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第3章

第4段落
The proper process for approaching Krsna was given to humanity by Lord Caitanya Mahaprabhu,
主チャイタンニャ・マハープラブは、クリシュナに近づくための正しい方法を教えてくださいました。
(訳注、主語は「クリシュナに近づくための正しい方法」ですが、日本語の構文では「何かが誰かによって与えられました」という文は少々座りが悪いので、「誰かが何かをくれました」というふうに形を変えて訳します。でも、お気づきかと思いますが、このサイトでは基本的に逐語訳をしています。)

and Rupa Gosvami, His first disciple, appreciated it.
そして、主の最初の弟子であったルーパ・ゴスヴァーミーはそれに深く感謝していました。

Rupa Gosvami was a minister in the Muhammadan government, but he left the government to become a disciple of Caitanya Mahaprabhu.
ルーパ・ゴスヴァーミーはイスラム政権の大臣でしたが、チャイタンニャ・マハープラブの弟子になるために政府を去りました。

When he first went to see the Lord, Rupa Gosvami approached Him with the following verse:
初めて主に会ったとき、ルーパ・ゴスヴァーミーは次のような詩句を主に捧げました。

namo maha-vadanyaya
krsna-prema-pradaya te
krsnaya krsna-caitanyanamne
gaura-tvise namah

"I offer my respectful obeisances unto the Supreme Lord, Sri Krsna Caitanya,
「私は至高主シュリー・クリシュナ・チャンタンニャに尊敬をもって服従します。

who is more magnanimous than any other avatara, even Krsna Himself,
主は他のどのアヴァターラ(化身)よりも、クリシュナ御自身よりも寛大でいらっしゃいます。

because He is bestowing freely what no one else has ever given--pure love of Krsna."
他の誰も与えなかったクリシュナへの純粋な愛を惜しげもなく授けていらっしゃるからです。」

Rupa Gosvami called Caitanya Mahaprabhu "the most munificent, the most charitable personality,"
ルーパ・ゴスヴァーミーはチャイタンニャ・マハープラブを「最も気前が良くて最も情け深い人物」と呼びました。

because He was offering the most precious thing of all very cheaply--love of God.
神への愛という何よりも最も価値のあるものを、とても安く提供していらしたからです。

We all want Krsna and are all hankering after Him.
私たちは皆クリシュナを欲しており、クリシュナを得ようとしてがんばっています。

Krsna is the most attractive, the most beautiful, the most opulent, the most powerful, and the most learned.
クリシュナは最も魅力的で、最も美しく、最も豊かで、最も力強く、最も知恵のあるお方です。

That is the object of our hankering.
それが私たちの欲望の対象です。

We're hankering after the beautiful, the powerful, the learned, the wealthy.
私たちは美と力と知と富を求めています。

Krsna is the reservoir of all of this,
クリシュナはこれらすべての宝庫なので、

so we need only turn our attention toward Him,
私たちは関心を主に向けさえすればよいのです。

and we will get everything.
そうすればすべてを得られます。

Everything--whatever we want.
何もかも、欲しいものはすべてです。

Whatever is our heart's desire will be fulfilled by this process of Krsna consciousness.
私たちの心の望みは、すべてこのクリシュナ意識という方法で叶えられます。

第5段落
For one who dies in Krsna consciousness, as stated before, entrance into Krsnaloka, the supreme abode where Krsna resides, is guaranteed.
クリシュナを意識して死ぬ者は、前述したように、クリシュナの住む至高の住みかクリシュナロカに確実に入ることができます。

At this point one may ask what the advantage is in going to that planet,
この時点で、その天体へ行くことの利点は何かという疑問があるかもしれません。

and Krsna Himself answers,
それについては、クリシュナ御自身が以下のように答えていらっしゃいます。

mam upetya punar janma
duhkhalayam asasvatam
napnuvanti mahatmanah
samsiddhim paramam gatah

"After attaining Me, the great souls, who are yogis in devotion, never return to this temporary world, which is full of miseries,
「私を得た後は、献愛に溢れたヨギーである偉大な魂は、悲惨さに満ちたこの一時的な世界に戻ることはありません。

because they have attained the highest perfection." (Bg. 8.15)
彼らは最高の完成を得たからです。」

第6段落
This material world is certified by Sri Krsna, the creator, as duhkhalayam--
full of miseries.
この物質世界は、創造者であるシュリー・クリシュナによって「ドゥーカーラヤム」すなわち「悲惨さに満ちている」と断定されています。

How then can we make it comfortable?
それでは、どうやって私たちがここを居心地の良い場所にできるというのでしょう。

Is it possible to make this world comfortable by the so-called advancement of science?
いわゆる科学の進歩によってこの世界を快適にすることは可能でしょうか。

No, this is not possible.
それは不可能です。

As a result, we do not even wish to know what these miseries are.
結果として、私たちはこれらの悲惨さが何であるかを知りたいとも思いません。

The miseries, as stated before, are birth, old age, disease, and death,
前述したように、これらの悲惨さとは生、老、病、死です。

and because we cannot make a solution to them, we try to set them aside.
そして、私たちはこれらに解決策を見出すことができないので、見ないふりをしています。

Science has no power to solve these miseries that are always giving us trouble.
科学は、いつも私たちを困難な目にあわせるこれらの悲惨さを解決する力を持ちません。

Instead, they divert our attention to the making of spaceships or atomic bombs.
その代わり、彼ら(科学者たち?科学の非力さ?)は私たちの関心をそらして宇宙船や原子爆弾を作ることに向けさせます。

The solution to these problems is given here in Bhagavad-gita:
これらの問題への解決策は、バガヴァッド・ギーターの中に与えられています。

if one attains to Krsna's platform he does not have to return again to this earth of birth and death.
クリシュナの水準(領域)に達することができれば、その人は生と死のあるこの地上に再び戻る必要はありません。

We should try to understand that this place is full of miseries.
私たちは、この場所は悲惨さに満ちているということを理解しようとすべきです。

It takes a certain amount of developed consciousness to understand this.
このことを理解するには、ある程度発達した意識が必要です。

Cats and dogs and hogs cannot understand that they are suffering.
犬や猫や豚は自分が苦しんでいるのだということを理解できません。

Man is called a rational animal,
人間は「理性的な動物」と呼ばれますが、

but his rationality is being used to further his animalistic propensities instead of to find out how to get liberation from this miserable condition.
この悲惨な状態から抜け出す方法を見つけるためではなく、人間の動物的な性癖を深めるためにその理性が使われているのが現状です。

Here Krsna explicitly states that one who comes to Him will never be reborn to suffer miseries again.
ここでクリシュナははっきりと、「私のもとに来た者は二度と決して生まれ変わって苦しみをなめることはない」と述べていらっしゃいます。
(訳注、この構文も「苦しみをなめるために生まれ変わる」が直訳ですが、もうちょっと自然な日本語にしてみました。)

Those great souls who come to Him have attained the highest perfection of life,
主のもとに至った偉大な魂たちは、最高の完成を得ました。

which alleviates the living entity from the suffering of conditional existence.
その完成は生命体の制約された存在の苦しみを和らげてくれます。
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by ammolitering4 | 2008-03-30 02:10 | 「生と死の彼方に」 | Comments(0)

第3章 1段落から

Chapter Three Liberation from Material Planets
第3章 「物質的な天体からの解放」

第1段落
The jnanis and yogis are generally impersonalists,
ジナーニーとヨギーは、一般に非人格主義者です。

and although they attain the temporary form of liberation by merging into the impersonal effulgence, the spiritual sky,
霊的な天空という非人格的な光輝の中に同化することによって一時的な形の解放を獲得しますが、

according to Srimad-Bhagavatam their knowledge is not considered pure.
シュリマッド・バーガヴァタムによれば彼らの知識は純粋とは見なされません。

By penances, austerities, and meditations they can rise up to the platform of the Supreme Absolute,
苦行と禁欲生活と瞑想によって彼らは至高完全存在の水準に上ることができますが、

but as has been explained, they again fall down to the material world,
すでに説明したように、彼らは再び物質世界へと墜落します。

because they have not taken Krsna's personal features seriously.
クリシュナの人格的な特徴を真剣にとらえていないからです。

