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第13章 後半

第13章 後半

第11段落
バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.3.1)において、至高神を愛している状態は太陽から発する太陽光に比べられています。この輝きが献身者の心をもっともっと美しくします。そのような献身者の心は、徳の相さえ超えた超越的な立場に位置します。

愛の太陽光によって心をさらにもっと浄化する過程はバーヴァと呼ばれます。バーヴァの描写はルーパ・ゴスヴァーミーによって与えられています。バーヴァは生命体の永遠の特徴と呼ばれます。そして、バーヴァへの(for)進歩の決定的に重要な点は、至高神への愛の周辺的な状態と呼ばれます。

(訳注:バーヴァとは浄化、あるいは進歩の過程を指します。その過程にあって、至高神への愛の前段階と愛の段階を分ける決定的な地点が「中間地点」、あるいは「愛の周辺、外側」と呼ばれる、ということではないかと思います。)

バーヴァの状態がもっともっと深くなるとき、造詣の深い献身者はそれを至高神への愛と呼びます。ナーラダ・パンチャラートラには、次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「ヴィシュヌが唯一の愛と崇拝の対象であり、献身奉仕を受け取る価値のある者は他に誰も、半神でさえ、いないのである、としっかりと納得しているとき、人は神との愛の関係において親密さを感じます。そしてこれはビーシュマ、プラーラーダ、ウッダヴァおよびナーラダなどの人々(personalities, 立派な人々、名士)によって認められています。

第12段落
もしも献身奉仕を誘発する何らかの正しい行いによって、人が奉仕の精神の影響を受け、純粋な献身者との良い関わりという庇護を得るなら、彼は聞くことと聖名を唱えることへの愛着を育みます。聖名を唱えることと聞くことを育むことによって、人は至高主への規律的な献身奉仕においてもっともっと発達します。

そのように発達すると、彼の献身奉仕に関する疑念と物質的な世界に対して感じる魅力は、比例して減少します。聞くことと聖名を唱えることにおいて発達することによって、献身者は自分の信念(faith)においてもっとしっかりと固定されるようになり(訳注:もっとしっかりとした強固な信念を持つようになり)、徐々に彼の信念は献身奉仕への嗜好に発達し、そしてその嗜好が徐々に愛着へと発達します。

愛着が純粋になるとき、それはバーヴァとラティという二つの特徴を現します。ラティが増えるとき、それは至高神への愛と呼ばれます。そして至高神への愛は人間の人生の究極の目的地です。

第13段落
この過程はルーパ・ゴスヴァーミーによってバークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.14.15~16)において要約されています。(訳注;原文は最初の括弧が抜けている)「最初に必要とされるのは信念です。人が純粋な献身者と関わり、そのような関わりによって献身奉仕を育むのは、信念によってです。

献身奉仕が発達するにつれて、人の疑念は減少します。そのとき人はしっかりとした納得に位置しており、その納得から彼は献身奉仕への嗜好を育み、愛着の水準へと進歩します。そこで(whereby、愛着の水準で)彼は献身奉仕の規律的な原則に従います。

その段階の後で、更なる進歩を遂げたあとで、人はバーヴァと呼ばれる水準に達し、それは永遠です。そのような神への愛が増すとき、それは至高神への愛という最高の水準に至ります。」

第14段落
サンスクリット語では、この最高の水準はプレマーと呼ばれます。プレマーは、「交換、あるいは見返りの期待が全くない神への愛」と定義され得ます。実際は「プレマー」と「愛」という単語は同義ではありませんが、それでも人はプレマーは愛の最高の水準であると言うことができます。

プレマーに至った者は、最も完全な人間です。シュリマッド・バーガヴァタムもまた、この言明を確認しています(Bhag.3・25.25)「純粋な献身者との関わりによってのみ、人はクリシュナ意識への嗜好を育むことができます。

そしてクリシュナ意識を自分の人生にあてはめようとするとき、彼はバーヴァおよびプレマーに水準に至るまで、すべてのものを得ることができます。」(訳注:原文は前後とも括弧が抜けている。)

第15段落
信念からバーヴァの水準へと発達した人の徴候を描写なさるとき、主チャイタンニャは、そのような人はたとえ動揺の原因があっても決して動揺しない、と述べられます。また、そのような人は一瞬たりとも時間を無駄にしません。

彼はクリシュナのために何かすることをいつも切望しています。たとえ(するべき)仕事がなくても、彼はクリシュナの満足のためにするべき何らかの仕事を見つけます。また、そのような人はクリシュナと関係のない何ものも好みません。

最良の立場に位置していますが、彼は名誉や個人的な尊敬を追い求めません。彼は自分の仕事において自信があり、そして彼は、自分が人生の至高の目的地、すなわち至高神のもとに戻ることに向かって進歩していないとは、決して思いません。(under the impression:誤って思い込む)

自分の進歩を完全に納得しているので、彼はいつも自信があり、最高の目的地に至るために常に働きます(to keep himself busy、いつも何かしらのことをして忙しくしている)。彼は主を喜ばせること、および聖名を唱えること、あるいは主について聞くことに非常に強い愛着を持っています。

そして彼はいつも主の超越的な性質を描写することに愛着を持っています。彼はまた、マトゥーラー、ヴリンダーヴァン、あるいはドヴァーロカーなどの聖なる地に住むことを(他の場所に住むことよりも)好みます。そのような特徴がバーヴァの水準に発達した者の中に見られます。

第16段落
パリークスィット王は、バーヴァの良い例をもたらしてくださいます。死を迎えるのを待ってガンジス河の土手に座っていたとき、彼は言いました。「ここにいるすべてのブラーマナ、ならびに母なるガンジス河は、私が完全にクリシュナに服従した魂であるとご存知のはずです(should)。

私は、ブラーマナの少年の呪いによって送られた蛇によって直ちに噛まれても気にしません。蛇に好きなように噛ませましょう。もしもここにいらっしゃる皆様すべてがクリシュナの言葉(message)を唱え続けてくださるなら、私は喜びます。」

そのような献身者は、いつも自分の時間が何であれクリシュナと関係のないことで無駄にされていないかと気にしているのです。従って、彼は結果を求める活動、ヨガの瞑想、あるいは知識を培うことから得られる利益を好みません。

彼の愛着はクリシュナと好意的に関係のある談話に向けられています。そのような主の純粋な献身者はいつも目に涙を浮かべて至高主に祈ります。彼らの心はいつも主の活動を回想することに携わっています。そして彼らの体はいつも敬意を捧げることにたずさわっています。

このようにして彼らは満足します。献身奉仕において行動している献身者は誰でも、自分の人生と体を主の目的のために捧げます。

第17段落
バーラタ王もまた純粋な献身者でした。(その名前にちなんでインドはバーラタ・ヴァルシャと呼ばれます。)そして彼は若いときに、まるでそれらが糞であるかのように、家庭での暮らしと献身的な美しい妻と息子と友人たちと王国を後にしました。

これは献身奉仕においてバーヴァを育んだ人に典型的なことです。そのような人は、自分のことを最も不幸であると考え、そして彼の唯一の満足は、いつの日かクリシュナが親切に自分を献身奉仕にいそしませることによって好意を示してくださると考えることにあります。(訳注:「彼はただ唯一、クリシュナがいつの日が自分を憐れんでくださって、親切にも自分に主への奉仕の機会を与えてくださるだろう、と考えることによって満足します。」)

