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クリシュナ意識への上昇 第4章12段落途中から

第12段落途中から

クリシュナはプータナーに大変親切でいらしたので、彼女が乳を与えることを湯rしました。しかし、彼女の乳房を含んだとき、主は毒だけでなく彼女の命をも飲み込まれました。プータナーは死んで地に倒れ、直ちに本来の悪魔的な姿に変わりました。つまり、これが神なのです。母の膝の上にあって、主は神でいらっしゃいます。主は瞑想や苦行や禁欲や規律や規制に従うことで神になる必要はありません。主は本質的に(substantially、実質的に、大いに)、かつ永遠に神であり、主は何もすることがありません。もしも誰かががあれやこれやの神像を崇拝したり瞑想したりして神になれると主張するなら、私たちは直ちにその人は神(GOD)ではなく犬(DOG)であると理解するべきです。神を理解するうえで、私たちはヴェーダの結論だけを受け入れるように注意を払わなければなりません。(サンスクリット引用)「主には何もすることがない。」なぜ神が神になるために何かをしなければならないでしょう。もしも私たちが金を作り出すなら、それは人工的な金です。本物の金ではありません。金は自然なものであり、同様に神も自然なものです。子供時代の娯楽において、母の膝の上で、主は神であられます。友人の男の子たちと遊んでいらっしゃるとき、主は神でいらっしゃいます。踊っておいでになるとき、主は神でおられます。クルクセトラで戦われているとき、主は神でおわします。妃たちと結婚なさったとき、主は神でおいでになります。そして、お話しになっているとき、主は神です。神を理解するのに難しいことはありません。私たちがしなければならないのは、クリシュナのおっしゃることに耳を傾けることだけです。

第13段落

バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナはアルジュナにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「私はすべてのものの源です。私から創造全体が流れ出ます。これを知り、賢い者は心のすべてをもって私を崇拝します。」(BG10.8)

第14段落

これは、シュリー・クリシュナが主シヴァの源泉であって、ヴィシュヌとブラーマーと、もちろん他の半神たちと他の生物たちの源であるということを意味します。主はさらにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「この制約された世界にいる生命体は私の微細な一部であり、彼らは永遠です。しかし、制約された生活のために彼らは心を含む六つの感覚に大変な苦労をしています。」(BG15.7)

第15段落

ブラーマ・サムヒターの中で、主ブラーマーは、もしも私たちが主を探しているなら、ここに神がおいでになる、と説明なさいます。

(サンスクリット引用)

「私は太古の主ゴヴィンダを崇拝します。主はシャーマスンダラ、クリシュナご自身であり、計り知れない無数の特質をお持ちです。純粋な献身者は、愛の膏薬を塗られた献身の目で、心の奥底に主を見ます。」(Bs 5.38)

第16段落

ヴェーダ文献の中には、あちこちに同様の描写があります。しかし、クリシュナが至高神であることは12人の基準となるアーチャーリャたち(ブラーマー、ナーラダ、シヴァ、ビーシュマ、クマーラたち、カピラ、マヌなど)およびヴャーサ、デヴァラその他多くの献身者たちによって確認されているにも関わらず、悪人たちや悪魔たちはとても頑固なので、主を受け入れることを拒否します。主チャイタンニャ・マハープラブもまた、クリシュナが至高神であると確認しています。また、シュリマッド・バーガヴァタムには神のすべての化身が列記されており、最後には、この表に現れるクリシュナという名前が至高の人格神を指しており、他のすべての名前は顕現あるいは化身を表すのである、と結論づけられています。(サンスクリット引用)他のすべての神の名前は、神の一部であるか、一部のさらにその一部です。部分はアムサと呼ばれ、部分の部分はカラーと夜bれます。生命体として、私たちはアムサです。しかし、私たちはとても微細なアムサです。他のすべてはアムサかカラーですが、クリシュナはバーガヴァーン・スヴァヤム、至高の人格神です。

第17段落

私たちの祈りは、他の誰でもなく、至高の人格神に向けられるべきです。したがって、私たちはブラーマーと共に祈ります。

(サンスクリット引用)

「私は太古の主ゴヴィンダ、最初の先祖を崇拝します。主は牛の世話をなさっており、すべての望みを叶え、霊的な宝石で建てられたお住まいにおいて、無数の「望みを叶える木」に囲まれ、いつも大いなる崇敬と愛情をもって何百人何千人ものラクシュミー、あるいはゴピーたちが仕えています。」(Bs5.29)

第18段落

ここでクリシュナは最初の人格(アーディスルシャム)と呼ばれています。私たちは皆、人格(person)です。私たちの父は人格でした。ですから私たちも人格です。もしも私たちが自分の父の父へと遡れば、その人もまた人格であったことが分かります。そして、その人の父もまた人格であり、このようにして、この宇宙で初めて作られた人格である主ブラーマーに至るまで、皆が人格であったことが分かります。さらに、私たちは主ブラーマーの父ヴィシュヌもまた人格であることを知ります。皆が人格であり、クリシュナは至高の人格です。
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by ammolitering4 | 2009-05-30 12:13 | 「クリシュナ意識への上昇」 | Comments(0)

