科学者たち、偉大な政治家、そしていわゆるマハートマーの自負を通して物質世界の困難を取り除こうとする私たちの現在の試みは、霊的で超越的な水準には至らず、単に魂に様々に色とりどりの身体的で精神的な区分という「衣装」をまとわせます。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは、これらの試みは必ず期待外れに終わる、と宣言なさいます。

第23段落
シュリー・クリシュナは、アルジュナが弟子としてご自分に服従したとき、言うなればアルジュナを非難しました。「アルジュナ、私はあなたが学識のある人のように語っているのを見ます。しかし、実際はあなたはほとんど知識を持ちません。本当に学識のある人は誰も嘆かないことを嘆いているからです。」

第24段落
学識のある人は、時間の流れの中で現れたり消えたりする物事を嘆くことは決してありません。私たちが自分の母親の子宮から得る物質的な体は、しばらくの時間の後で、場合によって灰、土、あるいは糞に変わります。

そして、偽りの自我、知性、そして心からなる希薄な物質の体は、魂が解放されるときに同様に消えます。したがって、本当に学識のある人は、物質的な体と心、あるいは物質的な体と心にだけ関係のある幸せと苦しみをあまり重視しません。

第25段落
他方、そのような学識のある人は、霊であるため体と心を超越している魂そのものの幸せと苦しみに多いに重要性を置きます。この主題に関する知識は超越的な知識と呼ばれます。アルジュナは、完全に物質主義的な愚か者である私たちに教えるためだけに、何の超越的な知識もない物質主義的な愚か者として振舞いました。

主のほうはと言えば、至高の人格神は、バガヴァッド・ギーターの超越的な知識をアルジュナに授けました。主はアルジュナがそれを聞くのに最もふさわしい人であると思われたからです。

第26段落
ちょうどアルジュナのように、ベンガルのナワブ・フセイン・シャーの下の首相 ---後の主チャイタンニャの主要な弟子たちの一人、サナータナ・ゴスヴァーミーとして知られたサーカラ・マッリカ ---は、ベナレスで主に会ったとき、主チャイタンニャの前で自分自身を物質主義的な愚か者として表しました。彼は主チャイタンニャの前で自分の立場を次のように表しました。

「超越性に関する知識を持たない普通の人々は、私を偉大な指導者、学者、マハートマー、パラマハムサなどと呼びます。しかし、私は自分が本当にそうなのかと疑っています。彼らは私を、(本当は)そうでないものと呼ぶことによって、私を間接的に嘲っているのかもしれません。(訳注:私はそのような偉人ではないのに、そうであるかのように呼ぶことによって、彼らは実は私を馬鹿にしているのかもしれません。)

私は自分がありのままの自分について何の知識も持たないということを知っています。しかし、それでも物質主義的な愚か者は私を学識がある(者)と呼びます。これは疑いもなく(悪い)冗談であって、嘲りです。
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by ammolitering4 | 2011-09-28 13:39 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(0)