パドマ・プラーナには、純粋な献身の別の例が見られます。そこでは、人間の中で最も高く上げられた(elevated)者であるにも関わらず、王が戸口から戸口へと物乞いしてまわり、人間の社会の最低の部類であるチャンダーラにさえ祈っていたと記録されています。

第18段落
後にこの節を書いたのはサナータナ・ゴスヴァーミーでした。

(サンスクリット引用)

「私は至高神への愛において貧しく、献身奉仕について聞くために役立つものを何も持ちません。私は献身奉仕の科学の理解も全くありません。何ら培った知識もなく、自分の功績である何らの正しい行いもありません。私は身分の高い家庭に生まれてさえいません。

それでも、おお、ヴラジャの高貴な娘たちの最愛の人よ。私はなおかつあなたに至るという望みを後続けており、これらの望みがいつも私を悩ませています。」そのような強い望みによって深く心を動かされたそのような献身者は、いつもハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレを唱えます。

第19段落
このことに関して、ビルヴァマンガラによる次の節がクリシュナ・カルナームリタ(32)に現れています。

(サンスクリット引用)

「おお、クリシュナよ。おお、すばらしい笛の奏者よ。あなたの少年時代の活動の美しさは、この世界において非常にすばらしいものです。あなたは私の心の動揺をご存知であり、そして私はあなたが何であるのかを知っています。誰も私たちの関係がいかに親密であるかを知りません。

私の目はあなたとあなたの顔を見ることを切望しているにも関わらず、私はあなたを見ることができません。どうか私に何をすべきかを教えてください。」バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.3.38)に同様の節が現れており、そこでルーパ・ゴスヴァーミーは次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、ゴヴィンダ!目に涙を浮かべたこの若い娘は、あなたの栄光を讃えながら可愛らしい声で泣いています。」そのような純粋な献身者はいつも、クリシュナの栄光を描写することと、主がご自分の娯楽を現された地に住むことを切望しています。

クリシュナ・カルナームリタ(92)に、再び同様の節が現れます。「クリシュナの体はとても素晴らしく、主のお顔はとても美しいのです。主に関するすべては甘く薫り高いものです。」そしてバークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.2.156)にはこうあります。

「おお、蓮の目をした方よ。いつ私はあなたの聖なる御名をいつも唱えることができるようになりますか?そしていつ私は、その唱名に力づけられて、ヤムナー河の土手で踊ることができようになりますか?」

第20段落
これらすべての献身奉仕のバーヴァの水準の描写は、主チャイタンニャによってサナータナ・ゴスヴァーミー(のため)に引用されました。主チャイタンニャは次に、クリシュナへの実際の愛の徴候を描写することに進まれました。

主はサナータナ・ゴスヴァーミーに、誰もクリシュナへの愛を育んだ人を理解することはできないと教えられました。誰も彼の言葉、活動、あるいは徴候を理解することができません。たとえ非常に学識があっても、主を愛している純粋な献身者を理解することは非常に困難です。これはバークティ・ラサームリタ・スィンドゥーにおいても確認されています。

第21段落
献身奉仕に携わっている人は、至高主の栄光を歌っているときに見るも痛ましい状態になります(heartsick、悲嘆にくれる)。主は彼にとって愛しいので、主の名前や名声などを讃えているとき、彼はほとんど狂った人のようになります。

そしてその状態において彼はときには笑い、ときには泣き、ときには踊ります。彼は自分の状況を考えることさえせずにこのような状態であり続けます。徐々に至高神への愛を育むことによって、彼は自分の愛情と感情と恍惚感を増します。そのような愛着、マハーバーヴァは、献身的な愛の最高の水準です。

それは砂糖の最も力強い形である飴玉(sugar candy、様々な砂糖菓子、氷砂糖なども含む)になぞらえられるかもしれません。至高神への愛は、超越的な喜びが本物の献身者にとって最高の水準へと増すように、徐々に発達し得ます。
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by ammolitering4 | 2010-12-26 10:26 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(2)

第13章 前半

第13章 愛着をもってする献身奉仕

第1段落
全くの誤解から、一部の超越主義者たちは、献身奉仕の水準に上がるためには知識と放棄が必要であると考えます。それは違います。知識を培うことと、結果を求める活動を放棄することは、人の霊的な存在を人生の物質的な概念との関連において理解するためには必要であるかもしれません。

しかし、それらは献身奉仕において不可欠な要素ではありません。知識、および結果を求める活動の結果は、それぞれ解放と物質的な感覚の満足です。(訳注:知識の結果は解放であり、結果を求める活動の結果は感覚の満足です。)

したがって、それらは献身奉仕の不可欠な要素ではあり得ません。むしろ、それらは献身奉仕の遂行において何の本質的な価値も持ちません。知識および結果を求める活動の結果という呪縛から自由になるとき、人は献身奉仕に至ることができます。

主クリシュナの献身者は本質的に非暴力的であり、心と感覚が統御されているので、彼は知識を培うことと結果を求める活動を行うことから生じる良い性質を得るために、特別な努力をする必要がありません。

第2段落
ウッダーヴァがクリシュナにヴェーダの禁止命令に基づいた規則と規律について尋ねていたとき、彼はこう聞きました。「なぜヴェーダの聖歌は人に物質的な楽しみを勧めるのですか?他方では同時に、ヴェーダの教えは人をすべての幻惑から自由にし、人に解放を勧めているというのに。」

ヴェーダの規則は至高の人格神によって定められたことになっています。しかし、一見すると矛盾があります。そしてウッダーヴァは、どうやって人がこれらの矛盾から自由になれるのか知りたいと切望していました。返答として、主クリシュナは彼に献身奉仕の比類なき素晴らしさを教えました。

第3段落
「既に私への献身奉仕に携わっており、心が私の上に定められている者にとって、知識を培ったり放棄をしたりするために努力するのは、実際的でも必要でもありません。」このように、主の結論は、献身奉仕は他のいかなる方法からも独立している、というものです。

知識を培うこと、放棄、あるいは瞑想は、最初は多少役に立つかもしれません。しかしそれらは献身奉仕の遂行にとって必要であるとは考えられ得ません。言い換えれば、献身奉仕は知識を培うことや放棄すること無しで遂行され得ます。このことについて、スカンダ・プラーナからの節もあります。

そこで、パルヴァタ・ムニは部族民の狩人に言いました。「おお、狩人よ。非暴力その他の、あなたがたった今得た性質は、驚くべきものではありません。なぜなら、至高主への献身奉仕に携わる者は、いかなる状況においても、誰に対しても苦痛の源ではあり得ないからです。」

第4段落
これらの点を議論した後で、主チャイタンニャはサナータナ・ゴスヴァーミーにおっしゃいました。「これまで、私は規律的な原則に基づいた献身奉仕を説明しました。次に、私はあなたに超越的な愛着に関して献身奉仕を説明します。」

第5段落
ヴリンダーヴァンの住人たち、すなわちヴラジャヴァースィーは、献身奉仕の生きた例です。彼らのは理想的な愛着による献身奉仕です。そして、そのような献身はヴラジャブーミ、(および)ヴリンダーヴァンにおいてのみ見られます。

もしもヴラジャヴァースィーの足跡を辿ることによって献身奉仕と愛着を発達させるなら、人はラーガ・マールガ・バークティ、すなわち主への愛着による献身奉仕に至ります。バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.2.270)には、次のように書かれています。

「その奉仕への恍惚的な愛着を伴う献身奉仕は、それは献身者にとって自然なものになるのですが、それはラーガ、すなわち超越的な愛着と呼ばれます。」そのような愛着をもって遂行される献身奉仕はラーガートミカーと呼ばれ、愛情の対象への深い没頭を伴う深い愛着はラーガートミカーと呼ばれます。

