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比類なき贈り物 第7章 後半

しかし、人はこの状態が単に人が何日も隅っこに座禅を組んで座っている陶酔状態だと考えるべきではありません。違います。解放は奉仕を意味します。人は単に「今、私はクリシュナに人生を捧げた。じっと座ってサマーディーに耽ろう」と言うことはできません。服従の水準はニシェヴァヤー、奉仕によって、維持されません。人が至高主に仕えると、主はご自分を心の中に明かしてくださいます。主への献身奉仕のプログラムは朝から晩まで実行されます。実に、クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、人は一日24時間主への献身奉仕に携わらねばならないとおっしゃいます。一日に15分間瞑想して、それからありとあらゆる下らないことをすべきであるというわけではないのです。奉仕すればするほど、私たちはよりクリシュナに献身的であるようになります。したがって、人は何であれ持てる能力をクリシュナのために使うべきなのです。献身奉仕には9つの方法があります―――聞くこと、マントラを唱えること、覚えていること、奉仕すること、寺院で神像を拝むこと、祈ること、命令を遂行すること、主に友人として仕えること、そして主のためにすべてを犠牲にすることです―――そして人はいつもこれらの9つの方法のうち、少なくとも一つにいそしんでいるべきでし。いつもクリシュナへの奉仕に携わっている者は、決してうんざりしません。(サンスクリット引用)奉仕は愛と共になされねばなりませんが、初めはそれは難しいかもしれません。だから人はうんざりするようになるかもしれません。しかし、クリシュナへの奉仕に秀でてくると、人はそれを喜ばしいと感じるようになります。これはクリシュナがバガヴァッド・ギーターにおいて示していらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「初めはちょうど毒のようであるけれど、最後には蜜のようであるもの、そして人を自己認識に目覚めさせるものは、徳の相における幸せだと言われます。」(BG18.37)

人がいったん霊的な水準に達すると、実際に嫌な感じになるのは物質的な奉仕です。例えば、もし人が生涯ハレ・クリシュナを唱えれば、その人はその名前に飽きません。しかし人が物質的な名前を繰り返し唱えると、程なくうんざりするでしょう。クリシュナの名前を唱えれば唱えるほど、人はそれに愛着を覚えるようになります。このように、スラヴァナムとキールタナム、クリシュナについて聞くことと唱えることは始まりです。次のプロセスはスマラナム、いつもクリシュナを覚えていることです。人が唱えることと聞くことにおいて完璧であるとき、人はいつもクリシュナを覚えているようになります。この三番目の段階で、人は最も偉大なヨギーになります。

クリシュナ意識での進歩は、決して失われることもありません。物質的な世界では、もし人が工場を建て始めて完成させないなら、その工場は全く何の役にも立ちません。もし工事が中止されて建物が未完成に終わるなら、投資されたお金はすべて失われます。これはクリシュナ意識にはあてはまりません。たとえ人が完成点に到達しなくても、彼が為したすべての働きは彼の永遠の財産であり、彼は来世においてその地点から始めることができます。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナ意識を始める者は何も失い得ないとも確認していらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「この努力においては、失うことや減ることはなく、この道におけるわずかな進歩は人を最も危険な種類の恐れから守ります。」(BG2.40)

バガヴァッド・ギーターの第6章では、アルジュナが不成功に終わったヨギーの運命について尋ねるとき、シュリー・クリシュナはこう答えられます。
(サンスクリット引用)
「プルサーの息子よ、縁起の良い行いに携わった超越主義者は、この世でも霊的な世界でも、破滅に遭うことはありません。我が友よ、善行をなす者は悪によって打ち負かされることはありません。」(BG6.40)

それから主は、不成功に終わったヨギーは来世において前に終わった地点から始めてクリシュナ意識の訓練を始めると示していらっしゃいます。言い換えると、もし人が人生で50%を終えたなら、来世では51%から始めるということなのです。しかし、私たちが人生で蓄える物質的な財産は、すべて死のときに滅ぼされます。私たちは物質的な富を持っていくことはできないからです。しかし、人は来世まで待ってクリシュナ意識になる方がいいと考えるべきではありません。私たちはクリシュナ意識という使命を今世において達成する努力をすべきです。クリシュナは、主の献身者になる者は間違いなく主のもとへ行けると約束なさいます。
(サンスクリット引用)
「いつも私のことを考えなさい。私の献身者になりなさい。私を礼拝し、あなたの忠誠を私に捧げなさい。その結果、あなたは間違いなく私のところへ来るでしょう。私はあなたにこのことを約束します。あなたは私のとても愛しい友達だからです。」(BG18.65)

私たちがクリシュナのもとへ行くことを考えるとき、私たちは空虚さや非人格的な明るい光の前に立つのだと考えるべきではありません。クリシュナ、神は人格です。ちょうど私たちが人格であるようなものです。物質的に、私たちの父は人格であり、彼の父もまた人格であり、その父の父も、その前も、至高の父まで遡っても同じく人格でなければならないことを理解できます。これを理解するのはそれほど難しくありません。そして、神がヴェーダだけでなく聖書や他の聖典においても至高の父と呼ばれているのは特筆すべきことです。ヴェダーンタ・スートラもまた、完全真理は元々の父であってその人からすべてが生を受けた、すなわち放射された、と確認しています。これはヴェーダにおいても確認されています。
(サンスクリット引用)
「主はすべての永遠存在の中の至高の永遠存在であり、すべての生命体の中の至高の生命体である。主は他のすべてを維持している。」すべての生命体によって現されている欲求と生命の兆候は、単に至高の父の欲求と生命の兆候の反映に過ぎません。言い換えると、私たちの欲求は主が欲求を持っていらっしゃるから生じるのです。私たちは主の欠かすべからざる小片なので、私たちは神のすべての本能を微量に持っています。私たちが物質世界で目にする性的な遊戯と性生活は、霊的世界に見られる愛の歪んだ反映に過ぎません。この世界は、ここでは神が忘れられているので物質的ですが、一旦主が思い出されると世界は直ちに霊的になります。言い換えると、霊的な世界とはクリシュナが忘れられていない場所のことです。それはヴェーダ文献によって与えられている霊的世界の定義でもあります。したがって、私たちは一瞬たりともクリシュナを忘れることが不可能であるような生活を計画しなければなりません。このようにしてクリシュナへの奉仕に携われば、私たちはいつもヴァイクンサ、あるいはヴリンダーヴァナ、すなわちクリシュナのお住まいに住むでしょう。

現在では、私たちの汚染された意識によって、私たちは世界を物質主義的で地獄的な場所へと変えつつあります。そして私たちは本来の立場を知らないので、数え切れないほどの問題を作り出してしまいました。ちょうど、夢ではたくさんの問題を作り出すようなものです。しかし、本当は問題はありません。私は自分が大嵐の中にいるとか、追いかけられているとか、誰かにお金を盗られるとか、トラにむさぼり食われているとかいう夢を見るかもしれません。しかし、本当はこれらはすべて私の心が作り出したものです。(サンスクリット引用)ヴェーダには、プルシャ(アートマー、すなわち魂)はそのすべての夢に似た物質的な活動とは全く関係がない、と書かれています。したがって私たちはこの夢見る状態から目覚めるためにこのクリシュナ意識運動に携わらねばなりません。

バークタ、すなわちクリシュナの献身者は、結果を求めて働く人々、推量する人々、および神秘主義的なヨギーたちよりも上に位置します。バークタは完全に平安であることができますが、他の人たちはそうできません。純粋な愛を持つバクター以外のすべての人は欲求を持っているからです。スッダー・バークタには欲求がありません。彼は単にクリシュナに仕えることで幸せだからです。彼はクリシュナが神であるかどうか知らず、気にもかけません。彼は単にクリシュナを愛したいのです。彼はクリシュナが万能であるとか、あまねく存在するとかいう事実も気にしません。ヴリンダーヴァナでは、牛飼いの少年達やゴピーは、クリシュナが神であるかどうか知りませんでした。しかし彼らは単にクリシュナを愛しました。彼らはヴェダーンティストでもヨギーでもカルミーでもありませんでしたが、彼らはクリシュナに会いたかった純朴な村の少女たちや少年たちだったので幸せでした。これは、(サンスクリット引用)すなわち人がすべての物質的な自己認識から解放された純粋さの段階と呼ばれ、非常に高度な位置です。

ヨギーとジナーニーは神を理解しようとしていますが、彼らは自分たちの幻想的な立場に気づいていません。(サンスクリット引用)彼らは幻想的な幸せのためにあくせく働いているので、愚か者です。彼らには平和はあり得ません。ジナーニー、すなわち推量する者たちは、この物質世界の重労働から逃れたくてこの物質世界を拒絶します。(サンスクリット引用)彼らはカルミーより少し高い場所にいます。カルミーはこの物質世界がすべてだと思っているからです。彼らは「私たちはここで幸せになろう」と言います。そして彼らのダールマ、すなわち宗教は、この物質世界の中で平和的な雰囲気を作り出そうとすることで成り立っています。愚かな人々は、これが何億年でも試みられてきたけれど未だに実現せず、今後も決して実現しないということを知りません。クリシュナ、創造主ご自身がこの場所は困難と悲惨さのためにあるとおっしゃるとき、どうして物質世界に平和が可能でしょうか。
(サンスクリット引用)
「物質的な世界では、最高の惑星から最低のまで、すべてが悲惨な場所です。そこでは生と死が繰り返されます。」(BG8.16)
(サンスクリット引用)この世界は苦しみに満ちているだけでなく、一時的でもあります。人は単に三重の苦しみを苦しみ続けることに同意してここに留まることはできません。それさえも許されないのです。この世界では、人はここに留まっている間は罰を受けるだけでなく、最後には追い出されるのです。人は銀行の口座にたくさんのお金を貯めたり、高価な家や、妻や子供たちや、生活を快適にするためのたくさんの物を集めたりして、「私はとても平和に暮らしている」と思うかもしれません。しかし、彼はいつ「出て行ってください」と言われるか分かりません。

「なぜですか」と彼は尋ねます。「これは私の家で、支払いも終わっています。私にはお金も仕事も責任もあります。なぜ私が出て行くべきでしょうか。」

「いいから出て行きなさい。黙りなさい。出て行きなさい。」

その日に、人は神を見ます。「おお、私は神を信じなかった」と彼は思うかもしれません。「しかし、今ここに神がいて、すべてを終わらせている。」こうして、悪魔的な人はクリシュナを死として認識すると言われます。その時に主は彼らからすべてを取り去られるからです。

私たちが神を死として見たいということがあるでしょうか。悪魔ヒランヤカスィプがクリシュナを見たとき、彼は主を人格化された死として見ました。しかし、献身者プラーラーダは、主を自分の愛する主人として主の個人的な姿で見ました。神に挑戦する者は、主をそのぞっとするほど恐ろしい顔つきにおいて見ます。しかし、主に献身的な者は主をその個人的な形で見ます。どちらにしても、すべての人が究極的には神を見るのです。

正直な者は、いつもあらゆるところにクリシュナを見ることができます。クリシュナは「私を理解しようとしなさい。私をいたるところに見るように努めなさい」とおっしゃいました。この方法を容易にするために、主は(サンスクリット引用)「私は水の味である」とおっしゃいました。喉が渇いてコップ一杯の水が必要なとき、私たちは自分の渇きを癒す水の力がクリシュナであることを知って、飲んで幸せに感じることができます。同様に、太陽や月の明りを見ると同時にクリシュナを見ることができます。(サンスクリット引用)「私は太陽であり月である。」さらに進んだ段階では、私たちはクリシュナをすべてのものの中の生命力として見ることができます。クリシュナはこれをバガヴァッド・ギーターの中に示していらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「私は地球のもともとの香りであり、炎の明りです。私はすべての生けるものの生命であり、すべての苦行者の苦行です。」(BG7.9)

すべてのものが存在のためにクリシュナに依存していることを知ると、私たちが主を見失う可能性はなくなります。バガヴァッド・ギーターにおいて、主は、「すべてのものは始まりと終わりと、また中間の状態でも主の中に住む」と示していらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「この世界のすべての物質的なものと霊的なものについて、私がその始まりであり終わりであると確かに知りなさい。おお、富を征服する者(アルジュナ)よ、私に優る真理はありません。真珠が糸に通っているように、すべては私に依っています。」(BG7.6.7)

クリシュナは簡単に見ることができますが、主に献身的な者だけが見ることができます。うらやましがる者、愚かな者、知性的でない者には、主はご自分をマーヤーのヴェールで覆い隠されます。
(サンスクリット引用)
「私は愚かな者と知性的でない者の前には決して顕現しません。彼らにとっては私は私の永遠の創造力(マーヤー)に覆われています。このように、騙された世界は、生まれることなく誤りのない存在である私を知ることがありません。」

知性的でない者からクリシュナを隠すこの永遠の創造力、すなわちヨガ・マーヤーは、愛によってかき消されます。これがブラーマ・サムヒターの意見です。
(サンスクリット引用)
「クリシュナへの愛を育んだ者は、心の中に一日24時間クリシュナを見ることができます。」

このようにクリシュナを見る者は、死に際して自分がどこに行くか知っているので、不安ではありません。クリシュナ意識という贈り物を受け取った者は、自分がこの物質世界に戻って別の体に入る必要はなく、クリシュナのところへ行くのだということを知っています。クリシュナのそれのような体、(サンスクリット引用)永遠性と知識と幸せに満ちた体を得なければ、クリシュナのところへ行くことはできません。人は自分自身が火にならなければ火に入って死なずにいることはできません。そして同様に人は霊的でない体を持って霊的な王国に入ることはできません。霊的な体では、ゴピーや牛飼いの少年たちのようにラーサの踊りでクリシュナと一緒に踊ることができます。これは普通の踊りではありません。至高の人格神と共に踊る永遠性の踊りです。クリシュナへの愛の中で清められた者がけが参加することができます。したがって人はこのクリシュナ意識の方法を安いものと受け取るべきではなく、主ご自身が苦しんでいる人類に賜った比類なき贈り物として受け取るべきです。単にこの方法に携わるだけで、本当は死の恐怖を中心に回っている人生のすべての不安と恐怖は軽減されます。
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by ammolitering4 | 2008-12-15 15:38 | 「比類なき贈り物」 | Comments(4)

