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原文です。

http://www.krishnamedia.org/e-books/Perfect_Questions_Perfect_Answers.pdf

リンクを貼ろうとしたのですけれど、なぜかできませんでした。どうもローテクで申し訳ありません。ともあれ、この本の原文はこちらに紹介されています。どうぞ参照なさってください。最後まで読んでくださってありがとうございました。ハレ・クリシュナ!
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by ammolitering4 | 2008-09-10 10:58 | 「完璧な問い、完璧な答え」 | Comments(0)

完璧な問い、完璧な答え プラブパーダ睨下

尊師A.C.バクティヴェダーンタ・プラブパーダ睨下

尊師A.C.バクティヴェダーンタ・プラブパーダ睨下は、インドはカルカッタにおいて1896年にこの世に降誕なさいました。彼はご自身の霊的指導者であられるスリラ・バクティスィッダーンタ・サラスヴァティ・ゴスヴァーミーに1922年にカルカッタで初めてお会いになりました。卓越した献愛的な学者であって64のガウディーヤ・マサ(ヴェーダ研究所)の設立者であられたバクティスィッダーンタ・サラスヴァティは、この教育のある若者を好ましくお思いになり、彼の人生をヴェーダの知識を教えるために捧げるよう説得なさいました。スリラ・プラブパーダは彼の生徒になり、11年後の1933年にアラハバッドにおいて正式に洗礼を受けた弟子となられました。

1922年に初めて出会われたとき、スリラ・バクティスィッダーンタ・サラスヴァティ・サークラはスリラ・プラブパーダにヴェーダの知識を英語で広めるように依頼なさいました。その後の歳月において、スリラ・プラブパーダはバガヴァッド・ギーターの解説を書き、ガウディーヤ・マサの業務を補助し、1944年には独力で英語の隔週誌を始め、編集し、原稿をタイプし、ガリ刷りを校正しました。冊子を無料で配布する作業も行い、出版の継続のために苦労を重ねました。一旦発刊されると雑誌は廃刊することなく、現在では西洋の弟子によって継続されています。

スリラ・プラブパーダの哲学的な学習と献愛の念を認識し、ガウディーヤ・ヴァイシュナヴァ協会は1947年に「バクティヴェーダンタ」の称号を戴与しました。1950年、44歳のとき、スリラ・プラブパーダは結婚生活から引退し、4年後に研究と著述により多くに時間を捧げるためにヴァーナプラスタ(引退)階級となられました。スリラ・プラブパーダは聖都ヴリンダーヴァナに旅し、そこで歴史的な中世のラーダー・ダーモダラ寺院において大変簡素は状況で暮らし、数年間にわたって深い研究と著述に従事なさいました。彼は1959年に放棄階級となられました。ラーダー・ダーモダラにおいて、彼は生涯の最高傑作に取り掛かられました。1万8千節からなるシュリーマッド・バーガヴァタム(バーガヴァタ・プラーナ)の複数巻からなる翻訳と解説です。彼はまた「他の惑星への簡単な旅行」もお書きになりました。(訳注、「クリシュナ意識の単語帳」サイトにおいて全文の日本語訳を紹介しています。)

バーガヴァタムを3巻出版した後、スリラ・プラブパーダは彼の霊的指導者の使命を果たすために1965年に合衆国においでになりました。その時以来、睨下はインドの哲学的および宗教的な古典のために40巻以上の権威ある翻訳と解説と要約研究を執筆なさいました。

1965年に貨物船で初めてニューヨークにいらしたとき、スリラ・プラブパーダは事実上一文無しでいらっしゃいました。1966年7月に国際クリシュナ意識協会を設立なさったのは、その後一年近くの大変なご苦労の後でした。彼の注意深い指導のもとで、協会は10年のうちに百近いアーシュラマと学校と寺院と研究所と農園共同体から成る世界的な連合へと成長しました。

1968年にスリラ・プラブパーダはウェスト・バージニアの丘陵地帯に実験的なヴェーダ共同体であるニュー・ヴリンダーヴァナを建設なさいました。今では千エーカー以上の繁栄する農園共同体となったニュー・ヴリンダーヴァナの成功に力を得て、彼の生徒たちは以来合衆国および海外にいくつかの類似の共同体を建設しました。

1972年には睨下はテキサス州のダラスにグルクラ学校を設立して、西洋にヴェーダ式の小学校と中学校の教育を導入しました。学校は1972年に3人の子供達で始動し、1975年の初めには在籍者数は150人に増加しました。

スリラ・プラブパーダはまた、インドのウェスト・ベンガル州のシュリーダーマ・マーヤープールに大きな国際センターを建てるよう激励しました。ここはまた、計画されているヴェーダ研究のための研究所の予定地でもあります。類似のプロジェクトとして、インドはヴリンダーヴァナの華麗なクリシュナ・バララーマ寺院と国際ゲストハウスがあります。これらは西洋人が滞在してヴェーダ文化を直接経験するための施設です。

スリラ・プラブパーダの最も偉大な貢献はしかし、著作物です。その権威と深さと明解さによって学究界で深い尊敬を得ているこれらの本は、多数の大学のコースで必読の教科書として使用されています。著作は11の言語に翻訳されています。睨下の作品のみを出版するために1972年に設立されたバクティヴェダンタ・ブック・トラスト(出版社)は、こうしてインドの宗教と哲学の分野における世界最大の出版社になりました。同社の最新のプロジェクトはスリラ・プラブパーダの最も新しい作品の出版です。スリラ・プラブパーダがわずか18ヶ月で完成させた、ベンガル語の宗教的な古典である「シュリー・チャイタンニャ・チャリタームリタ」の17巻の翻訳と解説です。

過去10年間、高齢にも関わらずスリラ・プラブパーダは講義ツアーで世界を12回も回り、6大陸に訪問なさいました。そのような多忙なスケジュールでありながら、スリラ・プラブパーダは精力的な執筆を続けておられます。彼の著述は、ヴェーダ哲学、宗教、文献、および文化に関する文字通りのライブラリー(図書館、書庫、文庫)を構成しています。
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by ammolitering4 | 2008-09-10 10:53 | 「完璧な問い、完璧な答え」 | Comments(0)

完璧な問い、完璧な答え 終わりに

終わりに

1976年7月19日、スリラ・プラブパーダ睨下は私の妻と私を弟子として迎え入れ下さり、私たちはバクティ・デヴィー・ダースィー(訳注、妻)、およびブラーマティールサ・ダーサ(訳注、本人)という名を賜りました。その日を振り返ると、私は睨下とハレ・クリシュナ運動の兄弟弟子たちと出会えた自分がいかに幸運であったかが分かります。

洗礼にあたって数珠を手渡されたとき、私は規律的な原則に従うことと毎日マントラを唱えることを約束しました。その4年前、スリラ・プラブパーダは私にこれらの原則に従うよう助言してくださいました。そして、6ヶ月のうちに私も他の献身者たちのようになるだろうとおっしゃいました。世俗的な映画やレストランなどのすべての不必要なもの(アナルサ)は私にとって魅力的でなくなる、ということです。「人間の人生のすべては浄化のためにあります」とプラブパーダはおっしゃいました。浄化とは何を意味するかよく分かっていなかったにも関わらず、私は浄化されることに興味がありました。私は高いレベルの意識を見つけたくてピースコープに加わってインドに行きました。私は感覚を満足させることが唯一無二であると信じることはできませんでした。にも関わらず、私自身は感覚に縛られていました。後になって、私はヨガとは感覚の独裁から自由になることを意味するのだと理解することができました。

アメリカに帰って、私は地質学を学ぶために大学院に入り、結婚し、少々家庭的な責任に絡まって動きが取れなくなってしまいました。しかし私は非常に頻繁にスリラ・プラブパーダと交わした会話のことを考えました。彼の主な教えの一つは、単に献身者たちと関わりを持つことでした。そしてこれは私は喜んで実行しました。献身者たちは違うのです。至高主への愛情あふれる奉仕が人生の目的地であると理解することによって、彼らは感覚の満足と偽りの自我のつまらない事柄に巻き込まれることを避けます。お寺を訪れるのは何よりも清清しいものでした。徐々に妻と私は多くの献身者たちと友人になり、何かの形で運動に奉仕したいと思うようになりました。私は大学でバクティ・ヨガ・クラブの発起人になり、私達のアパートを旅行中の献身者たちのグループの中継点として提供しました。

スリラ・プラブパーダの教えを守っているうちに、私達の食事さえ浄化されました。インドで私はスリラ・プラブパーダに、自分はクリシュナは神であると理解できないので献身者たちのように食べ物を捧げることができない、と申し上げました。するとプラブパーダは、単に食べる前に神に感謝するように、とおっしゃいました。私達はこれは実行し、ついに献愛の念が成熟し、実際に食べ物を至高主に捧げ始めました。至高主のために料理をするのは、なんと素晴らしい気持ちのするものでしょう!これは本当に私たちを舌の支配から自由にしてくれました。

そしてとうとう私達は寺院生活に完全に関わる準備ができました。クリシュナの恵みによって、私はテキサスにある寺院の近くに仕事を得て、すべての寺院行事に参加し始めました。このようにして、すべてのアナルサが消えました。ちょうどスリラ・プラブパーダが予言なさったように。それは肩から重荷が降りたようなものでした。私達はもはや感覚の僕(しもべ)ではなく、神とその献身者たちの僕となったのです。スリラ・プラブパーダの教えの価値は明らかになりました。人間は、ロバのように働き犬のように楽しむために生きているのではありません。浄化とは、より高い水準の意識に到達することを意味します。

私は洗礼を受けましたが、今でも兄弟弟子たちの霊的な認識を尊敬しており、上達したいと願っています。実に、洗礼は始まりであるのです。

ブラーマティールサ・ダーサ・アディカーリー(ボブ・コーヘン)

ヒューストン、テキサス
1976年10月16日
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by ammolitering4 | 2008-09-10 10:52 | 「完璧な問い、完璧な答え」 | Comments(0)

