<   2010年 03月 ( 5 )   > この月の画像一覧

規律は何のため

いつも思うのですが。。。私はどれくらい真剣なのでしょう。クリシュナのもとに帰りたい、本来の姿に戻りたい、という気持ちは、確かにそこにあります。それは本来すべての生命体の心の中に潜在的に存在するものであり、自分の中にあるそれも否定するわけではありません。それは強く感じられるときもあるし、しかし忘れているときのほうが多いような気がします。チャンティングにしても4つの規律的な原則にしても、べつに守らなかったからと言って地獄へ直行というわけではないと思います。でも、こういうのは「特定の目的に照らして、最も効率的に目標を達成するためにはこれは避けなさい、これをしなさい」という性格のものです。当然、守らなければ自分の発達が阻まれます。それが分かっていながら、本気で厳密に守ろうとしていません。罪悪感あるいは自己嫌悪と共に、「まあ、この程度は、、、まあ今日は面倒くさいから、、、」と言って自分に怠慢の許可を与えてしまいます。そういう自分を見ていると、結局心から本気で神様のもとへ帰ることを望んではいないのだろうなと結論せざるを得ません。

ひるがえって物質界を見れば、心のひっかかりがたくさんあります。苦しい時には神頼みしますが、日頃はそれくらいの真剣さをもって物質界における人間関係について考えていたりします。築くべき関係を築いていない相手や、修復すべき関係を修復していない相手、(私が)果たすべき責任を果たしていない相手などに対して、きちんとした働きかけをしていません。それもやっぱり単なる怠慢であるわけですが、行動せずに悶々と無駄に思い悩むわけです。これも同じように、結局は真剣さの欠如ということなのでしょう。でも、多くの場合はこちらの問題のほうが身近に感じられ、根源的ではあるけれどかすかな神への渇望は容易に忘れさられてしまいます。

心から本気で何かを望めば、自分を律することも苦痛ではなくなり、むしろ今では誘惑と感じられるものが嫌いになるのではないかと思います。今現在でも、私はテレビドラマを観たりナイトクラブに行ったりしませんが、これは別に我慢しているわけではなく、私の嗜好に合わないからです。肉を食べないのも、死体を食べるということが生理的に受け付けがたいから、というのが原点にあります。子供の頃は抵抗感を感じつつも出されたものは食べていましたが、それをおいしいと感じる自分の舌が屈辱的だと感じていました。体をもって生きていること自体が屈辱的だと感じていたのですが、その大きな原因の一つはこれだと思います。ただ、この感覚は大人になるにつれて薄れていきましたけれど。

正直なところ、魚と卵に関してはそれほどの抵抗感はありません。でも、卵を食べないのは鶏が怒るから、あるいは卵の生産工場の様子を実地で知っているから。そして魚を食べないのは川や海にゴミとか排水とかし尿などを平気で投棄しているから。みんな気持ち悪くないのかな、と不思議です。いくら「検査したら水銀濃度は規定以下でした」とか言っても、気持ちの問題です。小さい頃に遊んでいた川の横に大きな工場ができて、太いパイプから不気味な排水がどんどん川に流されるようになりました。海は大きいので、それでも綺麗な部分は綺麗なのでしょうけれど、どうもねえ、やっぱり海流とかあるし、、、と思ってしまいます。でも、そういう気持ちは哺乳類の肉に対する抵抗感よりもずっと少ないので、「ベジタリアンであれば肉を食べない人」の私のために誰かが作ってくれた料理の中に卵や魚が混じりこんでいても、まあいいや、と思って食べたりします。目玉焼きとか刺身とかはご遠慮しますが。。。

こういうのって、非献身者との付き合いが多い、あるいは日頃の暮らしでそれしかないに等しい私にとっては割と難しいものです。白でないなら灰色も黒、戒律なんかもうどうだっていい、とまで割り切る気持ちにはなれませんが、かといって真っ白で生きていくのは私には無理でしょう。他の事項だって、酒も煙草もしない、とは言いつつ、もともと多少ならず陶酔物好きな私は今でもときどき酒粕で甘酒を作ったりします。アルコールはほとんどないですけど。奈良漬の一気食いと同程度ではないでしょうか。それにカフェインだって、ほとんど摂らないとはいえ、お茶に招いて頂いた時など飲んだりします。こういうのもすべて「じゃあちょっとだけ。。。」という気持ちを全く感じないようになったら、そのときは私ももうちょっと真剣になったということなのだと思います。

舌と性器を統御するものは心を統御できるとプラブパーダもおっしゃいます。舌の働きは、味わうことと喋ること。(これには書くことも含まれます。)無駄なお喋りも結構してるかも。。。もう一つのシタの統御については、とりあえず素敵なお兄さんたちから次々と誘われてどうしようもないという問題がないので安泰です。でも、これもグレーゾーンはかなり広そうです。かくも難しきは肉体の統御かな。やっぱりこれを最後にお願いしたいものです。
[PR]
by ammolitering4 | 2010-03-26 00:10 | その他 | Comments(4)

第1章 ルーパ・ゴスヴァーミーへの教えー4

第39段落

私たちが「クリシュナでないもの」あるいは「クリシュナと関係のない欲望」について語るとき、これはクリシュナなくして何かが存在し得るということを意味するのではありません。実際は、「クリシュナでない」何ものかというのは存在し得ません。すべてはクリシュナのエネルギーの産物だからです。

クリシュナと主のエネルギーは同一であるので、間接的にすべてはクリシュナです。例えば、意識はすべての生命体に共通するものですが、意識が純粋にクリシュナに集中しているとき(クリシュナ意識)、それは純粋であり、そして意識がクリシュナでない何かに集中しているとき、あるいは感覚の満足に向けられているとき、それはクリシュナ意識でないものと呼ばれるでしょう。

このように、「クリシュナでないもの」という概念が生じるのは、汚染された状態でのことです。しかし純粋な状態ではクリシュナ意識しかありません。

第40段落

クリシュナへの動的な関心、すなわちクリシュナは私のもの、あるいは私はクリシュナのもの、そしてそのため私の仕事はクリシュナの感覚を満足させることだ、というのは、シャーンタ・ラサの中間性よりも高い水準において典型的なものです。

単にクリシュナの偉大さを理解することによって、人はシャーンタ・ラサの地位を得ることができます。そこでは、崇拝の対象は非人格のブラーマン、あるいはパラマートマーであるかもしれません。非人格のブラーマンとパラマートマーの崇拝は、経験主義的な哲学的な推察と神秘的なヨガに携わる者によって行われます。しかし、クリシュナ意識、あるいは霊的な理解においてさらに発達すると、人はパラマートマー、すなわち超魂が永遠の崇拝の対象であるということを深く認識し(to appreciate)、主に服従します。

(サンスクリット引用)(BG7.19)