クリシュナ意識への上昇 第4章 4段落の途中から

第4段落 途中から

このことについて、ベンガル語の諺があります。「サクニ・サーペ・ゴルマラナ。」サクニという語はハゲタカを意味します。ハゲタカは動物の死体、特に牛の死体を好みます。時として、ハゲタカが何日も死体にありつけないかもしれません。したがって、この諺は「ハゲタカは牛が死ぬようにと呪いをかける。」と語っています。しかしこれは、牛は単にハゲタカを喜ばせるために死ぬ、ということを意味するのではありません。同様に、無神論者のハゲタカたちは、自分たちが「さあ、神は死んだ。これで何でも好きなことができる」と考えて喜ぶことができるように、神に死んで欲しいのです。

第5段落

それでは私たちは、統御者が存在するということをしっかりと知らねばなりません。それが知識の始まりです。なぜ私たちはこの真実を否定すべきでしょうか。すべての活動の場において、私たちは何らかの限られた統御者がいるのを見ます。それでは、どうして私たちはこの創造における無限の統御者の存在を否定できるでしょうか。したがって、主チャイタンニャ・マハープラブが特にこのジャガディーサ、宇宙の主という言葉をお使いになるのは、理由のないことではないのです。主はこの用語を作り上げられたのではありません。多くの異なるヴェーダのマントラの中にそれは見受けられるからです。例えば;

(サンスクリット引用)

「おお、わが主よ、あなたの手はとても美しく、ハスのようです。しかし、その長い爪であなたは毒蜂(悪魔のような者、という比喩。wasp)ヒラニャカスィプを引き裂かれました。宇宙の主よ、私はあなたに謹んで服従します。」

第6段落

ヒラニャカスィプは神の存在を否定した無神論者でしたが、神は半分が人で半分がライオンの化身、主ヌリスィムハデヴァとしておいでになり、彼を殺しました。したがって、主は宇宙とすべての生命体の統御者として称えられます。(ジャヤ・ジャガディーサ・ハレ)

第7段落

もう一つ、別の祈りがあります。(サンスクリット引用)「おお、宇宙の主よ、どうぞ私にお姿を見せてください。」これらすべての祈りにおいて、そして他の多くの祈りにおいて、宇宙の至高の統御者が認められています。皆が至高の統御者になろうとしていますが、それは個々の、共同体の、あるいは国家単位の努力では不可能です。皆が至高の存在になろうとしているので、世界には大いなる競争があります。しかし、世界は誰も至高にはなれないように創られています。どのような位置につこうとも、私たちは自分の下にも誰かがいて、自分の上にも誰かがいることに気がつくでしょう。どの個人も「私は至高だ。私の上に立つ者はない」とは言えません。また、誰も「私は最低だ。私より下にいる者はない」とも言えません。自分が一番低いと思ったとたんに、私たちは自分よりもっと低い者がいることに気がつくでしょう。そして、自分が至高だと思ったとたんに、私たちは自分より上の者がいることに気がつくでしょう。これが私たちの位置づけです。

第8段落

しかし、神の位置づけはこのようなものではありません。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは自ら御自分の優位性について次のように確認しておられます。

(サンスクリット引用)

「おお、富を征服する者(アルジュナ)よ。私に優る真実はありません。すべてが私に依り従います。真珠が糸に繋がっているように。」(BG7.7)

第9段落

神はアサマウルダー、すなわち、主と同等の者や主に優る者は存在しません。もしも私たちが上に立つ者のない者を見つけるなら、私たちはその者を神として受け入れることができます。神は、上に立つ者がなく同等である者もない存在である、と定義できます。これがヴェーダの見方です。ウパニシャッドには(サンスクリット引用)、主に同等の者や主に優るものは見つけられない、と書いてあります。

第10段落

神のもう一つの性質は、何もすることがない、というものです。物質的な世界では、ある人が非常に重要な人物であると見なされる場合、その人はいつもすることが山ほどあります。たとえば、合衆国の大統領は国家で最高の人物だと考えられています。しかし、中央ヨーロッパや世界の他のどこかで何か騒動が起これば、彼は直ちに閣僚を集めて、その状況にどう対処すべきかと会議を開かねばなりません。つまり、彼でさえ多くのことをしなければならないのです。もしも彼が何もしなければ、彼はもはや至高の人物ではありません。しかしヴェーダ文献から私たちは神には何もすることがないということを知ります。(サンスクリット引用)クリシュナは世界でいろいろな行動をなさるかもしれませんが、それは主がそうすることを強いられているからではありません。これはバガヴァッド・ギーターに示されています。

(サンスクリット引用)

「おお、プルサーの息子よ。三つの天体系のどこにも私にあてがわれた仕事はありません。私には何も欲しいものはなく、何かを得る必要もありません。それでも私は仕事をします。」(BG3.22)

第11段落

このことに関して、おもしろい話があります。あるヨーロッパ人の紳士がカルカッタに行って、いくつかの寺院を訪ねました。女神カーリーの寺院では、神像が手に刀を持って悪魔たちの頭を切り落とし、それを首飾りにしているという恐ろしい姿をしているのを見ました。他の寺院でも、彼は神像が同様な活動をしているのを見ました。しかし、ラーダー・クリシュナ寺院に来たとき、彼は「この寺院には神様がいらっしゃいますね」と言いました。なぜそういう結論を出したのかと尋ねられたとき、彼はこう言いました。「どの寺院でも、神像は何かをしていました。しかし、ここでは神は単に楽しく笛を吹いておられます。明らかに主には何もすることがないのです。」これは実に知的な結論です。それはヴェーダの結論です。