完璧な問い、完璧な答え 第9章

第9章 未来のための決断
ニューヨーク 1972年7月4日

Bあなたからの大変温かいお手紙を受け取りました。
SPおお。
B一週間ほど前です。
SPあなたはとても知性的な若者です。あなたはこの哲学を理解しようとすることができます。それはとても大切です。感覚を満足させるために人々は非常に多くのエネルギーを無駄にしています。彼らは来世で何が起こるか気づいていません。来世は存在し、しかし愚かな人々は無知です。今世は来世への準備なのです。彼らはそれを知りません。現代の教育とその大学は、この単純な知識について完全に闇の中にあります。私たちは毎瞬体を替えています―――それは医学的な事実です。この体を去った後、私たちは別の体を受け入れなければなりません。私たちはどのようにしてその体を受け入れるのでしょうか。どのような体でしょうか。これも知ることができます。例えば、もし誰かが教育を受ければ、その人が試験に合格したときは技術者や医療者になるということを人は理解することができます。同様に、今世では来世で何かになるために準備をすることができます。
バーバラ(ボブの妻。以下、Bb)私たちは自分たちが来世で何になりたいか決めることができますか?
SPはい、決められます。私たちは来世でクリシュナのところに行くと決めました。これが私たちの決断です―――家へ、至高神のもとへ帰ること。例えば、あなたが教育を得たいとしましょう。技術者になろう、医療者になろう、という決断の後、それを目標としてあなたは準備をし、教育を受けます。同様に来世で何をするか決めることができます。しかし、あなたが決めないなら物質自然が決めます。
Bb私が前世でクリシュナ意識だった可能性はありますか?
SPそれは関係ありません。しかしそうなることができます。私たちのクリシュナ意識運動を活用してください。
献身者彼女は、前世でクリシュナの献身者であって再び戻ってきた可能性はあるのかと聞いています。
SP人が完全にクリシュナの献身者であれば帰ってきません。しかし少し欠陥があれば戻ってくる可能性があります。しかし、欠陥があっても良い家庭に戻ってきます。(サンスクリット引用)「成功しなかったヨギーは、宗教的な、あるいは貴族的な家庭に生を受けます」人間の知性は未来のために決断をすることができます。それが人間の知性です。動物は決断することができません。私たちには判断力があります。もしこうすれば私の益になるだろう、もしああすれば私の益にならないだろう。これが人間の生活にはあります。だからこれを正しく使わねばなりません。人生の目標地点は何なのか知り、それに向けて決断すべきです。それが人間の文明です。
Bbあなたはクリシュナをご覧になったことがありますか?
SPはい。
Bbご覧になったのですか?
SP毎日、毎瞬です。
Bbしかし、物質的な体においてではありませんね?
SPクリシュナには物質的な体はありません。
Bbあのー、ここのお寺にはクリシュナの絵がありますが、、、
SPそれは物質的な体ではありません。あなたには物質的な目があるから物質的に見ているのです。物質的な目を持っているので、霊的な形を見ることができません。だからクリシュナはあなたが見ることができるように親切に物質の体で現れてくださるのです。しかし、クリシュナが親切にご自身をあなたの目に見えるようにしてくださったからと言って、それはクリシュナが物質の体を持っていることにはなりません。例えば、合衆国の大統領が親切にあなたの家に来てくださったとしましょう。それは彼の地位とあなたの地位が同じであることにはなりません。それは彼の親切なのです。彼は愛情からあなたの家に来てくださるかもしれませんが、しかしそれは彼があなたと同じ水準にあることを意味するのではありません。同様に、私たちは今の目ではクリシュナを見ることができないので、クリシュナは私たちの前に絵画や、あるいは石や木でできた姿として現れてくださるのです。そして、すべてのものはクリシュナなので、クリシュナはこれらの絵画や木と異なるものではありません。
Bb死んだら私たちの霊はどうなりますか?
SP別の体を得ます。
Bbすぐにですか?
SPそうです。アパートを替わるときのようなものです。まず新しいアパートの用意をしてから古いところを出てそこに行きます。
Bbでは、私たちはどういう体を出るか分かりますか?
SP分かります。ただし資格があればですが。そうでない場合は自然が決めてくれます。知っている者―――彼らは何があるか知っています。しかし、知らない者には自然が取り決めてくれます。もし知らないなら、それはあなたが自分の人生の準備をしていないことを意味し、したがって偶然的に、死に際してあなたの精神性が別の体を作り、自然がそれを提供します。
Bbそして、マントラを唱えることは―――あれは何の役割を果たすのですか?
SPそれはこの若者たちに聞いてください。(献身者たちを指して)彼らが説明してくれます。
Bもしクリシュナがすべてを統御するなら、クリシュナはどうやって非献身者を統御するのですか?
SPマーヤーによってです。政府がすべてを支配するようなものです。王国は王の政府機関によって統御されています。
Bそしてクリシュナは献身者をどう統御するのですか?
SPあなたが愛する者を統御するようにです。例えば、あなたに愛する子供がいれば、あなたはその子を本人の益のために統御します。もし彼が火を触ろうとすれば、あなたはただちに「いけません、いけません、愛しい子よ。触ってはいけません。」だからクリシュナ意識の者、献身者たちは、決して誤った方向に導かれることはありません。いつもクリシュナが導いてくださるからです。他方で、クリシュナ意識でない者はマーヤーの管轄にあり、あなたも見たようにマーヤーが必要なことをします。
Bいつ生まれるか、いつ死ぬかということはあらかじめ決まっていますか?
SP何ですか?
B私や他の人たちがいつ死ぬかということは、生まれる前に決まっていますか?私は生まれたときにある決まった寿命を持っているのですか?
SPそうです。
献身者そしてそれを変えることはできないのですか?
SPできません。しかしクリシュナなら変えられます。
献身者もし人が自殺するなら、それもあらかじめ決まっているのですか?
SPそれは決まっていません。人には少しの独立性があるから自殺することができるのです。自殺するのは自然ではありません。不自然です。私たちには独立性があるので、自然から不自然に行くことができます。囚人は自然に牢獄から出て行くことはできませんが、何とかかんとかして彼は壁を飛び越えて出て行きます。そうすると彼は、より重い懲役を科される犯罪者になります。自然に則れば、囚人は牢獄から出ることができません。しかし、もしも何とかして脱け出してしまうと、それは彼が再び犯罪者になることを意味するのです。彼は再び逮捕され、懲役の時間は長くなり、あるいはもっと罰せられるのです。つまり、自然に則れば私たちは運命を侵害することはできません。もしもそれをすれば私たちは苦しみます。しかし、私たちの運命はクリシュナ意識になるとクリシュナによって変えられます。私たちはしませんが、クリシュナがなさいます。クリシュナはおっしゃいます。(サンスクリット引用)「私があなたを守る」私を守るために、その変化が起こるのです。
非献身者と献身者という二つの段階が存在します。非献身者は物質自然の統御のもとにあり、献身者はクリシュナの直接的な統御のもとにあります。偉い人、大きな会社の重役のオフィスには、多くの従業員がいます。彼らは様々の部署の管理者によって支配されています。しかし、家の外ではこうして間接的に支配する人であっても、その同じ人物が家に帰ると自分の子供たちを直接的に支配します。しかし、彼は常に統御する人です。同様に、神は常に統御者です。人は献身者になると神によって統御されます。非献身者であれば、神の代理人であるマーヤーに統御されます。しかし、人は統御されねばなりません。例えば、アメリカのすべての市民は政府によって統御されています。問題がなければ民事部署が統御します。問題があれば刑事部署が統御します。しかし、「私は統御されていない」と言うことはできません。それは不可能です。すべての人が支配されています。もし誰かが「私は支配されていない」と言うなら、その人は正気ではありません。狂っています。すべての人が統御されています。神に直接統御されているか、代理人であるマーヤーに統御されているかです。マーヤーに統御されると、あなたは人生を無駄にします。前世から今世、来世へと体を変えながら物質的な存在の中に居続けます。しかし、もしあなたが神によって統御されることを選ぶなら、その場合はこの体の後であなたは家へ、至高神のもとへ帰ります。そうすればあなたの人生は成功なのです。あなたは統御されずして存在することはできません。それは不可能です。それが知性です。そしてそれはバガヴァッド・ギーターに述べられています。(サンスクリット引用)「さ迷ったり思い巡らしたりした幾つもの生の後、人は私に服従します」(サンスクリット引用)「クリシュナ、あなたはすべてです。だから私は来ました。私を受け入れてください。私は今やあなたに完全に服従します。そしてあなたが私を支配します。私は支配されます。あまりにも長い間、私はこれらの悪党たちに支配されてきました。益はありません。私は私の感覚に統御されてきました。感覚の統御のもとで、私はいわゆる家族や社会や地域や国や―――犬にさえも仕えてきました。しかし何も私に満足を与えてくれませんでした。だから今、私には知恵がつきました。私は自分をあなたの統御のもとに置きます。犬に統御される代わりに神に統御されるようにしてください。」これがクリシュナ意識です。人がどのように犬に統御されているか、見たことはありませんか?道で犬が立ち止まり、糞をします。そして犬の主人は立って待ちます。そうではありませんか?犬は糞や尿をし、主人は「自分は主人だ」と考えているのです。しかし彼は統御されています。それがマーヤーです。彼は犬の従者になりましたが、「私は主人だ」と考えています。クリシュナ意識でなければ人は理解することができないのです。私たちはこの馬鹿者が犬に支配されていることを理解できますが、彼は自分が主人だと考えているのです。私たちには理解できます。どう考えますか?彼は犬に統御されるようになったのではありませんか?
Bその通りです。