「ブラーマンとパラマートマーを崇拝する生を非常に多く繰り返した後で、至高の主人としてのヴァースデヴァに服従し、自らをヴァースデヴァの永遠の従者として受け入れるとき、人は超越的な悟りを開いた偉大な魂になります。」

そのときに、至高の完全真理との関係の濃さに応じて、人は至高の人格神に何らかの超越的な愛情ある奉仕を始めます。こうして、シャーンタ・ラサとして知られる中間的な関係がダーシャ・ラサ、すなわち主従関係に変わります。

第41段落

ダーシャ・ラサの水準では、至高主への最大の量の畏怖と崇敬が表されます。それは、ダーシャ・ラサにおいては至高主の偉大さが深く認識されるということです。ここで、シャータ・ラサの水準では霊的な活動はないけれど、ダーシャ・ラサの水準では奉仕が始まる、ということが特筆されるべきです。

このように、ダーシャ・ラサではシャーンタ・ラサの性質が表され、それに加えて奉仕の超越的な味わいという意識があります。

第42段落

シャーンタ・ラサとダーシャ・ラサには、確かに超越的な性質があります。しかし、これらの先にはもう一つの性質、すなわち親密な愛着があります。それは純粋な超越的な愛です。この、至高の人格への愛情ある親密さは、厳密にはヴィシュラムバーとして知られます。

ヴィシュラムバーの水準、すなわち友愛では、至高の人格神に対する畏怖や崇敬の感覚はありません。このように、サキャー・ラサとして知られる超越的な友愛の関係においては、三つの超越的な特徴があります。偉大さの感覚、奉仕の感覚、そして畏怖や崇敬のない親密さの感覚です。このように、サキャー・ラサ、すなわち友愛の関係では、超越的な性質はさらに増します。

第43段落

同様に、親としての愛情の水準(ヴァーツァリャ・ラサ)では、4つの性質があります。既に述べた3つの性質に加えて、至高主が献身者の恩恵に依存しているという感覚があります。至高の人格神の親として、献身者はときとして主に罰を与え、自らを主の保護者(maintainer、維持する者)と考えます。この、至高の保護者の保護者であるという感覚は、献身者にとっても至高主にとっても、とても心地よいものです。

第44段落

主はシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーに、「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー」、すなわち献身奉仕の科学という題名の超越的な文献を書き、そこでこれらの5つの超越的な関係の本質を示すように指示なさいました。

その偉大な文献の中で、クリシュナへの断固たる信頼(faith)という形をとるシャーンタ・ラサの超越的な関係がどのように奉仕の精神と共にダーシャ・ラサへと発達し、そしてサキャー・ラサ、すなわち何ものにも妨げられることにない友愛、そしてさらに自分が主の保護者であると感じる親としての愛という超越的な水準へと進むか、ということが説明されています。

これらのすべての関係は、終にはこれらすべての超越的な関係が同時に存在する恋人としての愛という最高の水準(マドゥーラ・ラサ)に至ります。

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
以上で第1章を終わります。ずいぶん長いことお待たせいたしました。まだまだ先は長いです。あと300ページくらい。。。ソチのオリンピックが始まる頃には完成してるといいけど。。。

翻訳の文体は相変わらずの堅苦しいものです。森に取り残されたゴピーたちがクリシュナをぼろくそに言ってる様子など、どうぞご自分で想像力豊かに解釈しながら読んでください。
[PR]
by ammolitering4 | 2010-03-22 05:52 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(2)

第1章 ルーパ・ゴスヴァーミーへの教えー3

第27段落

超越的な愛の恍惚感は二つの部分から成ります。状況(context、前後の脈絡、事情)、および興奮の原因です。状況はさらに二つに分けられます。主体と対象です。献身奉仕の交換が主体であり、クリシュナが対象です。超越的な性質が興奮の原因です。

これは、クリシュナの超越的な性質が献身者を興奮させて、主に奉仕するようになる、ということを意味します。非人格主義(マーヤーヴァーディー)の哲学者たちは、完全真理には特定の性質はない、と言います。

しかし、ヴァイシュナヴァの哲学者たちは、主には物質的な性質がないために完全真理はニルグニャ(無性質)として描写されているのだ、と言います。これは、主には霊的な性質がないことを意味するのではありません。

実に、主の霊的な性質は非常に偉大で非常に魅惑的なので、それは解放された人さえも惹きつけます。それはシュリマッド・バーガヴァタムのアートマーラーマの節で説明されています。そこでは、既に自己認識の水準に位置している者はクリシュナの超越的な性質に惹き付けられる、と書かれています。これは、クリシュナの性質が物質的ではなく、純粋で超越的である、ということを意味します。

第28段落

恍惚感のより高い水準は、以下の13の超越的な行為で特徴づけられます。

1、踊ること。
2、床を転がること。
3、歌うこと。
4、手を叩くこと。
5、体毛が逆立つこと。
6、大声を出すこと。
7、あくびをすること。
8、激しく呼吸すること。
9、社会的なしきたりを忘れること。
10、よだれを垂らすこと。
11、笑うこと。
12、うずくような痛みを感じること。
13、咳をすること。

これらすべての特徴が同時に生じるのではありません。それらは超越的な関係の交換に応じて生じます。ある場合にはある特徴が主であり、別の場合には別のものが主となります。

第29段落

超越的なラサ、すなわち関係は、5つに分けられます。

第1の段階はシャーンタ・ラティと呼ばれます。そこでは、物質的な汚染から自由になった者が至高の人格神の偉大さを噛みしめます(to appreciate)。この段階に至った者は、厳密には主への超越的な愛情ある奉仕には携わりません。これは中間的な(neutral、あいまいな、中立的な)水準だからです。

第2の段階はダーシャ・ラティと呼ばれます。そこでは、人は至高主に対して永遠に従属的である自分の立場の真価を感謝と共に認識します(to appreciate)。そして自分が永遠に至高の人格のいわれのない恵みに依存していることを理解します。そのときに、同時に自然な愛情が芽生えます。成長して自分の父の恵みを理解して感謝し始める息子が感じるような愛情です。この段階において、生命体はマーヤーすなわち幻想ではなく、至高主に奉仕したいと望みます。

第3の段階はサキャー・ラティと呼ばれます。そこでは超越的な愛が育ち、人は同じ水準の愛と尊重において至高存在と関わります。この水準がさらに発達すると、冗談を言ったり笑ったりするなどの、くつろいだ交換がなされます。

この段階では至高の人格との友愛的な交換があり、人はすべての呪縛から自由になります。この段階では人は実質的に生命体であるという自分の劣った立場を忘れます。しかし同時に彼は至高人格への大変な敬意を持ちます。