(訳注:全く同じ単語が繰り返されていますが、これは一つ目の「ラーガートミカー」が実は後述の「ラーガ・バークティ」の間違いであるのだと思います。)

これらの例は、ヴラジャブーミの住人たちの活動の中に見られます。そのような愛着を聞くことによってクリシュナに魅了されるようになる者は、間違いなく非常に幸運です。ヴラジャブーミーの住人たちの献身によって深く影響され、彼らの足跡を辿ろうとするとき、人は明かされた聖典の規制や規律を気にかけません。これがラーガ・バークティを遂行している者の特徴です。

第6段落
愛着を伴う献身奉仕は自然であり、それによって魅了された者は、他の人たちは聖典の禁止命令を示して議論するかもしれませんが、自分に反対する(そのような)者と言い争いません。献身奉仕への自然な傾倒もまた、聖典の禁止命令に基づいています。

そして、そのような献身奉仕への愛着を持っている者は、単に聖典に関する議論に基づいてそれを放棄することを要求されません。(訳注:放棄することは必要ではありません。)このことに関して、(プラークリタ・サハジヤーとして知られる)いわゆる献身者の一団(a class of)は、自らをクリシュナとラーダーと称し、自分たちで作り出した想念に従い、肉欲にふけります。

そのような献身奉仕と愛着はまがい物であり、そのようなことにいそしむ者は実際は地獄への道をすべり落ちていきます。これはラーガートミカー、すなわち献身の手本(standard、基準となる水準、お手本)ではありません。プラークリタ・サハジヤーの共同体は実際は騙されていて、非常に不運です。

第7段落
愛着をもってする献身奉仕には外的および内的という二つの方法で実行され得ます。外的には、献身者は聖名を唱えることと聞くことに始まる規律的な原則に厳密に従います。他方で内的には、彼は至高主に奉仕するように自分を魅了する愛着のことを考えます。

(訳注:主に奉仕をしたくなるような、自分にとって愛着ある事柄を考える、という意味だと思います。例えば、クリシュナの子供時代の娯楽に愛着を感じる者は、それを思うと奉仕をしたくなるので、それをいつも心の中で考える、ということではないかと思います。)

そのような愛着は献身奉仕の規律的な原則に反しません。そして本当の献身者はこれらの原則に厳密に従います。それでいて彼はいつも自分の特定の愛着のことを考えます。

第8段落
ヴラジャブーミ、(および)ヴリンダーヴァンのすべての住人は、クリシュナにとって非常に愛しいので、献身者は住人たちの一人を選び、自分の献身奉仕において成功するように彼の足跡を辿ります。主に愛着を持った純粋な献身者は、いつもヴラジャブーミの人(訳注:personality、立派な人、名士)の足跡を辿ります。

バークティ・ラサームリタスィンドゥー(1.2.294)において、たとえヴラジャブーミあるいはヴリンダーヴァンに住むことができなくても、献身奉仕に愛着のある純粋な献身者は、いつもヴラジャの特定の住人の活動を思い出しているべきであると助言されています。このようにして、彼はいつもヴラジャブーミとヴリンダーヴァンのことを考えることができます。

第9段落
主への奉仕に愛着のある親密な(confidential、互いに信じあった、腹心の)献身者は、いくつかの種類に分けられます。ある者たちは従者であり、ある者たちは友人であり、ある者たちは親であり、そして別の者たちは恋人(conjugal lover、婚姻関係にある恋人)です。

愛着をもってする献身奉仕においては、人はヴラジャブーミの特定の種類の献身者に従わなくてはなりません。シュリマッド・バーガヴァタム(3.25.38)において、主はおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「マット・パラという言葉は、唯一私の信奉者になるということだけに満足している者を指すときに限って使われます。彼らは、私が彼らの魂であり、私が彼らの友人であり、私が彼らの息子であり、私が彼らの主人であり、私が彼らの幸せを願う者であり、私が彼らの神であり、そして私が彼らの至高の目的地であると考えます。

我が親愛なる母よ。そのような献身者の上に時間は働きません。」バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.2.308)において、ルーパ・ゴスヴァーミーは、いつもクリシュナをあるがままに考え、そして主との関係を(自分の)息子、幸せを願うもの、兄弟、父、友人などとして考える者に、心からの敬意を捧げます。

愛着をもって献身奉仕の原則に従い、ヴラジャブーミの特定の献身者に従う者は誰でも、確かにその精神において至高神への愛という最も高い完成を得ます。

第10段落
至高神への愛の種がそれによって発達する二つの特徴があり、これらはラティ、すなわち愛着、そしてバーヴァ、(すなわち)至高神への愛の直前にある状態です。(訳注:「至高神への愛の種の発達には二つの特徴的な段階があり、~」)

至高主シュリー・クリシュナが自分の献身者によって征服されるのは、そのような愛着とバーヴァによってです。これらの二つの特徴は、至高神への愛のいかなる徴候が顕現する前にも存在します。これはすべて主チャイタンニャによってサナータナ・ゴスヴァーミーに説明されました。

主チャイタンニャは彼に、愛着をもってする献身奉仕の仕組みを描写するのは本当に限りがないので、自分は単にごく一部を示そうとしているだけである、とおっしゃいました。主チャイタンニャはそれから、完成を得たいと願う者のためにある、献身奉仕の究極の目的地を描写なさいました。

クリシュナへの愛着が非常に深くなるとき、人は至高神への愛という状態に至ります。そのような存在のあり方は献身者にとって永遠の状況だと考えられます。このことに関して、カヴィラージャ・ゴスヴァーミーは、主チャイタンニャの至高神への愛という崇高な教えに対して、主に心からの敬意を捧げました。

チャイタンニャ・チャリタームリタ(マデャー、23.1)には、次のように述べられています。「おお、至高の人格神よ。あなたの他に誰が一度としてそのような純粋な献身奉仕を(報いとして)お与えになったでしょうか?おお、至高の人格神の最も寛大な化身よ。私にできることとして、私はゴーラクリシュナとして知られるこの化身に心からの敬意を捧げます。」
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by ammolitering4 | 2010-12-26 08:59 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

第12章 後半

第12章 後半

第1段落
献身奉仕は規律的であるかもしれず、あるいは愛情に基づいた(affectionate)ものであるかもしれません。クリシュナへの超越的な愛情を育んでいない者は、聖典および霊的指導者の指示と規律に従って自分の人生を送るべきです。シュリマッド・バーガヴァタム(2.1.5)において、スカデヴァ・ゴスヴァーミーはマハーラージャ・パリスィットに助言なさいます。

(サンスクリット引用)

「おお、バーラタのうちで最良の者よ。至高の人格神ハリについて聞き、主について唱え(訳注:「主の聖なる御名を唱え」ということだと思います)、いつも主を思い出していることは、恐れ無き者になりたいと望む者の主要な義務です。常に主ヴィシュヌを思い出していなさい。実に、一瞬たりとも忘れてはなりません。主はすべての規律的な原則の要点です。」

結論は、聖典において明かされているすべての規則、規律、勧められる活動および禁止されている活動をまとめると、至高主を思い出していることが常に変わらず(それら)すべてのものの真髄です。心の中で至高の人格神を思い出していることは、献身奉仕の目的地です。

