カテゴリ:「霊的なヨガ」( 10 )

「霊的なヨガ」第11章 

第11章 「完全な完成に至る」

第1段落

(サンスクリット引用)

「愛しい息子たちよ。あなた方は私が助言したように行動すべきです。大変注意深くありなさい。これらの方法によって、結果を求める行いへの欲望という無明からあなた方は自由になり、心の中の呪縛の結び目は完全に切断されます。もっと発達するためには、あなた方は方法さえも放棄すべきです。つまり、あなた方は解放の過程そのものに執着するようになるべきではありません。」(SB5.5.14)

第2段落

解放の過程はブラーマ・ジジナーサー、完全真理の探求です。一般にブラーマ・ジジナーサーはネティ・ネティ、それによって人が完全真理の探求のために存在を解析する過程、と呼ばれます。この方法は、人が霊的な人生にない限り続きます。霊的な人生はブラーマ・ブータ、自己を認識した状態です。バガヴァッド・ギーターには、次のように書かれています。(18.54)

(サンスクリット引用)

「このように超越的な立場に位置する者は、直ちに至高のブラーマンを認識し、完全に喜びに満ちた状態になります。彼は決して嘆かず、何かを欲しいと望むこともありません。彼はすべての生命体に対して中庸です。その状態にあって、彼は私への純粋な献身奉仕に至ります。」

第3段落

求められているのは、パラー・バークティ、至高主への超越的な献身奉仕に入ることです。これに至るためには、人は自分の存在を解析しなければなりません。しかし人が実際に献身奉仕にいそしんでいるとき、彼はわざわざ知識を探そうとすべきではありません。単に逸脱することなく献身奉仕にいそしむだけで、人はいつも解放された状態に留まっていられます。

(サンスクリット引用)(BG14.26)

ひるむことのない献身奉仕の実行は、自動的に人をブラーマブータの水準と呼ばれる超越的な水準に置きます。これに関するもうひとつの重要な特徴は(サンスクリット引用)です。霊的指導者から受けとった指導には直ちに従わねばなりません。人は霊的指導者の指導から逸れたり、それを飛び越えたりすべきではありません。人は単に書物を調べることに熱心であるべきではなく、同時に霊的指導者の命令を実行すべきです。(ヤソパデシャム)物質的な概念を放棄することができるようにするためには神秘的な力が習得されるべきですが、実際に献身奉仕にいそしむとき、人は神秘的なヨガのシステムを実行する必要はありません。要点は、人はヨガを実行することは放棄できますが、献身奉仕は放棄してはならないということです。シュリマッド・バーガヴァタムには次のように述べられています。(1.7.10)

(サンスクリット引用)

解放された者(アートマーラーマ)でさえ、いつも献身奉仕にいそしまねばなりません。人は自己を認識したらヨガを実行することを放棄しても構いませんが、どの段階においてでも献身奉仕を放棄することはできません。ヨガと哲学的な推察を含むほかのすべての自己認識のための活動は放棄されても構いませんが、献身奉仕はいつも必ず維持されねばなりません。

第4段落

献身奉仕は私たちをカルマーシャヤム、結果を求める活動への欲望から自由にします。私たちの心が結果を求める活動に没頭している限り、私たちが物質的な体への呪縛(サンスクリット引用)から自由になることはありえません。人間の人生の目的のすべては、霊魂を体から自由にして、それによって生と死の繰り返しに起因する苦しみから自由にすることです。誰もが一生懸命働いて結果を楽しむことで幸せになろうとしています、、、この地球の上だけではありません。もっとも高位の惑星ブラーマロカに至るまで、他の惑星でもそうなのです。しかし、この過程は単に私たちの物質的な体への呪縛を増します。第10節から第13節にかけて、主リシャバーデヴァはそれによって人が徐々にこの呪縛から自由になるところの献身奉仕の過程を説明なさいました。

第5段落

献身奉仕は科学です。それは感情論ではありません。したがって私たちはそれをヴェーダの権威ある源から理解しなければなりません。そのような知識は私たちの不完全な感覚に基づいてはいません。そしてそのためヴェーダの知識には誤りや偽りや幻想はありません。すべてが完璧です。これが本当の科学、、、完璧な知識です。「もしかしたら」や「そうであるかもしれない」ではありません、、、それは科学ではなく理論です。

第6段落

献身奉仕の科学を知るためには、人は完璧な教師に近づかねばなりません。(サンスクリット引用)第10節において、主リシャバーデヴァは献身奉仕の第一歩は(サンスクリット引用)であると確認しておられます。「人は高度に発達した霊的指導者に服従し、そのようにして私に、至高の人格神に献身奉仕をすべきです。」マイ(mayi)「私、すなわち至高の人格神」という言葉は大変重要です。これは、グルは至高主と同じくらい良いということを示します。彼は主の教えからそれることがないからです。それがグルの主要な特徴です。彼は何か新しいものを作り出したりしません。違います。彼はクリシュナは5000年前にバガヴァッド・ギーターにおいてお教えになったのと同じことを教えます。そしてクリシュナがお話しになったときでさえ、それは新しいものではありませんでした。バガヴァッド・ギーターの第4章において(4.1)、クリシュナはアルジュナにこうおっしゃいます。(サンスクリット引用)「何百万年も前に太陽神に教えたのと同じヨガの科学を私は今日あなたに教えます。」時間が経ってから教えが変化しなければならないというのではありません。それは無意味なことです。完全真理に関しては、新しいことはありえません。すべてが確立されています。何百万年も前、太陽は東の地平線から昇りました。そして今でも太陽は東の地平線から昇ります。今では太陽が西や東の地平線から昇るというわけではありません。同様に、ヴェーダの知識は永遠に確立されています。それはいかなる状況においても決して変えられ得ません。何百万年も前に真実だったことは、今も真実です。そしてその真実を知るためには人は真正なる霊的指導者に近づかねばなりません。

第7段落

主リシャバーデヴァによって与えられた献身奉仕における二つのもっとも重要な段階は、マット・カルマビーヒ、「私のために働く」と、マット・カサヤー・チャ・ニチャム、「いつも私に関することを聞き、私の名を唱える」です。ニチャム、「いつも」という言葉はここで非常に大切です。人は一年に7日か10日シュリマッド・バーガヴァタムのクラスに出席して、残りの355日は証券取引所に行ってあの株やこの株の値段を尋ねているべきではありません。違います。あなたは献身者との関わりの中で(マッド・デヴ・サンガート)毎日バーガヴァタムを聞かねばなりません。結果を求めて働く人々や精神的な推察をする人々との関わりの中でではありません。それは私たちを助けません。

第8段落

献身奉仕におけるもう一つの重要な事柄は(サンスクリット引用)です。献身奉仕をすることによって、人は家庭生活への非執着を培うべきです。バーガヴァタムには次のように述べられています。(11.2.42)(サンスクリット引用)「バークティ・ヨガを実行することによって、人は主に奉仕をする超越的な喜びを感じ、主の存在を感じ、他のすべてに対する非執着を感じます。それがバークティ・ヨガです。誰もが自分自身に次のように問うことによって、献身奉仕の道における自分の進歩を試すことができます。「私は俗世の情愛に対してどれくらい非執着になっただろう。私はまだどれくらい”これは私の体、これは私の国、これは私の社会、これは私の妻、これは私の子供たちだ”と考えているだろう。」私たちはこの幻想に基づいた執着を放棄しなければなりません。もしも私たちが俗世の執着を放棄することができないなら、私たちはまったく進歩することができません。人はアハム・ブラーマースミを理解するようにならなければなりません。「私はこの体ではない。私はこの心ではない。私はこの知性ではない。私は純粋な霊(ブラーマン)、至高のブラーマンであるクリシュナの欠かすべからざる小片である。」

第9段落

もしも私たちがここでバーガヴァタムおよび他の真正なる聖典(シャーストラ)の中に与えられている教えに従って献身奉仕を実行するなら、私たちは成功して解放されるでしょう。しかし、聖典なくしてそれは可能ではありません。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて次のようにおっしゃいます。(16.23)(サンスクリット引用)「もしもあなたが聖典の教えを放棄して自分の思いつきに従って行動するなら、完成が得られる見込みはありません。」そしてルーパ・ゴスヴァーミーはこれをご自分のバークティ・ラサームリタ・スィンドゥー(1.2.101)の中で確認していらっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「ウパニシャッド、プラーナ、ナーラダパンチャラートラなどの権威あるヴェーダ文献を無視した主への献身奉仕は単に社会における不必要な妨害です。」非常に多くの宗教的な方法が発明されています。たとえば、聖典はハレ・クリシュナの真言を唱えることを命令していますが、人々は非常の多くの唱え方を発明しました。もしもあなたがラーマ・ラーマ・ラーマ、ラーデー・ラーデー・ラーデー、クリシュナ・クリシュナ・クリシュナと唱えるなら、それもまた聖なる名前を唱えることです。しかしあなたは聖典に従わねばなりません。聖典は、ハレ・クリシュナ、ハレ・クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ、ハレ、ハレ。ハレ・ラーマ、ハレ・ラーマ、ラーマ、ラーマ、ハレ、ハレと唱えなさいといいます。あなたはそれを受け入れなくてはなりません。ニターイ・ガウラ・ラーデ・シャーマ、ハレ・クリシュナ、ハレ・ラーマと唱えるのではありません。違います。あなたの発明の価値は何でしょうか。あなたは完璧ではありません。あなたは新しいマントラを発明して成功することはできません。単に聖典の薦めに従いなさい。そうすればあなたは完全な完成を得るでしょう。