第30段落

第4の段階はヴァーツァリャ・ラティと呼ばれます。以前の段階において顕著であった友愛的な愛情は、親のような(paternal、狭義では「父のような、父性的な」)愛情に発展します。この時点で生命体は神の親になろうとします。

主を崇拝する代わりに、至高存在の親として生命体が至高の人格にとって崇拝の対象になります。この段階では主はご自分の純粋な献身者の恩恵に依存なさり、ご自分を献身者の統御のもとにおいて、彼らに養育されます。この段階では、献身者は至高主を抱きしめて頭に口付けをすることができるほどの立場を得ます。

第5の段階はマドゥーラ・ラティと呼ばれます。そこでは、愛する者と愛される者の間で恋人としての(conjugal、婚姻関係の)愛の実際の超越的な交換がなされます。クリシュナとヴラジャの高貴な娘たちが互いに視線を交わしたのは、この段階でのことです。この水準では、愛情ある視線や目の動きや心地よい言葉、魅力的な微笑みなどの交換があるからです。

第31段落

これらの5つの主要なラサ、すなわち関係の他に、次に挙げる7つの副次的なラサがあります。

1、笑うこと。
2、素晴らしい幻影(vision、幻視、光景)を見ること。
3、騎士道的な関係に入ること。
4、同情を経験すること。
5、怒りを感じること。
6、恐ろしさを経験すること。
7、荒廃を経験すること。

例えば、ビーシュマは騎士道的なラサにおいて戦士としてクリシュナと関わりました。しかし、ヒラニャカシプは恐ろしくて破壊的なラサを経験しました。5つの主要なラサはいつも純粋な献身者の心の中に留まります。

そして、7つの副次的なラサは時として現れたり消えたりします。主要なものの趣と味わいを豊かにするためです。主要なラサを豊かにしたあと、それらは消えます。

第32段落

シャーンタ・バークタ、すなわち中間的な水準にある献身者の例は、カヴィ、ハヴィ、アンタリークシャ、プラブッダー、ピッパラーヤナ、アーヴィロートラ、ドラヴィダ(あるいはドルミラ)、チャマサ、およびカラバージャナという名の9人のヨギーです。4人のクマーラたち(サナカ、サナンダナ、サナトクマーラ、4およびナサータナ)もまた、この水準です。

第2の段階、すなわち主従関係のダーシャ段階の献身者の例は、ゴクラ・ラサの中のラクタカ、チトラカ、およびパトラカです。これら(の人々)は、すべてクリシュナの従者として働きます。ドヴァーラカーにはダールカがおり、ヴァイクンターの惑星にはハヌマーンや他の人々がいます。

第3の段階、すなわち友情の段階の献身者には、ヴリンダーヴァンのシュリーダーマー、ドヴァーラカーおよびクルクシェトラの戦場でのビーマとアルジュナがいます。他にも多くの者たちがいます。

クリシュナと親のような関係で関わる者としては、ヤショダーやマハーラージャ・ナンダなどがいます。クリシュナの母、父、叔父、その他の親類です。

恋人としての関係には、ヴリンダーヴァンのヴラジャの高貴な娘たちや、妃たち、ドヴァーラカーの幸運の女神たちがいます。このラサにおける莫大な献身者の数を数えられる者はいません。

第33段階

クリシュナへの愛着は、さらに二つに分類され得ます。一方の水準では、畏怖と崇敬を伴う愛着があります。この種類の愛着は、自由が一部欠落しているのが特徴です。そして、それはマドゥーラーおよびヴァイクンターの惑星で見られます。これらの主の住まいでは、超越的な愛情ある奉仕の精神は規制されています。

しかし、ゴクラ・ヴリンダーヴァンでは愛は自由に交換されます。そして、ヴリンダーヴァンの牛飼いの少年たちや高貴な娘たちは、クリシュナが至高の人格神であることを知っていますが、彼らは主と非常に親密な関係にあるため、畏怖と崇敬を示しません。

5つの主要な超越的な関係において、畏怖と崇敬は時として主の実際の偉大さをよく見えなくする障害物であり、また、時としてそれらは実際に人の主への奉仕を妨げます。

他方で、友情、親としての愛情、そして恋人としての愛情があるときは、そのような畏怖と崇敬は減ります。例えば、クリシュナがヴァスデヴァとデヴァキーの息子として現れたとき、主の両親は畏怖と崇敬をもって主に祈りました。

彼らは、至高主クリシュナすなわちヴィシュヌが自分たちの前に幼い我が子として現れたことを理解したからです。これはシュリマッド・バーガヴァタム(10.44.51)において確認されています。至高主が自分たちの子供として現れていたにも関わらず、デヴァキーとヴァスデヴァは主に祈り始めました。

同様に、アルジュナが主の宇宙的な(universal、普遍的、万能な)形を見たとき、彼は非常に恐れて、親しい友人としてクリシュナに対して為した自分の振る舞いの許しを乞いました。友人として、アルジュナは主に対してたびたび気軽に振舞いました。そして、すばらしい(awesome、畏怖の念を起こさせるような、恐ろしい)形を見て言いました。

(サンスクリット引用)

「かつて私はあなたの栄光を知らずに、あなたを「おお、クリシュナ」、「おお、ヤーダヴァ」、「おお、友よ」などと呼びました。私が狂気において、あるいは愛において為したであろうことを、何であれお許しください。

くつろいでいたとき、あるいは同じベッドに寝転がっていたとき、あるいは一緒に食事をしていたとき、時には自分たちだけで、そして時には大勢の友人たちの前で、私は何度もあなたに敬意のない振る舞いをしました。どうぞ私のすべての無礼をお許しください。」(BG11.41-42)

第34段落

同様に、クリシュナがルクミニーをからかっていたとき、彼女はクリシュナが自分のもとを去るのではないかと恐れ、ひどく狼狽しました。そして、手に持って主をあおいでいた扇を取り落とし、気絶して床に倒れました。ヴリンダーヴァンでのクリシュナの母であるヤショダーについては、シュリマッド・バーガヴァタム(Bhag. 10.8.45)に次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

すべてのヴェーダおよびウパニシャッドによって、およびサーンキャー哲学体系とすべての正統な聖典によって崇拝されている至高の人格神は、彼女の子宮の中にお生まれになった、と考えられています。また、(Bhag.10.9.12)には、母ヤショダーは幼いクリシュナを、まるで主が彼女の体から生まれた普通の息子であるかのように縄で縛った、と述べられています。

同様に、クリシュナが普通の人として取り扱われた描写は他にもあります(Bhag. 10.18.24)。実に、クリシュナがご自分の友人である牛飼いの少年たちとの遊びで負けたとき、クリシュナはご自分の肩に彼らを背負って歩きました。その(背負われた)子供というのはシュリーダーマーです。