比類なき贈り物 第7章 前半

第7章比類なき贈り物、クリシュナ意識での解脱

もし私たちが単に根源の人(アーディプルシャム)を崇拝すれば、私たちは誰かに誤って導かれる心配はありません。シュリマッド・バーガヴァタムのもともとの解説者であるシュリーダーラ・スヴァーミーは、人は単に献身奉仕(ケヴァラヤー・バークテャー)だけによって人生の完成に至ることができると解説していらっしゃいます。人は他のどんな方法に頼る必要もないのです。スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、人は物質的な人生を一打で終わらせることができるとおっしゃいます。まず厳しい苦行や禁欲をしたり、性生活を避けたり、心と感覚を統御したり、施しをしたり、大きな犠牲を捧げたり、非常に誠実で清らかになったりする必要はありません。単に一打によって―――クリシュナ意識を受け入れることによって―――人は直ちに最高の位置に上ります。単にクリシュナ意識を習慣づけることによって、人はすべての超越的な資質を培います。金職人は小さな金づちを使って何度も金を打ちますが、鍛冶屋は大きな金づちを使って一打で仕事を終わります。これは鍛冶屋の方法なのです。私たちは、バークティ・ヨガという大きな金づちをとって、すべての物質的な人生を終わらせます。多くのより低い訓練を耐え忍ぶ必要はなく、他のどんな方法に従う必要もありません。実際には、他のヴェーダの方法に従って完成に至る可能性は全くないのです。例えば、ハサ・ヨガの方法には次のようなものがあります。「あなたは厳格なブラーマチャーリーになり、森の中で体を地面に対して正しい角度にして座り、指で鼻を6ヶ月押さえていなければなりません。」誰がそんな指示に従えるでしょうか。そのような方法は今の時代には現実的でないので、金職人の方法は捨てなくてはなりません。解決策は、鍛冶屋のクリシュナ意識の金づちをとって、すべての罪深い結果を一打で終わらせることです。

献身奉仕によって、人はヴァースデヴァ・パラーヤナ、主ヴァースデヴァすなわち主クリシュナの献身者にならなくてはなりません。言い換えると、私たちはどうやってヴァースデヴァの恋人になれるかを学ばねばなりません。もし世界がこのクリシュナ意識を身につけるなら、この惑星は必ず平和になります。今は地球は急速に地獄的な惑星になりつつあり、もしこのクリシュナ意識が根付かないなら、この地獄的な状況は教育や経済的な発展におけるすべての進歩にも関わらず悪化するでしょう。したがって、思慮深い者はこの運動を非常に真剣に受け止めて、その価値を理解しようとすべきです。それは一人の人間や弟子達の集団によって作り出された何かではありません。それは権威的で太古から続いており、何千年も前に遡るヴェーダ文献に基づいています。

ニーハーラム・ィヴァ・バースカラー。バースカラは太陽を指します。太陽は闇だけでなく霧や霞も直ちに散らします。前述のように、私たちは心の中にクリシュナの太陽が昇るように努めるべきです。チャイタンニャ・チャリタームリタにおいても、クリシュナは太陽のようであり、マーヤー、幻想エネルギーは闇であると述べられています。(サンスクリット引用)クリシュナの太陽が昇ると、直ちにマーヤーの闇は消え去ります。この方法を辿らなければ、マーヤー、闇の大海を乗り越えることはとても難しいのです。もし私たちが単にクリシュナ、神に服従することを教えれば、すべての幻想の霧と霞は消えます。方法はとても単純です。ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ、と唱えるのです。

唱えれば唱えるほど、多くの生の闇が散らされます。(サンスクリット引用)唱えることによって、人は心の鏡から埃を払うことができ、物事を大変はっきりと知覚できます。そして人は、自分は何か、神とは何か、この世界とは何か、この世界での私たちの神との関係は何か、この世界においてどのように住むか、そして私たちの来世は何かを知るようになります。そのような知識は、人がいかにして感覚の満足のために物を作ったり得たりできるかが教えられる学校では教えられません。物質自然を支配するための人間の試みに関わる厳しい苦しみが、常に続いています。しかし、人が作り出し得たすべての利便に対して、不便が伴っているのです。例えば、近年、何人かのエンジニアたちが危険なく非常に高速で飛べる飛行機をデザインしました。しかし、その飛行機が飛ぶとき、町中の窓が壊れます。私たちの時間は、このように、相応の不便と引き換えに一時的で人工的な利益を与える非常に多くの機器を作ることに無駄に費やされます。これはすべて、カルマの法、動きと反動の法の一部なのです。私たちがなすことの全てに対して、私たちがそれによって呪縛される反動が存在しなければなりません。それはバガヴァッド・ギーターに述べられています。
(サンスクリット引用)
「ヴィシュヌへの犠牲としてなされる仕事が行われなければなりません。さもないと、仕事は人をこの物質世界に呪縛します。したがって、おお、クンティーの息子よ、主の満足のために規定された義務を果たしなさい。そして、そうすることであなたはいつも執着せずにいることができ、呪縛から自由でいられます。」(BG3.9)
人が感覚の満足のために行動するとき、仕事は良い仕事であっても悪いものであっても、その人を呪縛します。しかし、もし人がクリシュナのために働くなら、(サンスクリット引用)その人は彼の仕事が可能性として望ましいものであってもそうでなくても自由になります。

スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、混じりけのない献身奉仕をお薦めになるだけでなく、さらに献身奉仕によって人の罪深い行いが打ち消されるとおっしゃいます。私たちの一人一人は、大なり小なり罪深いのです。もし私たちが罪深くなければ、物質的な体に入れられることはなかったからです。人は罪深い人生から自由になると同時に解放されて、霊的な体で霊的な世界に移行されます。プロセス全体が人が自分自身を罪深い、すなわち物質的な人生の汚染から清めることなのです。

スカデヴァ・ゴスヴァーミーはおっしゃいました。「親愛なる王よ、罪深い者は、タパ・アーディブヒフ、苦行をなすことによって汚染から清められることができます。」スカデヴァは、しかし、この苦行の方法を実行することで完全に清められる者はいないともおっしゃいました。苦行をしたけれど完全には純粋にはならなかったヨギーの例がたくさんあります。たとえば、ヴィスヴァーミトラ・ムニはブラーマナになりたいと望んだクシャトリヤだったので、苦行を始めました。しかし後に彼は天上の惑星の売春婦であるメナカーの被害者になりました。ヴィスヴァーミトラは純粋ではなかったので、彼女と関わってしまって子供をもうけました。したがって、たとえ人が苦行と禁欲を行っても、俗世の状況はとても強力に人をそそのかすので、何らかのあり方でそれは人を繰り返し自然の物質的な相に関わらせるのです。「私はブラーマンに帰依する」と言い、世界を虚偽であるとして放棄するサンニャースィーの例は多くありますが、彼らは病院を建てたり博愛主義的な仕事や慈善の活動をしたりするときに再び世界の仕事に呪縛されます。もし世界が虚偽なら、なぜ彼らは慈善活動に惹きつけられるのでしょうか。クリシュナ意識の哲学は、この世界は虚偽ではなく一時的であると主張します。神がこの世界をお作りになり、神は真実です。それなら、なぜ神の創造が虚偽でありうるでしょうか。これは神の創造であり神は完全真理なので、この創造も同じく真理です。私たちは単に幻想によってそうでないように見るのです。世界は事実です。しかし、それは一時的な事実です。

人はこの世界の何かを自分の財産であると主張するかもしれません。しかし、それは誤った主張です。それが誰かの財産であるというのは事実ですが、しかしそれは神の財産です。(サンスクリット引用)しかし、これは財産が虚偽であるということを意味するのではありません。誤りであるのは、財産に対する所有権の主張です。それは個人が所有者、主人、あるいは神であるという、驕り高ぶった謝った意識に基づいているからです。すべての人が、何かの主人や所有者、それから大臣、それから大統領、それから神になりたいと望みます。他のすべてが失敗するとき、生命体は神になりたいと思うのです。すべての中で最も偉大なものになりたいという傾向はそこにありますが、神が最も偉大であり生命体は主に比べると小さいという事実は変わりません。最も小さいものは虚偽ではなく、最も偉大なものも虚偽ではありませんがm小さなものが自分は偉大だと考えるとき、それは誤りです。

私たちはヴェーダ文献から、ブラーマン、すなわち霊はアノル・アニーヤームサム、原子より小さく、かつマハト・マヒーヤームサム、最も大きなものより大きい、と理解します。私たちが近くできる限り、宇宙を含有する空間が最大のものです。しかし、クリシュナはご自分の口の中に無数の宇宙をお見せになりました。神の偉大さは、神の欠かすべからざる一部である生命体によっては理解され得ません。生命体として、私たちは大変小さく、無限小であり、神は無限大なのです。実に、個々の霊魂の大きさはとても微細なので、見ることができません。人は自分の物質的な感覚では創造することさえできません。したがって、霊魂は原子より小さいと言われます。(アノル・アニーヤームサム)

生命体とクリシュナ、至高主はどちらも霊なので、両者は質的には同一です。量的には、しかし、主は偉大で生命体は微小です。この事実はヴェーダの情報に基づいて直ちに受け入れることができます。ブラーマ・サムヒターには、(サンスクリット引用)神が息を吐くとき無数の宇宙が主の体から出てきて、それらは主が息を吸うとき再び消える、と述べられています。単に主の呼吸によって無数の宇宙が作られ、滅ぼされます。もしそうであれば、どうして生命体が何ものに対しても所有権を主張できるでしょうか。人の地位は、その人が神や所有者であるという虚偽の宣言をしない限りにおいて安泰です。神であると主張することはファッショナブルになり、愚かな者たちはそのような主張を受け入れます。しかしヴェーダ文献から私たちは神はそう安くないと理解するのです。

驕り高ぶった自己中心的な主張をしない限り、私たちはすでに解放されています。実際に解放を探し求める必要はないのです。しかし、「自分はこの体である」と考える限り、人は解放されません。解放とは、人の自己は体とは離れたものであることを完璧に知ることを意味します。したがって、スカデヴァ・ゴスヴァーミーはおっしゃいました。(サンスクリット引用)「あなたの知識を培いなさい。それは慰めをもたらします。」私たちの知識は、私たちは霊的な火花のとても小さな粒であって、神、至高存在は最も偉大な霊的な自我であり、私たちの必要なもののすべてを供給していると知るようになるときに完成します。(サンスクリット引用)私たち自身を小さな粒として、神の欠かすべからざる小片として知ることによって、私たちは私たちの義務が神に仕えることであるのを理解することができます。神はすべての創造の中心であり、宇宙全体の中心です。主は享楽者であり、私たちは主の従者です。この概念が明らかになると、私たちは解放されます。

解放はすべての誤った概念からの自由を必然的に伴います。解放されると十本の手が得られるというようなものではありません。シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、解放はムクティル・ヒトヴァーニャサー・ルーパムと定義されています。ムクティは「放棄すること」を意味し、アニャサー・ルーパムは人生の誤った概念を指します。これは、人がすべての誤った概念を放棄して本来のあるべき立場に位置するとき人は解放されているということです。シュリマッド・バーガヴァタムには、知識を得ることによって人は直ちに解放されるとも書かれています。その知識は単純なので、とても簡単に得られます。神は大きく、私はとても小さい。主はすべての必要なものを供給する至高の所有者で、私は主の従者である。誰がこれに反論することができるでしょうか。それは事実なのです。私たちは単に、自分たちはあれである、これである、という誤った印象の下にあり、これが私たちを自分たちが神であるという至高の誤った印象に導きます。それなのに私たちは自分たちがどのような種類の神であるかを考えません。体の小さな不調で私たちは医者にかからねばなりません。至高存在であると主張する者は、したがって、マーヤーの最後の罠に陥ったのだと理解されるべきです。このように堕落した者は、解放されることさえできません。彼は誤った印象によって縛られているのです。

正しい知識を得たときだけ、人は本当に解放されることができます。解放の段階はブラーマ・ブーダーの段階とも呼ばれます。この段階に達した者は、バガヴァッド・ギーターにおいてクリシュナが次のように特徴づけていらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「このように超越的に位置する者は、直ちに至高のブラーマンを悟ります。その人は決して嘆かず、何かを得たいと望んだりしません。彼はすべての生命体に対して平等に好意を持ちます。そしてその状態で彼は私への純粋な献身奉仕を達成します。」(BG18.54)

悟りに続く喜びは、次のような理解から生じます。「私はとても長い間誤った考えによって幻惑されていた。何と愚かだったのだろう!私は自分が神だと思っていたが、今は神の永遠の従者だと理解できる。」そのような悟りを得ると、人は解放され、プラサンナートマー、すなわち喜びに溢れます。これが生命体の本来の立場だからです。

人が純粋な意識にあるとき、嘆きはありません。彼は自分が至高主に守られた小さな部分、霊的な火花だと知っているからです。それではどこに嘆きの余地があるでしょうか。小さな子供は、父親がそこにいると知っている限り自由に感じます。彼は「お父さんがそばに立っているから、僕は自由だ。誰も僕を傷つけることはできない」と考えます。同様に、人がクリシュナに服従するとき、彼はクリシュナが彼を守っているので危険はないという完全な信頼を持っています。このようにクリシュナに服従したものは、嘆きにも欲望にも無関係です。一方で、神意識でない者は単に欲望の対象を追い求め、嘆きます。彼は持っていないものを追い求め、持っていたけれど無くしたものを嘆きます。神意識の人はそのような悲惨さに左右されません。もし何かが無くなれば、彼はそれが神の意思であると知っています。そして「神がこれを望まれた。だからいいのである」と考えます。彼は何も欲しません。必要なものはすべてクリシュナ、至高の父が与えてくださっていることを知っているからです。

人が神と自分の関係を理解するとすぐ、彼は普遍的な兄弟愛に気づきます。彼はすべての人と動物―――実に、すべての命そのもの―――が、すべて至高の全体の部分であり、したがってすべてが平等であることを理解するからです。これを見ると、人は他の生命体をうらやましがったり搾取したり、侵害したりしません。このように、クリシュナの献身者である者は自動的にすべての良い資質を培います。彼は正しい意識にあるからです。(サンスクリット引用)

発達したクリシュナ意識を持つ者は、半神たちのすべての良い資質を現します。実に、(サンスクリット引用)ヴァイシュナヴァすなわちクリシュナの献身者は他者への慈悲の大海である、と述べられています。彼は社会へ最も偉大な贈り物を与えます。社会はクリシュナ意識を緊急に必要としているからです。ヴァイシュナヴァは、マハーマントラという値段の付けようのない貴重な贈り物を授けます。ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ。単にこのマントラを唱えることによって、人は解放された状態に留まることができます。
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by ammolitering4 | 2008-12-15 15:37 | 「比類なき贈り物」 | Comments(0)