第12段落

昨今は、瞑想によって神になりつつある、と主張するのがはやっています。これは、瞑想によって人が自分を神に変えることが可能であるということを意味します。言い換えると、神は瞑想をなさり、主は瞑想して神におなりになるのです。これは全く意味をなさないことです。神は神であり、主はいつも神であられたし、いつも神でいらっしゃるでしょう。幼児として母親のひざの上におられたときも、クリシュナは神です。瞑想も苦行も禁欲も必要とされません。魔女プータナーが赤ん坊のクリシュナに毒を盛りに来たとき、彼女は美しい若い娘としてやってきて、主の母ヤソダーに「おお、ヤソダーマイー。あなたの赤ちゃんはとても愛らしいですね。どうぞ私に赤ちゃんを抱いて乳を与えさせてください」と頼みました。ヤソダーはとても素朴な村の女だったので、「どうぞ。抱いて乳を与えてください」と言いました。プータナーは乳房に毒を塗っていました。クリシュナに乳を含ませて殺そうとしていたのです。これは悪魔的な精神です。悪魔たちは、「神は死んだ。神はいない。神は非人格だ」と言えるように、いつもクリシュナを殺そうとしています。


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今日はこれで終わります。また明日。。。あるいは明後日か。。。のんびり行きましょう。
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by ammolitering4 | 2009-05-28 13:48 | 「クリシュナ意識への上昇」 | Comments(0)

クリシュナ意識への上昇 第4章

第4章 ありのままのクリシュナを知る

第1段落

至高の人格神に祈りを捧げるには、高度な資格は何ら必要ありません。私たちの社会的な地位や学識の高さがどうであれ、祈りを捧げることができます。高い教養があったり、学識があったりする必要はありません。詩的だったり修辞学的だったり、比喩的だったりする、注意深く選ばれた素敵な言葉で祈りを飾る必要もありません。このようなものがあれば、それは素晴らしいことですが、必要ではありません。私たちは単に自分の気持ちを表せばよいのです。しかし、そうすることができるようにするには、私たちは自分の位置づけに気付いていなければなりません。いったん自分の位置づけに気付くと、私たちの気持ちは誠実に、かつ自動的に表されるようになります。

第2段落

私たちの位置づけとは何でしょうか。これは主チャイタンニャによって教えられました。主はご自分の祈りの中で、どうやって祈るかを私たちに教えていらっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「おお、万能なる父よ。私は富を貯えたいとも、美しい女性を楽しみたいとも、弟子が欲しいとも思いません。私が望む唯一のものは、何度生まれ変わってもあなたへの献身奉仕をさせていただきたい、ということです。」(スィクシャーシュタカム、4)

第3段落

この祈りにおいて、ジャガディーサという語は「宇宙の主」を意味します。ジャガッドは宇宙を意味し、イーサは主を意味します。私たちがヒンズー教徒であれイスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ何であれ、私たちはこの宇宙の志向の統御者が存在することを認めねばなりません。これは神への信仰がある者は誰も否定することができません。私たちの信念は、私たちの至高の父はジャガディーサ、すなわち宇宙全体の主である、ということであるべきです。主ジャガディーサだけが統御なさいます。他の者はすべて統御されます。しかし、無神論者はこの関係を好みません。彼らは自分たちが統御していると考えたいからです。しかし、本当はそうではありません。物質世界の中のすべての者は、物質自然の三つの相ーーー徳、熱情、無明ーーーに影響されます。しかし、至高主はこれらの相の上におられます。

(サンスクリット引用)

「三つの相(徳、熱情、無明)に惑わされて、世界全体がそれらの上にあって尽きることのない私を知りません。」(BG7.13)

第4段落

ブラーマ・サムヒターもまた、至高存在ジャガディサについて私たちに情報を与えています。それにおいて、主ブラーマーは至高の統御者は主クリシュナご自身であるとおっしゃいます。(イースヴァラー・パラマー・クリシュナー)イースヴァラーという語は統御者を意味し、パラマーは至高を意味します。私たちは皆、ある限られた範囲における統御者です。もしも何も統御する対象がなければ、時として私たちは犬や猫を飼い、「かわいい犬よ、ここにおいで」と言います。このようにして私たちは「私は統御者だ」と考えることがえきます。しかし、時として立場が逆転します。犬が主人を統御するのです。これは実際には誰も統御者ではなく、皆が統御されているからです。不幸にして、私たちはこの状況を忘れがちです。そして、この忘却がマーヤーと呼ばれます。私たちは、この宇宙を統御する者を受け入れるのを拒否します。なぜなら、もし私たちが統御者を受け入れるなら、ちょうど政府を受け入れたときに違法行為の責任を負わねばならないように、私たちは自分の罪深い行いの責任を負わねばならないからです。

私たちの立場は、自分の罪深い行いを続けたいというものです。そのため、私たちは統御者の存在を否定します。これが無神論(godlessness)の基本原則です。現在は「神は死んだ」という宣伝が広まっていますが、これは人々が制約なく悪人でいつづけたいからです。これが神の存在を否定することの底にある基本的な理念です。しかし、私たちがどれだけ主の存在を否定しようとも、神は死にません。