Unless one worships the lotus feet of Krsna, he again has to descend to the material platform.
クリシュナの蓮の御足を崇拝しないかぎり、人は再び物質の水準へと落ちるしかないのです。

The ideal attitude should be,
理想的な姿勢とは、次のようなものです。

"I am Your eternal servitor.
「私はあなたの永遠の僕です。

Please let me somehow engage in Your service."
何とかしてお役に立たせてください。」

Krsna is called ajitah-- unconquerable--
クリシュナは「アジター」、すなわち「征服され得ない者」と呼ばれます。

for no one can conquer God,
神を征服できる者はいないからです。

but according to Srimad-Bhagavatam, one with this attitude easily conquers the Supreme.
しかし、シュリマッド・バーガヴァタムによると、このような姿勢を持つ者は簡単に至高存在を征服します。

Srimad-Bhagavatam also recommends that we give up this futile process to measure the Supreme.
また、シュリマッド・バーガヴァタムは、至高存在を推し量ろうという無駄な努力をやめるように薦めています。

We cannot even measure the limitations of space,
私たちは宇宙の限界でさえ測り知ることができません。

what to speak of the Supreme.
ましてや至高存在であれば、何をか言わんや。

It is not possible to measure the length and breadth of Krsna by one's minuscule knowledge,
クリシュナの大きさを人の微小な知識で測ることは不可能です。
(訳注、the length and breadth of というのは慣用句で、縦横全部、隅々まで、というような意味です。直訳すると長さと幅ですが、つまりは大きさのことです。この文は、人間に神のすべてを測り知ることはできない、と訳してもいいと思います。)

and one who arrives at this conclusion is considered intelligent by Vedic literature.
そして、この結論に辿りつく者はヴェーダ文献によると知性ある者と見なされます。

One should come to understand, submissively, that he is a very insignificant segment of the universe.
自分が宇宙の大変小さな一部分であるということを、人は素直に理解するようになるべきなのです。
(訳注、insignificantは、とても小さくて取るに足らないことを指します。)

Abandoning the endeavor to understand the Supreme by limited knowledge or mental speculation,
限られた知識や精神的な推察で至高存在を理解しようとする努力を放棄し、

we should become submissive and hear of the Supreme through the authoritative sources such as Bhagavad-gita or through the lips of a realized soul.
謙虚になって、バガヴァッド・ギーターや真理を悟った魂(の口)などの正統的な源から至高存在のことを聞くべきなのです。

第2段落
In Bhagavad-gita Arjuna is hearing about God from the lips of Sri Krsna
Himself.
バガヴァッド・ギーターの中で、アルジュナは神についてシュリー・クリシュナご自身の口から聞いています。

In this way Arjuna set the criterion for understanding the Supreme by
submissive hearing.
このようにして、アルジュナは謙虚に聞くことによって至高存在を理解するための手本を示しました。

It is our position to hear Bhagavad-gita from the lips of Arjuna or his bona fide representative, the spiritual master.
私たちの立場は、バガヴァッド・ギーターをアルジュナや彼の正当な代理人である霊的指導者からから聞くことにあります。

After hearing, it is necessary to practice this acquired knowledge in daily life.
聞いたあとは、この知り得た知識を日々の生活の中で実行する必要があります。

"My dear Lord, You are unconquerable," the devotee prays,
「我が親愛なる主よ、何物もあなたを征服することはできません」と献身者は祈ります。

"but by this process, by hearing, You are conquered."
「しかし、聞く、というこの方法によって、あなたは征服されます。」

God is unconquerable, but He is conquered by the devotee who abandons mental speculation and listens to authoritative sources.
神は征服され得ない存在ですが、精神的な推察を捨てて正統な源から聞く献身者によって征服されます。

第3段落
According to Brahma-samhita there are two ways of acquiring knowledge
ブラーマ・サムヒターによると、知識を得るには2通りの方法があります。

--the ascending process and the descending process.
上昇方式と下降方式です。

By the ascending process one is elevated by knowledge acquired by himself.
上昇方式では、人は自分で得た知識で高みへと上っていきます。

In this way one thinks,
この方法では、人は次のように考えます。

"I don't care for any authorities or books.
「どんな正統な権威も本も、どうだっていい。
(訳注、care for というのは、何かを好むときに使う表現です。これは権威や聖典などを好まない反抗的な姿勢を表現した一文です。)

I will attain knowledge myself by meditation, philosophy, etc.
私は瞑想や哲学などによって自分で知識を身につける。

In this way I will understand God."
私はこうやって神を理解するだろう」

The other process, the descending process, involves receiving knowledge from higher authorities.
もう一つの方法である下降方式には、より高い権威者から知識を受け取るということが関わってきます。

Brahma-samhita states that if one takes to the ascending process and travels at the speed of mind and wind for millions of years, he will still end up not knowing.
ブラーマ・サムヒターには、人が上昇方式を取るならたとえ風や心の速度で何百万年進んでも(神を)知ることなく終わるだろう、と書かれています。

For him, the subject matter will remain elusive and inconceivable.
そのような人にとっては、(神という)主題は掴みどころがなくて不可解なままでいるでしょう。

But that subject matter is given in Bhagavad-gita: ananya-cetah.
しかし、その主題はバガヴァッド・ギーターの中に与えられています。「アタニャ・セター」。

Krsna says to meditate on Him without deviation from the path of devotional service in submission.
クリシュナは、「献身奉仕の道からそれることなく謙虚に私に瞑想しなさい」とおっしゃいます。

For one who worships Him in this way--tasyaham sulabhah: "I become easily available."
主をこのように崇拝する者にとって、「タシャーハム・スラブハー」、「私は簡単に手に入るようになります」。

This is the process: if one works for Krsna twenty-four hours a day, Krsna cannot forget him.
これがその(決定的な)方法なのです。もし人が一日24時間クリシュナのために働くなら、クリシュナはその人を忘れることができません。

By becoming submissive, he can attract the attention of God.
謙虚になることによって、その人は神の関心をひきつけるのです。

As Guru Maharaja Bhaktisiddhanta Sarasvati used to say,
尊師マハラジャ・バクティシッダーンタ・サラスヴァティは、かねがね次のようにおっしゃっていました。

"Don't try to see God.
「神を見ようとしてはなりません。

Is God to come and stand before us like a servant just because we want to see Him?
私たちが神を見たいからといって、神が従者のようにやってきて私たちの目の前に立つものでしょうか。

That is not the submissive way.
それは謙虚な方法とはいえません。

We have to oblige Him by our love and service."
私たちは愛と奉仕によって神を喜ばせなくてはならないのです。」
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by ammolitering4 | 2008-03-30 02:03 | 「生と死の彼方に」 | Comments(0)

第2章15段落より

第15段落
It is of utmost importance, therefore, that we know the nature of our constitutional position:
したがって、私たちが本来の立場を知ることは何よりも大事なことなのです。

we want eternity, complete knowledge, and also pleasure.
私たちは永遠性と完全な知識と喜びを欲する存在です。

When we are left alone for a long time in the impersonal brahmajyoti, we cannot have pleasure, and therefore we accept the pleasure given by the material world.
長い間たった一人でブラーマジョティの中に放っておかれると、喜びを得ることができないので、物質世界が与えてくれる喜びを受け入れます。

But in Krsna consciousness, real pleasure is enjoyed.
しかしクリシュナを意識していると本物の喜びを楽しむことができます。

In the material world it is generally accepted that the highest pleasure is sex.
物質世界では一般に最高の快楽は性行為であると理解されています。

This is a perverted reflection of the sex pleasure in the spiritual world, the pleasure of association with Krsna.
これはクリシュナと関わることの喜びという霊的世界における性の喜びが歪んだ形で反映されたものです。

But we should not think that the pleasure there is like the sex pleasure in the material world.
しかし、私たちはそこでの喜びが物質世界での性的な喜びのようなものだと考えてはなりません。

No, it is different.
それは異なっているのです。

But unless sex life is there in the spiritual world, it cannot be reflected here.
しかし、霊的世界に性生活がなければここに反映されることもありません。

Here it is simply a perverted reflection, but the actual life is there in Krsna, who is full of all pleasure.
ここではそれは単なる歪んだ反映に過ぎませんが、本当の生活はすべての喜びに満ち溢れたクリシュナの中にあるのです。

Therefore, the best process is to train ourselves now, so that at the time of death we may transfer ourselves to the spiritual universe, to Krsnaloka, and there associate with Krsna.