SPしかし彼は「私は犬の主人だ」と考えています。家庭人は彼の妻や子や従者やすべての人に統御されていますが、「私が主人だ」と考えています。ニクソン大統領は自分が国の主人だと考えていますが、彼は統御されています。彼は自分の従者である国民によって直ちに解雇されうるのです!そして彼は「私はあなた方に素晴らしい奉仕をします」とか「私は第一流の召使になります」と主張して地位を得ます。だから人々は投票します。「いいでしょう。あなたが大統領になりなさい」そして彼は広告しています。「私を再選してください。私を再選してください」それは彼が従者であることを意味します。しかし彼は「私は主人だ」と考えています。それがマーヤーの位置付けなのです。マーヤーに支配されている者は自分が主人だと考えます。しかし彼は従者です。そして、献身者は決して「自分は主人だ」とは考えず、「自分は従者だ」と考えます。それがマーヤーと現実の違いです。彼は少なくとも「私は決して主人ではない、私はいつも従者だ」と知っています。従者が「私は主人だ」と考えるとき、それは幻想と呼ばれます。しかし従者が「私は従者だ」と考えるとき、それは幻想ではありません。それはムクティ、解放です。彼は誤った考えに統御されていないからです。この事柄について考えてみてください。献身者は決して誤った考えに支配されません。彼は自分の位置付けを知っています。(サンスクリット引用)ムクティ、解放とは、人の本来の立場に位置することを意味します。私は従者です。ですから、もし私が自分は従者であると知れば、それは私の解放です。そしてもし私が自分は主人だと思えば、それは呪縛です。これが制約された人生と解放された人生の違いです。
これらのクリシュナ意識の献身者たちは、いつも自分たちはクリシュナの従者であると考えています。だから彼らは皆解放されています。彼は解放のために努力をするのではありません。彼らは本来の位置にいるので、すでに解放されているのです。彼らは人工的に「私は主人だ」と考えているのではありません。それ以外の人々は皆「私は主人だ」と考えています。それは幻想です。あなたは人生のどの時点でも主人ではありえません。従者であり続けねばならないのです。それがあなたの立場です。人が人工的に自分は主人であると考えるとき、それはその人の制約された人生です。そして人が自分の意思で至高の主人に服従するとき、それはその人の解放です。献身者は解放だけのための努力はしません。クリシュナかクリシュナの代理人に服従すれば、彼らは直ちに解放されるのです。
Bプラブパーダ、宗教に関わる人々は、あの「イエス様狂い」のような人たちなどは、イエス様が彼らを導いてくださっていると主張します。これは本当ですか?
SPそうです。しかし彼らは導きに従いません。キリスト教徒たちと同じです。イエスは彼らを「殺してはいけない」と導きます。しかし彼らは殺しています。イエスの導きはどこですか?ただ「私はイエス・キリストに導かれている」と言うこと―――それで十分ですか?「しかし私は彼の言うことはどうでもよい」それが導きですか?イエス・キリストに導かれている人はいません。彼らの主張は誤りです。本当にイエス・キリストに導かれている人を探すのは大変難しいのです。イエス・キリストの導きはそこにありますが、誰も彼のことを気にかけないのです。彼らはイエス・キリストを自分たちの罪を被ってくれる請負人として理解しました。それが彼らの哲学です。彼らは様々な罪を犯し、気の毒なイエス・キリストが責任を負います。それが彼らの宗教です。だから彼らは言います。「私たちは非常に素晴らしい宗教を持っています。私たちのすべての罪深い行いのためにイエス・キリストが死んでくださいます」これが良い宗教でしょうか?彼らはイエス・キリストへの同情を全く持ちません。彼は私たちの罪のために死にました。なぜ私たちが再び罪を犯して良いでしょう。私たちの罪のためにあれほど偉大な人生が犠牲になりました。だから私たちはイエス・キリストによって導かれるべきなのです。しかしあなたがそうしないなら―――「ああ、いくらでも罪を犯し続けよう。イエス・キリストが私の罪のすべてを無効にする契約をしてくださる。私はただ教会に言って告解し、帰って来て再びいくらでも下らないことをしよう」―――これが大変良い知識を表していると思いますか?
Bいいえ。
SP本当は、イエス・キリストに導かれている者は確かに解放されます。しかし、本当にイエス・キリストに導かれている者を探すのは非常に難しいのです。
B「イエス様狂い」の人たちはどうですか?イエス運動に加わった若い人たちです。彼らは非常に頻繁に聖書を読み、そして―――
SPしかし暴力は聖書の命令に反します。もし彼らが聖書に従っているのなら、どうして殺すことができるでしょう?
B彼らの一人に聞いてみたことがあります。すると彼はイエスも聖書で肉を食べていたと主張しました。
SPそれは構いません。彼は何を食べても良いのです。彼は力強いのです。しかし彼は「あなたは殺してはならない、あなたは殺すことを止めなくてはならない」と命令しました。彼は力強いのです。彼は全世界を食べることもできます。しかしあなたはイエス・キリストと比べてはなりません。あなたはイエス・キリストの真似をしてはなりません。あなたは彼の命令に従わねばなりません。そうすればあなたはキリストに導かれています。それが本当の従順さです。それはバーガヴァタに説明されています。イースヴァラである者、すなわち権限を与えられた者は、何でもすることができます。しかし私たちは真似をすることはできません。私たちは彼の命令に従わねばなりません。「彼が言うことを私はしよう」あなたは真似をしてはなりません。あなたはイエス・キリストは肉を食べたと言います。それを認めるとして、あなたはどういう状況で彼が肉を食べたか知りません。彼は自分は肉を食べていて、それなのに他の人たちには殺すなと助言をする。あなたはイエス・キリストが矛盾したことを言っていたと思いますか?
Bいいえ。
SP彼がそんなことをしていたはずはありません。それが彼を本当に信頼するということです―――彼がそんなことはしないということを。ではなぜ彼は肉を食べたのでしょうか。彼は知っていますが、しかし彼は私に殺さないでくれと言いました。私は従わねばなりません。それが本当の秩序です。あなたはイエス・キリストではありません。あなたは彼の真似をしてはなりません。彼は自分の命を神のために犠牲にしました。あなたにそれができますか?では、なぜあなたがイエス・キリストの真似をすべきでしょうか。あなたは肉を食べることによってイエス・キリストの真似をしています。なぜイエス・キリストの真似をして神意識を広めるためにあなたの生命を犠牲にしないのですか?どう考えますか?たしかに、伝道するときは自分の考えていることを言うことができます。彼らはいわゆるキリスト教徒です―――しかし彼らは神のために何をしていますか?太陽のことを考えてみてください。太陽は尿を吸収しています。あなたは尿を飲めますか?もしあなたが太陽を真似したいなら―――「おお、太陽が尿を吸収している。私も尿を飲もう」―――できますか?イエス・キリストは力強いのです。彼は何でもすることができます。しかし私たちは真似することはできません。私たちは単に彼の命令に従わねばならないだけです。それが本当のキリスト教です。私たちは力強い人の真似をすることはできません。それは誤りです。私たちのヴェーダ文献には毒の海の記述があります。人々はどうしてよいか分かりませんでした。すると主シヴァは「いいでしょう、私が飲みます」とおっしゃいました。そして彼は毒の海を丸ごと飲んで自分の喉に留められました。あなたは毒を飲むことができますか?海とは言いません―――たったのコップ一杯では?では、どうして私たちに主シヴァを真似ることができるでしょう。主シヴァは決して私たちに毒を飲めとは助言なさいませんでした。つまり、あなたは真似るのではなく助言に従わねばならないのです。あのLSDや大麻を使う人々は、主シヴァはガニャを吸っておいでだったと言います。しかし主シヴァは毒の海を丸ごと飲みました。あなたにそれができますか?主シヴァの教えを、それを受け入れるべきです。彼は最善の礼拝はヴィシュヌの礼拝であるとおっしゃいます。(サンスクリット引用)パーヴァティーがどんな方法による礼拝が一番良いかと尋ねたとき、彼は「一番の礼拝は主ヴィシュヌ(クリシュナ)の礼拝です」と仰せられました。多くの半神たちが存在しますが、彼はヴィシュヌの礼拝を最善のものとしてお薦めになりました。そして、ヴィシュヌの礼拝よりさらに良いのはヴァイシュナヴァの礼拝です。タディーヤーナーム―――主の従者、あるいは主に関わる人たちです。例えば、私たちはこのトゥラシーという植物を礼拝しています。私たちはすべての植物を礼拝しているのではありませんが、このトゥラシーはクリシュナすなわちヴィシュヌと大変密接な関係にあるので、だから私たちはそれ(彼女)を礼拝しているのです。同様に、もし何かg悪利主なと親密な関係にあれば、それを礼拝することはヴィシュヌの礼拝より優れています。
Bそれはなぜですか?
SPクリシュナがお喜びになるからです。あなたが犬を飼っていて、誰か友人が来てあなたの犬をなでたと仮定しましょう。(スリラ・プラブパーダ、大きくなでる仕草をする)あなたは嬉しくなります。あなたは嬉しくなるのです。「おお、この人は私の友達だ」彼らがどう考えるか分かりますか?こういうことです―――誰か友人が来て、「まあ、なんて良い犬を飼っておいででしょう」と言うのです。(笑い)(インド人の来客があり、入室する)
SPどうぞプラサーダをお召し上がりください。(スリラ・プラブパーダは来客との会話を続ける。時々は英語、時々はヒンディー語で。時はニューヨーク滞在の最終日であり、ロンドン行きの飛行機はわずか2-3時間後に出発の予定。ボブはスリラ・プラブパーダをケネディ空港に送るために車で来ている。献身者達は荷物を車に運んだりスリラ・プラブパーダの最新の翻訳の原稿を整理したり、その他の最終的な準備をしたりして走り回っている)
Ssすべて準備が整いました、スリラ・プラブパーダ。車が待っております。
SPそうですか?もう出発できますか?よろしい。ハレ・クリシュナ!
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by ammolitering4 | 2008-09-10 10:50 | 「完璧な問い、完璧な答え」 | Comments(0)