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以上です。次は「命は命より来たる」(Life Comes From Life)です。「自己の探求」(Science of Self-Realization)のうしろのほうに、プラブパーダがDr.Singhという科学者と対話をしている様子が紹介されていますが、この本はその対話の他の部分を収録してあるものです。今はまだ翻訳を始めたばかりなので、更新はしばらく先になります。どうぞ根気よくお待ちください。

なお、私の(D君の)コンピューターも今後当分は壊れたままの予定です。ファイルの保存ができませんので、よろしかったら各自で保存またはプリントをしてください。念のため。。。
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by ammolitering4 | 2009-07-07 06:14 | 「霊的なヨガ」 | Comments(8)

霊的なヨガ 第10章 第4段落より

第4段落

シュリー・マドヴァーチャーリャが指摘なさるように、これらの四つのシュロカの要点は、人は感覚の満足のための欲望から行動するのではなく、かわりにいつも主への愛情を込めた奉仕にいそしむべきであるということです。言い換えると、バークティ・ヨガは解放への承認された道です。シュリーラ・マドヴァーチャーリャは次のようにアドヒャートマから引用なさいます。

(サンスクリット引用)

人は魂の利益のためだけに行動すべきです。ほかのあらゆる行いは放棄されるべきです。人がこのような状態にあるとき、その人は欲望がないと言われます。実際には、生命体は完全に欲望をなくすことはできません。しかし人が他のものではなく、ただ魂だけの利益を欲するとき、その人は欲望がないと言われます。

第5段落

霊的な知識はジナーナ・ヴィジナーナ・サマンヴィタムです。人が完全にジナーナとヴィジナーナを備えているとき、その人は完全です。ジナーナは人が至高の人格神ヴィシュヌを至高存在であると理解することを意味します。ヴィジナーナは、人を物質的な存在の無明から解放する行いを指します。シュリマッド・バーガヴァタムには次のように述べられています。(2.9.31)(サンスクリット引用)至高主に関する知識はとても頼りになるものであり(confidential, 秘密の、内々の、部下などが腹心の、打ち解けた)、それによって人が主を理解するところの至高の知識はすべての生命体の解放を促します。この知識がヴィジナーナです。主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(4.9)において確認しておられます。

(サンスクリット引用)

「私の現れと活動の超越的な性質を知る者は、体を去った後、この物質世界で再び生を受けることはありません。そのかわり、私の永遠なる住処に至ります、おお、アルジュナよ。」

第6段落

第9節において、主リシャバーデヴァは人が心の中の執着の結び目を緩めることを薦めておられます。そして、これらの説に列挙されている事柄はそれをするための方法です。不幸にして現代の世界ではほとんどすべての人が朝から夜までこれらの執着を強めるために忙しくしています。大きな大きな工場で昼も夜も際限なく(one shift after another)、、、この不必要に大変な重労働(ウグラ・カルマ)は、現代の文明の最も目立った特徴になりました。私たちはデトロイトでそのようなウグラ・カルマを見たことがあります。フォードの自動車を製造する組み立て工場で、ある男は単に自動車のハンドルを取り付けています。彼のそばには山のようにハンドルがあります。そshして他の人はタイヤを取り付けています。彼のそばにもタイヤが山積みです。自動車の部品はたくさんあります、、、3000個です。他のところには、人々が昼も夜も働いて自動車の様々な部品を作っている工場があるのです。そして最終的に部品はデトロイトの工場に送られ、そこで彼らは次から次へと車を組み立て、人々は大量の車を使っています。工場で昼も夜も働いたあと、人々は陶酔物を摂取することと不正な性交をすることによって自分自身をなだめようとします。これらのウグラ・カルマのすべてが人を無限の物質的な執着によって呪縛されたままにします。

第7段落

しかし、これらすべてのウグラ・カルマにも関わらず、人々は幸せではありません。彼らはウグラ・カルマからは幸せは得られないことを知りません。したがって、ここで主リシャバーデヴァは、発達の原則のひとつは(サンスクリット引用)、「物質世界ではどこにでも、高位の惑星にさえ悲惨さがあるのを見ることである」とおっしゃいます。クリシュナはバガヴァッド・ギーターで次のようにおっしゃいます。(サンスクリット引用)「最高位の惑星から最低位のそれまで、すべては悲惨な場所です。」そして(サンスクリット引用)とも言われます。「この物質世界は悲惨な場所であり、そこでは人生は一時的です。」

第8段落

ですから、私たちは自分の物質的な状態を様々な方法で向上させようとしていますが、それは究極的には不可能であることを知るべきです。もしも貧しい男が一生懸命に働いて莫大な富を築いても、それは彼が人生の危険な状態から自由であることを意味するのではありません。三重の悲惨さは、どこにでも存在しているからです。体と心に関係のある悲惨さがあり、他の生命体に起因する悲惨さがあり、自然の力によってもたらされる悲惨さがあります。そしてもちろんいつも生老病死という悲惨さがあります。

第9段落

これらの悲惨さはどれも物質的な体によって引き起こされ、その体の根源は偽りの自我です。この偽りの自我は、もしも私たちが主リシャバーデヴァがここに描写なさる方法を習慣付ければ、放棄することができます。(サンスクリット引用)最初の方法は、高度に発達した霊的指導者に服従することです。(サンスクリット引用)これが本当の宗教の始まりです。もしもあなたが資格のあるぐるを得ないならば、そうすればすべては偽物です。しかし、もしも幸運にもあなたが資格のあるグルと関わることができるなら、そうすればあなたは献身の念というつる草の種を受け取ることができます。主チャイタンニャは(サンスクリット引用)とおっしゃいます。「霊的指導者とクリシュナ両者の慈悲によって、幸運な魂は心の中に献身の念というつる草の種を受け取ります。」したがって、ここでクリシュナの化身であるリシャバーデヴァはおっしゃいます。(サンスクリット引用)「人は献身奉仕をまず霊的指導者に、そして次に私にささげねばなりません。」あなたは、霊的指導者をとばしてクリシュナに行くことはできません。中には、「私はクリシュナを知っている。グルは無しで、直接クリシュナのところに行こう」と言う悪者もいます。いいえ、それは可能ではありません。まずグル、それからクリシュナです。そして、もしも人が実際にグルと聖典によって与えられた教えに従うなら、そうすればこの物質世界を楽しもうという強い欲望は緩み、その人の物質的な悲惨さからの解放は保証されます。
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by ammolitering4 | 2009-07-06 08:48 | 「霊的なヨガ」 | Comments(1)

「霊的なヨガ」第10章

第10章 「最高の快楽への道」

第1段落

(サンスクリット引用)

1-1 おお、私の息子たちよ。あなたたちは高度に引き上げられたパラマハムサ、霊的に発達した霊的指導者を受け入れるべきです。そのようにして、あなたがたは私、至高の人格神に信頼と愛を持つべきです。あなたがたは感覚の満足を嫌悪し、夏の冬の季節の変化のような喜びと痛みの二重性を耐え忍ぶべきです。より高い天体系においてさえ悲惨である、生命体の悲惨な状態に気づこうとしなさい。

1-2 真実について哲学的に問いなさい。そして献身奉仕のために様々な禁欲と苦行をしなさい。感覚的な楽しみのための努力を放棄し、主への奉仕にいそしみなさい。至高の人格神に関する議論を聞き、いつも献身者と関わりなさい。

1-3 至高主の御名を唱え、主の栄光を称え、すべての者を霊的な水準において平等に尊重しなさい。敵意を放棄し、怒りと嘆きを抑制しなさい。自己を体と家だと見なすことを止め、明かされた聖典を読みなさい。人里離れた場所に住み、それによってあなたが完全に生命の気(life air)と心と感覚を統御できるところの過程を学びなさい。

1-4 明かされた聖典、ヴェーダ文献に完全な信頼を持ち、いつも性生活を避けなさい。あなたがたに課された義務を遂行し、不必要なおしゃべりを慎みなさい。いつも至高の人格神のことを考え、正しい源から知識を得なさい。こうしてバークティ・ヨガを実行することで、あなたは辛抱強く熱心に知識を培い、偽りの自己を放棄することができるようになります。(SB5.5.10-13)

