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なぜ私は存在しているのでしょう。

メールマガジンというのか分かりませんが、毎日届くメールがあります。クリシュナ意識の偉いお坊さんがほんとに一日も欠かさずに書いていらっしゃるのです。サンカーシャン・ダス・アディーカリー(Sankarshan Das Adhikari)という方です。正直なところ、毎日は読んでないです。せっかく毎日ご老体に鞭打って書いてくださっているのですから読まなきゃいけませんが、ついつい毎日だと面倒臭くなってしまって、いけないなあと思っています。このメールの中に読者からの質問とそれに対する答えのコーナーがあるのですが、今日はそれが面白かったのでご紹介します。質問はそのものずばり、「なぜ私は存在しているのですか」というものです。ほんと、何でかねえと思うことは多いのです。死ねば何とかなるかなと思っても、そう甘くはない、死んだって存在は続くのだよ、と言われるのですから、どうしようもありません。

Question: Why Do I Exist?
質問:なぜ私は存在しているのですか?

Respected Gurudeva,

Why am I created? What is the purpose of getting this life of mine? I don't find any answer. Please enlighten me.
なぜ私は創られたのですか?この私の生命(人生)を得た目的は何ですか?どんな答えも見つけることができません。教えてください。

Priya


Answer: To Love God.
答え:神を愛するためです。

The Supreme Personality of Godhead is eternally emanating you from Himself for the purpose of enjoying a loving relationship with you. In short, you exist for the purpose of loving God.
至高の人格神はあなたを永遠にご自分から放射なさっています。あなたと愛情のある関係を楽しむことが目的です。つまり、あなたは神を愛するという目的のために存在しています。

Sankarshan Das Adhikari

ふーむ。。。自分が神様から放射しているところを想像してみます。粒みたいに小さいけれど、この際大きさは無視するとして、放射されているのですから離れていて、向きが神様と反対です。闇を向いてるわけです。くるっと振り向いて「まあ、そこにいたのね」という場面がいつの日か実現するでしょうか。やっぱり二人の人がいれば、並んで同じ方向を向いているか、お互い向き合っているのがいいような気がします。そっぽを向いている、あるいは相手の存在を忘れているというのは絶望的にさみしいものです。

周りにたくさんの人がいて、そこに愛情の交流を求めても、お互い放射物だからはかなくて弱い。手の平に落ちては解けてしまう雪の結晶のようで、求めても求めても満たされることはあり得ません。いい加減で見切りをつけて、源である解けない雪雲に手を伸ばしたいものです。
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by ammolitering4 | 2010-11-15 17:04 | Comments(2)

第11章 前半

第11章 主への奉仕

第1段落
ヴェーダの知識の山ほどの本を編纂した後でさえヴャーサデヴァが満足していなかったとき、彼の霊的指導者ナーラダ・ムニは、献身奉仕と混じりあうことなくして成功しうる自己認識の道はない、と説明しました。そのとき、ヴャーサデヴァはサラスヴァティー河の土手のそばに座っていました。

そして彼はナーラダ・ムニが訪れたとき、憂鬱の状態にありました。ヴャーサがそれほど気落ちしているのを見て、ナーラダはなぜ彼が編纂した様々な本が不完全(deficient:欠陥がある、何かが欠けている)であるのかを説明しました。

第2段落
「純粋な知識でさえ、超越的な献身奉仕が欠けていれば不十分です」とナーラダは言いました。「そして、献身奉仕が欠けているなら、結果を求める活動については言わずもがなです。それを実践する人にとって、どうしてそれが何らの益となりうるでしょうか?」

第3段落
禁欲(austerity:禁欲、苦行)を実践するのに熟達した多くの賢人たちがいます。慈善として多くを与える人々がたくさんいます。多くの有名な人や学者や思想家たちがいて、ヴェーダの聖歌を詠唱するのに熟達した人たちがいます。

これらはすべて縁起の良いものですが、人が主への献身奉仕に至るために自分の財産(resources:才能、資源、資力)を使ったり活動をしたりしない限り、彼は望む結果を得ることができません。したがって、シュリマッド・バーガヴァタム(Bhag.2.4.17)においてシュカデヴァ・ゴスヴァーミーは、成功を授けることのできる唯一の人として至高主に敬意を捧げました。