完璧な問い、完璧な答え 第8章

第8章クリシュナ意識の進歩(書簡の交換)

スプリングフィールド、ニュー・ジャージー
1972年6月12日

親愛なるプラブパーダ、
謹んで御前に尊敬の念を捧げます。

私はニューヨーク寺院の献身者たちとの関わりを持ち続けています。大変素晴らしい高度な献身者たちとの関わりによって、私はクリシュナ意識にいくらかでも進歩できればよいと願っています。私の婚約者は寺院を訪れ始め、少しマントラを唱えています。彼女は私がインドから手紙を書くまでクリシュナ意識について何も知りませんでした。アトレヤ・リシは私たちが理想的な家庭人の生活を見ることができるように親切に自宅に招いてくださいました。

私はピースコープでの仕事を終えるために四月の終わりにボンベイに行きました。幸いにして軽い病気にかかったので、ボンベイに2週間滞在しなければなりませんでした。私はその時間を高度で親切な献身者たちと共にジュフで過ごしました。残念なことに、あなたはもう既に5日前に去っていらっしゃいました。

私はほんの少ししか理解していませんが、クリシュナ意識の過程に確固たる信頼があり、もっともっと身に付けたいと思います。

私はロサンゼルス寺院に関するアトレヤ・リシの描写を心待ちにしています。そしてニューヨークで直接あなたとお会いできればと思っています。

本当にとてもつまらない若者に賜ったご厚情に感謝いたします。

敬具
ボブ・コーヘン


ACバクティヴェダンタ・スワミ
ISKCON ロサンゼルス
1972年6月16日

ボブ・コーヘン様
スプリングフィールド、ニュー・ジャージー

親愛なるボブ様、

あなたにお届けする神の恵みをお受け取りください。1972年6月12日付けの手紙に感謝します。そこに表されていた高尚な感情に気づき、非常に嬉しく思いました。あなたが私たちと関わりを持っていることを大変喜ばしく思います。私はあなたが大変良い若者であること、大変知性的で立ち居振る舞いが穏やかであることを知っていますので、クリシュナが大変すばやくあなたの上に恵みを賜るであろうこと、そしてあなたがクリシュナ意識で完全に幸せになる自分を感じるであろうということに全くの自信を持っています。人は自分の意思で物質自然すなわちマーヤーへの執着を放棄することによってクリシュナ意識の進歩を遂げます。そのような放棄をタパシャと言います。しかし、私たちは納得のいくだけの理由がないとあまりすすんで苦行をしようとはしません。したがって、貴君のような良き科学的および哲学的な精神の持ち主はまず超越的な知識の何たるかを理解しなければなりません。もしあなたが知識を得れば、タパシャは自動的に付いてくるでしょう。そしてそれからあなたは霊的な生活において進歩をみます。つまり、知識を得ることは人生の完成を求めるあらゆる人々にとって最初の事柄なのです。したがって、私はあなたに可能な限り毎日私たちの本を読むこと、そこに表されている哲学(subject matter)をニューヨーク寺院の献身者たちと頻繁に議論することによって、複数の異なる視点から理解しようとすることを助言します。この方法によってあなたは徐々に納得し、誠実な姿勢と献身奉仕によって進歩するでしょう。

おっしゃるように、私とクリシュナ意識の過程に幾らかの深い信頼を持つことは本当の知恵を得るための第一にして唯一の条件です。深い信頼があれば、理解はついてくるでしょう。そしてあなたの理解が深まれば、幻想エネルギーの魔力への嫌悪も深まるでしょう。そしてあなたが自分の意思で物質的な世界での呪縛を放棄するとき、進歩は保証されます。

私たちはたった今、マヤプールであなたと一緒に交わした会話のテープをタイプしているところだと思います。そしてそれを本として出版するつもりです。それは「完璧な問い、完璧な答え」と呼ばれるでしょう。配本の準備ができたらすぐに送ります。それまでの間に、ロンドンでのラサ・ヤートラ祭へ向かう途中にニューヨークに2,3日滞在する予定です。いつニューヨークに着くかはまだはっきり分かりませんが、7月の上旬になるでしょう。到着日について。バリ・マーダナと定期的に連絡を取ってください。ニューヨークでもう一度お会いできれば私はとても嬉しく思うでしょう。もし何か質問があれば、もう一度語り合いましょう。