第2段落

これらの四つの節において、リシャバ=デヴァは息子たちにどうやって物質的で制約された人生において偽りの自己から自由になれるかを語っておられます。上記のように訓練を積むことで(あるいは「上記のようなことを実行することで」)、人は徐々に解放されます。これらすべての指示された方法は、人をして物質的な体を放棄して(リンガム・ヴャポヘット)、本来の霊的な体に位置することを可能にします。まず第一に人は申請なる霊的指導者を受け入れなければなりません。これはシュリーラ・ルーパ・ゴスヴァーミーによって自著「バークティ・ラサームリタ・スィンドゥー:シュリー・グル・パーダーシュラヤー」において主張されています。物質世界において絡まって動きがとれなくなっていることから自由になるためには、人は霊的指導者に近づかなくてはなりません。(サンスクリット引用)(ムンダカ・ウパニシャッド1.2.12)霊的指導者に質問することと彼に奉仕をすることによって、人は霊的な人生において進歩することができます。人が献身奉仕にいそしむとき、自然に個人的な快適さ、、、食べること、眠ること、着ること、、、への魅惑は減ります。人が献身者と関わるとき、霊的な水準が維持されます。マッド・デヴァ・サンガート(「私の献身者との関わり」)という言葉は、大変重要です。様々な半身たちの崇拝に専念する多くのいわゆる宗教がありますが、ここでは良き関わりとは単にクリシュナを自分の崇拝すべき神として受け入れる者との関わりを意味します。

第3段落

もうひとつの大切な事柄はドゥヴァンドゥヴァ・ティティクシャー(「物質的な二重性を耐え忍ぶこと」)です。人が物質世界にいる限り、物質的な体から生じる喜びと痛みが必ず存在します。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて(サンスクリット引用)と助言なさいます。人はこの物質世界の一時的な痛みと喜びを耐え忍ぶことを学ばねばなりません。人はまた、自分の家族に執着せず、性生活を避けねばなりません。聖典に示された命令にしたがって自分の妻と性交することはブラーマチャーリャ(celibacy、性交を避けること、童貞でいること)と見なされますが、不正な性交は宗教的な原則の反対であり、霊的な意識の発達を妨げます。もう一つの大切な言葉はヴィジナーナ・ヴィラージタです。すべてのことが非常に科学的かつ意識的になされるべきです。人は自己を認識した魂であるべきです。このようにして人は物質的な呪縛に絡まって動きが取れなくなる状態を放棄することができます。

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今日はとりあえずこれで終わります。まだ図書館のコンピューター生活なのです。。。不便ではありますが、ありがたいことでもあります。この本の翻訳そのものは昨日で終わりました。禁欲を薦め、物質的な欲望に振り回されてはいけない、という内容の本を訳していながら、昨日はつい一人でインド料理のバイキングに行ってお祝いしてしまいました。おいしかったです。

たくさん食べておなかもいっぱい、帰りはさらに欲張ってその辺に生えているベリーを積みながら帰りました。物質的な執着から離れられるのはまだまだ先のことになりそうです。
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by ammolitering4 | 2009-07-05 05:35 | 「霊的なヨガ」 | Comments(2)

「霊的なヨガ」第9章

第9章 「執着の結び目をほどく」

第1段落

(サンスクリット引用)

過去の行いの結果のために物質的な人生に関わることになった人の心の中の強い結び目が緩むとき、人は家と妻と子供への執着から離れます。このようにして人は幻想の基本的な原則(私と私のもの)を放棄し、解放されます。こうして人は超越的な世界に行きます。(SB5.5.9)

第2段落

サドゥーと関わり、献身奉仕にいそしむことによって、知識と実行と非執着の結果として人が徐々に物質的な概念から自由になるとき、心の中の執着の結び目が緩まります。こうして人は制約された人生から自由になり、家へ、至高神のもとへ帰る資格ができます。

第3段落

ここで主リシャバーデヴァは解放の過程を描写していらっしゃいます。解放とは、これ以上物質的な人生がないことを意味し、物質的な人生の基本的な原則は性です。したがってヴェーダの文明は人々にどうやって性的な欲望から自由になるかを訓練することに基づいています。偉大な皇帝ヤームナーチャーリャは、このことに関する自分自身の経験を描写していらっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「主クリシュナの蓮の御足への愛を込めた奉仕に私の精魂を捧げて以来、私の人生はそのような奉仕をすることによってもっと超越的で幸せなものとなりました。そして、そのため、たまたま性生活のことを考えると、私はそれをとても不愉快なものと考え、その考えにつばを吐きます。」このような性への嫌悪は、クリシュナを意識した人生に発達したしるしです。

第4段落

堕落の四つの柱は、不正な性交、肉食、陶酔物の摂取、および賭け事です。したがって、私たちは生徒たちにこれらの行いにふけることを禁じます。もしもあなたがクリシュナ意識において発達したいなら、あなたはこれらを放棄しなければなりません。シュリー・チャイタンニャ・マハープラブがこれらのすべての行いを習慣としていたジャガーイとマーダーイを解放なさったとき、主は次のような条件を出されました。「もしもあなたがたがこれらの四つの罪深い生活の原則を放棄することを約束するなら、私はあなたがたを受け入れます。あなたがたが過去にしたことを気にしてはいけません。すべての人は大なり小なり罪深いのです。それは疑いようもないことです。それは資格を剥奪しません。しかし、もしも今これらのことを放棄することに同意するなら、そうすれば直ちにあなたがたは解放されます。」解放はあまり難しくありません。もしもあなたがそれを得たいと欲するなら、すぐに得ることができます。クリシュナはバガヴァッド・ギーターの中でこれを約束なさいます。(18.66)

(サンスクリット引用)

「すべての種類の宗教を放棄し、ただ私に服従しなさい。私はあなたをすべての罪深い反応から解放します。恐れてはなりません。」もしもあなたが罪深い生活の反応から自由であるなら、あなたは解放されています。言い換えると、もしもあなたがクリシュナの蓮の御足に拠り頼み、再び罪に落ちるような行いをしなければ、あなたは解放されています。シュリマッド・バーガヴァタムは解放を(サンスクリット引用)、、、「密度の濃い体と密度の薄い体が自分だ」と考える謝った認識を放棄して、私たちのスヴァルーパに位置していること、、、と定義しています。スヴァルーパは、私たちの本来の正しい立場を意味します。主チャイタンニャはこう説明なさいます。(サンスクリット引用)「生命体の本来の立場は、クリシュナの永遠の従者であるというものです。」そして、私たちが本来の正しい立場に身を置くと同時に、私たちは解放されます。

第5段落

クリシュナは私たちの本来の立場をバガヴァッド。ギーターにおいて非常に簡素に描写なさいます。(サンスクリット引用)「いつも私のことを考え、いつでも私に奉仕できる心積もりでいなさい。それだけです。」バークタ(献身者)はバークティ(献身奉仕)を意味し、バーガヴァーンは至高の人格神を意味します。つまり、人が至高の人格神、主クリシュナへの献身奉仕にいそしむとき、その人は本来の立場におり、解放されています。これは心の中の執着の堅い結び目が緩んでいることを意味します。

第6段落

人は、性的な欲望から始まってますます物質的な執着によって絡まって動きが取れなくなっていること、そしてこれらの執着が彼をしてもっともっと結果を求める行いに深入りさせていることを理解しなければなりません。私たちがこれを理解してこの仕組みから自由になろうとするとき、私たちには家へ、至高神のもとへ帰る資格ができます。ここでリシャバーデヴァはサムパリヴァルタテという言葉を使われます。人は呪縛の原因、、、性、妻、家など、、、から離れて、クリシュナのもとへ立ちもどらなければならない、という意味です。それが解放です。
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by ammolitering4 | 2009-07-05 04:30 | 「霊的なヨガ」 | Comments(0)

「霊的なヨガ」第8章

第8章 「性が呪縛の主な原因である。」

第1段落

(サンスクリット引用)

「男性と女性が互いにひきつけられることは、物質的な存在の基本的な原則です。男性と女性の心を結びつけるこの誤った考えに基づいて、人は自分の体、家、所有物、子供、親族、および富に惹きつけられます。このようにして人は人生の幻惑を増し、「私と私のもの」という考え方をします。」(SB5.5.8)

