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霊的なヨガ 第3章から6章まで

第3章 終わらない幸せを得る

第1段落

(サンスクリット引用)

クリシュナ意識を取り戻すことと至高神への愛を増すことに興味のある者は、何であれクリシュナに関係のないことをするのを好みません。彼らは、自分の体を維持すること、食べること、眠ること、性交すること、および身を守ることに忙しい者たちと交際することに興味がありません。彼らは家庭人(householder)であるかもしれませんが、家庭に執着していません。彼らは妻や子や友人や富にも執着していません。同時に、彼らは自分の義務を遂行することに関してはその限りではありません。そのような人々は、ただ体と魂をつなげておくために十分なだけのお金を集めることに興味があります。(SB5.5.3)

第2段落

非人格主義者であれ献身者であれ、実際に霊的に発達することに興味のある者は、いわゆる文明の発達という方法で体を維持することだけの興味のある者と関わるべきではありません。霊的な人生に興味のある者は、妻子や友人などに囲まれた家庭的な快適さに執着すべきではありません。たとえ家庭人で生計を立てなくてはならなくても、人は体と魂をつなげておくのに必要十分なお金を集めるだけで満足すべきです。人はそれ以上やそれ以下を持つべきではありません。ここで示されているように、家庭人はバクティ・ヨガ、すなわち献身奉仕の遂行のためにお金を稼ごうと努力すべきです。

(サンスクリット引用)

「九つの種類の献身奉仕とは、クリシュナについて聞くこと、主の名を唱えること、主を思い出していること、主の蓮の御足に奉仕をすること、寺院で主を崇拝すること、主に祈りを捧げること、主の従者として働くこと、主の友人になること、および無条件に主に服従することです。」(SB7.5.23)家庭人は、クリシュナについて聞いたり主の御名を唱えたりする機会が十分に得られるような人生を送るべきです。彼は言えで神像を崇拝し、まつりごとを催し、友人を招いてプラサーダム、すなわちクリシュナに捧げられた食物を彼らに与えるべきです。家庭人は、感覚の満足ではなく、この目的のためにお金を稼ぐべきです。

第3段落

しかし、一般に人々は体を維持することだけに興味があります。SB(2.1.3)には次のように書かれています。(誤植あり)

(サンスクリット引用)

夜には彼らは眠ることや性交にふけることで時間を無駄にし、昼間にはいくらかのお金を稼ぐために非常に忙しくしています。そして彼らはお金を得ると同時に家族を維持するために費やします。では、クリシュナ意識のための時間はどこにあるのでしょう。どこにもありません。

第4段落

人は、体に関する事柄だけで忙しくしている人々と関わることに興味を持つべきではありません。人は家庭人であるかもしれませんが、単に自分の家族を維持することだけではなく、クリシュナへの献身奉仕に興味を持つべきです。そのような家庭人のマハートマーは、体の事柄だけに興味を持つ人々と関わりたいという気持ちは全くありません。彼の唯一の望みは、クリシュナとの友情を培うことです。(サンスクリット引用)それでは、彼の家族についてはどうでしょうか。はい、彼には家があり、妻と子供がいて、お金を稼ぐ手段があります―――しかし、彼はあまり興味がありません。形式上は彼は家族のための義務を果たしますが、彼の主な興味はクリシュナ意識です。

第5段落

もちろん、家庭人のマハートマーは彼の家族に対する責任をないがしろにはしません。彼は子供たちや妻―――すべての面倒をみます―――しかし、非執着の精神をもってそうします。(サンスクリット引用)あなたには子供を教育して妻を養う責任がありますが、同時に非執着を培うべきです。人は「私は妻と子と家のためにすべてを犠牲にしよう」と考えるべきではありません。それはマハートマーの考えではありません。彼は彼らの運命を向上させることはできないと知っているからです。誰もが自分では変えることのできない運命と共に体を受け取りました。聖典にはこう書いてあります。(サンスクリット引用)賢い人は、物質的な発達ではなくクリシュナ意識のために努力すべきです。あなたは「もしも私が懸命に働けば、私は自分の物質的な地位を向上できるだろう」と考えるかもしれません。しかし、それは可能ではありません。あなたの物質的な地位は既に決まっています。誰も苦しみが欲しくて努力したりしませんが、運命に従って苦しみは自動的にやってきます。同様に、もしもあなたの運命に幸せがあるのなら、それは苦しみがやってくるように自動的に来るのです。(サンスクリット引用)だから、物質的な幸せや苦しみに惑わされてはなりません。それらは既に決まっているのです。単にクリシュナ意識を発達させて、終わることのない超越的な幸せを得ようと努力しなさい。それがあなたの本当の仕事です。
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第4章 肉体的な快楽の痛み

第1段落

(サンスクリット引用)

人が感覚の満足を人生の目的であると考えるとき、その人は確実に物質的な生活を狂ったように追い求め、あらゆる罪深い行いにいそしみます。彼は、自分の過去の悪事によって現在のこの体、一時的ではあるけれど自分の悲惨さの原因である体を受け取ったのだということを知りません。本当は生命体は物質的な体を受け入れるべきではありませんでした。しかし彼は感覚の満足のために物質的な体を授けられたのです。したがって私は、再び感覚の満足のための活動に関わるのは知性ある者にはふさわしくないと考えます。それによって彼は永遠に次々と物質の体を得るのです。(SB5.5.4)

第2段落

感覚の満足のために物乞いすること、借りること、および盗むことは、この節において非難されています。そのような意識は人を暗い地獄的な状態に導くからです。四つの罪深い行いとは、不道徳な性交、肉食、陶酔物を摂取すること、および賭け事です。これらによって人は悲惨さに満ちたもう一つの物質的な体を得ます。ヴェーダには(サンスクリット引用)と書かれています。生命体は本当はこの物質的な世界とはつながりがありませんが、物質的な感覚を楽しむ傾向のために物質的な状態に入れられました。人は献身者と関わることで人生を完成させるべきです。さらに物質的な体に関わる(to implicate、もつれさせる)べきではありません。

第3段落

ここで、物質的な人はプラマッター、「非常に狂っている、あるいは陶酔物に酔っている」と描写されています。彼らは自動車であちらこちらに走り回っています。朝の五時半や、あるいはもっと早い時間から、主要な道路は自動車でいっぱいです。そして、そのような物質的な人の目的は何でしょうか。(サンスクリット引用)彼らの目的は感覚を満足させることです。食べて飲んで、いい気分になって楽しむ―――それだけです。お金を得て、レストランに行き、酒屋に行き、売春宿とナイトクラブに行きます。彼らはインドリヤ・プリーティ、感覚の満足の他に何も知りません。

第4段落

彼らは皆、狂っているのです。そして彼らは感覚の満足を求める気持ちのために非常に多くの罪深い行いに関わっています。その結果として、彼らは死後に別の物質的な体を得ます。誰もがそれぞれの罪と感覚の満足に対する特定の欲望に従って特定の体を得ます。そうえなければ、どうしてこれほどたくさんの種類の生命があるのでしょう。なぜある魂は人間として生まれ、別のものは豚として、またある者は半神として、あるいは木として、魚として生まれるのでしょうか。これらの生命の多様性は、すべて感覚の満足のための異なる欲望、および罪深い行いとの関わりの程度によるものです。クリシュナは超魂として心のうちに住み、私たちの欲望と行いを知っておいでです。主はバガヴァッド・ギーターの中でおっしゃいます。(18.61)

(サンスクリット引用)

「イースヴァラ、至高主は、超魂としてすべての者の心に位置し、生命体が物質世界でさまようのを目撃しておられます。」物質主義者は、いつもこう考えます。「もしも私がこんなふうに活動していたら、私はあの機会を手にすることができていただろう。そして私はこんなふうに楽しんでいたはずだ。。。」このような考えが続いているのです。そして神の仕事は―――神の感謝されることのない仕事は―――「よかろう。この悪者はこんなふうに楽しみたいのだから、私はそのための設備を与えよう」と書き留めることなのです。主はとても慈悲深いので、マーヤー、物質自然に命令します。「彼にこれこれの体を与えなさい。望み通り楽しめるように。」だから私たちは非常に多くの種類の体を見るのです。それらはすべて様々な欲望によるものです。

第5段落

不幸にして、これらの体はすべて悲惨さの源です。(クレサダ)物質的な体を持つ者は、誰でも苦しまねばなりません。億万長者であっても苦しまねばなりません。あるとき、カルカッタにほとんど食べることのできない大変な金持ちがいました。彼には全く食欲がありませんでした。大層なご馳走を並べられても、見るだけで食べることはできませんでした。ある日、彼は貧しい男が魚を抱えて大喜びで歌いながら道を行くのを見ました。金持ちの紳士はこう言いました。「私は金持ちだが、私に供される多くの豪勢な食べものに対して全く食欲がない。それなのに、あの貧しい男は、家に帰ってあの魚を料理しておいしく食べようと考えている。彼の何と喜びに満ちていることか!もしも私があの貧しい男だったら、少なくとも私はいくらかの食べ物を楽しめたはずだ。」彼は金持ちになったにも関わらず自分の感覚を満足させることができませんでした。彼の体は単に悲惨さの源だったのです。

第6段落

もしもあなたがこれらの様々な物質的な体を止めたいなら、それならあなたはあなたの全ての無意味な物質的な欲望を諦めなければなりません。私たちは既に悲惨さの原因である体を持っています。誰でも経験があります。「私の体は決して痛みを感じません。私は完璧です」と言える者は誰もいません。それは不可能です。あなたが物質的な体を得ると同時に、それは幾多の苦しみの影響を受けることになります。試練が必ずあるのです。従って、あなたはこれらの物質的な体を得るのを止めようとすべきです。そして、そうするためにはあなたはクリシュナへの献身奉仕を実行しなければなりません。そうでないと、あなたは生と死の道を歩み続けることになります。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいてこうおっしゃいます。(9.3)

(サンスクリット引用)

もしもあなたがクリシュナ意識の過程に信頼(faith確信、信頼、信仰)を持たないなら、あなたはクリシュナのもとへ行くことはできません。そしてあなたは生と死の道を歩み続けなければなりません―――ある体を得て再び死に、もう一つの体を得てまた死にます。

第7段落

現代では、これらの主題に関する教育はほとんど皆無です。これはとても残念なことです。しかし、ヴェーダ文献の中に情報はあります。そして、知性ある者はこの科学、クリシュナ意識を活用し、クレサダ、すなわちすべての悲惨さの源である体を繰り返し受け入れるというこの過程を止めることができるように、それに従って自分の人生を形作ります。それが人生の完成です。

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第5章 完全存在について問いなさい。

第1段落

(サンスクリット引用)

人生の霊的な価値について問わない限り、人は敗北して無明から生じる悲惨さの影響を受けます。罪深いものであれ、敬虔なものであれ、カルマにはその結果的な活動があります。もしも人がいかなるものであれカルマにいそしんで(to engage)いれば、その人の心はカルマートマカ、すなわち結果を求める行いに染まっていると呼ばれます。心が不純であり、意識が不透明であり、結果を求める活動に没頭している限り、人は物質的な体を受け入れなければなりません。(SB5.5.5)

第2段落

一般に人は悲惨さから開放されるためには非常に敬虔に行動すべきであると考えますが、これは事実ではありません。たとえ敬虔な活動と推察にいそしんでいても、人はどちらにしても敗北します。彼の唯一の目的は、マーヤーの支配とすべての物質的な活動からの解放であるべきです。推察的な知識と敬虔な活動は、物質的な人生の問題を解決しません。人は自分の霊的な立場を理解しようとして問うべきです。バガヴァッド・ギーターには、次のように述べられています。(4.37)

(サンスクリット引用)