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中途半端ですが、今日はここまでにします。読んでくださってありがとうございます。最近はバンクーバーもやっと初夏の天気になってきました。私は毎日仕事です。某有名コーヒーショップ、スター**ックスで皆様にカフェインを提供しております。プラブパーダさま、ごめんなさい。
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by ammolitering4 | 2009-05-27 08:46 | 「クリシュナ意識への上昇」 | Comments(2)

クリシュナ意識への上昇 第3章15段落より

第15段落

現在の社会の状況では、私たちはこれらの四つの階層の中に存在していますが、協調がありません。誰もが不満を抱えています。今日では、資本家階級と労働者階級の間にひどい反目があります。両者のあいだに妥協がないからです。摩擦しかありません。階層内に於けるこれらすべての反目は、クリシュナ意識の欠落が原因です。実に、クリシュナ意識がなければ協調の可能性さえありません。クリシュナ意識は、人間社会のすべての側面(構成員)を調和させるために絶対必要なのです。私たちがどの階層に属していようと、もしも私たちがクリシュナ意識で協調すれば世界に平和があるでしょう。

第16段落

このように、クリシュナ意識は社会のすべての階層にとって最も必要なものです。バガヴァッド・ギーターのすべての章とすべての結論はクリシュナ意識を指しています。バガヴァッド・ギーターを語っておられるシュリー・クリシュナは、いつも五字分の人格的な存在への献身を強調なさいます。

(サンスクリット引用)

「いつも私のことを考え、私の献身者になりなさい。私を崇拝し、私に従いなさい(臣従の礼を捧げなさい)。そうすればあなたは間違いなく私のところに来るでしょう。私はあなたにこのことを約束します。あなたは私のとても愛しい友だからです。」(BG18.65)

第17段落

バガヴァッド・ギーター全体を通して、マームという語が強調されています。マームは「私に」、すなわちクリシュナに、ということを意味します。しかし、このマームを「皆」を意味すると解釈する不信心者がたくさんいます。私が「私に一杯の水を持ってきてください」と言うとき、それは私があなたにすべての人のところに一杯の水を持って行って欲しいのだということを意味するでしょうか。独立性は存在しますが、彼らは言葉を曲解することによって「私」を「皆」と解釈します。結果として、クリシュナが「私」と言うとき、不信心者はこの「私」を自分自身と見なします。これは甚だしい誤解釈です。バガヴァッド・ギーターは世界中で非常に人気がありますが、世俗の学者たちによるこの誤解釈によって、それは正しく理解されていません。

第18段落

バガヴァッド・ギーターは、このチャートゥル・ヴァルニャムの制度はクリシュナによって確立されたけれど、クリシュナご自身はこの制度の外にある、と明確に説明しています。化身としておいでになるとき、クリシュナはブラーマナや他のどの階層にも属することなくいらっしゃいます。クリシュナがいらっしゃったとき、主はデヴァキーとヴァスデヴァの息子としておいでになりました。ヴァスデヴァは王族に属していたので、したがってクシャトリヤでした。そのためクリシュナはクシャトリヤの役割を演じられましたが、これはクリシュナがクシャトリヤの階層に属していらしたということを意味するのではありません。クリシュナの化身は様々な生命の形をとったものが存在します。ある化身においては、主は魚として、魚の共同体の一員としてお現れになりました。しかし、これは主が魚であることを意味するのではありません。もし私たちが魚を見て、それがクリシュナの家族に属すると考えるなら、私たちは間違っています。

もちろん、他の見方をすれば、すべてはクリシュナです。しかし、クリシュナはすべてから離れていらっしゃいます。これがクリシュナの超越的な性質であり、もしも私たちがそれを理解するなら、私たちは生と死から解放されるでしょう。クリシュナは人間社会の四つの階層を設立なさいましたが、主はそのどれにも属されません。(サンスクリット引用)クリシュナはクシャトリヤの家族にお生まれになったけれど、クシャトリヤではいらっしゃらない、ということを理解すれば、私たちは本当に解放されるでしょう。もしも私たちが、クリシュナがある特定の方法で行動なさるのでーーー例えば、戦場でアルジュナに戦うように諭されたようにーーー主はその行動の反応に縛られると思うなら、私たちは間違っています。

「仕事は私を汚さない」とシュリー・クリシュナはおっしゃいます。(サンスクリット引用)結論として、私たちは、クリシュナが私たちの一員としておいでになるとき、主は実際には「私たちの一人」ではないという事実を受け入れなければなりません。主は超越的でいらっしゃるのです。この事実を私たちは、バガヴァッド・ギーターや完全にクリシュナ意識に覚醒した霊的指導者などの権威ある源から従順に探究する(submissive inquiry、知識を求めて謙虚に問うこと)ことによって学ばねばなりません。