あなたの健康と幸福感を祈りつつ。

いつもあなたの幸せを願う者
ACバクティヴェダンタ・スワミ
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by ammolitering4 | 2008-09-09 07:30 | 「完璧な問い、完璧な答え」 | Comments(0)

完璧な問い、完璧な答え 第7章 -2

SP同様に、創造全体の中心的な胃は神、すなわちクリシュナです。彼が享楽者であり、友であり、至高の所有者としてすべての者を維持しています。ちょうど王が所有者なので国全体の国民を維持できるようなものです。所有者でなくして、どうしてすべての人の友になれるでしょう。これらのことを理解しなければなりません。クリシュナは享楽者であり、クリシュナは所有者であり、クリシュナは友です。もしあなたがこれらの三つのことを知っているなら、あなたの知識は完全です。それ以上のことを知る必要はありません。(サンスクリット引用)もしあなたがクリシュナを単にこれらの三つの公式によって理解するなら、あなたの知識は完全です。あなたにはそれ以上の知識は必要ありません。しかし人々は同意しません。「なぜクリシュナが所有者であるべきでしょう。ヒトラーが所有者であるべきです、ニクソンが、、、」そういうことが起こっているのです。だからあなた方は苦労しています。しかしこれらの三つのことだけを理解するなら、あなたの知識は完全です。しかしあなたは受け入れません―――あなたはこれらの三つのことを理解するのにたくさんの妨害物を差し出します。そしてそれが私たちの苦労の原因なのです。しかし、バガヴァッド・ギーターにはそのことは明白に述べられています。(サンスクリット引用)「私をすべての犠牲と苦行の至高の目的として、すべての惑星と半神たちの至高主として、そしてすべての生命体に恩恵を施して幸せを望む者として知っている賢人たちは、物質的な惨めさの苦しみから逃れて平安を得ることができる」しかし私たちはこの方法を取りません。私たちは非常に多くの偽りの所有者、偽りの友、偽りの享楽者を差し出し、彼らは互いに争います。これが世界の状況なのです。もしも教育がなされて人々がこの知識を受け入れれば、ただちに平和が訪れます。(サンスクリット引用)これが知識であり、もし人がこの原則に従うなら、それは正直な人です。その人は「これは私のものです」と主張しません。彼はすべてを知っています。「ああ、これはクリシュナのものだ。だから何でもクリシュナへの奉仕のために使われるべきだ」それが正直さです。もしこの鉛筆が私のものであれば、エチケットは―――私の生徒たちはときどき「この鉛筆を使ってもよろしいですか」と尋ねます。すると私は「どうぞ」と答えます。同様に、もし私がすべてはクリシュナのものだと知っていれば、私はクリシュナの許可を得ずしては何も使いません。それが正直さです。そしてそれが知識です。知らない者は無明です。愚かなのです。そして愚かな者は犯罪行為をします。すべての犯罪者は愚かな者です。無明であるから法律を破るのです。無知は幸せではありません。(訳注、英語には「無知は幸せ」という諺があり、それを否定した表現です。「知らぬが仏」にあたります)しかし、無知が幸せであるところでは知恵ある者であることは愚かです。それが難しいところです。世界中が無明を楽しんでいます。そしてクリシュナ意識について語るとき人々はあまり喜びません。もし私が「クリシュナが所有者です。あなたは所有者ではありません」と言うと、あなたはあまり満足しないでしょう。(人々、笑う)御覧なさい―――無知は幸せなのです。ですから本当のことを言うのは私の愚かさです。したがって、無知が幸せであるところでは知恵ある者であることは愚かです。私は人々の気分を害する危険を冒しており、人々は私たちが愚か者であると思います。もし私が金持ちの人に「あなたは所有者ではありません。クリシュナが所有者です。だからあなたが持っているお金はすべてクリシュナのために使いなさい」と言うと、その人は怒るでしょう。(サンスクリット引用)「もしあなたが悪党に説教をすると、その人は腹を立てるでしょう」だから私たちは物乞いとして行くのです。「旦那様、あなたは大変素晴らしい方です。私はサンニャーシー(放棄階級)の物乞いです。私は寺を建てたいのです。いくらかのお金を恵んでくださいませんか?」そうすると彼は「おや、物乞いがやって来た。いくらかのお金を恵んでやろう」と考えます。(人々、笑う)しかし、もし私が「旦那様、あなたは好きなようにできるお金を山ほど持っておいでです。それはクリシュナのお金です。私に渡しなさい。私はクリシュナの従者です」と言えば、おお、彼は一体どんな、、、(皆、笑う)彼はあまり満足しないでしょう。一方で、もし私が物乞いとして行けば、彼は何かくれるでしょう。そしてもし私が彼に本当のことを言えば、彼はビタ一文くれないでしょう。(人々、笑う)私たちは彼に私たちは物乞いだと思いこませます。私たちは物乞いではありません。私たちはクリシュナの従者です。私たちは誰からも何も求めません。クリシュナがすべてを与えてくださると知っているからです。
Bおお、、、
SPこれが知識です。例えば、子供はときどき大切なものを取ってしまいます。だから私たちは子供にお世辞を言わねばなりません。「おお、あなたはとても良い子です。このノドアメをあげるから、その紙を私にくださいな。それはつまらない物、ただの紙切れです。」すると子供は「はい、どうぞ。おいしそうだ」と言うでしょう。2パイサ(訳注、1パイサは百分の一ルピー、極めて小額)のノドアメ―――とてもおいしくて甘い。こういうことをしなければならないのです。なぜでしょうか?なぜなら、人はクリシュナのお金を取ることで地獄へ行くからです。なんらかの方法でその人からお金を取り、クリシュナ意識の運動に参加させるのです。
Bそして、そうすればその人は地獄へ行かずにすむのですか?
SPそうです。あなたはその人を地獄へ行くことから救います。クリシュナのために使われた一文は数えられるからです。「おお、この人は私に一文をくれた。」これはアジニャータ・スクリティ(知らずに行った霊的な行い)と呼ばれます。彼らは考えが非常に浅いのです。したがって、霊的に秀でた人々は彼らを啓蒙するために動きます。彼らに機会を与えるためです。彼らにクリシュナに仕える機会を与えるのです。それが霊的に秀でた人の義務です。
Bそれが何だとおっしゃいましたか?
SPそれが義務なのです。しかし、もし霊的に秀でた者が誰かからお金を取ってそれを自分の感覚の満足のために使えば、そうすればその人は地獄に行きます。そうなればお終いなのです。彼は詐欺師、本当に犯罪者です。人は誰からでも一文でもお金を取って自分の感覚の満足のために使ってはなりません。
B私はクリシュナ意識でない知人たちのことを考えています。
SPクリシュナとは神を意味します。
B彼はほんの少しだけ神を意識しています。しかし、それでもこの人たちはとても正直で、他の人のものは全く取りません。そして彼らは他の人たちに対して正直であろうと努めます。こういう人たちは、、、
SPその人は他の人たちからは取らなくても神からは取ります。
Bでは、この人たちは半分くらい良いのですか?
SPふむ?
Bこの人たちは、それでは半分くらい良いのですか?
SPよくありません。もし人がこの原則を―――神が所有者であるという原則を学ばないなら、、、他の人の物?「他の人の物」とはどういう意味なのですか?
Bつまり、私が思い浮かべている人々というのは―――その人たちは貧しくてお金と食べ物が必要ですが、しかし―――
SP誰もがお金を必要としてます。皆が必要なのです。誰が貧しくないでしょう。ここにはたくさんの紳士が座っています。誰がお金と食べ物を必要としないでしょう。あなたもまた、お金と食べ物が必要です。では、どうやって貧しい人と豊かな人を区別できるでしょう。皆が必要なのです。もしそれがあなたの定義であれば、、、もし誰かがお金と食べ物を必要とすることが貧しいということであれば、では、すべての人がお金と食べ物を必要とするのです。だから皆が貧しいのです。
Bはい、でも、あの―――私はただ、相対的に貧しい人たちのことを考えていたのです。
SP相対的、相対的、そうかもしれません。あなたが私よりお腹を空かせている。それはあなたが空腹でないとか、私が空腹でないとかいうことを意味するのではありません。私は今は空腹を感じていません。それは私が空腹を感じないとか、空腹でないということを意味するのではありません。今のところはあなたは空腹でないかもしれません。しかし明日にはあなたは空腹になるでしょう。
B私が感じるのは―――なぜかこの人たちは―――その、、、その人たちの周りの人たちは皆盗みを働いているかもしれませんが、でも彼らはそれでも毅然として、盗みません。この人たちには何かしら良いことが起きてしかるべきです。
SPしかし、自分は泥棒ではないと思っている者もまた泥棒です。その人はすべてがクリシュナのものであると知らないからです。したがって、彼が受け取っているものは何であれ盗んでいるのです。
Bその人はあまり泥棒ではないとは言えますか?
SPあなたは私がこの包み紙の所有者であると知らないかもしれません。しかし、もしあなたがそれを持ち去れば、あなたは盗んでいるのではありませんか?
Bしかし、もしかしたら、もし私がそれはあなたの物であると知って取ったら、誰のか知らないで取るときよりも、私はより悪い泥棒であるかもしれません。私はただ、それは誰のものでもないと考えて取るのです。
SPそれもまた盗むことです。誰かのものであるに違いないからです。そしてあなたはその誰かの許可なく取ります。あなたは誰が所有者であるかはっきり知らないかもしれません。しかし、あなたは「誰かのものであるに違いない」と知っています。それが知識です。ときどき私たちは道に多くの貴重なものが放置されているのを見かけます―――道路を補修するための政府の資材や何かの電気器具などです。ある人は「おや、幸いにしてここにこんな物が落ちている。貰っておこう」と思うかもしれません。これは盗むことではありませんか?
Bそれは盗むことです。
SPその通りです。彼はこれがみな政府の資材であると知りません。彼はこれを持ち去ります。それは盗むことです。そして彼は見つかると逮捕され、罰せられます。同様に、何であれあなたが自分のものにする物―――例えば、あなたが川からコップ一杯の水をくんで飲むとしましょう。川はあなたの所有物ですか?
Bいいえ。
SPでは、それは盗むことなのです。あなたは川を作りませんでした。あなたは誰が所有者か知りません。だからそれはあなたの所有物ではありません。たとえコップ一杯の水をそれが誰の物か知らずに飲んでも、あなたは泥棒なのです。あなたは「私は正直だ」と思うかもしれません。しかし本当はあなたは泥棒なのです。あなたはクリシュナを思いださなくてはなりません。「おお、クリシュナよ。これはあなたがお創りになったものです。どうか私が飲むことをお許しください」これが正直さです。したがって、献身者は常にクリシュナのことを考えます。すべての行いにおいてです。「おお、これはクリシュナのものです」これが正直さです。クリシュナ意識なくしては、すべての人が悪党、泥棒、ろくでなし、盗人です。これらの資質を持つのです。したがって私たちの結論は、クリシュナを理解しない者は誰であれどんな良い資質も持たないというものです。正直でもなく、知識もありません。したがって、その人は三流の人物なのです。それは正しいですか?どう考えますか、ギリラージャ?
ギリラージャ(弟子、以下、G)その通りです。
SPこれは教条主義ではありません。事実なのです。(しばらくの時間が経過)さて、あなたは何が知識で何が正直さか、理解しましたか?
B私は―――ある意味では。ある意味では。
SPそれで、他の意味はありますか?(ボブ、笑う)他に何か意味はありますか?あるなら言ってみなさい!(ボブ、再び笑う。プラブパーダも笑う)他にありますか、ギリラージャ?
Gありません。
SP代案はありますか?私たちは誰かによってくつがえされるようなことは何も言いません。そのような経験を私たちは持っているのです。(訳注、誰にも言い負かされることがないという経験)むしろ、私たちは誰をも言い負かします。「何か質問はありますか?」今までクリシュナが私たちを守ってくださっています。大きな大きな国々の大きな大きな会合で、話をした後に私は「何か質問はありますか」と尋ねます。
B今は私は質問はありません。
SPロンドンでは、私たちは―――何日間の講義でしたか、あの何とかいうところで―――コンウェイ・ホール?
献身者12日間、コンウェイ・ホールです。
SPコンウェイ・ホールでしたね。
献身者12日間でした。
SPそう。会合の終わるたびに、私は「何か質問はありますか」と尋ねていたのです。
Bたくさんの質問がありましたか?
SPそれはもう。たくさんの愚かな質問がありました。(皆、笑う)
Bもう一つ質問させてください。愚かであるとはどういうことですか?
SP何の知識も持たない者は愚かであると考えられます。
インド人の紳士プラブパーダ、一つ個人的な質問があります。お尋ねしてもよろしいですか?
SPどうぞ。
紳士しばらく前、カルカッタで「動物への残酷な扱いを防ぐための一週間」という企画がありました。
SPふむ。(プラブパーダ、短く笑う)これはもう一つの愚かさです。彼らは残酷さを防ぐことを宣伝していますが、何千もの屠殺場を維持しています。分かりますか?それはもう一つの愚かさです。
紳士それで、私は一つお尋ねしたかったのです―――
SP尋ねる―――あなたが尋ねる前に私は答えを与えましょう。(皆、笑う)それはもう一つの愚かさです。彼らは日常的に動物を残酷に扱い、そして(動物愛護の)会など作っている、、、
Bもしかしたらこれは―――
SP例えば、盗賊の一味が看板を上げるとしましょう。「善人会社」ときどきそんな看板を見るのです。
Ss私たちのサンフランシスコ寺院の家主はグッドマン(善人)という名前でしたね。
SP動物がきちんと栄養を与えられていなければ、それは残酷だ、というのが哲学です。したがって、飢えさせるより殺すのがよろしい。それが彼らの理論です。そうではありませんか?
Bはい。
SP彼らは「おお、それほどの痛みを与えるよりは殺してあげるほうがいい」と言います。その理論は共産主義者の国々に入ってきつつあります。老いた男―――祖父が―――苦しんでいる。だから殺したほうが良い。そして―――アフリカには祖父たちを殺して祭りを行う一群の人々がいます。そうではありませんか?いるのです。
Ss彼らは祖父たちを食べるのですか?
SPそうです。(シャーマスンダラ、笑う)どうぞ?
献身者私には叔父と叔母がいました。彼らは軍隊に入っていました。それで彼らが外国に行くことになったとき、飼い犬を一緒に連れて行くことができませんでした。それで彼らは「かわいそうな犬。私たちと一緒にいられなくて嘆き悲しむでしょう」と言い、眠らせました―――殺したのです。
SPガンジーも生涯で一度子牛か牛を殺しました。それはとても苦しんでいたのです。だからガンジーは「苦しませる代わりに殺しなさい」と命令しました。
G昨日、霊的指導者はその弟子の罪深い行いのために苦しまねばならないとおっしゃいましたね。罪深い行いというのはどういう意味ですか?
SP罪深い行いというのは、「私は規律的な原則に従います」と約束して、もしもそれに従わないなら、それは罪深いことです。それは約束なのです。大変簡単なことです。あなたは約束を破って悪いことをします。したがってあなたは罪深い。そうではありませんか?
Gそうです。(時間が少し空く)しかし、私たちがしろと言われていることがありますが、、、
SPふむ?
G他にしろと言われていることがあって、しようとしてはいるのですが、まだちゃんとできません。
SPどういうことですか?しようとするけれどできない?どういうことですか?
G意識を集中してマントラを唱えることなどです。時々はそうしようとするのですが、でも―――
SPああ、それは過ちではありません。例えば、あなたが何かをしようとしているとします。経験が浅いので、時々は失敗します。それは過ちではありません。あなたは努力しているのです。バーガヴァタムに書いてあります―――ふむ―――もし献身者が最善を尽くしているにも関わらず能力が足りなくて時に失敗するなら、クリシュナは許してくださいます。そしてバガヴァッド・ギーターにも同じく書いてあります。(サンスクリット引用)時として、わざとではなく過去の悪い習慣によって―――習慣は第二の本能です―――人は何か下らないことをします。しかしそれはその人の過ちではありません。しかしその人はそれを悔い改めねばなりません。「私はこういうことをしてしまいました」そして、可能な限りそれを避けようとすべきです。しかし習慣は第二の本能です。時として、あなたがいかに最善を尽くしていようと、マーヤーはとても強いので、落とし穴を作って待っています。それは許されます。クリシュナが許してくださいます。しかし、わざとしている者は許されません。私が献身者だからといって、もしも「私はマントラを唱えているのだから、どんな馬鹿げたことをしたって許される」と考えるなら、それは最もはなはだしい冒涜です。
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by ammolitering4 | 2008-09-09 07:28 | 「完璧な問い、完璧な答え」 | Comments(0)

