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序論 第41段落から終わりまで

第41段落

ヴィシュヌは、単にマーヤー、すなわち物質自然をちらりと見ることによって彼女をはらませました。これが霊的な方法です。物質的には、私たちは自分たちの体の特定の一部だけによって妊娠させられるという限界がありますが、至高主、クリシュナ、あるいはマハー・ヴィシュヌは、どの部分を使っても、そしてどの部分をもはらませることができます。

単にちらりと見ることによって、主は物質自然の子宮の中に無数の生命体をはらませることができます。ブラーマ・サムヒターもまた、至高主の霊的な体は非常に強力なので、その体のいかなる部分も他のあらゆる部分の機能を果たすことができると確認しています。

私たちは自分の手や肌でしか触ることができませんが、クリシュナは単にちらっと見ることで触ることができます。私たちは目でしか見ることができません。私たちは目で触ったり匂いをかいだりすることはできません。

しかし、クリシュナはご自分の目で匂いをかぐことも食べることもおできになります。クリシュナに食べ物が捧げられるとき、私たちは主が召し上がるのを見ることはできません。しかし主は単に食べ物をちらっと見ることだけで食べることがおできになるのです。

わたしたちは、ありとあらゆるものが霊的である霊的世界において物事がどのように機能するか、想像することができません。クリシュナが食べることをなさらないとか、主が召し上がるのだと私たちが想像するとか、そういうことではありません。

主は実際に食事をなさいます。しかし、主の食べるという行為は、私たちのそれとは異なるのです。私たちの食事(eating process)は、私たちが完全に霊的な水準に至ったときには主のそれと似通ってくるでしょう。その水準においては、体のすべての部位が他のすべての部位の代わりに機能することができます。

第42段落

ヴィシュヌは創造するために何も必要となさいません。主はブラーマーを誕生させるために女神ラクシュミーを必要とはなさいません。ブラーマーはヴィシュヌのヘソから育った蓮の花からお生まれになったからです。

女神ラクシュミーはヴィシュヌの足元に座って主に奉仕なさいます。この物質世界においては、子供を作るためには性交が必要です。しかし霊的世界においては、人は自分の妻の助けを得ずに好きなだけたくさんの子供を作ることができます。

私たちは霊的エネルギーを全く経験していないので、ヴィシュヌのヘソからブラーマーが誕生したというのは単なる作り話だと考えます。私たちは、霊的エネルギーはとても強力なのでそれはどんなことでもできる、ということに気づいていないのです。物質的なエネルギーは特定の法則に依存していますが、霊的なエネルギーは完全に独立しています。

第43段落

ブラーマーは、マハー・ヴィシュヌの部分的な顕現に過ぎないガルボーダカシャーイー・ヴィシュヌのヘソからお生まれになりました。マハー・ヴィシュヌの肌の毛穴の中に無数の宇宙が種のように存在しており、主が息を吐くときそれらはすべて顕現します。

物質世界では、私たちはそのようなことを全く経験しません。しかし私たちは発汗という現象の中で歪んだ反映を経験します。しかし、私たちはマハー・ヴィシュヌの一回の息の長さを想像することはできません。一回の息の中ですべての宇宙が作られ、滅ぼされるからです。

主ブラーマーは一回の息の間だけ生きます。そして私たちの時間によれば43億2千万年がブラーマーの12時間にあたるに過ぎず、ブラーマーは100年生きます。それにも関わらず、ブラーマーの一生はマハー・ヴィシュヌの一回の息の中に納まるのです。このように、至高主の息の力を想像することは私たちには可能ではありません。そのマハー・ヴィシュヌは単にクリシュナの部分的な顕現に過ぎません。

第44段落

こうしてクリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーは、主チャイタンニャ・マハープラブをシュリー・クリシュナご自身、すなわち至高の人格神として、そして主ニテャーナンダをバララーマ、すなわちクリシュナの最初の拡張体として論じました。

主チャイタンニャ・マハープラブのもう一人の主要な弟子であるアドヴァイターチャーリャは、マハー・ヴィシュヌの拡張体であるとして受け入れられています。このように、アドヴァイターチャーリャもまた主、あるいはもっと正確には主の拡張体です。

アドヴァイタという言葉は二重性がないということを意味し、彼がそのような名前であるのは、彼が至高主と異ならないからです。彼はまた、アーチャーリャとも呼ばれます。彼はクリシュナ意識を広めたからです。このように、彼はちょうどチャイタンニャ・マハープラブのようなものです。

チャイタンニャはシュリー・クリシュナご自身でありながら、一般の人々にいかにしてクリシュナを愛するかを教えるために献身者としてお現れになります。同様に、アドヴァイターチャーリャはただクリシュナ意識の知識を配布するためだけにお現れになりました。

このように、彼もまた、献身者として化身なさった主でいらっしゃいます。クリシュナは五つの異なる拡張体として顕現なさり、主と主の仲間たちのすべては、シュリー・クリシュナ・チャイタンニャ、ニテャーナンダ、アドヴァイターチャーリャ、ガダーダーラ、シュリーヴァーサおよび他の人々の形をとって、至高主の献身者としてお現れになりました。

どの場合でも、チャイタンニャ・マハープラブはご自分のすべての献身者にとってエネルギーの源です。このようなわけで、もしもクリシュナ意識をうまく遂行するためにチャイタンニャ・マハープラブに依り頼めば、私たちは必ず進歩することができます。

ナロッタマ・ダーサ・タークラによる献身歌の一つには、次のように歌われています。「我が親愛なる主チャイタンニャよ。どうぞ私に慈悲を賜りますように。あなたほど慈悲深い方はいらっしゃいません。私の嘆願は緊急を要します。あなたの使命は堕落した魂を救うことであり、私より堕落した者はいないからです。どうぞ私を優先してください。」

第45段落

チャイタンニャ・チャリタームリタの著者、クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーは、ヴリンダーヴァンの住人であり、偉大な献身者でした。彼はベンガルのブルドワン地域のカトワという小さな町に家族と一緒に住んでいました。

彼の家族もまたラーダー・クリシュナを崇拝していましたが、あるとき、献身奉仕について家族の間で何らかの意見の食い違いがあり、 クリシュナダーサ・カヴィラージャは夢でニテャーナンダ・プラブに家を出てヴリンダーヴァンに行くように助言されました。

彼は非常に年取っていましたが、その夜に出発して、ヴリンダーヴァンに行って住みました。そこにいた間に、彼は何人かのゴスヴァーミーたち、主チャイタンニャ・マハープラブの主要な弟子たちに会いました。彼はヴリンダーヴァンの献身者たちにチャイタンニャ・チャリタームリタを書くように頼まれました。

彼は非常な高齢でこの仕事を始めましたが、主チャイタンニャの恵みによってこれを終えました。今日なお、これはチャイタンニャの哲学と人生に関する最も権威ある本であり続けています。

第46段落

クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーがヴリンダーヴァンに住んでいたときは、寺院はあまり多くありませんでした。当時はマダナ・モハナ、ゴヴィンダジー、およびゴピーナーターが三つの主要な寺院でした。

ヴリンダーヴァンの住人として、彼はこれらの寺院の神像に敬意を捧げ、神の恩寵を乞いました。「霊的な人生における私の進歩は大変遅々としています。どうか助けてください。」チャイタンニャ・チャリタームリタの中で、 クリシュナダーサはまず、私たちがクリシュナ意識において進歩できるように助けることのできるマダナ・モハナのヴィグラハ神に敬意を捧げます。

クリシュナ意識の遂行において、私たちの最初の仕事は、クリシュナおよび私たちの主との関係を知ることです。クリシュナを知ることは自己を知ることであり、自己を知ることは自分のクリシュナとの関係を知ることです。この関係は、マダナ・モハナのヴィグラハを崇拝することによって学ばれ得るので、 クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーはまずヴィグラハ神との関係を確立なさいます。

第47段落

これが確立されたとき、クリシュナダーサは機能的な神像であるゴヴィンダの崇拝を始めます。ゴヴィンダは永久にヴリンダーヴァンにお住まいになります。ヴリンダーヴァンの霊的な世界では、建物は試金石(touchstone、金や銀の純度を測るのに使われた玄武岩などの黒い石)でできていて、牛は豊富な乳を出すスラビー牛として知られ、木は何でも人の望むものを実らせるので「望みを叶える木」として知られています。

ヴリンダーヴァンでは、クリシュナはスラビー牛たちを飼い、主は何百何千ものゴピー、すなわち牛飼いの娘たちに崇拝されています。彼女らは皆、幸運の女神です。クリシュナが物質世界に降臨なさるとき、この同じヴリンダーヴァンが降臨します。

ちょうど側近が名士に同伴するようなものです。クリシュナがおいでになるときに主の国(land)も来るので、ヴリンダーヴァンは物質世界に存在しているとは考えられません。したがって、献身者たちはインドのヴリンダーヴァンに依り頼みます。

それはもともとのヴリンダーヴァンの複製だと考えられているからです。そこにはカルパ・ヴリクシャ、すなわち「望みを叶える木」がない、と人は文句を言うかもしれませんが、ゴスヴァーミーたちがそこにいたときはカルパ・ヴリクシャがありました。

人が単にそのような木のところへ行って要求をするというのではありません。人はまず献身者にならねばなりません。ゴスヴァーミーたちは、木の下で一晩だけ過ごし、木々は彼らの望みのすべてを満たします。俗人にとっては、これは全く非常にすばらしいことに見えるかもしれませんが、人が献身奉仕において発達するにつれて、これらのことのすべては理解できるようになります。

第48段落

ヴリンダーヴァンは、物質的な楽しみから喜びを得ようとすることをやめた人々によって、実際にありのままに経験されます。「いつ私の心から物質的な楽しみへのすべての渇望が消え去るのですか?そうすれば私はヴリンダーヴァンを見ることができるのです」と、ある偉大な献身者は尋ねます。

私たちがもっとクリシュナ意識になってもっと発達すれば、それにつれてすべては霊的なものとしてもっと明らかにされます。こうして、クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーはインドのヴリンダーヴァンを霊的世界にあるヴリンダーヴァンと同じくらい良いものだと考え、彼はチャイタンニャ・チャリタームリタにおいて、ラーダーラーニーとクリシュナがヴリンダーヴァンの「望みを叶える木」の下で、貴重な宝石で飾られた玉座に座っていらっしゃる様子を描写しています。

そこでは、クリシュナの愛しい友人たち、すなわち牛飼いの少年たちとゴピーたちが、歌ったり踊ったり、ベテルナッツ(ビンロウの実)と軽食を捧げたり、主なるお二人を花で飾ったりして奉仕しています。今日でさえ、インドでは7月には人々は王座を飾ってこの様子を再現します。普通は、そのときには人々はヴリンダーヴァンに行って、その地の神像に敬意を捧げます。

第49段落

クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーは、ラーダーとクリシュナの神像は私たちにどうやってラーダーとクリシュナに奉仕をするかを教える、と主張します。マダナ・モハナの神像は、単に「私はあなたの永遠なる従者です」ということを確立します。

しかし、ゴヴィンダにおいては実際の奉仕の受容があり、したがって主は機能的な神像と呼ばれます。ゴピーナーターの神像は、ゴピーたちの主人であり所有者としてのクリシュナです。主はご自分の笛の音ですべてのゴピー、すなわち牛飼いの娘たちを魅了しました。

そして彼女らがやってきたとき、主は彼女らと踊られました。これらの活動は、すべてシュリマッド・バーガヴァタムの10巻に描写されています。これらのゴピーはクリシュナの子供時代の友人たちでした。そして彼女らは皆結婚していました。インドでは女の子たちは12歳までには結婚しているからです。

しかし男の子たちは18歳前には結婚しません。したがって、その頃15歳か16歳だったクリシュナは結婚していませんでした。それにも関わらず、主はこれらの女の子たちを家から呼び出し、ご自分と一緒に踊るように誘いました。

その踊りはラーサ・リーラーの踊りと呼ばれており、それはすべてのヴリンダーヴァンの娯楽の中で最も高位なものです。したがって、クリシュナはゴピーナーターと呼ばれています。主はゴピーたちの愛する主人であられるからです。

第50段落

クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーは、主ゴピーナーターの恵みを請願します。「あのゴピーナーター、ゴピーたちの主、クリシュナがあなたを祝福してくださるように。あなたがゴピーナーターによって祝福されますように。」