「燃え盛る火が薪を灰にするように、おお、アルジュナよ、知識の火も物質的な活動に対するすべての反応を焼いて灰にします。」

第3段落

自己とその活動を理解しない限り、人は物質的な呪縛の中にあると考えられねばなりません。シュリマッド・バーガヴァタム(10.2.32)には(サンスクリット引用)と書かれています。献身奉仕の知識がない者は、自分が解放されていると考えるかもしれませんが、実際には彼は解放されていません。(サンスクリット引用)そのような人々は、非人格のブラーマンの光輝に近づくかもしれませんが、再び物質的な楽しみに落ちます。彼らには献身奉仕の知識がないからです。カルマとジナーナに興味を持っている限り、人は物質的な人生の悲惨さ、、、生、老、病、死、、、を耐え続けます。カルミーは確実に次々と体を得続けます。ジナーニーに関しては、最高の理解に上げられない限り、彼らは物質世界に戻らねばなりません。バガヴァッド・ギーターには次のように説明されています。(7.19)(サンスクリット引用)要点は、クリシュナ、ヴァースデヴァをすべてであると知り、主に服従することです。カルミーはこれを知りません。しかし主への奉仕に100%携わっている献身者はカルマとジナーナが何であるか完全に知っており、したがって純粋な献身者はもはやカルマやシナーナに興味がありません。(サンスクリット引用)本当のバークタは、ほんのわずかでもカルマとジナーナに染まっていることはありません。彼の人生の唯一の目的は主に奉仕をすることです。したがって彼の心はいつもクリシュナのことを考えていて、彼は物質的な体への呪縛から自由です。(サリーラバンダー)物質的な体は本当は魂にとってひどい重荷です。しかし現代のいわゆる文明にはこれらの事柄に関する教育はありません。

第4段落

呪縛された状態にあっては、あなたが自分のいわゆる物質的な発展のためにすることは、最終的に打ち負かされます。(パラーバーヴァ)人々は昼も夜も自分は物質的な進歩をしちえるのだと考えて忙しくしています。しかしそれは進歩をしているのではありません。退行なのです。彼らはこれを知りません。なぜでしょうか。彼らは決してアートマ・タットヴァ、人生の霊的な価値について問うことをしないからです。大変偉い教授たちでさえ、自分たちはこの体を偶然受け取ったのであり、体が終わると同時にすべてが終わるのだと考えます。これは、彼らがアートマ・タットヴァの初歩を、、、魂、あるいは自己は永遠であることを、、、知らないということを意味します。そして、この誤った概念に基づいて、彼らは非常に多くの「主義」を、、、共産主義、愛他主義、人道主義などを作り出します。

第5段落

最近、私たちはハンセン病の治療法を見出そうとして働いている医療者と話しました。それは良いことなのですが、しかし、なぜそもそもハンセン病が存在するのでしょうか。なぜある人はハンセン病に苦しみ、別の人は苦しんでいないのでしょうか。誰がこの配剤をしているのでしょうか。現代の人々は、これらの問いかけをしません。彼らは鈍くなってしまったからです。そして、そのため彼らの立てる計画はどれもしばらくすると行き詰ります。(パラーバーヴァ)彼らは自分たちの究極の利益のためにどんな計画を立てるべきか知りません。たとえば、子供は「こんなふうに遊んだら、とても楽しいだろう」と考えます。そのため彼はしばらくある遊びをします。そしてやがて不満を抱いてその遊びをやめ、別の遊びをします。無明(アボダー)が原因で、子供はどこに終わることのない幸せがあるのか知らないのです。

第6段落

この無明を消すために、人はアボダーではなくボダー、知識に満ちた人に近づかねばなりません。そのような人は、ブダー、賢者と呼ばれます。彼は人生の本当の目的地と、どうやってそこに辿り着けるかということを知っているからです。このブダーという言葉が主ブッダの名前の由来です。主はすべてを理解しておられました。初めは彼はブダーではありませんでした。彼は王子であり、宮殿から出たことがありませんでした。しかし、ある日彼は宮殿を出て、一人の年老いた男が杖をついて大変な苦労をして歩いているのを見ました。それで彼は従者に尋ねました。「これは何ですか?」従者たちは答えました。「これは老人です。誰もがこうならねばならないのです。」それが彼にとって理解を捜し求めるきっかけでした。彼は問いました。「なぜ彼はこんなふうであるべきなのだろう。なぜ人は老人になって杖をついて歩くことを強いられなければならないのだろう。」これらの問いが彼をしてブダーとなし、彼は瞑想によって主ブッダとなりました。もちろん、それは彼の娯楽(pastime)でした。しかし彼は、苦しみの究極の原因を知ろうとすることがいかに人を正しい知識に導くかということを自ら模範となって示されました。そして、その正しい知識はどこで得るのでしょうか。グルからです。ヴェーダには、(サンスクリット引用)と書いてあります。「もしもあなたが完全真理に関する正しい知識が欲しいなら、あなたは真正なるグルに近づかねばなりません。」

第7段落

人々は完全真理を認識するための過程についてグルに問うことを奨励されるべきです。サッド・ダールマ・プリチャート。生徒は意欲的に知ろうとすべきです。グルをファッションとして受け入れようとするのではありません。近頃では、多くの人がそうします。「みんなが犬を飼っているし、みんながグルを持っている。だから私もグルを持とう。」それは本当の理解のための方法ではありません。人は熱心に知ろうとすべきですが、同時にグルに奉仕をしなければなりません。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「単に霊的指導者に近づくことによって真実を学ぼうとしなさい。彼から受動的に問い、彼に奉仕をしなさい。自己を認識した魂は、真実を見たために、あなたに知識を授けることができます。」あなたはグルに奉仕をする準備ができていなければなりません。その上であなたには質問をする権利があります。まず、あなたは自分が完全に服従できる人物(プラニパーテナ)を探さねばなりません。それからあなたは彼にアートマ・タットバ、霊的な科学についてたずねることができます。そして問いは奉仕を伴わねばなりません。あなたがグルに奉仕をすればするほど、多くの真実が明かされます。

(サンスクリット引用)

「主と霊的指導者に確固たる献身の念を持つ者だけに超越的な知識が明かされます。」
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第6章 神聖な愛を通しての自由

第1段落

(サンスクリット引用)

生命体が無明の相で覆われているとき、彼は個々の生命存在と至高の生命存在を理解せず、彼の心は結果を求める活動によって操られます。したがって、他でもない私(リシャバーデヴァ)である主ヴァースデヴァへの愛を持たない限り、彼は決して繰り返し物質の体を受け入れなければならないことから解放されません。(SB5.5.6)

第2段落

心が結果を求める活動によって汚染されているとき、生命体は一つの物質的な地位から別のそれへと上げられたがります。一般に、誰もが自分の経済的な状態を向上させるために昼も夜も懸命に働いています。ヴェーダの儀式を理解している場合でさえ、自分の本当の利益は家へ、至高主のもとへ帰ることであると知らず、人は天上の惑星へ上げられることに興味を持ちます。結果を求める活動の水準で行動することによって、人は宇宙のあちこちを異なる種や形でさまよいます。主の献身者、グルに巡り合わない限り、人は主ヴァースデヴァへの奉仕に執着することができません。ヴァースデヴァに関する知識を理解するには多くの生が必要です。バガヴァッド・ギーターには、次のように確認されています。(サンスクリット引用)(7.19)数多くの人生を通して存在のために苦労をしたあと、人はヴァースデヴァ、クリシュナの蓮の御足に拠り頼むようになるかもしれません。そうなったとき、人は本当に賢くなり、主に服従します。それが生と死の繰り返しを止める本当の方法なのです。これはチャイタンニャ・チャリタームリタの中の、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブがシュリラ・ルーパ・ゴスヴァーミーにダサースヴァメダー・ガータにおいて授けられた教えの中で確認されています。(マデャー19.151)

(サンスクリット引用)

生命体は異なる惑星の間を異なる形と体でさまよいますが、もしも偶然にも真正なる霊的指導者と巡り合えれば、霊的指導者の恵みによって彼は主クリシュナの庇護を得て、彼の献身的な人生が始まります。

第3段落

物質的な人生においては、生命体の問題は物質的な体との接触です。しかし、誰もこれを知りません。特に今日では人々は、物質の体は私たちにとっては異質であることと、私たちがその中に閉じ込められて被害を被っていることを理解できません。これが私たちの本当の問題です。しかし、アヴィデャー、無明のために、人々はこれを知りません。人が熱情(ラジョ・グナ)あるいは無明(タモ・グナ)にあるとき、アヴィデャーは大変強力です。徳(サットヴァ・グナ)の相には光があります。これは人がブラーマンの資格を得たことを意味します。この段階においては、人は「私はこの体ではない。私はそれとは異なる」と理解することができます。徳の相にある者にとっては、献身的な人生において進歩することはより容易です。

第4段落

人間の文明は、徳の相にある者を無明の相に引きずり下ろすべきではありません。しかし、現代の文明はそれをします。現代の物質的な文明の誘惑はとても強くてとても悪質なので、敬虔な行いによって良い家庭に生まれた者でさえ罪深い行いに引きずり下ろされています。彼らは酒を飲むことや肉を食べることや不正な性交をすることを学んでいます。これらは最も低い種類の無明の特徴です。本当の文明は向上を意味します。言い換えると、人間の人生は皆が無明の相に引きずり下ろされるのではなく、皆が徐々に徳の相に引き上げられるようにしつらえられているべきです。しかし今日では社会的、政治的および経済的な仕組みがとても悪いので、誰もが無明の相に引きずり下ろされています。これは文明ではありません。これは退化です。人間の人生の目的は物質的な体から解放されることであり、人々をその水準に引き上げる文明が本当の文明です。そうでなければ、それは文明ではなく動物の人生です。

第5段落

クリシュナ意識運動は、人間の社会を本当の文明の水準に至らせようと試みています。それはとても科学的な運動です。ここで主リシャバーデヴァはおっしゃいます。(サンスクリット引用)「私への愛を育むまでは、人は物質的な体から解放されません。」私たちの問題は物質的な体に閉じ込められていることなので、体から解放されるように、それによってヴァースデヴァすなわちクリシュナへの愛を育むことができるところの過程が必要です。その過程がバクティ、すなわち献身奉仕です。献身奉仕の過程を辿る者は徐々にクリシュナを愛する水準に至ります。それが―――人をクリシュナを愛する水準に引き上げるのが文明なのです。
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by ammolitering4 | 2009-06-25 07:33 | 「霊的なヨガ」 | Comments(2)

霊的なヨガ 1章、2章

この本の原文はクリシュナ・ドット・コムに英語のe-bookがありません。ご了承ください。ご入用の方は直接Krishna.comにお問い合わせください。
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霊的なヨガ 第一章 豚や犬のようであってはならない。

第1段落

(サンスクリット引用)

主リシャバーデヴァは息子たちにおっしゃいました。「私の愛しい息子たちよ。この世界で物質的な体を受け入れた全ての生命体の中で、この人間の体を授かった者は、単に感覚の満足のためだけに昼も夜もあくせく働くべきではありません。それは糞を食べる犬や豚にも与えられています。人は献身奉仕の神聖な立場を得るために苦行や禁欲にいそしむべきです。そのような活動によって人の心は浄化され、そしてこの立場を得るとき、人は物質的な幸せを超越して、永遠に続く恒久的で幸せに満ちた人生を得ます。(SB5.5.1)

第2段落

この節で主リシャバーデヴァは息子たちに人間の人生の大切さについて教えられます。デハ・バークは、誰であれ物質の体を受け入れる者を指します。しかし、人間の形を授けられた生命体は動物とは異なる行動をしなければなりません。犬や豚などの動物は糞を食べて感覚の満足を楽します。一日中大変な苦労をしたあと、人間は夜になって食べることと酒を飲むことと性交をすることと眠ることで楽しもうとしています。同時に、彼らは正しく身を守らねばなりません。しかし、これは人間の文明ではありません。人間の人生は、霊的な人生の進歩のために自主的に苦しみを受けることを意味します。もちろん、動物や植物の人生にも苦しみはあります。それは彼らの過去の悪行によるものです。しかし、人間は神聖な人生を受け入れるために自発的に苦行と禁欲という形の苦しみを受け入れるべきです。神聖な人生を得た後は、人は永遠に幸せを楽しむことができます。結局、どの生命体も幸せを楽しもうとしていますが、物質の体に閉じ込められている限り、異なる種類の悲惨さに苦しまねばなりません。人間の形の中には、より高度な感覚があります。私たちは、永遠の幸せを得て至高神のもとへ帰るために、優れた助言に従って行動すべきです。