第35段落

ヴリンダーヴァンにおけるゴピーたちとシュリー・クリシュナの関わりについては、(Bhag. 10.30.36-40)において、シュリー・クリシュナがラーサの踊りからシュリーマティー・ラーディーカーだけを連れ出したとき、彼女はクリシュナが他のすべてのゴピーたちを置き去りにしたと考えた、と描写されています。

彼女たちは皆同様に美しかったにも関わらず、主は彼女をこのようにして満足させました。そして彼女はおごり高ぶって考え始めました。「私の愛しいクリシュナは、美しいゴピーたちを置き去りになさった。そして彼は私だけで満足なさっている。」森の中で彼女はクリシュナに言いました。

「私の愛しいクリシュナよ。私はもう動けません。あなたが望むなら、どこへでもあなたの望むところへ私を連れて行ってくださって構いません。」クリシュナは「来て私の肩に寄りかかりなさい」と答えました。そして、そう言った途端に主は消えました。そのため、シュリーマティー・ラーディーカーはひどく文句を言いました。

第36段落

クリシュナがラーサの踊りの場から消えたとき、すべてのゴピーたちは悔やみ始め、こう言いました。「愛しいクリシュナよ!私たちはここに来て、私たちの夫や息子や、親類や兄弟や友人たちを置き去りにしました!彼らの助言を退け、私たちはあなたのもとへ来ました。

そしてあなたは、私たちがここに来た理由をよくご存知です。あなたは、私たちがあなたの笛の美しい音色の虜になったからここに来たのだということを知っておいでです。それなのに、あなたは本当にずる賢いので、こんな真夜中に私たちのような少女や女たちを置き去りになさいました。これはあなたにとって、あまり良いことではありません。」

第37段落

シャマという語は、心を統御して、それを至高の人格神に据えることによって、それが様々にそれるのを防ぐことを意味します。心が至高主に据えられているとき、人はシャマの水準に位置するものとして知られます。

その水準においては、献身者はクリシュナが人の経験の中のすべての事柄の背後にある基本原則であるということを理解します。これはバガヴァッド・ギーター(BG7.19)においても説明されています。そのような人は、クリシュナがすべてのものの中に存在しており、宇宙の顕現の中にくまなく行き渡っているということを理解することができます。

すべては至高主の統御のもとにあり、主のエネルギーの中に位置しているにも関わらず、それでもすべてはその個人的な形におけるクリシュナとは異なります。バークティ・ラサームリタ・スィンドゥーにおいても、これを理解する者、その知性がクリシュナに据えられている者はシャマの水準に至ったのである、と述べられています。

さらに、至高の人格神は(サンスクリット引用)とおっしゃいます。シャーンタ・ラティの水準に上げられない限り、人はクリシュナの偉大さに関する、あるいはすべての顕現の原因である主の異なるエネルギーの放散に関する知識に心を据えることができません。この同じ要点がシュリマッド・バーガヴァタム(Bhag.11.19.36)でも説明されています。

(サンスクリット引用)

心の安定は、至高の人格神がすべてのもののもともとの源であると結論づけた者によってのみ得られます。そして人が自分の感覚を統御できるとき、それはシャマと呼ばれます。感覚を統御して心を安定させておくために、人があらゆる苦しみに耐える用意ができているとき、それはティティクシャー、すなわち忍耐と呼ばれます。

そして人が舌と性器の欲求を統御することができるとき、それはドーリティーと呼ばれます。ドーリティーから、人はディーラ、すなわち平穏になります。平穏な人は、決して舌と性器の欲求によって乱されません。

第38段落

もしも人が脇にそれることなく自分の心をクリシュナに据えておくことができるなら、彼はクリシュナ意識における確固たる立場、すなわちシャーンタ・ラサに至ることができます。シャーンタ・ラサに至ると、クリシュナへの断固たる信頼(faith)が確立され、すべての物質的な欲望は消えます。

シャーンタ・ラサのこれらの特定の特徴、すなわちクリシュナへの断固たる信頼およびクリシュナと関係のないすべての欲望の消滅は、他のすべてのラサにも共通するものです。それはちょうど、音が空中から生じるので、他のすべての要素(空気、火、水、および土)の中に一般に存在するようなものです。

同様に、シャーンタ・ラサのこれらの二つの特徴は、他の超越的な関係においても見られます。ダーシャ(主従関係)、サキャー(友愛)、ヴァーツァリャ(親としての愛情)、そしてマドゥーラ・ラサ(恋人としての愛)です。
[PR]
by ammolitering4 | 2010-03-22 05:16 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

第1章 ルーパ・ゴスヴァーミーへの教え-2

第14段落

主チャイタンニャはルーパ・ゴスヴァーミーに、献身の木の根に水をやるときに遭遇する、ある危険を指摘なさいました。木がすこし生長すると、動物が来て食べてしまったり、へし折ったり(to destroy)するかもしれません。何かの動物に緑の葉を食べられてしまったら、一般に植物は枯れます。

最も危険な動物は、狂った象だと考えられています。もしも狂った象が庭に入ってくれば、それは草や木に甚大な被害をもたらすからです。主の純粋な献身者への無礼は、ヴァイシュナヴァーパラーダー、すなわち「狂った象の無礼」と呼ばれます。

献身奉仕の遂行にあたっては、純粋な献身者の足への無礼は破滅(havoc、危険、大きな破壊、混乱)を生じさせ得ます。したがって人は、正しく世話をすることによって、そして無礼を冒さないように気をつけることによって、バークティの木を守らねばなりません。もしも注意深くあるならば、木は元気に茂ります。

第15段落

聖なる御名に対して冒し得る無礼には、主に10種類あります。

第1の無礼は、世界中に聖なる名の栄光を広めようとした偉大な献身者を侮辱することです。クリシュナの聖なる名はクリシュナと異なるものではありません。そして、世界中に聖なる名を広めようとする人は、主にとって愛しい者です。クリシュナの純粋な献身者に対する無礼は、主ご自身が我慢なさいません。

第2の無礼は、主ヴィシュヌが完全真理であることを否定することです。主の名前、性質、形、娯楽および活動には、違いはありません。そして、(訳注:それらの間に)違いを見る者は無礼者と見なされます。主は至高であり、主と同等であったり主より優れていたりする者はありません。したがって、もしも主の名前は半神の名前と変わらないと考えるなら、人は無礼を冒します。至高主と半神は、決して同じ水準で考えられるべきではありません。

第16段落

第3の無礼は、真正なる霊的指導者を普通の人であると考えることです。

第4の無礼は、ヴェーダ文献やプラーナなどの正統なる聖典を侮辱することです。

第5の無礼は、聖なる名前に属する栄光を誇張であると考えることです。

第6の無礼は、聖なる名前について歪んだ理論を作り上げることです。

第7の無礼は、聖なる御名を唱えることの力に依り頼んで、罪深い行いをすることです。聖なる御名を唱えることで、人は罪深い行いの結果(reaction、反応)から自由になると理解されています。しかし、これは聖名を唱えることの力に依り頼んで罪深い行いをしてもよい(should)ということを意味するのではありません。それは最大の無礼です。