第4段落
様々な哲学者や超越主義者たちによって、「知識に欠ける者は物質的に絡みついた状態から解放されることができない」ということが受け入れられています。しかし、献身奉仕の欠けた知識は決して解放を授けることができません。

言い換えると、ジナーナ、すなわち知識を培うことが献身奉仕の道に繋がるとき、それは人に解放を与えることができますが、そうでなければそうならない、ということです。これはブラーマーによってシュリマッド・バーガヴァタム(Bhag.10.14.4)においても述べられています。

(サンスクリット引用)

「我が親愛なる主よ。あなたへの献身奉仕は、自己認識への最良の道です。もしも誰かがその道を放棄して知識を培うことや推察をすることにいそしむなら、彼は単に問題に満ちた過程を辿り、望む結果を得られないでしょう。

空っぽの麦の殻を叩く者は、穀物(訳注:殻の中の実)を得ることができません。そして単に推察的な知識(を得ること)にたずさわる者は、自己認識という望む結果を得ることができません。苦労が得られるだけです。

第5段落
バガヴァッド・ギーターには(Bg7.4)、物質自然は非常に強力なので、普通の生命体によっては克服され得ない、と述べられています。クリシュナの蓮の御足に服従する者だけが物質的な存在の大海を横切ることができます。

生命体は自分が永遠にクリシュナの従者であるということを忘れ、そして彼の忘れっぽさは、制約された人生の中で呪縛されることと、物質的なエネルギーに魅了されることの原因になります。実に、その「魅了されること」が物質的なエネルギーの手かせ足かせなのです。

物質自然を制御したいと望む限り、人にとって自由になるのはとても難しいので、霊的指導者に近づくことが勧められています。霊的指導者は、人を献身奉仕において訓練することができ、物質自然に束縛されている状態から自由になって、クリシュナの蓮の御足に至ることを可能にします。

第6段落
人間の社会には、義務の遂行を容易にするために作られた八つの部門があります。
ブラーマナ ---知識人
クシャトリヤ ---行政官
ヴァイシャ ---商人と農民
シュードラ ---労働者

および4つのアーシュラマ。
ブラーマチャーリー ---学生
グリハスター ---家庭人
ヴァーナプラスター ---引退者
サンニャーシー ---放棄階級者

しかし、もしも人が献身の念、あるいはクリシュナ意識に欠けているなら、たとえ自分にあてがわれた義務を果たしても、彼は物質的な呪縛から解放され得ません。その反対に、たとえ自分にあてがわれた義務を果たしていても、彼は物質的な意識のために地獄へとすべり落ちます。

したがって、自分の本来的な義務にたずさわっている者は、もしも物質的な束縛からの解放を望むなら、同時に献身奉仕におけるクリシュナ意識を培わねばなりません。

第7段落
このことに関して、主チャイタンニャは、バーガヴァタの修養の道を指し示すためにナーラダ・ムニによって述べられたシュリマッド・バーガヴァタムの中の一節を朗唱なさいました。ナーラダ・ムニは、人間の社会の4つの区分、および人生の4つの段階は、主の巨大な形から生じたものであると指摘しました。

ブラーマナは主の普遍的な形の口から生まれ、クシャトリヤは腕から生まれ、ヴァイシャは胴から生まれ、そしてシュードラは脚から生まれました。そのため、彼らはヴィラータ・プルシャの形の中で、物質自然の異なる相に対応しています(are qualified in:~において資格や資質がある)。

もしも人が主への献身奉仕にいそしんでいないなら、彼は自分にあてがわれた本来的な義務を果たそうが果たすまいが、自分の位置から下落します。

第8段落
主チャイタンニャはさらに、マーヤーヴァーディー、すなわち非人格主義の学派に属する者たちは自分たちを神と一つである、すなわち解放されていると考える、と指摘なさいます。しかし、チャイタンニャ・マハープラブご自身とシュリマッド・バーガヴァタムによれば、彼らは本当は解放されていません。

このことに関して、チャイタンニャ・マハープラブはさらに、シュリマッド・バーガヴァタム(10.2.32)を引用なさいます。

(サンスクリット引用)