第3段落

この節で、政府および自然な保護者である父が従属者を教育して彼らをクリシュナ意識に引き上げるべきであるというのは大きな意味があります。クリシュナ意識が欠けているとき、生命体は永遠に生と死の循環の中で苦しみます。彼らをこの呪縛から解放して幸福になれるようにするため、バクティ・ヨガ、すなわちクリシュナ意識が教えられるべきです。愚かな文明は、人々にどうやってバクティ・ヨガの水準に上がるかを教えることとを怠ります。クリシュナ意識なくしては、人は豚や犬に優るものではありません。リシャバーデヴァの教えは、現在とても必要とされています。人々は感覚の満足のために一生懸命働くように教育と訓練をされていて、人生に至高の目的がありません。人は生計を立てるために朝早く家を出て、混んだ電車に詰め込まれて通勤します。降りる駅(place of business)に着くのに一時間も二時間も立っていなければなりません。そして今度はさらにバスに乗って事務所に向かいます。事務所では9時から5時まで一生懸命働きます。そして二時間も三時間もかけて家に帰ります。夕食の後は性交をして眠ります。これだけ大変な思いをして、彼の唯一の幸せはほんの少しの性交です。(サンスクリット引用)リシャバーデヴァは、人間の生活は犬や豚でさえ楽しめるこのような種類の存在のためのものではないと明確に述べられます。実際、犬や豚は性交のためにこれほど一生懸命働く必要はありません。人間は異なるふうに生きようとすべきであり、犬や豚のまねをしようとすべきではありません。代替方法が言及されています。人間の生活は、タパシャ、禁欲と苦行のためにあります。タパシャによって人は物質的な支配から逃れることができます。人がクリシュナ意識にあるとき、すなわち献身奉仕にたずさわるとき、その人の幸せは永遠に保証されています。バクティ・ヨガ、献身奉仕を習慣づけることで、人の存在は浄化されます。生命体は何度も生まれ変わって幸せを求めていますが、単にバクティ・ヨガを実行することによって、すべての問題を解決することができます。そうすれば、直ちに家へ、至高神のもとへ帰る資格ができます。主クリシュナがバガヴァッド・ギーターにおいて確認していらっしゃいます。(4.9)

(サンスクリット引用)

「私の降臨(appearance、姿、現れ)と活動の超越的な性質を知る者は、体を去った後で再びこの物質世界に生まれることはなく、私の永遠の住処に至ります、おお、アルジュナよ。」

第4段落

ここで、「タパシャ―――苦行と禁欲の意味は何ですか」という疑問があるかもしれません。タパシャとは、聖典と霊的指導者と聖人たちによって与えられた規律や規則に従って自分の人生を形作ることに自主的に同意することです。主リシャバーデヴァは、息子たちにおっしゃいました。「愛しい息子たちよ。猫や犬や豚のように生きることで人生を駄目にしてはなりません。あなた方の貴重な人間の人生をタパシャを受け入れることで活用しなさい。」

第5段落

今度は、「なぜそのような禁止命令があるのですか?なぜ私は動物のように生きるべきではないのですか?なぜ私は聖典や聖人たちや霊的指導者の規制的な原則の下で生きなければならないのですか?」という疑問があるかもしれません。リシャバーデヴァがお答えになります。(サンスクリット引用)「愛しい息子たちよ。もしもあなた方がこのタパシャの原則を受け入れれば、あなた方の存在は浄化されます。」現在では、私たちは物質自然の相、主に無明と熱情によって汚染されています。そのため、リシャバーデヴァは息子たちに、もしも彼らが聖典などの教えに従うなら彼らは自然の低位の相の影響から抜け出せる、と助言しています。

第6段落

では次は、「自分の存在を浄化することは何の役に立つのですか」という疑問が湧くかもしれません。リシャバーデヴァがお答えになります。(サンスクリット引用)「あなたの存在が浄化されるとき、あなたは永遠なる幸福な人生の超越的な水準に位置します。」あなたは幸せを追い求めています。なぜあなたはこの物質存在の中でそんなに大変な苦労をしているのですか?幸せのためです。なぜあなたは感覚の満足を求めているのですか?幸せのためです。なぜあなたはそれほどたくさんの物を所有したいのですか?幸せのためです。なぜあなたは美しくなりたいのですか?幸せのためです。なぜあなたはそんなにたくさんの物を食べたいのですか?幸せのためです。すべての努力において、幸せがあなたの究極の目標です。しかし、今あなたが物質的な源から得ている幸せは一時的です。あなたは陶酔物を摂取することで幸せになるかもしれませんが、それはどれくらいの間ですか?その幸せは一時的です。性交にふけることで幸せになるかもしれませんが、それはどれくらいの間ですか?その幸せは2-3分、あるいは2-3秒しかもちません。そのため、もしもあなたが永遠で永続的な幸せを望むなら、あなたは自分の存在の状態を浄化し、自分を超越的な立場に置かねばなりません。そうすればあなたは永遠の幸せを楽しめます。

第7段落

この幸せはパドマ・プラーナの中で以下のように描写されています。

(サンスクリット引用)

「至高の完全真理はラーマと呼ばれます。なぜなら超越主義者たちは霊的な存在の無限で本当の幸せを楽しむ(ラマンテ)からです。」つまり、超越主義者たちもまた感覚の満足を楽しんでいます。しかし、どうやって?至高存在、パラム・ブラーマの感覚の満足に奉仕することによってです。ラマンテは「感覚の満足を楽しむ」ことを意味します。例えば、クリシュナの名前の一つは「ラーダー・ラマナ」、「永遠の恋人(consort、通常は妃)ラーダーラーニーと一緒に感覚の満足を楽しむ者」です。つまり、感覚の満足は超越的な立場にも存在しますが、それはこの物質的な感覚の満足ではありません。物質的な感覚の満足は、霊的な感覚の満足の歪んだ反映です。

第8段落

献身奉仕は霊的な感覚の満足です。ハリシーケナ・ハリシーケサ・セヴァナム。ハリシーカは「感覚」を意味し、ハリシーケサは「感覚の主」を意味します。感覚の主はクリシュナです。つまり、自分の感覚をクリシュナの満足のために使うとき、あなたは超越的な立場にあります。そしてあなたが自分の感覚を自分自身の感覚の満足のために使うとき、それは物質的です。これが違いです。あなたが超越的な水準にあるとき、あなたの存在がタパシャ―――霊的指導者と聖典と聖人たちの導きの下で自主的に禁欲と苦行を受け入れること―――によって浄化されるとき、そのときあなたはクリシュナの感覚を満足させることによって完全に満足します。

第9段落

この過程は、私たちが食べ物を食べるときに体の様々な部位の栄養が行くのに似ています。体の異なる部位は、胃が食べ物を楽しむことに依存しています。彼らは独立して食べ物を楽しむことはできません。あなたが手でおいしいケーキを一切れつまんだと仮定しましょう―――指はそれを独立して楽しむことはできません。しかし、もしも指がそれを口に入れて、それが胃に入れば、そうすれば胃はそれを消化して、それは血となり、そして心臓が血を体の異なる部位に循環させ、あなたの指は栄養を与えられます。これが指がケーキを楽しむための過程です。同様に、献身奉仕においても感覚の満足は存在します―――しかし、それはクリシュナに奉仕することを通してです。そうすればあなたは完全な満足を感じます。

第10段落

本当の人間の人生は、霊的指導者と聖典と聖人たちによって与えられた規制的な原則を自発的に受け入れることによって私たちの存在の状態を浄化することを意味ひます。そして私たちが自分の感覚を至高主への奉仕のために使うことによって浄化されるとき、私たちは本当に自分の感覚を楽しみます。



第2章 偉大な魂たちに奉仕せよ。

第1段落

(サンスクリット引用)

人は高度に発達した霊的な人物に奉仕をすることによってのみ物質的な呪縛からの解放への道に至ることができます。これらの人物は非人格主義者と献身者です。主の存在に同化したいと望む場合も、至高の人格神と関わりたいと望む場合も、人はマハートマーに奉仕をすべきです。そのような活動に興味のない者、女性および性交を好む人々と関わる者にとって、地獄への道は大きく開かれています。マハートマーは中庸です。彼らは、ある生命体と別の生命体の間に違いを見ません。彼らはとても平和的で、完全に献身奉仕にいそしみます。彼らには怒りはなく、すべての人のために働きます。彼らはいかなる不愉快な振る舞いもしません。そのような人々はマハートマーとして知られます。(SB5.5.2)

第2段落

人間の体は交差点のようなものです。人は解放への道をとるかもしれませんし、地獄的な状態への道をとるかもしれません。どうやって人がこれらの道をとるかがここに描写されています。解放への道では、人はマハートマーと関わります。そして呪縛への道では人は感覚の満足と女性に執着した者と関わります。マハートマーには2種類あります。非人格主義者と献身者です。彼らの究極の目標は異なりますが、解放の過程はほとんど同じです。どちらも永遠の幸せを望んでいます。一方は非人格のブラーマンの中に幸せを求め、もう一方は至高の人格神との関わりの中に幸せを求めます。この幸せは最初の節の中にブラーマ・サウクヒャムとして描写されています。ブラーマンは「霊」あるいは「永遠なるもの」を意味しています。非人格主義者も献身者も、どちらも永遠の幸福な人生を求めています。どちらにしても、人は完全になることを助言されています。チャイタンニャ・チャリタームリタには、次のように書かれています。(マドヒャ22.87)

(サンスクリット引用)

物質自然の相から離れているために、人はアサット、すなわち物質主義者である者との関わりを避けるべきです。物質主義者には2種類あります。一方は女性および感覚の満足に執着しており、もう一方は単に非献身者です。積極的な方法はマハートマーとの関わりであり、消極的な方法は非献身者および女の尻を追いかける者を避けることです。

第3段落

マハートマー、偉大な魂とは誰でしょうか。バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナは(サンスクリット引用)とおっしゃいます。偉大な魂とは、神の霊的な自然、すなわち霊的エネルギーに依存した者です(to take shelter of)。神は物質エネルギーと霊的エネルギーという二つのエネルギーをお持ちであり、これらのエネルギーの存在から私たちは神が存在すると理解することができます。太陽光の存在から私たちが太陽が空に上ったと理解できるようなものです。光は単に太陽のエネルギーなので、朝、窓の外を見て空に光があるのを見ると同時に、あなたは太陽が上ったと理解することができます。同様に、主の霊的および物質的なエネルギーの存在によって、私たちは神の存在を理解することができます。そうでなければ、これらのエネルギーはどこから来たのでしょう。ヴィシュヌ・プラーナには、以下のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「一つのところにある火が光で全体を照らすように、至高の人格神、パラブラーマンはご自分のエネルギーを宇宙全体に行き渡らせます。」リシャバーデヴァによって語られたこの節では、マハットおよびマハーンタスという言葉は、主の霊的なエネルギーに依存したマハートマーを指します。もしも人が物質的な人生の呪縛から、、、生と死と老いと病の悲惨さと他の非常に多くの苦しみから、、、解放されたいなら、人はそのような偉大な聖人たちに仕え、彼らの指導のもとで苦行をしなければなりません。

第4段落

そして、どうしたらあなたは誰が主の霊的エネルギーに依存していると理解できるでしょうか。リシャバーデヴァは(サンスクリット引用)とおっしゃいます。「マハートマーはいつも中庸で、誰もを平等に見ます。」主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(5.18)において、次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「謙遜なる賢者たちは、本当の知識の力によって、学識があって穏やかなブラーマナ、牛、象、犬、犬食い(outcast、最下層の人々)を公平な視点で見ます。」マハートマーは、すべての者を平等に見なします。彼は「彼はアメリカ人だ。だから私は彼に親切にしよう」とか、「彼はインド人だ。だから私は彼に親切にしよう」とか、「彼は黒人だ。だから私は彼に親切にしよう」などとは考えません。違います。彼はすべての者に親切なのです。

第5段落

マハートマーのもう一つの性質は、彼はプラサーンター、つまりいつもとても平和的であるということです。彼は自分が純粋な霊、クリシュナの永遠の従者だと知っているので、いかなる物質的な状態によっても乱されません。また、彼はヴィマニャヴァ、怒りがなく、スーリダー、すべての者の幸せを望む者です。それがマハートマーの視点です。彼は、人々が神を意識することなく、自分の神との関係を理解することなく苦しんでいるのを見ます。そのため彼は人々に教えようとします。したがって彼は忍耐強く(ティティクシャヴァ)なければなりません。彼が人々のクリシュナ意識について教えようとするときは、非常に多くの侮辱、非常に多くの不便さがあります。彼は乱されることなくそれらを忍耐しなければなりません。西洋の国々では、主イエス・キリストがこの忍耐強さに性質を完全に示されました。彼が神の意識について伝道していたので、国家は彼を十字架に掛けるように命令しました。それでも彼は「彼らを許してください」と神に祈りました。このように、平和的であること、誰もを平等に見ること、怒りがないこと、忍耐強いこと、慈悲、、、これらはマハートマー、あるいはサードゥー、聖人の性質です。

