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第1章 第13段落まで

1、超越的な知識

第1段落
私たちは、自らの最も誠実でへりくだった敬意を私たちの大変慈悲深い霊的指導者、堕落した者の救済者、バークティスィッダーンタ・サラスヴァティー・ゴスヴァーミー・プラブパーダ睨下に捧げます。睨下は私たちの目を、彼がすべての人々の利益のためにお明かしになる超越的な知識という道具をもって開くことによって、無知の闇を消し去りました。

第2段落
一般に、私たちは自分たちの二つの小さな目を非常に誇りに思っています。そして、うぬぼれで驕り高ぶり、私たちはいつもそれらを使ってすべてを見ようと熱心にしています。しかし、私たちは、自分が今見ているものは何であれ無知の闇に覆われており、そしてそのため、それらは誤って認識されているか、あるいは部分的にのみ知覚されているということを知りません。

私たちが、単に対象に自分の目の力を当てはめることによってすべてを見ることができる、というのは、事実ではありません。毎朝、太陽が昇るとき、私たちはその巨大なものをまるでそれが小さな円盤であるかのように見ます。

もちろん、太陽は私たちが住む地球よりずっと大きく、そしてそのため、毎日毎朝、私たちの自己に依り頼んだ目のうぬぼれは試みに遭わされ、不条理に引き下げられます(reduced to absurdity)。( absurdityは、矛盾、不条理、愚かさ、など。何でも正しく見えるとうぬぼれていても、毎度毎度欺かれる、という意味。)

私たちの目は、一定の好ましい状況の下においてのみ、知識を集めることができます。私たちは、自分たちから離れすぎているものを見ることができません。私たちは闇を突き抜け(て見る)こともできず、例えばまぶたなど、目に大変近いものを見ることもできません。

このように、私たちは物質自然によって作られた特定の好ましい状況下においてのみ、自分たちの目を誇りに思うことができます。そうでなければ、すばらしい目を持っているとはいえ、私たちは物事をその正しい見方において見ることができません。目について言えることは、私たちが知識を集めるのに使う他の感覚についても言えます。

第3段落
これらの状況の下で、今現在私たちが経験しているものは何であれ、完全に制約されており、したがって間違いや不完全さに陥りやすいものです。これらの誤った印象は、決して「過ちを犯した者」自身、あるいは同じような間違いを犯しやすい別の者によっては改正され得ません。

第4段落
もしも私たちが何かの物体を闇の中で知覚したいと思うなら、私たちは単に自分の目だけを使うことはできません。私たちは自分の知覚を助けるために他の何かの方法に頼らねばなりません。ですから、闇の中では物体は完全には知られ得ません。

そのような状況においては、たとえ私たちが触れることその他によって何らかの知識を得ても、それはすべて間違っているか、あるいは不完全です。その状況はちょうど、象に出会った一団の目の見えない人々が、互いにその妙な新しい生き物を描写しようとするようなものです。一人の人は鼻を触って、「この生き物は大きなヘビのようだ」と言います。別の人は脚を触って、「いいや、それは巨大な柱のようだ」と言います。そのようなことが続きます。

第5段落
深い闇の中にあるものを知覚するためには、ただ一つの方法しかありません。誰かが闇に光を照らしたときにだけ、物事をありのままに見ることが本当に可能になるのです。同様に、知識の明かりは私たちの教師によって灯されます。そして私たちは、自分の教師の恵みによってのみ、物事をありのままに見ることができます。

ほんの生まれ落ちたばかりのときから、それが父、母、あるいは先生であれ、私たちは自分の教師の恵みによって知識を集めることに慣れています。私たちは、受動的に聞くことによって彼らから経験を集めます。そのような教師の助けによってのみ、私たちは段階的に前進する知識の道を進むことができます。

第6段落
アルファベットを習うことに始まり、大学の過程(career)を終了することに至るまで、私たちは自分の教師の恵みによって知識の道を前進します。そして、もしも私たちがさらに前進して超越的な知識を得たいと望むなら、私たちはまず、自分を道において導いてくれる、資格のある超越的な教師を探さねばなりません。

私たちが学校や大学で集める知識は、今世において何か特定の課題を学ぶことにおいて一時的に私たちを助けるかもしれませんが、この知識は私たちの超越的な知識への永遠の必要性を満足させることはできません。それを私たちは、何度も生まれ変わり、毎日毎日、毎時毎時、求めています。

第7段落
どんな課題においても、成功するためには、つまりその特定の専門において有利になるように働くためには、その課題を修めた人と関係を築く必要があります。学究的な大学で学位を取得するためには、私たちはまず、その学校との関係を築く必要があります。私たちはその学校の教師たちの指示に従わねばならず、彼らの指示に従って好意的に学ばねばなりません。