「マーヤーヴァーディー哲学に基づいて自分は解放されていると考え、しかし主への献身奉仕を習慣づけていない者は、最も厳しい種類の苦行や禁欲を行った後でさえ、そして時として至高の位置に至った後でさえ、献身奉仕が欠けているために(for want of)堕落します。

第9段落
チャイタンニャ・マハープラブは、クリシュナはちょうど太陽のようであり、マーヤー、すなわち幻惑的な(illusory:錯覚や幻想を招き、惑わせるような)物質エネルギーはちょうど闇のようである、と説明なさいます。

常にクリシュナの太陽光の中にある者は、決して物質エネルギーの闇によって惑わされ得ません。これはシュリマッド・バーガヴァタムの4つの主要な節の中に非常に明確に説明されており、シュリマッド・バーガヴァタム(Bhag.2.5.13)においても確認されています。

そこには「マーヤー、すなわち幻惑的なエネルギーは、主の前に立つのを恥じる」と述べられています。それでも、生命体は常にこの幻惑的なエネルギーそのものに惑わされています。その制約された状態において、生命体は、マーヤーの束縛から一見解放されたかに見える状態を得るために(to get apparent liberation:apparentは「見かけ上の」という意味)、様々な形で巧みに言葉を操ります。(訳注:「巧みに言葉を操る方法をたくさん見出します」と言ったほうがいいかもしれません。)

しかし、もしも彼が単に一度だけ「我が親愛なる主、クリシュナよ。今日この日から私はあなたのものです」と言うことによって心からクリシュナに服従するなら、彼は直ちに物質エネルギーの束縛から逃れます。これはラーマーヤナ・ランカー・カーンダ(18.33)においても確認されています。そこで主は次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「無条件に私に服従する者にすべての庇護を与えるのは私の約束であり、義務です。」人は結果を求める活動や解放、ジニャーナ、あるいはヨガ体系の完成を楽しむかもしれません。しかし、もしも非常に知性的になれば、人はこれらすべての道を放棄し、主への誠実な献身奉仕にいそしむでしょう。

シュリマッド・バーガヴァタム(2.3.10)においても、たとえ物質的な楽しみや解放を望んでいても、人は献身奉仕にいそしむべきである、と確認されています。献身奉仕から物質的な利益を得ることに熱意のある者は、純粋な献身者ではありません。

しかし彼らは献身奉仕にいそしんでいるので、幸運であると考えられます。彼らは、献身奉仕の結果は物質的な恩恵ではない、といういことを知りません。しかし、彼らは主への献身奉仕にいそしむので、究極的には「物質的な楽しみは献身奉仕の目的地ではない」と理解するようになります。

クリシュナご自身が、「献身奉仕と引き換えに何らかの利益を求める者は確かに愚かである、なぜなら彼らは自分たちにとって毒である何かを望んでいるからだ」とおっしゃいます。献身奉仕の本当の目的は至高神への愛です。

そして、人はクリシュナから物質的な利益を求める(望む)かもしれませんが、全能の(all-powerful:絶大な力のある、万能の)神は人の立場を考慮し、徐々に彼を物質的に野心的な人生から引き上げ、彼がもっと献身奉仕にいそしむようになさいます。

人が実際に献身奉仕にいそしんでいるとき、彼は自分の物質的な野心や望みを忘れます。これもまたシュリマッド・バーガヴァタム(5.19.27)によって確認されています。

(サンスクリット引用)

「主クリシュナは、たしかに献身奉仕によってご自分のところに来る献身者の望みを叶えられます。しかし、主は再び悲惨さを引き起こす望みは叶えられません。物質的に野心的であるにも関わらず、そのような献身者は超越的な奉仕をすることによって物質的な楽しみへの望みが徐々に清められ、献身奉仕の喜びを望むようになります。
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by ammolitering4 | 2010-11-13 16:14 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

第10章 後半

第8段落
ゴピーたちの心は、いつもクリシュナの体の甘さを味わうことに携わっています。主は美しさの海であり、主の美しい顔と微笑みと主の体の光沢は、ゴピーたちの心にとって何よりも魅力的です。クリシュナ・カルナームリタの中で、主のお顔、微笑み、そして体の光沢は、「甘く、より甘く、そして最も甘い」と描写されています。

