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こんにちは

ご無沙汰しております。皆様お元気でいらっしゃいますか。こちらバンクーバーでは、30度を超える夏日が続いています。夏もあまり暑くならない街にしては珍しいことです。私は最近はまたぼちぼち絵を描いているので、それと仕事で忙しくしています。でも翻訳も少しずつ進んでいます。Life Comes From Lifeという、大変興味深い作品です。

この本は1970年代にプラブパーダが科学者のシング博士と交わした対話を記録したものですが、当時は冷戦の時代であり、宇宙開発の時代、核による牽制合戦の時代、緑の革命に象徴される遺伝子操作などのSF的な科学技術が無防備なまでに発達した時代でもあります。そういった背景を理解して読むと、プラブパーダの洞察の深さと先見の明が浮き彫りにされるように思います。更新はしばらく先になりますが、どうぞ楽しみにしてお待ちください。

原文はこちらにあります。
Life Comes From Life
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by ammolitering4 | 2009-07-29 15:01 | 「生は生より来たる」 | Comments(2)

「霊的なヨガ」第11章 

第11章 「完全な完成に至る」

第1段落

(サンスクリット引用)

「愛しい息子たちよ。あなた方は私が助言したように行動すべきです。大変注意深くありなさい。これらの方法によって、結果を求める行いへの欲望という無明からあなた方は自由になり、心の中の呪縛の結び目は完全に切断されます。もっと発達するためには、あなた方は方法さえも放棄すべきです。つまり、あなた方は解放の過程そのものに執着するようになるべきではありません。」(SB5.5.14)

第2段落

解放の過程はブラーマ・ジジナーサー、完全真理の探求です。一般にブラーマ・ジジナーサーはネティ・ネティ、それによって人が完全真理の探求のために存在を解析する過程、と呼ばれます。この方法は、人が霊的な人生にない限り続きます。霊的な人生はブラーマ・ブータ、自己を認識した状態です。バガヴァッド・ギーターには、次のように書かれています。(18.54)

(サンスクリット引用)

「このように超越的な立場に位置する者は、直ちに至高のブラーマンを認識し、完全に喜びに満ちた状態になります。彼は決して嘆かず、何かを欲しいと望むこともありません。彼はすべての生命体に対して中庸です。その状態にあって、彼は私への純粋な献身奉仕に至ります。」

第3段落

求められているのは、パラー・バークティ、至高主への超越的な献身奉仕に入ることです。これに至るためには、人は自分の存在を解析しなければなりません。しかし人が実際に献身奉仕にいそしんでいるとき、彼はわざわざ知識を探そうとすべきではありません。単に逸脱することなく献身奉仕にいそしむだけで、人はいつも解放された状態に留まっていられます。

(サンスクリット引用)(BG14.26)

ひるむことのない献身奉仕の実行は、自動的に人をブラーマブータの水準と呼ばれる超越的な水準に置きます。これに関するもうひとつの重要な特徴は(サンスクリット引用)です。霊的指導者から受けとった指導には直ちに従わねばなりません。人は霊的指導者の指導から逸れたり、それを飛び越えたりすべきではありません。人は単に書物を調べることに熱心であるべきではなく、同時に霊的指導者の命令を実行すべきです。(ヤソパデシャム)物質的な概念を放棄することができるようにするためには神秘的な力が習得されるべきですが、実際に献身奉仕にいそしむとき、人は神秘的なヨガのシステムを実行する必要はありません。要点は、人はヨガを実行することは放棄できますが、献身奉仕は放棄してはならないということです。シュリマッド・バーガヴァタムには次のように述べられています。(1.7.10)

(サンスクリット引用)

解放された者(アートマーラーマ)でさえ、いつも献身奉仕にいそしまねばなりません。人は自己を認識したらヨガを実行することを放棄しても構いませんが、どの段階においてでも献身奉仕を放棄することはできません。ヨガと哲学的な推察を含むほかのすべての自己認識のための活動は放棄されても構いませんが、献身奉仕はいつも必ず維持されねばなりません。

第4段落

献身奉仕は私たちをカルマーシャヤム、結果を求める活動への欲望から自由にします。私たちの心が結果を求める活動に没頭している限り、私たちが物質的な体への呪縛(サンスクリット引用)から自由になることはありえません。人間の人生の目的のすべては、霊魂を体から自由にして、それによって生と死の繰り返しに起因する苦しみから自由にすることです。誰もが一生懸命働いて結果を楽しむことで幸せになろうとしています、、、この地球の上だけではありません。もっとも高位の惑星ブラーマロカに至るまで、他の惑星でもそうなのです。しかし、この過程は単に私たちの物質的な体への呪縛を増します。第10節から第13節にかけて、主リシャバーデヴァはそれによって人が徐々にこの呪縛から自由になるところの献身奉仕の過程を説明なさいました。

第5段落

献身奉仕は科学です。それは感情論ではありません。したがって私たちはそれをヴェーダの権威ある源から理解しなければなりません。そのような知識は私たちの不完全な感覚に基づいてはいません。そしてそのためヴェーダの知識には誤りや偽りや幻想はありません。すべてが完璧です。これが本当の科学、、、完璧な知識です。「もしかしたら」や「そうであるかもしれない」ではありません、、、それは科学ではなく理論です。

第6段落

献身奉仕の科学を知るためには、人は完璧な教師に近づかねばなりません。(サンスクリット引用)第10節において、主リシャバーデヴァは献身奉仕の第一歩は(サンスクリット引用)であると確認しておられます。「人は高度に発達した霊的指導者に服従し、そのようにして私に、至高の人格神に献身奉仕をすべきです。」マイ(mayi)「私、すなわち至高の人格神」という言葉は大変重要です。これは、グルは至高主と同じくらい良いということを示します。彼は主の教えからそれることがないからです。それがグルの主要な特徴です。彼は何か新しいものを作り出したりしません。違います。彼はクリシュナは5000年前にバガヴァッド・ギーターにおいてお教えになったのと同じことを教えます。そしてクリシュナがお話しになったときでさえ、それは新しいものではありませんでした。バガヴァッド・ギーターの第4章において(4.1)、クリシュナはアルジュナにこうおっしゃいます。(サンスクリット引用)「何百万年も前に太陽神に教えたのと同じヨガの科学を私は今日あなたに教えます。」時間が経ってから教えが変化しなければならないというのではありません。それは無意味なことです。完全真理に関しては、新しいことはありえません。すべてが確立されています。何百万年も前、太陽は東の地平線から昇りました。そして今でも太陽は東の地平線から昇ります。今では太陽が西や東の地平線から昇るというわけではありません。同様に、ヴェーダの知識は永遠に確立されています。それはいかなる状況においても決して変えられ得ません。何百万年も前に真実だったことは、今も真実です。そしてその真実を知るためには人は真正なる霊的指導者に近づかねばなりません。