第2段落

性は男と女の間の自然な魅力として働き、彼らが結婚すると彼らの関係はもっと深くなります。男と女の間のからまって動きを取れなくするような関係のせいで、幻惑の感覚が生じ、人は「この男は私の夫である」あるいは「この女は私の妻である」と考えます。これはフリダヤ・グランシ、「心の中の堅い結び目」と呼ばれます。この結び目は、男と女がヴァルナースラマの原則に基づいて分かれる場合でも、単に離婚する場合でも、ほどくのが非常に難しいものです。どちらにしても、男はいつも女のことを考え、女はいつも男のことを考えます。こうして人は、家族や所有物や子供たちに物質的に執着するようになります。これらのすべては一時的であるにもかかわらずです。所有者は不幸にして自分の財産と富を自分だと考えます。時として、放棄階級となった後でさえ、人は寺院や、サンニャースィーの財産を構成する数少ないものに執着します。しかし、そのような執着は家族の執着ほど強くありません。家族への執着は、最も強い幻想です。サテャ・サムヒターには次のように述べられています。

(サンスクリット引用)

時として、主ブラーマーのような卓越した人々の間では、妻や子が呪縛の原因とならない場合も見受けられます。対照的に、妻は実際に霊的な人生と解放を進めるのを助けます。ともあれ、ほとんどの人は物質的な関係の結び目で縛り付けられ、結果として彼らはクリシュナとの関係を忘れます。

第3段落

つまり、性的に惹きつけられることはアハム・マメティ、「私は私の体であり、私の肉体と関係のあるものすべては私のものである」という句に要約される幻想の始まりです。男は女を捜し求め、女は男を捜し求めます。そして彼らが性交を通して結びつくとき、物質的な幻想は非常に強くなります。これは制約された魂を厳格な法律の下に保つための自然の配剤です。以下のような記述があります。

(サンスクリット引用)

「人がクリシュナに対して有害となって感覚の満足を求めると同時に、その人は主の幻想エネルギーによって直ちに打ち負かされます。」これは国家の法律を破るようなものです。私たちには実際的な経験があります。国家の法律に従うことを拒否すれば、直ちに私たちは犯罪者となり、起訴と禁固刑の影響の下に置かれます。あなたが政府によって罰せられることなく国家の法律を無視することができないのと同じように、あなたは自然の法律によって罰せられることなくクリシュナの法律を無視することはできません。しかし、私たちは幻想の中にいるので、この懲罰を減らす努力が文明の進歩だと考えます。

第4段落

物質世界全体が男性と女性が互いに惹かれあうことに基づいています。この原則は人間の社会だけでなく鳥や獣や水中の生物や虫、、、どこででも機能しています。あなたは、オスの鳩がメスの鳩を見ると同時にオスが直ちに「来てください。結びつきましょう」と誘いを始めるのを見ます。これが自然のやり方なのです。したがって人間の社会ではヴェーダの知識によって、教育によって、私たちは性的な魅惑によってこの物質世界に縛りつけられているということを人々が理解しなければなりません。男性も女性も、どちらも享楽者でありたいと望みます。誰も「私は楽しまれよう」とは考えていません。誰もが「私が楽しもう」と考えています。誰も支配されたくはなく、誰もが支配者でありたいと望みます。これは幻想です。

第5段落

クリシュナ意識運動は、この「支配者になる」という考えを放棄して至高主クリシュナによって支配されるための方法を学ぶことを人々に教えています。幻想的な物質仕儀の考え方の正反対です。クリシュナは個人的においでになっておっしゃいます。「なぜあなたは支配者になろうとしているのですか。それは可能ではありません。私が支配者です。ただ私に服従しなさい。そうすればあなたは幸せになります。」(サンスクリット引用)しかし、もしもあなたが人工的に支配者でありたいと望むなら、そうすれば直ちにクリシュナの幻想エネルギー(マーヤー)があなたを罠にはめるために現れます。

第6段落

私たちは、この享楽者であって支配者であろうとする傾向が私たちのこの物質世界における呪縛の原因であることを知るべきです。私たちは、自分は生も死もない霊である(アハム・ブラーマースミ)ことを知るべきです。そして私たちは本来制約されるべきではありません。私たちはクリシュナの欠かすべからざる小片だからです。クリシュナには何らの制約もなく、本来の状態においては私たちにもまた何らの制約もありません。私たちはクリシュナのとても小さな粒子であるかもしれませんが、金の粒が金鉱の金塊の全ての性質を備えているように、私たちもクリシュナの性質のすべてを微量に備えています。私たちは、ヴェダーンタ・スートラの教えに従うとき、これらすべてのことに関する知識を得ることができます。(サンスクリット引用)「だから今、人は完全真理について問うべきです。」

第7段落

完全真理について問うて人生の問題への完全な解決策を見出す方法を学ばなければ、人の人生は動物のそれに優るものではありません。言い換えると、もしも人が人生の悲惨な状態に満足しているなら、その人は動物でしかありません。動物はなぜ自分が苦しんでいるのか理解できません。動物が屠殺場に連れて行かれるとき、もしも一頭の動物が屠殺場に入れば、全部の動物が簡単に入ります。彼らは自分たちが屠殺されるために入るのだと理解できません。これが幻想です。

第8段落

ここで主リシャバーデヴァは、人間にとって性が最も強大な幻想の原因であると教えていらっしゃいます。したがって、伝統的なヴェーダの教育は若い少年たちに性生活を避けること、ブラーマチャルヤの価値を教えました。「性生活にからまって動きが取れなくなってはいけません。それは良くありません。童貞でいるほうがよいのです。あなたは幸せになります。」しかし、もしも童貞のままでいることができないのなら、人は妻を娶り、猫や犬のようではなく紳士として、規制された家庭人として、すなわちグリハスサとして生きるのがよいのです。制限されない性の人生は人間の文明ではありません。

第9段落

グリハスサの人生には多くの規則や規制があります。グリハスサの人生はあなたがいつでも好きなときに性交することを許しません。そうではなく、月に一度、最も妊娠の可能性が高いときにします。そして、もしも妻が妊娠中であれば、それ以上の性交はありません。それがグリハスサの人生です。男と女が単に結びついて動物のように暮らすのではありません。それはグリハスサの人生ではなく、グリハメディーの人生です。グリハメディーは、結婚生活の規制と規律に従わない者です。彼は自分が妻と子供と家から得る喜びがすべてだと考えます。しかし、本物のグリハスサはサンニャースィー(放棄階級者)と同じくらいに良いのです。そのため、規律の規則に従う家庭人はグリハスサ・アースラマにあると言われます。アースラマとは霊的な人生が育まれるところです。グリハスサ・アースラマと普通の家の違いは何でしょうか。普通の家では、人はなんらの規律的な原則にも従いません。人の唯一の目的は性交と家庭生活などを楽しむことだからです。しかし、グリハスサ・アースラマにおいては人は規律された人生を送ります。人の本当の目的は自己認識、すなわちクリシュナ意識を培うことだからです。

第10段落

ですから、可能な限り私たちは性生活に絡まって動きが取れなくなることを避けるべきです。この避けることが本当の禁欲(タパシャ)です。主リシャバーデヴァは、禁欲を薦めることで説法を始められました。(サンスクリット引用)「おお、私の息子たちよ。超越的な禁欲を行いなさい。それによってあなたがたの存在は浄化されます。」そのような禁欲は性生活を避けることから始まります。(タパシャ・ブラーマチャーリェナ)しかし、クリシュナ意識はとてもすばらしいので、もしも人がその原則を非常に真剣に受け入れるなら、そうすれば誰もが、、、男も女も、結婚していてもいなくても、、、クリシュナをその人の主人、息子、友人、夫、あるいは恋人として、とても幸せでいることができます。このようにして、クリシュナ意識を培うにつれて、私たちは自分をこの物質世界として知られる幻想の銀河から救い出すことができます。そこには単に次から次へと苦しみだけがあるのです。
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by ammolitering4 | 2009-07-04 10:12 | 「霊的なヨガ」 | Comments(0)

「霊的なヨガ」第7章

第7章 感覚的な快楽に時間を無駄にしてはならない。

第1段落

(サンスクリット引用)

たとえ非常に学識があって賢かったとしても、感覚の満足のための努力は時間の無駄であることを理解しないならば人は狂っています。自分自身の利益の何たるかを忘れ、人は自分の家に興味の中心を置き、物質世界で幸せになろうとします。家は性交に基づき、様々な物質的な悲惨さをもたらします。このようであるとき、人は愚かな動物に優るものではありません。(SB5.5.7)

第2段落

献身奉仕の最も低い段階では、人は純粋な献身者ではありません。(サンスクリット引用)純粋な献身者であるためには、人はすべての物質的な欲望から自由であって、結果を求める活動および推察的な知識からも自由でなければなりません。低い水準においては、人は時として多少の献身の念を持ちつつ哲学的な推察に興味を持っているかもしれません。しかし、人がまだ感覚を満足させることに興味のある段階は物質自然の相によって汚染されています。マーヤーの影響はとても強いので、発達した知識を持った人でさえ自分がクリシュナの永遠の従者であることを実際に忘れます。したがって、彼は性交を中心とした家庭人の生活で満足したままに留まります。性の生活に敗北を認め、彼は様々な物質的な悲惨さに苦しむことに同意します。無明によって人はこうして物質の法則の鎖で縛られます。