クリシュナの完璧な献身者は、クリシュナの体の光沢、主のお顔と微笑みを見ることで圧倒されます。そして彼は超越的な発作の海で沐浴します。クリシュナの美しさの前では、ちょうど苦しみからの解放のために水を飲むことさえさせずに医者が継続を許す発作のように、これらの発作はしばしば治療されることなく続きます。

第9段落
献身者は、クリシュナがいないことを(時が経つにつれて)ますます強く感じます。主がいらっしゃらないと、主の美しさの蜜を飲むことができないからです。クリシュナの笛の超越的な音が聞こえるとき、その笛(の音)を聞き続けたいという献身者の切望は、彼が物質的な世界の覆いを突き抜けて霊的な世界に入ることを可能にします。

そこでは、笛の超越的な音色がゴピーたちに従う者たちの耳に入ります。クリシュナの笛の音は、いつもゴピーたちの耳の中に住み、彼女らの恍惚感を増します。それが聞こえるときは、他のどんな音も彼女たちの耳には入りません。そして家族の中にあっては、彼女たちは問いかけに正しく答えることができません。これらすべての美しい音が彼女らの耳の中で響いているからです。

第10段落
このように主チャイタンニャはクリシュナの超越的な性質、主の拡張体、主の身体的な光沢、そして主に関わるすべてのものを説明なさいました。つまり、主チャイタンニャはクリシュナをありのままに説明なさり、人が主に近づくための方法(process:過程)も説明なさったのです。

このことに関して、チャイタンニャ・マハープラブはクリシュナへの献身奉仕が主に近づくための唯一の方法であると指摘なさいました。これがヴェーダ文献の判断です。賢者たちは次のように宣言なさいます。

「もしも誰かが超越的な認識の方法をはっきりと知るためにヴェーダ文献を調べるなら、あるいはもしも誰かが(姉妹文献と考えられている)プラーナを参照するなら、その人はそれらすべてにおいて、結論は至高の人格神クリシュナが唯一の崇拝の対象である、ということを見出すでしょう。」

第11段落
クリシュナは完全真理、至高の人格神であり、主はご自分の内的な力の中に位置しておられます。それはバガヴァッド・ギーターにおいて描写されているように、スヴァルーパシャクティあるいはアートマ・シャクティとして知られます。

主はご自分を様々な多数の形に拡張なさいます。そしてこれらのうちの一部は主の個人的な形として知られ、(別の)一部は主の離れた形として知られます。このように、主はすべての霊的な惑星において楽しまれ、物質的な宇宙においても楽しまれます。

主の離れた形の拡張体は生命体と呼ばれ、これらの生命体は主のエネルギーに応じて分類されます。彼らは二つの階層に分けられます。永遠に解放された者と永遠に制約された者です。永遠に解放された生命体は、決して物質自然に触れることはありません。

そしてそのため、彼らには物質的な人生の経験が全くありません。彼らは永遠にクリシュナ意識に、すなわち主への献身奉仕に携わっています。そして彼らはクリシュナの仲間に数えられます。彼らの喜び、彼らの人生の唯一の楽しみは、クリシュナに超越的な愛情を込めた奉仕をすることから得られます。

一方で、永遠に制約されている者はいつもクリシュナへの超越的な愛情ある奉仕から離れており(divorced:離別、絶縁、離婚)、そのため物質的な存在の三重の悲惨さの影響を受けます。制約された魂の「クリシュナからの分離」という永遠の態度(attitude)のため、物質的なエネルギーの魔法は彼に2種類の身体的な存在を授けます。五つの要素からなる密度の濃い体と、心と知性と自我からなる密度の薄い体です。

これらの二つの体によって覆われているため、制約された魂は三重の悲惨さとして知られる物質的な存在の痛みに永遠に苦しみます。彼はまた、(欲望、怒りなどの)6つの敵にも影響されます。それが制約された魂の終わり無き病です。

第12段落
病んでおり、制約されているので、生命体は宇宙全体を転生します。時として彼は上位の惑星系に位置し、別のときには低位の惑星系に位置します。このようにして彼はその病んだ人生を送ります。彼の病は、熟練した医者、すなわち真正なる霊的指導者に出会って彼に従うときにだけ癒されます。