ちょうどクリシュナがご自分の笛の美しい音色によってゴピーたちを魅了なさったように、チャイタンニャ・チャリタームリタの著者は、主がご自分の超越的な振動によって同じく読者の心をも魅了なさることを祈ります。その振動の真髄を簡単に読める要約によって伝えることが、この本「主チャイタンニャの教え」の目的です。

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以上で序論を終わります。まだあと320ページくらいありますので、5ヵ年計画くらいでやっていきましょう。この後はしばらく絵の方にかかりますので、続きはだいぶ先になります。しばらくお待ちください。どうぞ皆様、良いお年をお迎えください。
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by ammolitering4 | 2009-12-31 04:58 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(2)

序論 第31段落から40段落まで

第31段落

物質宇宙を作る必要があるとき、ヴィシュヌはご自分をマハー・ヴィシュヌとして拡張なさいます。このマハー・ヴィシュヌは因果の海に横たわり、ご自分の鼻腔からすべての宇宙を吐き出します。こうして、マハー・ヴィシュヌと因果の海からすべての宇宙が生まれ、これらの宇宙のすべては因果の海に浮かびます。

このことに関して、ヴァーマナの話があります。主が三歩歩いたとき、主の足が宇宙の覆いを突き破りました。因果の海からの水が、主の足が作った穴から流れました。そして、その水の流れがガンジス川になったと言われています。したがって、ガンジス川はヴィシュヌの最も聖なる水として受け入れられており、ヒマラヤ山脈からベンガル湾までのすべてのヒンズー教徒によって崇拝されています。

第32段落

因果の海に横たわるそのマハー・ヴィシュヌは、実際はクリシュナの最初の拡張体であってヴリンダーヴァンの娯楽ではクリシュナの兄であるバララーマの拡張体です。ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレというマハー・マントラの中のラーマという語はバララーマを指します。

ニテャーナンダはバララーマの拡張体であるので、ラーマは主ニテャーナンダとも呼ばれます。このように、ハレ・クリシュナ、ハレ・ラーマは、クリシュナとバララーマだけでなく、主チャイタンニャとニテャーナンダも指します。

第33段落

チャイタンニャ・チャリタームリタの主題は、主にこの物質創造を超えたものに関わっています。宇宙の物質的な広がりはマーヤーと呼ばれます。それは永遠なる存在性を持たないからです。それは時として顕現しており、別のときには非顕現であるので、幻想的であると見なされます。しかし、この一時的な顕現の向こうには、バガヴァッド・ギーターに示されているように、より高位なる自然があります。

(サンスクリット引用)

「しかし、もう一つの自然があります。それは永遠であり、この顕現であったり非顕現であったりする物質を超越しています。それは至高であり、決して滅ぼされません。この世界のすべてが滅ぼされるとき、その部分はそのままに留まります。」(BG8.20)

第34段落

その至高の自然は顕現(ヴャクター)と非顕現(アヴャクター)を超えています。創造と滅亡のどちらをも超えた、この優位なる自然は、すべての生命体の体の中に現れている生命力です。体そのものは、劣性なる自然である物質によって構成されています。しかし、体を動かしているのは優性なる自然です。

その優勢なる自然のしるしは意識です。そのため、すべてが優勢なる自然によって構成されている霊的な世界においては、すべてが意識的です。物質世界においては、不活性な物体は意識的ではありませんが、霊的な世界においてはその限りではありません。そこではテーブルが意識的であり、地面が意識的であり、木々が意識的であり、、、すべてが意識的なのです。

第35段落

この物質的な顕現がどこまで広がっているかを想像するのは可能ではありません。物質的な世界では、すべてが想像あるいは何からの不完全な方法によって計算されますが、ヴェーダ文献は物質的な宇宙の向こうにあるものに関して情報を与えています。

実験的な知識を信じる者たちは、ヴェーダの結論を疑うかもしれません。彼らはこの宇宙がどこまで広がっているかを計算することさえできず、宇宙そのものの中で遠くまで足を伸ばすこともできないからです。

実験的な方法によっては、この物質自然を超えたところにあるいかなるものに関しても情報を得ることはできません。私たちの知覚の力を超えているものは、アチンテャ、すなわち知覚できないもの、と呼ばれます。

知覚できないものについて議論したり推察したりするのは無駄です。もしもそれが本当に知覚できないなら、それは推察や実験の影響の下にはありません(対象にならない)。私たちのエネルギーは限られており、私たちの感覚知覚は限られています。

したがって、私たちは知覚できない主題に関してはヴェーダの結論に依り頼まねばなりません。優性なる自然に関する知識は、単に議論することなく受け入れられなければなりません。私たちが全くアクセスを持たない(人智の及ばない)何かについて議論することがどうして可能でしょうか?

超越的な主題を理解するための方法は、主クリシュナご自身によってバガヴァッド・ギーターの中で与えられています。そこでクリシュナはアルジュナに4章の始めでおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私はこの不滅のヨガの科学を太陽神ヴィヴァスヴァーンに教えました。そしてヴィヴァスヴァーンはそれを人類の父であるマヌに教え、マヌはそれを次にイクシュヴァークに教えました。」(BG4.1)

第36段落

これはパラムパラー、すなわち師弟継承の方法です。同様に、シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、クリシュナは宇宙の中で最初の創造された生物であるブラーマーの心臓に知識を授けました。ブラーマーはこれらの教えを自分の弟子ナーラダに授け、ナーラダはその知識を自分の弟子ヴャーサデヴァに授けました。

ヴャーサデヴァはそれをマドフヴァーチャーリャに授け、そしてマドフヴァーチャーリャからその知識はマーダーヴェンドラ・プリーへ、イーシュヴァラ・プリーへ、そして彼からチャイタンニャ・マハープラブへと伝わります。

第37段落

人は、もしもチャイタンニャ・マハープラブがクリシュナご自身であるなら、なぜ主は霊的指導者を必要としたのか、と問うかもしれません。もちろん、主は霊的指導者を必要としてはいませんでした。しかし主はアーチャーリャ(模範を示して教える者)の役割を演じておられたので、霊的指導者を受け入れられました。

クリシュナご自身でさえ、霊的指導者を受け入れられました。それがシステムだからです。このようにして主は人々に模範を示されます。しかし、私たちは主が知識を欲しているから霊的指導者を受け入れるのだと考えるべきではありません。

主は単に師弟継承を受け入れることの重要性を強調していらっしゃるのです。その師弟継承の知識は、実際は主ご自身より来ています。そして、もしもその知識が壊れることなく授けられるなら、それは完璧です。

私たちはその知識を最初に授けたもともとの人格と直接関わってはいないかもしれませんが、私たちはこの伝達のプロセスを通して同じ知識を受け取ることができます。シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、完全真理であり至高の人格神であるクリシュナが超越的な知識をブラーマーの心臓に伝達なさったと述べられています。

それでは、この、心臓を通してという方法は、知識が受け取られるための一つの方法です。このように、人が知識を受け取るには二つの方法があります。一つは、すべての生命体の心臓の中に超魂として鎮座しておられる至高の人格神に頼るものであり、もう一つはクリシュナの拡張体であるグル、すなわち霊的指導者に頼るものです。

こうしてクリシュナは情報を内と外の両方から伝えられます。私たちは単にそれを受け取らねばなりません。もしも知識がこのようにして受け入れられるならば、それが知覚できないものであるかどうかは関係ありません。

第38段落

シュリマッド・バーガヴァタムには、物質的な宇宙を越えたところにあるヴァイクンサの天体系について多くの情報が与えられています。同様に、チャイタンニャ・チャリタームリタには多くの知覚できない情報が与えられています。

実験的な知識を通してこの情報に到達しようとするいかなる試みも可能ではありません。知識は単に受け入れられなければなりません。ヴェーダの方法によれば、シャブダ、すなわち超越的な音が証拠として取り扱われています。

ヴェーダ的な理解においては、音は非常に大切です。もしもそれが純粋ならば、それは権威あるものとして受け入れられます。物質世界においてさえ、私たちは電話やラジオによって何千キロもの距離を送られてきた大量の情報を受け入れます。

このようにして、私たちは日常の暮らしにおいて音を証拠として受け入れます。たとえ情報提供者を見ることができなくても、私たちは音に基づいて彼の情報を信頼の置けるものとして受け入れます。音の振動は、ヴェーダの知識を伝達する上で大変重要です。

第39段落

ヴェーダは私たちに、この宇宙の顕現の向こうには莫大な数の天体と霊的な空があると教えます。この物質的な顕現は、創造全体の小さな部分に過ぎないものであると見なされています。物質的な顕現は、この宇宙だけでなく他の無数の宇宙をも含みます。

しかし、すべての物質的な宇宙を合わせても、創造全体の小さな一部にしかなりません。創造の大部分は霊的な天空にあります。その天空の中に無数の惑星が浮かび、これらはヴァイクンターロカと呼ばれます。すべてのヴァイクンターロカでは、ナーラーヤナが4本の腕のある拡張体、すなわちサンカルシャナ、プラデュムナ、アニルッダーおよびヴァースデヴァの形で支配しておられます。

第40段落

前述のように、物質宇宙はマハー・ヴィシュヌの形をとった主によって創造されました。夫と妻が交わって子供をもうけるように、マハー・ヴィシュヌはご自分の妻であるマーヤー、すなわち物質自然と交わります。これもバガヴァッド・ギーターで確認されており、そこでクリシュナは次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、クンティーの息子よ。すべての種類の生命は、この物質自然に生まれさせられ、そして私が種を与えた父であると理解されるべきです。」(BG14.4)
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by ammolitering4 | 2009-12-30 15:26 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

序論 第21段落から30段落まで

第21段落

私たちは、しばしば「至高神への愛」という言葉を耳にしました。この至高神への愛が実際にどこまで発達できるかということは、ヴァイシュナヴァ哲学から学ぶことができます。神への愛の理論上の知識は多くの場所と多くの聖典の中に見出され得ますが、その至高神への愛が実際には何なのか、そしてそれがいかに発達されるかということが、ヴァイシュナヴァ文献には見出され得ます。チャイタンニャ・マハープラブによって与えられたのは、神への愛の独自で最高の発達なのです。

第22段落

この物質世界においてさえ、私たちは少々の愛の感覚を持つことができます。これはどうやって可能でしょうか?それは至高神の中に見出される愛によるものです。この制約された人生の中での私たちの経験の中に私たちが見出すものは何であれ、すべてのものの究極の源である至高主の中に位置しています。

私たちの至高主との本来の関係の中に本当の愛があり、その愛は物質的な状態を通して歪んで反映されます。私たちの本当の愛は継続的で終わりがありません。しかし、その愛がこの物質世界の中に歪んで反映されているので、それは継続性を欠き、(人を)酔わせます(nebriating、酔わせるような、酩酊させるような)。

もしも私たちが本当の超越的な愛を欲するなら、私たちは自分の愛を至高の愛すべき対象、すなわち至高の人格神に移さねばなりません。これがクリシュナ意識の基本的な原則です。

第23段落

物質的な意識においては、私たちは全く魅力的でない(愛すべきでない)ものを愛そうとしています。私たちは自分の愛を犬や猫に与え、死のときに彼らのことを考えて、結果的に猫や犬の家族に生を受けるかもしれない危険を冒しています。

このように、クリシュナを対象として持たない愛は下方につながります。クリシュナ、すなわち神が何かあいまいなものであるとか、ごく一部の選ばれた人々のみが到達できるものであるとかいうのではありません。チャイタンニャ・マハープラブは、すべての国とすべての聖典の中に至高神への愛のいくらかのヒントがあるとお教えになります。

不幸にして、至高神への愛が実際に何なのか、誰も知りません。しかしヴェーダ文献は、神を愛するための正しい方向へ個人を導くことができるという点で異なります。他の聖典は、どうやって人が神を愛することができるかということに関する情報を与えず、また、至高神とは実際に何か、あるいは誰かということを実際に定義したり描写したりもしません。

彼らは公式には至高神への愛を推し進めていますが、彼らはそれをどうやって実行するかということについては何の考えもありません。しかしチャイタンニャ・マハープラブは、恋人同士(conjugal、普通は婚姻関係を指す)の関係においていかに神を愛するかということの現実的な実証を与えてくださいます。

ラーダーラーニーの役割を演じて、チャイタンニャはラーダーラーニーがクリシュナを愛したように主を愛そうとなさいます。クリシュナはいつもラーダーラーニーの愛に驚嘆していました。「どうやってラーダーラーニーは私にこれほどの喜びを与えるのだろう」と主は問われます。