第8の無礼は、宗教的な儀礼、苦行、犠牲、あるいはその他の放棄を、聖なる御名を唱えることと同等であると考えることです。聖なる御名を唱えることは、至高の人格神と交友するのと同じくらい良いものです。敬虔な行いは単に至高の人格神に近づくための方法に過ぎず、それらは何らかの物質的な理由によってさえ行われ得ます。

第9の無礼は、神の聖なる御名を、それを聞くことに興味のない不信心な人に説くことです。

第10にして最後の無礼は、神の聖なる御名を聞いたり唱えたりした後も物質的な執着を持ち続けることです。どういうことかというと、無礼を冒すことなく聖なる御名を唱えることによって、人は解放された水準への上昇を得ることができるからです。解放された水準においては、人はすべての物質的な執着から自由になります。したがって、もしも人が聖なる御名を唱えて、なおかつ物質的な執着を持っているなら、その人は何らかの無礼を冒しているに違いありません。

第17段落

その他にも、献身奉仕の木を妨害する要素があります。この木と一緒に、物質的な欲望という雑草も育ちます。バークティにおいて発達すると、多くの人が弟子にしてもらいたいと言って彼のもとを訪れ、何らかの物質的な利益を提供するのは自然なことです。

もしも人が、数多くの弟子(を持つこと)、およびこれらの弟子たちによって提供される物質的な便宜に魅了されて、真正なる師としての自分の義務を忘れるなら、(献身の)木の生長は妨げられます。単に物質的な利便を自分の利益のために利用することによって、人は物質的な快適さを楽しむことにおぼれるようになる可能性があります。

第18段落

解放を望むこともまた、不利であると考えられます。唯一の欲求は、奉仕を捧げることへの欲望であるべきです。規制や禁止命令を無視することも、同じく不利です。禁止命令は、正統な聖典の中に示されています。

人は不正な性交にふけったり、陶酔物を摂取したり、肉食をしたり、賭け事をしたりすべきではありません。これらの事柄は、献身奉仕を志す者には禁じられています。もしもこれらの原則に厳密に従わないなら、献身奉仕の遂行にあたって厳しい障壁があるかもしれません。

第19段落

もしもあまり注意深くないなら、たとえ献身奉仕の木に水をやっても、不必要な雑草が育って発達を妨げるでしょう。つまり、庭に水をやると望ましい木がもっと速く育つだけでなく、望ましくない植物も
育つということです。

もしも庭の世話をする者がこれらの妨害物を見つけて取り除かないなら、それらは献身奉仕の木を圧倒して枯らします。しかし、もしも気をつけて望ましくない植物の生長を阻むなら、献身奉仕の木は青々と育ち、究極の目的地であるゴロカ・ヴリンダーヴァンに至ります。

献身奉仕に携わる生命体が至高神への愛という果実をおいしく食べるなら、彼はすべての宗教的な儀式や自分の経済的な状況の改善を忘れます。彼はもはや、自分の感覚を満足させたいとは望みません。そして彼は、もはや主の光輝と一体化することによって至高主と一つになることを望んだりもしません。

第20段落

霊的な知識と超越的な喜びには多くの段階があります。ある水準においては、儀式的な犠牲、禁欲、および宗教的な義務の遂行、および神秘的なヨガの実践がヴェーダの中で勧められています。これらの事柄は、どれもそれぞれの実践者に異なる結果をもたらします。

しかし、これらの実践の報酬は、人が主への超越的な愛情ある奉仕(の段階)に上げられていない限りにおいてのみ、非常に輝かしいものに見えるものです。主への愛はすべての者の中に潜在しています。そしてそれらは、純粋な献身奉仕の実践によって、休眠中の状態から目覚めさせられ得ます。ちょうど、ヘビにかまれた人がアンモニアによって目覚めさせらるようなものです。

第21段落

献身奉仕についてこのように語った後で、主チャイタンニャはルーパ・ゴスヴァーミーに献身奉仕とその特徴を描写し始めます。主は、純粋な献身奉仕においては、クリシュナ意識において発達するということ以外の望みはありえない、と説明なさいます。

クリシュナ意識においては、いかなる半神やクリシュナの他のどんな形を崇拝する余地もありません。また、推察的な経験主義の哲学にふけったり結果を求める活動にふけったりする余地もありません。人はこれらすべての汚染から自由であるべきです。

献身者は、自分の体と魂をつなぎとめておくのに好ましいものだけを受け入れるべきであり、体の要求を増すものは退けるべきです。体を維持するために最小限必要なものだけが受け入れられるべきです。

体の必要性を最小限に抑えることによって、人は主の聖なる御名を唱えることを通してクリシュナ意識を培うことに自分の時間のほとんどを使うことができます。純粋な献身奉仕とは、体のすべての感覚を主への奉仕に携わらせることを意味します。

現時点では、私たちの感覚はすべて限定されています。私たちの体が限定されているからです。結果として、私たちはこの体が特定の社会や特定の国や、特定の家族に属すると考えます。このようにして、体は非常に多くの限定に縛られます。

(訳注:原語はto designate。これは何かが特定の属性を持つ、という意味の言葉。プラブパーダのご本にはよく出てきます。自分は猫である、火星人である、お姫様である、というのもこれに当たりますし、「今日は仲間を送っていくから飲めない」という場合などもdesignated driverと言ったりします。また、駅のベンチのところには「designated waiting area」と書いてあったりします。)

同様に、感覚は体に属するものであり、体がそのような限定の影響の下にあると、感覚も同じく影響はされます。こうして感覚は家族や社会や国などのために働くことになります。そのような活動をしているときは、感覚はクリシュナ意識を培うことはできません。感覚は浄化されなければなりません。

そしてこれは、人が「自分はクリシュナに属しており、自分の人生はクリシュナに属しているのだ」と、はっきりと理解するときに可能になります。献身者は自分の自己をクリシュナの永遠の従者として認識すべきです。このようにして、人は感覚を主への奉仕のために携わらせることができます。そのような働きは純粋な献身奉仕と呼ばれます。

第22段落

純粋な献身者は、主への超越的な愛情ある奉仕は受けれいますが、自分の感覚の満足のためのどんな種類の解放も退けます。シュリマッド・バーガヴァタム(3.29.11-13)において、主カピラは、すべての人の心臓に鎮座する至高の人格神の栄光と超越的な性質について純粋な献身者が聞くと、ちょうどガンジス川の水が海へ流れるように、彼の心は直ちに主のほうへ流れる、と説明なさいます。