制約された魂が誠実に(faithfully)真正なる霊的指導者の教えに従うとき、彼の物質的な病は癒され、彼は解放された水準に上げられます。そして彼は再びクリシュナへの献身的な奉仕を行うに至り、家へ、クリシュナのもとへ帰ります。

制約された生命体は彼の本当の立場に気づくようになるべきであり、主に次のように祈るべきです。「欲望や怒りなどの、これらすべての身体的な機能の制約のもとに、私はあとどれだけ留まるのですか?」

制約された魂の主人として、欲望や怒りは決して慈悲深くありません。実に、制約された魂は決してそのような悪い主人たちに奉仕をすることを止めません。しかし、自分の本当の意識に、すなわちクリシュナ意識に至ると、彼はこれらの悪い主人を捨てます。

そして、クリシュナの庇護を得るために、率直で広い(frank and open)心を持ってクリシュナに近づきます。そのようなとき、彼は「主への超越的で愛情ある奉仕に携わることができるように」とクリシュナに祈ります。

第13段落
ヴェーダ文献においては時として、結果を求める活動や神秘的なヨガや知識を求める推察的な探求が、自己認識のための異なる方法として讃えられます。しかし、そのような賞賛にも関わらず、すべての文献において献身奉仕の道は最高のものとして受け入れられています。

言い換えると、主クリシュナへの献身奉仕は自己認識への最高の完全なる(perfectional: perfectと同義だが一般的ではない)道であり、それを直接的に実行することが勧められています。結果を求める活動、神秘的な瞑想、および哲学的な推察は、自己認識の直接的な方法ではありません。

それらは間接的です。献身奉仕なくしては、それらは自己認識の最高の完成に至ることができないからです。実に、自己認識のすべての道は究極的には献身奉仕の道に依り頼みます。

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仕事について、どうしようかなあと考えることが多いです。ヴェーダの教えによれば、女性は男性に守られながら幸せな家庭を育むべき存在です。個人によってそういう暮らしが性格的に向かない人もいると思いますが、古今東西の歴史を眺めても生理的な構造を見ても、その教えは決して間違ってはいないと思います。ところが、世は(初期とはいえ)カリユガ。人々の生き方は方向性に欠けて滅茶苦茶で、私もご多分にもれません。家庭らしい家庭も子供も持たずに外国で貧乏暮らしを続けています。魂は永遠だから別にいくらでもやり直しはきくとはいえ、やっぱりできることなら今回の人生も充実させたい、と欲を張ってしまいます。

私は技術的な修練の足りない絵描きです。あなたは誰ですか、と聞かれれば、「魂です」という答えの次に出すべき答えはこれでしょう。その他には、「喫茶店のおばさん、いや、おねえちゃんです」、「ロシア語の話せないロシアかぶれです」、「語彙が足りない翻訳家です」なども考えられます。どうもあんまり全然お金にならないことばかりなので、はっきり言って生活していけません。どうやって生きているのか、自分でも不思議です。クリシュナがなぜか私が死なない程度に生かしているから生きているだけなのだと思います。

死についての心配はしていないのです。どっちにしても死ぬまでは生きているわけだし、次にまたどこかで生まれるかと思うと気が重い程度です。生きている間をどうする、どうやって過ごす、それだけが私の問題です。一つには、慣性の法則みたいなものですが、今の方向性が未来につながります。クリシュナがいらっしゃる場所から目を離さずにいれば、そのまままっすぐそっちの方向に飛んでいくでしょう。もう一つはもうちょっと実際的な問題です。仕事とお金をどうしようかなということです。もともとの私の仕事というのは何なのでしょう。必要なものはクリシュナが恵んでくださるでしょう、と言ってじっと座っていてもいいのかもしれませんが、ちょっと違うような気もします。

私たちは小さいです。限られた時間と限られた能力と限られた資源の中でどう行動するかを考えなければなりません。翻訳も中途半端、絵も中途半端、喫茶店に骨をうずめる覚悟もない、という状態で他の仕事に手を出しても、結局ろくな結果にはならないでしょう。何だかこうやって文章にしながら考え事をしているわけですが、やっぱり細々と隙間の時間を使いながら翻訳と絵を続けていくのが私には合っているのかもしれません。あいにく、通勤の電車の中の10分、休憩時間の15分、コインランドリーで洗濯を待つ間の30分、という程度でできることはたかが知れています。それに、夏はベリー摘みもしなければならないのです。散歩に行って近所の猫をキャットニップでたぶらかすことも怠るわけにはいきません。