第7段落

主リシャバーデヴァによって与えられた献身奉仕における二つのもっとも重要な段階は、マット・カルマビーヒ、「私のために働く」と、マット・カサヤー・チャ・ニチャム、「いつも私に関することを聞き、私の名を唱える」です。ニチャム、「いつも」という言葉はここで非常に大切です。人は一年に7日か10日シュリマッド・バーガヴァタムのクラスに出席して、残りの355日は証券取引所に行ってあの株やこの株の値段を尋ねているべきではありません。違います。あなたは献身者との関わりの中で(マッド・デヴ・サンガート)毎日バーガヴァタムを聞かねばなりません。結果を求めて働く人々や精神的な推察をする人々との関わりの中でではありません。それは私たちを助けません。

第8段落

献身奉仕におけるもう一つの重要な事柄は(サンスクリット引用)です。献身奉仕をすることによって、人は家庭生活への非執着を培うべきです。バーガヴァタムには次のように述べられています。(11.2.42)(サンスクリット引用)「バークティ・ヨガを実行することによって、人は主に奉仕をする超越的な喜びを感じ、主の存在を感じ、他のすべてに対する非執着を感じます。それがバークティ・ヨガです。誰もが自分自身に次のように問うことによって、献身奉仕の道における自分の進歩を試すことができます。「私は俗世の情愛に対してどれくらい非執着になっただろう。私はまだどれくらい”これは私の体、これは私の国、これは私の社会、これは私の妻、これは私の子供たちだ”と考えているだろう。」私たちはこの幻想に基づいた執着を放棄しなければなりません。もしも私たちが俗世の執着を放棄することができないなら、私たちはまったく進歩することができません。人はアハム・ブラーマースミを理解するようにならなければなりません。「私はこの体ではない。私はこの心ではない。私はこの知性ではない。私は純粋な霊(ブラーマン)、至高のブラーマンであるクリシュナの欠かすべからざる小片である。」

第9段落

もしも私たちがここでバーガヴァタムおよび他の真正なる聖典(シャーストラ)の中に与えられている教えに従って献身奉仕を実行するなら、私たちは成功して解放されるでしょう。しかし、聖典なくしてそれは可能ではありません。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて次のようにおっしゃいます。(16.23)(サンスクリット引用)「もしもあなたが聖典の教えを放棄して自分の思いつきに従って行動するなら、完成が得られる見込みはありません。」そしてルーパ・ゴスヴァーミーはこれをご自分のバークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.2.101)の中で確認していらっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「ウパニシャッド、プラーナ、ナーラダパンチャラートラなどの権威あるヴェーダ文献を無視した主への献身奉仕は単に社会における不必要な妨害です。」非常に多くの宗教的な方法が発明されています。たとえば、聖典はハレ・クリシュナの真言を唱えることを命令していますが、人々は非常の多くの唱え方を発明しました。もしもあなたがラーマ・ラーマ・ラーマ、ラーデー・ラーデー・ラーデー、クリシュナ・クリシュナ・クリシュナと唱えるなら、それもまた聖なる名前を唱えることです。しかしあなたは聖典に従わねばなりません。聖典は、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレと唱えなさいといいます。あなたはそれを受け入れなくてはなりません。ニターイ・ガウラ・ラーデ・シャーマ、ハレ・クリシュナ、ハレ・ラーマと唱えるのではありません。違います。あなたの発明の価値は何でしょうか。あなたは完璧ではありません。あなたは新しいマントラを発明して成功することはできません。単に聖典の薦めに従いなさい。そうすればあなたは完全な完成を得るでしょう。

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以上です。次は「命は命より来たる」(Life Comes From Life)です。「自己の探求」(Science of Self-Realization)のうしろのほうに、プラブパーダがDr.Singhという科学者と対話をしている様子が紹介されていますが、この本はその対話の他の部分を収録してあるものです。今はまだ翻訳を始めたばかりなので、更新はしばらく先になります。どうぞ根気よくお待ちください。

なお、私の(D君の)コンピューターも今後当分は壊れたままの予定です。ファイルの保存ができませんので、よろしかったら各自で保存またはプリントをしてください。念のため。。。
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by ammolitering4 | 2009-07-07 06:14 | 「霊的なヨガ」 | Comments(8)

霊的なヨガ 第10章 第4段落より

第4段落

シュリー・マドヴァーチャーリャが指摘なさるように、これらの四つのシュロカの要点は、人は感覚の満足のための欲望から行動するのではなく、かわりにいつも主への愛情を込めた奉仕にいそしむべきであるということです。言い換えると、バークティ・ヨガは解放への承認された道です。シュリーラ・マドヴァーチャーリャは次のようにアドヒャートマから引用なさいます。

(サンスクリット引用)

人は魂の利益のためだけに行動すべきです。ほかのあらゆる行いは放棄されるべきです。人がこのような状態にあるとき、その人は欲望がないと言われます。実際には、生命体は完全に欲望をなくすことはできません。しかし人が他のものではなく、ただ魂だけの利益を欲するとき、その人は欲望がないと言われます。

第5段落

霊的な知識はジナーナ・ヴィジナーナ・サマンヴィタムです。人が完全にジナーナとヴィジナーナを備えているとき、その人は完全です。ジナーナは人が至高の人格神ヴィシュヌを至高存在であると理解することを意味します。ヴィジナーナは、人を物質的な存在の無明から解放する行いを指します。シュリマッド・バーガヴァタムには次のように述べられています。(2.9.31)(サンスクリット引用)至高主に関する知識はとても頼りになるものであり(confidential, 秘密の、内々の、部下などが腹心の、打ち解けた)、それによって人が主を理解するところの至高の知識はすべての生命体の解放を促します。この知識がヴィジナーナです。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(4.9)において確認しておられます。