第19段落

今日では、人間社会のすべての側面(構成員)が、自分たちの利益はこの体を維持することにあると考えています。結果的に、今日の社会は単に猫や犬や豚の社会です。ヴェーダ文献から、単にこの体を維持するためだけに一日中一生懸命働く必要はない、ということを私たちは理解することができます。私たちは感覚を満足させるという目的のために物質自然を統御しようとして非常に熱心に働いています。クリシュナがすべてのものの根源であると理解できる者は、クリシュナが至高の統御者である(イシュヴァラー・パラマー・クリシュナー)の意味を理解することができます。宇宙には多くのイシュヴァラ、統御者がいますが、クリシュナがそれらすべての中の至高の統御者です。クリシュナ意識は、私たちにこの知識を与えます。それなくしては、私たちは自分の本当の利益を知らないままでいることになります。

第20段落

現代の社会は、世界中に本当の霊的な知識を述べ伝えることのできる学識ある人々、すなわちブラーマナを切迫して必要としています。それは単に自然を侵略するためだけに懸命に働いている社会にとって、絶対的に必要なものです。もしも人々が持てる限りの知識と判断力をもってこのクリシュナ意識運動を科学的かつ哲学的に理解しようとするなら、そして協力しようとするなら、世界中に平和がもたらされるでしょう。私たちは単にハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ。と唱え、前述の規制的な原則に従うだけでいいのです。規制的な原則に従うことによって、私たちは罪深い生活の四つの大きな柱を避けられます。ハレ・クリシュナ・マントラを唱えることで、私たちは常に神と関わることができます。そうすれば、すべての階層の人々のあいだに平和があるでしょう。
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by ammolitering4 | 2009-05-27 06:26 | 「クリシュナ意識への上昇」 | Comments(0)

クリシュナ意識への上昇 第3章13段落より

第13段落

クリシュナに奉仕をすることで物質自然を超越するとき、私たちの位置づけはどうなるでしょうか。私たちはゼロになるのでしょうか。いくつかの哲学は、物質生命から解放された後、すなわちこの物質的な体のニルヴァーナの後、私たちはゼロ、無になると主張します。これは危険な理論です。本質的に生命体は無にはひきつけられません。病気があって様々な症状に苦しんでいても、もし医者が来て「殺して苦しみを終わらせてあげましょう」と言えば、私たちは直ちに「いいえ、いいえ!病気で苦しむほうがマシです」と言います。私たちは、単に苦しみを終わらせるために殺されたくはありません。このように、物質の生命の後には無があるという理論は、まったく魅力的ではありません。事実でもありません。私たちはサック・スィッド・アーナンダ・ヴィグラハ、永遠で喜びに満ちて知識に溢れていて、至高存在の欠かすべからざる小片です。至高主はサック・スィッド・アーナンダ・ヴィグラハであり、私たちは質的には主と同一です。一滴の海水は、とても小さいとはいえ、海と同じ塩辛さをもっています。そして私たちは霊的な原子に過ぎませんが、至高の霊的全体と同じ性質を持っているのです。

無であるということは有り得ません。生命体として、私たちの霊的な性質はすべて無限の多様性の中に存在するからです。しかし、もしも物質存在に於ける苛立ち(フラストレーション)から自殺をすれば、私たちは(それで)自分の悲惨さを終わらせはしません。私たちは単に他の悲惨さを作り出します。もし人が自殺を試みて失敗すれば、あるいは何らかの方法で蘇生されれば、その人は法律によって罰せる対象となります。同様に、自然の法則は自殺を犯罪行為と見なします。私たちは本当の永遠なる喜びに満ちた人生を発見した後にだけ、この物質的な人生を終えることになっているのです。私たちは、単にフラストレーションからこの人生の悲惨さを終わらせようとするべきではありません。そうではなく、私たちは自分を霊的な人生に上昇させる活動にいそしむべきです。

第14段落

人間社会の四つの区分は、この上昇の過程を容易にするためにシュリー・クリシュナによって作られました。学生が初級クラスから上級クラスに上げられるように、労働(チャートゥル・ヴァルニャム)の区分は私たちを一番下の意識の水準からクリシュナ意識の一番上の水準まで引き上げるように作られています。この過程は協調の過程です。人間の体において、最も大切な部分は頭です。そして、腕、胴体、脚があります。頭が最も大切とはいえ、脚や他の部分をおろそかにすることはできません。同様に、人間社会の区分においても、どの一つの部分も他の部分を必要としないほど重要ではありません。これらの区分のうち、ブラーマナは学識のある階級、教師の階級と考えられます。クシャトリヤは管理と軍務の階級です。ヴァイシャは商業と農業の階級です。そしてスードラは一般労働者の階級です。正しく運営される社会には、これらすべての階級が必要とされます。もしも彼らがクリシュナ意識への進歩において協力すれば、彼らの中に葛藤はありません。

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少しずつですみません。今日はここまでです。
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by ammolitering4 | 2009-05-26 07:43 | 「クリシュナ意識への上昇」 | Comments(0)

クリシュナ意識への上昇 第3章 12段落より

第12段落

このように、クリシュナ意識の活動にいそしむ者は直ちに超越的な位置に上げられます。本質的に、私たちはは物質ではなくブラーマン(アハム・ブラーマースミ)です。サンカラーチャーリャの哲学は、主に「私たちは自分がこの物質自然の産物であると考えるべきではない」という原則に基づいています。何らかの不幸な出来事によって、私たちは物質自然と関わることになったのです。本当は私たちの性質はブラーマンのそれであり、その性質が呼び覚まされなければなりません。この物質的な人生は病的な状態です。ブラーマンにあるとき、私たちは健康です。その健康的なブラーマンの状態は、私たちが100%クリシュナ意識になれば直ちに得られます。