献身奉仕が純粋に、そして愛情をもってなされるとき、規律的な原則が入る余地はありません。これをしろ、これをするな、ということはありません。

第12段落
しかし、人は一般的に、正しく献身奉仕を行うために、次の原則を受け入れるべきです。
1、真正なる霊的指導者の庇護を受ける。
2、霊的指導者から洗礼を受ける。
3、霊的指導者に奉仕する。
4、霊的指導者に愛について問い、学ぶ。
5、主への超越的な愛情ある奉仕に身を捧げている聖なる人々の足跡を辿る。
6、クリシュナの満足のために、あらゆる楽しみと苦しみを放棄する準備をする。
7、クリシュナが娯楽をなさった場所に住む。
8、何であれ体の維持のためにクリシュナによって与えられたもので満足し、それ以上を求めない。
9、エカーダシーの日に断食をする。(これは満月の11日後と新月の11日後に起こります。そのような日には、穀物、加工された穀物、豆類は食されません。単に野菜と牛乳が控えめに食され、いつもよりもハレ・クリシュナが多く唱えられ、聖典が多く読まれます。)
10、献身者、牛、およびバンヤンの木などの聖なる木に敬意を示す。

第13段落
献身奉仕の道を辿り始めている初心者の献身者にとって、これらの十個の原則を守ることは非常に大切(essential、絶対必要、基本的、本質的)です。人はまた、主に奉仕をするにあたり、そして主の聖なる御名を唱えるにあたり、無礼を避けようとすべきです。聖なる御名を唱えている間に犯しうる無礼には十種類あり、それらは避けられるべきです。

これらの無礼は以下のようなものです。
1、主の献身者を侮辱する。
2、主と半神たちを同じ水準にあると考える、あるいは多くの神がいると考える。
3、霊的指導者の指示をないがしろにする。
4、聖典(ヴェーダ)の権威を軽視する。
5、神の聖なる御名を独自に解釈する。(to interpret)
6、聖名を唱えることの力に乗じて罪を犯す。
7、主の御名の栄光を不信心な者に教える。
8、聖名を物質的な言葉(piety、信心深い言葉)と比べる。
9、聖名を唱えるときに心ここにあらずとなる。
10、聖名を唱えるにも関わらず物質的なものに執着し続ける。

さらなる十個の規律は次のようなものです。
1、人は主に奉仕をするにあたって、および主の聖なる御名を唱えるにあたって、無礼を避けようとすべきである。
2、人は不浄な非献身者との関わりを避けるべきである。
3、人は多くの弟子を持とうと試みるべきではない。
4、人は多くの本を理解しようとしたり、何か特定の本を部分的に理解しようと試みるヴぇきではなく、人は異なる教義を議論することを避けるべきである。
5、人は得をしても損をしても(訳注:喜びにも悲しみにも)平静であるべきである。
6、人はいかなる嘆きにも支配されるべきではない。
7、人は半神や他の聖典に不敬であるべきではない。
8、人は至高主と主の献身者に対する侮辱を我慢すべきではない。
9.人は世俗的な(ordinary)内容の小説や物語を避けるべきである。しかし、人が世俗のニュースを聞くのを避けるべきであるという禁止命令はない。
10、人は、小さな虫を含め、いかなる生命体にも苦痛を与えるべきではない。

第14段落
シュリー・ルーパ・ゴスヴァーミーによって編纂されたバークティ・ラサームリタ・スィンドゥーには、人は振る舞いにおいて非常に寛容(liberal、公平な、自由な、気前の良い)であるべきであり、あらゆる望ましくない活動を避けるべきである、と述べられています。(訳注:前後の脈絡が不明なので、この場合の liberalが具体的にどういう意味であるのかははっきりしません。)

最も重要な点(affirmative points、肯定的な点)は、人が真正なる霊的指導者の庇護を受け、彼によって洗礼を受け、彼に奉仕をすべきである、というものです。

第15段落
これらに加え、献身奉仕の35の要素があり、それらは以下のように分解され得ます。
1、聞くこと。
2、(聖名を)唱えること。
3、思い出すこと。
4、崇拝すること。
5、祈ること。
6、奉仕すること。
7、従者として仕えること。(to engage)
8、友好的であること。
9、すべてを捧げること。
10、神像の前で踊ること。
11、歌うこと。
12、知識を与えること。(to inform) (訳注:初心者の献身者に?)
13、敬意を捧げること。
14、献身者に敬意を示すために立ち上がること。
15、献身者が立ち上がって戸口に向かうとき、彼についていくこと。
16、主の寺院に入ること。
17、主の寺院の周りを歩き回ること。
18、祈りを読むこと。
19、聖歌を歌うこと。(to vibrate、響かせる)
20、サンキールタン、すなわち集合的なチャンティングを行うこと。
21、神像に捧げられた香と花の匂いをかぐこと。
22、プラサーダ(クリシュナに捧げられた食べ物)を受け入れること。
23、アーラートリカの儀式に参列すること。
24、神像を見ること。
25、主においしい食物を捧げること。
26、瞑想すること。
27、トゥラスィーの木に水を捧げること。
28、ヴァイシュナヴァ、すなわち高度に発達した献身者に敬意を捧げること。
29、マトゥーラーあるいはヴリンダーヴァンに住むこと。
30、シュリマッド・バーガヴァタムを理解すること。
31、クリシュナのもとに至るために最善の努力をすること。
32、クリシュナの慈悲を期待すること。
33、クリシュナの献身者と共に儀礼的な行事を行うこと。
34、あらゆる面で服従すること。
35、異なる儀礼的な行事を行うこと。

これらの35項目に加え、さらに4つが加えられ得ます。
1、ヴァイシュナヴァであることを示すために自分の体に白檀(サンダルウッド)の粉の水溶きで印をつける。
2、体に主の聖なる御名を書く。
3、神像を覆っていたものの残り(お下がり)で自分の体を覆う。
4、神像を洗う水、すなわちチャラナームリタを受け入れる。

これらの4つの追加の項目を加えると、献身奉仕は全部で39項目となり、これらすべての中で次の5つが最も大切です。
1、献身者と関わる。
2、主の聖なる御名を唱える。
3、シュリマッド・バーガヴァタムを聞く。
4、マトゥーラーやヴリンダーヴァンなどの聖なる場所に住む。
5、大いなる献身の念を持って神像に奉仕をする。

これらの項目は、ルーパ・ゴスヴァーミーによって彼の本バークティ・ラサームリタ・スィンドゥーの中で特に言及されています。上記の39項目にこれらの5つの項目を加えると合計44項目になります。これらに加え、20の基礎的な振る舞い(訳注:preliminary occupation、直接的には「予備的な仕事」となる)があり、献身奉仕を遂行するためには合計64の異なる項目があります。

人は自分の体と心と感覚をもって64項目を実行し、そうして徐々に自分の献身奉仕を浄化することができます。いくつかの項目は全く異なり、いくつかは同一であり、他のものは混じっているように見えます。

第16段落
シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、人が同じ精神性を持った人々との関わりの中で暮らすことを勧められました。したがって、クリシュナ意識のための何らかの組織をつくり、クリシュナに関する知識と献身奉仕を育むために一緒に住むことが必要です。

そのような関わりの中で暮らすための最も大切な項目は、バガヴァッド・ギーターとシュリマッド・バーガヴァタムの共通の理解です。信念と献身の念が発達するとき、それらは神像の崇拝、聖名を唱えること、そしてマトゥーラーやヴリンダーヴァンなどの聖地に住むことに変化するようになります。

第17段落
はじめの39の後に言及された最後の5項目は、非常に大切で必要不可欠です。もしも単にこれらの5つの項目を遂行するなら、たとえそれらを完全に遂行しなくても、人は最高の完成の水準に上げられ得ます。人は自分の能力に従って、一つか、あるいは多くの項目を遂行できるかもしれません。