比類なき贈り物 第7章 前半

第7章比類なき贈り物、クリシュナ意識での解脱

もし私たちが単に根源の人(アーディプルシャム)を崇拝すれば、私たちは誰かに誤って導かれる心配はありません。シュリマッド・バーガヴァタムのもともとの解説者であるシュリーダーラ・スヴァーミーは、人は単に献身奉仕(ケヴァラヤー・バークテャー)だけによって人生の完成に至ることができると解説していらっしゃいます。人は他のどんな方法に頼る必要もないのです。スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、人は物質的な人生を一打で終わらせることができるとおっしゃいます。まず厳しい苦行や禁欲をしたり、性生活を避けたり、心と感覚を統御したり、施しをしたり、大きな犠牲を捧げたり、非常に誠実で清らかになったりする必要はありません。単に一打によって―――クリシュナ意識を受け入れることによって―――人は直ちに最高の位置に上ります。単にクリシュナ意識を習慣づけることによって、人はすべての超越的な資質を培います。金職人は小さな金づちを使って何度も金を打ちますが、鍛冶屋は大きな金づちを使って一打で仕事を終わります。これは鍛冶屋の方法なのです。私たちは、バークティ・ヨガという大きな金づちをとって、すべての物質的な人生を終わらせます。多くのより低い訓練を耐え忍ぶ必要はなく、他のどんな方法に従う必要もありません。実際には、他のヴェーダの方法に従って完成に至る可能性は全くないのです。例えば、ハサ・ヨガの方法には次のようなものがあります。「あなたは厳格なブラーマチャーリーになり、森の中で体を地面に対して正しい角度にして座り、指で鼻を6ヶ月押さえていなければなりません。」誰がそんな指示に従えるでしょうか。そのような方法は今の時代には現実的でないので、金職人の方法は捨てなくてはなりません。解決策は、鍛冶屋のクリシュナ意識の金づちをとって、すべての罪深い結果を一打で終わらせることです。

献身奉仕によって、人はヴァースデヴァ・パラーヤナ、主ヴァースデヴァすなわち主クリシュナの献身者にならなくてはなりません。言い換えると、私たちはどうやってヴァースデヴァの恋人になれるかを学ばねばなりません。もし世界がこのクリシュナ意識を身につけるなら、この惑星は必ず平和になります。今は地球は急速に地獄的な惑星になりつつあり、もしこのクリシュナ意識が根付かないなら、この地獄的な状況は教育や経済的な発展におけるすべての進歩にも関わらず悪化するでしょう。したがって、思慮深い者はこの運動を非常に真剣に受け止めて、その価値を理解しようとすべきです。それは一人の人間や弟子達の集団によって作り出された何かではありません。それは権威的で太古から続いており、何千年も前に遡るヴェーダ文献に基づいています。

ニーハーラム・ィヴァ・バースカラー。バースカラは太陽を指します。太陽は闇だけでなく霧や霞も直ちに散らします。前述のように、私たちは心の中にクリシュナの太陽が昇るように努めるべきです。チャイタンニャ・チャリタームリタにおいても、クリシュナは太陽のようであり、マーヤー、幻想エネルギーは闇であると述べられています。(サンスクリット引用)クリシュナの太陽が昇ると、直ちにマーヤーの闇は消え去ります。この方法を辿らなければ、マーヤー、闇の大海を乗り越えることはとても難しいのです。もし私たちが単にクリシュナ、神に服従することを教えれば、すべての幻想の霧と霞は消えます。方法はとても単純です。ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ、と唱えるのです。

唱えれば唱えるほど、多くの生の闇が散らされます。(サンスクリット引用)唱えることによって、人は心の鏡から埃を払うことができ、物事を大変はっきりと知覚できます。そして人は、自分は何か、神とは何か、この世界とは何か、この世界での私たちの神との関係は何か、この世界においてどのように住むか、そして私たちの来世は何かを知るようになります。そのような知識は、人がいかにして感覚の満足のために物を作ったり得たりできるかが教えられる学校では教えられません。物質自然を支配するための人間の試みに関わる厳しい苦しみが、常に続いています。しかし、人が作り出し得たすべての利便に対して、不便が伴っているのです。例えば、近年、何人かのエンジニアたちが危険なく非常に高速で飛べる飛行機をデザインしました。しかし、その飛行機が飛ぶとき、町中の窓が壊れます。私たちの時間は、このように、相応の不便と引き換えに一時的で人工的な利益を与える非常に多くの機器を作ることに無駄に費やされます。これはすべて、カルマの法、動きと反動の法の一部なのです。私たちがなすことの全てに対して、私たちがそれによって呪縛される反動が存在しなければなりません。それはバガヴァッド・ギーターに述べられています。
(サンスクリット引用)
「ヴィシュヌへの犠牲としてなされる仕事が行われなければなりません。さもないと、仕事は人をこの物質世界に呪縛します。したがって、おお、クンティーの息子よ、主の満足のために規定された義務を果たしなさい。そして、そうすることであなたはいつも執着せずにいることができ、呪縛から自由でいられます。」(BG3.9)
人が感覚の満足のために行動するとき、仕事は良い仕事であっても悪いものであっても、その人を呪縛します。しかし、もし人がクリシュナのために働くなら、(サンスクリット引用)その人は彼の仕事が可能性として望ましいものであってもそうでなくても自由になります。

スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、混じりけのない献身奉仕をお薦めになるだけでなく、さらに献身奉仕によって人の罪深い行いが打ち消されるとおっしゃいます。私たちの一人一人は、大なり小なり罪深いのです。もし私たちが罪深くなければ、物質的な体に入れられることはなかったからです。人は罪深い人生から自由になると同時に解放されて、霊的な体で霊的な世界に移行されます。プロセス全体が人が自分自身を罪深い、すなわち物質的な人生の汚染から清めることなのです。

スカデヴァ・ゴスヴァーミーはおっしゃいました。「親愛なる王よ、罪深い者は、タパ・アーディブヒフ、苦行をなすことによって汚染から清められることができます。」スカデヴァは、しかし、この苦行の方法を実行することで完全に清められる者はいないともおっしゃいました。苦行をしたけれど完全には純粋にはならなかったヨギーの例がたくさんあります。たとえば、ヴィスヴァーミトラ・ムニはブラーマナになりたいと望んだクシャトリヤだったので、苦行を始めました。しかし後に彼は天上の惑星の売春婦であるメナカーの被害者になりました。ヴィスヴァーミトラは純粋ではなかったので、彼女と関わってしまって子供をもうけました。したがって、たとえ人が苦行と禁欲を行っても、俗世の状況はとても強力に人をそそのかすので、何らかのあり方でそれは人を繰り返し自然の物質的な相に関わらせるのです。「私はブラーマンに帰依する」と言い、世界を虚偽であるとして放棄するサンニャースィーの例は多くありますが、彼らは病院を建てたり博愛主義的な仕事や慈善の活動をしたりするときに再び世界の仕事に呪縛されます。もし世界が虚偽なら、なぜ彼らは慈善活動に惹きつけられるのでしょうか。クリシュナ意識の哲学は、この世界は虚偽ではなく一時的であると主張します。神がこの世界をお作りになり、神は真実です。それなら、なぜ神の創造が虚偽でありうるでしょうか。これは神の創造であり神は完全真理なので、この創造も同じく真理です。私たちは単に幻想によってそうでないように見るのです。世界は事実です。しかし、それは一時的な事実です。

人はこの世界の何かを自分の財産であると主張するかもしれません。しかし、それは誤った主張です。それが誰かの財産であるというのは事実ですが、しかしそれは神の財産です。(サンスクリット引用)しかし、これは財産が虚偽であるということを意味するのではありません。誤りであるのは、財産に対する所有権の主張です。それは個人が所有者、主人、あるいは神であるという、驕り高ぶった謝った意識に基づいているからです。すべての人が、何かの主人や所有者、それから大臣、それから大統領、それから神になりたいと望みます。他のすべてが失敗するとき、生命体は神になりたいと思うのです。すべての中で最も偉大なものになりたいという傾向はそこにありますが、神が最も偉大であり生命体は主に比べると小さいという事実は変わりません。最も小さいものは虚偽ではなく、最も偉大なものも虚偽ではありませんがm小さなものが自分は偉大だと考えるとき、それは誤りです。

私たちはヴェーダ文献から、ブラーマン、すなわち霊はアノル・アニーヤームサム、原子より小さく、かつマハト・マヒーヤームサム、最も大きなものより大きい、と理解します。私たちが近くできる限り、宇宙を含有する空間が最大のものです。しかし、クリシュナはご自分の口の中に無数の宇宙をお見せになりました。神の偉大さは、神の欠かすべからざる一部である生命体によっては理解され得ません。生命体として、私たちは大変小さく、無限小であり、神は無限大なのです。実に、個々の霊魂の大きさはとても微細なので、見ることができません。人は自分の物質的な感覚では創造することさえできません。したがって、霊魂は原子より小さいと言われます。(アノル・アニーヤームサム)

生命体とクリシュナ、至高主はどちらも霊なので、両者は質的には同一です。量的には、しかし、主は偉大で生命体は微小です。この事実はヴェーダの情報に基づいて直ちに受け入れることができます。ブラーマ・サムヒターには、(サンスクリット引用)神が息を吐くとき無数の宇宙が主の体から出てきて、それらは主が息を吸うとき再び消える、と述べられています。単に主の呼吸によって無数の宇宙が作られ、滅ぼされます。もしそうであれば、どうして生命体が何ものに対しても所有権を主張できるでしょうか。人の地位は、その人が神や所有者であるという虚偽の宣言をしない限りにおいて安泰です。神であると主張することはファッショナブルになり、愚かな者たちはそのような主張を受け入れます。しかしヴェーダ文献から私たちは神はそう安くないと理解するのです。

驕り高ぶった自己中心的な主張をしない限り、私たちはすでに解放されています。実際に解放を探し求める必要はないのです。しかし、「自分はこの体である」と考える限り、人は解放されません。解放とは、人の自己は体とは離れたものであることを完璧に知ることを意味します。したがって、スカデヴァ・ゴスヴァーミーはおっしゃいました。(サンスクリット引用)「あなたの知識を培いなさい。それは慰めをもたらします。」私たちの知識は、私たちは霊的な火花のとても小さな粒であって、神、至高存在は最も偉大な霊的な自我であり、私たちの必要なもののすべてを供給していると知るようになるときに完成します。(サンスクリット引用)私たち自身を小さな粒として、神の欠かすべからざる小片として知ることによって、私たちは私たちの義務が神に仕えることであるのを理解することができます。神はすべての創造の中心であり、宇宙全体の中心です。主は享楽者であり、私たちは主の従者です。この概念が明らかになると、私たちは解放されます。

解放はすべての誤った概念からの自由を必然的に伴います。解放されると十本の手が得られるというようなものではありません。シュリマッド・バーガヴァタムにおいて、解放はムクティル・ヒトヴァーニャサー・ルーパムと定義されています。ムクティは「放棄すること」を意味し、アニャサー・ルーパムは人生の誤った概念を指します。これは、人がすべての誤った概念を放棄して本来のあるべき立場に位置するとき人は解放されているということです。シュリマッド・バーガヴァタムには、知識を得ることによって人は直ちに解放されるとも書かれています。その知識は単純なので、とても簡単に得られます。神は大きく、私はとても小さい。主はすべての必要なものを供給する至高の所有者で、私は主の従者である。誰がこれに反論することができるでしょうか。それは事実なのです。私たちは単に、自分たちはあれである、これである、という誤った印象の下にあり、これが私たちを自分たちが神であるという至高の誤った印象に導きます。それなのに私たちは自分たちがどのような種類の神であるかを考えません。体の小さな不調で私たちは医者にかからねばなりません。至高存在であると主張する者は、したがって、マーヤーの最後の罠に陥ったのだと理解されるべきです。このように堕落した者は、解放されることさえできません。彼は誤った印象によって縛られているのです。

正しい知識を得たときだけ、人は本当に解放されることができます。解放の段階はブラーマ・ブーダーの段階とも呼ばれます。この段階に達した者は、バガヴァッド・ギーターにおいてクリシュナが次のように特徴づけていらっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「このように超越的に位置する者は、直ちに至高のブラーマンを悟ります。その人は決して嘆かず、何かを得たいと望んだりしません。彼はすべての生命体に対して平等に好意を持ちます。そしてその状態で彼は私への純粋な献身奉仕を達成します。」(BG18.54)

悟りに続く喜びは、次のような理解から生じます。「私はとても長い間誤った考えによって幻惑されていた。何と愚かだったのだろう!私は自分が神だと思っていたが、今は神の永遠の従者だと理解できる。」そのような悟りを得ると、人は解放され、プラサンナートマー、すなわち喜びに溢れます。これが生命体の本来の立場だからです。

人が純粋な意識にあるとき、嘆きはありません。彼は自分が至高主に守られた小さな部分、霊的な火花だと知っているからです。それではどこに嘆きの余地があるでしょうか。小さな子供は、父親がそこにいると知っている限り自由に感じます。彼は「お父さんがそばに立っているから、僕は自由だ。誰も僕を傷つけることはできない」と考えます。同様に、人がクリシュナに服従するとき、彼はクリシュナが彼を守っているので危険はないという完全な信頼を持っています。このようにクリシュナに服従したものは、嘆きにも欲望にも無関係です。一方で、神意識でない者は単に欲望の対象を追い求め、嘆きます。彼は持っていないものを追い求め、持っていたけれど無くしたものを嘆きます。神意識の人はそのような悲惨さに左右されません。もし何かが無くなれば、彼はそれが神の意思であると知っています。そして「神がこれを望まれた。だからいいのである」と考えます。彼は何も欲しません。必要なものはすべてクリシュナ、至高の父が与えてくださっていることを知っているからです。

人が神と自分の関係を理解するとすぐ、彼は普遍的な兄弟愛に気づきます。彼はすべての人と動物―――実に、すべての命そのもの―――が、すべて至高の全体の部分であり、したがってすべてが平等であることを理解するからです。これを見ると、人は他の生命体をうらやましがったり搾取したり、侵害したりしません。このように、クリシュナの献身者である者は自動的にすべての良い資質を培います。彼は正しい意識にあるからです。(サンスクリット引用)