至高の人格神への奉仕にそのように自発的に魅了されるのは、純粋な献身奉仕にとって大切です。献身奉仕は、人が至高主への奉仕に何らの動機もなく、そして物質的な妨害によって妨げられることなく携わるときには純粋です。

純粋な献身者は、至高主と同じ惑星に住みたいと望むこともなく、主と同じ豊かさを望むこともなく、主と一緒に(訳注:同じ部屋や家や隣同士など、密接な関係をもって)住みたいとか、主の存在に同化したい等々の望みを持つこともありません。

たとえ献身者が主によってそのような見返りを提供されても、彼はそれらを退けます。要点は、献身者は主への超越的で愛情ある奉仕にあまりにも没頭しているので、自分の目の前の仕事を超えたところにあるいかなる利益(benefit)についても考える時間がないということです。

ちょうど、普通のビジネスマンが仕事に没頭しているときには他の事を考えないように、純粋な献身者は主への奉仕に携わっているときはその仕事を超えたところにあるどんなことについても考えません。

第23段落

もしもそのように献身奉仕を捧げることに没頭しているなら、その人はバークティの最高の水準に上げられていると理解され得ます。そのような超越的な愛情ある奉仕によってのみ、人はマーヤーの影響を乗り越えて至高神への純粋な愛を味わうことができます。

物質的な恩恵と解放は、二人の誘惑の魔女たち、と呼ばれます。それらを望む限り、人は至高主への超越的な愛情ある奉仕の味を味わうことができません。

第24段落

献身奉仕には三つの段階があります。
第1は、修養の最初の段階です。
第2は、奉仕の認識です。
第3、すなわち至高の水準は、至高神への愛を得ることです。

献身奉仕を培うためには、聞くこと、聖名を唱えること、思い出していることなど、9つの異なる方法があります。そして、第一の段階では、これらすべての方法が取られます。もしも人が献身の念と信仰(faith)をもって聖名を唱えることと聞くことに携わるなら、その人の物質的な不安は徐々に消え去ります。

献身奉仕への信頼(faith)が徐々に増せば、人はより高い完成という立場を保証されるようになります。このようにして、人は献身奉仕にしっかりと心を据えて、ますます献身を好むようになり、献身に執着し、恍惚感を感じることができるようになります。

この恍惚感は、至高神への愛の予備的な段階で生じます。恍惚感は、献身奉仕を実行することによって感じられます。人が聖名を聞くことと唱えることという方法を続けると、愛着が増して、至高神への愛という性質(name、名声、本質的な点)を帯びるようになります。

第25段落

人が神への超越的な愛という第3の水準に至ると、さらなる発達が生じます。それらは、超越的な愛情、感情、恍惚感、および極度で強烈な愛着として知られます。これらは、厳密にはラーガ、アヌラーガ、バーヴァ、およびマハーバーヴァとして知られます。

ある段階から次の段階への発達は、砂糖の原液が濃くなっていくのに比べられます。最初の段階では、原液は水のように薄いものです。蒸発によってだんだん濃くなっていくと、それは糖蜜になります。最後には、それは細かい粒に変わり、砂糖や氷砂糖になります。

ちょうど砂糖水がある段階から次の段階へと変わっていくように、同様に至高主への超越的な愛は段階を追って発達します。

第26段落

実際に超越的な水準に位置するようになると、人は安定するようになります。そのように位置しない限り、彼の立場は安定せず、堕落するかもしれません。実際に超越的な立場に位置するようになると、堕落する恐れはありません。この理解の段階は、厳密にはスターイ・バーヴァと呼ばれます。

この立場よりももっと進んだ段階もあり、それらはヴィバーヴァ、アヌバーヴァ、サーットヴィカ、およびヴャビーチャーリーとして知られます。これら(の段階)に至ると、実際にラサの交換、すなわち至高主との超越的な活動があります。

愛する者と愛される者との間の、この愛情あるお返し(reciprocation、報い)の交換は、一般にクリシュナ・バークティ・ラサと呼ばれます。以前に説明したように、超越的な愛情ある交換はスターイ・バーヴァの確固とした立場にあるということが特記されるべきです。ヴィバーヴァの基本原則はスターイ・バーヴァであり、他のすべての活動は超越的な愛の発達にとって補助的です。
[PR]
by ammolitering4 | 2010-03-22 02:43 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

第1章 ルーパ・ゴスヴァーミーへの教え-1

第1章 「ルーパ・ゴスヴァーミーへの教え」

第1段落

サナータナ・ゴスヴァーミーの弟であるシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーは、弟のヴァッラバーと一緒にプラヤーグ(現アラハバード)(訳注:インド北部の都市)に行きました。主シュリー・チャイタンニャ・マハープラブがそこに滞在しておられることを聞いたとき、二人の兄弟はどちらもとても嬉しくなって、主に会いに出かけました。

その頃、主はビンドゥマーダーヴァの寺院を訪ねていく途中でいらっしゃいました。寺院へ向かう途中、主は真言を歌い唱えたり(チャンティング)踊ったりしておられ、何千人もの人々が主に付き従っていました。

これらの人々のうち、ある者たちは泣き、別の者たちは笑っていました。ある者たちは踊り、別の者たちは歌っており、地にひれ伏して主に服従の念を表している者たちもいました。どの場合でも、彼らのすべてはクリシュナの聖なる御名を大きな声で唱えていました。

ガンジス川とヤムナー川の合流点にあるにも関わらず、プラヤーグはチャイタンニャのご降臨までは一度も洪水がなかったといいます。ご生誕のときは、街はクリシュナへの愛で溢れていました。

第2段落

ルーパ・ゴスヴァーミーとヴァッラヴァーの二人の兄弟は、人ごみから離れたところに立って、人々の大群とすばらしい光景を目の当たりにしました。踊るとき、主は腕を上げて「ハリボル!ハリボル!」と叫ばれました。

主の周りを取り囲んだ人々は、主のすばらしい行いを見て驚嘆しました。寺院を訪れた後、主はデカン地方出身の(南部の)(訳注:原文はDeccanist。「デカン」はインド南部のデカン地方、あるいはデカン高原を指す)ブラーマナの家でプラサーダ(神像に捧げられた食べ物)をお受けになりました。

そのブラーマナの家にいた間に、主はルーパ・ゴスヴァーミーとヴァッラヴァーの訪問を受けました。二人の兄弟は離れたところで地にひれ伏して敬意をささげ、そして聖典から(訳注:抜粋した)多くのサンスクリットの節を唱えました。

ルーパ・ゴスヴァーミーがご自分の前で敬意を捧げているのをご覧になったとき、主は大変喜んで、彼に起き上がるようにおっしゃいました。それから主はルーパ・ゴスヴァーミーに、クリシュナが彼に授けられるいわれのない恵みについてお教えになりました。