これは、望む成功を手にするために絶対に必要です。同じように、もしも私たちが本当に心から永遠の人生の原則を知りたいと思い、物事をそれらの本当の見方において見たいと思うなら、私たちは自分の目を本当に開けて私たちを無知の手から引き上げることのできる教師との関係を築かねばなりません。この、霊的指導者に近づくという方法は、永遠の真理です。誰もこの永遠の規則を破ることはできません。

第8段落
入門の過程は、私たちが霊的指導者との超越的な関係を築く日から始まります。ウパニシャッド、および同種の聖典は、すべての聖典に精通しており、超越的な知識において完成を得た霊的指導者の足元に畏敬と崇敬をもって近づかねばならない、と定めます。超越的な知識において完成を得るためには、人はその線上における文化、実践、および教育によって、師弟継承、霊的な連結の線を受け入れねばなりません。

様々な霊的な協会や共同体の首長は、しばしばこの霊的な完成の水準を欠いており、そしてそのため彼らは霊的に指導的であるための資格を持ちません。したがって、形式上、あるいは習慣上の事柄としてそのような職業的な霊的指導者に近づくのは無駄です。霊的な完成を得ることは、霊的な弟子という経験を経ずしては決して可能ではありません。

第9段落
至高の人格神であって理想的な霊的指導者であるシュリー・クリシュナは、バガヴァッド・ギーターの哲学をご自分の弟子であるアルジュナ元帥に語りました。ここに霊的指導者と弟子の間の関係の完璧な例があります。アルジュナはシュリー・クリシュナの最も内密な友人でした。そしてそのため、シュリー・クリシュナは彼に、すべての聖典の真髄、バガヴァッド・ギーターを説明なさいました。

第10段落
私たちはいつも自分の俗世的な義務を遂行することにとても忙しくしているので、一般に私たちは、胃とそれに関連する事柄、という俗世的な哲学以外には何らの知識も理解したいと望みません。私たちは、この腹部の哲学の多くの枝と小枝を様々な方向に広げました。そしてそのため、私たちは自分がそれを求めて永遠に幾世も幾世も苦しんでいる、永遠の人生を得るという哲学を理解するための時間が全くありません。

第11段落
クルクシェトラの戦場でクリシュナがアルジュナの戦車を相対する二つの軍隊の間に置いた後、アルジュナが戦うことを拒否したとき、彼は普通の人間のように、哲学的な無知と弱さによって圧倒された振りをしました。それからクリシュナは彼をバガヴァッド・ギーターの知識をもって啓蒙しました。

第12段落
このようにして、いつの時代にも、至高神と主の愛する内密な献身者たちは、世界の人々の無知の闇を消し去ることによって、自分たちの無限の慈悲を授けます。もしも彼らが私たちの上にそのような慈悲を授けて下さらなかったなら、私たちは決して超越的な知識を得ることはできません。

第13段落
時として、至高の人格神ご自身が降臨なさり、超越的な知識を教えます。別のときには、主はこの親切な行いをするために、ご自分の内密な従者たちに代理を命じられます。すべてのメシアたち、すなわち至高神の王国の超越的なメッセージを説くために過去に訪れた、あるいは未来に訪れる聖人たちは、至高の人格の最も内密な従者と理解されます。

主イエス・キリストは至高神の息子として現れ、モハメッドは自分自身を至高神の従者であると述べ、そして主チャイタンニャはご自分を至高神の献身者として現されました。しかし、彼らの身分が何であれ、すべてのそのようなメシアは一つのことについて同じ意見を持っていました。死が運命づけられているこの世界には永遠の平和と繁栄はない、ということです。

彼らすべてが、私たちは平和と繁栄がその本当の存在を持つ別の世界へ行かねばならない、と同意しました。私たちは、死が運命づけられているこの世界を超えたところにある神の王国の中に、永遠の平和と繁栄を探し求めねばなりません。至高の人格神を受け入れなかった仏陀やシャンカラーチャーリャのような宗教改革者でさえ、この物質世界に永遠の平和と繁栄を得る何らかの可能性がある、とは教えませんでした。
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by ammolitering4 | 2011-07-10 15:43 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(0)

至高神の教え はじめに

至高神の教え(Message of Godhead)

目次

*はじめに    1ページ
*第1章   超越的な知識      7ページ
*第2章   カルマ・ヨガ:超越的な結果を伴う働き   27ページ
                      (原文は誤って25ページとされている。)
*附録    ハレ・クリシュナの真言を唱える   68ページ

(原文には附録の記載なし。)
(翻訳に使ったのは2007年1月発行の第8版。原文では目次の章の記載方式に誤りがある。ページ数の誤りは初版から形式を移行したときの校正に不備があったためと思われる。附録にも同じ理由によるものとみえる誤りがある。)