発達したクリシュナ意識を持つ者は、半神たちのすべての良い資質を現します。実に、(サンスクリット引用)ヴァイシュナヴァすなわちクリシュナの献身者は他者への慈悲の大海である、と述べられています。彼は社会へ最も偉大な贈り物を与えます。社会はクリシュナ意識を緊急に必要としているからです。ヴァイシュナヴァは、マハーマントラという値段の付けようのない貴重な贈り物を授けます。ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレ。単にこのマントラを唱えることによって、人は解放された状態に留まることができます。
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by ammolitering4 | 2008-12-15 15:37 | 「比類なき贈り物」 | Comments(0)

比類なき贈り物 第6章

第6章 物質的な自己認識と問題を超越する

クリシュナ意識は主チャイタンニャの慈悲によって簡単に得られますが、主チャイタンニャとその師弟継承の慈悲を得られるほど幸運なのは一部の人たちだけです。バガヴァッド・ギーターには次のように書かれています。
(サンスクリット引用)
「何千人もの人の中で、一人が完成を目指して努力するかもしれません。そして完成を得た者の中でも私を本当に知る者はほとんど一人もいません。」(BG7.3)

神を悟ることは、動物や動物に近い人や、人間の形をした動物には不可能です。現代の文明は大部分が動物の集合です。前述のように、動物の性質に基づいて機能するからです。鳥や獣は朝早く起きて食べ物と性交の相手を探そうとし、身を守ろうとします。夜には寝床を探し、朝には木に飛んでいって木の実や果物を探します。同様に、ニューヨーク市では人々の大群がフェリーで島から島に旅をしたり会社へ行くために地下鉄を待ったりします。食べ物を探すという目的のためです。これがどうして動物の生活からの進歩でしょうか。フェリーや地下鉄はいつも混んでいて、多くの人がパンのために40マイルも50マイルも旅をしなければなりませんが、鳥は一本の木から別の木へ自由に飛ぶことができます。

本当の文明は、単に人の動物的な必要に関わるだけではなく、人が至高の父である神との関係を理解することができるようにします。人は神との関係をどの方法で学んでもよいのです。キリスト教、ヴェーダ文献、コーラン―――しかし、どの場合でも学ばねばなりません。このクリシュナ意識運動の目的はキリスト教徒をヒンズー教徒にすることでも、ヒンズー教徒をキリスト教徒にすることでもなく、すべての人に人間の義務は自分の神との関係を理解することにあると知らせることなのです。人はこれを学ばねばなりません。そうでないと、人は単に動物的な性質に基づいて行動することで時間を無駄にしているのです。私たちは皆、クリシュナ、すなわち神を愛そうとしなければなりません。もし人が方法を持っているなら、それを実行すべきです。あるいは、来てこの方法を学ぶこともできます。人は、ある方法と別の方法のえり好みをすべきではありません。(サンスクリット引用)(ニーティ・ダルパナー1.16)チャーナキャ・パンディタは、どんな源からのものであっても、人は正しいものを掴まなければならないとおっしゃいます。彼は、もし幾らかの蜜の混じったコップ一杯の毒があれば、人は蜜を取り出して毒を残すべきだとおっしゃいます。同じように、もし人が汚れたところに金を見つけたら、人はそれを取るべきです。同様に、ヴェーダの教育システムによれば人はブラーマナのような知性的な人から指導を受けなければなりませんが、もし社会的に低い階層の人が真理を学んだなら、人はその人を教師として受け入れて彼から学ぶべきです。人は単にその人が低い身分の生まれだからといって、その人を教師として受け入れないということはすべきではありません。

同様に、もしも人が神を理解することにおいて真剣であれば、彼は「私はキリスト教徒だ」、「私はヒンズー教徒だ」あるいは「私はイスラム教徒だ」などと考えるべきではありません。もし人が神の愛を理解することに真剣なら、彼はどの方法が実際的であるかを考えるべきです。人は「なぜ私がヒンズーやヴェーダの聖典に従うべきだろうか」と考えるべきではありません。ヴェーダの聖典に従うことの目的は神の愛を培うことです。学生が高等教育を受けるためにアメリカに来るときは、彼らは教師たちがアメリカ人かドイツ人か、あるいは他の国の人であるかもしれないという事実は考えません。もし人が高等教育を受けたいなら、彼は単に来て取るのです。同様に、もしこのクリシュナ意識の方法のように神を理解して近づくための効果的な方法があるなら、人はそれを取るべきです。

すべてではありませんが、知性的で幸運な人はこの献身奉仕の方法(ケヴァラヤー・バークテャー)を自分のものとし、彼らの唯一の望みはクリシュナに仕えることです。朝早くから夜遅くまで、献身者はクリシュナへの奉仕に携わります。これはケヴァラヤー、純粋、と呼ばれます。彼らには他にすべきことはないからです。この方法はすべての人に勧められており、それはすべての宗教的な方法の完成です。(サンスクリット引用)サンスクリットにはパラとアパラという二つの語があり、それぞれ宗教への優性(超越的)と劣性(物質的)の近づき方を表します。物質的なダールマ、すなわち物質的な利益のために行われる宗教の実行において、人々は一般的に教会や寺院に行って祈ります。「神よ、私たちの日々の糧をお与えください。」本当は、こんなふうに祈る必要はないのです。パンは既にすべての者に与えられているからです。鳥や獣でさえ、教会に行って神に祈らなければならないという必要もなく、パンを得ています。同様に、私たちのパンもまた与えられています。私たちが教会へ行こうが行くまいが。それは問題ではないのです。飢えて路上で死ぬ人はいないし、鳥や獣や、あるいはアリでさえも飢えて死んではいません。食べものはあり、人はそれについて思いわずらうべきではありません。もし脳が使われなければならないなら、それはクリシュナ、すなわち神のために使われるべきです。これが正しい時間の使い方です。神の王国にはパンが足りないということはありません。

(サンスクリット引用)シュリマッド・バーガヴァタムには、人は宇宙全体を旅しても得られないものを得ようとすべきである、と書かれています。それは何でしょうか。ケヴァラヤー・バークティー、純粋な献愛です。神の配剤によって、この惑星には十分な食べ物と土地と食物のための見込みがあります。しかし私たちは世界の一部では人々が苦しみ、別のところでは穀物を海に捨てるように物事を配分してしまいました。ヴェーダは言います―――(サンスクリット引用)至高の人は多くの生命体に食べ物を供給しています。この物質世界での難しさは、私たちが必要とする以上のものを取って、そうして自分で自分の問題を作ってしまうということです。問題は人によって作られ、いわゆる政治家によって率いられます。自然の方法、すなわち神の方法によると、すべては完全なのです。シュリー・イソパニシャッドには、次のように述べられています。
(サンスクリット引用)
「至高の人格神は完璧で完全です。そしてこのため、この知覚可能な世界のような、すべての主からの放射体は、完全な全体として完璧に備わっています。完全な全体から作られたものは、何であれ同じくそれ自体完全です。主は完全な全体なので、非常に多くの個体が主から放射されるにも関わらず、主は完全なバランスを維持します。」(シュリー・イソパニシャッド、神への祈り)神は完全であり、主の創造は完全であり、主の配剤は完全です。しかし私たちはいさかいを作り出しています。本物の教育は、人々が地球の資源を正しく使い、いさかいを作り出すのを止めるように、人々をクリシュナ意識にするものです。国連で決議を可決することで問題を解決するのは不可能です。人は問題を解決するための本当の方法を知らねばなりません。

スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、単に純粋な献身奉仕だけで人は人生の問題を解決することができるとおっしゃいます。誰がそうすることができるのでしょう。それは、普通の人には不可能ですが、(サンスクリット引用)主クリシュナ(ヴァースデヴァ)に献愛の念を持つ者には可能です。クリシュナを満足させるために心を砕き、純粋で混じりけのない献身奉仕に携わる者だけが人生の問題を解決できます。(サンスクリット引用)既に説明したように、問題は罪深い行いによって生じます。十分な食料があるにも関わらず、利益を上げたり単に欲を張ったりして、皆が必要以上に貯めこみます。インドでは1942年にお金を集めてそれを不必要に貯めこんだ人々によって人工的な飢餓が作り出されました。富裕な人々は、1ポンドあたり6ルピーで売られていた米を集め、突如として一週間のうちに値段が1ポンドあたり50ルピーに上りました。結果として市場には全く米がなくなり、人々は飢えました。その当時居合わせたアメリカ人の紳士は、「もし私の国の人たちがこのように飢えていたら、革命が起こっただろう」と述べました。しかし、インドの人々はとてもよく訓練されていて文化的なので、この人工的な飢餓にも関わらず、彼らは反乱を起こさず、平和的に死ぬことのほうを好みました。もちろんこれは一つの例に過ぎません。しかしそれは、問題がいかに神ではなく人によって作り出されているかを表しています。ドイツでは、第一次世界大戦の間に女性たちが教会に行き、彼女らの夫や息子や兄弟を無事に帰してくれるように神に祈りました。しかし、誰も帰ってきませんでした。女性たちは皆、無神論者になりました。彼女らは、神は戦争とそれによる問題を率先して作り出されたのではないことを考慮しませんでした。彼女らは解決策を求めて神のもとへ行きました。私たちが自分たち自身の問題を作り出すとき、私たちはその結果に苦しまねばなりません。

しかし、クリシュナ、神の庇護のもとに入る者の問題は解決されるというのは事実です。他の理由はさておいても、ただこの理由のためだけにでも人はヴァースデヴァ、至高の人格神のために献身奉仕をすべきです。(サンスクリット引用)もし人がヴァースデヴァへの献身奉仕にいそしむなら、その人は迅速に最高の知識を受け取るでしょう。(サンスクリット引用)ジナーナ・ヴァイラーグヤムという言葉は、「それによって人が物質的な誘惑から離れるところの知識」を指します。ジナーナという言葉は知識を意味し、ヴァイラーグヤムは離れることを意味します。この人間の形の人生では、知識と離れることの両方が必要とされます。人は次のことを知るべきです。「私は霊魂である。私はこの物質世界とは関係がない。しかし、私はそれを様々な方法で楽しみたいという望みを持っているので、一つの体から別の体へと転生している。私はこれがいつ始まったのか知らないが、それは今も続いている。」これが本当の知識です。知識豊かであるためには、人は自分の本来の立場を理解して、自分がいかにこの物質的な世界で苦しんでいるかを認識しなければなりません。その知識の完成は人がヴァースデヴァ・パラーヤナー、主ヴァースデヴァに献身の念を捧げるようになるときに訪れます。バガヴァッド・ギーターにおいて、主クリシュナはアルジュナにこうおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「多くの生と死の後で、真に知識のある者は私がすべての原因の原因であり存在のすべてであると知って私に服従します。そのような偉大な魂は非常に稀です。」(BG7.19)クリシュナ、ヴァースデヴァがすべての源であると完璧に知っている偉大な魂は非常に稀です。長いあごひげと口ひげを生やして、皆に、彼らは神と一つであって死ぬと神になる、と語るいわゆるマハートマー(偉大な魂たち)を見つけるのは簡単です。しかし、これらの人々は本当のマハートマーではありません。むしろ、彼らはドゥラートマー、不人情なのです。彼らはクリシュナの正当な立場を侵害したがり、彼と一つになりたがるからです。もし会社に雇用者の立場に立とうとする労働者がいれば、雇用者はそれを好むでしょうか。同様に、神になろうとする生命体を神はあまりお好みにならないのです。もちろん、神になれる者はいません。しかし、神になろうとしたり神の競争相手になろうとするこのような努力は、主にとってあまり喜ばしいものではありません。そのような試みをする人々は、ドゥヴィシャター、妬み深い、と描写されています。主は次のようにおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「妬み深い者、悪意のある者、人類の中で一番低い者たち、これらの者たちを私は繰り返し物質存在の海へ、様々な悪魔的な種類の生物へ戻し入れます。」(BG16.19)

彼らは神の地位を妬むので、地獄的な状況に入れられます。最初は彼らはこの物質世界で高い地位を得ようとし、この試みで欲求不満になると「では神の地位につこう」と考えます。もちろん、この試みも欲求不満に終わります。誰も神になることはできないからです。神は神であり、生命体は生命体です。神は至高にして無限大であり、私たちは無限小です。私たちの地位は神に仕えるというものであり、地位に従って行動すると私たちは幸せになります。神の真似をすることで幸せになることはできません。(サンスクリット引用)(Bs5.48)無数の宇宙が存在し、マハー・ヴィシュヌの一度の呼吸によってこれらの宇宙は彼の体の中へ吸い込まれて消滅します。それでは、どうして生命体が神になれるでしょうか。神はそれほど安価ではありません。したがって、私たちは知識を培ってヴァースデヴァ、クリシュナを至高存在として受け入れなければなりません。クリシュナが人間であるということはあり得ません。主は地上にいらっしゃる間、一度も普通の生命体として現れてはいらっしゃいませんでした。赤ん坊の頃でさえ、一般的な生命体の能力をはるかに超える奇跡的な手柄を立てられました。人はクリシュナに服従するとき、普通の人間に服従しているのだと考えるべきではありません。至高の人格神に服従するのです。実に、そのことはすべてのヴェーダ文献によって確認されています。(サンスクリット引用)罪深い行いへのすべての結果は、人がクリシュナに服従するときに取り消されます。バガヴァッド・ギーターにおいて主クリシュナご自身が主への個人的な服従を助言なさっています。
(サンスクリット引用)
「あらゆる種類の宗教性を放棄し、ただ私に服従しなさい。見返りに私はすべての罪深い結果からあなたを守ります。だからあなたは何も恐れることはありません。」(BG18.66)

したがって、献身者である者(ヴァースデヴァ・パラーヤナー)そして、ただ献身奉仕に携わる者は、直ちにすべての罪深い行いから自由になります。

クリシュナ、あるいはクリシュナ意識への献身奉仕は、どれだけ推量を重ねても得ることはできませんが、クリシュナの純粋な献身者の理由のない慈悲によって得られます。それは、堕落した生命体のためにマハートマーすなわち偉大な魂が同情心から授けてくださる比類なき贈り物です。クリシュナの恵みによって、人はグル、すなわち霊的指導者を得て、霊的指導者の恵みによって人はクリシュナを得るのだと言われています。これは日の出という贈り物のようなものです。夜の間は闇がありますが、朝には太陽が昇るのと同時に直ちに何百万マイルもの闇が取り除かれます。同じように、もし私たちがクリシュナの太陽が心の中に昇るように努めると、私たちのすべての問題は解決するのです。
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by ammolitering4 | 2008-12-12 11:52 | 「比類なき贈り物」 | Comments(0)