(サンスクリット引用)

「私の現れと活動の超越的な性質を知る者は、体を去った後、この物質世界で再び生を受けることはありません。そのかわり、私の永遠なる住処に至ります、おお、アルジュナよ。」

第6段落

第9節において、主リシャバーデヴァは人が心の中の執着の結び目を緩めることを薦めておられます。そして、これらの説に列挙されている事柄はそれをするための方法です。不幸にして現代の世界ではほとんどすべての人が朝から夜までこれらの執着を強めるために忙しくしています。大きな大きな工場で昼も夜も際限なく(one shift after another)、、、この不必要に大変な重労働(ウグラ・カルマ)は、現代の文明の最も目立った特徴になりました。私たちはデトロイトでそのようなウグラ・カルマを見たことがあります。フォードの自動車を製造する組み立て工場で、ある男は単に自動車のハンドルを取り付けています。彼のそばには山のようにハンドルがあります。そshして他の人はタイヤを取り付けています。彼のそばにもタイヤが山積みです。自動車の部品はたくさんあります、、、3000個です。他のところには、人々が昼も夜も働いて自動車の様々な部品を作っている工場があるのです。そして最終的に部品はデトロイトの工場に送られ、そこで彼らは次から次へと車を組み立て、人々は大量の車を使っています。工場で昼も夜も働いたあと、人々は陶酔物を摂取することと不正な性交をすることによって自分自身をなだめようとします。これらのウグラ・カルマのすべてが人を無限の物質的な執着によって呪縛されたままにします。

第7段落

しかし、これらすべてのウグラ・カルマにも関わらず、人々は幸せではありません。彼らはウグラ・カルマからは幸せは得られないことを知りません。したがって、ここで主リシャバーデヴァは、発達の原則のひとつは(サンスクリット引用)、「物質世界ではどこにでも、高位の惑星にさえ悲惨さがあるのを見ることである」とおっしゃいます。クリシュナはバガヴァッド・ギーターで次のようにおっしゃいます。(サンスクリット引用)「最高位の惑星から最低位のそれまで、すべては悲惨な場所です。」そして(サンスクリット引用)とも言われます。「この物質世界は悲惨な場所であり、そこでは人生は一時的です。」

第8段落

ですから、私たちは自分の物質的な状態を様々な方法で向上させようとしていますが、それは究極的には不可能であることを知るべきです。もしも貧しい男が一生懸命に働いて莫大な富を築いても、それは彼が人生の危険な状態から自由であることを意味するのではありません。三重の悲惨さは、どこにでも存在しているからです。体と心に関係のある悲惨さがあり、他の生命体に起因する悲惨さがあり、自然の力によってもたらされる悲惨さがあります。そしてもちろんいつも生老病死という悲惨さがあります。

第9段落

これらの悲惨さはどれも物質的な体によって引き起こされ、その体の根源は偽りの自我です。この偽りの自我は、もしも私たちが主リシャバーデヴァがここに描写なさる方法を習慣付ければ、放棄することができます。(サンスクリット引用)最初の方法は、高度に発達した霊的指導者に服従することです。(サンスクリット引用)これが本当の宗教の始まりです。もしもあなたが資格のあるぐるを得ないならば、そうすればすべては偽物です。しかし、もしも幸運にもあなたが資格のあるグルと関わることができるなら、そうすればあなたは献身の念というつる草の種を受け取ることができます。主チャイタンニャは(サンスクリット引用)とおっしゃいます。「霊的指導者とクリシュナ両者の慈悲によって、幸運な魂は心の中に献身の念というつる草の種を受け取ります。」したがって、ここでクリシュナの化身であるリシャバーデヴァはおっしゃいます。(サンスクリット引用)「人は献身奉仕をまず霊的指導者に、そして次に私にささげねばなりません。」あなたは、霊的指導者をとばしてクリシュナに行くことはできません。中には、「私はクリシュナを知っている。グルは無しで、直接クリシュナのところに行こう」と言う悪者もいます。いいえ、それは可能ではありません。まずグル、それからクリシュナです。そして、もしも人が実際にグルと聖典によって与えられた教えに従うなら、そうすればこの物質世界を楽しもうという強い欲望は緩み、その人の物質的な悲惨さからの解放は保証されます。
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by ammolitering4 | 2009-07-06 08:48 | 「霊的なヨガ」 | Comments(1)

「霊的なヨガ」第10章

第10章 「最高の快楽への道」

第1段落

(サンスクリット引用)

1-1 おお、私の息子たちよ。あなたたちは高度に引き上げられたパラマハムサ、霊的に発達した霊的指導者を受け入れるべきです。そのようにして、あなたがたは私、至高の人格神に信頼と愛を持つべきです。あなたがたは感覚の満足を嫌悪し、夏の冬の季節の変化のような喜びと痛みの二重性を耐え忍ぶべきです。より高い天体系においてさえ悲惨である、生命体の悲惨な状態に気づこうとしなさい。

1-2 真実について哲学的に問いなさい。そして献身奉仕のために様々な禁欲と苦行をしなさい。感覚的な楽しみのための努力を放棄し、主への奉仕にいそしみなさい。至高の人格神に関する議論を聞き、いつも献身者と関わりなさい。

1-3 至高主の御名を唱え、主の栄光を称え、すべての者を霊的な水準において平等に尊重しなさい。敵意を放棄し、怒りと嘆きを抑制しなさい。自己を体と家だと見なすことを止め、明かされた聖典を読みなさい。人里離れた場所に住み、それによってあなたが完全に生命の気(life air)と心と感覚を統御できるところの過程を学びなさい。

1-4 明かされた聖典、ヴェーダ文献に完全な信頼を持ち、いつも性生活を避けなさい。あなたがたに課された義務を遂行し、不必要なおしゃべりを慎みなさい。いつも至高の人格神のことを考え、正しい源から知識を得なさい。こうしてバークティ・ヨガを実行することで、あなたは辛抱強く熱心に知識を培い、偽りの自己を放棄することができるようになります。(SB5.5.10-13)