はじめに
第1段落
現在、私たちは主に二つのことに関心を持っています。一つは私たち自身、そしてもう一つは私たちが住んでいるところです。言い換えると、私たちはつまり、私たちの肉体的、およびかすかな体に関するあらゆる事柄、そして世界全体とそれに関連するすべての事柄に関心があります。

しかし、私たちを超えたところにいる人々、超越主義者も存在し、彼らは自分たちの体と心と世界全体だけでなく、それらを超えた超越的な事柄にも関心があります。超越主義者たちは、完全真理に大いに関心があり、そして相対的な真理にはあまり関心がありません(much less with)。

第2段落
これらの超越主義者たち(ふつうは聖人、哲学者、宗教改革者、神の使者(メッセンジャー)などとして知られる)は、世界の様々なところに様々なときに現れます。彼らは完全真理および人類に、超越的な世界のメッセージを広めることによって超越的な奉仕をします。

これらの超越主義者たちによれば、人間は猫や犬などの低位の動物のそれよりも高い関心事を持つべきです。低位の動物もまた、主に自分自身および世界全体という二つのことに関心があります。

人間以外の生命体は、超越的な主題を理解する能力を持ちません。したがって人間はすべての創造のうちで最も高いものと考えられており、そして私たちはこの、より高い立場の性質を理解しなければなりません。

第3段落
すべての被造物の中で最も高い存在である人間が意識において完全に発達したとき、彼は自分自身と自分が住む世界以上のものに関心を持ちます。彼は完全真理を理解しようとします。完全真理は世界ともども人間を規律し、そして、主を知っているため、超越主義者たちは自分の行いを正しい道に規律します。

この規律の過程は、一般に信仰体系あるいは宗教として知られます。文明化された世界全体に、私たちは何らかの形の宗教を見出します。実に、人間に何らの宗教もないとき、彼は獣以外の何でもないのです。

宗教は異なる国、時代、そして人々に応じて(異なるふうに)現れる(to delineate、描き出す)かもしれませんが、どの場合でもそれは大なり小なり完全真理という目標を焦点としています。

第4段落
完全真理は唯一無二(one without a second、比類するもののない絶対的な存在を表す表現)ですが、主は異なる状況において異なる宗教家あるいは超越主義者によって、異なる視点から見られます。ある超越主義者たちは、完全真理を一般に形のないブラーマンとして知られる非人格的な力として見ます。

一方で、別の者たちは主を、一般にパラマートマー、すなわち超魂として知られる、すべての生命体の中に住んでおられる神の遍在的で局地的な側面として見ます。しかし、もう一つの重要な超越主義者の一団が存在します。彼らは完全真理を、ご自分の至高の人格と同時に非人格であって偏在である力を持つ、至高の人格神として理解します。

第5段落
現在、「宗教」という言葉は物質主義者な傾向の神殿で生け贄にされています。人間という種は今、ちょうど低位の動物たちと同じように、食べること、眠ること、身を守ること、そして感覚を満足させることに関する事柄に、より関心を持っています。

一般的な傾向は、可能な限り超越的な主題を避けるか、そうする場合でも詳細に踏み込まないというものです。最も有力な政治指導者たちでさえ、「おなかを空かせた男や女は、神と宗教に何の意味も見出さない」と発言したのを(人々に)聞かれています。

人々は一般に、そのような物質主義的な人々の指揮のもとにあって、いかなる超越的な認識もなく、自分たちの物質的な体と物質的な世界を超えたものは何も知らず、徐々に低位の動物の身分に下りていっています。

第6段落
このように人類は、たまたま別の場所から吠える別の犬の群れに出会えば直ちに吠える癖のある犬の身分に落ちてしまいました。私たちは、人がたまたま自分の地域や自分の宗教の宗派に所属しない別の人間を見たら直ちに非難の声を上げるときよりもひどい人類の堕落を、想像することができません。彼はこうして、まるで自分が虎やライオンに出くわしたかのように非難の声を上げます。超越的な知識なしでは、人間は実際は虎や狼よりも優れたものではないのです。

第7段落
したがって今、もしも私たちが人間を正気に戻したいなら、完全な知識に関して何かを理解することが必要です。そのため、人間の知性的な指導者たちは、自分のエネルギーを食べること、眠ること、身を守ること、そして物質的な感覚を満足させることに関する事柄における俗世的な改善だけに注ぐべきではありません。

おなかを空かせた男も女も、霊的に空腹でないということはなく、そしていつにも増して今、神と宗教の意味を理解しなければならないのは、他ならぬこれらの霊的に空腹な男たちや女たちである、と、はっきりと教えられるべきです。