第3段落

私たちの本当の利益(スヴァルサ)は、この鎖を壊すことです。しかしこれを理解するためには、人はヴィパスチット、学識がなければなりません。結果を求めて働く者であれ、推察する者であれ、ヨギー、あるいは献身者であれ、すべての人は自分にとって利益であると考えるもののために働いています。しかし、献身者の場合は少し違います。彼は自己を超えた自己(Superself)の利益のために働き、他の者たちは個々の自己の利益のために働きます。自己の利益のために働くことと自己を超えた自己の利益のために働くことの違いは、欲望と愛、すなわちプレマとの違いです。チャイタンニャ・チャリタームリタの中で、クリシュナダーサ・カヴィラージャ’ゴスヴァーミーは、この違いを明確に説明なさいました。

(サンスクリット引用)

「人が自分の個人的な感覚の満足を欲するとき、それはカーマ、すなわち欲望です。そして人がクリシュナの感覚を満足させたいと思うとき、それはプレマ、すなわち愛です。」(チャイタンニャ・チャリタームリタ、アーディ・リーラー4.165)欲望と愛の対照はバガヴァッド・ギーターの中に表されています。バガヴァッド・ギーターの始めに、アルジュナはこう考えていました。「一体どうして私が自分の兄弟を、甥を、主人を、師を、祖父を殺せるだろう。私にはできない。私は戦うことを拒否する。」この計算、、、彼の家族と師の利益に関しての計算は、アルジュナの個人的な感覚の満足のためでした。言い換えると、それは彼の個人的な利益のためでした。しかし、バガヴァッド・ギーターの最後にアルジュナが戦うことでクリシュナを満足させることに同意したとき、彼は自己を超えた自己の利益のために行動していました。アルジュナはカーマからプレマに至ったのです。

第4段落

物質的な人にとっては、2種類の個人的な利益があります。一つは凝縮されており、もう一つは拡張されています。もしもあなたが子供に一切れのケーキを与えれば、彼の瞬間的な衝動はそれを全部一人で食べることです。しかし、もしも彼が少し気前が良ければ、彼は友達にいくらか分け与えます。子供がケーキを食べているとき、彼の友達が言います。「ケーキを食べているの?少しちょうだい。」子供は答えます。「いいよ。少しあげる。」最初は子供は凝縮された自己利益を示し、それから拡張された自己利益を示しました。もう一つの例は、偉い政治的な指導者です。彼は主に自分と自分の家族の幸福に興味があります。。。結局、自己の保存は自然の第一の法則なのです。。。しかし、彼は地域共同体や社会や国家のすべての人々の利益のためにも働きます。しかし、そのような拡張された自己利益は、決して完全ではありえません。共同体同士、社会同士、あるいは国家同士の間で、いつも何らかの戦いがあるからです。その拡張された自己利益がヴィシュヌまで届いたときに初めてそれは完全になるのです。そうすればそれは本当の自己利益、すなわち自己を超えた自己の利益になります。

第5段落

不幸にして、今日では人々は至高主、ヴィシュヌ、あるいはクリシュナに奉仕をすることが究極の自己利益であるということをまったく知りません。(サンスクリット引用)彼らは、もしも人が自分の自己利益を自分の国や、あるいは全人類にまでも広げれば、その人は偉大な人物となって人々が彼をその博愛主義のために尊敬すると考えます。しかし、それは本当の博愛主義ではありません。本当の博愛主義はクリシュナの利益に奉仕することです。そうでなければ、それはすべてカーマ、欲望です。今日のいわゆる博愛主義、利他主義、および人道主義は、すべて不完全です。それらは私たちの究極の自己利益に役立たないからです。私たちはもう一度ケーキの例を使うことができます。私たちが指でおいしいケーキをつまみあげたと仮定しましょう。もしも指が「さあ、ケーキを手に入れた。自分で楽しもう」と考えれば、ケーキは駄目になります。しかし、もしも指がそれを口に入れれば、そうすれば指の自己利益は本当に満たされます。ケーキが胃に入れば、直ちにエネルギーは右手の指だけでなく左手の指にも、実に体全体に行き渡ります。同様に、人がクリシュナの利益のために奉仕をするとき、すべての人の利益が満たされます。クリシュナはすべてのものの根源だからです。人々はこの法則を知りません。したがって、ここで主リシャバーデヴァはおっしゃいます。(サンスクリット引用)「人々は自分の本当の自己利益を知りません。」誰もが個別に、共同体として、そして国家として、自分の自己利益を満足させようとしてますが、彼らは自分たちの本当の自己利益はクリシュナに奉仕することにあると知りません。

第6段落

人間の形の人生においてのみ、私たちは自分の本当の自己利益を理解することができます。プラーラーダ・マハーラージャは次のようにおっしゃいます。(7.6.1)

(サンスクリット引用)

「十分な知性のある者は、人間の形の体を人生のまったくの最初から、、、言い換えると、幼い子供の頃から、、、ほかのすべての活動は放棄して献身奉仕の活動を実行することに使うべきです。人間の体を得られるのは非常に稀有なことです。そしてそれは他の体のように一時的ではありますが、意味深いものです。人間の人生では人は献身奉仕を行うことができるからです。ほんのわずかな量の誠実な献身奉仕でさえ、人に完全な完成を与えることができます。」生理学的、解剖学的、および心理学的な構造においてさえ、人間の体は犬のそれとほとんど変わりません。犬には感覚があり、私たちにも感覚があります。犬には心があり、私たちにも心があります。犬には知性があり、私たちにも知性があります。犬は食べ、私たちも食べます。犬は眠り、私たちも眠ります。同様に、もしもあなたが動物の体を切れば血が出て、もしもあたなが人間の体を切れば同じく血が出ます。しかし、違いは動物は自分の本当の自己利益を理解できないけれど人間はできるということです。そしてもしもあなたがそれに応じて行動すれば、あなたは人生を成功させることができます。それが人間の形の人生の特別な利点です。私たちはこれを無駄にすべきではありません。ナロッタマ・ダーサ・サークラは、制約された魂の立場に立って次のように詠われました。

(サンスクリット引用)

「おお、主クリシュナよ。私は自分の人生を無駄にしました。この稀なる人間の生を受けたにもかかわらず、私はラーダーとクリシュナに奉仕をしていません。そしてこうして私はそれと知りつつ毒を飲みました。」時として私たちは知らずに毒を、、、食べ物の毒や他の何かの毒を飲みます。しかし、もしも人が「それと知りつつ」毒を飲むなら、それは彼が自分自身を殺していることを意味します。同様に、この人間の形の人生において、もしも私たちがクリシュナ意識なくしては私たちの人生は無駄になるということを理解するに至らなければ、私たちは単に毒を飲んでいるのです。そうなれば私たちの人生は駄目になります。私たちは何度も生まれ変わって悲惨な状態に置かれます。それが自然のやり方なのです。あなたは物質自然の厳格な法則を逃れることはできません。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいて次のように述べておられます。(9.3)

(サンスクリット引用)

「この献身奉仕において誠実でない者は、私に至ることができません。おお、敵を征服する者よ。したがって、彼らはこの物質世界の中の生と死の道に戻ります。」偽りの名誉と偽りの知識と偽りの教育によって、人々は自分が神から独立していて何でも好きなことができると考えます。私たちはこの考え方をj放棄しなければなりません。そうでなければ私たちは悲惨な生と死の循環の中で生き続けなければなりません。私たちが自分の本当の立場を忘れてしまったからです。

第7段落

ここで主リシャバーデヴァは、人々が愚かにもクリシュナの従者としての立場を忘れて物質的な苦悩に苦しむ主な理由は性交であると述べられます。(サンスクリット引用)私たちは人々が昼も夜も懸命に働くのを見ます。時として、彼らは早朝5時から仕事に行き、夜の10時まで戻りません。なぜ彼らはそれほど一生懸命に働いているのでしょうか。性交にふける喜びのため、それだけです。彼らの主な幸せは、夜になって性交を楽しむことです。プラーラーダ・マハーラージャは、物質主義的な家庭人が楽しむ性を中心とした喜びは非常に取るに足らないものだとおっしゃいます。(トゥッチャム)実に、そのような人の家は牢獄となり(アガーラ)、彼は性という鉄の鎖につながれたままで留まります。愚かな者だけがこの最も低い水準の幸せを人生の目的として受け入れます。だから、愚かであってはなりません。知性的であり、あなたの本当の自己利益はクリシュナを崇拝することにあるのだと理解しなさい。
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by ammolitering4 | 2009-07-03 07:14 | 「霊的なヨガ」 | Comments(0)