比類なき贈り物 第5章

第5章クリシュナ意識における安定性を学ぶ

人が物質的な栄華の頂点に至ったときは、放棄の傾向は自然なものです。この物質世界には二つの傾向があります。ボーガ(感覚的な楽しみ)とテャーガ(この物質世界を放棄すること)です。しかし、人は指導がないとどうやって放棄すればよいか分かりません。まず、人は楽しみたいと思います。そして楽しみにおいて欲求不満が募ると、放棄します。そして再び放棄に飽きると楽しみます。片方からもう片方へとふれる時計の振り子のようなものです。私たちはこのように皆、楽しみの水準から放棄の水準へ、そしてまた楽しみへ、と、考えがぐらついているのです。

カルミー、結果を求めて働く者たちは、この世を楽しみ、その果実を収穫しようとします。結果的に彼らは常に昼も夜も物質的な楽しみにいそしむために高速道路を走ります。一方、主に気持ちの満足していない若者ですが、それに加担したくない人々がいます。このように、世界にはボーガにいそしむ人々とテャーガにいそしむ人々がいます。しかし、私たちはこれらのどちらの道を辿っても幸せにはなれません。楽しむことも放棄することも、私たちの正しい位置付けではないからです。すべてのものはクリシュナに属し、他の誰かに属するものは何もないので、私たちが所有しているはすべて本当はクリシュナの所有物です。(サンスクリット引用)私たちは木も植物も水も土地も作らなかったので、私たちはそれらの所有権を主張することはできません。私たちは本当は何も持っていないので、何も放棄することはできません。あるいは、言われているように、私たちは裸でこの世にやってきて、裸で去るのです。その間において、私たちは偽りの主張をします。「これは私の国だ、これは私の家だ、これは私の妻だ、これらは私の子供たちだ、これは私の持ち物だ、これは私の貯金だ、等々。」そのような主張は誤りです。私たちはこの世に来るときは手ぶらで、去るときも手ぶらだからです。それでは、ボーガとテャーガの意味は何でしょうか。本当の事実の光の下では、それらには実際の意味はありません。ボーガは盗みであり、テャーガ、私たちにもともと属さないものの放棄は、ある種の狂気です。

このことについて、クリシュナは私たちに次のような指針を与えてくださいます。(サンスクリット引用)(BG18.66)私たちはボーガとテャーガに基づいて異なる種類の宗教を作り上げましたが、私たちがこのようにそれらをすべて放棄してクリシュナに服従するよう助言していらっしゃいます。楽しむことや放棄することは私たちの権限ではありません。バガヴァッド・ギーターにおいて放棄が勧められているのは、私たちが誤って所有していると主張しているもののすべてを放棄することを指します。子供は父親から百ドル札を取って、使い方を知らないのに自分で持っていようとするかもしれません。父親は子供に「愛しい子よ、どうかそれを私に下さい」とお願いするかもしれません。子供はそのお金が本当は父親のものであることを知らず、父親に渡すのが一番であることも知りません。彼はそれをどう使ったらいいか知らないからです。同様に、クリシュナは「あなたの仕事を私のために放棄しなさい。あなたの富と所有物を私のために放棄しなさい」とおっしゃいます。クリシュナは物乞いではありません。すべては主に属するからです。しかし主は私たちを小さな子供のように扱われます。すべてを手渡すように、との主の要求に応じることはテャーガ、放棄と呼ばれ、クリシュナ意識への上昇を得るための方法の一つです。苦行、性生活を避けること、心の平静、および慈善は、すべて至高性、すなわち完全真理の認識のために必要とされます。クリシュナ意識は相対的な真理には関係がなく、完全真理を問題にします。シュリマッド・バーガヴァタムにおいてヴャーサデヴァは至高の完全真理(サンスクリット引用)に敬意を捧げます。彼は相対的な絶対真理ではなくスッムム・ポヌム、完全真理に尊敬の念を捧げます。これらの特徴を実行することはブラーマナの義務です。それによって完全真理を悟ることができるからです。

ブラーマナは、清潔さ、正直さ、心と感覚の統御、簡素さを実行することによって、およびヴェーダ、ことにバガヴァッド・ギーターへの信仰を育むことによって、資格を得なければなりません。クリシュナが「私は至高の主である」とおっしゃるとき、私たちは主を信仰をもって、愚かにではなく十分な知識をもって受け入れ、その受容を日常生活において現実的に適用せねばなりません。ブラーマナは生まれによってではなく教育と訓練と知識によって作られます。クリシュナがバガヴァッド・ギーターにおいて指摘なさっているように、それは生まれではなく資質の問題なのです。
(サンスクリット引用)
「物質自然の三つの相と、それらに関連する働きに応じて、人間社会の四つの区分が私によって作られました。そして私はこのシステムを作ったものであるにも関わらず、私は変化しないので、私は行為者ではないことを人は知るべきです。」(BG4.13)人はブラーマナの資質を持たねばならないだけではなく、ブラーマナとして働くべきでもあります。人の資質はその人の仕事によって試されるからです。もしある人が資格のあるエンジニアでも、単に家でじっと座って何もしないなら、彼の価値は何でしょうか。同様に、ブラーマナとして働かない限り、人が単に「私はブラーマナです」と言うことには何の価値もありません。したがって人は完全にパラム・ブラーマン、すなわちクリシュナ、至高のブラーマンへの奉仕にいそしむことによって働かねばなりません。

どうしたら完全真理への奉仕を実行することができるでしょうか。(サンスクリット引用)ヨガ、すなわち至高存在とつながることの訓練をすることは、規律と統御の原則に基づいています。規律は統御なくしては実行され得ません。したがって人は思慮深くなければならず、自身を清めねばなりません。もし試験に合格したいなら、人は学校に行って学校の原則に従い、何らかの苦労をして勉強しなければなりません。そうすると徐々に成功するようになります。もし一日中路上で遊んでいるなら、どうしてその人は成功を期待することができるでしょうか。したがって、スカデヴァ・ゴスヴァーミーによって説明されているプロセスでは、最初に必要なものはタパシャ、苦行です。人は規制されずにいたいので苦行とブラーマチャルヤが苦痛です。しかし、私たちが規律されると、苦痛であると見えたものは直ちに実際には苦痛ではなくなります。

人には二つの階層があります。冷静(ディーラ)であるものと、言動が突飛(アディーラ)である者です。人が挑発や精神的な動揺の原因が存在しているにも関わらず自分の位置で安定していることができれば、その人はディーラと呼ばれます。ディーラの例は、「クマーラサムバーヴァ」という本を書いた偉大なサンスクリットの詩人であるカーリダーサ・パンディタによって挙げられています。そこでは彼は主シヴァの例を挙げました。半神たちが悪魔と戦っていて負けかけていたとき、彼らは主シヴァの精子から生まれた最高司令官によって救われると考えたようです。しかし、主シヴァは瞑想をしていらっしゃって、必要な精子を得るのはとても難しかったのです。そこで彼らはパーヴァティーという娘を遣わし、彼女は主の性器を愛撫しました。この若い娘が主シヴァの前に座って彼の性器を触ったにも関わらず、主シヴァは揺らぐことなく瞑想を続けました。カーリダーサは言います。「これがディーラの例です。若い娘が性器を触ったにも関わらず、彼は心乱されませんでした。」

同様に、誰かがハリダーサ・タークラを邪魔するために若い売春婦を遣わしました。彼女が性交を請うと、ハリダーサ・タークラは言いました。「はい、あなたの願いはとても素敵です。座ってください。そして私の念仏が終わるまで待ってください。それから楽しみましょう。」朝がきて、売春婦は待ちくたびれてしまいました。しかし、ハリダーサ・タークラは答えました。「本当に申し訳ない。念仏を終わらせることができなかったのです。今夜また来てください。」売春婦は三晩続けてやってきて、三度目の夜に彼女は彼の足元にひれ伏して、自分の目的を白状し、彼に嘆願しました。「私はあなたの敵である男にこうするようにそそのかされたのです。どうかお許しください。」するとハリダーサ・タークラは答えました。「私はそのことはすべて知っています。しかし、私はあなたに三日間ここに来ることを許しました。あなたが改心して献身者になることができるようにするためです。さあ、この数珠を受け取って念仏を続けなさい。私はここを去ります。」これは自分の体(デハ)と言葉(ヴァーク)と知性(ブッディー)を統御することのできるディーラのもう一つの例です。人の体と言葉と知性は、ディーラであって本当に宗教の原則を知っている者によって統御されるべきです。

私たちは記憶にないほどの太古から継続的に罪深い行いを犯してきています。そして私たちはいつこれが始まったのかを知りませんが、この人生は私たちが犯したすべての罪の修正のために存在します。もし人が野原にある要らない雑草やツル草に火をつければ、それらはすべて燃えます。同様に、苦行と禁欲のプロセスによって人はすべての罪深い行いを清算して清められることができます。しかし、スカデヴァ・ゴスヴァーミーは代替的な方法をお薦めになります。(サンスクリット引用)一般的に、もし人が性生活を避けて冷静さと慈善の禁欲的で敬虔な生活をすれば、人々は彼がとても敬虔な人であると言います。しかし、単にクリシュナ意識になるだけで人は過去の罪深い生活の結果的な反応をすべて打ち消すことができます。太陽が昇ると霧はたちまち消えます。そしてクリシュナは何千もの太陽の明るさをもって昇ります。

このプロセスはとても幸運な人によってのみ受け入れられます。したがってチャイタンニャ・マハープラブはおっしゃいました。(サンスクリット引用)「クリシュナと霊的指導者の慈悲によって、宇宙全体を様々な異なる種類の体の中でさまよった後、幸運な者は純粋な献身奉仕の種を受け取る。」クリシュナ意識はとても幸運な者のためにあります。単にこの一つのプロセスを受け入れることによって、人は苦行や放棄や性生活を避けることその他のすべての義務を飛び越すことができるからです。スカデヴァ・ゴスヴァーミーは宣言なさいます。(サンスクリット引用)「非常に幸運な者は純粋な献身奉仕のプロセスを自分のものとする。」ケヴァラー・バクティは、クリシュナを喜ばせる他に欲求のない純粋な混じり物のない献身奉仕を指します。人は単に収入を増やすために献身奉仕をすべきではありません。私たちは幸せになるためにお金を欲しますが、もし私たちがクリシュナ意識を身につけると、自動的に私たちはとても幸せになって、お金をおろそかにします。お金は自動的にやってくるのです。幸せがやってきます。これらのもののために離れた(訳注、特別な、それを目的とした)努力をする必要はありません。

次のように嘆いたのはドゥルヴァ・マハーラージャでした。「物質的な利益を欲して献身奉仕を始めた私は何と愚かだったのでしょう。」一般に、物質的な利益のために人は上司や金持ちの人や半神などのもとに行きますが、献身者はたとえ物質的な要求があってもクリシュナ以外のもとには行きません。もし人が物質的な得のためにクリシュナのもとに行ったとしても、いつかはドゥルヴァ・マハーラージャのように物質的な欲求を忘れます。彼は悔い改めて言いました。「私はクリシュナのもとに来て物質的なものを求めました。ちょうど、大変なお金持ちを喜ばせて幾粒かの米をねだる人のように。」もし大金持ちが私たちに何でも欲しいものを与えることに同意したのに私たちがたった幾粒かの米を求めるなら、それはとても頭のよいことでしょうか。クリシュナに物質的な利益をねだるのは、ちょうどそういうものです。人はクリシュナに物質的な幸せをわざわざ頼む必要はありません。物質的な幸せは彼の足元に自動的にころがってきて、「私を受け取ってください」と懇願するのです。

クリシュナ意識を実行している者は、物質的な栄光が―――妻、子、幸せ、家―――が必要な状況にはありません。すべてはクリシュナの慈悲によって自動的に得られるからです。クリシュナにこれらの物質的なものを求める必要はなく、単に人は主に「どうぞあなたへの奉仕をさせてください」と頼むべきです。バガヴァッド・ギーターにおいてクリシュナは、もし人がクリシュナへの奉仕にいそしむなら、主は必要なものを与え、既に持っているものはそのままにしておく、とも約束なさっています。主のアルジュナへの最後の指導の一つは、主への完全な依存を指しています。(サンスクリット引用)
「すべての行動において、そしてその結果について、単に私に依存しなさい。そしていつも私の保護のもとで働きなさい。そのような献身奉仕において、完全に私のことを意識していなさい。」(BG18.57)
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by ammolitering4 | 2008-12-12 07:22 | 「比類なき贈り物」 | Comments(0)

原典について

「比類なき贈り物」の原典は"The Matchless Gift"という小冊子です。これはなぜか、いつものKrishna.comに原文が紹介されていません。どうしても英語と対訳で読みたい、という方は、インターネットで買えるみたいです。寺院に聞いてみたら、在庫があるかもしれません。
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by ammolitering4 | 2008-12-12 05:24 | 「比類なき贈り物」 | Comments(0)

比類なき贈り物 第4章 後半

人が体を去ると同時に、彼がその体と関連して集めた金銭的な資源やその他のすべては終わります。霊魂は別の体に転生し、人は前の体で稼いだお金がどこに蓄えられているか、あるいはそれがどのように使われるか、知らないからです。人は息子達や子孫たちがお金をどのように使うか指定してこの世を去るかもしれませんが、たとえ人が何百万ドルものお金を残しても、来世においてそのお金の所有権を主張することはできません。したがって、お金の所有権を持っている限り、それを良い目的に使うのが良いのです。もしも悪い目的のために使うなら、呪縛されます。しかし、もし良い目的のために使うなら、人は良い見返りを得ます。これはバガヴァッド・ギーターに非常に明白に述べられています。

バガヴァッド・ギーターは、三種類の慈善があると説明しています。徳相の慈善、熱情相の慈善、無明相の慈善です。徳の相にある人は、慈善がどこに向けられるべきか知っています。バガヴァッド・ギーターにおいて、クリシュナは次のようにおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「私は誰をもうらやまず、誰をもひいきしません。私はすべての者に平等です。しかし、私に愛情を持って奉仕をする者は私の友であり、私の中にあり、私もその人の友です。」(BG9.29)