ラーダーラーニーを研究するために、クリシュナは彼女の役割において生き、ご自分自身を理解しようとなさいました。これが主チャイタンニャの化身の秘密です。チャイタンニャはクリシュナですが、主は私たちにいかにしてクリシュナを愛するかを見せるために、ラーダーラーニーの相、あるいは役割をお取りになりました。そのため、主は(訳注:信者によって)次のように呼ばれます(to address)。「私はラーダーラーニーのことを考えて夢中になっていらっしゃる至高主に心からの敬意を捧げます。」

第24段落

これは、ラーダーラーニーが誰でクリシュナが何であるか、という問いを生じさせます。実際には、ラーダークリシュナは愛の交換です。これは普通の愛ではありません。クリシュナは計り知れない力をお持ちであり、その中で内的、外的、および境界的という3つが主要なものです。

内的な力には三つの部分があります。サムヴィット、フラーディニー、およびサンディーニーです。フラーディニーの力は喜びの力です。すべての生命体は、この、喜びを求める力を持っています。すべての存在は喜びを持とうとしているからです。これは生命体の本質的な性質です。

現在は私たちはこの物質的な状態の中で、体という手段によって自分の喜びの力を楽しもうとしています。身体的な接触によって、私たちは物質的な感覚の対象から喜びを得ようと試みています。しかし私たちは、常に霊的であるクリシュナが私たちのようにこの物質的な水準において喜びを得ようとなさっていると考えるべきではありません。

クリシュナは物質的な宇宙を、悲惨さに満ちた非永遠なる場所、と描写なさいます。それではなぜ主が物質的な形において喜びを求めるべきでしょうか?主は超魂、至高の霊であり、主の喜びは物質的な概念を超えています。

第25段落

クリシュナの喜びがいかに得られるかを学ぶためには、私たちはシュリマッド・バーガヴァタムの10巻を読まねばなりません。そこではクリシュナの喜びの力が、ラーダーラーニーおよびヴラジャの高貴な娘たち(訳注:ゴピーたち)との主の娯楽の中にあらわされています。

不幸にして、非知性的な人々は直ちに10巻のダシャマ・スカンダーの中のクリシュナの娯楽に目を向けます。クリシュナがラーダーラーニーを抱擁なさったことや、ラーサの踊りでクリシュナが牛飼いの娘たちと一緒に踊られたことは、一般には普通の人々によっては理解されません。

彼らはこれらの娯楽を俗世の欲望の光の中で考えるからです。彼らはクリシュナが自分たちのようなものであると、そして主はゴピーたちを普通の男が若い娘を抱擁するように抱擁なさるのだと、不正確に考えます。こうして一部の人々はクリシュナに興味を持ちます。

主の宗教は性交にふけることを許すと彼らは考えるからです。これはクリシュナ・バークティ、クリシュナへの愛ではありません。そうではなく、プラークリタ・サハジャー、すなわち物質的な欲望です。

第26段落

そのような間違いを避けるために、私たちはラーダークリシュナが本当は何であるのかを理解すべきです。ラーダーとクリシュナは、クリシュナの内的な力を通して彼らの娯楽を表されます。クリシュナの内的なエネルギーの喜びの力は最も難しい主題であり、クリシュナが何であるかを理解しない限り、人はそれを理解することはできません。

クリシュナはこの物質的な世界の中では何の喜びも経験なさいません(does not take pleasure in this material world)が、主は喜びの力をお持ちです。私たちは主の欠かすべからざる小片(訳注:part and parcel、文字通りには「部分と部分」であるが、「絶対に必要な小部分」を意味する慣用句)であるので、喜びの力は私たちの中にも存在します。

しかし私たちはその喜びの力を物質の中で表わそうとしています。しかしクリシュナはそのような無駄な努力はなさいません。クリシュナの喜びの力の対象はラーダーラーニーであり、主はご自分の力、すなわちご自分のエネルギーをラーダーラーニーとして表わされ、そして彼女との愛情ある交換(loving affairs)にいそしまれます。

言い換えると、クリシュナはこの外的なエネルギーの中では喜びを経験なさいませんが、ご自分の内的なエネルギー、喜びの力をラーダーラーニーとして表わされます。主の多くの分身、拡張体、および化身の中で、この喜びの力は筆頭であり、主要です。

第27段落

ラーダーラーニーがクリシュナから離れた存在であるというわけではありません。ラーダーラーニーもまたクリシュナです。エネルギーとエネルギーの源に違いはないからです。エネルギー無しではエネルギーの源には何の意味もなく、エネルギーの源がないとエネルギーは存在しません。

同様に、ラーダー無しではクリシュナには何の意味もなく、クリシュナ無しではラーダーには何の意味もありません。このため、ヴァイシュナヴァ哲学はまず至高主の内的な喜びの力に敬意を捧げ、崇拝します。したがって、主と主の力はいつもラーダー・クリシュナとして呼ばれます。

同様に、ナーラーヤナの名前を崇拝する人々は、ラクシュミー・ナーラーヤナと言って、まずラクシュミーの名前を口にします。同様に、主ラーマを崇拝する人々は、まずスィーターの名前を口にします。スィーター・ラーマ、ラーダー・クリシュナ、ラクシュミー・ナーラーヤナ、と、どの場合でも力がいつも先に来ます。

第28段落

ラーダーとクリシュナは一つであり、クリシュナが喜びを楽しみたいと欲するとき、主はご自分をラーダーラーニーとして顕現なさいます。ラーダーとクリシュナの間の愛の霊的な交換は、クリシュナの内的な喜びの力の実際の表れです。

私たちはクリシュナが欲する「とき」について語りますが、主が実際にいつ欲されたかについては、私たちは言うことはできません。私たちは、制約された人生においてはすべてのものに始まりがあると考えるために、このように語るのです。

しかし、完全な、あるいは霊的な人生では、始まりも終わりもありません。にも関わらず、ラーダーとクリシュナが一つであるということと、彼らが分かれもするということを理解するために、「いつ?」という問いが自動的に私たちの心に浮かびます。

クリシュナがご自分の喜びの力を楽しもうと欲されたとき、主はご自分をラーダーラーニーという離れた形に顕現なさり、主がラーダーという媒体を通してご自分を理解したいと欲されたとき、主はラーダーラーニーと合体し、その合体が主チャイタンニャと呼ばれます。

第29段落

なぜクリシュナはチャイタンニャ・マハープラブの姿をとられたのでしょうか?それはクリシュナがラーダーの愛の栄光を知りたいと欲されたからだと説明されています。「なぜ彼女はそれほどまでにも私を愛しているのだろう?」とクリシュナは問いました。

「彼女をそれほど惹きつける私の特別な性質とは何だろう?そして、彼女が私を愛する実際のあり方(way)とは何だろう?」至高存在であるクリシュナが誰かの愛によって魅了されるというのは奇妙に見えます。私たちは不完全で何かを欠いているため、女性や男性の愛を捜し求めます。

女性の愛、その力と喜びは、男性には欠けてます。したがって男性は女性を求めますが、これはご自分で完全であるクリシュナの場合にはあてはまりません。こうしてクリシュナは驚きを表されました。「なぜ私はラーダーラーニーによって魅了されるのだろう?

そして、ラーダーラーニーが私への愛(My love)を感じるとき、彼女は実際に何を感じているのだろう?」その愛情ある交換の真髄を味わうために、クリシュナはちょうど月が海の水平線に現れるようにお現れになりました。月が海を攪拌することによって作られたように、霊的な愛の交換の攪拌によって、チャイタンニャ・マハープラブという月が現れました。

実に、チャイタンニャの肌色はちょうど月のように金色でした。これは比喩的な表現ではありますが、それはチャイタンニャ・マハープラブの顕現の背後の意味を伝えています。主の現れの完全な重要性は後の章で説明されます。

第30段落

至高存在の顕現はチャイタンニャ・チャリタームリタにおいても説明されています。主チャイタンニャに敬意を捧げたあとで、クリシュナダーサ・カヴィラージャは次にニテャーナンダに敬意を捧げます。彼は、ニテャーナンダはマハー・ヴィシュヌの源であるサンカルシャニャの顕現である、と説明なさいます。

クリシュナの最初の顕現はバララーマとしてであり、次にサンカルシャニャ、そしてサンカルシャニャの後は主はプラデュヌマとして顕現なさいます。このようにして、非常に多くの拡張体が現れます。多くの拡張体が存在しますが、ブラーマ・サムヒターに確認されているように、主シュリー・クリシュナが源です。

主は、それから何千何万ものロウソクが灯される、もともとのロウソクのようなものです。いくらでもロウソクが灯され得ますが、もともとのロウソクはそれでも源としての主体性(identity)を保ちます。このようにしてクリシュナはご自分を非常に多くの光に拡張なさいます。そしてこれらの拡張体はヴィシュヌ・タットヴァと呼ばれます。ヴィシュヌは大きな光であり、私たちは小さな光です。しかし、すべてはクリシュナの拡張体です。
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by ammolitering4 | 2009-12-30 04:40 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

序論 12段落から20段落まで

第12段落

チャイタンニャ・チャリタームリタは、霊魂は永遠不滅であり、霊的な世界における私たちの活動もまた永遠であると教えます。完全存在が非人格であって無形であるという見方をするマーヤーヴァーディーたちは、自己を認識した(悟りを開いた)魂は喋る必要がないと主張します。

しかし、クリシュナの献身者であるヴァイシュナヴァたちは、人は自己認識(悟り)の水準に至ったときに本当に喋り始めると主張します。「以前は私たちは無意味なことばかり喋っていました」とヴァイシュナヴァは言います。「さあ、今こそ本当の話を、クリシュナに関する話を始めましょう。」

マーヤーヴァーディーたちはまた、水がめの例を好んで用います。水がめが水で一杯になっていないと、それは音を立てます。しかし、一杯になっていると音を立てません。それが彼らの主張です。しかし、私たちは水がめでしょうか?どうして私たちが水がめと比べられるでしょうか?

良い類推は、二つの対象の間にできるだけ多くの相似性を用います。水がめは動的な生命力ではありませんが、私たちはそうです。永遠に無言の瞑想は水がめには妥当かもしれませんが、私たちにはそうではありません。実に、人が自己を認識したとき、人はクリシュナについて話すことがあまりにたくさんあるので、一日に24時間では足りません。

黙っている限りは褒め称えられるのは愚か者です。彼が沈黙を破ると、彼の知識の欠如があらわになるからです。チャイタンニャ・チャリタームリタは、至高存在を讃えることによって見出せる素晴らしいものがたくさんあることを示しています。

第13段落

チャイタンニャ・チャリタームリタの始めに、クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーはこう書いています。「私は自分の霊的指導者たちに敬意を捧げます。」彼はここで、師弟継承を示すために複数形を用いています。自分の霊的指導者だけにではなく、主クリシュナご自身から始まる師弟継承の鎖であるパラムパラー全体に敬意を捧げているのです。

このように、すべてのヴァイシュナヴァへの著者の最高の敬意を示すために、グルは複数形で指されています。師弟継承に敬意を捧げたあと、著者は他のすべての献身者たち、兄弟弟子たち、至高神の拡張体たち、およびクリシュナのエネルギーの最初に顕現に敬意を捧げます。

(時としてクリシュナ・チャイタンニャと呼ばれる)主チャイタンニャ・マハープラブは、これらすべての具現体です。主は、神、グル、献身者、そして神の拡張体です。主の仲間ニテャーナンダとして、主はエネルギーの最初の顕現です。アドヴァイタとして、主は化身です。

ガダーガーラとして、主は内的な潜在力です。そしてシュリーヴァーサとして主は境界的な生命体です。このように、クリシュナは一人でいると考えられるべきではありません。ラーマーヌジャーチャーリャによって描写されているように、主は永遠に主のすべての顕現と共に存在していると考えられるべきです。

ヴィシシュタードヴァイタ哲学では、神のエネルギー、拡張体、および化身は、多様性の中の一体性であると考えられています。言い換えると、神はこれらのすべてから離れたものではなく、すべてを合わせたものが神なのです。

第14段落

実際には、チャイタンニャ・チャリタームリタは初心者のためのものではありません。それは霊的な知識の高度な(post-graduate、大学卒業後の)研究だからです。バガヴァッド・ギーターから始め、シュリマッド・バーガヴァタムへ進み、それからチャイタンニャ・チャリタームリタに進むのが理想的です。

これらの偉大な聖典のすべては同じ完全な水準にありますが、あえて比較検討すれば、チャイタンニャ・チャリタームリタは最高の水準にあると考えられます。その中のすべての句節は完璧に書かれています。