クリシュナが単に金勘定(訳注:原文は「ポンド・シリング・ペンス」。どれもイギリスのお金の単位)に基づいた物質主義的な人生のあり方から彼を解放なさったからです。

第3段落

主は二人の兄弟をご自分の弟子として受け入れられました。そして主は聖典から一節を引用して唄われました(to cite)。その節には、4つのヴェーダを学んだブラーマナが主の献身者として受け入れられないこともありえるし、純粋な献身者は非常に身分の低い家庭の出身であっても主によって受け入れられる、と述べてありました。

それから主は二人の兄弟を抱きしめられました。そして、ご自分のいわれのない恵みにより、彼らの頭をご自分の蓮の御足で触れられました。このように祝福されて、兄弟たちは自分の言葉で主に祈りを捧げました。

その祈りは、主シュリー・クリシュナ・チャイタンニャ・マハープラブはクリシュナご自身であり、主はチャイタンニャの形と色白な肌色でお現れになり、そのためゴーランガ(黄金色の者)として知られ、主はクリシュナへの愛を配っているので最も気前の良いクリシュナの化身である、ということを示していました。

シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーはまた、後に「ゴヴィンダ・リーラームリタ」という本(1.2)に収録された(訳注:found、最終的にたどり着いた)一節を引用しました。

(サンスクリット引用)

「シュリー・クリシュナ・チャイタンニャ・マハープラブの蓮の御足に服従させてください。主は最も情け深い至高の人格神でいらっしゃいます。主は無明に埋没した魂を救い、彼らにクリシュナへの愛という最高の贈り物を賜ります。そうして、彼らをしてクリシュナ意識を狂ったように求めさせます。」

第4段落

この出来事の後、ヴァッラバー・バーッタは主をガンジス川の反対側へいらっしゃるように招き、主は出かけられました。そのときから、主がいらっしゃる所へはどこでもルーパ・ゴスヴァーミーも一緒に行って滞在しました。

人の多い場所で不便を感じられたので、主はルーパ・ゴスヴァーミーに、ダシャーシュヴァメダー・ガーダとして知られるガンジス川の河岸の場所に一緒に来るように頼まれました。十日間に渡って、主はルーパ・ゴスヴァーミーに、クリシュナの真実と献身奉仕の原則と、そしてクリシュナとの超越的な関係について教えられました。

これらのすべてが極めて詳細に描写されました。将来において、ルーパ・ゴスヴァーミーがこのクリシュナの科学を自著「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー」において広めることができるようにするためです。

実に、シュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーはこの出来事を「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー」の最初の節で描写しています。そこで彼は主が自分に授けてくださったいわれのない恵みについて語っています。

第5段落

至高主は全知(訳注:cognizant、直接的に知っている)全能であり、主はご自分のいわれのない恵みによって、生命体がご自分の恵みを受け取ることができるようにしてくださいます。制約された人生という呪縛のもとにあるため、人々は一般に献身奉仕をしたりクリシュナ意識の修練をしたりすることをひどく嫌います。

事実、ほとんどの人は、至高の人格神との人の永遠の関係、および人生の究極の目標に関するクリシュナ意識の主要に教えを知りません。その目標とは、家へ、至高神のもとへ帰ることです。人々は霊的な世界へ帰るための方法も知りません。

これらの主要な事柄が制約された魂に知られていないので、主チャイタンニャはご自分のいわれのない恵みにより、ルーパ・ゴスヴァーミーに献身奉仕の原則をお教えになりました。のちに、一般の人々の利益のために、ルーパ・ゴスヴァーミーはこの献身奉仕の科学という情報を広めました。

第6段落

「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー」(Bh. r.s.1.1.2)の序文において、ルーパ・ゴスヴァーミーは次のように書いています。

(サンスクリット引用)

「私は主チャイタンニャデヴァとして知られる至高の人格神の蓮の御足に慎んで敬意を捧げます。主の霊感による創造的な刺激(His inspiration)によって、私は心の中に献身奉仕について書きたいという欲求を感じるからです。この理由により、献身の科学に関するこの本、「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー」を書いています。

第7段落

主チャイタンニャがルーパ・ゴスヴァーミーに教えを授け始められたとき、主はまず彼にこうおっしゃいました。「我が親愛なるルーパよ。献身奉仕の科学は、ちょうど大きな海のようなものです。その大きさ(length and breadth)のすべてをあなたに見せるのは可能ではありません。

しかし私は、そのただ一滴を取ることによって、その海の性質を説明しようと試みます。こうすることによって、あなたはそれを味わうことができ、その献身奉仕の海とは実際に何であるのかを理解することができます。」

第8段落

それから主は、このブラーマーンダ、すなわち宇宙の中には無数の生命体がいて、それぞれの結果を求める行いに応じて、それらの生命体はある種の生命の形から別のそれへ、そして一つの惑星から別の惑星へと転生しているのであることを説明なさいました。

このようにして、彼らは記憶に残らないほどの太古から物質存在の中で閉じ込められています(their encagement in the material world has been continuing)。実際には、これらの生命体は至高の霊の原子サイズの欠かすべからざる小片です。

シュリマッド・バーガヴァタムには、個々の魂の大きさはおよそ髪の毛の先の一万分の一、言い換えると、とても小さいので目に見えない、と述べられています。これはシュヴェターシュヴァタラ・ウパニシャッドでも確認されています。シュリマッド・バーガヴァタムの10巻において、四人のクマーラのうちの一人のサナンダナとして知られる者が、大規模な犠牲を行うにあたって次のように述べました。

「おお、至高真理よ!もしも生命体が至高の霊の微細な火花でなかったならば、それぞれの微小な火花はあまねく行き渡るであろうし、優勢なる力によって統御されることもないでしょう。しかし、もしも生命体が至高主の欠かすべからざる微細な小片として受け入れられるなら、彼は自動的に至高のエネルギーあるいは力によって統御されるようになります。

後者が彼の実際の本来的な立場であり、もしも彼がこの立場に留まるなら、彼は完全な自由を得ることができます。」(Bhag.10.87.30) もしも人が誤って自分の立場が至高の人格神のそれと同等であると考えるなら、彼は非二重性という学説(doctrine、教義、信条)によって汚染されます。そして超越的な人生における彼の努力は非効果的な結果に終わります。(to render)

第9段落

主チャイタンニャは、シュリマッド・バーガヴァタムのこれらの教えについて、生命体には永遠に解放されている者と永遠に制約されている者の2種類がある、ということを指摘して詳しく述べていらっしゃいます。永遠に制約されている生命体は、動くものと動かないものという2種類に分けられます。

例えば木などの動けない生命体は、一箇所に留まり、動かない生命体として分類されます。そして、例えば鳥や獣などの動く生命体はジャンガマ(動く生命体)と呼ばれ、さらに三つに分けられます。空を飛ぶもの、水の中を泳ぐもの、土の上を歩くものです。