クリシュナはお金を欲してはいません。クリシュナはすべてのものの根源的な所有者だからです。(サンスクリット引用)しかし、それでもクリシュナは慈善を求めます。例えば、クリシュナは小人のブラーマナ、ヴァーナマの姿になって、バリ・マハーラージャのところへ物乞いにいらっしゃいました。主は(サンスクリット引用)すべての惑星の所有者でいらっしゃるにも関わらず、「私に恵んでください」とおっしゃいました。なぜでしょうか。それは私たちのためなのです。私たちがクリシュナのお金をクリシュナに早く返せば返すほど、私たちは良い状態になるからです。もちろん、これはあまり聞いて楽しいことではないかもしれませんが、本当は私たちは皆泥棒なのです。私たちは神の財産を盗んだからです。もしも何かを持っている人が神を意識していないなら、それは彼が神の財産を盗んだのだと考えられます。それが物質的な人生の性質です。もしもこのことが思慮深く考慮されて人が本当の知識を得れば、その人は気づくでしょう。もし私たちがその財産を使っているところの神を理解しないなら、私たちが持っているものは何であれ盗品であることを。バガヴァッド・ギーターには、また、もし人が巨額のお金を稼いだのに所得税を払うのを避けるためにそれを隠そうとすると、政府はその人を犯罪者と見なします。彼は「私はこのお金を稼いだのだ。なぜ政府に税金を払うべきだろう」とは言えないのです。いいえ、彼は払わなければなりません。さもないと、懲罰の危険を冒さねばなりません。同様に、より高い視点では私たちの持っているもののすべてはクリシュナすなわち神のものであり、それは神の望みに添って使われなければなりません。私たちは建物を建てたいと望むかもしれませんが、建設に必要な石や木材や土はどこから得られるでしょうか。私たちは人工的に木材を作ることはできません。それは神の財産です。私たちは金属を作ることはできません。それは鉱山から採らねばならず、それもまた神の財産です。土や土からできたレンガもまた神のものです。私たちは単に労働力を提供するだけですが、その労働力も神の所有物です。私たちは自分の手で働きますが、それは私たちの手ではなく神のものです。手を使うための力が神によって引き戻されれば、手は何の役にも立たなくなるからです。

私たちはこの偉大な機会、人間の人生を、シュリマッド・バーガヴァタムやバガヴァッド・ギーターのようなヴェーダの知識の権威ある書物に書かれているこれらの全ての要点を理解するために使うべきです。バーガヴァタムにおいてスカデヴァ・ゴスヴァーミーは本当の償いには思慮深さと冷静さと瞑想が必要だと宣言なさいます。人は自分が体であるか、あるいは体を越えたものであるかを考えねばならず、神とは何であるかを知ろうとしなければなりません。これらの概念はクリシュナ意識において学ばれるべきものです。私たちは、浅はかであったり時間を無駄にしたりすべきではありません。もし人がこの知識を欲するなら、人は苦行、タパシャを実行しなければなりません。そして、すでに説明したように、タパシャの始まりはブラーマチャルヤ、性生活を避けること、あるいは制約することです。物質的な魅了の中心点は性行為です。人間の社会だけでなく、動物の社会においても同じです。スズメやハトは厳格な菜食主義者ですが、毎日三百回も性行為をします。そして菜食主義者でないライオンは一年に一回性行為をします。霊的な生活は菜食主義の問題ではなく、より高い知識の理解の問題なのです。高度な知識の水準に至ると、人は自然に菜食主義者になります。(サンスクリット引用)高い学識のある人は、学識のある学者、ブラーマナ、象、犬、牛を区別しません。彼はサマ・ダルスィーです。彼はそれらすべてを平等に見ることができるのです。これはどういうことでしょうか。彼は体を見ず、魂、霊的な火花(ブラーマン)を見ます。彼は考えます。「ここに犬がいるが、これもまた生命体だ。過去のカルマによって犬になってはいるけれど。そして、この学識のある学者もまた生命体だ。しかし彼は過去のカルマによって良い生まれを得たのだ。」この位置に来ると、人は体を見ず、霊的な火花を見ます。そしてある生命体と別の生命体の間の区別をしなくなります。

本当は、私たちは肉食主義者と菜食主義者の区別もしません。牛や子羊と同じように、草もまた命を持っているからです。しかし、原則はイソパニシャッドに与えられているヴェーダの指導であるべきです。
(サンスクリット引用)
「宇宙の中のすべての動くもの、および動かないものは主によって統御され、所有されている。したがって、人は自分の取り分として取り分けられている必要なものだけを受け入れ、他のものはそれが誰に属するかをよくわきまえて、決して受け入れてはならない。」(イソパニシャッド、マントラ1)

すべてのものは至高主の所有物なので、人は主によって自分のために割り当てられたものだけを楽しんでよく、他の者の所有物を触ってはなりません。ヴェーダ的な生活とすべてのヴェーダの聖典によると、人間は果物と野菜によって生きるべきです。人間の歯は、これらのものを非常にたやすく食べて消化することができるように作られているからです。生き物が他の生き物を食べて生きなければならないのは自然の法ですが、(サンスクリット引用)人は思慮分別を持たねばなりません。果物、花、野菜、米、穀物、および牛乳は、人間のために作られています。例えば牛乳は動物性食品、動物の血が変化したものですが、牛は子牛が必要とするよりも多くの乳を出します。牛乳は人間のためにあるからです。人は単に牛乳を取って、牛を生かすべきです。そしてこのように自然の法に従うことによって、人間は幸せになるのです。(サンスクリット引用)人は何であれ神がその人に割り当てなさったものを取って、こうして心地よく暮らすべきです。

私たちは、このクリシュナの科学を通して私たちの意識を高めねばなりません。慈善はすべての人の心の中にありますが、私たちはどのようにしたら最善に活用できるか知りません。私たちが使うエネルギーは、すべてクリシュナのためであるべきです。それはすべてクリシュナに属するからです。クリシュナのために使うことによって、人は失うということはありません。クリシュナはとても情け深いので、私たちが食べ物を捧げるとクリシュナはそれを受け入れ、しかし私たちが食べるためにすべてを残してくださいます。単にクリシュナに食べ物を捧げることによって、私たちは献身者になることができます。私たちは余分なお金は一文も使う必要はありません。より高い視点では、すべてのものはクリシュナに属しています。しかし、もし私たちがクリシュナにすべてを捧げれば、私たちは高められます。これは純粋な人生において進歩するための至高にして証明された方法です。
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by ammolitering4 | 2008-12-12 05:09 | 「比類なき贈り物」 | Comments(0)

比類なき贈り物 第4章 前半

第4章タパシャ、自己統制を学ぶ

もしクリシュナ意識にならないなら、人は罪深い行いの反応から一時的には解放されるかもしれませんが、再び罪を犯すでしょう。したがって、パリクスィット・マハーラージャは次のようにおっしゃいました。(サンスクリット引用)「罪を犯して償いをすることを繰り返すのは、私には時間の無駄にしか見えません。」彼は、湖や貯水池で体をすっかり綺麗にしても、岸に上ると泥を掴んで体中に浴びせ、直ちにまた汚くなる象の例を挙げました。このように、パリクスィット・マハーラージャは、人は償いのプロセスによって自分自身を清めるかもしれないけれど、もしまた彼が同じ罪深い行いを犯すなら何の役に立つだろう、とおっしゃいました。ですから、パリクスィット・マハーラージャがスカデヴァ・ゴスヴァーミーに尋ねた二番目の質問は非常に大切です。「人はどうしたら自然の物質的な相によってもたらされるすべての汚染から完全に自由になれるでしょうか。もし人が解放を得られないなら、償いは何の役に立つでしょうか。」

その答えとして、スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、単にカルマ、すなわち結果を求める活動を他の活動で相殺するだけでは人の悲惨さを最終的に終わらせることはできないとおっしゃいました。例えば、国際連合は世界に平和を樹立しようとしていますが、彼らは戦争を止めることはできません。戦争は繰り返し勃発します。第一次世界大戦の後、政治家と外交官たちは国際連盟を作りました。それから第二次世界大戦が起こり、今では彼らは国際連合を考案しましたが、戦争はまだ続いています。本当の目的は戦争をやめることですが、それはできません。ある行いによって戦争が作り出され、別の行いによって一時的に止められ、しかし次の機会には再び別の戦争が起こるのです。罪深い行いと償いの循環は、このようなものです。私たちが本当に欲しいのは苦しみと戦争から自由になることですが、それは実現しません。

スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、ある種類の戦争はいさかいを生じさせ、別の種類の戦争はそれを一時的に止め、しかしそれは問題の最終的な解決にはならない、とおっしゃいました。スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、これらの問題は無明が原因で生じる、と述べられました。アヴィドヴァッド・アディカーリトヴァート。アヴィトヴァッドは「知識の欠落」を意味します。(サンスクリット引用)本当の償いは知識と共になされます。なぜ戦いがあり、なぜ悲惨さがあるのでしょうか。ヴェーダではケナ・ウパニシャッドと呼ばれるこれらの「なぜ」という問いが人の心に生じなければ、人はその人間の人生の正しい機能を果たしていません。これらの問いが生じなければならないのです。「なぜ私は苦しんでいるのでしょうか。私はどこから来たのでしょうか。私の本来の立場は何なのでしょうか。私は死の後でどこへ行くのでしょうか。なぜ私は人生の惨めな形に置かれているのでしょうか(訳注、「なぜ私は体に入れられて悲惨な目に遭っているのでしょうか」)。なぜ生と死と老いと病があるのでしょうか。」

どうしたらこれらの問題が解決できるでしょうか。スカデヴァ・ゴスヴァーミーは次のようにおっしゃいます。(サンスクリット引用)もし人が病的な人生を本当に止めたいなら、その人は規律的な原則に従わねばなりません。もし人が病気を治すために医者が与えたプログラムに従わないなら、その人は治りません。同様に、もし人がヴェーダの知識が規定するように賢く考えたり行動したりしないなら、どうして彼は人生の問題を止めることができるでしょうか。単に償いをすれば困難が一時的に治まることはあるでしょうが、それはまた生じます。

スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、物質的、すなわち罪深い人生では私たちは罪を犯してその結果に苦しまざるを得ないように行動する、とおっしゃいます。これはその通りであり、もしこの苦しみと被害の循環を止めたいなら、私たちは知識において進歩しなければなりません。一般的な人々、すなわちカルミーは、いくらかの楽しむべき結果を求めて日夜懸命に働き、再び苦しみます。こうして、このようなカルミーの問題は決して解決されません。したがって、人は自らをシュリマッド・バーガヴァタムで規定されているように知識の水準に引き上げることが勧められています。最初に必要なことは、タパシャ、すなわち禁欲を受け入れることです。もし医者が糖尿病の患者に数日間食事をしないでいるように助言すれば、誰も断食などしたくなくても、治りたければ患者は自発的に飢えることを受容しなければなりません。これがタパシャ、自発的に惨めな状況を受け入れることです。これができる能力は良いものであり、人間の人生はその目的のためにあります。実に、ヴェーダの文化はタパシャを規定しており、インドでは多くのタパスヴィーが苦行を行っています。冬には彼らは水に首まで漬かって立って瞑想します。とても寒いときに水の中に立つのはあまり心地よいものではありませんが、彼らは自発的にそうします。また、夏には彼らは自分たちの周りに火を起こして、炎の真ん中に立って瞑想します。これらはインドの多くの苦行者が行っている厳しい苦行の例です。

いくらかのタパシャは必ず必要です。それ無くしては、人は霊的な人生や知識において進歩することができません。もし私たちが単に食べること、眠ること、性交することと身を守ることという動物的な性質だけにいそしむなら、人間の人生は失敗です。もし人が私たちのクリシュナ意識協会の洗礼を受けた会員になりたいなら、私たちはまず第一に彼にタパシャをするように頼みます。特に西洋の国々では、非道徳的な性生活、陶酔物質、肉食および賭け事を止めるのは大きなタパシャです。私たちは単にこれだけのタパシャを要求しているのですが、それを守るのはとても難しいのです。イギリスでは、富裕な貴族がヴァイシュナヴァの兄弟子に尋ねました。「スヴァーミジー、私をブラーマナにしていただくことはできますか。」スヴァーミジーは答えました。「いいですとも。あなたは単にこれらの四つの原則を守らなければならないだけです―――非道徳的な性生活、陶酔物質、賭け事、および肉食を絶ってください。」イギリス人は、「それは不可能です」と答えました。その通り、それは不可能なのです。ヨーロッパやアメリカでは、最初から自分の好きなように快楽にふけることが人生のあり方だからです。インド人の紳士達は、しばしば西洋へこれらの快楽を学ぶためにやってきて、自分たちはこうして進歩していると考えます。インド人は彼らのヴェーダの文化を通して自動的にタパシャを教えられますが、彼らはその文化を忘れて別の種類の人生を受け入れるためにアメリカへ来るのです。しかし本当の事実は、もし人が霊的な理解に進歩して人生のすべての問題を解決したいなら、その人はこのタパシャ―――禁欲と規制の人生を受け入れなくてはならないのです。

規制は人間のためにあり、動物のためにあるのではありません。私たちは普通のやり取りで毎日規制に遭遇します。私たちは法律によって逮捕される危険を冒さずに自動車で左側を走ったり(アメリカは右側通行)、赤信号を無視したりすることはできません。しかし、もし犬が左側を歩いたり赤信号を無視して道を横切っても、動物なので罰せられません。したがって法律は人間と動物を区別します。人間はより発達した意識を持っていることになっているからです。もし私たちが法律や規則に従わないなら、私たちは再び動物主義に堕落します。聞くところによると、規律された人生と反対に自由を祝うプロパガンダが叫ばれているそうですが、物事をありのままに見る者は、すべての規制からの自由は動物の人生であることを理解することができます。したがって、スカデヴァ・ゴスヴァーミーはタパシャをお薦めになります。もし私たちが人生の問題からの本当の自由を望むなら、私たちは禁欲の人生を受け入れなければなりません。他の唯一の選択肢は、物質的な生活への呪縛です。