実に、主チャイタンニャとニテャーナンダは、物質世界の闇を晴らすので、太陽と月に比べられます。この場合においては、太陽と月が一緒に昇りました。そして、主チャイタンニャとニテャーナンダに直接敬意を捧げるのは正しいことです。

第15段落

主チャイタンニャの栄光があまり知られていない西洋世界においては、人は「クリシュナ・チャイタンニャとは誰ですか?」と問うかもしれません。その問いに対する返答としての霊的な結論は、主は至高の人格神であるというものです。

一般に、ウパニシャッドにおいては至高の完全真理は非人格的に描写されていますが、完全真理の人格的な側面はイーショパニシャッドにおいて言及されています。そこでは、あまねく行き渡るものの描写のあと、次のような句節を見つけることができます。

(サンスクリット引用)

「おお、我が主よ。すべての生けるものを養う方よ。あなたのお顔はあなたの目のくらむような光輝によって覆われています。どうかその覆いを取り去り、あなたご自身をあなたの純粋な献身者に見せてください。」(シュリー・イーショパニシャッド、マントラ15)

第16段落

非人格主義者は、神の光輝の向こうまで行って、そしてその光輝の源である人格に至るための力を持ちません。しかし、イーショパニシャッドの終わりには、至高の人格神への賛歌があります。非人格なるブラーマンが否定されているのではありません。

それもまた描写されていますが、そのブラーマンはチャイタンニャの体の目もくらむような光輝であると考えられています。言い換えると、クリシュナ・チャイタンニャが非人格なるブラーマンの源なのです。バガヴァッド・ギーターの中では、クリシュナによって「非人格なるブラーマンは主に依り頼む(to rest on Him)」と述べられています。(ブラーマニョ・ヒ・プラティシュターハム、BG14.27)

すべての生命体の心臓の中と宇宙のすべての原子の中に存在するパラマートマ、すなわち超魂は、単にチャイタンニャの部分的な表れに過ぎません。したがって、クリシュナ・チャイタンニャはブラーマンの源であり、至高の人格神でもあるのです。

至高神として、主は富、名声、力、美、知識、および放棄(renunciation、無執着、selflessness)という六つの豊かさを完全に備えておいでです。端的に言うと、私たちは主はクリシュナ、神であり、そして主と同等のものや主に優るものは何もないということを知るべきです。主に優るものはありえません(There is no superior to be conceived、想像されうる、より優れたものは存在しない)。主は至高の人格なのです。

第17段落

次のように書いたのは、主チャイタンニャによって十日以上も教えられた親密な献身者であるルーパ・ゴスヴァーミーでした。

(サンスクリット引用)

「私は至高主シュリー・クリシュナ・チャイタンニャに私の心からの敬意を捧げます。主は他のどのアヴァターラよりも、クリシュナご自身よりも寛大でいらっしゃいます。他の誰も決して与えなかったもの、すなわちクリシュナへの純粋な愛を無償で授けていらっしゃるからです。」

第18段落

チャイタンニャは神を認識するための長く複雑な道を教えていらっしゃるのではありません。主は完全に霊的です。そして、主はクリシュナに服従する時点から始められます。主はカルマ・ヨガやジニャーヤ・ヨガやハター・ヨガの道を追い求めることはなさいません。

そうではなく、物質存在の最後、人がすべての物質的な執着を放棄する時点からはじめるのです。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは魂を物質から区別するところから始められ、18章で魂が主に献身において服従するところで終わられました。

マーヤーヴァーディーたちはそこですべての話をやめますが、その時点で本当の話は始まったばかりなのです。始まるのはヴェダーンタ・スートラです。アタート・ブラーマ・ジジニャーサー。「さあ、至高の完全真理について問い始めましょう。」

このように、ルーパ・ゴスヴァーミーはチャイタンニャをすべての化身の中でも最も気前の良い化身であると賞賛します。主は献身奉仕の最高の形を示すことで最もすばらしい贈り物を下さるからです。言い換えると、主は人が尋ねうる最も重要な問いに答えてくださるのです。

第19段落

献身奉仕と神認識には、異なる段階があります。厳密に言うと、神の存在を認める者は誰でも献身奉仕に位置します。神が偉大であると認めるのは何らか(の奉仕)ではありますが、それほど大したことではありません。

偉大な教師、すなわちアーチャーリャとして布教していたチャイタンニャは、私たちが神との関わりを持って実際に神の友人になることができると教えました。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナはアルジュナにご自分の普遍的な(universal)形をお見せになりました。アルジュナは主の「とても親愛なる友人」だからです。

しかし、宇宙(訳注:複数)の主としてのクリシュナを見て、アルジュナは実際に、クリシュナに自分の友情のくだけた親しさを許してくれるように頼みました。チャイタンニャはこの先へ行きます。主チャイタンニャを通して、私たちはクリシュナと友人になることができます。

そして、この友情には限りがありません。私たちは、畏敬や憧憬によるのではなく、完全な自由においてクリシュナの友人になれます。私たちは主の父として神と関わることができます。これはチャイタンニャ・チャリタームリタの哲学であるだけでなく、シュリマッド・バーガヴァタムの哲学でもあります。

世界には、神が献身者の息子として扱われている聖典は他にありません。普通は、神は主の息子たちの要求を満たす万能の父とみなされます。しかし、偉大な献身者は時として、献身奉仕を遂行するにあたって神を息子として扱います。

息子が要求し、父が与え、そしてクリシュナに与えることで献身者は父のようになります。神から取る代わりに、私たちは神に与えるのです。クリシュナの母ヤショダーが主に「ほら、これを食べなさい。食べないと死んでしまいますよ。ちゃんと食べなさい」とおっしゃったのは、この関係においてでした。

このようにして、クリシュナはすべてのものの所有者であるにも関わらず、ご自分の献身者の慈悲に頼るのです。これは比類なく高度な友情です。それにおいて、献身者は実際に自分がクリシュナの父であると信じるのです。

第20段落

しかし、主チャイタンニャの最も偉大な贈り物は、クリシュナが実際に人の恋人として扱われうるという教えでした。この関係において、あまりにも執着しているので、主は自分の恩に報いる能力の欠如を表明なさいました。

(訳注:もうすこし分かりやすく訳するとこうなります。「主はあまりにも深く恋をしているので、恋人からの愛に報いるには自分は力不足だということを認めました。」原文は何だか不明瞭ですが、内容としては、ゴピーたちへのクリシュナの愛はあまりにも深く、それでクリシュナは「僕は君たちが僕に注いでくれる愛に満足なお返しをすることはできない」と、神様らしからぬことを言ってしまったわけです。そのつながりがよく分からないのは、英語の問題というより、私の哲学的な理解の問題だなと思います。)

クリシュナはヴリンダーヴァンの牛飼いの娘たちであるゴピーたちにあまりにも感謝していたので、彼女たちの愛を返すことができないと考えておられました。「私はあなたたちの愛にお返しをすることができません」と主はおっしゃいました。「私にはもはや返すものがありません。」

このように、献身奉仕はこの素晴らしい水準において行われ、そしてクリシュナとの恋人同士としての関係という知識はチャイタンニャ・マハープラブによって与えられました。それは以前のどの化身、あるいはアーチャーリャによっても与えられませんでした。

ルーパ・ゴスヴァーミーは次のようにチャイタンニャのことを書きました。「献身奉仕それこそが、あなたが与えてくだだった最高の水準、栄えある水準です。あなたは黄色の肌色をしたクリシュナです。そしてあなたはシャチーナンダナ、母シャチーの息子です。

チャイタンニャ・チャリタームリタを開く者は、その心にあなたを保ちます。あなたを通してクリシュナを理解するのは簡単です。」このように、チャイタンニャ・マハープラブはクリシュナを届けるためにいらっしゃいました。届けるための主の方法は、瞑想や、結果を求める活動や、聖典の研究ではなく、愛でした。
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by ammolitering4 | 2009-12-29 17:06 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

序論 第11段落まで

「序論」

第一段落

(以下の文章は)もともと1967年4月10日から14日にかけて、ニューヨーク市のISKCON前で(?)、5回に渡るチャイタンニャ・チャリタームリタに関する朝の講話として語られたものです。チャイタンニャ・チャリタームリタとは、クリシュナダーサ・カヴィラージャ・ゴスヴァーミーによる主チャイタンニャ・マハープラブの正統なる伝記です。

第2段落

「チャイタンニャ」という言葉は生命力を意味します。生命体である私たちは動くことができますが、テーブルは動けません。テーブルには生命力がないからです。動きと活動は生命力のしるし、あるいは兆候として考えられるかもしれません。実に、生命力無しでは何らの活動もないと言えるかもしれません。生命力は物質的な状態に存在していますが、それはアムリタ、すなわち永遠不滅、ではありません。したがって、チャイタンニャ・チャリタームリタは、「永遠性における生命力の性質」と翻訳されるかもしれません。

第3段落

しかし、この生命力は永遠性においてどのように現されているでしょうか。それはこの物質宇宙においては人間や他の生物によっては現されていません。この体においては、誰も永遠ではないからです。私たちには生命力があり、私たちは活動し、本来的に永遠です。しかし、私たちが入れられている物質的な状態は、私たちの永遠性が表されるのを許しません。

カター・ウパニシャッドには、永遠性と生命力は私たちと神の双方に属すると述べられています。これは、神と私たちがどちらも永遠であるということに関しては正しいのですが、違いがあります。生命体として、私たちは様々な活動をします。しかし、私たちには物質自然に落ちる傾向があります。神にはそのような傾向はありません。

完全に力強い主は、決して物質自然の支配の下に置かれることはありません。実に、物質自然は主の計り知れないエネルギーの一つの現れに過ぎないのです。

第4段落

地上からは、私たちには空に雲しか見えないかもしれません。しかし、もしも雲の上を飛べば、私たちは太陽が輝いているのを見ることができます。空からは高層ビルや都市はとても小さく見えます。同様に、神の立場からはこの物質創造のすべては取るに足りません。制約された生命体の傾向は、すべてが正しく見える(in perspective、真相を正しく理解する)高さから降りてくるということです。

しかし、神にはこの傾向がありません。至高主は幻想(マーヤー)に陥ることはありません。太陽が雲の下に落ちることがないようなものです。至高主は幻想の影響を受けないので、主は制約されていません。微細な生命体である私たちは幻想に陥りやすいので、制約されている、と呼ばれます。

非人格主義者の哲学者たち(マーヤーヴァーディー)は、この物質世界に来るときは生命体も神も双方がマーヤーの支配下にあると主張します。これは生命体に関しては正しいかもしれませんが、神に関しては正しくありません。いかなる場合でも物質エネルギーは主の指示の下で働いているからです。至高主が物質的な制約の影響を受けると考える者は、バガヴァッド・ギーターにおいてクリシュナご自身によって愚か者であると呼ばれています。

(サンスクリット引用)

「私が人間の姿で降臨するとき、愚か者たちは私をあざ笑います。彼らは私の超越的な性質と、存在のすべてに対する私の至高の支配権を知りません。」(BG9.11)

第5段落

主チャイタンニャ・マハープラブは、私たちの一人として考えられるべきではありません。主はクリシュナご自身、至高の生命体であり、したがって主は決してマーヤーの雲の下には置かれません。主の拡張体および、より高度に発達した主の献身者でさえ、決して幻想の支配の下には落ちません。

主チャイタンニャは、単にクリシュナ・バークティ、すなわちクリシュナへの愛を説くためだけに地球にいらっしゃいました。言い換えると、主は生命体にクリシュナに近づくための正しい方法を教えている主クリシュナご自身なのです。

主は、あまりうまく学習していない生徒を見て、鉛筆を取り、「こんなふうにしなさい。A、B、C」と言って書いてみせる先生のようなものです。これをもって、人は教師がABCを学んでいるのだと愚かにも考えてはいけません。主は献身者のように見えますが、私たちはいつも、主チャイタンニャは私たちにクリシュナ意識になる方法を教えているクリシュナ(神)ご自身であることを覚えているべきであり、私たちは主をその光の中で研究しなければなりません。

第6段落

バガヴァッド・ギーターの中で主クリシュナは最高の宗教的な原則を次のように述べられます。

(サンスクリット引用)

「すべての種類の宗教を放棄し、ただ私に服従しなさい。私はあなたを罪深い行いのすべての反応から救います。恐れることはありません。」(BG18.66)

第7段落

これは簡単に従える教えに見えるかもしれませんが、私たちの反応は決まって次のようなものです。「おお、服従しろと?放棄しろと?しかし私には非常に多くの責任があります。」そして、マーヤー、すなわち幻想が私たちに言います。「耳を傾けてはいけません。主の言う通りにすれば、あなたは私の支配から離れます。私の支配の下に留まりなさい。そして私はあなたを蹴ります。」