完璧な問い、完璧な答え 第7章-1

第7章クリシュナの知識をもって行動する 
1972年2月29日(続き)

インド人の紳士どのような行いによって人は良いカルマを得られますか?
SP良いカルマとは、ヴェーダに定められている事柄です。特に、人はヤジニャを行うべきであると定められています。ヤジニャとは至高の人格神、主ヴィシュヌの満足のための行いを意味します。つまり、良いカルマとはヴェーダ文献において定められたようにヤジニャを行うことを意味します。そしてこのヤジニャの目的は至高主を満足させることです。法律を守る良き市民とは、その行いが政府を満足させる者のことです。良きカルマとは至高主である主ヴィシュヌを満足させることです。不幸にして現代の文明は至高の人格神の何たるかを知らず、ましてや主を満足させることなど考えも及びません。人々は知らないのです。彼らは単に物質的な行いにかまけています。だから彼らのすべては悪いカルマのみを行っており、その結果苦しんでいます。盲目の者たちが他の盲目の者たちを導いているのです。両者が悪いカルマに苦しんでいます。これは簡単に理解できます。犯罪行為をすれば、苦しむでしょう。もしあなたが国家のために、人々のために、何か慈善を行えば、あなたは認識され、ときには称号を与えられます。これが良いカルマと悪いカルマです。良いカルマでは人は幾らかの物質的な幸せを享受します。悪いカルマでは人は物質的な苦しみを味わいます。良いカルマによって人は良い家庭に生を受けます。富を、財力を手に入れます。学識ある学者にもなり、美しくもなります。(いくらかの時間が経つ)
B神についてあまり気づいていない―――そういう人の場合は、、、
SPそういう人は動物です。動物は何が良いことが知りません。神が何か知らない者、あるいは神が何か理解しようとしない者―――その人は動物です。動物には四本の脚があり、その動物には二本の脚があります。そしてダーウィンの理論では彼らは猿です。神を知らない者、神を理解しようとしない者、そういう人は動物でしかありません。
Bしかし、無邪気な人々はどうですか?
SP動物は大変無邪気です。もしあなたが動物の喉を掻き切れば、それは抵抗しません。無邪気であることはそれほど良い資質ではないのです。動物は皆無邪気です。だから人間は彼らの喉を掻き切る機会を得ることができます。無邪気になることはあまり良い資質ではないのです。私たちの主張は、人は非常に明晰でなければならないということです。そうすればクリシュナを理解することができます。無邪気で無明のボンクラになることは、あまり良い資質ではないのです。単純さは構いませんが、知性に欠けているべきではありません。
B知性とは何かもう一度お話しくださいませんか?
SP知性とは、、、自分が何であるか、この世界とは何であるか、神とは何であるか、それらの関係性は何であるか―――それらのことを知っているものは知性的です。動物は自分が誰か知りません。自分は体だと思っています。同様に、自分が何者であるかを知らない者は知性に欠けています。
B自分のしていることに気づいていないのではなく良いことをする―――しようとしていて、良心的である人の場合はどうですか?主人に対して大変正直だけれど、たとえ正直でなくても見つかることはないと知っている従者のような。もしその人がどっちにしても正直であるとしたら、、、そういう人は?そういうのはある種の良いカルマですか?
SPそうです。正直になることも良いカルマです。どうやって良い人になるかはバガヴァッド・ギーターに詳しく描写されています。(サンスクリット引用)つまり、もしあなたがダイヴィー・サムパッド(超越的な性質)を得たなら、そうすればヴィモクシャーヤ―――あなたは解放されるでしょう。そしてニバンダーヤースリー―――もしあなたが悪魔的な資質を得れば、あなたはもっともっと呪縛されるでしょう。不幸にして現代の文明は解放や呪縛の何たるかを知りません。彼らは本当に無知なのです。知らないのです。もし私があなたに解放とは何を意味するかと尋ねれば、答えられますか?(答え無し)そしてもし私が呪縛とは何かと聞けば、答えられますか?(またもや答え無し)これらの言葉はヴェーダ文献にあります―――解放と呪縛―――しかし、現在では人々は解放とは何か、呪縛とは何かということさえ知りません。彼らはとても無知で愚かで、それなのに自分たちの知識の進歩を誇りに思っているのです。あなたは解放とは何か答えられますか?あなたは教授、教師です。しかし、私があなたに問えば、あなたは解放とは何か説明することができますか?
B十分にはできません。もし説明できるなら、そしたら私はとても素早く解放されているでしょうから。
SPしかしもしあなたが解放とは何かを知らないなら、素早い解放もゆっくりした解放もありませんね?(皆、笑う)解放される可能性はあります。速くも遅くも。あなたはまず解放とは何かを知らねばなりません。もしあなたが列車がどこに向かっているかを知らないなら、それが速く動いているかゆっくり動いているかと尋ねることや理解することに何の意味があるでしょう。あなたは自分の行き先を知りません。解放とは何ですか?
Bうーん、、、
SP私が尋ねています。毎日あなたが私に尋ねます。今は私があなたに尋ねています。
B(笑う)ああ―――分かりました、、、ちょっと考えさせてください。
SP解放はシュリマッド・バーガヴァタムに描写されています。解放を指す正しいサンスクリットの言葉はムクティです。それはシュリマッド・バーガヴァタムに定義されています。(サンスクリット引用)人はすべての下らない行いを止めるべきであり、本来の立場に戻らなければなりません。しかしこれもまた重ねて恥ずかしいことです。誰も自分の本来の立場を知らず、正しい行いをする方法を知らないからでうs。人々は一般的に違うふうに(正しくなく)行動しているため、彼らは何が正しいか知らないので―――現代の人々は自分たちの人生について非常に無知なのです―――それはとても歪んだ状態(awkward position)です。彼らは知らないのです。
B誰が正直であるのか教えてください。(正直な人とはどういう人か)
SP正直さとは何かを知らなければ、どうやって正直でいられるでしょう。しかしもし人が正直とは何かを知っていれば、そうすれば正直であることができます。正直さとは何ですか?まずそれを説明してください。
Bああ―――うーん、、、正直さとは、正しいと心から感じることをすることです。
SP泥棒は「子供たちに食べさせるために盗まねばならない。これは正しいことだ」と感じています。これは彼が正直であることを意味しますか?皆が考えています―――肉屋は考えます:「これが私の生業だ。私は毎日動物の喉を掻き切らねばならない」ちょうどあの―――あの狩人は何といいましたか?ナーラダムニが会ったあの人は?
Ssムリガーリです。
SPそう、ムリガーリ。ナーラダは彼に尋ねました。「なぜそうやって殺すのですか?」すると彼は答えました。「これが私の仕事だからです。父が教えてくれました。」彼は正直にそうしていたのです。正直さの感覚は文化によって違います。泥棒の文化は違います。彼は盗むことは正直だと考えます。
Bでは、正直さとは何ですか?
SPそう、それが私の質問です。(皆、笑う)本当の正直さとは、他者の所有物を侵害しないことです。それが正直さです。例えば、これは私のテーブルです。もしあなたが帰るときにこれを持ち去りたいと思えば、それは正直さですか?つまり、正直さの単純な定義は、他者の権利を侵害しないということです。それが正直さです。
Bでは、正直な人は徳の相にあるのですか?そう考えてよろしいですか?
SPもちろんです。もちろんです。徳の相は知識を意味するからです。もしあなたが「このテーブルは私のではない。尊師のものだ」と知っていれば、あなたはこれを持ち去ろうとはしないでしょう。したがって、人は知らねばなりません―――そうすれば正直になれます。
B徳の相は神の知識だとおっしゃいましたが、人はほとんど神のことを知らないで正直であるかもしれません。
SPふむ?
B正直で―――正直であることなく―――それが神の望みであるから正直であるのだと考えることなく―――彼らはただ正直であるべきだと感じるのです。
SPふむ。神は皆が正直であって欲しいと望まれます。なぜそうでないことがあるでしょうか。
Bつまり、、、つまり、神の御意思に従っていると知らずにそれに従っているかもしれないということは?そういう人は、、、
SPいいえ、知識なくして従うこと―――それは不合理です。人は神の命令を知らねばなりません。そしてもし人がそれに従えば、それは正直さです。
Bしかし、神を知らないで正直であるという場合はありませんか?(But somebody would not be honest without knowing God?)
SPありません(Yes)。神は至高の所有者であり、至高の享楽者であり、至高の友であるからです。それがバガヴァッド・ギーターに述べられていることです。もし人がこれらの3つのことを知っていれば、そうすればその人の知識は完全です。ただこの3つのことだけです。神はすべての所有者であり、神はすべての者の友であり、神はすべてのものを楽しむ方である、ということです。例えば、体では胃が楽しむ者であることは誰もが知っています。手や脚や目や耳ではありません。これらは単に胃を助けるためにあります。目は―――ハゲタカは胃に入れる食べ物がどこにあるかを見るために7マイルも高くへ飛びます。そうではありませんか?
Bその通りです。
SPそして羽はそこに飛び、顎は食べ物を捕まえます。同様に、この体では胃が楽しむ者であるように、物質的おより霊的な天空顕現のすべての中心的な存在はクリシュナ、神です。彼が楽しむ者なのです。私たちはこのことを単に自分たちの体のことを考えてみるだけで理解することができます。この体も創造物です。体は宇宙全体に見られるのと同じ機械的な性質を持っています。同じ機械的な仕組みはどこにでも見られます。動物でも同じです。人間の体であろうと、天空の顕現であろうと―――ほとんど同じ仕組みなのです。この体では―――私のも、あなたのも―――胃が享楽者であることはごく簡単に理解することができます。中心的な享楽者が存在するのです。そして胃は友でもあります。考えてみてください、あなたが食べ物を消化できなければ、体の他のすべての部分が弱くなるからです。だから胃は友です。胃は消化してエネルギーを体中全部に送り届けているのです。そうではありませんか?
Bその通りです。
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by ammolitering4 | 2008-09-09 07:26 | 「完璧な問い、完璧な答え」 | Comments(0)