第8段落
このことに関して、私たちは最近パリで開かれたユネスコの会議でラダークリシュナン博士(インドの前首相)が行ったスピーチの大意を引用したいと思います。彼は言いました。「国家が誇らしげに神から顔をそむけ、俗世的な成功と繁栄に集中するとき、それは破滅に出会います。

こんにち絶対に必要なのは、学校と図書館の再建や、あるいは店や工場の再建ではなく、人間の再建です。私たちは、もしも新しい世界共同体を作りたいなら、人間を再び作りださねばなりません。」

第9段落
したがって、もしも私たちが少しでも、今、かつてないほど打ち砕かれている人類を再建したいと思うなら、人間と神の何よりも大切な関係を認識するのはいつにも増して必要です。

第10段落
経験主義的な哲学者と論理学者は、自分たちの俗世的な教育と学究的な研究の力に基づいて、様々な概念と方法によって生命体の完全真理との本質的な関係を理解しようと試みてきました。

しかし、完全真理は哲学者たちと彼らが得た知識を超えたものであり続けます。完全真理の概念は、そのような私たちの不完全な物質的な感覚から生まれた上行性の方式によっては、決して完全に到達されることはありません。

これらの経験主義的な哲学者と論理学者は、物質的な知識のよって生じたうぬぼれのために、自分たちの不完全さを認識することができません。そしてそのため、彼らの究極的な結論は無神論です。

彼らは神、他のすべての人格とは異なる至高の人格の存在を否定します。この曖昧な無神論の概念のもとで、そのような物質主義的な哲学者たちは、前と同じ暗闇に留まります。彼らは、私たち自身との至高神の本当の関係を知ることなくして、自分たち自身の考えに応じて作り出された完全真理の概念で満足しています。

第11段落
本当の超越主義者は、そのような一般化の考えを認めず、超越的な知識の本当の啓示(訳注:明らかにされた知識)を持っている権威者からその様々な水準において本当の知識を受け取るために、直接的な(訳注:感覚的な)知覚を飛び越えます。

この啓示は、人間の人格の中の最も深いところから可能とされます。至高の人格神と主の私たちとの関係の本当の知識は、この超越的な方法によってのみ明かされます。至高の人格神は完全であるので、主は俗人に露呈されない権利を持っておられます。

主は一つの完全な方法によってのみ知られ得ます。そして、感覚による知覚の相対的な方法は、決して主に届くことができません。もしも至高神が私たちの相対的な感覚による知覚によって明かされ得るなら、それなら至高神ではなく私たちの感覚による知覚が完全であることになります。したがって、その多数の段階すべてにおいて、感覚による知覚は神に関する知識を得るためには当てになりません。

第12段落
私たちは、自分の乏しい知識によって完全真理に近づくことはできませんが、ご自分の慈悲によって、完全真理はご自身を自らの現れによって明かされます。夜の闇にあっては、私たちの最も高度な技術の力をもってしても、太陽に頼んで現れてもらうことはできません。

しかし、朝には太陽は私たちの何らの物質主義的な企ての助けなくして、自ら現れます。太陽が現れるとき、夜の闇は自動的に消えます。同じように、至高の人格神あるいは主の内密な従者たちは、自分たち自身の力によって、そしてこの物質世界からの何らの助けなくして顕現します。

彼らは、自然の相と呼ばれる至高神の物質エネルギーによって幻惑されやすい堕落した魂に利益を与えるためだけに、ご自分たちのいわれのない慈悲によって、この世に下っておいでになります。

第13段落
しかし、もしも朝になって太陽が上がるときに私たちが自分の扉と窓を閉じたままにしておくなら、確かに、太陽の光線は私たちの薄暗い部屋に入ることはできません。同様に、至高の人格神あるいは主の内密な従者たちが顕現して至高神の教え(メッセージ)を広めるとき、私たちは自分の体と心の扉を閉じてはなりません。

そうするなら、主と主の従者たちから放射している光は私たちの中に入ってきません。そのような超越的な源から放射する光は、一般的に、(私たちが)聞くことによって私たちの中に入ります。

ですから、私たちが至高神の教えに受動的に耳を傾ける用意ができていて初めて、私たちは至高神および主と私たちの関係をありのままに知ることができます。その超越的な精神において、この「至高神の教え(メッセージ)」はここに、一般の人々、そして特に本当に真理を求める者の利益のために捧げられます。

私たちは、自分たちの小さな試みにおいて、どれほど成功するかわかりません。そして、このことに関して私たちの不備をお詫びします。

著者
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by ammolitering4 | 2011-07-01 15:46 | 「至高神の教え(メッセージ)」 | Comments(0)