。。。輝かしき新しいキャリアに向かってレッツゴーという展開は望めそうもないな、という結論がこうして自動的に導き出されるのでした。まあ、地味にお付き合いください。
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by ammolitering4 | 2010-11-11 14:42 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

第10章 前半

こんにちは。ずいぶん長いことお待たせいたしました。さんざん待たせた上にほんのちょっとだけですみません。例によって、文体や語法の不自然さはご了承いただけますようお願いいたします。

第10章 クリシュナの美しさ

第1段落
クリシュナはマダナ・モハナとして知られています。主はキューピッドの心を征服なさるからです。主はまた、主がマダナ・モハナとして知られているのは、ヴラジャの高貴な娘たちの献身奉仕を受け入れて彼女らに恩恵を施したからでもあります。

キューピッドの誇りを征服したあと、主は新しいキューピッドとしてラーサの踊りを踊られます。主はまた、形(form:姿)、味、匂い、音、および触れることというご自分の5本の矢をもって女たちの心を征服することによっても、マダナ・モハナとして知られています。

クリシュナの首にかけられた首飾りの真珠はアヒルのように白く、主の頭を飾る孔雀の羽は虹のような色をしています。主の黄色の衣服は空の稲妻のようであり、そしてクリシュナご自身は新しく現れた雲のようです。

ゴピーたちは主の足を飾る鈴のついた飾りのようであり、そして雲が畑の穀物に雨を降らせるときは、クリシュナがご自分の恵みの雨を戯れに降らせることによってゴピーたちの心を潤すかのように見えます。
訳注1.(pastime rain of mercy:娯楽として降らせる恵みの雨)
訳注2.(to call down:通常は「何かを求めて祈る」という意味の熟語)

実に、アヒルは雨季に空を飛びます。そしてそのときに虹も見られます。クリシュナはヴリンダーヴァンにおいて牛飼いの少年として自由にご自分の友人たちの間を動き回ります。そして主がご自分の笛を吹くと、動くもの動かぬもの、すべての生命体が恍惚感で圧倒されます。

彼らはぶるぶると震え、彼らの目から涙が流れます。クリシュナの様々な財産(opulence:富裕さ)の中で、主の恋人としての愛は最高のものです。主はすべての豊かさとすべての力とすべての名声とすべての美しさとすべての知識とすべての放棄の主人です。

そして、これらのうちで主の完全な美しさは、主の恋人としての魅力です。クリシュナの形、恋人としての美しさは、永遠にクリシュナの中だけに存在しています。他方、主の他の財産は主のナーラーヤナの形の中に存在しています。

第2段落
クリシュナの恋人としての魅力のこの上ない素晴らしさを描写したとき、主チャイタンニャは超越的な恍惚感を感じられました。そして主はサナータナ・ゴスヴァーミーの両手をとって、シュリマッド・バーガヴァタム(10.44.14)から節を引用し、ヴラジャの高貴な娘たちがいかに幸運であるかを述べ始められました。(to proclaim:宣言する)

(サンスクリット引用)

「ヴリンダーヴァンの高貴な娘たちは、どんなにか素晴らしい(great:大変な)苦行と禁欲を行ったに違いありません。彼女たちはクリシュナの甘露を飲むことができるからです。主はすべての美しさ、すべての力、すべての富、すべての名声であり、主の体の光沢はすべての美しさの中心です。」

第3段落
若さ(youth:若者、若さ)の永遠の美しさの海であるクリシュナの体は、美しさの波になって動くのが見られます。主の笛の音にはつむじ風があり、そしてそれらの波とつむじ風は、ゴピーたちの心を木の上の乾いた葉のように舞わせます。

そしてそれらの葉がクリシュナの蓮の御足の元に落ちるとき、それらは決して再び立ち上がれません。クリシュナのそれと比べる美しさはありません。クリシュナよりもすばらしい、あるいはクリシュナと同じ程度の美しさを持っている者は誰もいないからです。