第6段落

私たちはそのような人を見つけ、その人と関わり、完全に服従してその人に奉仕をしなければなりません。主クリシュナはバガヴァッド・ギーターの中で次のようにおっしゃいます。(4.34)

(サンスクリット引用)

「単に、霊的指導者に近づいて真実を学ぼうとしなさい。彼から受動的に知識を乞い、彼に奉仕をしなさい。自己に気がついている魂は、真実を見たので、あなたに知識を授けることができます。」

第7段落

サードゥーへの奉仕の反対は、ヨシターム・サンギ・サンガム、過度に女性に執着した者との関わりです。実際には、ヨシタームは快楽的なものすべてを指します。私たちを惹きつけるものはたくさんあります。どの感覚も、それぞれに快楽の対象を持っています。目は美しい姿を見たがります。舌はとてもおいしい食べ物を楽しみたがります。耳は素敵な歌声に魅了されます。鼻腔は甘い香りに惹きつけられます。そして肌は柔らかいものを触りたいと欲します。これらのすべてがヨシターム、快楽の対象であり、人々は一般にこれらのすべてに魅力を感じます。彼らは映画に行ったりワインを飲んだり、レストランやクラブに行ったり、いろいろします。そして、もしも私たちが感覚の満足のためにこれらすべてのことに執着している人たちと関わるなら、そうすれば私たちのために地獄への扉が開きます。

第8段落

そのため、あなたはどちらの扉に入るかを選ばなければなりません。一つの扉は繰り返す生と死の呪縛からの解放に続いていて、家へ、至高神のもとへと帰す道に私たちを置きます。そして、もう一つの扉、感覚の満足の扉は、暗闇に続いています。(サンスクリット引用)私たちが感覚の満足にふければふけるほど、あるいは感覚の満足にふける人と関われば関わるほど、私たちは地獄的な人生にますます深く下りていきます。

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東京のお寺に連絡をしたのですが、どうも届いていないみたいです。メールでの連絡ができない状態なのか、ご存知の方はいらっしゃいませんか?

それと、念のために確認なのですが、日本語で既に出ている書籍は以下の通りだと伺っていますが、その後追加されたものなどはありませんでしょうか。既にどなたかが翻訳なさったもの、あるいは翻訳が進行中のものと重複しないようにしたいので、何かご存知の方はどうかお知らせください。

(日本語書籍)
1. バガヴァッド・ギーター

2. シュリマッド・バーガヴァタム(第1巻の第一章)

3. クリシュナ

4. イショパニシャッド

5. ネクター・オブ・ディヴォーション

6. ハイヤー・テイスト(旧版)

7. カミング・バック

なお、このサイトにある書籍は以下の通りです。
1. 簡単な惑星旅行 Easy Journey to Other Planets

2. 生と死の彼方に Beyond Birth and Death

3. クリシュナ意識への上昇 Elevation to Krishna Conciousness

4. 比類なき贈り物 Matchless Gift

5. 完璧な問い、完璧な答え Perfect Questions, Perfect Answers

6. 霊的なヨガ(未完) Spiritual Yoga
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by ammolitering4 | 2009-06-22 04:32 | 「霊的なヨガ」 | Comments(8)

霊的なヨガ(Spiritual Yoga)

霊的なヨガ

初めに

第1段落

体のためのヨガがあり、もう一つ、魂のためのヨガがあります。この本は魂のためのヨガに関するものです。それはバクティ・ヨガと呼ばれます。純粋な愛と献身のヨガ、最も高度な喜びのヨガです。

第2段落

ほとんどの人が知っているのは体のヨガ、雑誌の表紙についているような種類のヨガです。誰もが知っています。しかし、魂のヨガはほとんどの人にとっては新しいものです。それはあなたの内心の奥底でだけ見つけることができます。

第3段落

体のヨガでは、人は体の筋肉を伸ばして、しばらくの間、良い気持ちになれます。魂のヨガでは、魂の筋肉を伸ばし、永遠に良い気持ちでいられます。それが違いです。そしてこの本は全くそれに関するものです。

第4段落

なお、体のヨガが何か悪いというわけではありません。しかし、あなたが至高のヨガへの準備ができたときは、魂の霊的なヨガが待っています。そして、それは長い間待っているのです。体のヨガの最初の教師が西洋のヨガ教室にやってくるよりもずっと前に、霊的なヨガの教師たちは古代のインドの山や森に座り、気に入った生徒たちに最高の幸せを得るための秘密を教えていました。

第5段落

本当に知識のある者にとっては、それが最も高い目標地点です。しかし、そこに至るためには、人は道筋を知らねばなりません。そして人はそれを唯一その道筋を知る者、霊的なヨガの教師たちからだけ知ることができます。

第6段落

そうした教師たちの一人がシュリー・リシャバーデヴァでした。デヴァは神を意味します。普通の人間のように見えましたが、主は神の形の一つであり、神聖な力を持っていました。主は、はるか昔、実に何百万年も前に生きておられました。外的には主は偉大な王としてお現れになりました。つまり、主はいかなる物質的な快楽でも最大限に楽しむ機会をお持ちでした。しかし、自己統制の完全な例を示すためだけに、主はそうなさいませんでした。主は霊的なヨガの技術を息子たちに教えられ、そしてこの秘密の知識、最高の快楽への道は、一人の霊的指導者から次の霊的指導者へと世代を超えて伝えられていきました。

第7段落

長い間、この秘密の知識は決して書き記されませんでした。それは隠された記憶の中に保管され、適切な候補者だけに明かされました。時間が経つにつれて、人々の記憶力は衰退し始めました。そのため、約五千年前にヴャーサデヴァという偉大な霊的な人物がリシャバーの教えをシュリマッド・バーガヴァタムというサンスクリットの本の一部として書き留めました。それでも、その後長い間、インドのほんのわずかな選ばれた者たちだけがこれらの教えについて学んだだけでした。

第8段落

そして、20世紀後半に、現代の最も偉大な霊的指導者である尊師ACバクティヴェダンタ・スワミ・プラブパーダ睨下(げいか、最高位の聖職者の敬称)が、ご自身の霊的指導者の命令に従ってリシャバーの霊的なヨガに関する教えを英語に翻訳し、それを西洋世界にお持ちになり、私たちに最高の幸せへの道に入る機会を与えてくださいました。

第9段落

この本は、リシャバーのもともとのサンスクリットの教え(SB5.5.1-14)に対するスリーラ・プラブパーダの発表された翻訳と解説、および師がこれらの教えについて1969年から1976年の間に様々な街(ロンド、ストックホルム、インドのヴリンダーヴァンを含む)で行った一連の講義の筆記録を組み合わせたものです。

第10段落

皆さんがリシャバーデヴァの霊的なヨガ、最も高い喜びへの道に関する教えを楽しんでくださることを願っています。

編集者。
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by ammolitering4 | 2009-06-20 10:48 | 「霊的なヨガ」 | Comments(0)

クリシュナ意識への上昇 第6章16段落より

クリシュナ意識への上昇 第6章16段落より

第16段落

私たちがこの「クリシュナ意識」という言葉を作り出したのではありません。クリシュナ意識とは、世界の歴史の中で一番古い言葉です。

(サンスクリット引用)

「いつも私のことを考えていなさい。私の献身者になりなさい。私を崇拝し、あなたの臣従の礼を私に捧げなさい。結果として、あなたは間違いなく私のところにやってきます。私はあなたにこれを約束します。あなたは私のとても愛しい友達だからです。あなたの心でいつも私のことを思いなさい。あなたの体でいつも私に奉仕をしなさい。そして私に服従しなさい。完全に私に夢中になれば、確実にあなたは私のもとに来ます。」(BG18.65,9.34)

第17段落

マン・マナー・バーヴァ・マッド・バークトは、「ただいつも私を意識していなさい」という意味です。これがすなわちクリシュナ意識です。バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナは繰り返し、私たちが主を崇拝し、主に服従し、主のもとに来る(行く)べきである、とおっしゃいます。(訳注、英語および日本語の一部の方言では「来る」ですが、日本語の標準語表現では「行く」のほうが正しいかもしれません。)バガヴァッド・ギーターはクリシュナ意識の絶対的な必要性をはっきりと指し示しており、バガヴァッド・ギーターはウパニシャッドの真髄として受け入れられています。歴史的な観点から見ても、比類すべきものはありません。考古学的な証拠に基づいて、クリシュナは五千年以上前にクルクシェトラの戦場でバガヴァッド・ギーターを語ったと計算されています。つまり、このクリシュナ意識運動は、歴史的な観点からも五千年の歴史があるのです。その哲学は世界の歴史の中で最も古いものです。もしも私たちがもっと遡りたいと望むなら、私たちはシュリー・クリシュナがこのバガヴァッド・ギーターをかつて太陽神に語られたということを知ります。クリシュナは永遠であり、クリシュナ意識もまた永遠です。クリシュナ意識はこのようにして近づかれるべきであり、単なる理論であると考えられるべきではありません。

第18段落

クリシュナ意識が何らかの意識で覆われているとき、私たちは汚染されて制約された人生を経験します。空が澄んでいるとき、私たちは太陽の明るく輝く光を見ることができますが、雲に覆われているときは見ることができません。私たちは太陽光を知覚することはできるかもしれませんが、太陽そのものを見ることはできません。空が澄んでいるとき、それは自然な状態にあります。同様に、私たちは永遠にクリシュナの欠かすべからざる小片なので、私たちの意識は永遠にクリシュナ意識なのです。これはバガヴァッド・ギーターの15章に断言されています。

(サンスクリット引用)

「この制約された世界にいる生命体は、私の微細な一部であり、彼らは永遠です。しかし、制約された人生によって、彼らは心を含む六つの感覚に大変な苦労をしています。」(BG15.7)

第19段落

どういうわけか、私たちは物質自然に関わることになってしまいました。そして、心と六つの感覚のために、存在するのに大変な苦労をしています。それがダーウィンの理論―――生存のための苦労、最も強い者が生き残る、というものです。しかし、本当の事実は、私たちの本来の立場は、苦労するようなそれではない、ということです。苦労は動物の人生の立場です。人間の人生は喜びに満ちている(blissful、幸せ、至福、天上の喜びに溢れた状態)べきであり、霊的な発達を目的としているべきです。かつて、それがインドにおいて人生の原則でした。そして、霊的な文化だけにいそしむ階層の人々、ブラーマナがいました。ブラーマナの文化生活はインドの聖典に明確に述べられていますが、それはインドだけのものではなく、すべての人間のためのものです。ヴェーダはすべての人類のために書かれましたが、ヴェーダが書かれたときには、たまたま現在インド文化として知られているものが存在する唯一の文化だったのです。その頃は、惑星全体がリシャバーデヴァの息子、皇帝バーラタ・マハーラージャにちなんでバーラタヴァルシャと呼ばれていました。バーラタ・マハーラージャは惑星全体を統治していましたが、徐々に惑星は分割されていきました。つまり、ヴェーダ文化のダルマは単に宗派的な意味でインドやヒンズーのものであると考えられるべきではないのです。

第20段落

ダルマという語は往々にして宗教を意味すると翻訳されますが、ダルマを宗教として受け取るのは語の誤解です。一般的な使い方では、宗教という言葉はある特定の信仰を指します。ダルマという言葉はそうではありません。ダルマは生命体の自然な職業(occupation、この場合は属性)を指します。例えば、火があれば熱と光もあります。そのため、熱と光は火のダルマだと言われます。火は自分のダルマを変えることはできません。同じように、液体性は水の本源的な性質であり、この性質は変えられません。もし変えられるなら、それはもはや水とは考えられません。個々の魂のダルマは決して変えられません。そしてそのダルマとは至高主に奉仕をするという職業的な義務です。信仰と宗教は変えられ得ます。今日は私はヒンズー教徒であるかもしれませんが、明日はキリスト教徒やイスラム教徒になるかもしれません。このように信仰は変わることがありますが、ダルマは自然な帰結、自然な職業、あるいは繋がりなのです。

第21段落

クリシュナは、生命体のダルマの遂行に食い違いが起こって不自然な活動の急激な高まりがあるときは直ちに降臨するとおっしゃいます。主の降臨の主な目的の一つは、宗教的な原則を再確立することです。最も優れた宗教制度とは、私たちを至高主に服従するように最も良く訓練するものです。これがバガヴァッド・ギーターの底に流れる基本原則です。私たちは、宗教の本当の目的を知っている限り、自分の宗教を選んでヒンズー教徒になったり、イスラム教徒や仏教徒やキリスト教徒になったり、他の何かになったりすることができます。実際のところ、シュリマッド・バーガヴァタムは私たちが今持っている宗教を放棄することを薦めていません。しかし、宗教の目的を示します。目的は至高神の愛であり、至高神を愛するにはどうしたらいいかを最もよく教える宗教が最上の宗教です。