私たちが常にマーヤーに蹴られているのは事実です。性交をしに来たときにオスのロバがメスのロバに顔を蹴られるようなものです。同様に、犬や猫も性交をするときにはいつも、争ったり哀れっぽい声を出したりします。これらは自然の罠です。ジャングルの中の象でさえ、彼を穴の中に導く訓練をされたメスの象を使って捕まえられます。

マーヤーは多くの活動を持っており、物質世界では彼女の最も強い足かせ(shackle、手かせ、足かせ、縛り上げるための鎖)は女性です。もちろん、実際には私たちは男性でも女性でもありません。これらの名称(designation、称号、指定、名称)は外側の衣類、すなわち体だけを指すからです。

私たちは皆、実際はクリシュナの従者です。しかし、制約された人生においては私たちは美しい女性の姿をした鉄の鎖によって束縛されます。こうしてすべての男性は性生活によって縛られ、したがって人が物質的な支配から解放されようと試みるとき、彼はまず性的な衝動を統御することを学ばねばなりません。

制限されない性は人を完全に幻想の支配下に置きます。主チャイタンニャ・マハープラブは24歳のときにこの幻想を公式に放棄しました。主の妻は16歳、母は70歳で、主は家族で唯一の男性であったにも関わらずです。主はブラーマンであって裕福でもなかったにも関わらず、サンニャーサ、すなわち放棄階級となられ、こうしてご自身を家族のしがらみから解放なさいました。

第8段落

もしも完全にクリシュナ意識になりたいと望むなら、私たちはマーヤーの束縛を捨てなければなりません。あるいは、もしもマーヤーと共に留まるなら、私たちは幻想の影響を受けないように暮らさねばなりません。自分の家族を放棄することは必要ではありません。主チャイタンニャの最も親密な献身者たちの中にも、多くの家庭人がいたからです。

放棄されねばならないのは、物質的な楽しみを求める傾向です。主チャイタンニャは家庭人が結婚の中で規制された性交をすることは認めていましたが、放棄階級の者に対しては非常に厳格でした。そして主は、若い女性を欲望をもって見たことで、ジュニア・ハリダーサを追放することさえなさいました。

要点は、人は特定の道を習慣づけて、霊的な生活に成功するために必要なすべての規則や規律に従い、その道を固守しなければならない、ということです。クリシュナ意識をすべての人に教え、そして彼らが霊的な生活の永遠性を分かち合うことができるようにすることが主チャイタンニャの使命でした。

第9段落

チャイタンニャ・チャリタームリタから、私たちはチャイタンニャがいかにして人々に永遠不滅になるかを教えたかということを学びます。そして、そのため書名は「生命力の永遠なる性質」と正しく翻訳されるかもしれません。(書名を正しく翻訳すると「生命力の永遠なる性質」が適切かもしれません)

至高の生命体は至高の人格神です。主はまた、至高の独立体でもあります。これは非常に簡単に理解できます。私たちは皆、思考や欲望において個人であり、至高主もまた個別の人格です。しかし、主は誰もしのぐことのできない指導者であるという点で異なります。

創造された生命体の中で、ある存在は別の存在をある能力、あるいは別の何かにおいてしのぐことができます。ちょうど生命体が個人であるように、主は個人です。しかし、主は至高の個人であるという点で異なります。神はまた決して誤りがなく、バガヴァッド・ギーターにおいて主は「決して堕落することのない者」という意味のアチュタという言葉で呼ばれています。

これは、バガヴァッド・ギーターの中でアルジュナは錯覚に陥りましたがクリシュナは陥らなかったために、このように述べられているものです。私たちは、神には決して誤りがない、と述べられているのをしばしば耳にします。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「すべての活動において、これらの自然の相のほかには何も無いと、そして至高主はこれらの相のすべてを超越していると理解するとき、そのときあなたは私の霊的な性質を知ることができます。」(BG14.19)

第10段落

このように、クリシュナが物質世界にいらっしゃるときは主は物質的な力に圧倒される、と私たちは考えるべきではありません。クリシュナおよび主の化身は、物質自然の支配下にはありません。彼らは完全に自由です。

実に、シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、神々しい性質を持つ者は、物質自然の中にあっても物質自然の相によって影響されない者、と定義されています。もしも献身者でさえこの自由を得られるのであれば、至高存在は言うまでもありません。

第11段落

本当の問いは、物質世界にいる間に、いかにして私たちが物質的な汚染に汚されずにいられるかということです。もしも単にクリシュナに仕えることを私たちの野心にすれば、私たちは世界にいる間に汚染されずにいられる、と説明なさったのはルーパ・ゴスヴァーミーでした。

それでは人は当然、「私はどうやって奉仕できますか」と尋ねるかもしれません。明らかに、これは単に心の活動に過ぎない瞑想のことではなく、実際的な仕事のことです。クリシュナへの奉仕を愛することは、クリシュナのために働くことによってのみ得られます。

そのような仕事においては、私たちはいかなる資源も使われないままに残すべきではありません。そこにあるものは何であれ、私たちが持てるものは何であれ、クリシュナのために使われるべきです。私たちはすべてを使うことができます。タイプライター、自動車、飛行機、ミサイル、、、何でもです。

もしも私たちが単に人々にクリシュナ意識について語るなら、それによっても私たちは奉仕をしています。もしも私たちの心、感覚、言葉、お金、およびエネルギーがこのようにクリシュナへの奉仕に使われていれば、私たちは物質自然の中に存在しているとは考えられ得ません。

霊的な意識、すなわちクリシュナ意識の力によって、私たちは物質自然の水準を超越します。「クリシュナ、主の拡張体、および主の献身者すなわち主のために働く人々は物質自然の中にはいない」というのは、知識の乏しい人々が「そうではない」と考えるにも関わらず、事実なのです。
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by ammolitering4 | 2009-12-26 15:39 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

主チャイタンニャの使命

主チャイタンニャ・マハープラブの使命

主チャイタンニャ・マハープラブは、クリシュナの科学について本を書くようにご自分の弟子たちに指示なさいました。その仕事は主の信者によって今日なお遂行され続けています。主チャイタンニャによって教えられた哲学の推敲と詳細な解説は、師弟継承のシステムにより、事実、非常に膨大かつ厳密であり、一貫しています。

主チャイタンニャは若い頃に学者として広く高名でしたが、主はシクシャーシュタカと呼ばれる8つの節だけを残されました。これらの8つの節は、主の使命をはっきりと明らかにしています。これらの究極的に価値ある祈りがここに翻訳されています。

1.シュリー・クリシュナ・サンキールタンに栄光あれ。それは何年のも間積み重なったすべての埃を心から洗い去り、繰り返す生と死という制約された人生の火を消し去ります。このサンキールタン運動は、人類全体への至高の恩恵です。それは恩恵の月の光を広めるからです。それはすべての超越的な知識の命です。それは超越的な喜びの海を増し(ますます溢れさせ)、私たちがいつも欲している蜜を私たちが十分に味わうことができるようにします。

2.おお、我が主よ。あなたの聖なる御名だけが生命体にすべての恩恵を施すことができます。そしてそのため、あなたはクリシュナやゴヴィンダなど、何百もの何百万もの名前をお持ちです。これらの超越的な名前の中に、あなたはご自分のすべての超越的なエネルギーを込められました。これらの名前を唱えるのに決まった規則(hard and fast rules)はありません。おお、我が主よ。あなたは親切にも、私たちがあなたの聖なる名前によって簡単にあなたに近づけるようにしてくださいます。しかし私はとても不運なので、それらに魅力を感じません。

3.人は自らを路上の麦わらよりも低く考え、主の聖なる御名を謙虚な心の状態で唱えるべきです。人はいかなる偽りの名誉の感覚もなく、木よりも忍耐強くあるべきです。人は他の人々にすべての尊敬を捧げる用意ができているべきです。そのような心の状態において、人は主の聖なる御名を絶え間なく唱えることができます。

4.おお、万能の主よ。私は富を蓄えたいとは思いません。美しい女性たちや、信者の一人も欲しいとも思いません。私は何度生まれ変わってもあなたへのいわれのない奉仕ができることだけを望みます。

5.おお、マハーラージャ・ナンダの息子(クリシュナ)よ。私はあなたの永遠の従者です。それなのにどういうわけか、私は生と死の海に落ちてしまいました。どうか私をこの死の海から拾い上げてください。そして私をあなたの蓮の御足の下に原子の一つとして置いてください。

6.おお、我が主よ。私があなたの聖なる御名を唱えるときにい、私の目が絶え間なく流れる愛の涙で飾られるのはいつでしょうか。私の声が詰まるのはいつでしょうか。そしてあなたの御名を朗唱して私の体中が総毛立つのはいつでしょうか。

7.おお、ゴヴィンダよ。あなたからの別離を感じ、私は一瞬を12年やそれ以上にも感じています。私の目からは涙が土砂降りのように流れています。そして私はあなたがいらっしゃらないので世界においてまったく空虚に感じています。(I am feeling all vacant in the world in your absence.)

8.私は自分の主としてただクリシュナのみを知っています。そして主は、たとえ主が私をその抱擁によって手荒く扱っても、私の前にいないことで私の心を粉々にしても、私の唯一の主であり続けます。主は何でも全くお好きなようにすることができます。主は無条件でいつも私の崇拝すべき主でいらっしゃるからです。
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by ammolitering4 | 2009-12-25 14:57 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

序文 後半

第10段落(以下、マハープラブ)

サンニャーサの後、マハープラブはシャーンティプラにあるアドヴァイタ・プラブの家を訪れるように誘われました。アドヴァイタ・プラブは、マハープラブのすべての友人たちと崇拝者たちをナディアから招き寄せました。そして、息子に会えるようにマハープラブの母親シャチーデヴィーも連れてきました。

サンニャースィーの衣装を着た自分の息子を見たとき、喜びと痛みの両方が彼女の心を襲いました。サンニャースィーとして、クリシュナ・チャイタンニャ(それがサンニャーサの後で彼が得た名前でした)は、コーピーナとバヒルヴァーサ(outer covering、外套、コートのようなもの?)しか身に着けていませんでした。頭には毛髪がなく、手にはダンダ(棒)とカマンダル(宗教的な隠遁者の水筒)を持っていました。

マハープラブは、愛する母の前にひれ伏して言いました。「お母さん!この体はあなたのものです。そして私はあなたの命令に従わねばなりません。私の霊的な達成のために、ヴリンダーヴァンに行くことを許してください。」

母は、アドヴァイタや他の人々と相談して、時折マハープラブの動向を聞くことができるようにプリー(ジャガンナーターの町)に住むように息子に頼みました。マハープラブはその提案に同意し、2-3日後にオリッサ(地名)へ向けてシャーンティピラを発ちました。

彼の伝記者たちは、シャーンティピラからプリーへのマハープラブの旅を詳細に描写しています。彼は、現在では24パルガナスのダイヤモンド港のターナー・マトゥーラープラに位置するチハトラボーガまで、バーギーラティーに沿って旅しました。

そこから船に乗り、ミドナプラ地区のプラヤーガ・ガータまで行きました。それから、途中でブーラネシュヴァラの寺院を見て、バラソレとチュッタックを通ってプリーへ向かいました。プリーに着くと、寺院でジャガンナーターに会い、サールヴァボーマの要求に応じて彼と一緒に住みました。

サールヴァボーマは当時の偉大なパンディタでした。彼の読書は限界を知りませんでした。彼は当時の最高のサーヤーイカであり、シャンカラーチャーリャの学派のヴェダーンタ哲学における最も学識のある学者として知られていました。彼はナディア地域のヴィデャーナガラに生まれ、そこにある自分のトラで無数の生徒たちにニャーヤ哲学を教えました。彼はマハープラブの降誕のしばらく前にプリーに行きました(引っ越しました)。

(マハープラブがプリーに着いたときに)サールヴァボーマの義理の兄弟であるゴピーナーター・ミシュラがマハープラブを彼に紹介しました。彼はマハープラブの個人的な美しさに驚愕し、長い人生の間(これからの長い人生において)サンニャーサ・ダールマを維持し続けるのは若きマハープラブには難しいだろうと恐れました。

マハープラブがナディアにいた頃から彼を知っていたゴピーナーターは、彼に大いなる敬意を持っており、「このサンニャースィーは普通の人間ではない」と宣言しました。この点に関して、ゴピーナーターとサールヴァボーマは熱い議論を交わしました。