第2段落

これらの四つの節において、リシャバ=デヴァは息子たちにどうやって物質的で制約された人生において偽りの自己から自由になれるかを語っておられます。上記のように訓練を積むことで(あるいは「上記のようなことを実行することで」)、人は徐々に解放されます。これらすべての指示された方法は、人をして物質的な体を放棄して(リンガム・ヴャポヘット)、本来の霊的な体に位置することを可能にします。まず第一に人は申請なる霊的指導者を受け入れなければなりません。これはシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによって自著「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー:シュリー・グル・パーダーシュラヤー」において主張されています。物質世界において絡まって動きがとれなくなっていることから自由になるためには、人は霊的指導者に近づかなくてはなりません。(サンスクリット引用)(ムンダカ・ウパニシャッド1.2.12)霊的指導者に質問することと彼に奉仕をすることによって、人は霊的な人生において進歩することができます。人が献身奉仕にいそしむとき、自然に個人的な快適さ、、、食べること、眠ること、着ること、、、への魅惑は減ります。人が献身者と関わるとき、霊的な水準が維持されます。マッド・デヴァ・サンガート(「私の献身者との関わり」)という言葉は、大変重要です。様々な半身たちの崇拝に専念する多くのいわゆる宗教がありますが、ここでは良き関わりとは単にクリシュナを自分の崇拝すべき神として受け入れる者との関わりを意味します。

第3段落

もうひとつの大切な事柄はドゥヴァンドゥヴァ・ティティクシャー(「物質的な二重性を耐え忍ぶこと」)です。人が物質世界にいる限り、物質的な体から生じる喜びと痛みが必ず存在します。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて(サンスクリット引用)と助言なさいます。人はこの物質世界の一時的な痛みと喜びを耐え忍ぶことを学ばねばなりません。人はまた、自分の家族に執着せず、性生活を避けねばなりません。聖典に示された命令にしたがって自分の妻と性交することはブラーマチャーリャ(celibacy、性交を避けること、童貞でいること)と見なされますが、不正な性交は宗教的な原則の反対であり、霊的な意識の発達を妨げます。もう一つの大切な言葉はヴィジナーナ・ヴィラージタです。すべてのことが非常に科学的かつ意識的になされるべきです。人は自己を認識した魂であるべきです。このようにして人は物質的な呪縛に絡まって動きが取れなくなる状態を放棄することができます。

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今日はとりあえずこれで終わります。まだ図書館のコンピューター生活なのです。。。不便ではありますが、ありがたいことでもあります。この本の翻訳そのものは昨日で終わりました。禁欲を薦め、物質的な欲望に振り回されてはいけない、という内容の本を訳していながら、昨日はつい一人でインド料理のバイキングに行ってお祝いしてしまいました。おいしかったです。

たくさん食べておなかもいっぱい、帰りはさらに欲張ってその辺に生えているベリーを積みながら帰りました。物質的な執着から離れられるのはまだまだ先のことになりそうです。
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by ammolitering4 | 2009-07-05 05:35 | 「霊的なヨガ」 | Comments(2)

「霊的なヨガ」第9章

第9章 「執着の結び目をほどく」

第1段落

(サンスクリット引用)

過去の行いの結果のために物質的な人生に関わることになった人の心の中の強い結び目が緩むとき、人は家と妻と子供への執着から離れます。このようにして人は幻想の基本的な原則(私と私のもの)を放棄し、解放されます。こうして人は超越的な世界に行きます。(SB5.5.9)

第2段落

サドゥーと関わり、献身奉仕にいそしむことによって、知識と実行と非執着の結果として人が徐々に物質的な概念から自由になるとき、心の中の執着の結び目が緩まります。こうして人は制約された人生から自由になり、家へ、至高神のもとへ帰る資格ができます。

第3段落

ここで主リシャバーデヴァは解放の過程を描写していらっしゃいます。解放とは、これ以上物質的な人生がないことを意味し、物質的な人生の基本的な原則は性です。したがってヴェーダの文明は人々にどうやって性的な欲望から自由になるかを訓練することに基づいています。偉大な皇帝ヤームナーチャーリャは、このことに関する自分自身の経験を描写していらっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「主クリシュナの蓮の御足への愛を込めた奉仕に私の精魂を捧げて以来、私の人生はそのような奉仕をすることによってもっと超越的で幸せなものとなりました。そして、そのため、たまたま性生活のことを考えると、私はそれをとても不愉快なものと考え、その考えにつばを吐きます。」このような性への嫌悪は、クリシュナを意識した人生に発達したしるしです。

第4段落

堕落の四つの柱は、不正な性交、肉食、陶酔物の摂取、および賭け事です。したがって、私たちは生徒たちにこれらの行いにふけることを禁じます。もしもあなたがクリシュナ意識において発達したいなら、あなたはこれらを放棄しなければなりません。シュリー・チャイタンニャ・マハープラブがこれらのすべての行いを習慣としていたジャガーイとマーダーイを解放なさったとき、主は次のような条件を出されました。「もしもあなたがたがこれらの四つの罪深い生活の原則を放棄することを約束するなら、私はあなたがたを受け入れます。あなたがたが過去にしたことを気にしてはいけません。すべての人は大なり小なり罪深いのです。それは疑いようもないことです。それは資格を剥奪しません。しかし、もしも今これらのことを放棄することに同意するなら、そうすれば直ちにあなたがたは解放されます。」解放はあまり難しくありません。もしもあなたがそれを得たいと欲するなら、すぐに得ることができます。クリシュナはバガヴァッド・ギーターの中でこれを約束なさいます。(18.66)

(サンスクリット引用)

「すべての種類の宗教を放棄し、ただ私に服従しなさい。私はあなたをすべての罪深い反応から解放します。恐れてはなりません。」もしもあなたが罪深い生活の反応から自由であるなら、あなたは解放されています。言い換えると、もしもあなたがクリシュナの蓮の御足に拠り頼み、再び罪に落ちるような行いをしなければ、あなたは解放されています。シュリマッド・バーガヴァタムは解放を(サンスクリット引用)、、、「密度の濃い体と密度の薄い体が自分だ」と考える謝った認識を放棄して、私たちのスヴァルーパに位置していること、、、と定義しています。スヴァルーパは、私たちの本来の正しい立場を意味します。主チャイタンニャはこう説明なさいます。(サンスクリット引用)「生命体の本来の立場は、クリシュナの永遠の従者であるというものです。」そして、私たちが本来の正しい立場に身を置くと同時に、私たちは解放されます。