したがって、最良の方法は今自分自身を訓練して、死のときに霊的宇宙へ、クリシュナロカへと移行して、クリシュナと関わることができるようにすることです。

In Brahma-samhita (5.29) Sri Krsna and His abode are described thus:
ブラーマ・サムヒター(5.29)に、シュリー・クリシュナと主のお住まいが以下のように描写されています。

cintamani-prakara-sadmasu kalpa-vrksalaksavrtesu
surabhir abhipalayantam
laksmi-sahasra-sata-sambhrama-sevyamanam
govindam adi-purusam tam aham bhajami

"I worship Govinda, the primeval Lord, the first progenitor,
「私は父祖の初めであり太古の主であるゴヴィンダを崇拝します。

who is tending the cows, fulfilling all desire,
主は牛の世話をし、すべての望みを叶え、

in abodes built with spiritual gems, surrounded by millions of wish-fulfilling trees,
そのお住まいは霊的な宝珠で作られ、何百万という望みを叶える木々に囲まれ、

always served with great reverence and affection by hundreds and thousands of laksmis, or gopis."
いつも大いなる尊敬と愛情をもって何百何千というラクシュミ、すなわちゴピー(牛飼いの娘)たちがお仕えしています。」

This is a description of Krsnaloka.
これがククリシュナロカの描写です。

The houses are made of what is called "touchstone."
家々は「タッチストーン」というもので作られています。

Whatever touchstone touches immediately turns into gold.
タッチストーンが触れたものは、何でもすぐに黄金に変わります。

The trees are wish-fulfilling trees, or "desire trees," for one can receive from them whatever he wishes.
木々は「望みの木」と呼ばれる、望みを叶える木です。何でも望むものをそれらの木々から得ることができるからです。

In this world we get mangoes from mango trees and apples from apple trees, but there from any tree one can get whatever he desires.
この世界ではマンゴーの木からはマンゴーを、リンゴの木からはリンゴを得ることができますが、そこではどの木からでも何でも欲しいものを得ることができます。

Similarly, the cows are called surabhi, and they yield an endless supply of milk.
同様に、牛はスラブヒと呼ばれ、無限に牛乳を与えてくれます。

These are descriptions of the spiritual planets found in Vedic scriptures.
これらがヴェーダ文献に見られる霊的な天体の描写です。

第16段落
In this material world we have become acclimatized to birth, death, and all sorts of suffering.
この物質世界で、私たちは生や死や様々な苦しみに慣れてしまいました。

Material scientists have discovered many facilities for sense enjoyment and destruction,
物質的な科学者たちは感覚的な快楽と破壊のための多くの設備を発明しました。

but they have discovered no solution to the problems of old age, disease, and death.
しかし、彼らは老と病と死という問題に対しては何の解決策も見出していません。

They cannot make any machine that will check death, old age, or disease.
彼らは死と老と病を食い止める機械を作ることはできません。

We can manufacture something that will accelerate death, but nothing that will stop death.
私たちは死を加速させるものを作ることはできますが、死を止めるものを作ることはできません。

Those who are intelligent, however, are not concerned with the fourfold miseries of material life, but with elevation to the spiritual planets.
しかし、知性的な者は物質生活の四重の悲惨さには関心がありません。その代わり、霊的な天体への昇格に興味があるのです。

One who is continuously in trance (nityayuktasya yoginah) does not divert his attention to anything else.
永続的に恍惚状態(ニッチャ・ユクタシャ・ヨギナー)にある者は、他の何事にも関心をそらしません。

He is always situated in trance.
その人は常に恍惚状態にあります。

His mind is always filled with the thought of Krsna, without deviation (ananya-cetah satatam).
その人の心は常に、それることなくクリシュナのことで満たされています。(アナニャ・セター・サタタム)

Satatam refers to anywhere and any time.
「サタタム」は、「いつでもどこでも」と意味します。

第17段落
In India I lived in Vrndavana, and now I am in America, but this does not mean that I am out of Vrndavana,
インドでは私はヴリンダーヴァナに住んでいました。今はアメリカにいますが、だからといってヴリンダーヴァナにいないわけではありません。

because if I think of Krsna always, then I'm always in Vrndavana, regardless of the material designation.
なぜなら、私がいつもクリシュナのことを思うなら、物質的な場所の如何にかかわらず、私はいつもヴリンダーヴァナにいるからです。

Krsna consciousness means that one always lives with Krsna on that spiritual planet, Goloka Vrndavana, and that one is simply waiting to give up this material body.
クリシュナを意識しているということは、その人がゴロカ・ヴリンダーヴァナというその霊的な天体に常にクリシュナと共に住んでいるということ、そして、単にこの物質の体を捨てるときを待っているに過ぎないということを意味しています。

Smarati nityasah means "continuously remembering," and for one who is continuously remembering Krsna, the Lord becomes tasyaham sulabhah--easily purchased.
「スマラティ・ニチャサー」は、「永続的に思い出していること」を意味し、永続的にクリシュナを思い出している者にとっては、主は簡単に買い求めることのできる存在「タシャーハム・スラブハー」となります。

Krsna Himself says that He is easily purchased by this bhakti-yoga process.
クリシュナ御自身が、自分はこのバクティ・ヨガの方法で簡単に買い入れられる、とおっしゃいます。

Then why should we take to any other process?
それなら、なぜ他の方法に目をくれる必要があるでしょう。

We can chant Hare Krsna, Hare Krsna, Krsna Krsna, Hare Hare. Hare Rama, Hare Rama, Rama Rama, Hare Hare twenty-four hours daily.
私たちは毎日24時間「ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ」を唱えることができます。

There are no rules and regulations.
難しい規則は何もありません。

One can chant in the street, in the subway, or at his home or office.
路上でも、地下鉄でも、家でも、職場でも、唱えることができます。

There is no tax and no expense.
税金も費用もかかりません。

So why not take to it?
ぜひ実行してください。

“Excerpted from “Beyond Birth and Death” by A.C. Bhaktivedanta Swami Prabhupada, courtesy of the Bhaktivedanta Book Trust International, www.Krishna.com.”
This book and electronic file is Copyright 1972-2003 Bhaktivedanta Book Trust International, 3764 Watseka Avenue, Los Angeles, CA 90034, USA.
All rights reserved.
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by ammolitering4 | 2008-03-28 13:08 | 「生と死の彼方に」 | Comments(0)

第2章11段落より

第11段落
Om ity ekaksaram brahma:

at the point of death the yogi can pronounce om, omkara, the concise form of transcendental sound vibration.
ヨギーは死のときに超越的な音の振動の簡潔な形であるオーム、オームカーラを発音することができます。

If the yogi can vibrate this sound and at the same time remember Krsna, or Visnu (mam anusmaran), he attains the highest goal.
もしもヨギーがこの音を振動させることができて、同時にクリシュナを、すなわちヴィシュヌ(マーム・アヌスマラン)を覚えていることができれば、そのヨギーは最高の目的地に至ることができます。

It is the process of yoga to concentrate the mind on Visnu.
ヨガの過程というのは心をヴィシュヌに集中させることなのです。

The impersonalists imagine some form of the Supreme Lord, but the personalists do not imagine this; they actually see.
非人格主義者は何らかの至高主の形を想像しますが、人格主義者はそれを想像するのではなく、実際に見るのです。

Whether one imagines Him or actually sees Him, one has to concentrate his mind on the personal form of Krsna.
クリシュナの姿を想像するのであれ、実際に見るのであれ、人はクリシュナの人格的な形に心を集中させなければなりません。

ananya-cetah satatam
yo mam smarati nityasah
tasyaham sulabhah partha
nitya-yuktasya yoginah