完璧な問い、完璧な答え 第6章ー2

Ss以前、弟子たちの罪深い行いが原因で具合が悪くなったり痛みを感じたりすることが時々あるとおっしゃいました。病気はそれが原因であることもあるのですか?それによって引き起こされるのですか?
SPクリシュナは次のようにおっしゃいました。(サンスクリット引用)「私はすべての罪深い行いの結果からあなたを救う。恐れるな」クリシュナはとても力強いので、人々のすべての罪をただちに被ることができ、ただちにそれらを正すことができます。しかし生命体がクリシュナの代わりにその役を果たすときは、その生命体も自身の弟子たちの罪深い行いの責任を取ります。したがって、グルになるのは簡単な課題ではないのです。分かりますか?グルはすべての毒を飲み、それを吸収しなければならないのです。だから時々グルは―――グルはクリシュナではないので―――ときどき問題が生じます。したがってチャイタンニャ・マハープラブは「多くのスィシャ、弟子を取ってはいけない」と禁じられました。しかし伝道のために私たちは多くの弟子を受け入れなければなりません―――伝道を広めるために―――たとえ苦しんでも。それは事実です。霊的指導者は、その弟子のすべての罪深い行いの責任を取らねばなりません。したがって、すべての罪を消化吸収することができない限り、多くの弟子を取るのは危険をはらんだ仕事なのです。(サンスクリット引用)「私は主のすべてのヴァイシュナヴァ献身者に尊敬の念を込めて服従します。彼らはちょうど皆の望みを叶えることのできる望みの木のようなものです。彼らは堕落して制約された魂への同情に満ちています。」霊的指導者はすべての堕落した魂の責任を取ります。この考えかたは聖書にも見られます。イエス・キリストは人々のすべての罪深い行いの結果を引き受けて自分の生命を犠牲にしました。それが霊的指導者の責任です。クリシュナはクリシュナであるので、彼はアパーパ・ヴィッダ、罪深い行いの結果によって痛めつけられることはありません。しかし生命体はとても小さいので、時としてそれらの影響にさらされます。大きな火と小さな火の違いです。もしも小さな火に何かおおきな物をくべると、火そのものが消えてしまうかもしれません。しかし大きな火には何をくべても構いません。大きな火はすべてを焼き尽くすことができるのです。
Bキリストの苦しみはそのような性格のものだったのですか?
SPふむ?
Bキリストの苦しみは―――
SPそれは既に説明しました。彼はすべての人の罪深い行いの結果を引き受けたのです。だから苦しみました。
B分かりました。
SPキリストは―――それは聖書に書いてありますが―――人々のすべての罪深い行いの結果を引き受けて自分の生命を犠牲にしたと言いました。しかし、これらのキリスト教徒たちは、自分たちが好きなだけ愚かな行いをする一方でキリストに苦しませるというのを決まりにしてしまいました。(ボブ、短く笑う)なんという愚か者たちでしょう!彼らは自分たちが好きなだけ愚かな行いを続けられるように、キリストにすべての罪を被せることを取り決めたのです。それが彼らの宗教です。キリストはとても偉大な方だったので、彼らのすべての罪を引き受けて苦しみました。しかし、そのことが彼らに自らのこうしたあらゆる罪を止めようと思わせることはありません。彼らはそれに気づいていないのです。彼らはこれをとても軽く受け止めました。「主イエス・キリストに苦しんでもらって、私たちは好きなだけ愚かな行いを続けよう」そうではありませんか?
Bその通りです。
SP彼らは恥を知るべきです。「主イエス・キリストは私たちのために苦しまれた。しかし私たちは罪深い行いを続けている」キリストはすべての人におっしゃいました。「あなたがたは殺してはならない」しかし彼らは殺すことを続けています。「主イエス・キリストは許してくださり、すべての罪深い行いの結果を被ってくださる」と考えているのです。これが続いています。私たちはとても注意深くあるべきです。「私の罪深い行いのために私の霊的指導者が苦しまれる。だから私はほんのわずかでも罪を犯さないようにしよう」それが弟子の義務です。洗礼の後は、すべての罪深い行いの結果は終了します。それから彼が再び罪を犯せば、霊的指導者が苦しまねばなりません。弟子は同情的にこれを考慮すべきです。「私の罪深い行いのために私の霊的指導者が苦しまれる」もし霊的指導者が何かの病気に侵されるなら、それは他者の罪深い行いのためです。「多くの弟子をとってはいけない。」しかし私たちは伝道しているので、それをするのです。気にするな―――苦しもうではないか―――それでも私たちは彼らを受け入れます。したがってあなたの問いは―――私が苦しむとき、それは私の過去の過ちによるのか、そうでないのか?幾人かの愚かな弟子を受け入れたこと―――それは私の過ちです。それが私の過ちなのです。
Bこういうことはときどき起こりますか?
SPはい。私たちは多数の人々を受け入れているので、必然的に起こります。注意深くあることは弟子の義務です。「私の霊的指導者が私を救ってくださった。私は彼を再び苦しみに陥れるべきではない」霊的指導者が苦しんでいるときは、クリシュナが救ってくださいます。クリシュナは「おお、彼は堕落した人々を救うためにこんなに多くの責任を引き受けた」とお考えになります。クリシュナはそこにいらっしゃるのです。(サンスクリット引用)「おお、クンティの息子よ、私の献身者は決して滅びることがないと、高らかに宣言しなさい」霊的指導者はクリシュナの代わりに危険を負っているからです。
Bあなたの苦しみは(非献身者の)痛みとは同じ種類のではないと。。。
SP違います。カルマによるものではないのです。痛みはときどきはありますが、それによって弟子たちが「私たちの罪深い行いによって私たちの霊的指導者が苦しんでいる」と分かるように存在するのです。
Bあなたは今はとてもお元気でいらっしゃるようにお見受けします。
SP私はいつも元気です、、、たとえ苦しみがあってもクリシュナが守って下さると知っているという意味において。しかし、この苦しみは私自身の罪深い行いによるものではありません。
Bしかし、例えば私が―――住んでいる町で水に病原菌が入っていることがあるから沸騰した水を飲んでいるとします。では、もし私が病気にならないくらい清らかであれば、なぜ沸騰した水を飲んだほうがいいのでしょうか。どんな水を飲んだって平気なはずです。そして、もし私が正しい行いをしていないなら、どっちにしても病気になるでしょう。
SP物質的な世界にいる限り、物質的な法則を無視することはできません。例えば、ジャングルに行って、そこにトラがいるとしましょう。トラが人を襲うことは分かっていますが、それならなぜあなたは自発的に行って襲われるべきでしょうか。献身者は物理的な体を持っている限り物理的な危険を冒すべきではないのです。それ(献身者であること)は物理的な法則への挑戦ではありません。「私は献身者になった。何にでも挑戦しよう」それは愚かさです。(サンスクリット引用)献身者は生活に必要なものを執着することなく受け入れるべきであると助言されています。彼は沸騰した水を飲みますが、もし沸騰した水がなかったら普通の水を飲みます。私たちはクリシュナのプラサーダ(お供えのお下がり)を食べますが、巡行中は、時々はホテルで食事をすることもあります。献身者だからと言って「私はホテルの食べ物は食べない。飢えていよう」と考えるべきでしょうか。もし飢えれば、私は弱くなって伝道することができません。
B献身者は自分の独自性をいくらか失うということは―――
SPいいえ。彼はクリシュナを喜ばせるための完全な独自性を持っています。クリシュナは「私に服従しなさい」と言います。だから献身者は自分の意思で服従します。彼が自分の独自性を失ったわけではないのです。彼は自分の独自性を保ちます。アルジュナのようなものです―――彼は初めは戦うことを拒否していました。自分の独自性のためです。しかし彼はクリシュナを霊的指導者として受け入れたときにスィシャ(弟子)になりました。それからはクリシュナが命令したことにはすべて「はい」と言いました。それは彼が自分の独自性を失ったという意味ではありません。彼は自分の意思で受け入れたのです。「何であれ、クリシュナの言うことを私はしよう」私のすべての弟子のようなものです―――彼らはそれぞれの独自性を失ってはいませんが、独自性を引き渡しました。それを要求されるのです。たとえば、ある人が性器を使わないとしましょう。それは彼が性的不能になったことを意味するのではありません。そうしたいなら千回でも性行為をすることができます。しかし彼は自分の意思でそれを避けました。(サンスクリット引用)彼はより高い嗜好を持っているのです。時々私たちは断食します。しかしそれは私たちが病気だというわけではありません。私たちは自分の意思で断食するのです。私が空腹でないとか、食べることができないとかいうことを意味するのではありません。しかし私たちは自分の意思で断食します。
B服従する献身者はそれぞれの独自の嗜好を維持しますか?
SP完全に維持します。
B異なる物事への嗜好をですか?
SPふむ?
B彼は独自の好みや嫌悪を維持しますか?
SPそうです。彼はすべてを維持します。しかし彼はクリシュナのほうを好むのです。たとえば私がここにあるこれを好きだとして、クリシュナが「いいえ、それを使ってはいけません」と言ったとしましょう。そうしたら私はそれを使わないのです。クリシュナのためにそうするのです。(サンスクリット引用)クリシュナははっきりと「私はこれらのものが好きだ」とおっしゃいます。私たちはクリシュナにお好きなものを差し出さねばなりません。そして私たちはプラサーダを頂くのです。クリシュナはラーダーラーニーがお好きです。したがってすべてのゴピーたちはクリシュナのほうにラーダーラーニーを押し出そうとします。「クリシュナはこのゴピーがお好きです。いいでしょう、彼女を押し出しましょう」それがクリシュナ意識です。クリシュナの感覚を満足させることであって、私の感覚の満足ではありません。それがバクティなのです。それはプレマ、クリシュナへの愛と呼ばれます。「ああ、クリシュナはこれがお好きだ。私はクリシュナにこれを差し上げなければならない。」
Bここにいくらかのプラサーダ(クリシュナに捧げられた食べ物)があります。それが捧げられて、それから私たちが頂いて食べて、そして別のプラサーダが出されます。好きなものもあるのですが、中には私の口には全く合わないものもあります。
SPそういうことはすべきではありません。完成とは、クリシュナに捧げられたものは何であれ受け入れるということです。それが完成です。あなたは「これは好きだ、これは好きではない」と言うべきではありません。そのような好き嫌いをする限り、あなたはプラサーダのありがたさを理解していないということになります。
献身者好き嫌いのことを話している人がいたらどうですか?たとえば誰かがプラサーダを準備しているとして―――
SP嫌いも無し、好きも無し。クリシュナがお好きなものは何であれ、それは良いのです。
献身者はい、そうですが、例えば誰かが何か、プラサーダなどを作っているとして、でもあまりうまく作らなくてそれが―――
SPいいえ、もし献愛の念を持って誠実に作れば、クリシュナはそれがお好きなのです。ヴィドゥのようなものです。ヴィドゥはクリシュナにバナナを食べさせていましたが、彼はあまりにも考えに没頭していたので、バナナの中身を捨ててクリシュナに皮を差し上げていました。そしてクリシュナはそれを食べていたのです。(皆、笑う)クリシュナは彼が献愛と共に捧げていたことを知っていました。そしてクリシュナは献愛がある限り何でも食べることができるのです。それが物質的においしいかそうでないかは関係ないのです。同様に、献身者もクリシュナのプラサーダを頂きます。物質的においしかろうが、そうでなかろうが。私たちはすべてを受け入れるべきなのです。
献身者しかし、もし献愛の念がなければ、インドでのように、、、
SPおお、またインド、インドと言う。インドの話をしてはいけません。哲学の話をしなさい。献愛の念がなければクリシュナは何もお受け取りになりません。インドだろうとあなたの国だろうと。主クリシュナはとてもおいしいからと言って何か値段の高い物をありがたく受け取るわけではありません。クリシュナはヴァイクンサにおいしい食べ物をたくさんお持ちです。クリシュナはあなたの食べ物を欲しがっていらっしゃいません。主はあなたの献愛を、バクティをお受け取りになるのです。本当のものは献愛です。食べ物ではありません。クリシュナはこの物質世界のいかなる食べ物もお受け取りになりません。主は献愛だけをお受け取りになるのです。(サンスクリット引用)「もし人が私に愛情と奉仕の念を持って葉か花か実か水を捧げれば、私はそれを受け取る」「それは私に愛情と奉仕の念を持って捧げられたから」―――それが必要とされるのです。だから私たちは献身者でない者には料理をすることを許しません。クリシュナは非献身者の手からは何物も受け取られません。なぜ主がそれをお受け取りになるべきでしょうか。主は空腹ではあられません。いかなる食べ物も必要としてはいらっしゃいません。主はただ献愛だけをお受け取りになるのです。それだけです。それが主な要点です。つまり、人は献身者にならなければならないのです。腕の良い料理人ではありません。しかし、もし献身者になれば腕の良い料理人にもなります。自動的にそうなるのです。したがって、人はただ献身者にならなくてはならないだけです。そうすると他のすべての良い資質が自動的に伴います。そしてもし人が献身者でないなら、いかなる良い資質も何の価値もありません。その人は精神的な水準にいるので、何の良い資質も持ちません。(会話に長い沈黙あり)
SP今何時ですか。
Ss6時です。
SP質問と答えが必要です。それらはすべての者に有益です。
B私はまだプラサーダについて質問があります。
SPスータ・ゴスヴァーミーは次のようにおっしゃいました。(サンスクリット引用)「おお、賢人たちよ、あなた方は私に正しく質問をなさいました。あなた方の問いかけは主クリシュナに関するものであるので、価値があり、世界の幸せに関係があります。このような種類の問いだけが自己を完全に満足させることができます」クリシュナ・サムプラスナー、それはとても良いのです。議論し、聞くとき、それはロカ・マンガラム、すべての人にとって縁起が良いのです。質問も答えもです。
B私はまだプラサーダについてよく分かりません。しかしもしよろしかったら、考えてみてまた明日お尋ねしたいと思います。
SPプラサーダは常にプラサーダです。しかし私たちは十分に引き上げられていないので、嫌いだと思うプラサーダもあります。
Bお話ししたいことが何なのかはっきりしました―――中には香辛料が強すぎるものがあるのです。お腹が痛くなります。
SPふーむ。。。それもまたありがたさを理解していないことですが、しかし料理人が注意すべきです。クリシュナには一流の料理をお出ししなければなりません。そのため、もし料理人がレベルの低いものを捧げれば、その人は自分の義務を果たしていないことになります。しかしクリシュナはもしそれが献身者によって捧げられれば、何であっても受け入れることがおできになり、献身者はどんなプラサーダでも受け入れることができます。たとえ香辛料が利いていようと。ヒラニャカスィプは自分の息子に毒を与え、(その子はそれをクリシュナに捧げ、)そして息子はそれを蜜の味の飲み物として飲みました。たとえ他の人々の舌には香辛料が利きすぎでも、献身者にとってはとてもおいしいのです。香辛料がどうしたというのでしょう。彼は本物の毒を与えられたのです。そしてプータナー・ラークシャシー―――彼女もまたクリシュナに毒を与えました。しかしクリシュナはとても慈悲深いので、「彼女は私の母親として私を受け入れた」と考え、そのため毒を飲んで彼女を解放しました。クリシュナは悪いふうには考えません。善人は悪いふうには考えません―――彼は良いふうにだけ考えます。私の兄弟子たちの一人のようなものです―――彼は私のグル・マハーラージャ(霊的指導者)と取引をしようとしましたが、私のグル・マハラーラージャは悪いようにはお受け取りになりませんでした。良いように考えたのです。「この弟子は私に何かの奉仕をしにきた」と考えられました。
B誰と取引をしようとしたのですか?
SP私のグル・マハーラージャについて話しているのです。
Bああ、分かりました。もしよろしかったら、プラサーダについてもう一つ質問があるのですが。例えば、何かの問題があって特定の食べ物を食べられない献身者がいるとします―――肝臓に問題があってギーを食べない献身者のようなものです。これらの献身者たちは、そうすると、すべてのプラサーダを食べるべきですか?
SPいえ、いえ。完璧でない献身者は好き嫌いを言うかもしれません。しかし完璧な献身者はそうしません。なぜあなたが完璧な献身者の真似をすべきでしょう。好き嫌いがある限り、あなたは完璧な献身者ではありません。ではなぜあなたがわざと完璧な献身者の真似をして何でもかんでも食べるべきでしょうか。
Bああ。
SP要点は、完璧な献身者は好き嫌いをしないということです。何であれ、クリシュナに捧げられた物は蜜です。それだけです。クリシュナは献身者からは何でもお受け取りになります。「何であれ、私の献身者が私に捧げてくれたものは」主は受け取られるのです。献身者も同じことです。要点が分かりませんか?完璧な献身者は全く好き嫌いを言いません。しかしもし私が完璧な献身者でなくて好き嫌いがあるなら、なぜ私が完璧な献身者を真似ようとすべきでしょう。私は完璧な献身者ではないので、私にはすべてを消化することはできないかもしれません。献身者は愚か者であってはなりません。次のように述べられています。(サンスクリット引用)献身者は自分の立場を知っており、彼は他者をもそれ相応に扱う知性を持っているのです。
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by ammolitering4 | 2008-09-09 07:23 | 「完璧な問い、完璧な答え」 | Comments(0)