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もうちょっと続けようかと思いましたが、やっぱり今日はこれまで。続きはまた後ほど。。。
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by ammolitering4 | 2009-05-25 13:35 | 「クリシュナ意識への上昇」 | Comments(0)

クリシュナ意識への上昇 第3章 第6段落より

第6段落

異なる種類の体が存在し、それぞれに応じて異なる活動が存在します。犬はある種の活動を楽しみ、猫は他の活動を楽しみ、そして人間はまた別の活動を楽しみます。体の違いに応じて異なる活動があります。しかし、私たちが真実の水準に至るときは、そして自分はこの体ではないと理解するときは、そのときは私たちの活動は物質的な活動から霊的な活動へと変化します。私たちが自分は体だと思って暮らしている限り、私たちの活動は物質的です。しかし、「私はこの体には属さない。アハム・ブラーマースミ、私は霊魂だ」と理解した途端に、私たちの活動はその認識に添ったものになるでしょう。つまり、それらの活動は、物質的な、あるいは体に基づく水準によって触発されないようになります。体から離れた自分の正しい自己認識を知ることは、本当の知識です。しかし、この知識は私たちが体に基づく自己認識に執着する限りは否定されます。

第7段落

聖典には、私たちが自分を体だと思って生きている限り私たちのすべての行いは敗退する、と書いてあります。子供は無明の中に生まれます。そしてもしも彼が成長しても自分は体だと思ったままでいれば、彼は闇の中で生きます。彼の位置づけはスードラのそれです。ヴェーダ文献によって、今の時代には誰もがスードラとして生まれるということを私たちは知ります。したがって、誰もが自分の本当の自己について教育される必要があります。しかし、もしも私たちが自分の父と母による誕生に満足していれば、私たちはスードラのままでいるでしょう。私たちは清めの過程を辿ってブラーマンの(brahminical)水準に上がらねばなりません。


第8段落

前述のように、不純な生活には四つの基本的な特徴があります。不正な性生活、陶酔物を摂取すること、肉食すること、および賭け事をすることです。ヴェーダの原則によれば、結婚関係の外で性交にふけるべきではありません。したがって、人間の社会には私たちを犬や猫から区別する結婚の制度があります。私たちがヒンズー教徒であれ、イスラム教徒であれ、キリスト教徒であれ、私たちは結婚の制度を認めます。この制度の目的は不正な性交を避けることです。ヴェーダの制度によれば、陶酔物もまた、薦められません。肉食も良しとされません。人間は非暴力的であるべきだからです。私たちには十分な穀物と果物と牛乳と野菜が与えられており、かわいそうな動物を殺す必要はありません。肉を食べなければ栄養が足りないという人たちもいます。しかし、このクリシュナ意識運動の生徒たちは肉食を止めて大変健康ですが、肉を食べている人々は肉を食べているにも関わらず、いろいろな病気にかかったり不健康な状態になったりしています。賭け事もまた、薦められません。単に心を乱すだけだからです。

第9段落

つまり、これが人がブラーマナになるための浄化過程なのです。この道は誰にでも開かれています。ブラーマナは正直で純粋であり、忍耐強く、質素で、知識と神への信仰に満ちた者です。その人は自分の心と感覚を統御することもできます。現在では、ブラーマナが切迫して必要とされています。ほとんどすべての人がスードラだからです。ほとんどすべての人が、体を維持することと食べることと眠ることと性交することと身を守ること、それだけに気持ちを完全に向けています。これらはすべて動物とスードラの特徴です。

第10段落

互いに調和して機能している四つの区分がなければ、人間の社会は平和ではあり得ません。これらの四つの区分とは、ブラーマナ、クシャトリヤ、ヴァイシャ、スードラです。これらについて、クリシュナはバガヴァッド・ギーターの中で次のように述べておられます。

(サンスクリット引用)

物質自然の三つの相と、それらにあてがわれた仕事に合わせて、私は人間社会の四つの区分を作りました。そして、私はこの制度を創った者ではありますが、私は変化しないので、行為者ではありません。あなたはこのことを知るべきです。」(BG4.13)

第11段落

人間社会のこれらの四つの区分は、人工的ではなく自然なものです。物質世界ではすべてが物質自然の三つの相ーーー徳、熱情、無明ーーーの影響のもとで機能しているからです。私たちが物質世界にいる限り、すべての人を同じ枠の中に振り入れることは不可能です。皆それぞれに物質自然の相の影響のもとで動いているからです。しかし、私たちが物質の水準を超越するとき、そこには一体性があります。そのときはすべての区別が崩壊します。したがって、問うべきは「いかにして物質自然の相を超越するか」ということであり、その超越こそがクリシュナ意識のプロセスそのものなのです。クリシュナ意識に至ると、私たちは直ちに物質自然の相を超越します。

(サンスクリット引用)

「どのような状況にあっても堕落しないで完全に献身奉仕に身を捧げる者は、直ちに物質自然の相を超越し、そうしてブラーマンの水準に至ります。」(BG14.26)
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by ammolitering4 | 2009-05-25 13:29 | 「クリシュナ意識への上昇」 | Comments(0)