第22段落

現代では特に、大衆の意識に一般的な衰退があります。神が存在することを覚えている人は少しはいますが、ほとんどの人は主を忘れています。だから彼らは幸せになれません。人々は神に対して何の恩義もないと考えたり、神はいないと考えたりしています。このような考えは、決して幸せを作り出しません。今日のように文明が無神論的であるとき、神あるいは主の代理人は人々に至高の意識との関係を思い出させるためにおいでになります。

第23段落

サナータナ・ゴスヴァーミーが主チャイタンニャに「私は何ですか?なぜ私はいつも惨めな状態にいるのですか?すべての生命体の立場は何ですか?」と聞いたとき、シュリー・チャンタンニャ・マハープラブは直ちに、本当の自己認識は神の従者というそれである、とお答えになりました。私たちは「従者」という言葉を物質的な従者のような意味で理解すべきではありません。神の従者になるというのは偉大な立場です。人々は、いつも何かの政府の地位や有名な企業の役職を得ようとしています。そのような地位で奉仕をすると、大きな利益があるからです。私たちは政府への奉仕の中でいい地位を得ようとして躍起になりますが、神への奉仕の中で地位を得ようと立ち止まって考えることをしません。神はすべての政府の中の政府なのです。

第24段落

神への奉仕はダルマです。このダルマは、異なる文化的および気候的な状態あるいは状況によって、異なる国々で異なるように描写されるかもしれませんが、すべての宗教的な聖典において、神への服従が教えられています。神はいない、とか、私たち生命体は独立している、などと説く聖典はありません。聖書や、コーラン、ヴェーダ、仏教徒の聖典でさえそうです。一般に、仏教徒の哲学では、個々の魂というものはなく、至高の魂もありません。しかし実際には主ブッダはヴェーダ文献によって神の化身として受け入れられているので、主ブッダに従うことによって人は実際は神に従っています。シュリマッド・バーガヴァタムには、神の化身の表があり、主ブッダはその一人として受け入れられています。シュリマッド・バーガヴァタムはヴャーサデヴァによって五千年前に編纂され、主ブッダは2600年前にお現れになりました。したがって、シュリマッド・バーガヴァタムは実際に主の来臨を予言していました。主ブッダは、神も魂もなく、この体は物質の複合であり、この物質の複合が分解すれば悲惨さや幸せなどの感覚はもはや無くなる、と教えられました。そしてサンカラーチャーリャが現れ、ブラーマンの外的な特質、すなわち体は、単なる幻想である、と教えました。すべての宗教において、寺院での崇拝と権威の受容が存在します。私たちは、クリシュナや主イエス・キリストやエホバや主ブッダやサンカラーチャーリャやグル・ナナクなどを受け入れるかもしれませんが、どの場合でも権威を受け入れることが要求されます。

第25段落

バガヴァッド・ギーターにおいて、主シュリー・クリシュナは至高の権威として受け入れられています。時にはクリシュナは自ら降臨され、時には化身として降臨されます。時には主は音の振動として降臨なさり、時には献身者としておいでになります。アヴァターには多くの異なる分類があります。今の時代においては、クリシュナはご自分の聖なる御名、「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」としていらっしゃいました。主チャイタンニャ・マハープラブも、今のカリの時代にクリシュナは音の振動として降臨された、と確認なさっています。音は主がお取りになる形の一つです。したがって、クリシュナと主のお名前に違いはないと述べられています。

第26段落

今日では、人々は神との関係を忘れてしまいましたが、この、主の聖なるお名前という形のクリシュナの化身、このハレ・クリシュナを唱えることは、世界のすべての人々を彼らの忘却から救い出すでしょう。主チャイタンニャ・マハープラブは、もしも私たちが(このマントラを)唱えれば、あるいはクリシュナの聖名を唱えることに関われば、私たちは人生の全き完成の水準に至る、とおっしゃいます。シュリマッド・バーガヴァタムによると、異なる時代のための異なる課程が存在しますが、それぞれの過程の原則はすべての時代において有効であり続けます。ハレ・クリシュナを唱えることが、今の時代には有効だけれど、サチャ・ユガではそうではない、ということではありません。また、サチャ・ユガでは人々がクリシュナの聖名を唱えていなかったというわけでもありません。サチャ・ユガにおいては、瞑想が主な課程であり、偉大なムニたちは6万年以上も瞑想しました。しかし、今の時代には私たちの寿命はとても短いので、この方法で完成を得ることは不可能です。結果的に、この時代では特に私たちが皆で座ってハレ・クリシュナを唱えることが勧められているのです。それはとても簡単です。誰でも参加することができます。教育の必要もなく、あらかじめ何らの資格が要求されるわけでもありません。今の時代は、人々は大変鈍くて、不運でもあり、悪い関わりによって汚染されています。チャイタンニャ・マハープラブは、神の愛を広めるための素晴らしい宣伝手段として「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を導入なさいました。それはカリ・ユガだけに薦められているわけではありません。実際はすべての時代において薦められているのです。すべての時代を通して、マントラを唱えて完成に至った献身者がたくさんいます。それがこのクリシュナ意識運動の美点です。それは一つの時代や一つの国や、一つの階層の人々のためのものではありません。ハレ・クリシュナは、どのような社会的な地位の、どのような国の、どんな年齢の人でも唱えることができます。クリシュナは、すべての社会的な地位と、すべての国々と、すべての年齢の人々の至高主であられるからです。

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これで終わりです。今日は休みだったので、タイプを済ませることができました。次はSpiritual Yogaという小冊子を翻訳する予定です。
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by ammolitering4 | 2009-06-13 07:19 | 「クリシュナ意識への上昇」 | Comments(2)

クリシュナ意識への上昇 第6章

クリシュナ意識への上昇 第6章

第1段落

インドでは、すべての聖典と、非人格主義者であるサンカラーチャーリャを含む偉大な霊的教師たちがクリシュナを至高主として受け入れています。サンカラーチャーリャは、彼のバガヴァッド・ギーターの解説の初めに、ナーラーヤナはこの顕現あるいは非顕現の創造を超越していると述べ、同じ解説の中で、至高の人格神であるナーラーヤナはデヴァキーとヴァスデヴァの息子として現れたクリシュナであると述べています。このように、このことに関して、クリシュナに対する意見の違いはほとんどありません。人格主義者であれ、非人格主義者であれ、権威ある者たちはクリシュナが至高神であるということで合意しています。

第2段落

クリシュナが地上にいらしたとき、主はご自分の活動と栄華によって、至高主であると証明なさいました。もしも私たちが本当に至高主が誰であって何であるか知りたいと願うなら、すべての情報はヴェーダ文献に与えられています。もしも私たちが何であれ持てるものを神を理解するために使うなら、クリシュナはご自分が至高の人格神であると証明なさいます。もしも私たちが単にこの一つの事実を受け入れるなら、そうすれば私たちの教育のすべては完全です。神が誰であるかを知るために研究するのがはやっていますが、これは必要ではありません。神は存在しておられ、自ら次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、富を征服する者(アルジュナ)よ。私に優る真実はありません。真珠が糸に繋がっているように、すべては私に拠り頼みます。」(BG7.7)

第3段落

この情報はバガヴァッド・ギーターだけでなく他の聖典においても与えられています。そして、そもそもの初めから、サンカラーチャーリャやラーマーヌジャチャーリャやマドゥヴァーチャーリャや主チャイタンニャなどのアーチャーリャ(教師)や、他の多くの忠誠心の篤い権威者によって受け入れられています。現在においてさえ、クリシュナを至高主として受け入れない者たちがクリシュナによってアルジュナに与えられた知識を受け入れています。つまり、そのようにして彼らはクリシュナを間接的に受け入れているのです。もしも人がバガヴァッド・ギーターを偉大な知識の書として受け入れるなら、その人はクリシュナをも受け入れています。至高の完全真理がクリシュナであって、私たちが主と永遠の関係を持っていることは、疑いようもありません。

第4段落

私たちの神との永遠の関係はサバージャナです。つまり、神は偉大であり、私たちは従属しています。主は支配者であり、私たちは支配されます。従属する者の義務は支配者を喜ばせることです。同様に、もしも私たちが幸せになりたいなら、私たちはクリシュナを幸せにする方法を学ばねばなりません。これがクリシュナ意識の過程です。

第5段落

しかし、至高主が私たちの奉仕と労働によって満足なさるということが、どうやって理解できるでしょうか。私たちの奉仕、すなわち職業的な義務(訳注、
occupational duty、それぞれの性質に合った、義務としての仕事。Occupationは必ずしも雇用を意味しない。)を完成させることは、実際に可能です。誰でもそれぞれの性質(designation)に従って果たすべき奉仕があります。インド人であれアメリカ人であれ、ヒンズー教徒やイスラム教徒やキリスト教徒であれ、男であれ女であれ、ブラーマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、スードラや他の何であれ、どちらにしても人は何らかの仕事をすることにあんっていて、その仕事がその人の職業的な義務です。義務の完成は至高主やその実行によって満足しているかによって計られます(tested、試される)。至高主の満足は、主の代理人である霊的指導者によって計られます。したがって、至高の人格神の本当の代理人を探し、その人の下で働くことが大切です。もしも霊的指導者が満足しているなら、私たちは至高主もまた満足していると知るべきです。それはヴァイスヴァナーサ・チャクラヴァルティー・サークラによって説明されています。

(サンスクリット引用)

「霊的指導者の慈悲によって、人はクリシュナの恵みを賜ります。霊的指導者の恵みがなければ、誰も全く進歩できません。したがって、私はいつも霊的指導者を思い出しているべきです。少なくとも一日3回は私は自分の霊的指導者の蓮の御足に尊敬を込めて服従の礼を捧げるべきです。」(シュリー・グルヴァシュタカム、第8節)

第6段落

霊的指導者は至高主の代理人です。どうやって彼は代理人になれるのでしょうか。もしも誰かが「あんなふうでこんなふうな物体は眼鏡である」と言い、もしもその人(訳注、それを聞いた人)が弟子にそのように教えるなら、(訳注、弟子が)その物体を確定するにあたって間違いはありません。霊的指導者とは、ある特定の師弟継承の言葉を身につけた者のことです。上記の例では、鍵となる言葉は「眼鏡」です。それだけです。霊的指導者は、それ以上何も言う必要はありません。これが資格です。クリシュナは「私が至高存在です」と言い、霊的指導者は「クリシュナが至高存在です」と言います。クリシュナの代理人であるために、すなわち霊的指導者であるために、人が何か非常に突出した資格を持っていなければならないわけではありません。彼は単に、個人的な解釈を加えないで権威者からのメッセージを伝えなければならないだけです。何らかの個人的な解釈が加わると同時にメッセージは失われ、教えは不快なものになります。自分の独自の思いつきにしたがって聖典を解釈する者は、直ちに退けられるべきです。

第7段落

かつて、主チャイタンニャ・マハープラブは「あなたは少なくとも誰が霊的指導者で誰がそうでないかを見極めるのに十分な知性(sense)を持たねばなりません」とおっしゃいました。例えば、もしも私たちが何かを買いたいなら、私たちは少なくともそれが何であるのかについて、何らかの知識を持っていなければなりません。さもないと、私たちは騙されます。もしも私たちが市場からマンゴーを買いたいなら、私たちは少なくともマンゴーなるものがどのような種類の食べ物でどんな姿をしているのかを知っていなければなりません。同様に、私たちは真正な霊的指導者の資格について、幾らかの入門的な知識を持つ必要があります。バガヴァッド・ギーター自体の中に、霊的指導者の継承についていくらかの情報があります。主クリシュナはおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私はこの滅びることのないヨガの科学を太陽神ヴィヴァスヴァーンに教えました。そしてヴィヴァスヴァーンはそれを人類の父マヌに教え、マヌは次にイクシャヴァークに教えました。この至高の科学とは、このように師弟継承の鎖を通して受け取られ、聖なる王たちはそれをそのようにして理解しました。しかし、時が経つにつれて継承は途切れ、したがってありのままの科学は失われたように見えます。その、至高存在との関係という非常に古い科学は、今日私によってあなたに語られます。なぜならあなたは私の献身者であり、私の友人でもあるからです。したがってあなたはこの科学の超越的な神秘を理解することができます。」(BG4.1-3)