それからサールヴァボーマはマハープラブに、自分がヴェダーンタ・スートラの朗誦をするのを聞いてくれるように頼みました。マハープラブは黙って了承(服従)しました。マハープラブは、偉大なサールヴァボーマが7日間に渡って厳粛に発声するのを黙って聞きました。

その最後にサールヴァボーマは言いました。「クリシュナ・チャイタンニャ!私はあなたがヴェダーンタを理解していないと思います。私の朗誦と解説を聞いた後で、あなたは何も言わないからです。」マハープラブの答えは、「スートラは非常によく理解できたけれど、シャンカラーチャーリャが自分の解説で何を言わんとしていたかが分からなかった」というものでした。

これに驚愕し、サールヴァボーマは言いました。「スートラの意味は理解できるのに、スートラを説明する解説が理解できない、とはどういうことですか?いいでしょう!もしもあなたがスートラを理解できるなら、私にあなたの解釈を聞かせてください。」そこで早速マハープラブは独自の方法で、シャンカラの汎神論的な解説に触れることなく、すべてのスートラを説明しました。

サールヴァボーマは、その明敏な理解力で、マハープラブが与えた説明の中の議論の真実、美、および調和を見抜きました。そして、そのような簡素な様式でブラーマスートラを説明できる人を見つけたのは初めてだ、と言わざるを得ませんでした。

彼はまた、シャンカラの解説は、自分がマハープラブから得たようなヴェダーンタスートラのとても自然な説明は決して与えなかった、と認めました。それから彼はマハープラブに服従して支持者および信者になりました。

2-3日のうちに、サールヴァボーマは当時の最高のヴァイシュナヴァの一人になりました。この出来事の報告が伝わると、オリッサ全体がマハープラブを賞賛する言葉を歌い、何百人も何百人もの人がやってきて彼の信者になりました。その頃、マハープラブは南インドを訪れることを考えました。そして、クリシュナダーサ・ブラーマナという人と共に旅立ちました。

第11段落

マハープラブの伝記者たちは旅の詳細を記しています。彼はまずクールマクシェトラに行き、そこでヴァースデヴァという名のハンセン病患者を癒すことで奇跡を行われました。ゴダーヴァリーの河岸では、ヴィデャーナガラの知事であるラーマーナンダ・ラーヤに会い、プレマ・バークティの主題について彼と哲学的な会話を交わしました。

さらに、7本のターラの木を触って(それらを直ちに消し去ることで)、もう一つの奇跡を行われました。ダシャラターの息子ラーマチャンドラは、それらを通して矢を放ち、偉大なるバリ・ラージャを殺したのでした。

マハープラブは旅の間中ヴァイシュナヴァ主義とナーマ・サンキールタンを布教しました。ランガクシェトラでは、雨季を過ごすためにヴェンカタ・バーッタという人の家で4ヶ月過ごしました。そこで主はヴェンカタの家族を皆ラーマーヌジャ・ヴァイシュナヴァ主義からクリシュナ・バークティに改宗しました。

その中には、ヴェンカタの息子であるゴパーラという名前の10歳の少年もいました。彼はのちにヴリンダーヴァンに来て、6人のゴスヴァーミー、すなわち彼らの指導者であるシュリー・クリシュナ・チャイタンニャの下で仕える唱道者の一人になりました。

彼の叔父、プラボダーナンダ・サラスヴァティーの下でサンスクリット語の訓練を受けていたゴパーラは、ヴァイシュナヴァ主義に関して何冊かの本を書きました。

第12段落

マハープラブはケープ・コモリンまでも南インドを旅し、おびただしい場所を訪れました。そしてビーマ川沿いのパンデプラを過ぎて2年後にプリーに戻りました。このパンデプラで彼はトゥカーラーマという人を霊化しました。彼はそのときから自身も布教者になりました。

この事実は、ボンベイ行政府のサテェンドラ・ナート・タゴレ氏によって一巻にまとめられたマハープラブのアーバンガに収めされています。旅の間に、マハープラブは仏教徒、ジャイナ教徒、およびマーヤーヴァーディーたちと幾つかの場所で議論をし、対抗者たちをヴァイシュナヴァ主義に改宗しました。

第13段落

プリーに戻ると、ラージャ・プラターパルドラ・デヴァおよび幾人かのパンディタ・ブラーマンたちがマハープラブの旗下に加わりました。マハープラブは27歳でした。28歳のとき、彼はベンガルに行き、マルダのゴーダまでも行きました。そこで彼はルーパとサナータナという名の二人の偉大な名士と知り合いになりました。

カルナーティック・ブラーマンの家系の子孫であるとはいえ、これらの二人の兄弟は、ハッセイン・シャー、続いてゴーダの皇帝との継続的な接触により、半イスラム教徒になっていました。彼らの名前は皇帝によってダビール・カース、およびサーカラ・マリックに変えられていました。

彼らはどちらもペルシャ語とアラビア語とサンスクリット語に通じており、国家の忠実な従者であったので、彼らの主人は彼らを心から愛していました。二人の紳士は、普通のヒンズー教徒として戻る道を見つけられず、マハープラブがプリーにいらした間に霊的な助けを求めて彼に手紙を書きました。

マハープラブは、自分が彼らのところに行って霊的な困難から彼らを救い出す、と返事を書きました。マハープラブがゴーダにおいでになったので、二人の兄弟は彼の前に現れ、かねてからの願い(prayer、ヒンズー教徒に戻りたいという、祈りにも似た願い)を述べました。マハープラブは彼らに、ヴリンダーヴァンに行ってそこでご自分に会うように命令しました。

第14段落

マハープラブはシャーンティプラを通ってプリーに戻り、そこで再び愛する母と会いました。プリーでの短い滞在の後、彼はヴリンダーヴァンに向けて出発しました。このときの同行者はバラバードラ・バーッターチャーリャという人でした。

マハープラブはヴリンダーヴァンを訪れ、プラヤーグ(アッラハバッド)に行き、コーランからの議論によって大勢のイスラム教徒をヴァイシュナヴァ主義に改宗しました。これらの改宗者たちの子孫は今でもパターナ・ヴァイシュナヴァとして知られています。

ルーパ・ゴスヴァーミーはアッラハバッドでマハープラブに会いました。マハープラブは彼に10日間で霊性を訓練し、使命を持ってヴリンダーヴァンに行くように命令しました。彼の最初の使命は、純粋なバークティとプレマーを科学的に説明する神学的な作品を書くことでした。

第2の使命は、クリシュナチャンドラが宗教的な世界の利益のために、ドヴァーパラ・ユガの終わりにご自分の霊的なリーラー(娯楽)をお現しになった場所を復興させることでした。ルーパ・ゴスヴァーミーはヴリンダーヴァンに向けてアッラハバッドを発ち、マハープラブはベナレスにいらっしゃいました。

そこでマハープラブはチャントラシェクハラの家に滞在し、タパナ・ミシュラの言えで日々のビークシャー(食事)をお受けになりました。サナータナ・ゴスヴァーミーが加わって2ヶ月の間霊的な事柄について教えを受けたのは、ここでの出来事でした。伝記者たち、特にクリシュナダーサ・カヴィラージャは、ルーパとサナータナへのマハープラブの教えの詳細を私たちに伝えています。

クリシュナダーサは、同時代の執筆家ではありませんでしたが、マハープラブの直接の弟子であったゴスヴァーミーたち自身から情報を集めました。サナータナとルーパの甥であって、シャット・サンダルバーという貴重な作品を残したジーヴァ・ゴスヴァーミーは、マハープラブの教えに関して哲学的に理論づけました。私たちは、これらの偉大な執筆家たちの本からマハープラブの教えを集めて要約しました。

第15段落

チャイタンニャがベナレスにいらした間に、あるマラター・ブラーマナが娯楽のために家に(その町の)すべてのサンニャースィーたちを招待しました。マハープラブはそこでベナレスの学識のあるサンニャースィーたちと会談しました。

この会談において、彼は奇跡を見せてすべてのサンニャースィーたちを魅了しました。それから双方向の会話が続きました。サンニャースィーたちは、彼らの非常に学識のある指導者であるプラカーシャーナンダ・サラスヴァティーに率いられていました。

短い議論の後で、彼らはマハープラブに服従し、自分たちはシャンカラーチャーリャの解説によって誤って導かれていたと認めました。学識のある学者たちにとっても、長い間マハープラブに反対することはできませんでした。

マハープラブには、彼らの心に触れて彼らを霊的な改良を求めて涙させる、何らかの魔力があったからです。ベナレスのサンニャースィーたちは、まもなくマハープラブの足元にひれ伏し、彼の恩寵(クリパー)を乞いました。

そしてマハープラブは純粋なバークティを説き、彼らの心にクリシュナへの霊的な愛を教え込みました。それは彼らをして党派的な感情を放棄せずにはおきませんでした。(彼らはその教えに触れて、自ら党派的な感情を放棄しました。)このすばらしいサンニャースィーの改宗を見て、ベナレスの人口のすべてがヴァイシュナヴァになり、彼らは自分たちの新しい主マハープラブと共に卓越したサンキールタンを行いました。

サナータナをヴリンダーヴァンに遣わしたあと、マハープラブは仲間であるバラバードラと共にジャングルを通って再びプリーに行きました。バラバードラは、マハープラブがプリーへの道で、クリシュナの名を聞いてトラや象が踊るようにさせるなど、非常に多くの奇跡を行ったと記録しています。

第16段落

このときから、というのは31歳のときから、トタゴピーナーターの寺院でサンキールタンのときに48歳で姿を消したときまで、マハープラブはプリーのカーシ・ミシュラの家にお住まいになりました。この18年の間、彼は落ち着いた愛と信心深さに満ちた人生を送りました。彼は無数の信者に囲まれていました。

そのすべてはヴァイシュナヴァの最高の位の者たちであり、彼らはその非常に純粋な性質、学識、堅固な宗教的な原則とラーダー・クリシュナへの霊的な愛によって、一般の人々から区別されていました。

マハープラブがナディアにいた頃は、プルショッタマーチャーリャの名で知られていたスヴァルーパ・ダーモダラがベナレスからマハープラブに加わり、彼の秘書としての任務を受け入れました。スヴァルーパが純粋で有用であるとして認めない限り、いかなる詩人や哲学者の作品もマハープラブの前に提出されませんでした。

ラーヤ・ラーマーナンダはマハープラブの第二の友人でした。彼とスヴァルーパは、マハープラブが礼拝の特定の時点でご自分の感傷を表している間、歌っていました。(訳注:「マハープラブがラーダー・クリシュナを礼拝する途中で恍惚となると、その間彼らは傍で歌い続けました」という意味ではないかと思います。)

パラマーナンダ・プリーは宗教的な事柄に関してのマハープラブの代理人でした。マハープラブの伝記者たちが描写した逸話はたくさんありますが、私たちはここで再度それらを紹介するには及ばないと考えます。

マハープラブは短い睡眠しか取りませんでした。彼の感傷は、毎日毎晩霊性の天空において遠く広く彼を連れて行きました。(訳注:「宗教的な感情の高ぶりで恍惚状態になったマハープラブの魂は、朝となく夜となく霊的な天空の彼方まで旅していました」、というところでしょうか。)

そして彼の崇拝者と信者は皆、その全体に渡って彼を見ていました。彼は礼拝をし、ヴリンダーヴァンで自分の布教者たちと意思の疎通をし、新しく彼を訪れた宗教的な人々と会話を交わしました。彼は踊り歌い、自分のことを全くかまわず、しばしば宗教的な至福に我を忘れました。

彼のところへ来た者は皆、彼のことを、人類の利益のために下界(nether world)に現れた完全に美しい神であると信じていました。マハープラブはずっと母を愛していました。ナディアに行く者に託して、時折彼女にマハープラサーダを送りました。彼は非常に好感の持てる性質でした。謙虚さが彼において具人化していました。(謙虚さを絵に描いたような方でした)

彼の美しい外見(sweet appearance)は、彼に関わったすべての人に喜び(cheer、元気、励まし、慰めなど)を与えました。彼はベンガルの布教責任者としてプラブ・ニテャーナンダを任命しました。彼は奥地で愛を説くために6人の弟子(ゴスヴァーミー)たちをヴリンダーヴァンに派遣しました。

彼は聖なる人生から逸れたすべての弟子を罰しました。ジュニア・ハリダーサ(同名の息子、弟などの年少者)の件では、彼はこれを際立って実行しました。彼は人生における正しい教えを求めた人へそれを与えないということは決してありませんでした。これは彼のラグーナーター・ダーサ・ゴスヴァーミーへの教えに見られます。