クリシュナ意識への上昇 第3章

第1段落

(サンスクリット引用)

「至高主はおっしゃいました。”この体は、おお、クンティーの息子よ、地表(フィールド)と呼ばれ、この体を知る者は、地表を知る者と呼ばれます。”」(BG13.2)

第2段落

至高の人格神クリシュナは、クシェトラとクシェトラジナに関する知識をアルジュナに教えておられます。クシェトラは地表、すなわち体を指し、クシェトラジナは地表を知る者、すなわち個々の魂を指します。もし土地が耕されるなら、耕す人がいなくてはなりません。そして、もしも地表に例えられるこの体が耕されるなら、それを耕すことのできる所有者がいなくてはなりません。今、私たちはこの物質的な体を持っており、それを正しく耕すことは私たちの義務です。その耕作はアカルマ、すなわち仕事と呼ばれます。ある人は私たちの土地へクワを持って耕しに来るかもしれません。あるいは、単にコーヒーやお茶を飲みにくるだけかもしれません。私たちは、耕し、そして私たちの望みに添った感覚の満足の対象を得るために、この特定の体を与えられました。この体は神からの贈り物です。神はとても親切です。そして、もしも誰かが主から何かを欲しがれば、それをお与えになります。「いいでしょう」と主はおっしゃいます。「これを受け取りなさい。」主と私たちとの関係は、ちょうど父と息子のようなものです。息子は父に何かをくれとせがむかもしれません。そして父は、彼が欲しがっているものは彼のためにはならない、と説得しようとするかもしれません。「愛しい息子よ、これに触ってはいけません。これはあなたにとって良いものではありません。」しかし、もし少年がどうしてもと言うなら、父は持たせてあげるでしょう。愛情深い父は、息子に彼が欲しがるものを与えるのです。同様に、至高の父は御自分の息子や娘たちに彼らが望むものを与えます。バガヴァッド・ギーターには、すべての種のすべての生命は主の子供たちであると述べられています。

(サンスクリット引用)

「すべての種の生命は、おお、クンティーの息子よ、この物質自然の中に宿りました。(made
possible by birth)そして私が生命を与えた父です。」(BG14.4)

第3段落

この物質世界では、母、すなわちプラクリティ、物質自然が私たちに体を供給し、至高の父がこの物質を生きた魂で孕ませます。人間だけが魂を持っていて他の生命体は持たないという誤った理論がありますが、私たちはヴェーダの権威から、草や木を含む八百万以上の種類の体があり、それらがすべて魂を持っていることを理解します。魂がなければ発達して育つことができないからです。この節において、シュリー・クリシュナは、この物質世界でまとう形のいかんに関わらず、すべての生命体は御自分の息子たちであり、彼らは息子が父と関係があるように御自分と関係がある、と主張なさいます。

第4段落

このクリシュナ意識は、特に魂の位置づけと神との関係を理解するためにあります。

(サンスクリット引用)

「おお、バーラタの末裔よ、私がまたすべての体における知る者であり、この体とその持ち主を理解することは知識と呼ばれることを、あなたは理解すべきです。それが私の意見です。」(BG13.3)

第5段落

もしも私たちがこの体について瞑想して、私たちが本当にこの体であるかどうかを調べるなら、私たちは自分はクシェトラジナ、すなわち体を知る者であって、体ではない、という結論に達するでしょう。もし私たちが自分の指を調べ、自分が指であるかどうかと考えるなら、私たちは自分は指でもなく他のどの部位でもなく、逆に指や腕や脚や頭などは「私たちの」指、腕、脚、頭などであるという結論にたどり着くでしょう。このようにして、私たちは自分がこの体ではなく体が自分に属しているのだという結論を導き出せます。したがって、私たちは「これは私の体です」といいます。不幸にして、この現代文明に生きる人々は、自分が何であるか、あるいは誰であるかを立ち止まって問いません。彼らは単に「自分はこの体である」という印象の下で、一日中、工場や事務所で一生懸命働いています。そして、もし私たちが人々に彼らは誰であるかと尋ねると、彼らは「私はヒンズー教徒です、イスラム教徒です、スウェーデン人です、アメリカ人です、キリスト教徒です」等々と答えます。これらは体のさまざまな認識、あるいは識別の違いですが、事実は、私たちはこの体ではないのです。体は単に私たちの活動の地表に過ぎません。土地を耕す人が土地ではないように、私たちも体ではないのです。
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by ammolitering4 | 2009-05-25 04:42 | 「クリシュナ意識への上昇」 | Comments(0)

プラブパーダの絵

プラブパーダの肖像画

プラブパーダの肖像画です。私のガラス絵サイトは何百枚もごちゃごちゃと入ってて、自分でもどこに何があるのか分かりません。他の人はもっと分からないだろうと思うので、がんばって探しました。どうぞご覧ください。この絵は今はハリファックスの伝道所にあります。ハリファックスというのは、カナダの東の端っこの小さな町です。お友達の修道僧ニタイさんが頑張って伝道活動をしていらっしゃいます。
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by ammolitering4 | 2009-05-20 13:41 | ハレ・クリシュナ運動 | Comments(0)