「霊的なヨガ」 第6章続きから

第6段落

本当の愛は、人が愛する者をすべてと見なすことを意味します。(ヴァースデヴァム・サルヴァム・イティ)この物質世界では、本当の愛に一番近いのは母の子に対する愛です。母は子供を非常に強く愛してるので、彼女はいつも自分の子供の世話をしたがり、彼女の注意のすべては子供に向けられています。そのような例から、私たちは本当の愛、クリシュナへの愛について何かを理解することができます。物質的ないわゆる愛は持続しません。しかし自然はあなたが自分の子供を愛することを、あなたが自分の夫を愛することを、あなたが自分の妻を、自分の国を、自分の社会を愛することを命令します。愛には異なる種類があります。しかしその愛がヴァースデヴァ、クリシュナに凝縮されているとき、それは人生の最高の完成です。

第7段落

あなたは、「クリシュナが私の命である」としっかりと確信した水準にいたらなければなりません。この意識の最高の完成はヴリンダーヴァンにおいて、特にゴピーたちによって示されました。ヴリンダーヴァンの者は、皆クリシュナに執着しています、、、木や草でさえ、砂の一粒でさえ。人は突如としてその最高の意識に至ることはできませんが、もしも私たちが教えているようにバークティ・ヨガを実行するなら、徐々にその水準に近づけます。証拠はこのクリシュナ意識運動の成功です。世界中で、クリシュナのことを聞いたことがなかった人々、無明の中の最低の水準にいた者たちが、クリシュナ意識を習慣づけつつあり、彼らのクリシュナへの愛は徐々に増しています。それは自然なことです。チャイタンニャ・チャリタームリタには、次のように書かれています。(マデャー22.107)

(サンスクリット引用)

「クリシュナへの純粋な愛は生命体の心に永遠に根付いています。それはどこか他のところから得られるものではありません。クリシュナについて聞き、クリシュナの名を唱えることによって心が浄化されるとき、この愛は自然に目覚めます。」私たちが皆、生命体として永遠であるように、私たちのクリシュナへの献身の念も永遠です。今、それは単にアヴィデャー、無明によって覆われています。私たちがクリシュナを忘れるとき、それはアヴィデャーです。そして私たちがクリシュナを自分の何よりも大切なもの(life and soul)とするとき、それはヴィデャーです。アヴィデャーは闇です。ヴィデャーは光です。ヴェーダの教えは次のようなものです。(サンスクリット引用)「自分を無明の闇の中に置いてはいけません。クリシュナ意識の光(ジョティ)のあるところに来なさい。」

第8段落

究極的には、そのジョティはクリシュナへの愛と、霊的世界におけるクリシュナの愛の交歓(loving affairs)を意味します。その世界はジョティルマヤダーマ、クリシュナの自ら光輝を発する住処です。太陽においては闇がありえないように、霊的世界にも闇や無明はありえないのです。そこでは、すべての者とすべての人がスッダー・サットヴァ、純粋な徳の水準にあります。単なる徳ではなく、純粋な徳なのです。この物質世界には徳、熱情、および無明という三つの相があります。そのいずれも純粋ではありません。どれもが他のものと混じりあっています。そして、それらが混じっているために、非常に多くの種類の生命体が存在しているのを私たちは見ることができます。しかし私たちはスッダー・サットヴァ、純粋な徳の水準に至らねばなりません。このために最善の方法は、権威ある源からクリシュナについて聞くことです。シュリマッド・バーガヴァタム(1.2.17)には次のように説明されています。

(サンスクリット引用)

すべての人の心にいらっしゃる超魂にして正直な献身者の後ろ盾でおられる至高の人格神クリシュナは、正しく聞かれて唱えられたときにそれ自体高潔である主のメッセージを聞きたいと願う心を育んだ献身者の心から物質的な楽しみへの欲望を洗い去ります。」もしもあなたが「この人生では私はしっかりと決意して私のクリシュナへの愛を増すことだけに努力しよう」と考えて真剣にクリシュナについて聞き、御名を唱えるなら、それはなされ得ます。そしてあなたがクリシュナへの愛を完全に育んだと同時に、あなたが物質の体に閉じ込められる恐れはもはやなくなります。

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こんにちは。実は、、、またもやコンピューターが壊れてしまいました。自分のは3ヶ月ほど前に壊れ、D君のを借りていたのですが、これが今朝起きたら壊れていたのです。何にもしていないのに、、、ショックです。しかし私がコンピューターのセキュリティーとか何も知らずに使っていたので、やっぱり知らずに何かよろしくないことをしてしまったのだと思います。不便だし、D君には申し訳ないし、、、困ったものです。

そういうわけで、図書館のコンピューターで更新しています。ファイルの保存などできないので、もしもよろしかったらこのサイトの翻訳文を各自保存していただけませんでしょうか。なお、このサイトの内容はお好きなように配布してくださってかまいません。多くの献身者の方に読んでいただければ幸いです。
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by ammolitering4 | 2009-07-03 06:09 | 「霊的なヨガ」 | Comments(0)

霊的なヨガ 第3章から6章まで

第3章 終わらない幸せを得る

第1段落

(サンスクリット引用)

クリシュナ意識を取り戻すことと至高神への愛を増すことに興味のある者は、何であれクリシュナに関係のないことをするのを好みません。彼らは、自分の体を維持すること、食べること、眠ること、性交すること、および身を守ることに忙しい者たちと交際することに興味がありません。彼らは家庭人(householder)であるかもしれませんが、家庭に執着していません。彼らは妻や子や友人や富にも執着していません。同時に、彼らは自分の義務を遂行することに関してはその限りではありません。そのような人々は、ただ体と魂をつなげておくために十分なだけのお金を集めることに興味があります。(SB5.5.3)

第2段落

非人格主義者であれ献身者であれ、実際に霊的に発達することに興味のある者は、いわゆる文明の発達という方法で体を維持することだけの興味のある者と関わるべきではありません。霊的な人生に興味のある者は、妻子や友人などに囲まれた家庭的な快適さに執着すべきではありません。たとえ家庭人で生計を立てなくてはならなくても、人は体と魂をつなげておくのに必要十分なお金を集めるだけで満足すべきです。人はそれ以上やそれ以下を持つべきではありません。ここで示されているように、家庭人はバクティ・ヨガ、すなわち献身奉仕の遂行のためにお金を稼ごうと努力すべきです。

(サンスクリット引用)

「九つの種類の献身奉仕とは、クリシュナについて聞くこと、主の名を唱えること、主を思い出していること、主の蓮の御足に奉仕をすること、寺院で主を崇拝すること、主に祈りを捧げること、主の従者として働くこと、主の友人になること、および無条件に主に服従することです。」(SB7.5.23)家庭人は、クリシュナについて聞いたり主の御名を唱えたりする機会が十分に得られるような人生を送るべきです。彼は言えで神像を崇拝し、まつりごとを催し、友人を招いてプラサーダム、すなわちクリシュナに捧げられた食物を彼らに与えるべきです。家庭人は、感覚の満足ではなく、この目的のためにお金を稼ぐべきです。

第3段落

しかし、一般に人々は体を維持することだけに興味があります。SB(2.1.3)には次のように書かれています。(誤植あり)

(サンスクリット引用)

夜には彼らは眠ることや性交にふけることで時間を無駄にし、昼間にはいくらかのお金を稼ぐために非常に忙しくしています。そして彼らはお金を得ると同時に家族を維持するために費やします。では、クリシュナ意識のための時間はどこにあるのでしょう。どこにもありません。

第4段落

人は、体に関する事柄だけで忙しくしている人々と関わることに興味を持つべきではありません。人は家庭人であるかもしれませんが、単に自分の家族を維持することだけではなく、クリシュナへの献身奉仕に興味を持つべきです。そのような家庭人のマハートマーは、体の事柄だけに興味を持つ人々と関わりたいという気持ちは全くありません。彼の唯一の望みは、クリシュナとの友情を培うことです。(サンスクリット引用)それでは、彼の家族についてはどうでしょうか。はい、彼には家があり、妻と子供がいて、お金を稼ぐ手段があります―――しかし、彼はあまり興味がありません。形式上は彼は家族のための義務を果たしますが、彼の主な興味はクリシュナ意識です。