ハリダーサ(シニア、同名の年長者)に対する彼の扱いは、彼が霊的な人々をいかに愛したか、そして霊的な兄弟愛において彼がいかに階級的な区別を平然と無視したかを示しています。

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ふう、やっと終わりました。いつにも増してぎこちない訳文ですね。ごめんなさい。原文に忠実に、かつ滑らかで自然な分かりやすい日本語にするのは難しいものだなと思っています。この後まだチャイタンニャの8つの祈りがあって、それからプラブパーダによる「はじめに」が21ページもあって、それからやっと本文に入るのです。本の構成もインド時間で進んでるんだなと思いました。みなさん、気長にいきましょう。
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by ammolitering4 | 2009-12-25 12:24 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(3)

序文 前半

この序文は古い文体で書かれていますので、翻訳に際しては多少の変更を加えています。例えば、プラブパーダの英語ではクリシュナやチャイタンニャなどの主を指す場合は大文字のHeが使われていて、私は大体いつも「主」と訳しています。でもここでは単にheになっています。クリシュナへの言及も多いので、紛らわしさを避けるために、「主」ではなく、そのまま「彼」と訳しました。

さらに、チャイタンニャ・マハープラブという同一人物を指すのにたった10ページで18もの異なる言い方がなされています。これは日本語の文章ではあまり馴染みのない手法で、かなり読んでいてややこしいので、「彼」、「ニマーイ」、「(チャイタンニャ)・マハープラブ」の3つくらいに絞りました。

また、構文が長くて複雑なものが多いので、意味を変えない程度にいくつかに切ったりしています。ああ、それともう一つ、私には人名や地名や物の名前などを理解したり覚えたりするのが極度に苦手だという特技があります。もはや自慢できる領域に達しているのです。

この短文の中には、いやというほどそんなのが出てきます。どれが何を指すのか、はたまた誰を指すのか、誰と誰がどういう関係にあるのか、訳していながら全然分かりません。どうぞご自分で表など作りながら解読してください。私もいずれは受験勉強のようにチャートを作ろうと思っています。

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序文

バークティヴィノダ・タークラ著

第1段落

この叙述は、もともとシュリーラ・バークティヴィノダ・タークラによる「シュリー・チャイタンニャ・マハープラブ;その人生と教え」と題した小編に収録されていました。(1896年8月20日)

第2段落

チャイタンニャ・マハープラブは、キリスト教徒の暦で言えば1486年2月18日にあたる、1407シャカーブダ23パールグナの夜、日没のすぐ後に、ナディアの町のマーヤープールにて(訳注:in Mayapur in the town of Nadia;西ベンガルのナディア地区にあるマーヤープール村)お生まれになりました。

ご生誕のときは月は月食になっており、そのような折には普通であったように、ナディアの人々は大きな声でハリボルと言いながらバーギーラティーで沐浴をしていました。彼の父であるジャガンナーター・ミシュラは、ヴェーダの階級のブラーマナでした。彼の母、サチー・デヴィーは、模範的な女性でした。そして彼らはどちらも、もともとシルヘットに住んでいたブラーマナの家系の子孫でした。

マハープラブは美しい子供で、町の女性たちは贈り物を持って彼に会いに行きました。彼の母の父、有名な占星術師であるパンディタ・ニラームバラ・チャクラヴルティーは、この子供はやがて偉大な人物になる、と予言し、そのため彼にヴィシュヴァムバーラという名前を与えました。

近隣の女性たちは、彼の金色の肌色から、彼をゴーラハリと呼びました。彼の母は、彼がニムバの木の近くで生まれたので、それにちなんで彼をニマーイと呼びました。美しい子供だったので、誰もが毎日彼に会うことを心から愛していました。(訳注:大勢の人が毎日喜んで彼の姿を見に来ました)

成長すると、彼は気まぐれで陽気な子供になりました。5歳のとき、彼はパーターシャーラーに入学し、
そこで非常に短い間にベンガル語を覚えました。

第3段落(以下、「ニマーイ」)

チャイタンニャ・マハープラブと同時代の伝記者たちのほとんどは、彼の初期の奇跡の簡単な記録である、幾つかの特定の逸話に言及しています。(訳注:原文では改行されていませんが、ここでは6つに分けています)

1.乳児の頃、ニマーイは母親の腕の中で絶え間なく泣きました。そして、近所の女性たちが「ハリボル」と叫ぶと泣き止みました。こうして、彼の将来の使命を予言して(to foreshew、古語。To shew は現代語ではto show)、家の中では絶え間なくハリボルが発声されていたと言われます。

2.また、あるときニマーイの母が彼に菓子を与えて食べさせようとしました。すると彼は食物の代わりに土を食べたと述べられています。母がそのわけを尋ねると、彼は、すべての菓子は形を変えた土に過ぎず、自分は土も食べられるのだ、と答えました。パンディタの妻(consort、通常は「妃」)でもあった彼の母は、特定の状態にあるすべての物は特定の用途のためにある、と説明しました。

水差しの状態にある土は水を入れる容器として使われますが、レンガの状態ではその役割は果たせません。したがって、菓子の形をした土は食べ物として使われ得ますが、他の形をした土は食用になりません。彼は納得して土を食べた自分の愚かさを認め、今後は間違わないようにすることに同意しました。

3.もう一つの奇跡的な事柄が述べられています。巡礼中のブラーマナがニマーイの家の客人となり、料理をし、クリシュナに焦点を当てて(upon Krishna)瞑想しながら食前の感謝の祈りを読んだそうです。その間にニマーイがやってきて、炊いた米を全部食べてしまいました。

彼のしたことに驚愕したブラーマナは、ジャガンナーター・ミシュラの要求に応じて、もう一度料理をしました。ブラーマナが瞑想と共にクリシュナに(炊いた)米を捧げている間に、ニマーイはまたしてもそれを全部食べてしまいました。

ブラーマナは3度目の料理をすることを余儀なくされました。このときは家の者たちは皆寝静まっており、ニマーイは旅人にクリシュナとしての自分の姿を見せて、彼を祝福しました。ブラーマナは自分の崇拝の対象が現れたことに恍惚となりました。

4.また、二人の泥棒がニマーイの宝石を盗むつもりで彼を家の戸口からさらい、途中で菓子をあげたそうです。彼は人を幻惑させるエネルギーを使って、泥棒たちを惑わせて家に戻らせました。見つかることを恐れて、泥棒たちは彼をそこに残して逃げました。

5.記録されているもう一つの奇跡的な行いは、エカーダーシーの日にクリシュナを崇拝するために集められた捧げ物を、ニマーイがヒラニャとジャガディーシャに要求して、すべて手に入れたことです。

6.わずか4歳のとき、ニマーイは、母が不浄であると考えていた、捨てられた料理用の鍋の上に座りました。彼は母に、料理が終わった後で捨てられた土製の鍋には浄も不浄もない、と説明しました。

第4段落

8歳のとき、ニマーイは、マーヤープールの村に近いガンガーナガラの、ガンガーダーサ・パンディタのトラに入学しました。2年後、彼はサンスクリット語の文法と修辞法に熟達しました。その後のニマーイの学習(readings、読書、学識)は、パンディタであった父が所有していた非常に重要な書物があった自宅での、独学という性質のものでした。その頃の著名なパンディタであったラグナーター・シロマニの下で勉強していた友人たちと競争して、彼は独学でスムリティとニャーヤを読んだようです。

第5段落

さて、10歳になってからは、ニマーイは文法、修辞学、スムリティおよびニャーヤの、ある程度の学者になりました。彼の兄、ヴィシュヴァルーパが家を出てサンニャースィー(行者)のアーシュラマ(階級)を受け入れたのは、その後でした。とても若い少年ではありましたが、兄は神を喜ばせるという目的を持って彼らに仕えるのだ、と言ってニマーイは両親を慰めました。その後すぐ、父がこの世を去りました。母は大いに悲しみ、そしてニマーイはいつもの穏やかな様子で夫を亡くした母を慰めました。

第6段落

同じくナディア地域の、ヴァラバーチャーリャの娘ラクシュミデヴィーとニマーイが結婚したのは、彼が14歳か15歳のときでした。この年齢の頃、彼は、ニャーヤ哲学とサンスクリット語学習の有名な中心地であるナディア地域で最も優れた学者の一人だと考えられていました。スマールタ・パンディタたちは言うまでもなく、ナイヤーイカたちは皆、学術上の議論で彼と対決することを恐れていました。

結婚した男性として、彼は富を得るためにパドマの河岸の東ベンガルに行きました。そこで彼は自分の学識を披露して大金を得ました。彼が時折ヴァイシュナヴァ主義を説教したのは、このときです。タパナミシュラにヴァイシュナヴァ主義を教えた後、ニマーイは彼にベナレスに行って住むように命令しました。

ニマーイが東ベンガルに住んでいた間に、妻のラクシュミデヴィーが蛇にかまれてこの世を去りました。家に帰ると、彼は母が嘆き悲しんでいる様子を見ました。彼は人間の事柄の不確実性に関する話をして彼女を慰めました。ニマーイがラージャ・パンディタ・サナータナ・ミシュラの娘ヴィシュヌプリヤーと結婚したのは、母の頼みによってでした。

ニマーイの仲間たちは、彼がプラヴァーサ、すなわち(一時的な)滞在から戻ると、彼に合流しました。彼はこの頃にはとても有名だったので、ナディアで最も優れたパンディタであると考えられていました。自らを偉大なディグヴィジャイーと呼んでいたカシミヤのケシャヴァ・ミシュラは、その地のパンディタたちと議論をするつもりでナディアにやってきました。

いわゆる「征服するパンディタ」を恐れて、ナディアのトラの教授たちは招待された振りをして町を離れました。ケシャヴァは、マーヤープールのバロコナ・ガーターでニマーイに会い、ごく短い議論の後で若きニマーイに打ち負かされました。そして、彼は屈辱のあまり立ち去らざるを得ませんでした。ニマーイは、いまや彼の時代の最も重要なパンディタになりました。

第7段落

ニマーイが大勢の生徒たちと共にガヤーに旅して、ヴァイシュナヴァのサンニャースィーにして有名なマーダーヴェンドラ・プリーの弟子であるイーシュヴァラ・プリーから、その地で霊的な洗礼を受けたのは、16歳か17歳の頃でした。

ナディアに戻ると、ニマーイは宗教的な説教者になり、宗教的な性質がとても強く表されたので、彼の降誕の前に既にヴァイシュナヴァの信仰を受け入れていたアドヴァイタ・プラブ、シュリーヴァーサ、および他の人々は、彼の変化に驚愕しました。

彼はその頃はもはや、競い合うナイヤーイカでもなく、論争するスマールタや批判する修辞学者でもありませんでした。彼はクリシュナの名に恍惚となり、宗教的な感傷の影響の下で、啓示を受けた人として振舞いました。

シュリーヴァーサ・パンディタの家で、そのほとんどが学識のある学者であった何百人もの信者(followers)の前でニマーイが自分の神々しい力を見せたところを目撃したムラーリ・グプタは、それを描写しています。

ニマーイが自分の誠実な信者たちと共にシュリーヴァーサ・パンディタの屋敷でキールタンの夜学を開いたのは、このときでした。そこで彼は説教し、歌い、踊り、様々な宗教的な感情を表しました。その頃はヴァイシュナヴァ主義の説法者であり、既にインド中の旅を終えていたニテャーナンダ・プラブは、この頃までにはニマーイに仲間に加わりました。

事実、いずれも誠実な心の持ち主である大勢のヴァイシュナヴァ主義のパンディタ説法者たちは、ベンガルの様々な地域から来てニマーイの仲間に加わりました。ナディアは今や、ヴァイシュナヴァ宗派の最高の影響で人類を霊化することを使命とする大勢のヴァイシュナヴァ・アーチャーリャたちの正式な中心地をなりました。

第8段落

ニマーイがプラブ・ニテャーナンダとハリダーサに出した最初の命令は、次のようなものでした。「友人たちよ、行きなさい。行って町の通りを歩き、すべての人の戸口を叩き、聖なる暮らしをしてハリの名を歌うように彼らに頼みなさい。そして、夜毎私のところに来て、あなたがたの布教の結果を報告しなさい。」

このように命令され、二人の布教者は行って、極めて忌まわしい二人の人物、ジャガーイとマーダーイに会いました。ニマーイの命令を聞いて、彼らは布教者たちを侮辱しました。しかし、ニマーイが説き聞かせたバークティ(献身)の影響によって、すぐに改心しました(to convert、改宗する)。