第5段落

クリシュナは私たちの本来の立場をバガヴァッド。ギーターにおいて非常に簡素に描写なさいます。(サンスクリット引用)「いつも私のことを考え、いつでも私に奉仕できる心積もりでいなさい。それだけです。」バークタ(献身者)はバークティ(献身奉仕)を意味し、バーガヴァーンは至高の人格神を意味します。つまり、人が至高の人格神、主クリシュナへの献身奉仕にいそしむとき、その人は本来の立場におり、解放されています。これは心の中の執着の堅い結び目が緩んでいることを意味します。

第6段落

人は、性的な欲望から始まってますます物質的な執着によって絡まって動きが取れなくなっていること、そしてこれらの執着が彼をしてもっともっと結果を求める行いに深入りさせていることを理解しなければなりません。私たちがこれを理解してこの仕組みから自由になろうとするとき、私たちには家へ、至高神のもとへ帰る資格ができます。ここでリシャバーデヴァはサムパリヴァルタテという言葉を使われます。人は呪縛の原因、、、性、妻、家など、、、から離れて、クリシュナのもとへ立ちもどらなければならない、という意味です。それが解放です。
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by ammolitering4 | 2009-07-05 04:30 | 「霊的なヨガ」 | Comments(0)

「霊的なヨガ」第8章

第8章 「性が呪縛の主な原因である。」

第1段落

(サンスクリット引用)

「男性と女性が互いにひきつけられることは、物質的な存在の基本的な原則です。男性と女性の心を結びつけるこの誤った考えに基づいて、人は自分の体、家、所有物、子供、親族、および富に惹きつけられます。このようにして人は人生の幻惑を増し、「私と私のもの」という考え方をします。」(SB5.5.8)

第2段落

性は男と女の間の自然な魅力として働き、彼らが結婚すると彼らの関係はもっと深くなります。男と女の間のからまって動きを取れなくするような関係のせいで、幻惑の感覚が生じ、人は「この男は私の夫である」あるいは「この女は私の妻である」と考えます。これはフリダヤ・グランシ、「心の中の堅い結び目」と呼ばれます。この結び目は、男と女がヴァルナースラマの原則に基づいて分かれる場合でも、単に離婚する場合でも、ほどくのが非常に難しいものです。どちらにしても、男はいつも女のことを考え、女はいつも男のことを考えます。こうして人は、家族や所有物や子供たちに物質的に執着するようになります。これらのすべては一時的であるにもかかわらずです。所有者は不幸にして自分の財産と富を自分だと考えます。時として、放棄階級となった後でさえ、人は寺院や、サンニャースィーの財産を構成する数少ないものに執着します。しかし、そのような執着は家族の執着ほど強くありません。家族への執着は、最も強い幻想です。サテャ・サムヒターには次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

時として、主ブラーマーのような卓越した人々の間では、妻や子が呪縛の原因とならない場合も見受けられます。対照的に、妻は実際に霊的な人生と解放を進めるのを助けます。ともあれ、ほとんどの人は物質的な関係の結び目で縛り付けられ、結果として彼らはクリシュナとの関係を忘れます。

第3段落

つまり、性的に惹きつけられることはアハム・マメティ、「私は私の体であり、私の肉体と関係のあるものすべては私のものである」という句に要約される幻想の始まりです。男は女を捜し求め、女は男を捜し求めます。そして彼らが性交を通して結びつくとき、物質的な幻想は非常に強くなります。これは制約された魂を厳格な法律の下に保つための自然の配剤です。以下のような記述があります。

(サンスクリット引用)

「人がクリシュナに対して有害となって感覚の満足を求めると同時に、その人は主の幻想エネルギーによって直ちに打ち負かされます。」これは国家の法律を破るようなものです。私たちには実際的な経験があります。国家の法律に従うことを拒否すれば、直ちに私たちは犯罪者となり、起訴と禁固刑の影響の下に置かれます。あなたが政府によって罰せられることなく国家の法律を無視することができないのと同じように、あなたは自然の法律によって罰せられることなくクリシュナの法律を無視することはできません。しかし、私たちは幻想の中にいるので、この懲罰を減らす努力が文明の進歩だと考えます。

第4段落

物質世界全体が男性と女性が互いに惹かれあうことに基づいています。この原則は人間の社会だけでなく鳥や獣や水中の生物や虫、、、どこででも機能しています。あなたは、オスの鳩がメスの鳩を見ると同時にオスが直ちに「来てください。結びつきましょう」と誘いを始めるのを見ます。これが自然のやり方なのです。したがって人間の社会ではヴェーダの知識によって、教育によって、私たちは性的な魅惑によってこの物質世界に縛りつけられているということを人々が理解しなければなりません。男性も女性も、どちらも享楽者でありたいと望みます。誰も「私は楽しまれよう」とは考えていません。誰もが「私が楽しもう」と考えています。誰も支配されたくはなく、誰もが支配者でありたいと望みます。これは幻想です。

第5段落

クリシュナ意識運動は、この「支配者になる」という考えを放棄して至高主クリシュナによって支配されるための方法を学ぶことを人々に教えています。幻想的な物質仕儀の考え方の正反対です。クリシュナは個人的においでになっておっしゃいます。「なぜあなたは支配者になろうとしているのですか。それは可能ではありません。私が支配者です。ただ私に服従しなさい。そうすればあなたは幸せになります。」(サンスクリット引用)しかし、もしもあなたが人工的に支配者でありたいと望むなら、そうすれば直ちにクリシュナの幻想エネルギー(マーヤー)があなたを罠にはめるために現れます。

第6段落

私たちは、この享楽者であって支配者であろうとする傾向が私たちのこの物質世界における呪縛の原因であることを知るべきです。私たちは、自分は生も死もない霊である(アハム・ブラーマースミ)ことを知るべきです。そして私たちは本来制約されるべきではありません。私たちはクリシュナの欠かすべからざる小片だからです。クリシュナには何らの制約もなく、本来の状態においては私たちにもまた何らの制約もありません。私たちはクリシュナのとても小さな粒子であるかもしれませんが、金の粒が金鉱の金塊の全ての性質を備えているように、私たちもクリシュナの性質のすべてを微量に備えています。私たちは、ヴェダーンタ・スートラの教えに従うとき、これらすべてのことに関する知識を得ることができます。(サンスクリット引用)「だから今、人は完全真理について問うべきです。」