第8段落

そのもともとの霊的な師弟継承は途切れましたが、今私たちはバガヴァッド・ギーターを学ぶことで同じメッセージを受け取ることができます。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナはちょうど太古の昔に太陽神にお話しになったのと同じようにアルジュナに語られます。もしも私たちがアルジュナとクリシュナの言葉を受け入れるなら、私たちにとってバガヴァッド・ギーターを理解することは可能かもしれません。しかし、もしも私たちがそれを自分の独自なふうに解釈するなら、結果は無意味です。バガヴァッド・ギーターを理解する最も良い方法は、真正な霊的指導者を受け入れることです。これはあまり難しくありません。

第9段落

アルジュナは、クリシュナは至高の人格神なので、自分はクリシュナが自分に語ったことをすべて受け入れる、と言います。

(サンスクリット引用)

「アルジュナは言いました;親愛なるクリシュナよ。おお、決して誤ることのない者よ。私の幻想は今や消え去りました。あなたの恵みによって、私は自分の記憶を取り戻しました。今、私は何の疑いもなく心が定まり、あなたの指導に従って活動する準備ができました。」(BG18.73)

第10段落

アルジュナのように、私たちはクリシュナを至高の人格神として受け入れ、主のおっしゃるようにすべきです。

(サンスクリット引用)

「おお、クンティーの息子よ。あなたのすることのすべて、食べるもののすべて、捧げるものや与えるもののすべて、そして行う苦行のすべては、私への捧げものとして為されるべきです。」(BG9.27)

第11段落

クリシュナをこのような精神で受け入れることによって、私たちは完全な知識を得ることができます。しかし、もしも私たちがクリシュナを受け入れず、バガヴァッド・ギーターを独自に解釈するなら、すべては駄目になります。

第12段落

もしも私たちが誠実であるなら、クリシュナの恵みによって私たちは誠実な霊的指導者を得ます。しかし、もしも私たちが騙されたいなら、クリシュナは騙す人を送ってくださり、私たちは生涯騙され続けます。それが実際に起こっているのです。クリシュナをありのままに理解しようと望まず、自分の不完全な視野の力(訳注、物事を観察する力)によって理解したいと望む者にとっては、神、すなわちクリシュナは未知であり続けます。

第13段落

クリシュナと主の教えを受け入れ、そして主に献身奉仕を捧げる、というのが過程のすべてです。完全な献身奉仕の具現そのものであるのがシュリーマティー・ラーダーラーニーです。ブラーマ・サムヒターにおいて、ラーダーラーニーはクリシュナの霊的な潜在力の拡張体であると描写されています。このように、彼女はクリシュナと異なりません。ラーダーとクリシュナに仕えるゴピーたちは、普通の女性や少女たちではありません。彼らのクリシュナの喜びの潜在力の拡張体です。ラーダーラーニーとゴピーたちは、決して普通の女性として受け入れられるべきではありません。実に、彼女たちの立場を理解するためには、私たちは霊的指導者の導きを必要とします。もしも私たち生命体が実際にラーダーラーニーと関わりたいなら、彼女は普通の女性ではありませんが、それは可能かもしれません。私たちは献身奉仕に熟練して資格を得ることによって、ラーダーラーニーの仲間になることができます。

第14段落

献身奉仕にはフラストレーションはありません。たとえ私たちがほんの少しの奉仕をしても、それは育ちます。献身奉仕は決して失われることがありません。物質的なものの場合は、私たちが世界において得るものはすべて、体が終わったときに失われます。しかし、私たちは永遠なる霊的な火花なので、私たちの霊的な財産は私たちと共に行き、徐々に実を結びます。このようにして、過去に超越的な知識を培った者は、この運動を通してクリシュナ意識に出会います。クリシュナ意識への興味は一般的なものではありません。バガヴァッド・ギーターのなかに、何万何億という人の中で、ほんの一人が完全を得ることに興味を示す、と書いてあります。もしも私たちが「単にこの本を読んで15分間瞑想するだけで、誰でも直ちに(特別な)力を得て、ビジネスで成功し、試験に合格します」と宣伝すれば、多くの人がその本に惹きつけられるでしょう。人々はマーヤーに騙されることのほうを好むので、クリシュナ意識に惹き付けられません。彼らは、人生の完成とは、たくさんの食べ物を食べ、20時間眠り、毎日毎晩異なる相手と生殖をすることだと考えます。人々はこういうことに興味がありますが、人生の完成には興味がありません。

第15段落

すべての知性ある人は、少なくともクリシュナ意識を試みてみるべきです。彼は次のように言うべきです。「分かりました。私はもう何度も生まれかわって、この食べることと眠ることを楽しんできました。これらのことは、私が鳥や動物の体にいたときにも与えられていました。今、この人生において、動物的な人生の四つの原則―――食べること、眠ること、身を守ることと生殖すること―――を制限し、クリシュナ意識を培うことに時間を使うことにします。こうすることで私の人生は成功します。」
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by ammolitering4 | 2009-06-13 03:45 | 「クリシュナ意識への上昇」 | Comments(0)

クリシュナ意識への上昇 第5章13段落より

第13段落

私たちはゴスヴァーミーたちの足跡に従い、このようにラーダーとクリシュナを探し求めねばなりません。ヴリンダーヴァンは私たちの心の中にあり、私たちは主をそこで探さねばなりません。これがチャンタンニャ・マハープラブがお奨めになる別離の中の崇拝の過程です。クリシュナからの別離を感じ、主チャイタンニャ・マハープラブは海に身を投げました。真夜中に部屋を出て行って、いなくなることもありました。主がどこに行かれたのか、誰も知りませんでしたが、その間主はクリシュナを探しておられたのです。このように、私たちは何かのスポーツのショーの見物人のようにクリシュナとラーダーの愛の交歓を楽しんだりするものではないのです。私たちは彼らからの別離を感じなければなりません。私たちがより強く別離を感じると、私たちはより強く自分が進歩しているのだと理解すべきです。私たちの物質的な感覚をもってしては、私たちはクリシュナを見ることはできず、主のお名前を聞くことさえできません。私たちは献身奉仕に進歩したときに主を知覚し始めることができます。その献身奉仕は、脚や目や耳ではなく、舌から始まります。舌は「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」と唱え、クリシュナのプラサーダムを食べることに使われなければなりません。舌には二つの機能があり、このように使うことで私たちはクリシュナに気付くことができます。私たちは自分の物質的な目でクリシュナを見ることはできず、物質的な耳でクリシュナについて聞くこともできず、私たちの手でクリシュナに触ることもできません。しかし、もしも私たちが自分の舌を主への奉仕に使えば、主は「私はここにいます」と言ってご自分を明かしてくださいます。

第14段落

このハレ・クリシュナを唱えるという行いは、物質自然の燃え盛る火を消します。これは霊的指導者への以下の祈りの説明でもあります。

(サンスクリット引用)

「霊的指導者は慈悲の海から天福を得ています。山火事の上に雲が水を注いで火を消すように、霊的指導者は物質存在の燃え盛る火を消します。私は霊的指導者の蓮の御足に尊敬をこめて服従します。」(シュリー・グルヴァスタカム、1節)

第15段落

この物質自然は、しばしば自動的に発生する山火事に例えられます。誰も山火事を望んではいませんが、しばしば落雷があり、不注意や摩擦やその他のことがあり、火事は直ちに発生します。同様に、この物質世界は問題の燃え盛る火に包囲されています。皆がここで平和に暮らしたいと思っていますが、何らかの状況が発生し、誰も平和に暮らせません。私たちは物事を非常に多くの方法で調整しようとして大変な苦労をしますが、自然の法則はとても残酷で危険なので、私たちの望みと計画にも関わらず、物質存在の問題という燃え盛る火は続きます。

第16段落

例えば、この世紀では(1900年代)私たちは戦争の火を消そうとしましたが、まだそうできていません。第一次世界大戦があり、第二のそれを防ごうとして国際連盟が作られましたが、その試みにも関わらず、第二の戦争が起こりました。今では戦争を終わらせる助けとなるように国際連合が作られましたが、戦争はベトナムやエジプトやパキスタンや他のところで続いています。誰も第三次世界大戦を望んでいませんが、それは一触即発に見えます。消防隊と、水の入ったバケツを持った何人かの人を送って、それで大きな山火事を消すことはできません。吠えるような山火事を消すためには、大量の水が必要です。言い換えれば、人間の努力を超えた配剤がなければなりません。山火事の上に恵み深い雲があるとき、雲ははじけ、雨が土砂降りとなって降り、燃え盛る火は直ちに消えます。雲が海から水を集めるように、同様に霊的指導者はクリシュナの恵みの海から水を集め、物質自然の燃え盛る火の上に注ぎます。このように、クリシュナの恵み深い雨を与え、あるいは配る者は、霊的指導者、あるいはグルと呼ばれます。

第17段落

ヴェーダ文献には、クリシュナ意識の超越的な科学を理解するために私たちはこの問題の燃え盛る炎を消すための知識を得ようとしなければならない、と書いてあります。科学者や哲学者や他の教育のある人々はそれを消そうとして大変な努力をしていますが、その結果はもっともっと大きな爆弾であるように見えます。カーミー、すなわち結果を求めて働く労働者たちは、この火を消そうとして、すなわち大変な労働によって物質存在の惨めな状態を減少させようとして、昼も夜も精魂を込めて働いています。ジナーニー、すなわち哲学者たちもまた努力していますが、彼らはうんざりして、そのため「この世界は偽りだ」と主張します。このように考えて、彼らは至高存在と一体化しようとし、そうやって火を消そうとします。これは、蔓(つる)からブドウを取ろうとして失敗し、「どうせこのブドウは酸っぱいんだから」と言うキツネのようです。(訳注、原文はjackel、ジャッカル。現在は jackalという綴りのほうが一般的。)ヨギー、すなわち瞑想うる人々は、一番大きなものよりも大きく、一番小さなものよりも小さく、一番軽いものよりも軽く、一番重いものよりも重くなることで優れた神秘的な力を得ようとしますが、これは単に全く子供のお遊びです。大きくても小さくても、軽くても重くても、どんな物質的な体にも物質存在の問題は存在します。このようにして、人は一つの段階から別の段階へ進歩するかもしれません。カーミー、すなわち結果を求めて働く労働者の段階から、ジナーニー、すなわち哲学者の段階へ、ヨギー、すなわち瞑想者の段階へと上がっても、どちらにしても人は最後にはバクティー、すなわち献身奉仕の段階に至らねばなりません。これが本当に進化の過程なのです。これはバガヴァッド・ギーターにおいて次のように示されています。

(サンスクリット引用)

「多くの生と死のあと、本当に知識のある者は、私がすべての原因の原因であり、存在のすべてであると知って、私に服従します。そのように偉大な魂は甚だ稀有です。」(BG7.19)

第18段落

クリシュナに服従することが要点です。それが人生の目的であり、バークタ、すなわち世界の知性ある人々は直ちにこの水準にやってきます。そのためクリシュナは彼らを賢い人々と呼びます。もしも非常に多くの生のあとで人がこの服従の場に至らねばならないのなら、なぜ今すぐそうしないのでしょう。

第19段落

物質自然の燃え盛る火はドゥルガーによって管理されています。しばしば彼女は手に武器を持った姿で描かれます。彼女には10本の手があり、それぞれが異なる武器を持っています。これは、彼女がこの宇宙の10の方向のすべてを支配していることを示しています。彼女は悪魔を懲らしめるために異なる武器を巧みに使います。ある有名な絵においては、悪魔がライオンと争っていて、女神ドゥルガーが悪魔の髪を引っ張り、三叉の槍を悪魔の胸に押し付けています。もしも私たちがこの絵を研究するなら、私たちは悪魔であり、三叉の槍は私たちがいつも苦しめられている三重の悲惨さであると結論付けられます。ある悲惨さは他の生命体によってもたらされ、別の悲惨さは自然の災害によってもたらされ、さらに別の悲惨さは心と体そのものによって引き起こされます。何らかの方法で私たちはいつもこれらの三つの種類の悲惨さに苦しんでいます。物質創造の中には、自分はそれらから自由だ、と言える人はいません。この物質自然の三叉の槍は、皆の胸に押さえつけられています。そしてこの理由により、この物質世界における純粋な幸せは不可能です。私たちは母なるドゥルガーを崇拝したり捧げ物をしたりして彼女を満足させようとするかもしれませんが、ドゥルガーはそう簡単には買収されません。