ナディアの人々はこれに驚きました。彼らは、「ニマーイ・パンディタはとてつもない天才であるだけでなく、確かに万能の神からの使節だ」と言いました。このときから23歳のときまで、ニマーイは自分の信条をナディアだけでなく周辺のすべての重要な町や村で布教しました。

彼は信者たちの家で奇跡を見せ、バークティの深遠な原理を教え、他のバークタたちと一緒にサンキールタンを歌いました。ナディアの信者たちは、通りや市場でハリの聖なる名を歌い始めました。これは大評判となり、様々なところで異なる感情を引き起こしました。

バークタたちは非常に喜びました。スマールタ・ブラーマナたちは、ニマーイの成功をねたむようになりました。そして、彼の性質はヒンドゥー的ではない、とチハンド・カジに苦情を訴えました。カジはシュリーヴァーサ・パンディタの家に来て、そこでムリダンガ(コーラ太鼓)を壊し、ニマーイが自分のいかがわしい宗教に関して無駄に騒ぎ立てるのを止めないかぎり、彼と彼の信者たちにイスラム教を強制せざるを得ない、と宣言しました。

これがニマーイに伝えられました。彼は町の人々に、夜になったらそれぞれ手にタイマツを持ってやってくるように命じました。人々はこれに従いました。ニマーイは14のグループに分けられたサンキールタンと共に行進し、カジの家に着くと、カジと長い会話を交わしました。

最後には、ニマーイはカジの体を触って彼の心にヴァイシュナヴァの影響を伝えました。カジは涙を流し、強烈な霊的な影響を感じたと認めました。それは彼の疑いを晴らして、彼の心に宗教的な感傷を引き起こし、最高の恍惚感を与えたのでした。

そしてカジはサンキールタン隊に加わりました。人々(the world)は偉大なる主(ニマーイ)の霊的な力に驚愕し、この出来事の後で何百人も何百人もの異教徒が改宗してヴィシュヴァムバーラの旗下に加わりました。

第9段落

クリア(地名)に住む何人かの妬み深くて心の卑しいブラーマナたちがニマーイに口論を吹っ掛け、彼に反対するグループを結集したのはその後でした。ニマーイは、自分の信条においては強固であったとはいえ、元来心優しい方でした。彼は、党派心と宗教上の派閥主義は発達を阻む二つの大きな敵であり、自分が特定の家族に属するナディアの住人であり続ける限り、自分の使命は完全な成功に至ることはない、と宣言しました。

そして彼は、自分の特定の家族、階級および宗派との繋がりを断つことで、世界全体の中の一人(a citizen of the world)となる決心をしました。そして、この決意をもって、彼はカトワ(地名)でその町のケシャヴァ・バーラティーの指導の下でサンニャースィーの立場を進んで選び取りました。24歳でした。

彼の母と妻は、別離にあたってひどく泣きました。しかしニマーイは、心優しいとはいえ、信条においては強固な方でした。一般大衆と共にクリシュナの無限なる霊的な世界を求めるために、彼は自分の家の中の小さな世界を去りました。
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by ammolitering4 | 2009-12-23 12:10 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

はじめに 後半

第7段落

ヨガの修練は、基本的に感覚を統御することを目的としています。すべての感覚の中心的な統御要素は心です。したがって、人はまず、クリシュナ意識に携わらせることによって心を統御することを修練しなければなりません。心の、密度の濃い(gross、「かすかな」の反対。表面的な、目立つ)活動は、知識を得るため、あるいは意志(will)にしたがって感覚が機能するようにするため、外的な感覚を通して表現されます。

心の、密度の薄い(subtle、かすかな、内面的な、目立たない)活動は、考えること、感じること、そして意志を持つこと(willing)です。その人の意識に比例して、個人はあるいは汚染されており、あるいは清らかです。もしも人の心がクリシュナ(主の名前、性質、形、娯楽、側近、および主に関わるすべて)に定まっていれば、人の活動のすべては―――密度の薄いものも、濃いものも―――好ましくなります。

バガヴァッド・ギーターが述べる意識を浄化する過程は、次のような活動によって人の心をクリシュナの上に定める過程です。(訳注:原文は改行してありませんが、ここでは読みやすくするために箇条書きにします。本書にはこのようなリストが頻出しますので、以後も箇条書きとします。)

*主の超越的な活動について語る。
*主の寺院を清める。
*主の寺院に行く。
*美しく飾られた主の美しい超越的な姿を見る。
*主の超越的な栄光について聞く。
*主に捧げられた食物を味わう。
*主の献身者と関わる。
*主に捧げられた花やトゥラスィーの葉の匂いを嗅ぐ。
*主の関心にかなった活動にいそしむ、など。

誰も心と感覚の活動を止めることはできませんが、人はこれらの活動を、意識の変化を通して浄化することができます。この変化は、バガヴァッド・ギーターの中で示されています。クリシュナがアルジュナにヨガの知識を教える場面です。そのヨガによって(whereby)、人は楽しむべき、あるいは苦しむべき結果無しで働くことができます(without fruitive result)。

「おお、プリターの息子よ。あなたがそのような知性によって働くとき、あなたは自分自身を仕事の呪縛から自由にすることができます。」(BG2.39)人間は、時として、病気などの特定の状況によって感覚の満足を制限されます。しかし、これは正当な方法(prescription)ではありません。(訳注:心と感覚の活動を制約・統御するのが人生の目的だが、病気などで制約されても、それは正しい方法とはいえない、という意味。prescriptionには、治療法、処方箋、正当とされる古い習慣、などの意味がある。)

心と感覚が統御され得る実際の過程を知ること無く、知性において劣る人々は力で心と感覚を止めようとしたり、あるいはそれらに負けて感覚の満足の波にさらわれます。

第8段落

ヨガの規律的な原則や規律、様々な座る姿勢、そして、人の感覚を感覚の対象物から引っ込める試みとしてなされる呼吸練習は、生命の身体的な概念にあまりにも没頭した者たちのためのものです。クリシュナ意識に位置した知性ある人は、自分の感覚の活動を力づくで止めようとしたりはしません。むしろ、彼は自分の感覚をクリシュナへの奉仕に携わらせます。子供を非活動的なままにさせることで遊ぶのを止めさせることは、誰にもできません。子供は、優れた活動に携わらせることによって、無意味なことをするのを止めさせられます。

ヨガの八つの原則による、感覚的な活動の強制的な制約は、劣った人々のために勧めされています。クリシュナ意識の優れた活動に携わっていると、優れた人々は自然に物質的な存在の劣った活動から退きます。

第9段落

このようにして、主チャイタンニャはクリシュナ意識の科学をお教えになります。その科学は完全です。無味乾燥な精神的な推察者たちは、自分たちを物質的な執着から引き離そうとします。しかし、一般に、心は統御されるには強すぎて、彼らを感覚的な活動に引きずりおろすということになります。

クリシュナ意識の人は、この危険を冒しません。人は、自分の心と感覚をクリシュナ意識の活動に携わらせねばならず、そして主チャイタンニャは、これをいかに実行するかを人に教えてくださいます。

第10段落

サンニャーサ(放棄階級)を受け入れる前、主チャイタンニャはヴィシュヴァムバーラとして知られていました。ヴィシュヴァムバーラという言葉は、宇宙全体を維持する者と、すべての生命体を率いる者を指します。この維持者と指導者は、人類にこれらの至高の教えを与えるために、主シュリー・クリシュナ・チャイタンニャとしてお現れになりました。

主チャイタンニャは、人生の最も重要な(prime)必要物の理想的な教師です。(訳注:primeには、最重要、という意味のほか、基本的な、あるいは根本的な、という意味もあります。したがって、これは「主は、人生で最も重要で必要とされる物事を教える、あるいは人生で根本的に必要な物事を教える、理想的な教師である」という意味の文章です。どちらでも合ってるような気がします。最も根本的なことこそ最も重要ですし。)

主は、クリシュナへの愛を最も気前良く授ける方です。主はすべての慈悲と幸運の完全な貯蔵庫です。シュリマッド・バーガヴァタム、バガヴァッド・ギーター、マハーバーラタ、およびウパニシャッドに確認されているように、主は至高の人格神クリシュナご自身であり、この意見の食い違いの時代にあっても、すべての人によって崇拝され得ます。

誰でも主のサンキールタン運動に参加できます。何らの先行する資格もいりません。単に主の教えに従うことによって、誰でも完全な人間になることができます。もしも人が主の特徴によって魅了されるほどに幸運であるなら、その人は必ず自分の人生の使命において成功します。言い換えると、霊的な存在を得ることに興味のある者は、主チャイタンニャの恩寵によって、簡単にマーヤーの支配から解放されえます。この本に提示されたこれらの教えは、主と異なるものではありません。

第11段落

物質の体に埋没しているので、制約された魂は様々な物質的な活動によって歴史のページを増やします。主チャイタンニャの教えは、人間の社会がそのような不必要にして一時的な活動を止めるのを助けます。これらの教えによって、人類は霊的な活動の最高の水準に上げられ得ます。

これらの霊的な活動は、物質的な呪縛からの解放の後で、実際に始まります。そのようなクリシュナ意識における解放された活動は、人間の完成の最終地点です(to constitute、AがBを構成する、AがBである)。人が物質自然を支配しようとして得る偽りの名誉は幻想です。啓蒙するような知識が、主チャイタンニャの教えから得られます。そして、そのような知識によって、人は霊的な存在において進歩することができます。

第12段落

すべての人が自分の活動の結果を苦しみ、あるいは楽しまねばなりません。そのような物事を管理する物質自然の法律を、さえぎることのできる者はいません。人が結果を生じさせる(fruitive)活動にいそしんでいる限り、彼は人生の究極の目標に辿りつこうとして、必ずくじかれます。( fruitiveは、普通は良い結果を求めて働くことを形容します。でも、悪い結果が出てしまうような活動もやっぱりfruitiveなのです。良くも悪くも因果というfruitが実ってしまうような、という意味です。そういう実の成らない木が理想であるようですが、そうするとエデンの園でアダムとイブが食べてしまったのは、因果応報の実だったのかもしれません。)

主チャイタンニャの教えを理解することによって、人間の社会が霊的な人生の新しい光を経験することを、私は心から願っています。それは純粋な魂のための活動の場を開くのです。

オム・タット・サット

A.C.バクティヴェダンタ・スワミ

1968年3月14日
主チャイタンニャの降誕日
シュリー・シュリー・ラーダー・クリシュナ寺院
ニューヨーク州ニューヨーク市にて

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Love of Godについて。そのまま訳すと「神の愛」ですね。これは神さまからの愛なのか、神様への愛なのか、双方向なのか、これだけでは分かりません。でも、これは「神様が好き、神様への愛」という表現なのです。神様の部分を何でも好きなものに入れ替えて表現できます。I developed my love of maple syrup since I came to Canada.(カナダに来てからメープルシロップが好きになった)のは私です : )

なお、原文と照らし合わせて読んでくださっている方はお気づきになったかもしれませんが、関係代名詞で続いている長い文は、基本的に短く切っています。訳文をご覧になってのご質問などあれば、遠慮なくおっしゃってください。
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by ammolitering4 | 2009-12-15 16:16 | 「主チャイタンニャの教え」 | Comments(0)

D君ありがとう

こんばんは。今度の本をリクエストしてくださったBVDさん、お待たせしました。時間ができたときに、ゆっくり読んでください。とてもすばらしい本です。少しずつしか出来上がってきませんが、どうぞ他の皆さんもプラブパーダと主チャイタンニャのお言葉を存分に味わってください。

私はもう20年くらい日本語の練習とインプットが決定的に欠落した人生を送っているものですから、翻訳にあたっては、滑らかで自然な訳文は遥か遠いものです。受験生のような直訳なので読みにくいとは思いますが、どうぞがんばって読んでください。

正確を期していますが、英語の解釈では???と思う点も多々あります。そんなときに便利なのが、ニューヨークタイムズのクロスワードパズルを人生最大の楽しみとするD君です。「先生、質問です」と言って持っていくと、たいてい必ず謎を解明してくれます。

彼はシュリマッド・バーガヴァタムを寝る前に読む本と決めています。数年がかりで10巻まで読み進んでいるところなので、その点でも質問するにはうってつけです。私の翻訳プロジェクトは基本的には一人で黙々とやってるものですが、D君の貢献は特筆すべきものですので、ここでご紹介した次第です。
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by ammolitering4 | 2009-12-13 15:40 | その他 | Comments(10)