"For one who remembers Me without deviation, I am easy to obtain, O son of Prtha, because of his constant engagement in devotional service." (Bg. 8.14)
「おお、プリサーの息子よ、わき目を振ることなく私を覚えている者は、簡単に私を手に入れます。常に献身的な奉仕に携わっているからです。」

第12段落
Those who are satisfied with temporary life, temporary pleasure, and temporary facilities are not to be considered intelligent, at least not according to Bhagavad-gita.
(他での判断がどうあれ)少なくともバガヴァッド・ギーターによれば、一時的な生命、一時的な喜び、そして一時的な設備に満足している者はあまり知性的ではありません。

According to the Gita, one whose brain substance is very small is interested in temporary things.
ギーターによると、脳の内容が大変乏しい者は一時的な物に興味を持ちます。

We are eternal, so why should we be interested in temporary things?
私たちは永遠です。それなら、なぜ一時的なものに関心を持たなければならないのでしょう。

No one wants a nonpermanent situation.
非永遠な状況を望む者はいません。

If we are living in an apartment and the landlord asks us to vacate, we are sorry,
アパートに住んでいて家主に「出て行ってくれ」と言われたら、悲しく思うでしょう。

but we are not sorry if we move into a better apartment.
しかし、もっといいアパートに移るのであれば悲しくはありません。

It is our nature, because we are permanent, to want permanent residence.
私たちは永遠なので、永遠の住まいを求めるのは本来の性質なのです。

We don't wish to die, because in actuality we are permanent.
私たちは本当は恒久的な存在なので、死にたくありません。

Nor do we want to grow old or be diseased, because these are all external or nonpermanent states.
また、老いたり病気になったりすることも望みません。これらはどれも外的な、あるいは非恒久的な状態だからです。

Although we are not meant to suffer from fever, sometimes fever comes, and we have to take precautions and remedies to get well again.
私たちは元来は熱にうなされたりするはずではないのですが、時には熱が出ます。そして、熱が出ないように予防したり、良くなるために薬を飲んだりしなければなりません。

The fourfold miseries are like a fever, and they are all due to the material body.
四重の悲惨さは熱のようなもので、どれも物質の体に起因します。

If somehow we can get out of the material body, we can escape the miseries that are integral with it.
もしも何とかして物質の体から抜け出すことができれば、それに必ず付き物の悲惨さからも逃れることができます。

第13段落
For the impersonalists to get out of this temporary body, Krsna here advises that they vibrate the syllable om.
クリシュナはここで、非人格主義者のために、この一時的な体から抜け出すためにオームの音節を振動させることを薦めています。

In this way they can be assured of transmigration into the spiritual world.
こうすることで、彼らは確実に霊的世界に移行することができます。

However, although they may enter the spiritual world, they cannot enter into any of the planets there. '
しかし、彼らは霊的世界に入ることはできても、そこにある天体には入れません。

They remain outside, in the brahmajyoti.
彼らは外側であるブラーマジョティに留まります。

The brahmajyoti may be compared to the sunshine, and the spiritual planets may be compared to the sun itself.
ブラーマジョティは太陽光と、霊的な天体は太陽そのものと比較することができます。

In the spiritual sky the impersonalists remain in the effulgence of the Supreme Lord, the brahmajyoti.
霊的な天空の中で、非人格主義者たちは至高主の光輝であるブラーマジョティの中に留まります。

The impersonalists are placed in the brahmajyoti as spiritual sparks, and in this way the brahmajyoti is filled with spiritual sparks.
非人格主義者たちは霊的な火花としてブラーマジョティに置かれ、このようにしてブラーマジョティは霊的な輝きで満ちるのです。

This is what is meant by merging into the spiritual existence.
霊的な存在への同化というのは、このような状態を指します。

It should not be considered that one merges into the brahmajyoti in the sense of becoming one with it;
しかし、人がブラーマジョティに同化することを、それと一つになることとして考えるべきではありません。

the individuality of the spiritual spark is retained, but because the impersonalist does not want to take a personal form, he is found as a spiritual spark in that effulgence.
霊的な火花の個体性は維持され、しかし非人格主義者たちは人格的な形を取りたくないので、光輝の中の一粒の火花となるのです。

Just as the sunshine is composed of so many atomic particles, so the brahmajyoti is composed of so many spiritual sparks.
ちょうど太陽の光が無数の原子の粒から成るように、ブラーマジョティは無数の霊的な火花から成ります。

第14段落
However, as living entities we want enjoyment.
しかし、生命体として私たちは楽しみを求めます。

Being, in itself, is not enough.
存在することは、それだけでは十分ではないのです。

We want bliss (ananda) as well as being (sat).
私たちは存在すること(サット)だけでなく幸せ(アーナンダ)をも欲します。

In his entirety, the living entity is composed of three qualities--eternality, knowledge, and bliss.
生命体は、その完全な姿においては、永遠性、知識、幸福という3つの性質から成ります。

Those who enter impersonally into the brahmajyoti can remain there for some time in full knowledge that they are now merged homogeneously with Brahman,
非人格的にブラーマジョティに入る者は、いまやブラーマンと同質に融合したということを完全に知りつつ、しばらくの間そこに留まることができます。

but they cannot have that eternal ananda, bliss,
しかし、彼らはその永遠のアーナンダ、幸福を得ることができません。

because that part is wanting.
その部分が欠けているからです。

One may remain alone in a room for some time and may enjoy himself by reading a book or engaging in some thought,
人はしばらくの間は部屋で一人で本など読んだり考え事をしたりして楽しく過ごすことができます。

but it is not possible to remain in that room for years and years at a time, and certainly not for all eternity.
しかし、何年も何年もその部屋でそうしていることはできません。そして、当然ながらずっと永遠にそうしていることはできません。

Therefore, for one who merges impersonally into the existence of the Supreme, there is every chance of falling down again into the material world in order to acquire some association.
だから、非人格的に至高存在に同化する者にとっては、何らかの人格的な関わりを得るために物質界に転落する恐れが常に待ち受けているのです。

This is the verdict of Srimad-Bhagavatam.
これがシュリマッド・バーガヴァタムの結論です。

Astronauts may travel thousands and thousands of miles, but if they do not find rest on some planet, they have to return again to earth.
宇宙飛行士は何千キロも何万キロも旅するでしょうが、どこかの星に安らぎを見つけることができなければ、またこの地球に戻ってこなければなりません。

In any case, rest is required.
どうあろうと休息は必要なのです。

In the impersonal form, rest is uncertain.
非人格的な形では、安らぎは不確実です。

Therefore Srimad-Bhagavatam says that even after so much endeavor, if the impersonalist enters into the spiritual world and acquires an impersonal form, he returns again into the material world because of neglecting to serve the Supreme Lord in love and devotion.
そのため、シュリマッド・バーガヴァタムは、「どんなに大変な努力をしても、非人格主義者が霊的な世界に入って非人格的な形を得れば、至高主に愛と献身をもって仕えないので、再び物質界に戻ってくる」と述べています。

As long as we are here on earth, we must learn to practice to love and serve Krsna, the Supreme Lord.
この地上にいる限り、私たちはクリシュナを、至高主を愛して仕えることを学ばなければなりません。

If we learn this, we can enter into those spiritual planets.
これを学ぶことができれば、私たちは霊的な天体に入ることができます。

The impersonalist's position in the spiritual world is nonpermanent, for out of loneliness he will attempt to acquire some association.
霊的な世界での非人格主義者の立場は非永遠であり、淋しさから何らかの人格的な関わりを持とうとします。

Because he does not associate personally with the Supreme Lord, he has to return again to the world and associate with conditioned living entities there.
(しかし)非人格主義者は至高主と人格的な関わりを持たないので、(物質)世界に戻ってそこにいる制約された生命体たちと関わらねばならないのです。
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by ammolitering4 | 2008-03-28 07:25 | 「生と死の彼方に」 | Comments(0)

第2章第6段落より

第6段落
At this point the yogi determines where he is to go.
この時点でヨギーはどこに行くのかを決めます。

In the material universe there are innumerable planets, and beyond this universe there is the spiritual universe.
物質的な宇宙には無数の天体があり、この宇宙の外には霊的な宇宙があります。