第7段落

完全真理について問うて人生の問題への完全な解決策を見出す方法を学ばなければ、人の人生は動物のそれに優るものではありません。言い換えると、もしも人が人生の悲惨な状態に満足しているなら、その人は動物でしかありません。動物はなぜ自分が苦しんでいるのか理解できません。動物が屠殺場に連れて行かれるとき、もしも一頭の動物が屠殺場に入れば、全部の動物が簡単に入ります。彼らは自分たちが屠殺されるために入るのだと理解できません。これが幻想です。

第8段落

ここで主リシャバーデヴァは、人間にとって性が最も強大な幻想の原因であると教えていらっしゃいます。したがって、伝統的なヴェーダの教育は若い少年たちに性生活を避けること、ブラーマチャルヤの価値を教えました。「性生活にからまって動きが取れなくなってはいけません。それは良くありません。童貞でいるほうがよいのです。あなたは幸せになります。」しかし、もしも童貞のままでいることができないのなら、人は妻を娶り、猫や犬のようではなく紳士として、規制された家庭人として、すなわちグリハスサとして生きるのがよいのです。制限されない性の人生は人間の文明ではありません。

第9段落

グリハスサの人生には多くの規則や規制があります。グリハスサの人生はあなたがいつでも好きなときに性交することを許しません。そうではなく、月に一度、最も妊娠の可能性が高いときにします。そして、もしも妻が妊娠中であれば、それ以上の性交はありません。それがグリハスサの人生です。男と女が単に結びついて動物のように暮らすのではありません。それはグリハスサの人生ではなく、グリハメディーの人生です。グリハメディーは、結婚生活の規制と規律に従わない者です。彼は自分が妻と子供と家から得る喜びがすべてだと考えます。しかし、本物のグリハスサはサンニャースィー(放棄階級者)と同じくらいに良いのです。そのため、規律の規則に従う家庭人はグリハスサ・アースラマにあると言われます。アースラマとは霊的な人生が育まれるところです。グリハスサ・アースラマと普通の家の違いは何でしょうか。普通の家では、人はなんらの規律的な原則にも従いません。人の唯一の目的は性交と家庭生活などを楽しむことだからです。しかし、グリハスサ・アースラマにおいては人は規律された人生を送ります。人の本当の目的は自己認識、すなわちクリシュナ意識を培うことだからです。

第10段落

ですから、可能な限り私たちは性生活に絡まって動きが取れなくなることを避けるべきです。この避けることが本当の禁欲(タパシャ)です。主リシャバーデヴァは、禁欲を薦めることで説法を始められました。(サンスクリット引用)「おお、私の息子たちよ。超越的な禁欲を行いなさい。それによってあなたがたの存在は浄化されます。」そのような禁欲は性生活を避けることから始まります。(タパシャ・ブラーマチャーリェナ)しかし、クリシュナ意識はとてもすばらしいので、もしも人がその原則を非常に真剣に受け入れるなら、そうすれば誰もが、、、男も女も、結婚していてもいなくても、、、クリシュナをその人の主人、息子、友人、夫、あるいは恋人として、とても幸せでいることができます。このようにして、クリシュナ意識を培うにつれて、私たちは自分をこの物質世界として知られる幻想の銀河から救い出すことができます。そこには単に次から次へと苦しみだけがあるのです。
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by ammolitering4 | 2009-07-04 10:12 | 「霊的なヨガ」 | Comments(0)

「霊的なヨガ」第7章

第7章 感覚的な快楽に時間を無駄にしてはならない。

第1段落

(サンスクリット引用)

たとえ非常に学識があって賢かったとしても、感覚の満足のための努力は時間の無駄であることを理解しないならば人は狂っています。自分自身の利益の何たるかを忘れ、人は自分の家に興味の中心を置き、物質世界で幸せになろうとします。家は性交に基づき、様々な物質的な悲惨さをもたらします。このようであるとき、人は愚かな動物に優るものではありません。(SB5.5.7)

第2段落

献身奉仕の最も低い段階では、人は純粋な献身者ではありません。(サンスクリット引用)純粋な献身者であるためには、人はすべての物質的な欲望から自由であって、結果を求める活動および推察的な知識からも自由でなければなりません。低い水準においては、人は時として多少の献身の念を持ちつつ哲学的な推察に興味を持っているかもしれません。しかし、人がまだ感覚を満足させることに興味のある段階は物質自然の相によって汚染されています。マーヤーの影響はとても強いので、発達した知識を持った人でさえ自分がクリシュナの永遠の従者であることを実際に忘れます。したがって、彼は性交を中心とした家庭人の生活で満足したままに留まります。性の生活に敗北を認め、彼は様々な物質的な悲惨さに苦しむことに同意します。無明によって人はこうして物質の法則の鎖で縛られます。

第3段落

私たちの本当の利益(スヴァルサ)は、この鎖を壊すことです。しかしこれを理解するためには、人はヴィパスチット、学識がなければなりません。結果を求めて働く者であれ、推察する者であれ、ヨギー、あるいは献身者であれ、すべての人は自分にとって利益であると考えるもののために働いています。しかし、献身者の場合は少し違います。彼は自己を超えた自己(Superself)の利益のために働き、他の者たちは個々の自己の利益のために働きます。自己の利益のために働くことと自己を超えた自己の利益のために働くことの違いは、欲望と愛、すなわちプレマとの違いです。チャイタンニャ・チャリタームリタの中で、クリシュナダーサ・カヴィラージャ’ゴスヴァーミーは、この違いを明確に説明なさいました。

(サンスクリット引用)