しかし、その道において人を上達させるのは、献身奉仕への完全な愛着という主要な要素です。歴史上には、単に一つの項目の義務を遂行することによって献身奉仕の完成に至った多くの献身者がいます。そして、マハーラージャ・アムバリーシャのように、すべての項目を遂行した、他の多くの献身者がいます。

ただ一つの項目だけを遂行することによって献身奉仕の完成に至った献身者には、次のような人々がいます。(訳注:原文には番号は振ってありません。また、原文はいずれも「~した誰それ」という文型になっています。)
1、マハーラージャ・パリークスィットは、単に聞くことによって解放され、完全に完成しました。
2、スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、単に聖名を唱えることによって解放され、献身奉仕の完成に至りました。
3、プラーラーダ・マハーラージャは、ラクシュミーを思い出していることによって完成を得ました。
4、ラクシュミーは、主の蓮の御足に奉仕をすることによって完成を得ました。
5、プリトゥー王は、単に崇拝することによって完成を得ました。
6、アクルーラは、単に祈ることによって完成を得ました。
7、ハヌマーンは、単に主ラーマの従者となることによって完成を得ました。
8、アルジュナは、単にクリシュナの友人であることによって完成を得ました。
9、バリ・マハーラージャは、単に持っていたすべてのものを捧げることによって完成を得ました。

マハーラージャ・アムバリーシャについて言えば、彼は実際に献身奉仕のすべての項目を実行しました。彼はまず、自分の言葉、話す力を、至高の人格神の超越的な性質を描写することに使いました。彼は自分の手を神の寺院を洗うことに、耳をクリシュナの言葉を聴くことに、そして目を神像を見ることに使いました。

彼は自分の触る感覚を献身者に奉仕することに使い、自分の嗅覚をクリシュナに捧げられた花の香りを楽しむために使いました。彼は自分の舌をクリシュナの蓮の御足に捧げられたトゥラスィーの葉を味わうことに使い、自分の脚をクリシュナの寺院に行くことに使い、自分の頭をクリシュナの神像に敬意を捧げることに使いました。

彼のすべての欲求と野心はこのように主への献身奉仕に使われたため、マハーラージャ・アムバリーシャは献身奉仕を様々な方法で行うことにおいて最も優れた方と考えられています。

第18段落
完全なクリシュナ意識において献身奉仕に携わる者は誰でも、皆が一般的に負債を負っている賢人たちや半神たちや先祖たちへの負債から自由になります。(訳注:「誰もが一般的に賢人たちや半神たちや先祖たちに負債を負っています。しかし、完全なクリシュナ意識において献身奉仕に携わる者は誰でも、そのような負債から自由になります。」)これはシュリマッド・バーガヴァタム(11.5.41)において確認されています。

(サンスクリット引用)

「おお、王よ。主への奉仕に完全に携わる者は、もはや半神や賢人や他の生命体や自分の親族や先祖や、他の誰にも負債を負いません。」すべての人は誕生のすぐ後で、直ちに非常に多くの人々に負債を負います。そして人は、この負債のために、様々な儀礼的な行事を行うことを期待されています。

しかし、もしも人が完全にクリシュナに服従しているなら、何の債務もありません。人はすべての負債から自由になります。

第19段落
しかし、人が他のすべての義務を放棄して、単にクリシュナへの超越的な奉仕を習慣づけるとき、彼には欲望がなく、罪深い活動を行う可能性がほとんどない、ということが注意深く特記されるべきです。(訳注:he ~ is not subjected to or likely to perform sinful activities、下線部分は同じ意味を繰り返している)

しかし、もしも彼が(故意ではなく偶然によって)罪深い行いをすれば、クリシュナは彼にすべての保護を与えます。彼におっては自分を他のいかなる方法によって浄化する必要もなく、これはシュリマッド・バーガヴァタム(11.5.42)において確認されています。

「主への超越的な愛情ある奉仕に完全に携わっている者は、至高の人格によって守られています。しかし、彼が故意ではなく何らかの罪深い行いをした場合は、あるいは特定の状況のもとで罪深い行いを余儀なくされた場合は、彼の心の中に鎮座なさっている神が彼にすべての保護を与えられます。」

第20段落
推量的な知識、および放棄階級となるという方法は、実際は献身奉仕における上達のための主要な項目ではありません。他の方法においては非暴力と感覚の統御という性質を得るための規律や規則がありますが、人はそれらの原則を習慣づける必要もありません。

これらの方法を実践することさえ無くして、献身者は単に主への献身奉仕を遂行することによってすべての良い性質を発達させます。シュリマッド・バーガヴァタムの11巻(11.20.31)において、主ご自身が、もしも人が実際に主への献身奉仕に携わっているなら、推量的な知識を培ったり、放棄階級となったりする必要はない、とおっしゃいます。

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最近不眠症がひどくて。。。今は夜中の3時前。全く眠れないので起きてタイプなどしていました。まあ、12月は本のマラソン配布の月ですから、販売に参加しない私はマラソン翻訳で参加するということにしましょう。休み休みのマラソンですけど。

それにしても、第17段落の「しかし、その道において人を上達させるのは、献身奉仕への完全な愛着という主要な要素です。」という言葉が気になります。これって、何事においても同じですよね。完全な愛着を持って何かに打ち込んだことがあったでしょうか。最近ガラス絵もさっぱり描いてなくて、ただ生活費のための仕事に追われる日々。。。来年は日本にも帰りたいので、飛行機代を稼がねばなりません。掛け持ちしなきゃいけない状況なので、翻訳もまたまた滞るかもしれません。仕事しながら仕事探しをやってるのです。これって、、、ガラス絵にしっかりと愛着を持って可能な限りの努力をしなかった報いでしょうか。人生の時計の砂は淡々と落ちていき、このまま行けば最後の一粒が落ちるまでに幾つもの後悔と対面することになるのでしょうね。夜中に地雷の埋まった崖っぷちを歩いているような気分です。翻訳なんかしてますけど、悲しみにも喜びにも平常心で、という安定からは程遠いようです。ここはやはりクリシュナに助けを求めて、とりあえず夜は眠れるようにとお祈りしようと思います。
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by ammolitering4 | 2010-12-11 20:04 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

第12章 前半

第12章 献身者

第1段落
主への超越的な愛情ある奉仕に完全に身を捧げているクリシュナ意識の人は、半神たちのすべての神聖な性質を発達させます。多くの神聖な性質がありますが、主チャイタンニャはそのうちのいくつかだけをサナータナ・ゴスヴァーミーに描写なさいます。

主の献身者はいつも誰もに親切です。そして彼は喧嘩を吹っ掛けません。彼の興味は人生の真髄にあり、それは霊的です。彼はすべての人に平等です。そして誰も彼に欠点を見つけることができません。彼の度量の大きな心はいつも生き生きして清らかであり、物質的な執着(obsession、妄想などが取り付いた状態)がありません。

彼はすべての生命体に恩恵を与える者であり、温和で、いつもクリシュナに服従しています。彼は何らの物質的な欲望も持ちません。彼は非常に謙虚で、自分の目的にしっかりと心を定めています。彼は欲や怒りなどの6つの物質的な性質に勝利しており、彼は必要以上に食べません。