The yogis have information of these places from Vedic literatures.
ヨギーはヴェーダ文献からこれらの場所に関する情報を得ています。

Just as one going to America can get some idea what the country is like by reading books, one can also have knowledge of the spiritual planets by reading Vedic literatures.
アメリカへ行こうとする人が本を読んでそこがどんなところかを幾らか知ることができるように、人はヴェーダ文献を読んで霊的な天体に関する知識を得ることができるのです。

The yogi knows all these descriptions, and he can transfer himself to any planet he likes, without the help of spaceships.
ヨギーはこれらすべての描写を知っており、宇宙船の助け無しにどこでも好きな天体に自分を移行させることができます。

Space travel by mechanical means is not the accepted process for elevation to other planets.
機械的な手段による宇宙旅行は、他の天体への昇格のために認められた方法ではありません。

Perhaps with a great deal of time, effort, and money a few men may be able to reach other planets by material means--spaceships, space suits, etc.--but this is a very cumbersome and impractical method.
もしかしたら、多大な時間と労力と資金をつぎ込めば、宇宙船や宇宙船などの機械的な方法でほんの2-3人は他の天体に行きつけるかもしれませんが、これはとてもやっかいで非現実的な方法です。

In any case, it is not possible to go beyond the material universe by mechanical means.
どちらにしても、機械的な方法では物質宇宙の外へ行くことはできません。

第7段落
The generally accepted method for transferral to higher planets is the
practice of the meditational yoga system or jnana system.
高位の天体へ移行するための方法として一般的に認められているのは、ジナーヤ方式と呼ばれる瞑想的なヨガ体系です。

The bhakti-yoga system, however, is not to be practiced for transferral to any material planet,
ひるがえって、バクティ・ヨガ体系は物質的な天体への移行のために実践されるものではありません。

for those who are servants of Krsna, the Supreme Lord, are not interested in any planets in this material world
至高主であるクリシュナに仕える者は、この物質世界のどの天体にも興味がないからです。

because they know that on whatever planet one enters in the material sky, the four principles of birth, old age, disease, and death are present.
彼らは物質宇宙のどの天体に入っても生老病死という4つの原理が存在することを知っているからです。

On higher planets, the duration of life may be longer than on this earth, but death is there nonetheless.
高位の天体ではこの地球上より寿命は長いでしょうが、それでも死はあります。

By "material universe" we refer to those planets where birth, old age, disease, and death reside, and by "spiritual universe" we refer to those planets where there is no birth, old age, disease, and death.
「物質宇宙」と言うとき、私たちは生老病死が存在する場所を指し、「霊的宇宙」はそれらが存在しない場所を指しています。

Those who are intelligent do not try to elevate themselves to any planet within the material universe.
知性ある者は、物質宇宙の中のどの天体へも昇格しようとはしません。

第8段落
If one tries to enter higher planets by mechanical means, instant death is assured,
もし人が機械的な手段で高位の天体に入ろうとすれば、瞬間的な死は確実です。

for the body cannot stand the radical changes in atmosphere.
体は環境の急激な変化に耐えられないからです。

But if one attempts to go to higher planets by means of the yoga system, he will acquire a suitable body for entrance.
しかし、もし人がヨガの体系という手段で高位の天体に行こうとするなら、その天体での誕生に適した体を得るでしょう。

We can see this demonstrated on this earth,
このことは、この地球上でも例を見ることができます。

for we know it is not possible for us to live in the sea, in a watery atmosphere, nor is it possible for aquatics to live on the earth.
私たちは水の中という環境の海中には住めませんし、水生生物が地上に住めないことも知っています。

As we understand that even on this planet one has to have a particular type of body to live in a particular place, so a particular type of body is required for other planets.
この地上でさえ特定の場所に住むには特定の体を持たねばならないことからも分かるように、他の天体に住むにもそれなりの体が必要です。

On the higher planets, bodies live much longer than on earth, for six months on earth is equal to one day on the higher planets.
高位の天体では体は地上でよりずっと長持ちします。地上の6ヵ月が1日に相当するからです。

Thus the Vedas describe that those who live on higher planets live upward to ten thousand earth years.
このように、ヴェーダでは高位の天体の住人の寿命は1万年以上だと描写しています。

Yet despite such a long life span, death awaits everyone.
しかし、そのように長い寿命にも関わらず、誰もが死を迎えます。

Even if one lives twenty thousand or fifty thousand or even millions of years, in the material world the years are all counted, and death is there.
たとえ人が2万年生きようと、5万年生きようと、何百万年生きようと、物質世界ではきっちりと年月が数えられ、死が待ち受けています。

How can we escape this subjugation by death?
どうやってこのような死による征服を逃れることができるでしょうか。

That is the lesson of Bhagavad-gita.
それがバガヴァッド・ギーターの教えです。

na jayate mriyate va kadacin
nayam bhutva bhavita va na bhuyah
ajo nityah sasvato 'yam purano
na hanyate hanyamane sarire

"For the soul there is never birth nor death.
「魂には生も死もありません。

Nor, once having been, does he ever cease to be.
また、一旦存在すると、存在しなくなることもありません。

He is unborn, eternal, ever-existing, undying, and primeval.
魂は生まれず、永遠であり、常に存在し、死なず、太古の存在です。

He is not slain when the body is slain." (Bg. 2.20)
魂は体が死んでも死にません。」

第9段落
We are spirit soul, and as such we are eternal.
私たちは霊魂なので、したがって永遠です。

Why, then, should we subject ourselves to birth and death?
では、なぜ私たちは自らに生と死を運命付けるのでしょう。

One who asks this question is to be considered intelligent.
この問いかけをする者は知性のある者です。

Those who are Krsna conscious are very intelligent,
クリシュナを意識している者は大変知性的です。

because they are not interested in gaining entrance to any planet where there is death.
彼らはどこであれ死の待つ天体には入ろうと思わないからです。

They will reject a long duration of life in order to attain a body like God's.
神のそれに似た体を得るためには、彼らは長い寿命を退けます。

Isvarah paramah krsnah sac-cid-ananda-vigrahah.

Sat means "eternal," cit means "full of knowledge," and ananda means "full of pleasure."
「サット」は「永遠」を、「スィット」は「あふれる知識」を、そして「アーナンダ」は「あふれる喜び」を意味します。

Krsna is the reservoir of all pleasure.
クリシュナはすべての喜びの宝庫なのです。

If we transfer ourselves from this body into the spiritual world--either to Krsnaloka (Krsna's planet) or any other spiritual planet--we will receive a similar sac-cid-ananda body.
霊的な世界に移行すれば、それが(クリシュナの天体である)クリシュナロカであれ、他の霊的な天体であれ、私たちは(クリシュナの体に)似たサック・スィット・アーナンダな(永遠で知識と喜びに溢れた)体を受け取るのです。

Thus the aim of those who are in Krsna consciousness is different from those who are trying to promote themselves to higher planets within this material world.
このように、クリシュナ意識の者の目的はこの物質世界の中の高位の天体に昇格しようとしている者とは異なるのです。

第10段落
The self, or soul, of the individual is a minute spiritual spark.
個人の自己、すなわち魂は、微細で霊的な輝きです。

The perfection of yoga lies in the transferral of this spiritual spark to the top of the head.
ヨガの完成は、この霊的な輝きを頭の頂上に移動させることによって完成します。

Having attained this, the yogi can transfer himself to any planet in the material world, according to his desire.
この過程に成功すると、ヨギーは物質世界の中のどこであれ、望む天体に移行することができます。

If the yogi is curious to know what the moon is like, he can transfer himself there,
月がどんなところか知りたいという好奇心を持っているヨギーは、そこに行くことができます。

or if he is interested in higher planets, he can transfer himself there,
高位の天体に興味があるなら、そこに行けます。

just as travelers go to New York, Canada, or other cities on the earth.
旅行者が地球上でニューヨークなりカナダなり他の街なりに行くのと同じようなものなのです。