タパシャとは何でしょうか。苦行とは何でしょうか。苦行の最初の原則は、ブラーマチャルヤ、制限された性生活です。ブラーマチャルヤの本当の意味は完全に性生活を避けることであり、ヴェーダ文化によれば人生の初めには人はブラーマチャルヤの規律に厳格に従うべきです。成長するとブラーマチャーリーは結婚してグリハスタになることができ、グリハスタとして彼は性交をすることができますが、ブラーマチャルヤの生活では厳格に性生活を避けるのが決まりです。現代では、人々はどうやってタパスヴィーの生活をするか教えられていないので、タパシャの欠落によって品位を落としてしまいました。批判のための批判は用をなしません。人はタパシャの人生において効果的に訓練されねばならないのです。

ヴェーダでは、タパシャの規律ある生活を送る者はブラーマナであると言われます。(サンスクリット引用)皆が死んでいきます。誰もここに永遠に住むことはできないからです。しかしタパシャの人生を送って死ぬ者はブラーマナであり、タパシャを実行せず猫や犬のように死ぬ者はクリパナと呼ばれます。これらの二つの語、ブラーマナとクリパナは、ヴェーダ文献で頻繁に使われます。クリパナは「しみったれ」を意味し、ブラーマナは気前が良くて心の広い人を指します。(サンスクリット引用)至高の完全な真理を知る者はブラーマナですが、これを知らない者は動物です。これが動物と人間の違いです。人が人と呼ばれるためには、完全な真理を理解するために教育されていなければなりません。人間の人生は知識のためにあるので、学校や大学、哲学者や科学者や数学者が存在します。食べること、眠ること、性交すること、そして身を守ることのプロセスは教えられる必要はありません。それらは本能的に学ばれるからです。人間の人生は明らかにそれ以上のもののためにあります。それはタパシャと知識のためにあるのです。

ヴェーダには、タパシャに捧げられる人生の始まりを特徴づけるブラーマチャルヤ、すなわち性生活を避けることに関する描写があります。(サンスクリット引用)(スリダーラ6.1.12)正しく性生活を避けるためには、人は性生活について考えたり話したりすることさえすべきではありません。性的な要素に満ちた現代の書物や新聞を読むこともブラーマチャルヤの原則に反します。同様に、いかなる方法で性交にふけることも、女の子を見たり囁きあったりすることも、性生活をしようと心に決めたり努力したりすることも、すべてブラーマチャルヤの原則に反します。人はこれらの行いのすべてが停止するときに本当のブラーマチャルヤを遂行するのです。

苦行、性的な禁欲、および心と感覚を制御することによって、人は純粋な人生において進歩することができます。同様に、正しい方向に向けられた慈善によっても進歩することができます。それはテャーガ、放棄、と呼ばれます。もし人が百万ドルを持っているなら、彼はそれをじっと持っているべきではなく、それが彼の管轄権の範囲にある限り、クリシュナのために使うべきです。お金やエネルギーは、クリシュナに向けられたときは正しく使われるのです。
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by ammolitering4 | 2008-12-12 05:08 | 「比類なき贈り物」 | Comments(0)

比類なき贈り物 第3章-後半

バガヴァッド・ギーターには、平和のための方法が明確に与えられています。私たちはクリシュナが唯一の享楽者であることを理解しなければなりません。すべての活動の中心点がクリシュナであるクリシュナ意識の寺院では、この意識が育まれます。すべての料理はクリシュナのためになされます。人が自分のために作るのではありません。最後には私たちはプラサーダ(捧げられた食物)を食べますが、料理をするときは自分のためではなくクリシュナのために作るのだと思うべきです。寺院のメンバーが街頭に出るときは、自分のためではなく、人々にクリシュナの存在を気づかせるためにクリシュナ意識の書物を配りに行くのです。得られたお金は、すべてクリシュナのために、クリシュナのメッセージを様々な方法で広めるために使います。そのような生き方、すべてがクリシュナのためになされる生き方は、生命体のなかにクリシュナ意識の発達を促します。私たちの活動は同じであり続けるかもしれません。私たちは単に、自分が自分自身の満足のためではなくクリシュナのために活動しているということを理解しなければならないだけです。このようにして、私たちは本来の意識になって幸せになることができます。本来の意識を、すなわちクリシュナ意識を確立しない限り、人は多かれ少なかれ狂っていることは確かなのです。クリシュナ意識でない人は皆狂っていると考えられます。彼らは一時的ではかない水準に存在しているからです。生命体として私たちは永遠なので、一時的な活動は私たちの関心事ではありません。私たちは永遠なので、私たちの行いも永遠であるべきです。そしてその永遠の行いとは、愛を込めてクリシュナに奉仕することです。

クリシュナは至高の永遠存在であり、私たちは下位的な永遠存在です。クリシュナは至高の生命体であり、私たちは下位的な生命体です。指は体全体の欠かすべからざる一部であり、その永遠の機能は体に奉仕することです。本当に、それが正に指にとっての目的であり、もし指が体全体に奉仕できないなら、それは病気であるか、役に立ちません。同様に、欠かすべからざる一部として私たちはクリシュナに奉仕し、主に従属的でなければなりません。至高の父として主は私たちのすべての必要を満たしてくださるからです。そのようなクリシュナに従属した人生は普通(訳注、本来的で正しい)の人生であり、本当に解放された人生です。クリシュナを否定して主と全く関わらずに生きようとする人は、本当は罪深い人生を送っているのです。

スカデヴァ・ゴスヴァーミーとマハーラージャ・パリクスィットはこの議題について話し合い、マハーラージャ・パリクスィットはどうやったら制約された魂たちがその地獄的な暮らしから逃れられるかを知りたがりました。苦しんでいる人類を救うのは、ヴァイシュナヴァの自然な欲求です。一般に、他の人たちは人々が苦しんでいようがいまいが、気にかけません。しかし、ヴァイシュナヴァ、主の献身者たちは、どうしたら人々の堕落した状態を改善できるか、いつも考えています。キリスト教徒たちは、イエス・キリストは十字架に架けられることによって世界の人々のすべての罪深い行いを打ち消された、と信じています。主の献身者は、いつも他の者たちの苦しみを打ち消すにはどうしたらいいかと考えています。同様の献身者に、主チャイタンニャの仲間であったヴァースデヴァ・ダッタがいらっしゃいます。彼は主にこうおっしゃいました。「今こうしてあなたはこの世にいらっしゃいました。ですから、どうぞこの地上のすべての人々を解放し、ヴァイクンサ、霊的な世界にお連れください。そして、もしあなたが彼らはあまりにも罪深くて解放はできないとお考えであれば、どうぞ彼らの罪をすべて私に移してください。私が彼らの身代わりになって苦しみます。」これがヴァイシュナヴァの慈悲なのです。しかし、イエス・キリストやヴァースデヴァ・ダッタが私たちの罪のために契約を結んで、私たちは罪を犯し続けるべきだというわけではありません。それは最も憎むべき提案だからです。ヴァイシュナヴァ、すなわち献身者は、すべての人類のためにお苦しみになるかもしれませんが、人類や特定の献身者の弟子たちは、この便宜を乱用して罪を犯し続けるべきではありません。むしろ人は主イエス・キリストやヴァースデヴァ・ダッタが自分のために苦しんでくださったことを知って罪を犯すことを止めるべきです。

実際には、すべての人が自分自身の罪深い行いに責任があります。したがって、スカデヴァ・ゴスヴァーミーは次のようにお薦めになります。(サンスクリット引用)罪深い行いのすべての反応から自らを自由にするためには、人が体の中にいる限りは償いをすべきです。(サンスクリット引用)それぞれの人の罪深い行いに応じて、人は償いのプログラムを受け入れるべきです。前述のように、異なる罪深い行いによって異なる償いがあります。つまり、来世まで罪深い行いを持ち越して苦しまなくていいように、死の前に償いをすべきなのです。もし罪深い行いに対して何らかの償いがなされないならば、自然は私たちを許してくださいません。私たちは自分の罪の影響を来世において苦しまねばなりません。そのような物質的な活動への呪縛はカルマ・バンダーナーと呼ばれます。
(サンスクリット引用)
「ヴィシュヌへの犠牲としての仕事がなされねばなりません。さもないと仕事は人をこの物質世界に縛り付けます。ですから、おお、クンティの息子よ、主の満足のためにあなたの義務を遂行しなさい。それによってあなたはいつも執着することなく呪縛から自由でいられます。」(BG3.9)

人は食べるのを楽しむために動物を殺すかもしれませんが、その人はそのような行いによって縛られます。こうして来世にはその人は牛や山羊になり、牛や山羊は人になって彼を食べるのです。これがヴェーダに述べられていることであり、すべてのヴェーダの記述と同様、人は信じるのも信じないのも自由です。不幸にして、現在では人々は来世を信じないように教育されています。実に、人は「教育」を受ければ受けるほど神や神の法や来世や、罪深い行いや敬虔な行いを信じなくなるように見えます。このように現代の教育は単に人々を動物になるように準備しています。もし人間に自分が誰であるか、そして自分が体であるかどうかを教える教育が無ければ、人はロバより何ら優れたところのない存在であり続けます。ロバも他の動物たちも「自分はこの体だ」と思っているからです。このように、もし人が同じように考えるなら、その人は他の動物たちとどう違っているでしょうか。シュリマッド・バーガヴァタムには次のように述べられています。
(サンスクリット引用)
「三つの要素からなる体を自分自身として受け入れる者、妻と子供たちとの親密は身体的な関係を好む者、自分の国を崇拝に値すると考える者、そして聖なる巡礼の地の水を受け入れるけれどそこにいる聖人たちの知識を吸収しようとしない者は、幻想の中にいて、ロバより何ら優るところがないと考えられます。」(BG10.84.13)
アーユルヴェーダによると、物質的な体は(サンスクリット引用)粘液、胆汁、および空気という三つの要素からなります。体の中には、食物を液体に変える複雑な機械があります。非常に多くの複雑な身体的なプロセスが起こっていますが、私たちはそれについて何を知っているでしょうか。私たちは「これは私の体です」と言いますが、私たちは体について何を知っているでしょうか。ある人々は「私は神です」と主張します。しかし、彼らは自分の体の中で何が起こっているかということさえ知りません。

体は糞と尿と血と骨の入った袋です。もし人が知性は糞と尿と血と骨から生じると信じるなら、その人は愚か者です。私たちは糞と尿と血と骨を混ぜることで知性を作り出すことができますか?それでも人々は「私はこの体だ」と考えます。したがって聖典は、この体を自分自身だとして受け入れ、妻や子や家族との身体的な関係を自分のものとして受け入れる人は誰でも惑わされているのだと言います。カラトラという語は妻を意味し、アーディは始まりを意味します。人は孤独だと感じるので妻を娶り、たちまち子供たちが生まれ、やがて孫たちが生まれます。このようにして拡張していきます。ストリーは「拡張するもの」を意味し、したがってカラトラーディスは「妻から始まる自己の拡張」を意味します。バーウマという語は人の生まれた土地を指します。無知な人々はそれを崇拝に値する(イジャディーフ)と考えます。人々は自分の生まれた土地のために命を捧げようとしますが、彼らは、土地や体、妻、子供たち、国家や社会は本当は自分とは全然関係がない、ということを知らないのです。私たちは霊魂です。(アハム・ブラーマースミ)これが知識の悟りであり、この知識の地点に至ると私たちは幸せになるのです。
(サンスクリット引用)
「超越的なところに位置する者は直ちに至高のブラーマンを悟る。彼は何ものをも嘆いたり欲したりしない。彼はすべての生命体に平等に好意を持ち、その状態で彼は私への純粋な献身奉仕を達成する。」(BG18.54)人は「私は霊魂である。私はブラーマンである。私はこの物体ではない」と理解すると、直ちに幸せ(スラサナートマー)になります。この喜びの兆候は、もはや何かを追い求めたり嘆いたりする気持ちがなくなることです。この世界では、すべての人が失ったものを嘆いたり得なければならないものを追い求めたりする傾向がありますが、本当の利益とは自分自身を理解して自分の本当の自己を知ることです。

私たちが人生の身体的な概念を維持する限り、私たちは国家その他のすべての法律に併せて物質自然の法律にも従わなければなりません。そのため、この体は制約されていると呼ばれます。それは様々な異なる制約に影響されるからです。様々に異なる制約が存在し、どんな制約に影響されていても私たちは責任があります。もし私たちがこの体にいる間に犯した罪深い行いの償いをしないなら、来世で苦しまねばなりません。私たちはカルマに従って別の体を得るからです。(サンスクリット引用)それが自然の法です。したがってスカデヴァ・ゴスヴァーミーは人が自分の罪深い行いの重さに相応した償いをすることをお薦めになります。人はサーストラに規定された償いの方法に従わねばなりません。そうでなないと救われません。

非常に知性的でいらしたマハーラージャ・パリクスィットは、「償いによって人は罪深い行いから自由になることができますが、例えばある人が殺人をして、それから殺されたとします―――彼の殺人の罪深い反応はこうして中和されますが、来世において彼がまた誰かを殺さないということは保証されません」とおっしゃいました。このように、マハーラージャ・パリクスィットは償いの後で人々が再び同じ罪を犯すということに気づかれました。もし人が病気になれば、医者が薬を当てて治すかもしれませんが、それはその人がまた同じ病気に冒されないということを保証するものではありません。性交による病気は、しばしば治療しても繰り返し生じます。そして、泥棒は何度も何度も盗むかもしれません。何度刑務所に放り込まれても。これはなぜでしょうか。したがってマハーラージャ・パリクスィットは、償いはすでに犯された罪深い行いを相殺するには良いかもしれないがそれらが再びなされるのを防ぐわけではないと気づかれました。誰もが殺人を犯した者は罰せられることを理解できますが、それを知っていても殺すことを思い留まらせるには十分ではありません。すべての聖典とすべての法律書において、人は殺さないように警告されています。それでも誰もこれらの法律を気にしません。これに対する治療法は何でしょうか。
(サンスクリット引用)実際的な経験、および権威から聞くことによって、誰もが罪深い行いとは何かを知っており、「私は罪とは何か知らない」と言える人はいません。もし人が償いの後で繰り返し同じ罪を犯すなら、償いに何の価値があるでしょう。(サンスクリット引用)(BG6.1.9)人は罰せられると、「私はなんという過ちを犯してしまったのだろう!私はもう二度とこの罪を犯さない」と考えます。しかし彼は危険が去るとすぐにまた同じ罪を犯します。