彼は常に正気であり(sane、正気、分別・良識がある)、他者を尊重します。(訳注:この場合の saneは、マーヤーに惑わされた「狂った」状態ではない、ということを指すのではないかと思います。)しかし彼は自分自身への敬意は必要としません。彼は落ち着きがあり、慈悲深く、友好的で、詩的で、(訳注:霊的な事柄に)熟達しており、物静かです。

第2段落
シュリマッド・バーガヴァタム(3.25.21)にも、主の献身者の描写があります。そこでは、彼は常に忍耐強く慈悲深いと言われています。すべての生命体の友人として、彼には敵がいません。彼は温和で、すべての良い性質を持っています。これらはクリシュナ意識の人の性質のほんの一例です。

第3段落
シュリマッド・バーガヴァタムには、もしも偉大な魂、すなわちマハートマーに奉仕をする機会を得るなら、人の解放への道は開かれる、とも書かれています。しかし、物質的な人々に執着している者は、闇への道の上にあります。

実際に聖なる人は、超越的であり、平静であり、温和であり、すべての生命体に対して友好的であり、怒りの影響を受けません。単にそのような聖なる人々と関わることによって、人はクリシュナ意識の献身者になることができます。

実に、至高神への愛を育むためには、聖なる献身者との関わりが必要とされます。霊的な人生における上達の道は、聖なる人と出会う誰もに開かれています。そして、献身者の道を辿ることによって、人は必ず完全な献身奉仕においてクリシュナ意識を育みます。

第4段落
シュリマッド・バーガヴァタム(11.2.28)において、クリシュナの父ヴァスデヴァがナーラダ・ムニにすべての生命体の幸福について尋ね、返答としてナーラダ・ムニはマハーラージャ・ニミの9人の賢人たちとの議論から一節を引用します。

「おお、聖なる賢人たちよ」とニミ王は言いました。「私はただ、すべての生命体のための幸福の道を見つけようとしています。聖なる人々との一瞬の関わりは、人生において最も価値あるものです。なぜなら、その一瞬が霊的な人生における発達の道を開くからです。」

これはシュリマッド・バーガヴァタムの他のところ(3.25.25)においても確認されています。聖なる人々と関わり、彼らと超越的な事柄について議論することによって、人は霊的な人生の価値を納得するようになります。ほどなくして、クリシュナについて聞くことは耳に心地よくなり、人の心を満足させるようになります。

そのような霊的な伝言を聖なる人や純粋な献身者から受け取った後、もしも人がそれらを自分自身の人生にあてはめようとするなら、クリシュナ意識の道は自然に信念と絆(attachment、執着)と献身奉仕において発達します。(訳注:クリシュナ意識の信念が強まり、愛着が生まれ、熱心に奉仕をするようになる、ということだと思います。)

第5段落
主はそれからサナータナ・ゴスヴァーミーに献身者の振る舞いについて教えられました。ここで、要点は、人はいつも不浄な関わりから遠ざかっているべきであるということです。それが献身者の振る舞いの要点です。そして、不浄な関わりとは何でしょうか?それは女性に過度に執着した者、および主クリシュナの献身者でない者です。

これらは不浄な人々です。人は、主の聖なる献身者と関わり、注意深く不浄な非献身者との関わりを避けるように助言されています。クリシュナの純粋な献身者である者は、2種類の非献身者から遠ざかっていつづけるために、細心の注意を払います。シュリマッド・バーガヴァタム(3.31.33-35)には、人は女性たちの遊び相手である人との一切の関わりを断つべきであると述べられています。

それは、そのような不浄な人と関わることによって、人は正直さ、清潔さ、慈悲、落ち着き、知性、奥ゆかしさ、美しさ、名声、寛容さ、心と感覚の統御、および献身者によって自動的に身につけられるすべての富を失うことになるからです。人は決して、女性に過度に執着した人と関わるときほど堕落することはありません。

第6段落
このことに関して、主チャイタンニャはカーテャーヤナ・サムヒターからも一節を引用なさいます。「人は、主の献身者でない者と関わるくらいなら、むしろ火の燃え盛る檻に閉じ込められる悲惨さを耐えるべきです。」

人はまた、非宗教的な人、あるいは至高主への献身の念がない人の顔を見ることさえしないように助言されています。主チャイタンニャは、人が望ましくない人々との関わりを慎重に放棄して、完全に至高主クリシュナの庇護のもとに入ることを勧めていらっしゃいます。

この同じ教えはバガヴァッド・ギーターの最後の節でアルジュナに与えられています。そこでクリシュナはおっしゃいます。「ただすべてを放棄し、私に服従しなさい。私はあなたの面倒をみて、あなたを罪深い行いの反動から守ります。」(Bg18.66)

主はご自分の献身者に非常に親切でいらっしゃり、そして主は非常に感謝の気持ちが強く、能力があり、そして寛大です。主の言葉を信じるのは私たちの義務であり、もしも私たちが十分に知性的で教養があるなら、私たちは躊躇なく主の教えに従うでしょう。シュリマッド・バーガヴァタム(10.48.26)において、アクルーラはクリシュナに言います。

(サンスクリット引用)

「誰があなた以外の誰かに服従できるでしょう?誰があなたほど愛しく、正直で、友好的で、そして感謝の気持ちが強いでしょう?あなたはとても完璧で完全なので、ご自分の献身者にご自身をお与えになるにも関わらず、あなたはそれでも完全で完璧です。あなたはご自分の献身者のすべての望みを満足させることができ、ご自分を彼に引き渡すことさえなさいます。」

知性的でクリシュナ意識の哲学を理解できる者は、自然にすべてを放棄してクリシュナの庇護のもとに入ります。このことに関して、主チャイタンニャはシュリマッド・バーガヴァタム(3.2.23)において、ウッダーヴァによって語られた節を引用なさいます。

「人はどうしてクリシュナ以外の誰かの庇護のもとに入れるでしょう?主はとても親切でいらっしゃいます。クリシュナが赤ん坊のとき、バカースラの姉は自分の乳房に毒を塗り、それをクリシュナが吸って死ぬように、とクリシュナを殺す計画を立てました。しかし、それでもその極悪な女は救いを授かり、クリシュナの本物の母親(Krishna's own mother)と同じ水準に上げられました。

この節は、プータナがクリシュナを殺そうとしたときを指しています。クリシュナは、その悪魔的な女の毒を塗った乳房を受け入れました。そして、彼女から乳を吸ったとき、主は彼女の命も吸い取りました。それでもプータナはクリシュナの本物の母親と同じ立場に上げられました。

第7段落
完全に服従した魂と放棄階級にある人との間には、本質的な違いはありません。唯一の違いは、完全に服従した魂は完全にクリシュナに依存しているということです。服従のためには、六つの基本的な原則があります。

1、人は献身奉仕の遂行にとって好ましいすべてのものを受け入れるべきであり、(その)過程を受け入れる決心をしているべきです。

2、人は献身奉仕の遂行にとって好ましくないすべてのものを放棄すべきであり、それらをすべて放棄する決心をしているべきです。

3、人はクリシュナだけが自分を守れるということを納得しているべきであり、主がその保護を与えてくださるという完全な信念を持っているべきです。非人格主義者は、自分の本当の自己認識はクリシュナと一つであることにある、と考えますが、献身者はこのようにして自分の自己認識を滅ぼすことをしません。彼はクリシュナがあらゆる側面において自分を親切に守ってくださるという完全な信念をもって生きます。

4、献身者はいつもクリシュナを自分を維持してくださる方として受け入れるべきです。活動の成果に興味のある者は、一般に半神たちからの庇護を期待しますが、クリシュナの献身者は庇護を求めていかなる半神に頼ることもしません。彼はクリシュナが自分をすべての好ましくない状況から守ってくれるということを完全に納得しています。