Wherever one goes on earth, he finds the same visa and customs systems operating,
地球上では、どこに行っても同じように査証や税関の制度が機能しています。

and on all the material planets one can similarly see the principles of birth, old age, disease, and death operating.
そして、物質的な天体も同じくどこに行っても生老病死という原理が機能しています。
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by ammolitering4 | 2008-03-28 07:16 | 「生と死の彼方に」 | Comments(0)

第2章一段落から

Chapter Two Elevation at Death
第2章「死のときの昇格」

第一段落
There are different kinds of transcendentalists who are called yogis-
ヨギーと呼ばれる超越主義者には何種類かあります。

hathayogis, jnana-yogis, dhyana-yogis, and bhakti-yogis--and all of them are eligible to be transferred to the spiritual world.
ハサ・ヨギー、ジナーナ・ヨギー、デャーナ・ヨギー、そしてバクティ・ヨギーですが、どれも霊的な世界に移行される資格があります。

The word yoga means "to link up," and the yoga systems are meant to enable us to link with the transcendental world.
ヨガという言葉は「上に繋げる」ということを意味しており、ヨガ体系は私たちが超越的な世界とつながることができるようになることを目的としています。

As mentioned in the previous chapter, originally we are all connected to the Supreme Lord, but now we have been affected by material contamination.
前の章で述べたように、私たちは本来は皆至高主と繋がっていますが、今は物質的な汚染に影響されているのです。

The process is that we have to return to the spiritual world, and that process of linking up is called yoga.
私たちは霊的な世界に返らなければならない立場にあり、上方に繋げるその過程をヨガといいます。

Another meaning of the word yoga is "plus."
ヨガという言葉には「足す」という意味もあります。

At the present moment we are minus God, or minus the Supreme.
現在では私たちは神を差し引いた状態、すなわち至高存在を差し引いた状態にあります。

When we add Krsna--or God--to our lives, this human form of life becomes perfect.
私たちがクリシュナを、すなわち神を自分たちの人生に足すとき、人間としてのこの人生は完成します。

第2段落
At the time of death we have to finish that process of perfection.
完成のためのその過程は、死のときに終わります。

During our lifetime we have to practice the method of approaching that perfection
生きている間にその完成に至る方式を実践しなければなりません。

so that at the time of death, when we have to give up this material body, that perfection can be realized.
この物質の体を捨てなければならない死の時に、その完成が実現するようになるためです。

prayana-kale manasacalena
bhaktya yukto yoga-balena caiva
bhruvor madhye pranam avesya samyak
sa tam param purusam upaiti divyam

"One who, at the time of death, fixes his life air between the eyebrows and in full devotion engages himself in remembering the Supreme Lord, will certainly attain to the Supreme Personality of Godhead." (Bg. 8.10)
「死のときに生命の気を眉の間に固定して、献愛に溢れて至高主を思い出している者は、必ず至高の人格神のもとに至るでしょう」

第3段落
Just as a student studies a subject for four or five years and then takes his examination and receives a degree, similarly, with the subject of life, if we practice during our lives for the examination at the time of death, and if we pass the examination, we are transferred to the spiritual world.
学生がある学問を4年や5年勉強して、それから試験を受けて学位を受け取るのと同じように、人生という学問では生きている間に死のときの試験に向けて練習すれば、そしてそれに合格すれば、私たちは霊的世界に移行されます。

Our whole life is examined at the time of death.
死のときに私たちの全人生が試されます。

yam yam vapi smaran bhavam
tyajaty ante kalevaram
tam tam evaiti kaunteya
sada tad-bhava-bhavitah

"Whatever state of being one remembers when he quits his body, that state he will attain without fail." (Bg. 8.6)
「何であれ、体を捨てるときに覚えている状態を、人は間違いなく得ます。」

第4段落
There is a Bengali proverb that says that whatever one does for perfection will be tested at the time of his death.
ベンガル語には「何であれ人が完成のためにすることは死のときに試される」という諺があります。

In Bhagavad-gita Krsna describes what one should do when giving up the body.
クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、人が体を捨てるときに何をするべきかということを描写しています。

For the dhyana-yogi (meditator) Sri Krsna speaks the following verses:
クリシュナはデャーナ・ヨギー(瞑想者)には以下の句を語られました。

yad aksaram veda-vido vadanti
visanti yad yatayo vita-ragah
yad icchanto brahmacaryam caranti
tat te padam sangrahena pravaksye
sarva-dvarani samyamya
mano hrdi nirudhya ca
murdhny adhayatmanah pranam
asthito yoga-dharanam

"Persons learned in the Vedas, who utter omkara and who are great sages in the renounced order, enter into Brahman.
「ヴェーダをよく修めた者、オームカーラを声に出す者、そして放棄階級の偉大なる聖人たちは、ブラーマンに入ります。

Desiring such perfection, one practices celibacy.
そのような完成を望んで、人は性的な禁欲を守ります。

I shall now explain to you this process by which one may attain
salvation.
私は今あなたに人が救いを得るための過程を説明します。

The yogic situation is that of detachment from all sensual engagements.
ヨギーであるということは、すべての感覚的な活動からの離脱を意味します。

Closing all the doors of the senses and fixing the mind on the heart and the life air at the top of the head, one establishes himself in yoga." (Bg. 8.11-12)
すべての感覚の扉を閉じ、心を心臓に、生命の気を頭の頂上に固定して、人は自己をヨガに確立します。」

第5段落
In the yoga system this process is called pratyahara, which means "just the opposite."
ヨガ体系では、この過程は「正反対」を意味する「プラテャーハーラ」と呼ばれます。

Although during life the eyes are engaged in seeing worldly beauty, at death one has to retract the senses from their objects and see the beauty within.
生きている間は目は俗世の美しさを見ることに携わっていますが、死のときには人は感覚を対象から引っ込めて内なる美しさを見なければなりません。

Similarly, the ears are accustomed to hearing so many sounds in the world, but at the moment of death one has to hear the transcendental omkara from within.
同様に、耳はこの世の様々な音を聞くのに慣れていますが、死の時には内部から発する超越的なオームカーラを聞かねばなりません。

om ity ekaksaram brahma
vyaharan mam anusmaran
yah prayati tyajan deham
sa yati paramam gatim

"After being situated in this yoga practice and vibrating the sacred syllable om, the supreme combination of letters, if one thinks of the Supreme Personality of Godhead and quits his body, he will certainly reach the spiritual planets." (Bg. 8.13)
このヨガの方式を実践し、至高の文字列である聖なる音節オームを振動させた後で、もし人が至高の人格神のことを考えて体を去れば、その人は必ず霊的な天体に至るでしょう。」

In this way, all the senses have to be stopped in their external activities and concentrated on the form of visnu-murti, the form of God.
このようにして、すべての感覚を外的な活動から退けて、ヴィシュヌ・ムールティの形、すなわち神の形に集中しなければなりません。

The mind is very turbulent, but it has to be fixed on the Lord in the heart.
心はとても落ち着きがなくて乱れやすいものですが、心臓にいらっしゃる主に固定させなければなりません。

When the mind is fixed within the heart and the life air is transferred to the top of the head, one can attain perfection of yoga.
心が心臓に固定して生命の気が頭の頂上に移行したとき、人はヨガの完成を得ることができます。
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by ammolitering4 | 2008-03-28 06:59 | 「生と死の彼方に」 | Comments(0)

プラブパーダのメッセージ

カリフォルニアにお住まいの信者の方のサイトです。日本語と英語でプラブパーダのメッセージが紹介されています。
http://www.exblog.jp/myblog/entry/new/?eid=d0152550

こちらもお薦め。スロベニアのラップグループ「スーパーソウル・コネクション」のビデオとか、プラブパーダのお話とか、いろいろあります。
http://www.exblog.jp/myblog/entry/edit/?eid=d0152550&srl=7546227&rtnurl=http%3A%2F%2Fammolite4%2Eexblog%2Ejp
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by ammolitering4 | 2008-03-23 12:39 | ハレ・クリシュナ運動 | Comments(0)

第1章18段落より

第18段落

God expanded into many, and we constitute those expansions.
神はご自身を多くの拡張体に広げました。私たちはこれらの拡張体の一部なのです。