第5段落

もちろん、家庭人のマハートマーは彼の家族に対する責任をないがしろにはしません。彼は子供たちや妻―――すべての面倒をみます―――しかし、非執着の精神をもってそうします。(サンスクリット引用)あなたには子供を教育して妻を養う責任がありますが、同時に非執着を培うべきです。人は「私は妻と子と家のためにすべてを犠牲にしよう」と考えるべきではありません。それはマハートマーの考えではありません。彼は彼らの運命を向上させることはできないと知っているからです。誰もが自分では変えることのできない運命と共に体を受け取りました。聖典にはこう書いてあります。(サンスクリット引用)賢い人は、物質的な発達ではなくクリシュナ意識のために努力すべきです。あなたは「もしも私が懸命に働けば、私は自分の物質的な地位を向上できるだろう」と考えるかもしれません。しかし、それは可能ではありません。あなたの物質的な地位は既に決まっています。誰も苦しみが欲しくて努力したりしませんが、運命に従って苦しみは自動的にやってきます。同様に、もしもあなたの運命に幸せがあるのなら、それは苦しみがやってくるように自動的に来るのです。(サンスクリット引用)だから、物質的な幸せや苦しみに惑わされてはなりません。それらは既に決まっているのです。単にクリシュナ意識を発達させて、終わることのない超越的な幸せを得ようと努力しなさい。それがあなたの本当の仕事です。
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第4章 肉体的な快楽の痛み

第1段落

(サンスクリット引用)

人が感覚の満足を人生の目的であると考えるとき、その人は確実に物質的な生活を狂ったように追い求め、あらゆる罪深い行いにいそしみます。彼は、自分の過去の悪事によって現在のこの体、一時的ではあるけれど自分の悲惨さの原因である体を受け取ったのだということを知りません。本当は生命体は物質的な体を受け入れるべきではありませんでした。しかし彼は感覚の満足のために物質的な体を授けられたのです。したがって私は、再び感覚の満足のための活動に関わるのは知性ある者にはふさわしくないと考えます。それによって彼は永遠に次々と物質の体を得るのです。(SB5.5.4)

第2段落

感覚の満足のために物乞いすること、借りること、および盗むことは、この節において非難されています。そのような意識は人を暗い地獄的な状態に導くからです。四つの罪深い行いとは、不道徳な性交、肉食、陶酔物を摂取すること、および賭け事です。これらによって人は悲惨さに満ちたもう一つの物質的な体を得ます。ヴェーダには(サンスクリット引用)と書かれています。生命体は本当はこの物質的な世界とはつながりがありませんが、物質的な感覚を楽しむ傾向のために物質的な状態に入れられました。人は献身者と関わることで人生を完成させるべきです。さらに物質的な体に関わる(to implicate、もつれさせる)べきではありません。

第3段落

ここで、物質的な人はプラマッター、「非常に狂っている、あるいは陶酔物に酔っている」と描写されています。彼らは自動車であちらこちらに走り回っています。朝の五時半や、あるいはもっと早い時間から、主要な道路は自動車でいっぱいです。そして、そのような物質的な人の目的は何でしょうか。(サンスクリット引用)彼らの目的は感覚を満足させることです。食べて飲んで、いい気分になって楽しむ―――それだけです。お金を得て、レストランに行き、酒屋に行き、売春宿とナイトクラブに行きます。彼らはインドリヤ・プリーティ、感覚の満足の他に何も知りません。

第4段落

彼らは皆、狂っているのです。そして彼らは感覚の満足を求める気持ちのために非常に多くの罪深い行いに関わっています。その結果として、彼らは死後に別の物質的な体を得ます。誰もがそれぞれの罪と感覚の満足に対する特定の欲望に従って特定の体を得ます。そうえなければ、どうしてこれほどたくさんの種類の生命があるのでしょう。なぜある魂は人間として生まれ、別のものは豚として、またある者は半神として、あるいは木として、魚として生まれるのでしょうか。これらの生命の多様性は、すべて感覚の満足のための異なる欲望、および罪深い行いとの関わりの程度によるものです。クリシュナは超魂として心のうちに住み、私たちの欲望と行いを知っておいでです。主はバガヴァッド・ギーターの中でおっしゃいます。(18.61)

(サンスクリット引用)

「イースヴァラ、至高主は、超魂としてすべての者の心に位置し、生命体が物質世界でさまようのを目撃しておられます。」物質主義者は、いつもこう考えます。「もしも私がこんなふうに活動していたら、私はあの機会を手にすることができていただろう。そして私はこんなふうに楽しんでいたはずだ。。。」このような考えが続いているのです。そして神の仕事は―――神の感謝されることのない仕事は―――「よかろう。この悪者はこんなふうに楽しみたいのだから、私はそのための設備を与えよう」と書き留めることなのです。主はとても慈悲深いので、マーヤー、物質自然に命令します。「彼にこれこれの体を与えなさい。望み通り楽しめるように。」だから私たちは非常に多くの種類の体を見るのです。それらはすべて様々な欲望によるものです。

第5段落

不幸にして、これらの体はすべて悲惨さの源です。(クレサダ)物質的な体を持つ者は、誰でも苦しまねばなりません。億万長者であっても苦しまねばなりません。あるとき、カルカッタにほとんど食べることのできない大変な金持ちがいました。彼には全く食欲がありませんでした。大層なご馳走を並べられても、見るだけで食べることはできませんでした。ある日、彼は貧しい男が魚を抱えて大喜びで歌いながら道を行くのを見ました。金持ちの紳士はこう言いました。「私は金持ちだが、私に供される多くの豪勢な食べものに対して全く食欲がない。それなのに、あの貧しい男は、家に帰ってあの魚を料理しておいしく食べようと考えている。彼の何と喜びに満ちていることか!もしも私があの貧しい男だったら、少なくとも私はいくらかの食べ物を楽しめたはずだ。」彼は金持ちになったにも関わらず自分の感覚を満足させることができませんでした。彼の体は単に悲惨さの源だったのです。

第6段落

もしもあなたがこれらの様々な物質的な体を止めたいなら、それならあなたはあなたの全ての無意味な物質的な欲望を諦めなければなりません。私たちは既に悲惨さの原因である体を持っています。誰でも経験があります。「私の体は決して痛みを感じません。私は完璧です」と言える者は誰もいません。それは不可能です。あなたが物質的な体を得ると同時に、それは幾多の苦しみの影響を受けることになります。試練が必ずあるのです。従って、あなたはこれらの物質的な体を得るのを止めようとすべきです。そして、そうするためにはあなたはクリシュナへの献身奉仕を実行しなければなりません。そうでないと、あなたは生と死の道を歩み続けることになります。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいてこうおっしゃいます。(9.3)

(サンスクリット引用)

もしもあなたがクリシュナ意識の過程に信頼(faith確信、信頼、信仰)を持たないなら、あなたはクリシュナのもとへ行くことはできません。そしてあなたは生と死の道を歩み続けなければなりません―――ある体を得て再び死に、もう一つの体を得てまた死にます。

第7段落

現代では、これらの主題に関する教育はほとんど皆無です。これはとても残念なことです。しかし、ヴェーダ文献の中に情報はあります。そして、知性ある者はこの科学、クリシュナ意識を活用し、クレサダ、すなわちすべての悲惨さの源である体を繰り返し受け入れるというこの過程を止めることができるように、それに従って自分の人生を形作ります。それが人生の完成です。

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第5章 完全存在について問いなさい。

第1段落

(サンスクリット引用)

人生の霊的な価値について問わない限り、人は敗北して無明から生じる悲惨さの影響を受けます。罪深いものであれ、敬虔なものであれ、カルマにはその結果的な活動があります。もしも人がいかなるものであれカルマにいそしんで(to engage)いれば、その人の心はカルマートマカ、すなわち結果を求める行いに染まっていると呼ばれます。心が不純であり、意識が不透明であり、結果を求める活動に没頭している限り、人は物質的な体を受け入れなければなりません。(SB5.5.5)

第2段落

一般に人は悲惨さから開放されるためには非常に敬虔に行動すべきであると考えますが、これは事実ではありません。たとえ敬虔な活動と推察にいそしんでいても、人はどちらにしても敗北します。彼の唯一の目的は、マーヤーの支配とすべての物質的な活動からの解放であるべきです。推察的な知識と敬虔な活動は、物質的な人生の問題を解決しません。人は自分の霊的な立場を理解しようとして問うべきです。バガヴァッド・ギーターには、次のように述べられています。(4.37)

(サンスクリット引用)

「燃え盛る火が薪を灰にするように、おお、アルジュナよ、知識の火も物質的な活動に対するすべての反応を焼いて灰にします。」

第3段落

自己とその活動を理解しない限り、人は物質的な呪縛の中にあると考えられねばなりません。シュリマッド・バーガヴァタム(10.2.32)には(サンスクリット引用)と書かれています。献身奉仕の知識がない者は、自分が解放されていると考えるかもしれませんが、実際には彼は解放されていません。(サンスクリット引用)そのような人々は、非人格のブラーマンの光輝に近づくかもしれませんが、再び物質的な楽しみに落ちます。彼らには献身奉仕の知識がないからです。カルマとジナーナに興味を持っている限り、人は物質的な人生の悲惨さ、、、生、老、病、死、、、を耐え続けます。カルミーは確実に次々と体を得続けます。ジナーニーに関しては、最高の理解に上げられない限り、彼らは物質世界に戻らねばなりません。バガヴァッド・ギーターには次のように説明されています。(7.19)(サンスクリット引用)要点は、クリシュナ、ヴァースデヴァをすべてであると知り、主に服従することです。カルミーはこれを知りません。しかし主への奉仕に100%携わっている献身者はカルマとジナーナが何であるか完全に知っており、したがって純粋な献身者はもはやカルマやシナーナに興味がありません。(サンスクリット引用)本当のバークタは、ほんのわずかでもカルマとジナーナに染まっていることはありません。彼の人生の唯一の目的は主に奉仕をすることです。したがって彼の心はいつもクリシュナのことを考えていて、彼は物質的な体への呪縛から自由です。(サリーラバンダー)物質的な体は本当は魂にとってひどい重荷です。しかし現代のいわゆる文明にはこれらの事柄に関する教育はありません。