第20段落

したがって、私たちは人生の目的は至高の人格神を理解することであると知るべきです。私たちはあらゆる側面から―――社会的、政治的、哲学的、宗教的に―――工夫すべきです。しかし、目的は至高人格に近づくことであるべきです。ヴェーダには、学識があって発達した人々、すなわち創造の半神たちは、単にクリシュナの蓮の御足を求める、と書いてあります。人間の文明においても、目的は同じであるべきです。クリシュナの蓮の御足を求めることなくしては、すべての宗教的、社会的、あるいは政治的な努力は失敗します。私たちの欲望が物質世界に錨(いかり)を下ろしている限り、進歩することはできません。これに関して、川下にある花嫁の家に向かわねばならなかった花婿一行の話があります。計画では、彼らは夜に船で出発し、早朝には目的地に着くことになっていました。そのため、夕食のあと、浮かれた一行は夜になって船に乗り込んで船上で寛ぎ、船を漕ぐ人たちに出発するように言いました。一行は全員が気持ちよく座っていて、川のそよ風がとても心地よかったので、彼らはその夜、深く眠りました。朝になると彼らは皆、早くに目を覚まし、驚いたことに船が目的地に向かって全く進んでいないことに気がつきました。船乗りたちが夜中懸命に漕いでいたにも関わらずです。結局、調べてみると、船乗りたちが漕いでいたにも関わらず、彼らが錨を上げることを忘れていたので船が全く進んでいないことがわかりました。結婚の儀式は、愚かな間違いのためにこうして駄目になりました。

第21段落

私たちの現在の文明は、したがって、誤った文明です。なぜなら、誤った指導者たちが執着の錨を上げるのを忘れているからです。反対に、彼らは社会の秩序を感覚の満足に基づいて作り上げたため、錨はますますしっかりと下ろされています。様々な計画と企画(plans and schemes)によって維持されているこの感覚を満足させる社会的および政治的な仕組みは、バガヴァッド・ギーターに次のように描写されています。

(サンスクリット引用)

「飽くことを知らない欲望と高慢さと偽りの栄光に拠り頼み、そうして幻惑されちる悪魔的な人々は、永遠でないものに魅了され、いつも清らかでない仕事に誓いを立てます。彼らは人生の最後のときまで感覚を満足されることが人間の文明の主要な必要性であると信じています。したがって、彼らの不安には限界がありません。」(BG16.10-11)

第22段落

船乗りたちのように、指導者たちは皆惑わされています。彼らは私たちが何らかの一時的な益を得るように誤って導きますが、彼らの計画や企画がいつまでもつでしょうか。もしも彼らが心臓麻痺で死んだり暗殺者に殺されたりするまで地位に留まりつづければ、その後には彼らと全く同じような人々がその地位につきます。現代の社会のいわゆる哲学者たちでさえ、物質的な名声と栄誉に捕られられていて、一般の人々を正しい方向に導きません。したがって、人生の錨は感覚を満足させるという目的のために無知の水の中に深く下ろされ、こうして私たちのいわゆる文明はよどんだ水溜りの中で腐ります。私たちは動いていないので、いつも同じ、問題の多い人生という港にいます。すべての計画は、戦争と飢餓と地震とその他の破滅的な出来事の前では無用の紙くずです。これらのすべての破滅的な出来事は、母なるドゥルガーからの警告です。そしてそれらによって、彼女は幻惑された計画作り人たちに対する彼女の永遠の優位を確認するのです。私たちを物質的な人生に縛り続ける錨の異なる重さは、私たちが霊的な事実を知らないことと、身体的な関係による親戚(訳注、kinsmen、家族、親戚、一族、民族など)への執着と、生まれた土地と物質的な所有物への執着と、物質科学への執着と、本来の目的を知らずして宗教的な形や儀式に執着していることから来る私たちの物質的な形への執着です。これらすべてが人間の体という船を物質的な宇宙に縛り付けます。シュリー・クリシュナは、しっかりと根を下ろしたバンヤンの木の例を使って、バガヴァッド・ギーターの中で私たちにどうやってこの執着を一度に完全に捨て去るかを助言なさいます。

(サンスクリット引用)

「この木の本当の形は、この世界では知覚できません。それがどこで終わるか、どこから始まっているか、あるいはその基盤がどこなのか、誰も理解できません。このバンヤンの木は、切除(detatchment、切り離すこと)という武器を使って、心を決めて切り倒されねばなりません。その後は、人は一度辿りついたら二度とは戻ってこない場所を探さねばなりません。人は、そこからすべてが始まり、誰の記憶にも無いほどの太古から拡大し続けているところのその至高の人格神に服従しなければなりません。」(BG15.3,4)

第23段落

ご自分の創造の中のすべての物事に完全に気付いていらっしゃる至高の人格神は、私たちの最善の利益のために、私たちはこの物質存在を捨て去ろうと望まねばならない、とお知らせになります。私たちは自分をすべての物質的なものから切り離さねばなりません。悪い状況の中で最善を図るため、私たちの物質的な存在は、クリシュナのメッセージと主の献身者および主の御名と常に関わることで、100%霊化されるべきです。したがって、普通は物質的な物事に関わっているすべての人が、このクリシュナ意識運動から最高の利益を得ることができます。すべての霊的な努力は、多かれ少なかれ、物質的な汚染に染められています。しかし、純粋な献身奉仕はあらゆる汚染を超越します。私たちは人工的に物質主義の原則を受け入れる必要はありません。私たちは単に、至高主、至高の人格神シュリー・クリシュナの蓮の御足に心を定める必要があるだけです。
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by ammolitering4 | 2009-06-12 02:48 | 「クリシュナ意識への上昇」 | Comments(0)

クリシュナ意識への上昇

第7段落より

主クリシュナは、さらに物質想像の多くの偉大な顕現を列挙し、それぞれがいかにご自分の代理であるかを説明なさいました。主は次のようにおっしゃって、これがの顕現の長く詳細な報告を結論付けられました。

(サンスクリット引用)

「しかし、アルジュナよ。これらすべての詳細な知識がなぜ必要でしょうか。私は自分のほんの小さなカケラの一つでこれらすべての宇宙に充満するし、支えているのです。」(BG10.42)

第8段落

このように、この物質世界はクリシュナの一つの完全部分の上に存在しています。もしもクリシュナがこの宇宙にお入りにならかなったなら、それは存在しえなかったのです。同様に、クリシュナの微細な小片である霊魂がこの体に入らないなら、この体は存在することができません。霊魂が去れば、体は直ちに無用になります。クリシュナが物質にお入りになるとき、物質は価値をもちます。これは微細な個々の原子にとっても偉大な宇宙にとっても真実なのです。

第9段落

クリシュナの顕現はとても偉大なので、私たちは主の快楽は私たちのよりもはるかに大きいということを知るべきです。私たちは、クリシュナがどのような種類の快楽をお好みであるかを理解しようとしなければなりません。誰もが神は偉大であると知っています。そして私たちはこのことから、主の快楽もまた偉大であると結論付けることができます。このことに関して、スヴァルーパ・ダーモダラ・ゴスヴァーミーは、ラーダーとクリシュナの恋愛は普通の物質的な出来事にように見えるかもしれないけれど実際はそうではない、という節を書かれました。ラーダーラーニーはクリシュナの喜びの潜在力です。ヴェダーンタ・スートラの中に、完全真理はいつも喜びの潜在力を楽しんでいる、と書かれています。私たちが喜びを欲するとき、私たちはそれを一人で得ることはできません。友人や家族がいるときに喜びを感じます。私は部屋で一人で話すかもしれませんが、もしも私が部屋で他の人たちの前で話すなら、喜びは増します。喜びとは、他者が存在しなければならないことを意味します。したがって、いつも楽しんでいらっしゃる完全真理であるクリシュナは、多くの他者をお持ちなのです。

第10段落

私たちはクリシュナの欠かすべからざる小片であり、クリシュナに喜びを与えるために作られました。主たる喜びの潜在力はラーダーラーニーであり、そのためラーダー・クリシュナはいつも一緒です。物質エネルギーは外部の潜在力であるマーヤーによって管理されている一方で、霊的世界は内部の潜在力であるラーダーラーニーによって管理されています。私たちはしばしばラーダーラーニーに祈ります。なぜなら、彼女はクリシュナの喜びの潜在力だからです。「クリシュナ」という語自体が「すべてを魅了する」という意味ですが、ラーダーラーニーはとても素晴らしいので、彼女はクリシュナを魅了します。もしもクリシュナがいつも誰もにとって魅力的で、ラーダーラーニーがクリシュナにとって魅力的なら、どうして私たちはシュリーマティー・ラーダーラーニーの立場を想像することができるでしょう。私たちは謙虚に彼女を理解しようとし、次のように言って服従すべきです。「ラーダーラーニー、あなたはクリシュナの恋人(beloved)です。私たちは尊敬をもってあなたに服従します。」ラーダーラーニーはクリシュナにとってとても愛しい方なので、もしも私たちがラーダーラーニーの恵みを通してクリシュナに近づけば、私たちは簡単に主を得る(主に辿り着く)ことができます。もしもラーダーラーニーが献身者を薦めれば、それがどんなに愚かな者であってもクリシュナは直ちに受け入れます。結果的に、ヴリンダーヴァンでは献身者たちはクリシュナの名前よりもラーダーラーニーの名前の方をより頻繁に唱えています。インド中どこに行っても、献身者が「ジャヤ・ラーデー」と言っているのが聞こえます。私たちはラーダーラーニーを崇拝することにもっと興味を持つべきです。私たちがどんなに堕落していても、もしも何らかの方法で彼女を喜ばせることができれば、私たちはとても簡単にクリシュナを理解することができるからです。もしも私たちが推察の過程を通してクリシュナを理解しようとすれば、私たちは何度も生まれ変わって推察しなければなりません。しかし、もしも私たちが献身奉仕を習慣づけて単にラーダーラーニーを喜ばせようとするなら、そうすればクリシュナはとても簡単に理解できます。ラーダーラーニーはとても偉大な献身者なので、彼女はクリシュナに命令することができます。

第11段落

クリシュナでさえラーダーラーニーの性質を理解することができません。彼女はとても偉大なので、主は理解することに失敗します。ラーダーラーニーを理解するために、クリシュナは実際に彼女の立場を受け入れました。クリシュナはこう考えました。「私はすべてにおいて完全で完璧なのに、それでもラーダーラーニーを理解できない。それはなぜだろうか。」これがクリシュナにラーダーラーニーの性癖を受け入れることを必要とさせました。これがクリシュナの主チャイタンニャ・マハープラブとしての顕現にあたります。主チャイタンニャ・マハープラブはクリシュナご自身ですが、主はラーダーラーニーの性癖を受け入れたクリシュナです。ラーダーラーニーは、いつもクリシュナからの別離を感じています。同様に、ラーダーラーニーの立場にあって、主チャイタンニャはいつもその別離を感じていました。さらに、主チャイタンニャの教えに従う者は、会うことではなく、別離の感情を経験して味わうべきです。

第12段落

最も完璧にして高度に発達した存在である主チャイタンニャ・マハープラブの弟子であるゴスヴァーミーたちは、決して「私はクリシュナを見たことがある(私はクリシュナに会った)」とは言いませんでした。その代わり、彼らは絶え間なく「ラーダーラーニーはどこだ?ラリターとヴィサカーと、ヴリンダーヴァンの他の(高貴な生まれの)少女たちはどこだ?」と呼んでいました。(cried,泣くように呼び求める)。ヴリンダーヴァンに住んでいたとき、至高神への愛が十分に育った状態でも、ゴスヴァーミーたちは「ラーダーラーニー、あなたはどこにいらっしゃるのですか。あなたの御友人たちはどこにいらっしゃるのですか。おお、ナンダ・マハーラージャの息子よ、あなたはどこにいらっしゃるのですか。あなたがたは皆、どこにおいでになるのですか」と呼んでいました。このようにして彼らはクリシュナを探しました。そして彼らは一度も「昨晩、私はクリシュナがゴピーたちと踊っているのを見ました」とは言いませんでした。発達した献身者は、そのような主張はしません。物事を安価に受け取る者たちがそうするのです。一部の人々は、ラーダーとクリシュナはとても安いので夜毎見ることができると考えますが、それはゴスヴァーミーたちの教えではありません。彼らはいつもクリシュナを探してこう呼んでいました。「あなたがたはどこにいらっしゃいますか?ラーダーラーニー、あなたはどこにおいでになりますか?クリシュナ、あなたはどこにいらっしゃるのですか?ゴヴァルダーナの丘のそばですか?ヤムナー川の土手の上ですか?」このようにして、ヴリンダーヴァンの地域全体をゴスヴァーミーたちは狂人のようにラーダーとクリシュナを探し求めて呼んでいました。
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by ammolitering4 | 2009-06-11 13:16 | 「クリシュナ意識への上昇」 | Comments(2)