God is one without a second, but He willed to become many in order to enjoy.
神は比べるもののない唯一最高の存在ですが、楽しむために多数になろうと望みました。

We have experience that there is little or no enjoyment in sitting alone in a room talking to oneself.
私たちは経験上、部屋に一人で座って独り言を言ってもほとんど、あるいは全く楽しくないことを知っています。

However, if there are five people present, our enjoyment is enhanced,
しかし、そこに5人いれば楽しみは増しますし、

and if we can discuss Krsna before many, many people, the enjoyment is all the greater.
多くの人々の前でクリシュナのことを語ることができれば楽しみはなおさら大きくなります。

Enjoyment means variety.
楽しみとは多様性を意味するのです。

God became many for His enjoyment, and thus our position is that of the enjoyed.
神はご自分の楽しみのためにたくさんになりました。そして、私たちの立場は楽しまれる者のそれです。

That is our constitutional position and the purpose for our creation.
それが私たちの本来の立場であり、私たちが創造された目的です。

Both enjoyer and enjoyed have consciousness,
楽しむ者と楽しまれる者は、どちらも意識を持っています。

but the consciousness of the enjoyed is subordinate to the consciousness of the enjoyer.
しかし、楽しまれる者の意識は楽しむ者の意識に従属しています。

Although Krsna is the enjoyer and we the enjoyed, the enjoyment can be participated in equally by everyone.
クリシュナが楽しむ者であって私たちは楽しまれる者ではありますが、楽しさはすべての者に平等に及びます。

Our enjoyment can be perfected when we participate in the enjoyment of God.
私たちの楽しみは、私たちが神の楽しみに参加するときに完成します。

There is no possibility of our enjoying separately on the bodily platform.
身体的な水準で、私たちだけが神から離れて楽しむことは不可能です。

Material enjoyment on the gross bodily platform is discouraged throughout Bhagavad-gita.
バガヴァッド・ギーター全体を通して、密度の濃い物質である身体の水準での物質的な楽しみを思いとどまるよう語られています。

matra-sparsas tu kaunteya
sitosna-sukha-duhkha-dah
agamapayino 'nityas
tams titiksasva bharata

"O son of Kunti, the nonpermanent appearance of heat and cold, happiness and distress, and their disappearance in due course, are like the appearance and disappearance of winter and summer seasons.
「おお、クンティーの息子よ、熱と冷たさ、幸せと不幸せが現れては消える非永遠なる様子は、冬や夏の季節が訪れては去るようなものです。

They arise from sense perception, O scion of Bharata, and one must learn to tolerate them without being disturbed." (Bg. 2.14)
どれも感覚認知が原因なのです。おお、バーラタの末裔なる者よ、人はこれらに惑わされずに耐えることを学ばなければなりません。」

The gross material body is a result of the interaction of the modes of material nature, and it is doomed to destruction.
密度の濃い物質の体は物質自然の相の相互作用の結果であり、いずれ破壊される運命にあります。

antavanta ime deha
nityasyoktah saririnah
anasino 'prameyasya
tasmad yudhyasva bharata

"Only the material body of the indestructible, immeasurable, and eternal living entity is subject to destruction;
「破壊され得ず、測り知れず、永遠なる生命体の、単に物質的な体だけが破壊される運命にあります。

therefore, fight, O descendant of Bharata." (Bg. 2.18)
だから、おお、バーラタの子孫よ、戦いなさい。」

Sri Krsna therefore encourages us to transcend the bodily conception of existence and attain to our actual spiritual life.
シュリー・クリシュナは、そのため、存在の物質的な概念を超越して本来の霊的な人生に到達するように私たちに勧めます。

gunan etan atitya trin
dehi deha-samudbhavan
janma-mrtyu jara-duhkhair
vimukto 'mrtam asnute

"When the embodied being is able to transcend these three modes [goodness, passion, and ignorance], he can become free from birth, death, old age, and their distresses and can enjoy nectar even in this life." (Bg. 14.20)
「体に閉じ込められた者がこれらの3つの相(善、熱情、無明)を超越することができるとき、その者は生、死、老と苦しみから解放され、現在の人生においてさえ甘露を楽しむことができます。」

第19段落
To establish ourselves on the pure brahma-bhuta spiritual platform, above the three modes, we must take up the method of Krsna consciousness.
純粋なるブラーマ・ブータの霊的な水準に、3つの相を超えたところに自己を確立するために、私たちはクリシュナ意識という手段を用いなければなりません。

The gift of Caitanya Mahaprabhu, the chanting of the names of Krsna- Hare Krsna, Hare Krsna, Krsna Krsna, Hare Hare. Hare Rama, Hare Rama, Rama Rama, Hare Hare--facilitates this process.
チャイタンニャ・マハープラブは、私たちにクリシュナの名前を唱えることという贈り物を下さいました。ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ、ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ。御名を唱えることで、霊的な水準に自己を確立する過程が容易になります。

This method is called bhakti-yoga or mantra-yoga, and it is employed by the highest transcendentalists.
この方法は、バクティ・ヨガ、またはマントラ・ヨガと呼ばれ、最高位の超越主義者たちによって用いられています。

How the transcendentalists realize their identity beyond birth and death, beyond the material body, and transfer themselves from the material universe to the spiritual universes are the subjects of the following chapters.
この後に続く章では、超越主義者たちがいかにして生と死と物質の体を越えたところにある自己を認識し、自らを物質宇宙から霊的な宇宙に移行させるのかという主題について論じていきます。
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by ammolitering4 | 2008-03-23 10:49 | 「生と死の彼方に」 | Comments(0)

第一章15段落より

第15段落

The body must be considered a diseased condition.
体(を持っている状態)は病気であると考えねばなりません。

A diseased man cannot enjoy himself properly;
病人は感覚を正しく使うことができません。(直訳は、「自分自身を正しく楽しむ事ができません」)

a man with jaundice, for instance, will taste sugar candy as bitter, but a healthy man can taste its sweetness.
例えば、黄疸患者は砂糖菓子を苦いと感じますが、健康な人は甘さを感じることができます。

In either case, the sugar candy is the same, but according to our condition it tastes different.
どちらの場合も砂糖菓子は同じものですが、私たちの在り様によって異なる味に感じられます。

Unless we are cured of this diseased conception of bodily life, we cannot taste the sweetness of spiritual life.
同様に、体を持って生きているという病的な状態が治らない限り、霊的な生活の甘さが味わえません。(直訳、「身体的な生活というこの病的な概念が治癒しない限り」)

Indeed, it will taste bitter to us.
実に、霊的な生活が苦く感じられるのです。

At the same time, by increasing our enjoyment of material life, we are further complicating our diseased condition.
同時に、物質的な生活の楽しみを増すことで、私たちはさらに病状を悪化されています。

A typhoid patient cannot eat solid food,
腸チフス患者は固体食を食べることができません。

and if someone gives it to him to enjoy, and he eats it, he is further complicating his malady and is endangering his life.
誰かが「食べたいだろうから」と与えて、その患者がそれを食べると、病状が悪化して命を危険にさらすのです。

If we really want freedom from the miseries of material existence, we must minimize our bodily demands and pleasures.
もしも私たちが本当に物質的な存在の悲惨さからの解放を望むのであれば、身体的な欲求と快楽を最小限に抑えなければなりません。

第16段落

Actually, material enjoyment is not enjoyment at all.
実際のところ、物質的な快楽は本当は全く快楽ではないのです。

Real enjoyment does not cease.
本当の快楽は消えることがありません。

In the Mahabharata there is a verse--ramante yogino 'nante--to the effect that the yogis (yogino), those who are endeavoring to elevate themselves to the spiritual platform, are actually enjoying (ramante), but their enjoyment is anante, endless.
マハーバーラタには、霊的な水準に上昇しようと努力しているヨギー(ヨギノ)は本当の楽しみ(ラマンテ)を得ており、彼らの楽しみはアナンテ(終わりがない)である、という記述があります。(ラマンテ ヨギノ ナンテ)

This is because their enjoyment is in relation to the supreme enjoyer (Rama), Sri Krsna.
これは、彼らの快楽は至高の享楽者(ラーマ)であるシュリー・クリシュナと関連しているからです。

Bhagavan Sri Krsna is the real enjoyer, and Bhagavadgita (5.29) confirms this:
バガヴァーン・シュリー・クリシュナは本物の享楽者であり、バガヴァッド・ギーターにも以下のように確認されています。

bhoktaram yajna-tapasam
sarva-loka-mahesvaram
suhrdam sarva-bhutanam
jnatva mam santim rcchati

"The sages, knowing Me as the ultimate enjoyer of all sacrifices and austerities, the Supreme Lord of all planets and demigods, and the benefactor and well-wisher of all living entities, attain peace from the pangs of material miseries."