5、献身者は常に自分の望みは独立したものではないことを意識しています。クリシュナが叶えない限り、それらは叶えられ得ません。

6、人はいつも、クリシュナが面倒を見てくださるように、自分のことを魂の中で最も堕落したものだと考えるべきです。

第8段落
そのような服従した魂は、ヴリンダーヴァン、マトゥーラー、ドゥヴァーラカー、マーヤープルなどの聖地の庇護を受けるべきです(訳注:それらの地に住む、あるいは訪れるべきである、ということだと思います)。

そして、「我が主よ。今日から私はあなたのものです。あなたはお好きなように私を守ったり殺したりすることができます」と言って主に服従すべきです。純粋な献身者はそのようにしてクリシュナの庇護を受けます。そしてクリシュナは非常に感謝の気持ちが強いので、主は彼を受け入れ、彼に様々な保護を与えます。

これはシュリマッド・バーガヴァタム(11.29.34)で確認されています。そこでは、もしも死に掛けている人が至高主の完全な庇護のもとに入り、自分自身を完全に主の庇護のもとに置くなら、彼は実際に永遠の命を得て、至高主と関わって超越的な幸福を楽しむ資格を得る、と述べられています。

第9段落
主はそれからサナータナ・ゴスヴァーミーに、「実際的な(practical、現実的な、実用的な)献身奉仕」の様々な種類と特徴を説明なさいました。私たちの現在の感覚をもって献身奉仕がなされるとき、それは「実際的な献身奉仕」と呼ばれます。

実際は、献身奉仕は生命体の永遠の生命であり、すべての人の心臓の中に潜在的に存在しています。その潜在的な献身奉仕を呼び覚ます活動が「実際的な献身奉仕」と呼ばれます。つまり(The purport is、その意味は)、生命体は本来的に至高主の欠かすべからざる小片であるということです。

主は太陽に比べられ、生命体は太陽光の分子に比べられ得ます。幻惑的なエネルギーの魔力のもとで、霊的な火花はほとんど消えかけています。しかし、「実際的な献身奉仕」によって、人は自分の本来の立場を蘇らせることができます。

人が献身奉仕を実行するとき、彼は自分のもともとの正常な解放された立場に戻っているのであるということが理解されるべきです。献身奉仕は、真正なる霊的指導者の指示のもとで、人の感覚をもって実行され得ます。

第10段落
人は、クリシュナ意識における発達のための霊的な活動を、「聞く」ということによって始めます。聞くことは発達にとって最も重要な方法であり、人はクリシュナについて好意的に聞くことに非常に熱心であるべきです。すべての推量と結果を求める活動を放棄し、人は単に崇拝し、神への愛に到達するように望むべきです。

その神への愛は永遠にすべての人の内にあります。それは単に聞くという方法によって呼び起こされなければならないだけなのです。聞くことと唱えることは、献身奉仕の主要な方法です。
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by ammolitering4 | 2010-12-08 06:50 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(2)

第11章後半

第11章 「主への奉仕」後半

第10段落
一般に人々は何らかの物質的な欠乏を和らげるために献身者に近づきます。しかし、純粋な献身者の影響は人をすべての物質的な欲望から自由にするため、彼は徐々に献身奉仕の味わいを楽しむようになります。

献身奉仕はとても素晴らしくて純粋なので、それは献身者を浄化します。そして彼は、主への超越的な愛情ある奉仕に完全に携わるようになると、直ちにすべての物質的な野心を忘れます。その実際的な例はドゥルヴァ・マハーラージャです。

彼はクリシュナから物質的な何かを望み、そのため献身奉仕に携わりました。主がドゥルヴァの前に四本の腕を持ったヴィシュヌとしてお現れになったとき、ドゥルヴァは主に言いました。「我が親愛なる主よ。私は大いなる苦行と禁欲をもってあなたへの献身奉仕に携わったので、今こうしてあなたを見ています。

偉大な半神たちや偉大な賢人たちでさえ、あなたを見るのに困難を伴います。今、私は喜んでおり、そして私のすべての望みは満たされました。私は他に何も望みません。私は幾らかの壊れたガラスを探していましたが、その代わりに貴重で価値のある宝石を見つけました。」このように、ドゥルヴァ・マハーラージャは完全に満足し、彼は主に何らかの願い事をすることを拒否しました。

第11段落
840万の生命の種類の中を転生している生命体は、時として川を流れ下る丸太になぞらえられます。時として、偶然によって、丸太は岸辺に打ち上げられ、そのため更に下流に流されることを余儀なくされることから救われます。

シュリマッド・バーガヴァタム(Bhag10.38.5)には、次のようにすべての制約された魂を励ます節があります。「誰であれ、決して物質の束縛から逃れられないと考えて憂鬱になるべきではありません。なぜなら、ちょうど川に浮かんで下流に流れる丸太にとって岸に辿りつくことが可能であるように、必ず救われる可能性があるからです。」

この幸運は機会は、主チャイタンニャによっても議論されています。そのような幸運な出来事は、人の制約された人生の終末(decline、衰え、最終段階)の始まりだと考えられています。そしてそれは、もしも主の純粋な献身者との係わりがあれば生じます。

純粋な献身者と関わることによって、人は実際にクリシュナに魅了され始めます(to develop attraction for Krishna、クリシュナへの好みを育む)。様々な種類の儀式と活動があり、その一部は物質的な楽しみへと発達し、他の一部は物質的な解放へと発達します。

そして純粋な献身者との関わりの中でそれらの儀式的な活動によって主への純粋な献身奉仕が発達するわけですが、もしも生命体がそれらの儀式的な活動を習慣づければ、人の心は自然に献身奉仕に惹きつけられるようになります。シュリマッド・バーガヴァタム(10.51.54)において、ムチュクンダが次のように述べています。

(サンスクリット引用)

「我が親愛なる主よ。この物質世界の中で異なる生命の種を通って旅をしている間に、生命体は解放に向かって発達するかもしれません。しかし、もしも偶然によって彼が純粋な献身者にめぐり合うなら、彼は実際に物質エネルギーの束縛から解放されるようになり、あなた、すなわち至高の人格神の献身者になります。」

第12段落
制約された魂がクリシュナの献身者になるとき、主はご自分のいわれのないご慈悲によって、彼を二つの方法で訓練します。主は彼を外から霊的指導者を通して訓練なさいます。そして主は彼を内から超魂を通して訓練なさいます。シュリマッド・バーガヴァタム(11.29.6)には次のように述べられています。

「我が親愛なる主よ。たとえ誰かがブラーマーのそれのように長い命を得ても、彼はそれでもあなたを思い出している(remembering、思い出す、忘れないでいる)ことから得られる利益への感謝を表すことはできないでしょう。

いわれのないご慈悲によって、あなたはご自分を外からは霊的指導者として、そして内からは超魂としてお現しになり、すべての縁起の悪い状態を遠ざけられます。」

第13段落
もしも人がどうにかして純粋な献身者とめぐり合い、そしてクリシュナへ献身奉仕を捧げるという望みを育むなら、彼は徐々に至高神への愛という水準に上がり、そうして物質的なエネルギーの束縛から自由になります。これはシュリマッド・バーガヴァタム(11.20.8)においても説明されています。そこで主ご自身がこうおっしゃいます。