「人が自分の個人的な感覚の満足を欲するとき、それはカーマ、すなわち欲望です。そして人がクリシュナの感覚を満足させたいと思うとき、それはプレマ、すなわち愛です。」(チャイタンニャ・チャリタームリタ、アーディ・リーラー4.165)欲望と愛の対照はバガヴァッド・ギーターの中に表されています。バガヴァッド・ギーターの始めに、アルジュナはこう考えていました。「一体どうして私が自分の兄弟を、甥を、主人を、師を、祖父を殺せるだろう。私にはできない。私は戦うことを拒否する。」この計算、、、彼の家族と師の利益に関しての計算は、アルジュナの個人的な感覚の満足のためでした。言い換えると、それは彼の個人的な利益のためでした。しかし、バガヴァッド・ギーターの最後にアルジュナが戦うことでクリシュナを満足させることに同意したとき、彼は自己を超えた自己の利益のために行動していました。アルジュナはカーマからプレマに至ったのです。

第4段落

物質的な人にとっては、2種類の個人的な利益があります。一つは凝縮されており、もう一つは拡張されています。もしもあなたが子供に一切れのケーキを与えれば、彼の瞬間的な衝動はそれを全部一人で食べることです。しかし、もしも彼が少し気前が良ければ、彼は友達にいくらか分け与えます。子供がケーキを食べているとき、彼の友達が言います。「ケーキを食べているの?少しちょうだい。」子供は答えます。「いいよ。少しあげる。」最初は子供は凝縮された自己利益を示し、それから拡張された自己利益を示しました。もう一つの例は、偉い政治的な指導者です。彼は主に自分と自分の家族の幸福に興味があります。。。結局、自己の保存は自然の第一の法則なのです。。。しかし、彼は地域共同体や社会や国家のすべての人々の利益のためにも働きます。しかし、そのような拡張された自己利益は、決して完全ではありえません。共同体同士、社会同士、あるいは国家同士の間で、いつも何らかの戦いがあるからです。その拡張された自己利益がヴィシュヌまで届いたときに初めてそれは完全になるのです。そうすればそれは本当の自己利益、すなわち自己を超えた自己の利益になります。

第5段落

不幸にして、今日では人々は至高主、ヴィシュヌ、あるいはクリシュナに奉仕をすることが究極の自己利益であるということをまったく知りません。(サンスクリット引用)彼らは、もしも人が自分の自己利益を自分の国や、あるいは全人類にまでも広げれば、その人は偉大な人物となって人々が彼をその博愛主義のために尊敬すると考えます。しかし、それは本当の博愛主義ではありません。本当の博愛主義はクリシュナの利益に奉仕することです。そうでなければ、それはすべてカーマ、欲望です。今日のいわゆる博愛主義、利他主義、および人道主義は、すべて不完全です。それらは私たちの究極の自己利益に役立たないからです。私たちはもう一度ケーキの例を使うことができます。私たちが指でおいしいケーキをつまみあげたと仮定しましょう。もしも指が「さあ、ケーキを手に入れた。自分で楽しもう」と考えれば、ケーキは駄目になります。しかし、もしも指がそれを口に入れれば、そうすれば指の自己利益は本当に満たされます。ケーキが胃に入れば、直ちにエネルギーは右手の指だけでなく左手の指にも、実に体全体に行き渡ります。同様に、人がクリシュナの利益のために奉仕をするとき、すべての人の利益が満たされます。クリシュナはすべてのものの根源だからです。人々はこの法則を知りません。したがって、ここで主リシャバーデヴァはおっしゃいます。(サンスクリット引用)「人々は自分の本当の自己利益を知りません。」誰もが個別に、共同体として、そして国家として、自分の自己利益を満足させようとしてますが、彼らは自分たちの本当の自己利益はクリシュナに奉仕することにあると知りません。

第6段落

人間の形の人生においてのみ、私たちは自分の本当の自己利益を理解することができます。プラーラーダ・マハーラージャは次のようにおっしゃいます。(7.6.1)

(サンスクリット引用)

「十分な知性のある者は、人間の形の体を人生のまったくの最初から、、、言い換えると、幼い子供の頃から、、、ほかのすべての活動は放棄して献身奉仕の活動を実行することに使うべきです。人間の体を得られるのは非常に稀有なことです。そしてそれは他の体のように一時的ではありますが、意味深いものです。人間の人生では人は献身奉仕を行うことができるからです。ほんのわずかな量の誠実な献身奉仕でさえ、人に完全な完成を与えることができます。」生理学的、解剖学的、および心理学的な構造においてさえ、人間の体は犬のそれとほとんど変わりません。犬には感覚があり、私たちにも感覚があります。犬には心があり、私たちにも心があります。犬には知性があり、私たちにも知性があります。犬は食べ、私たちも食べます。犬は眠り、私たちも眠ります。同様に、もしもあなたが動物の体を切れば血が出て、もしもあたなが人間の体を切れば同じく血が出ます。しかし、違いは動物は自分の本当の自己利益を理解できないけれど人間はできるということです。そしてもしもあなたがそれに応じて行動すれば、あなたは人生を成功させることができます。それが人間の形の人生の特別な利点です。私たちはこれを無駄にすべきではありません。ナロッタマ・ダーサ・サークラは、制約された魂の立場に立って次のように詠われました。

(サンスクリット引用)

「おお、主クリシュナよ。私は自分の人生を無駄にしました。この稀なる人間の生を受けたにもかかわらず、私はラーダーとクリシュナに奉仕をしていません。そしてこうして私はそれと知りつつ毒を飲みました。」時として私たちは知らずに毒を、、、食べ物の毒や他の何かの毒を飲みます。しかし、もしも人が「それと知りつつ」毒を飲むなら、それは彼が自分自身を殺していることを意味します。同様に、この人間の形の人生において、もしも私たちがクリシュナ意識なくしては私たちの人生は無駄になるということを理解するに至らなければ、私たちは単に毒を飲んでいるのです。そうなれば私たちの人生は駄目になります。私たちは何度も生まれ変わって悲惨な状態に置かれます。それが自然のやり方なのです。あなたは物質自然の厳格な法則を逃れることはできません。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて次のように述べておられます。(9.3)

(サンスクリット引用)

「この献身奉仕において誠実でない者は、私に至ることができません。おお、敵を征服する者よ。したがって、彼らはこの物質世界の中の生と死の道に戻ります。」偽りの名誉と偽りの知識と偽りの教育によって、人々は自分が神から独立していて何でも好きなことができると考えます。私たちはこの考え方をj放棄しなければなりません。そうでなければ私たちは悲惨な生と死の循環の中で生き続けなければなりません。私たちが自分の本当の立場を忘れてしまったからです。