「すべての犠牲と禁欲の究極の享楽者であり、すべての天体と半神たちの至高の主であり、すべての生命体に恩恵を施し幸せを祈る者、そのようなものとして私を知る聖者は、物質的な悲惨さの牙を逃れて平安を得ます」

Bhoga means "enjoyment," and our enjoyment comes from understanding our position as the enjoyed.
「ボーガ」は「快楽」を意味し、私たちの快楽は楽しまれる者(楽しませる者)としての立場を理解することで得られます。

The real enjoyer is the Supreme Lord, and we are enjoyed by Him.
本当に楽しむ者は至高主であり、私たちは主によって楽しまれるのです。

第17段落
An example of this relationship can be found in the material world between the husband and the wife:
物質世界では、この関係は夫と妻の間に見られます。

the husband is the enjoyer (purusa), and the wife is the enjoyed (prakrti).
夫は楽しむ者(プルシャ)であり、妻は楽しまれる者(プラクリティ)です。

The word pri means "woman."
「プリ」という言葉は女性を意味します。

Purusa, or spirit, is the subject, and prakrti, or nature, is the object.
プルシャ、すなわち霊は主体であり、プラクリティ、すなわち自然は受身体です。

The enjoyment, however, is participated in both by the husband and the wife.
しかし、快楽は夫と妻の両方に及びます。(直訳、「快楽には夫も妻も参加します。」)

When actual enjoyment is there, there is no distinction that the husband is enjoying more or the wife is enjoying less.
本当の快楽が存在するときは、夫のほうが余計に楽しんでいて妻には楽しみが少ない、というようなことはないのです。

Although the male is the predominator and the female is the predominated, there is no division when it comes to enjoyment.
男性が優性で女性が劣性ではありますが、こと快楽に関しては区別はありません。

On a larger scale, no living entity is the enjoyer.
大きな視野で見ると、生命体は誰一人として享楽者ではないのです。
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by ammolitering4 | 2008-03-22 04:34 | 「生と死の彼方に」 | Comments(0)

第一章12段落より

第12段落

The word veda means "book of knowledge."
ヴェーダという言葉は「知識の書」を意味します。

There are many books of knowledge, which vary according to the country, population, environment, etc.
様々に異なる国や民族や環境などに伴って、多くの知識の書があります。

In India the books of knowledge are referred to as the Vedas.
インドでは知識の書はヴェーダと称されます。

In the West they are called the Old Testament and New Testament.
西洋では旧約聖書、新約聖書と呼ばれます。

The Muhammadans accept the Koran.
イスラム教徒はコーランを聖なる書として受け入れます。

What is the purpose for all these books of knowledge?
これらの知識の書の目的は何でしょうか。

They are to train us to understand our position as pure soul.
これらは私たちが純粋な魂としての立場を理解するのを助けるために存在しているのです。

Their purpose is to restrict bodily activities by certain rules and regulations,
目的は特定の規則や規律で身体的な活用を制約することにあり、

and these rules and regulations are known as codes of morality.
これらの規則や規律は道徳律として知られています。

The Bible, for instance, has ten commandments intended to regulate our lives.
例えば聖書には私たちの生活を規律することを目的とした十戒があります。

The body must be controlled in order for us to reach the highest perfection,
最高の完成に至るためには体を制御せねばならず、

and without regulative principles, it is not possible to perfect our lives.
規律原理なくして人生を完成させることはできません。

The regulative principles may differ from country to country or from scripture to scripture, but that doesn't matter,
規律原理は国によって、あるいは聖典によって異なるでしょうが、それは構わないのです。

for they are made according to the time and circumstances and the mentality of the people.
聖典はそれぞれの時代と状況と人々の精神性に合わせて書かれているからです。

But the principle of regulated control is the same.
しかし、規律正しい制御という原理は同じです。

Similarly, the government sets down certain regulations to be obeyed by its citizens.
同様に、政府は市民が従うべき特定の規律を作ります。

There is no possibility of making advancement in government or civilization without some regulations.
政府や文明では、何らかの規律無くして発展することは不可能なのです。

In the previous verse, Sri Krsna tells Arjuna that the regulative principles of the Vedas are meant to control the three modes of material nature--goodness, passion, and ignorance (traigunya-visaya vedah).
先の節でシュリー・クリシュナはアルジュナに「ヴェーダの規律原理は物質自然の3つの相、すなわち徳、熱情、無明を制御するためにある」と語っていらっしゃいます。

However, Krsna is advising Arjuna to establish himself in his pure constitutional position as spirit soul, beyond the dualities of material nature.
しかし、クリシュナはアルジュナに物質自然の二重性を越えて霊魂としての純粋な本来の立場を確立するように助言しています。


第13段落
As we have already pointed out, these dualities--such as heat and cold, pleasure and pain--arise due to the contact of the senses with their objects.
すでに指摘したように、熱と冷たさ、喜びと苦しみなどの二重性は、感覚が対象と接することによって生じます。

In other words, they are born of identification with the body.
言い換えると、これらは体を自分であると認識することで生成するのです。

Krsna indicates that those who are devoted to enjoyment and power are carried away by the words of the Vedas, which promise heavenly enjoyment by sacrifice and regulated activity.
クリシュナは、快楽と権力に身を捧げた者は犠牲と行動の規制によって天上の快楽を約束するヴェーダの言葉に流される、と述べています。

Enjoyment is our birthright, for it is the characteristic of the spirit soul,
快楽は霊魂の性質であるので、それは私たちの生来の権利です。

but the spirit soul tries to enjoy materially, and this is the mistake.
しかし霊魂は物質的に楽しもうとしており、それが間違いなのです。

第14段落
Everyone is turning to material subjects for enjoyment and is compiling as
much knowledge as possible.
人々は皆、楽しみを求めて物質的な事柄に目を向け、できる限りの知識をかき集めています。

Someone is becoming a chemist, physicist, politician, artist, or whatever.
ある者は化学者となり、別の者は物理学者となり、政治家となり、芸術家となり、そのほかのあれこれとなっています。

Everyone knows something of everything or everything of something, and this is generally known as knowledge.
誰もが何でも少しずつ知っているか、そうでなければ何かを全部知っていて、こういうことが普通は知識だと思われています。

But as soon as we leave the body, all of this knowledge is vanquished.
しかし、体を去ると同時にこれらの知識はすべて奪い去られます。

In a previous life one may have been a great man of knowledge,
前世において、ある人は素晴らしい知識を蓄えていたかもしれません。

but in this life he has to start again by going to school and learning how to read and write from the beginning.
しかし、今世においては学校に行って読み書きを習うところから始めて一からやり直さなければならないのです。

Whatever knowledge was acquired in the previous life is forgotten.
過去世で得た知識はすべて忘れられます。

The situation is that we are actually seeking eternal knowledge,
本当は私たちは永遠の知識を求めているのです。

but this cannot be acquired by this material body.
しかしそれはこの物質の体では得られません。

We are all seeking enjoyment through these bodies, but bodily enjoyment is not our actual enjoyment.
私たちは皆この体を通して楽しみを求めていますが、身体的な楽しみは私たちの本当の楽しみではありません。

It is artificial.
それは人工的なものなのです。

We have to understand that if we want to continue in this artificial enjoyment, we will not be able to attain our position of eternal enjoyment.
この人工的な楽しみを続けたいなら永遠の楽しみを味わえる立場に至ることはできない、ということを、私たちは理解しなければなりません。
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by ammolitering4 | 2008-03-22 03:14 | 「生と死の彼方に」 | Comments(0)