何百万もの何兆もの地上の生命体の中で、人間はほんのわずかな部分を占めるに過ぎません。その数少ない人間の中で、ほとんどは霊的な人生について全く無知です。そして、その習慣は不潔であり、至高の人格神の存在について何の信仰(faith)も持ちません。

つまり、ほとんどの人間は動物のように生きています。これらの人々は実際に人間的な、あるいは文明的な社会(life)を構成する人間の数から除外され得ます。聖典や神の存在、あるいはきちんとした振る舞いでさえ、それらを信じる数少ない人間を見つけるのは非常に難しいのです。(for that matter, 何かについて話しているときに「その話をすれば、もっと言うならこれについても」というような意味。)

これらの事柄の価値を信じる者はアーリャと呼ばれます。これは霊的な人生における発達を信じる者を指す言葉です。聖典の価値と人間の文明の発達を信じるこれらの人々には2種類あります。高潔な者と、高潔でない者です。

高潔な者は一般に、感覚の満足にとって何らかの良い結果を得るために、結果を求める行いをします。感覚の満足のために高潔な活動をする多くのそのような人々のうち、完全真理を知るようになるのはほんのわずかです。これらの人々はジニャーニー、すなわち経験主義的な哲学者と呼ばれます。

何百何千ものそのような経験主義的な哲学者のうち、実際に解放を得るのはほんの一部です。解放されると、生命体は物質的な要素からできているのではなくて、物質とは明確に異なる霊魂である、ということを彼は理論上で理解します。

単にこの教義を理論上で理解することによって、人は解放された者と呼ばれます。しかし実際には、ムクタ、すなわち解放された魂とは、主の永遠の従者としての自分の本来的な立場を理解している者です。そのような解放された魂は、信仰(faith)と献身の念をもって主への奉仕に携わります。そして彼らはクリシュナバークタ、すなわちクリシュナ意識の人と呼ばれます。

第10段落

クリシュナバークタにはいかなる物質的な欲望もありません。単に生命体は物質的ではないと知ることによって理論上で解放されている者には、厳密に言えば彼らは解放された魂に分類されるとはいえ、まだ欲望があるかもしれません。彼らの主な欲望は、至高の人格神と一つになることです。

一般に、そのような人々はヴェーダの儀式と高潔な行いに大いに執着しており、物質的な繁栄を楽しむためにそれらを行います。彼らのうちの一部の者が物質的な快楽を超越するときでさえ、彼らはそれでも至高主の存在に同化することによって霊的な世界を楽しもうとします。

彼らの一部はまた、ヨガを行うことによって神秘的な力を得ることを望みます。これらの望みが人の心の中にある限り、彼は純粋な献身奉仕の性質を理解することはできません。そのような望みによって常に心を乱されているとき、人は平穏ではありません。

実に、物質的な完成への何らかの望みがある限り、人は平穏ではいられません。主クリシュナの献身者は何らの物質的なものも望まないので、彼らはこの物質世界の中で唯一の平穏な人々です。これはシュリマッド・バーガヴァタムにおいて確認されています。

(サンスクリット引用)

「おお、偉大な聖人よ。何百万もの解放された人々および神秘的なヨガにおいて成功を収めた人々のうち、至高の人格神に完全に身を捧げ、平和に満ちた人は、見つけるのが非常に難しいのです。」(SB6.14.5)

第11段落

このようにして主チャイタンニャは、物質世界をさまよう何千もの何百万もの生命体のうちで、主クリシュナと霊的指導者の恵みにとって献身奉仕の種を得る者は非常に稀で幸運である、と説明なさいました。敬虔な、あるいは宗教的な人は、一般に様々な寺院で神像を崇拝する傾向があります。

しかし、もしも偶然によって、たとえ知らずにそうなったにしても主ヴィシュヌに敬意を捧げたり、主の献身者であるヴァイシュナヴァの恩恵を受けたりすれば、その人はその時に、至高の人格神に近づくのに必要な価値あるものを得ます。

これはシュリマッド・バーガヴァタムの中で語られている偉大な聖人ナーラダの生涯の話から明らかに理解され得ます。前世においてヴァイシュナヴァに奉仕をしたことによって、ナーラダは主の献身者の恩恵を受け、偉大な聖人になりました。実に、聖人たちの中でナーラダ・ムニは最も偉大であると考えられています。

第12段落

ヴァイシュナヴァ、すなわち献身者は普通、制約された魂に対してとても同情的です。たとえ招かれなくても、献身者は家から家へと訪ねていきます。主クリシュナの従者としての生命体の本来の立場という知識を与えることによって人々を啓蒙し、彼らを無知の闇から引き出すためです。

そのような献身者は、一般の人々に献身意識すなわちクリシュナ意識を広めるために、主によって力を与えられています。彼らは正統なる霊的指導者として知られており、制約された魂が献身奉仕の種を得るのは彼らの恵みによるものです。

至高の人格神のいわれなき恵みは、人が真正なる霊的指導者との関わりを得たときに初めて真価が理解されて感謝されます(to appreciate、価値を理解して有難く思う)。真正なる霊的指導者は、制約された魂を献身生活の最高の高みに連れて行くことができます。

したがって主チャイタンニャは、霊的指導者の恵みにとって人は主のいわれなき恵みを得ることができ、至高の人格神の恵みによって人は真正なる霊的指導者の恵みを得ることができる、とおっしゃいました。

第13段落

このように、霊的指導者とクリシュナの恵みによって、人は献身奉仕の種を受け取ります。彼はその種を自分の心という畑に植えさえすればよいのです。ちょうど、庭の世話をする人が貴重な木の種を植えるようなものです。この種を植えたとき、人はそれに水をやらねばなりません。

それは、至高主の聖なる御名を唱えたり聞いたりすることや、純粋な献身者との関わりの中で献身奉仕の科学についての議論に加わったりするという形をとります。献身奉仕という木(訳注:原語はplant)献身の種から芽を出すと、それは自由に生長し始めます。

完全に成長すると、それはこの宇宙の大きさを超えて、超越的な空間に入ります。そこでは、すべてがブラーマジョティの光輝に浸っています。木はこのブラーマジョティさえ突き抜けて、やがてゴロカ・ヴリンダーヴァンと呼ばれる惑星に入ります。そこで木はクリシュナの蓮の御足のもとで庇護を受けます。

それが献身奉仕の究極の目的地です。ここに辿りついたあと、木は「至高神への愛の実」と呼ばれる実を結びます。しかし、献身者、すなわち超越的な園芸家は、聖なる御名を唱えたり聞いたりすることによって、その木に毎日水をやる必要があります。唱えたり聞いたりすることで水をやらないなら、枯れてしまう危険はいつでも待ち構えているのです。
[PR]
by ammolitering4 | 2010-03-22 02:41 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)