「物質的な活動によって誘惑されるからでもなく、それを嫌悪するからでもなく、自発的に私の活動に魅了される者にとっては、神への愛の完成に至る献身奉仕の道が可能になります。」しかし、純粋な献身者、すなわちマハートマー、偉大なる魂の恩恵無くして完成の水準に至ることは可能ではありません。

偉大な魂の慈悲無くしては、人は物質的な束縛からさえ解放されることができません。そして、至高神への愛という水準に上がることについては、言うまでもありません。これはシュリマッド・バーガヴァタム(5.12.12)においてシベリアのスィンド県のラフーガナ王とバーラタ王との間の会話の中で確認されています。ラフーガナ王がバーラタ王の霊的な達成を見て驚きを表したとき、バーラタは答えました。

(サンスクリット引用)

「我が親愛なるラフーガナよ。誰も偉大な魂、すなわち純粋な献身者によって恩恵を与えられることなくして、献身奉仕の完成された水準に至ることはできません。単に聖典に示された規律的な原則に従うことによって、あるいは放棄階級となることによって、あるいは家庭人の生活のあてがわれた義務を遂行することによって、あるいは霊的な科学の偉大な学徒になることによって、あるいは悟り(realization)のための厳しい禁欲や苦行を受け入れることによっては、誰も完成された水準に至ることはできません。」

同様に、無神論者である父ヒラニャカシプが自分の息子プラーラーダ・マハーラージャに、どうやって彼が献身奉仕に魅了されるようになったのかと尋ねたとき、少年はこう答えました。「純粋な献身者の足の埃によって恩恵を施されない限り、人は物質的な人生のすべての問題の解決策である献身奉仕の道に触れることさえできません。」(Bhag7.5.32)

第14段落
このように主チャイタンニャはサナータナ・ゴスヴァーミーに、すべての聖典は至高神の純粋な献身者との関わりを強調する、とおっしゃいました。至高主の純粋な献身者と関わる機会は、人の完全な完成の始まりです。これはシュリマッド・バーガヴァタム(1.18.13)においても確認されています。

そこでは、人が純粋な献身者との関わりによって得る利便と祝福は比べるものがない、と述べられています。それらは、天上の王国(heavenly kingdom)へ上げられることや、物質エネルギーからの解放とも、何ものとも比べられ得ません。主クリシュナもまた、これをバガヴァッド・ギーターの中の最も内密な教えのなかで確認なさいます。そこで主はアルジュナにこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「いつも私のことを考え、私の献身者になりなさい。私を崇拝し、あなたの敬意を私に捧げなさい。そうすればあなたは間違いなく私のところに来るでしょう。私はあなたにこれを約束します。あたなは私のとても親愛なる友人だからです。」(BG 18.65)

第15段落
クリシュナからのそのように直接的な教えは、いかなるヴェーダの教えよりも、あるいは規律的な奉仕と比べてさえ、もっと重要です。たしかに、知識を得るための多くのヴェーダの指令(injunction、主に禁止命令を指す)や、儀式的、および犠牲を捧げる活動、規律的な義務、瞑想の技術、そして推量的な方法などがあります。

しかし、「いつも私のことを考え、私の献身者になりなさい」というクリシュナの直接的な命令は主の最終的な命令として受け取られるべきであり、従われるべきです。もしも単にこの命令に納得して他のすべての仕事を放棄し、主への献身奉仕をするようになるなら、人は疑いもなく成功を収めるでしょう。

この宣言を確認するために、シュリマッド・バーガヴァタム(11.20.9)には、主シュリー・クリシュナの直接的な命令を完全に納得していない限りにおいて、人は自己認識のための他の道を辿るべきである、と述べられています。(訳注:自然な日本語にすれば「SBには~と書かれており、この宣言を確認しています」)

主の直接的な命令は「すべてを放棄して献身奉仕に携わるように」ということである、というのは、シュリマッド・バーガヴァタムとバガヴァッド・ギーターの結論です。

第16段落
主の命令を遂行することをしっかり納得することは、信念(faith)として知られています。もしも信念があれば、単に主クリシュナに献身奉仕を捧げることによって、儀式的な義務、犠牲、ヨガ、および知識を推量的に探求することを含む他のすべての活動は自動的に行われるということを、人はしっかりと納得します。

もしも人が主への献身奉仕がすべてを含むということを納得していれば、他のいかなる活動も必要とされません。シュリマッド・バーガヴァタム(4.31.14)には次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「木の根に水をやることによって、人は自動的に枝、小枝、および実に栄養を与えます。そして、胃に食べ物を与えることによって、すべての感覚が満足させられます。同様に、クリシュナに献身奉仕を捧げることによって、人は自動的に他のすべての形の崇拝に必要とされるものを満たします。」

信念が深く、このことを深く納得している者は、純粋な献身者として上げられる(to be elevated)資格があります。(訳注:「上げられる」というのは、単に自分だけの努力によって純粋な献身者になれるものではないから、という理由による表現だと思います。)

第17段落
納得の程度によって、3段階の献身者が存在します。第1級の献身者は、あらゆる種類のヴェーダ文献に精通しており、同時に上記の深い納得を持っています(訳注:上記のことを深く納得しています)。彼は他のすべての者を物質的な悲惨さの苦痛から救うことができます。

第2級の献身者は深く納得していて強い信念を持っていますが、彼は明かされた聖典から証拠を引用する力を持っていません。第3級の献身者は、その信念があまり強くない者です。しかし、献身奉仕を徐々に培うことによって、彼はやがて第2あるいは第1級の立場へ上げられる資格を得ます。

シュリマッド・バーガヴァタム(11.2.45-47)には、第1級の献身者は常にすべての生命体の魂として至高主を見る、と述べられています。すべての生命体をこのように見ることによって、彼はクリシュナを見、クリシュナだけを見ます。

第2級の献身者は、自分の完全な信念を至高の人格神の上に置き、純粋な献身者と友人になり、無邪気な(innocent、悪気の無い)人々を慈しみ(to favor)、無神論的な人や献身奉仕に反対する人を避けます。

第3級の献身者は、霊的指導者の指示に従って献身奉仕に携わったり、あるいは家族の伝統に基づいて携わったりし、そして主の神像を崇拝しますが、彼は献身奉仕の知識を培ってはおらず、献身者と非献身者を見分けることができません。

そのような第3級の献身者は実際に純粋な献身者であるとは考えられ得ません。彼はほぼ献身の列にありますが、彼の立場はあまりしっかりしていません。

第18段落
こうして人は、「人が主への愛と献身者への友情を見せ、無邪気な者に情け深く(to display mercy)、非献身者との関わりを渋るのであれば、その人は純粋な献身者と考えられ得る」と結論づけることができます。

そのような人は、献身奉仕を培うことによって、すべての生命体は至高存在の欠かすべからざる小片である、ということを知覚することができます。一つ一つの生命体すべての中に彼は至高の人格を見ることができます。

そしてそのため、彼はクリシュナ意識において大いに発達するようになります。この段階において、彼は献身者と非献身者の区別をつけません。彼はすべての人を主への奉仕において見るからです。彼はクリシュナ意識と献身奉仕に携わりながら、すべての偉大な性質を発達させ続けます。シュリマッド・バーガヴァタム(5.18.12)には、次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「至高主への純粋な混じりけの無い献身奉仕を得る者は、半神たちのすべての良い性質を発達させます。他方で、そのような奉仕を発達させない者は、いかなる物質的な資格にも関わらず、必ずや道を踏み外します。彼は精神的な(mental)水準の辺りで迷うからです。」このように、物質的な資格は献身奉仕無くしては無価値です。
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by ammolitering4 | 2010-12-06 03:08 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(6)