日記サイト

日記サイト
こんにちは。実は私は毎日日記も書いています。ごく少数の友人たちに直接渡しているだけで、何の宣伝もするつもりはないのですが、こちらに来てくださる皆さんにはお渡ししようと思います。正直言って、全然献身的ではない毎日です。仕事をして、絵を描いて、翻訳をして、たまに家事をして、、、という、無責任な日常を一日の終わりに振り返って書き留めています。

あと、お暇なときがありましたら、こちらもご覧ください。2005年にNASAが行った彗星破壊実験に関する資料を集めています。神がお作りになった天体を意図的に破壊する行為の背後にある精神状態は、無明そのものであるように思えます。プラブパーダのお言葉やマイケル・クレモ先生のコメントもあります。
彗星資料

こうしてみると、毎日やたらと何時間もコンピューターに向かっているような気がします。。。そんな日ばかりでもないのですけれど。。。
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by ammolitering4 | 2009-06-10 14:23 | その他 | Comments(2)

第5章 クリシュナのエネルギーを知る

第1段落

クリシュナにとっては、物質エネルギーと霊的なエネルギーの違いはありません。主にとっては全く同じです。時として、電気は冷やすという目的のために働き、別のときは暖めるという目的のために働きます。しかし、発電所で作られるエネルギーはどれも同じです。同様に、クリシュナのエネルギーはどれも霊的ですが、異なるふうに活動しています。町には福祉の部署と警察の部署があるかもしれません。政府にとっては、どちらも同じです。どちらも政府に従属する部分だからです。しかし、個人にとってはそれらは異なるサービスを提供します。物質エネルギーは生命体にとってはそれほど好ましくない方法で働いているかもしれませんが、それはクリシュナが物質エネルギーを好まれないということを意味するのではありません。霊的なエネルギーと同じくらい大切ですが、それは制約された魂を罰するために働いています。警察が犯罪者を罰するために働いているようなものです。ブラーマ・サムヒターにおいて、クリシュナのエネルギーはいつも霊的であるけれど、異なる活動の場において異なるふうに活動している、と確認されています。クリシュナによっては、エネルギー間の違いはありませんが、私たちは自分たちの理解のために区別をつけて、時々はエネルギーは物質的に働き、時々は霊的に働く、と言います。私たちは、エネルギーが熱いとか冷たいとか、良いとか悪いとか、心地よいとか心地よくないとか考えますが、事実はエネルギーは同じなのです。

第2段落

クリシュナは劣性ではないので、劣性のエネルギーを出すことはできません。主はいつも優性で霊的であり、したがって主のエネルギーはいつも霊的です。スバードラーはクリシュナの妹であり、彼女から物質エネルギーの人格体であるドゥルガーの化身が生じます。スバードラーは霊的世界にいて、主のエネルギーとして永遠にクリシュナと関係があります。しかし、ドゥルガーがこの物質世界で活動するとき、彼女が劣性であると考えられるわけではありません。バガヴァッド・ギーターにおいても、ブラーマ・サムヒターにおいても、ドゥルガーあるいはマーヤーはクリシュナの指揮のもとで行動している、と述べられています。それではどうして彼女は劣性だと考えられるでしょう。犯罪者たちは警察は政府の中の劣った部署だと考えるかもしれませんが、法に従う市民はそのようには考えません。それは単に特定のあり方で機能しているのです。同様に、物質エネルギーはクリシュナの指揮の下にある生命体を惑わせるように働かねばなりません。

第3段落

私たちは物質エネルギーの中の生命体であり、物質自然を支配したいと望んだので、この立場にあります。クリシュナは私たちに設備を与え、「いいでしょう、やってみるが良いでしょう。しかし、あなたたちは成功することはできません」とおっしゃいました。クリシュナの至高の指揮のもとで自然の法則がどのように働いているかを知らないでいる限り、私たちは自分の活動において敗北を繰り返すでしょう。私たちがクリシュナを完全に理解するとき、私たちは自動的に自然の法則を知り、それがどのように働いているかを知るでしょう。ヴァイシュナヴァは物質自然の法則の背景について考えます。私たちがクリシュナを完全に理解するとき、実際には劣性やエネルギーや物質エネルギーなどはなく、すべては霊的である、ということを私たちは理解するでしょう。高い次元においては、私たちの経験していることのすべては至高主の異なるエネルギーとその反応である、ということを、私たちは理解することができます。私たちがクリシュナを完璧に理解するとき、そのとき、優性と劣性というエネルギーの違いは消え去ります。クリシュナへの奉仕のために働いているものは、すべて優性エネルギーです。より高い意味では、すべてがクリシュナに仕えており、非常に進歩した者はこれを理解します。

第4段落

主が様々なエネルギーをお持ちであることはヴェーダ文献で確認されています。それでも至高主は個人的にすることは何もありません。これはどういうことでしょうか。主は富を得ようとしてあくせくする必要はありません。すべての富は主のものだからです。知識を求める必要もありません。すべての知識は主のものであるからです。力を求める必要もありません。すべての力は主のものであるからです。美しさや名声や放棄を求める必要もありません。それらはすべて完全に主のものであるからです。主が直接に宇宙の出来事を管理なさることもありません。主がご自分のお住まいに留まっておられる間に物事を運行する多くの助手をお持ちだからです。これはシュリー・イソパニシャッドに確認されています。

(サンスクリット引用)

「至高の人格神は、ご自分のお住まいに留まっておられるにも関わらず、心より速く、他の誰よりも速く走れます。強力な半神たちも主に近づけません。一つのところにいらっしゃるにも関わらず、空気と雨を供給する者を統御しておられます。主は素晴らしさにおいて何者にも優ります。」(シュリー・イソパニシャッド、マントラ4)

第5段落

このように、クリシュナにはするべき仕事はありません。至高の人格神として、主は単にゴピーたち(牛飼いの娘たち)や主の恋人(consort、通常は妃を指す)ラーダーラーニーと楽しく過ごすだけです。クリシュナは、クリシュナとしては悪魔たちを殺すこともなさいません。クリシュナが悪魔たちを殺すとき、主は本来のクリシュナではなく、ヴァースデヴァ・クリシュナとして知られます。クリシュナがご自分を拡大なさるとき、主はまずバララーマとして、さらにサンカルサナ、プラデュムナ、アニルッダ、そしてヴァースデヴァとして拡大します。ヴァースデヴァとして、主はマスラーとドゥヴァーラカーにて活動なさいますが、本来のクリシュナとしては、主はヴリンダーヴァンに留まられます。これはややこしく見えるかもしれません。ベンガルの最も偉大な小説家の一人でさえ、ヴリンダーヴァンのクリシュナとドゥヴァーラカーのクリシュナとマスラーのクリシュナは三人の異なる人物であると誤解していました。しかし、もし私たちがクリシュナの拡張体の性質を知るなら、理解するのは難しいことではありません。クリシュナは同じであり、主には比肩するものなく、しかし主はご自分を無数の形に拡大することができます。これはすべて主の楽しみという目的のためです。

第6段落

バガヴァッド・ギーターの10章において、クリシュナはアルジュナに次のようにご自分の異なる顕現についてご説明なさいます。

(サンスクリット引用)

「馬の中では、不滅性(immortality)の霊薬から生まれ、海から上がってきたウッチャイフスラヴァーが私であると知りなさい。王者のような象の中では、私はアイラーヴァタです。人の中では、私は独裁君主です。武器の中では、私は雷霆(「らいてい」、稲妻の矢、サンダーボルト)です。牛の中では、豊富な乳を与えるカーマドゥークです。子を作るものの中では、私は愛の神カンダルパです。そして大蛇の中では私は首領のヴァースキです。」(BG10-27.28)
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by ammolitering4 | 2009-06-07 02:20 | 「クリシュナ意識への上昇」 | Comments(8)

クリシュナ意識への上昇 第4章 24段落から

第24段落

これが祈りの基準であるべきです。私たちは、ただ単にクリシュナの蓮の御足のもとに原子の一つとして置いてもらって主に奉仕ができることを望むべきです。皆が何らかの利益を求めて神に祈っています。たとえ私たちが「お金をください。助けてください。いい家を、いい妻を、いい食べ物をください」と祈っても、それも良いことです。しかし、それは主チャイタンニャ・マハープラブの祈りの基準ではありません。私たちの唯一の祈りは、主が私たちに何度生まれ川っても奉仕をさせてくださることです。私たちの祈りは、次のようであるべきです。「親愛なる主よ。あなたはとても偉大でいらっしゃるので、私はあなたにお仕えしたいと望みます。私はずっと多くの悪人たちに仕えてきましたが、満足していません。今、私はあなたのところに来ました。どうぞ私に奉仕をさせてください。」これが祈りの最後の言葉です。一部の人々は、神に祈るときに主の存在を感じないと不満を言います。私たちは、これは自分の能力のなさが原因であって、主のせいではないことを知るべきです。

存在の形には二つあります。物理的な形と振動の形です。物理的な形は一時的ですが、振動の形は永遠です。私たちがバガヴァッド・ギーターの中のクリシュナの教えの振動を味わうとき、あるいはハレ・クリシュナを’唱えるとき、これらの振動によって主は直ちに存在なさるということを私たちは知るべきです。主は絶対であり、そのため主の振動は主の物理的な存在と全く同じく大切なのです。私たちがクリシュナ、あるいは霊的指導者から離れているのを感じるとき、私たちはただ、彼らの教えの言葉を思い出そうとするべきです。そうすれば、私たちはもはや離れているとは感じません。クリシュナや霊的指導者とのそのような関わりは、振動による関わりであるべきであり、物理的な存在によるべきではありません。それが本当の関わりです。私たちは見ることに大変な重きを置きますが、クリシュナがこの地上においでになったとき、非常に多くの人が主を見ても主が神であると気がつきませんでした。それでは、見ることの利点は何でしょうか。クリシュナを見ても、私たちは主を理解できません。しかし、主の教えを注意深く聞くことによって、私たちは理解の水準に至ることができます。私たちは、音の振動によって直ちにクリシュナに触れることができます。したがって、私たちはクリシュナと霊的指導者の音の振動にもっと重きを置くべきです。そうすれば私たちは幸せに感じ、離れていると感じないでしょう。

第25段落

シュリマッド・バーガヴァタムから、私たちは、クリシュナがこの世界を去っていかれたときにアルジュナがひどく悲しんだけれど、バガヴァッド・ギーターの教えを思い出し始めたら慰められた、ということを理解します。アルジュナはずっとクリシュナの友人でした。ですから、クリシュナが御自分のお住まいにお帰りになったとき、アルジュナは非常に悲しみました。しかし、単に主の教えを思い出しただけで、彼は離別の痛みから救われました。このように、私たちが離別を感じるときはいつでも、教えを思い出すのが一番です。バガヴァッド・ギーターの教えは、彼の幸せのために、そしてすべての人の幸せのためにアルジュナに述べ伝えられました。これはクリシュナによって10章の初めに示されています。

(サンスクリット引用)

「おお、強大なるアルジュナよ。もういちど私の至高の言葉を聞きなさい。私はこれをあなたの利益のために伝えます。それはあなたに大きな喜びをもたらすでしょう。」(BG10.1)

第26段落

主クリシュナの言葉を聞いてそれらに注意深く従うことにより、私たちは世界の平和を得るだけでなく、至高の平和(パラーム・サーンティム)をも得るでしょう。必要とされるのは、私たちがクリシュナの蓮の御足に救いを求め、主の栄光を唱えることと、このクリシュナ意識運動を世界中のすべての町と村に広めることによって主に奉仕することだけです。クリシュナは、そのような服従によって自動的にへ宇和と永遠の生命が得られると約束していらっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、バーラタの末裔よ。主に全面的に服従しなさい。そうすれば、主の恵みによってあなたは超越的な平和と永遠の住処を持つことができます。」(BG18.62)

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やっと第4段落が終わりました。あとは第5段章をタイプするのと、第6章を翻訳・タイプするのが残っています。肩がこるので、休憩しながらやってます。achaさん、お元気ですか。
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by ammolitering4 | 2009-06-06 09:53 | 「クリシュナ意識への上昇」 | Comments(0)