完璧な問い、完璧な答え 第6章-1

第6章完璧な献身者1972年2月29日夜

Ssスリラ・プラブパーダ、今日の午後、私たちは苦行について語っていましたね。
SPふむ?
Ssもしも私たちが自発的に苦行を行わないなら、その場合は何らかの苦行を強いられるのですね。
SPそうです。霊的指導者の指南の下で、人はそうすべきです。。。あなたには苦行をしたいという気持ちは全くなくても、もしも霊的指導者を受け入れるなら、あなたは彼の命令を実行しなければなりません。それが苦行です。
Ssたとえ苦行をしたくなくても、しなければならないのですね。
SPそうです。しなければなりません。あなたは霊的指導者に服従したので、彼の命令は絶対です。だからたとえ好まざるとも、しなければなりません。私を喜ばせるために。
Ssああ。
SPしかしあなたはそれを好まない。。。(プラブパーダ、笑う)誰も絶食したいとは思いません。しかし霊的指導者が「今日は断食です」と言います。一体何ができるでしょう。(シャーマスンダラ、笑う)弟子とは、霊的指導者によって統制されることに自分の意思で同意した者です。それは苦行です。
Ss例えば、私たちの両親や物質世界の多くの人々のように、物質的な人生に完全に魂を奪われた人々―――彼らは苦行や肉体的な痛みを受けたがりませんが、それでも彼らもそうしなけばならないのですね。彼らは自然によって苦行に苦しむことを強いられます。
SPそれは強いられた苦行です。それはよくありません。自らの意思による苦行は助けになります。
Ssもしも自発的な苦行をしないなら、苦行をするように強いられなければなりませんね。
SPそれが人間と動物の違いです。動物は苦行を受け入れることができません。しかし人間は受け入れることができます。菓子屋においしい食べ物があり、人間はそれを食べたくてもお金がないと気づけば自分を規制することができます。しかし、牛が来ればすぐさま口を突っ込むでしょう。棒で叩いても、牛は我慢します。牛はそういうふうにするのです。したがって、動物は苦行をすることができません。私たちの苦行はとてもよいものです。私たちはハレ・クリシュナを唱え、踊り、クリシュナが大変素晴らしい食べ物を送ってくださるので、それを食べます。それだけです。なぜあなたの国の人たちはこのような苦行に同意しようとしないのでしょうか。マントラを唱えること、踊ること、そしておいしいものを食べることに?
B何とおっしゃいましたか?
SP私たちは苦行をしているので、クリシュナは良いものを送ってくださいます。だから私たちは敗者ではないのです。あなたがクリシュナ化されるとき、そのときあなたは現在よりももっと多くの快適さを得ます。それは事実なのです。私は過去20年間一人で住んでいますが、困難はありません。サンニャーサを受ける前はデリーに住んでいましたが、困難はありませんでした。
Ssもし霊的な統制を受け入れないなら自然が多くの不幸を強いるのですね。
SPその通りです。それはバガヴァッド・ギーターに述べられています。(サンスクリット引用)「物質自然の3つの相からなる、私のこの聖なるエネルギーは、乗り越えることは困難です。しかし私に服従した者は簡単にそれを越えることができます。」マーヤーはたくさんの困難を強いていますが、クリシュナに服従すればもはやそれらが強いられることはありません。
Ss私たちはとても愚かなので、いつも「いつか幸せになるだろう」と考えていました。
SPそうです。それがマーヤー、幻想です。ロバのようなものです。ロバの背に座り、一掴みの草を差し出します。ロバは「ちょっと前に進もう。そうしたら草が食べられる」と考えています。(ボブ、笑う)しかし、それはいつも30センチ先にあるのです。それがロバ主義です。(皆、笑う)皆が「もうちょっと先へ進もう、そうしたら手に入れられる、私はとても幸せになるだろう」と考えています。
B本当に、、、本当にありがたく、、、
SPふむ?
B明日はここを去らなくてはならないのです。そして―――
SP去ること(リーブ)を語らず、生きること(リブ)を語りなさい。
B今はまだできません。でも明日は自分の町に帰ることを考えていたのですが、しかし、、、
SP帰ってはなりません。
B明日もここに―――ここにいるべきですか?
SPここにいなさい。
Bあなたがそうおっしゃるなら、そうします。
SPそう。あなたはとても良い若者です。(長い沈黙あり。前よりずっと静寂が深い)それはとても単純です。生命体がクリシュナを忘れるとき、彼らはこの物質世界にいるのです。クリシュナは、神の名前、形、住みか、娯楽―――すべてを意味します。
B最後のは何ですか?
SPああ?娯楽です。
B娯楽ですか。
SP王のことを語るときは、それは王の政府、宮殿、妃、王子たち、秘書たち、軍事力―――すべてを意味します。そうではありませんか?
Bはい。
SP同様に、クリシュナは至高の人格神なので、クリシュナのことを考えれば、それはクリシュナのすべてのエネルギーを意味します。それは「ラーダー・クリシュナ」というときに完成します。ラーダーはクリシュナのすべてのエネルギーを表しています。そしてクリシュナは至高神です。だから私たちがクリシュナのことを語るときは生命体も含まれます。生命体はエネルギー、クリシュナの異なるエネルギー―――優性のエネルギーだからです。このエネルギーがエネルギー源に仕えていない状態、これが物質的な存在です。世界全体がクリシュナに仕えていません。彼らは異なる方法でクリシュナに仕えています。彼らは間接的に仕えているのです。ちょうど従順でない市民が政府に間接的に仕えるようなものです。囚人は国家の法律に従わなかったかどで刑務所に送られます。刑務所では彼らは国家の法律に従うように強制されます。同様に、ここにいるすべての生命体は無明あるいは選択によって神を持ちません。彼らは神の至上権を受け入れるのを好みません。悪魔的なのです。だから私たちは彼らを本来の状態に連れ戻そうとしています。それがクリシュナ意識運動です。
Bちょうど献身者たちと話していたことについてお尋ねしたいと思います。医学です。私は今日、何人かの献身者たちと一緒に川へ歩いて行きました。私は風邪を引いているので、「水には入らないほうがいい」と言いました。何人かは「この川はガンジスなので入ったほうがいい」と言い、別の人たちは私は風邪を引いているので入るべきではないと言い、そして私たちは語り合ったのですが、私には分からないのです。私たちは過去の悪い行いのために病気になるのですか?
SPそうです。それは事実です。
Bでも場合によっては、、、
SP私たちの苦しみは、すべからく私たちの過去の不善なる行いの結果です。
Bしかし、ある人がカルマの影響から離れれば、、、
SPそうすれば?
B、、、その人はそれでも病気になりますか?
SPなりません。たとえ病気になっても、それはとても一時的です。たとえば、この扇風機は動いています。もしコードを抜いても、しばらくは動きます。その動きは電流によるものではありません。それは動力です―――この動力は物理学的には何と言いましたか?
Ss惰性です。
SP惰性ですね。しかし、それが止まってしまうと、もはや動きはありません。同様に、たとえクリシュナに服従した献身者が物質的な結果に苦しんでいても、それは一時的です。したがって、献身者は物質的な惨めさを惨めさと受け取りません。それをクリシュナの、神の恵みであると受け取るのです。
B完成された魂、献身者、純粋な献身者とは、、、
SP完成された魂とは、一日24時間クリシュナ意識で過ごす者のことです。それが完成です。それは超越的な立場です。完成とは人の本来の意識でいることです。それが完成です。それはバガヴァッド・ギーターに述べられています。(サンスクリット引用)「それぞれの性質に合った仕事をすることで、すべての人が完成に至ることができます。」完全な完成です。サムスィッディ。スィッディは完成です。それはブラーマン意識であり、霊的な認識です。そしてサムスィッディは献愛を意味し、それはブラーマン認識の後に来ます。
B最後のおっしゃったことを、もう一度言っていただけませんか?
SPサムスィッディ。
Bはい。
SPサムは完全なという意味です。
Bはい。
SPそしてスィッディは完成を意味します。バガヴァッド・ギーターでは、家へ帰る者、至高神のもとに帰る者は完成を得たのである、と述べられています。完成は、人が自分はこの体ではなく霊魂であると気づくときに訪れます。したがって、もしも誰かが既に献身奉仕をしているなら、ブラーマン認識はすでにそこにあると理解されます。したがってそれはサムスィッディと呼ばれます。
B謹んでお尋ね申し上げるのですが、あなたは病気になったり具合が悪かったりすることはおありですか?
SPふむ?
Bあなたは個人的に病気や体調の悪さを感じますか?
SPはい。
Bそれはあなたの過去のカルマの結果ですか?
SPそうです。
Bでは、この物質世界にいる者は決して完全にカルマを逃れることはないのですか?
SPいえ、逃れます。献身者にはもはやカルマはありません。カルマの結果もありません。
Bしかしあなたは最高の献身者でいらっしゃるに違いありません。
SPふむ。。。いいえ、私は自分が最高の献身者であるとは思いません。私は最低です。
Bとんでもない!
SPあなたこそ最高の献身者です。
B(笑う)とんでもない、とんでもない!しかし、どうも、あなたがおっしゃると―――あなたがおっしゃることは、、、いつも正しいように見えます。
SPはい。
Bではあなたは最高の献身者でいらっしゃるに違いありません。
SPどういうことかと言うと、たとえ最高の献身者でも、伝道をするときは献身者の二流のレベルに来るのです。
B一流の献身者は何をしているのですか?
SP最高の献身者は伝道しません。
B何をするのですか?
SP伝道の必要はないと見るのです。最高の献身者にとっては、誰もが献身者です。(ボブ、大笑いする)そうです、最高の献身者の目には、もはや献身者でない人はないのです―――皆が献身者なのです。そのような人はウッタマ・アディカーリーと呼ばれます。しかし、伝道をしている私はどうして自分が最高の献身者であると言えるでしょう。ラーダーラーニーのようなものです。彼女は誰のことも非献身者であるとは見なしません。だから私たちはラーダーラーニーに近づこうとするのです。
Bそれは誰ですか?
SPラーダーラーニー、クリシュナの恋人です。
Bああ。
SPもし誰かがラーダーラーニーに近づけば、彼女はクリシュナに「ここに最高の献身者がいます。この人は私より優れています。」とクリシュナに勧め、クリシュナはこの人を退けることができません。それが最高の献身者です。しかし、それを真似ようとしてはなりません。「私は最高の献身者になった」(サンスクリット引用)二流の献身者は神をねたんでいる者がいるという見方をしていますが、これは最高の献身者の見方ではありません。最高の献身者は「神をねたむ者などいない。誰もが私より優れている」と見なします。「チャイタンニャ・チャリタームリタ」の著者であるクリシュナダーサ・カヴィラージャのようなものです。彼は「私は糞の中のウジよりも低い」と言います。
B誰がそう言うのですか?
SPクリシュナダーサ・カヴィラージャ、「チャイタンニャ・チャリタームリタ」の著者です。(サンスクリット引用)彼はわざとそう言ったのではありません。本当にそう感じているのです。「私は最低だ。皆が最高で、私は最低だ。誰もがクリシュナに仕えているのに、私は仕えていない」チャイタンニャ・マハープラブは、「おお、私にはクリシュナへの献愛の情がこれっぽっちもない。私はわざと泣いて見せている。もし私がクリシュナの献身者であったなら、とっくの昔に死んでいたはずだ。でも私は生きている。それは私がクリシュナを愛していない証拠だ」それが最高の献身者の見方です。彼はクリシュナへの愛にあまりにも没頭しているので、「すべてが起こっているのに、私は最低だ。だから私には神が見えない」と言います。それが最高の献身者です。
B献身者はすべての人の解放のために働かねばならないのですね。
SPそうです。献身者は真正なる霊的指導者の指示のもとで働かねばなりません。最高の献身者を真似るのではありません。
B何とおっしゃいましたか?
SP人は最高の献身者をまねるべきではありません。
Bまねる、、、ああ、そうですね。
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by ammolitering4 | 2008-09-09 07:22 | 「完璧な問い、完璧な答え」 | Comments(0)