主がナーラーヤナの形を含むすべての形の源であるので、ナーラーヤナと常に一緒にいる幸運の女神は、ナーラーヤナのそばを離れ、クリシュナのそばにいられるようになるために苦行を行います。すべての美しさの永遠に尽きない宝庫であるクリシュナの、この上ない美しさの偉大さはそれほどのものです。すべての美しいものが放射するのは、その美しさからです。(訳注:すべての美しさの源は、クリシュナのその美しさである)

第4段落
ゴピーたちの心のありよう(attitude:態度、雰囲気など)は、クリシュナの美しさの反映が毎瞬現れる鏡のようです。クリシュナとゴピーたちは、どちらも毎瞬自分たちの超越的な美しさを増します。そして、彼らの間にはいつも超越的な競争があります。

自分の本質的な(occupational:職業的な)義務を正しく遂行すること、あるいは禁欲や神秘的なヨガを行ったり知識を培ったりすること、あるいは祈りによっては、誰もクリシュナの美しさを本当に認識する(to appreciate:真価を認める)ことができません。

神への愛という超越的な水準にある者、愛ゆえに献身奉仕に携わる者のみがクリシュナの超越的な美しさを本当に認識することができます。そのような美しさは、すべての富裕さの本質であり、他の場所でなくゴロカ・ヴリンダーヴァンにおいてのみ本当に認識されます。

ナーラーヤナの形において、慈悲、名声その他の美しさはすべてクリシュナによって体現されています(to establish:立証する、設立する、など)。しかし、クリシュナの優しさと寛大さはナーラーヤナには存在しません。それらはクリシュナの中にのみ見出されます。

第5段落
サナータナにご説明なさっていたシュリマッド・バーガヴァタムのすべての節を大いに味わいながら、主チャイタンニャはもう一つの節を引用なさいました。(Bhag.9.24.65)

(サンスクリット引用)

「ゴピーたちは、恒久的な楽しみの儀式としてクリシュナの美しさを味わっていたものでした。(訳注:儀式ででもあるかのように常にクリシュナの美しさを味わっては楽しんでいた、という意味か)彼女らは、クリシュナの美しい顔を、イヤリングをつけた主の美しい耳を、主の広い額と主の微笑みを楽しみました。

そして、このクリシュナの美しさの光景を楽しんでいるとき、彼女たちは瞬きをしてまぶたが閉じることで自分たちの目に映るクリシュナの姿が一時的に遮られることに対して、創造者であるブラーマーを非難していたものでした。」

第6段落
カーマ・ガーヤトリーとして知られるヴェーダの聖歌は、クリシュナのお顔をすべての月の王として描写しています。隠喩的な言語においては、多くの月が存在します。しかし、それらはクリシュナにおいて一つです。

主の口という月があり、主の頬という月があり、主の体の上の白檀の粉の水溶き(sandalwood pulp)という月の点があり、主の手の指先という月があり、主の足の指の先という月があります。このように、24.5個の月があり、クリシュナはそれらすべての中心的な人物です。

第7段落
クリシュナのイヤリング、目、そして眉の踊るような動きは、ヴラジャの高貴な娘たちにとって非常に魅力的です。献身奉仕における活動は献身奉仕の感覚を増します。二つの目にとって、クリシュナの顔の他に(beyond)何の見るものがあるでしょうか?(訳注:beyondには何かを越えて、という意味合いがあるので、 クリシュナの顔よりも見る価値の高いものがあるだろうか、という意味を含む)

人はたった二つの目ではクリシュナを十分に見ることができないので、自分には能力がないと感じ、そのため悲嘆にくれます(bereaved:肉親を失くした)。そのような悲嘆は、人が創造者の創造的な力を非難するとき、多少減ります。

クリシュナの顔を見る満ち足りていない者は、それでも嘆きます。「私には何千もの目がありません。たった二つだけです。そして、これらは私のまぶたの動きによって遮られます。したがって、この体の創造者はあまり知性的ではないと理解されます。

主(創造者)は、恍惚の業に精通していらっしゃいません。そうではなく、主は単なる平凡な創造者です。主は人がクリシュナだけを見ることができるように物事を正しく配置する方法をご存知ありません。」
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by ammolitering4 | 2010-11-11 04:48 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(2)