習慣は第二の本能です。それはとても壊しにくいのです。(サンスクリット引用)人は犬を王座に座らせることができるかもしれませんが、犬は靴を見るとすぐに飛び降りてそれに向かって走っていきます。犬だからです。犬としての性質がそこにあり、それは単に犬を王座につけるだけでは変わりません。同様に、私たちは物質自然の三つの相(サンスクリット引用)と関わることで物質的な性質を身につけました。そして私たちの習慣はこれらの三つの性質、すなわち徳、熱情、無明、と関わることで形成されました。しかし、もしも私たちが物質自然の三つの相との関わりを断ち切れば、私たちの本当の霊的な性質が呼び覚まされます。それがクリシュナ意識の過程です。もし人がクリシュナ意識であれば、その人が物質自然の三つの相と関わる可能性はなく、人がクリシュナを意識しているときは、その人の霊的な性質は自動的に呼び覚まされます。それが秘密です。クリシュナ意識の過程を真剣に辿る者は、たとえかつては様々な良くない習慣を持っていたとしても、単にクリシュナ意識を実行することの徳によって物質的な汚染のない水準に留まることができます。

このように、クリシュナ意識は非常に優れた薬です。人がクリシュナに目覚めない限り、物質自然の三つの相との関わりにおいて形成する習慣は続き、人はそれを変えることはできないでしょう。もし本当に生と死の繰り返しからの自由を望むなら、人はクリシュナ意識にならねばなりません。バガヴァッド・ギーターにおいて、主クリシュナは次のようにおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「完全な献身奉仕にいそしむ者、どのような状況でも堕落しない者は、ただちに物質自然の相を超越して、そうしてブラーマンの水準に至ります。」(BG14.26)

クリシュナ意識のプロセスは、「あの償いやこの償いをしなさい」と勧めたりはしません。人は償いをして実験を続けることはできますが、魂の病は人が愛情をもって献身奉仕を捧げ、自分の人生を浄化する水準に至らない限り、そのまま変わりません。
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by ammolitering4 | 2008-12-10 16:34 | 「比類なき贈り物」 | Comments(0)

比類なき贈り物 第3章 前半

第3章愛することを学ぶ

罪深い行いに汚染されたら、相応の償いが必要です。それが聖典の規定です。スカデヴァ・ゴスヴァーミーは、もし人が死ぬ前に償いをすれば来世で堕落しないで済むとおっしゃいます。もし償いをしないなら、その人は自分の罪深い行いの結果として生じる反応を引きずり、苦しまねばなりません。法によると、もし人が誰かを殺すなら、その人は殺されねばなりません。生には生を、という概念はあまり新しいものではなく、人類のためにヴェーダの法律書であるマヌ・サムヒターに見られます。そこには、「王が殺人者を絞首刑にすると、それは本当は殺人者にとって益となる。なぜなら、もし殺されないなら彼は自分の犯した殺人の反応を引きずり、多くの形で苦しまねばならないからである」と書かれています。

人々は知りませんが、自然の法則はとてもかすかで、とても熱心に執行されています。マヌ・サムヒターでは、生には生、という概念が承認されており、それは実際に世界中に見られます。同様に、人はたとえアリ一匹でもその責任を負わずに殺すことはできない、と述べた他の法律もあります。私たちには作り出すことができないので、私たちはいかなる生命体をも殺す権利を持ちません。したがって、人を殺すことと動物を殺すことの間に違いを設ける人工的な法律は不完全です。人間の作る法律には不完全さがありますが、神の法律には不備はありえません。神の法によると、動物を殺すことは人を殺すことと同じく懲罰に値します。二者の間に違いを設ける者は、自分たちの独自の法律を作り出しているのです。十戒においても、それは規定されています。「あなたがたは殺してはならない」、これは完璧な法ですが、人間は区別化と推量によってそれを歪めました。「私は人間は殺さないが、動物は殺す」。このようにして、人は自分自身を欺き、自分と他者の上に苦しみを課します。どちらにしても、しかし、神の法はそのような振るまいをお許しになりません。

異なる体や衣類をまとっていても、すべての者は神の創造物です。神は唯一の至高の父と考えられています。父にはたくさんの子供がいるかもしれず、そのうちのある者は知性的で、他の者はあまり知性的でないかもしれません。しかし、もしも知性的な子供が父に「私の兄弟はあまり知性的ではありません。殺していいですか?」と言えば、父は同意するでしょうか。単に、ある子供があまり知性的でなく、他の子供が重荷を避けるために彼を殺したいと望んでも、父は決して同意しません。同様に、もし神が至高の父であれば、なぜ神は同じくご自分の子供である動物たちを殺すことを承認なさるでしょうか。バガヴァッド・ギーターにおいて、神はアルジュナに840万種のすべての生命体はご自分の子供であると宣言なさいます。「そして私は彼らに命を与えた父である」と主はおっしゃいます。普通の物質的な生殖において父が種を蒔き母が胎児に必要な血液を供給することで体を育むように、同様に至高の父の欠かすべからざる小片である生命体は主によって物質自然の中に受胎させられたのです。

霊魂の大きさはとても小さく、聖典にはケサーグラ―――髪の毛の先端の千分の一だと書かれています。私たちには、とても小さな点がさらに千分の一に分けられているのを想像するのは容易ではありません。言い換えると、それはとても小さいので最も高性能の顕微鏡でさえ感知することができないのです。このように、霊的な火花の大きさはとても小さいので、通常の視力では見ることができません。これらすべての情報は聖典に示されていますが、私たちには相応の視力がないので見ることができません。私たちの物質的な目は魂の大きさを知覚することができませんが、魂はそれでも体の中にあり、そして体を去ると同時にその行いに応じた別の体を得ます。

人は常にこれらすべての活動の背後にはより高い管理体制があることを考慮すべきです。生命体は物質世界においてちょうど会社員が会社で働くように活動します。そして、その勤務成績が記録されているのです。生命体は上司の意見がどうであるかを知りませんが、それでも勤務成績の記録は会社に保存され、その活動に応じて昇進や給料の増額を与えられ、あるいは降格されたり、解雇されたりすることさえあります。同様い、私たちのすべての活動には目撃者がいます。したがって聖典には、生命体は上なる管理の下にあってそれぞれの行いに応じて賞罰を受ける、と書かれています。今、私たちは人間の体を持っていますが、来世ではもっていないかもしれません。何か別の、もっと良いものやもっと低いものを持っているかもしれません。どのような種類の体を持つかは、生命体の上司によって決定されます。一般に、生命体は霊魂がどのようにして一つの体からべつの体へと転生するかを知りません。

霊魂は一回の生の間でさえ体の変化に伴って転生します。体が最初に母親の子宮の中に現れたときは、それはとても小さくて豆粒のようですが、徐々に9つの穴ができてきます―――二つの目、二つの耳、二つの鼻腔、一つの口、一つの性器と一つの直腸です。このようにして体が育ち、それが母親の子宮の中で育つことが必要とされる間はそこに留まります。外に出て行くのに十分なだけ成長したら、出てきて育ちます。成長は体の変化を伴います。この変化は生命体には知覚できないので、理解することはできません。子供の頃には私たちは小さな体を持っていましたが、それはもはや存在しません。したがって、私たちは体を替えたということができます。同様に、物質的なものの性質により、私たちはこの体が使い物にならなくなったら取り替えねばなりません。すべての物質的なものは劣化し、壊れた機械や古い布切れのように、体はある一定の時間のあとは使いものにならなくなります。

この成長過程は常に生じていますが、現代の大学での教育システムは、高度であると考えられてはいますが、不幸にしてこのことを扱いません。本当は、霊的な知識なくして教育はないのです。人は、パンを稼ぐことと食べること、眠ることと性交することは、正式な教育を受けなくても学べます。動物たちは教育されていません―――彼らは技術者ではなく、大学の学位も持ちません―――しかし、彼らもまた食べており、眠っており、性交しており、身を守っています。もし教育システムがこれらのプロセスだけを教えるのであれば、それは教育と呼ばれるに値しません。本当の教育は私たちに自分が何であるかを理解することができるようにしてくれます。人が自己の真実を理解することによって意識を発達させない限り、その人のすべての行いは無明の相においてなされます。人間の人生は物質的な自然の法則に勝利するためにあります。本当は私たちは皆、自然の猛襲を相殺するためにその勝利を得ようとしています。究極の勝利は生老病死を克服することですが、私たちはこの大切な点を無視してきました。

もし神が供給してくださっているものを正しく使うことを教育システムが教えるなら、それは向上するでしょう。私たちの食べる果物と穀物のすべては、すべての生命体に食べ物を供給してくださる神によって与えられたものです。シュリマッド・バーガヴァタムには(サンスクリット引用)、「ある生命体は別の生命体の食べ物である」(バーガヴァタム1.13.47)と述べられています。腕のない動物は、私たちのような腕のある動物の食物です。脚のない動物は、4本の脚のある動物の食物です。草は生命体ですが、動くための脚がありません。そのため牛や他の動物に食べられるのです。そのような動かない生命体は動く動物の食物であり、このようにして世界は常に搾取する者とされる者の間の戦いにあります。弱い者は強い者によって搾取されます。これが自然の法則です。伝統的に、クリシュナの献身者、すなわちヴァイシュナヴァは肉を食べません。これは単に菜食主義であるためではなく、神意識の進歩のためです。神意識になるためには、人はいくつかの規則や規律を守らねばなりません。もちろん人は食べなければなりませんが、提案されているのは、人はクリシュナに捧げられた食物の残りを食べるべきだというものです。これはバガヴァッド・ギーターの哲学でもあります。そこではクリシュナは次のようにおっしゃいます。
(サンスクリット引用)
「もし人が私に愛と献身の念を持って葉か花か果物か水を捧げるなら、私はそれを受けいれる。」(BG9.26)

クリシュナがお腹をすかせていて私たちから食べ物を欲しているわけではありません。この捧げ物の目的は、愛情のあるやり取りをすることです。クリシュナはこのやり取りを欲していらっしゃるのです。「あなたが私を愛してくれれば、私はあなたを愛します」神として、クリシュナのエネルギーはすべてを作り出して維持しています。ではなぜ主が一枚の葉っぱや一つの果物や少しの水を乞うべきでしょうか。しかしクリシュナは、もし私たちが「クリシュナ、私はとても貧しいので、何も手に入れることができません。この果物と葉っぱだけ手に入れました。どうかお受け取りください」と言って愛情を込めて一つの果物や一枚の葉っぱや水を差し上げると、大変喜んでくださいます。そのような捧げ物は、クリシュナをとても嬉しくするのです。もし主が私たちの捧げたものを食べてくださるなら、私たちに人生は成功するでしょう。私たちは実際にクリシュナと友達になるからです。果物や花や水は、ほぼ世界中のどこでも、誰でも、貧しくてもお金持ちでも、手に入れて捧げることができます。私たちは、大切なのは菜食主義ではなく、神は何も必要としてはいらっしゃらないことを覚えているべきです。大切な点は、私たちは単にどうやってクリシュナを愛するかを学ばねばならないということです。

愛は与えることと受け取ることから始まります。私たちは恋人に何かを与え、恋人は私たちに何かをくれて、このようにして愛が育ちます。私たちが誰かと愛情のあるやりとりを作り出すときは、どんな愛のあり方にせよ、どんな男の子や女の子、男性や女性にせよ、私たちは与え、受け取ります。このように、クリシュナは私たちにどうやって与え受け取るかを教えて下さっているのです。クリシュナは私たちに乞い願っていらっしゃいます。「私を愛そうとしてください。どうやって私を愛するかを学んでください。私に何かを捧げてください。」「すみませんが、」と私たちは言うかもしれません。「私にはあなたに差し上げるものが何もないのです。」「そうですか?果物一つや一輪の花、一枚の葉っぱが手に入りませんか?」「ああ、そんなことはありません。それなら誰でも手に入れられます。」

つまり、これがクリシュナ意識の方法であり、それによって人はクリシュナと友達になることができるのです。私たちはクリシュナとどんな関係を結ぶこともできます。クリシュナの直接の召使になることもできるし、最高の水準では私たちはクリシュナの父や母や恋人になることもできます。クリシュナにはすべての生命体と愛情のある関係を結ぶ準備ができていらっしゃるのです。本当は、この関係は既にあります。主は至高の父であり、私たちは主の欠かすべからざる小片だからです。子は父の体の一部なので、両者の間の関係は壊され得ません。しばらくの間忘れられることはあるかもしれませんが、人が自分の父や息子を認識すると、ただちに愛情が育ちます。同様に、私たちは永遠にクリシュナと関係がありますが、現在ではこの関係は単に忘れられているか抑圧されているのです。結果として、私たちは自分たちはクリシュナとは関係がないと思っていますが、それは事実ではありません。私たちは、主が完全な存在であるために絶対に必要な存在、すなわち私たちは主の欠かすべからざる小片なので、私たちと主との関係は永遠です。その関係は単に回復されなければならないだけであり、その回復がクリシュナ意識の過程なのです。

現在は私たちは異なる意識の影響の下にあります。ある人は自分はインド人だと考えており、別の人はアメリカ人だと思い、また別の人は「私はあれだ」、「私はこれだ」と考えています。このようにして私たちはたくさんの人工的な自己認識を作り上げますが、私たちの本当に自己認識は「私はクリシュナのものだ」というものであるべきなのです。私たちがこのように考えるとき、私たちはクリシュナ意識で考えています。この方法によってのみ、すべての生命体の間の普遍的な愛が成り立ちます。クリシュナは永遠の父としてすべての人と関係があるので、結果として、クリシュナ意識の関係を作り上げると私たちはすべての人と親戚になるのです。人は結婚すると自動的に配偶者の家族と関係が生じます。同様に、もし私たちがクリシュナとの本来の関係を再び築けば、私たちは他のすべての人との本当の関係を築くことになるのです。それが本当の普遍的な愛のための基盤です。普遍的な愛は人工的であり、私たちが中心なるものとの関係を作らない限り長持ちしません。人はアメリカに生まれればアメリカ人であり、こうして他のアメリカ人は家族の構成員になります。しかし、もしその人が他のところで生まれれば、アメリカ人とは何の関係もありません。世俗的な水準では、すべての関係は相対的です。しかし私たちのクリシュナとの関係は永遠であり、時間や状況に影響されません。私たちがクリシュナとの関係を再び作り上げるとき、普遍的な兄弟愛、正義、平和、そして繁栄の問題は解決されます。これらの高尚な概念をクリシュナ無くして実現できる可能性はありません。もし中心点が欠けていれば、どうやって兄弟愛と平和があり得るでしょうか。
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by ammolitering4 | 2008-12-10 16:33 | 「比類なき贈り物」 | Comments(0)