第7段落

ここで主リシャバーデヴァは、人々が愚かにもクリシュナの従者としての立場を忘れて物質的な苦悩に苦しむ主な理由は性交であると述べられます。(サンスクリット引用)私たちは人々が昼も夜も懸命に働くのを見ます。時として、彼らは早朝5時から仕事に行き、夜の10時まで戻りません。なぜ彼らはそれほど一生懸命に働いているのでしょうか。性交にふける喜びのため、それだけです。彼らの主な幸せは、夜になって性交を楽しむことです。プラーラーダ・マハーラージャは、物質主義的な家庭人が楽しむ性を中心とした喜びは非常に取るに足らないものだとおっしゃいます。(トゥッチャム)実に、そのような人の家は牢獄となり(アガーラ)、彼は性という鉄の鎖につながれたままで留まります。愚かな者だけがこの最も低い水準の幸せを人生の目的として受け入れます。だから、愚かであってはなりません。知性的であり、あなたの本当の自己利益はクリシュナを崇拝することにあるのだと理解しなさい。
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by ammolitering4 | 2009-07-03 07:14 | 「霊的なヨガ」 | Comments(0)

「霊的なヨガ」 第6章続きから

第6段落

本当の愛は、人が愛する者をすべてと見なすことを意味します。(ヴァースデヴァム・サルヴァム・イティ)この物質世界では、本当の愛に一番近いのは母の子に対する愛です。母は子供を非常に強く愛してるので、彼女はいつも自分の子供の世話をしたがり、彼女の注意のすべては子供に向けられています。そのような例から、私たちは本当の愛、クリシュナへの愛について何かを理解することができます。物質的ないわゆる愛は持続しません。しかし自然はあなたが自分の子供を愛することを、あなたが自分の夫を愛することを、あなたが自分の妻を、自分の国を、自分の社会を愛することを命令します。愛には異なる種類があります。しかしその愛がヴァースデヴァ、クリシュナに凝縮されているとき、それは人生の最高の完成です。

第7段落

あなたは、「クリシュナが私の命である」としっかりと確信した水準にいたらなければなりません。この意識の最高の完成はヴリンダーヴァンにおいて、特にゴピーたちによって示されました。ヴリンダーヴァンの者は、皆クリシュナに執着しています、、、木や草でさえ、砂の一粒でさえ。人は突如としてその最高の意識に至ることはできませんが、もしも私たちが教えているようにバークティ・ヨガを実行するなら、徐々にその水準に近づけます。証拠はこのクリシュナ意識運動の成功です。世界中で、クリシュナのことを聞いたことがなかった人々、無明の中の最低の水準にいた者たちが、クリシュナ意識を習慣づけつつあり、彼らのクリシュナへの愛は徐々に増しています。それは自然なことです。チャイタンニャ・チャリタームリタには、次のように書かれています。(マデャー22.107)

(サンスクリット引用)

「クリシュナへの純粋な愛は生命体の心に永遠に根付いています。それはどこか他のところから得られるものではありません。クリシュナについて聞き、クリシュナの名を唱えることによって心が浄化されるとき、この愛は自然に目覚めます。」私たちが皆、生命体として永遠であるように、私たちのクリシュナへの献身の念も永遠です。今、それは単にアヴィデャー、無明によって覆われています。私たちがクリシュナを忘れるとき、それはアヴィデャーです。そして私たちがクリシュナを自分の何よりも大切なもの(life and soul)とするとき、それはヴィデャーです。アヴィデャーは闇です。ヴィデャーは光です。ヴェーダの教えは次のようなものです。(サンスクリット引用)「自分を無明の闇の中に置いてはいけません。クリシュナ意識の光(ジョティ)のあるところに来なさい。」

第8段落

究極的には、そのジョティはクリシュナへの愛と、霊的世界におけるクリシュナの愛の交歓(loving affairs)を意味します。その世界はジョティルマヤダーマ、クリシュナの自ら光輝を発する住処です。太陽においては闇がありえないように、霊的世界にも闇や無明はありえないのです。そこでは、すべての者とすべての人がスッダー・サットヴァ、純粋な徳の水準にあります。単なる徳ではなく、純粋な徳なのです。この物質世界には徳、熱情、および無明という三つの相があります。そのいずれも純粋ではありません。どれもが他のものと混じりあっています。そして、それらが混じっているために、非常に多くの種類の生命体が存在しているのを私たちは見ることができます。しかし私たちはスッダー・サットヴァ、純粋な徳の水準に至らねばなりません。このために最善の方法は、権威ある源からクリシュナについて聞くことです。シュリマッド・バーガヴァタム(1.2.17)には次のように説明されています。

(サンスクリット引用)

すべての人の心にいらっしゃる超魂にして正直な献身者の後ろ盾でおられる至高の人格神クリシュナは、正しく聞かれて唱えられたときにそれ自体高潔である主のメッセージを聞きたいと願う心を育んだ献身者の心から物質的な楽しみへの欲望を洗い去ります。」もしもあなたが「この人生では私はしっかりと決意して私のクリシュナへの愛を増すことだけに努力しよう」と考えて真剣にクリシュナについて聞き、御名を唱えるなら、それはなされ得ます。そしてあなたがクリシュナへの愛を完全に育んだと同時に、あなたが物質の体に閉じ込められる恐れはもはやなくなります。

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こんにちは。実は、、、またもやコンピューターが壊れてしまいました。自分のは3ヶ月ほど前に壊れ、D君のを借りていたのですが、これが今朝起きたら壊れていたのです。何にもしていないのに、、、ショックです。しかし私がコンピューターのセキュリティーとか何も知らずに使っていたので、やっぱり知らずに何かよろしくないことをしてしまったのだと思います。不便だし、D君には申し訳ないし、、、困ったものです。

そういうわけで、図書館のコンピューターで更新しています。ファイルの保存などできないので、もしもよろしかったらこのサイトの翻訳文を各自保存していただけませんでしょうか。なお、このサイトの内容はお好きなように配布してくださってかまいません。多くの献身者の方に読んでいただければ幸いです。
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by ammolitering4 | 2009-07-03 06:09 | 「霊的なヨガ」 | Comments(0)