「姿を変えたハレ・クリシュナ」より

先日お話ししていた論文から、一部をご紹介しようと思います。「姿を変えたハレ・クリシュナ」という論文です。
'Hare Krishna Transformed' by E.Burke Rochford Jr. , 2007, New York University Press

本文だけで200ページ以上あるので、もちろんここで何行かで説明することはできません。でも、女性に関しては主にどういうことを述べているのか、考えてみました。プラブパーダがアメリカに渡り、霊的にすっかり迷っていたヒッピーたちを虜にしました。それですっかり汚れたヒッピーの生活から立ち直った人たちも多くいました。

霊的な進歩のためには男女が互いに惹かれあっているのは妨げになるので、男性と女性が当たり前に交じり合うアメリカ文化の人々に対して、プラブパーダは「女性と男性は火とバターのようなもの。関わることで霊的な進歩が妨げられないように、何らかの規制が必要だ」と考えておられました。(P.55)

プラブパーダは教えに対してこれほど多くの女性たちから反響があるとは予期していらっしゃいませんでした。考えてみたら、仏教だってキリスト教だって厳しい修行をするお坊さんは男性が多いし、女性の修道僧は尼寺に行きます。でも、ハレ・クリシュナのお寺は大勢の女性たちで埋まるようになり、せっかくドラッグもフリーセックスも絶って清らかな修行に励もうと思っていた男性たちから不満の声が上がりました。

これに対して、プラブパーダは答えました。「感覚を制御できないなら、一人で森に住むべきである。彼女らもまた生命体である。クリシュナのもとにやってくる者を退けることはできない。男性信者たちがクリシュナ意識を強固にすれば何も問題はない。」(P.129)

多くの女性が寺院にやってくることについて、プラブパーダは「どうしたものか」とも思っていらしたようです。皆受け入れなければならないが、彼女たちには守ってくれる人が必要だ、すなわち、夫が必要だ、という懸念です。女性にとっては、信心深い男性と結婚することはクリシュナ意識に’おいて進歩するための助けとなることでした。でも、男性にとってはそれは霊的な弱さを意味したのです。これが問題の根源にありました。「もちろん、(男性信者は)結婚しないほうがいい。しかし、多くの女性がやってくる。彼女らを退けることはできない。」(P.57)

プラブパーダが「女性と関わると男性は感覚をコントロールできなくなる」というお話をなさったあと、ある寺院では男性信者が女性信者に対して非常に意地の悪い態度をとるようになりました。短絡的というか、何と言うか、、、ともあれ、女性信者たちがプラブパーダに不満を訴えると、プラブパーダは男性信者たちを呼んで説教なさいました。「あれは物質的なことにとらわれている女性たちの話だ。ここにいる信者の女性たちの話ではない。彼女たちは天使だ。」(P.131)

プラブパーダの文章や発言には、女性差別と受け取られても仕方のない内容が多いことは確かです。ある女性信者の在席している前で、プラブパーダは「女性と政治家を信用するな」という節を引用なさいました。それは4回の別々の説教においてなされ、どのときもプラブパーダは彼女を見て反応を見るような素振りをなさいました。4回目のとき、とうとうプラブパーダは彼女に直接「どう思う?」と聞かれました。彼女が「もちろんその通りです」と答えると、プラブパーダは暗い顔になって「 しかし、あなたは女性ではない。ヴァイシュナヴァ(クリシュナに仕える魂)だ。」とおっしゃいました。(P.131)

1974年、まだプラブパーダがご存命のとき、ある寺院では女性がギータのクラスを開くことが禁止されました。女性信者たちはプラブパーダに手紙を書き、次のような返答をもらいました。「女性もクラスを開いてよい。女性も上手に説教をする。女性の体も男性の体も、外側の区別に過ぎない。主チャイタンニャは、誰であれクリシュナの科学を知る者はグルとして受け入れられるべきだ、とおっしゃいました。クラスをする資格があるかどうかは、その人がクリシュナをどれくらい理解して教えに従っているかによる。男か女かではない」(P.129)

プラブパーダご自身が女性に対して深い愛情と尊重を持って接したことは、実際にプラブパーダと直接関わった多くの女性信者たちの証言によって証明されていると思います。女性を見下しているように見える表現は、男性信者たちによって誤解・曲解され、差別に利用された、というのがプラブパーダを直接知る彼女たちの共通する認識であるようです。(P.131)

この矛盾は面白いものだなと思います。普通は、偉そうなことを言ったり書いたりするけど実際の行動が伴わないと思うのです。「女性は男性ほど賢くない」とたびたび発言しておきながら、「それは差別だ」という声に対して、身近にいた女性たち自身から「それはそういう意味ではないのです」と守ってもらっているプラブパーダ。。。

書物の中の差別的な発言については、削除すべきかどうかという議論が今も続いています。でも、削除すると書物の信頼性そのものが損なわれるので、これはプラブパーダの人間としての避けられない不備であったとして容認し、実際のご本人の平等で敬意ある言動を見習うべきだ、という主張があります。

プラブパーダに直接お会いすることのできた人たちって、よっぽど過去に徳を積んでいらしたのでしょう。我が身を振り返ると、御本にめぐり合えただけでも身に余る幸運だなあと、ほんとに思います。。。
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by ammolitering4 | 2009-05-19 09:08 | ハレ・クリシュナ運動 | Comments(2)