第4段落

呪縛された状態にあっては、あなたが自分のいわゆる物質的な発展のためにすることは、最終的に打ち負かされます。(パラーバーヴァ)人々は昼も夜も自分は物質的な進歩をしちえるのだと考えて忙しくしています。しかしそれは進歩をしているのではありません。退行なのです。彼らはこれを知りません。なぜでしょうか。彼らは決してアートマ・タットヴァ、人生の霊的な価値について問うことをしないからです。大変偉い教授たちでさえ、自分たちはこの体を偶然受け取ったのであり、体が終わると同時にすべてが終わるのだと考えます。これは、彼らがアートマ・タットヴァの初歩を、、、魂、あるいは自己は永遠であることを、、、知らないということを意味します。そして、この誤った概念に基づいて、彼らは非常に多くの「主義」を、、、共産主義、愛他主義、人道主義などを作り出します。

第5段落

最近、私たちはハンセン病の治療法を見出そうとして働いている医療者と話しました。それは良いことなのですが、しかし、なぜそもそもハンセン病が存在するのでしょうか。なぜある人はハンセン病に苦しみ、別の人は苦しんでいないのでしょうか。誰がこの配剤をしているのでしょうか。現代の人々は、これらの問いかけをしません。彼らは鈍くなってしまったからです。そして、そのため彼らの立てる計画はどれもしばらくすると行き詰ります。(パラーバーヴァ)彼らは自分たちの究極の利益のためにどんな計画を立てるべきか知りません。たとえば、子供は「こんなふうに遊んだら、とても楽しいだろう」と考えます。そのため彼はしばらくある遊びをします。そしてやがて不満を抱いてその遊びをやめ、別の遊びをします。無明(アボダー)が原因で、子供はどこに終わることのない幸せがあるのか知らないのです。

第6段落

この無明を消すために、人はアボダーではなくボダー、知識に満ちた人に近づかねばなりません。そのような人は、ブダー、賢者と呼ばれます。彼は人生の本当の目的地と、どうやってそこに辿り着けるかということを知っているからです。このブダーという言葉が主ブッダの名前の由来です。主はすべてを理解しておられました。初めは彼はブダーではありませんでした。彼は王子であり、宮殿から出たことがありませんでした。しかし、ある日彼は宮殿を出て、一人の年老いた男が杖をついて大変な苦労をして歩いているのを見ました。それで彼は従者に尋ねました。「これは何ですか?」従者たちは答えました。「これは老人です。誰もがこうならねばならないのです。」それが彼にとって理解を捜し求めるきっかけでした。彼は問いました。「なぜ彼はこんなふうであるべきなのだろう。なぜ人は老人になって杖をついて歩くことを強いられなければならないのだろう。」これらの問いが彼をしてブダーとなし、彼は瞑想によって主ブッダとなりました。もちろん、それは彼の娯楽(pastime)でした。しかし彼は、苦しみの究極の原因を知ろうとすることがいかに人を正しい知識に導くかということを自ら模範となって示されました。そして、その正しい知識はどこで得るのでしょうか。グルからです。ヴェーダには、(サンスクリット引用)と書いてあります。「もしもあなたが完全真理に関する正しい知識が欲しいなら、あなたは真正なるグルに近づかねばなりません。」

第7段落

人々は完全真理を認識するための過程についてグルに問うことを奨励されるべきです。サッド・ダールマ・プリチャート。生徒は意欲的に知ろうとすべきです。グルをファッションとして受け入れようとするのではありません。近頃では、多くの人がそうします。「みんなが犬を飼っているし、みんながグルを持っている。だから私もグルを持とう。」それは本当の理解のための方法ではありません。人は熱心に知ろうとすべきですが、同時にグルに奉仕をしなければなりません。クリシュナはバガヴァッド・ギーターにおいてこうおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「単に霊的指導者に近づくことによって真実を学ぼうとしなさい。彼から受動的に問い、彼に奉仕をしなさい。自己を認識した魂は、真実を見たために、あなたに知識を授けることができます。」あなたはグルに奉仕をする準備ができていなければなりません。その上であなたには質問をする権利があります。まず、あなたは自分が完全に服従できる人物(プラニパーテナ)を探さねばなりません。それからあなたは彼にアートマ・タットバ、霊的な科学についてたずねることができます。そして問いは奉仕を伴わねばなりません。あなたがグルに奉仕をすればするほど、多くの真実が明かされます。

(サンスクリット引用)

「主と霊的指導者に確固たる献身の念を持つ者だけに超越的な知識が明かされます。」
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第6章 神聖な愛を通しての自由

第1段落

(サンスクリット引用)

生命体が無明の相で覆われているとき、彼は個々の生命存在と至高の生命存在を理解せず、彼の心は結果を求める活動によって操られます。したがって、他でもない私(リシャバーデヴァ)である主ヴァースデヴァへの愛を持たない限り、彼は決して繰り返し物質の体を受け入れなければならないことから解放されません。(SB5.5.6)

第2段落

心が結果を求める活動によって汚染されているとき、生命体は一つの物質的な地位から別のそれへと上げられたがります。一般に、誰もが自分の経済的な状態を向上させるために昼も夜も懸命に働いています。ヴェーダの儀式を理解している場合でさえ、自分の本当の利益は家へ、至高主のもとへ帰ることであると知らず、人は天上の惑星へ上げられることに興味を持ちます。結果を求める活動の水準で行動することによって、人は宇宙のあちこちを異なる種や形でさまよいます。主の献身者、グルに巡り合わない限り、人は主ヴァースデヴァへの奉仕に執着することができません。ヴァースデヴァに関する知識を理解するには多くの生が必要です。バガヴァッド・ギーターには、次のように確認されています。(サンスクリット引用)(7.19)数多くの人生を通して存在のために苦労をしたあと、人はヴァースデヴァ、クリシュナの蓮の御足に拠り頼むようになるかもしれません。そうなったとき、人は本当に賢くなり、主に服従します。それが生と死の繰り返しを止める本当の方法なのです。これはチャイタンニャ・チャリタームリタの中の、シュリー・チャイタンニャ・マハープラブがシュリラ・ルーパ・ゴスヴァーミーにダサースヴァメダー・ガータにおいて授けられた教えの中で確認されています。(マデャー19.151)

(サンスクリット引用)

生命体は異なる惑星の間を異なる形と体でさまよいますが、もしも偶然にも真正なる霊的指導者と巡り合えれば、霊的指導者の恵みによって彼は主クリシュナの庇護を得て、彼の献身的な人生が始まります。

第3段落

物質的な人生においては、生命体の問題は物質的な体との接触です。しかし、誰もこれを知りません。特に今日では人々は、物質の体は私たちにとっては異質であることと、私たちがその中に閉じ込められて被害を被っていることを理解できません。これが私たちの本当の問題です。しかし、アヴィデャー、無明のために、人々はこれを知りません。人が熱情(ラジョ・グナ)あるいは無明(タモ・グナ)にあるとき、アヴィデャーは大変強力です。徳(サットヴァ・グナ)の相には光があります。これは人がブラーマンの資格を得たことを意味します。この段階においては、人は「私はこの体ではない。私はそれとは異なる」と理解することができます。徳の相にある者にとっては、献身的な人生において進歩することはより容易です。

第4段落

人間の文明は、徳の相にある者を無明の相に引きずり下ろすべきではありません。しかし、現代の文明はそれをします。現代の物質的な文明の誘惑はとても強くてとても悪質なので、敬虔な行いによって良い家庭に生まれた者でさえ罪深い行いに引きずり下ろされています。彼らは酒を飲むことや肉を食べることや不正な性交をすることを学んでいます。これらは最も低い種類の無明の特徴です。本当の文明は向上を意味します。言い換えると、人間の人生は皆が無明の相に引きずり下ろされるのではなく、皆が徐々に徳の相に引き上げられるようにしつらえられているべきです。しかし今日では社会的、政治的および経済的な仕組みがとても悪いので、誰もが無明の相に引きずり下ろされています。これは文明ではありません。これは退化です。人間の人生の目的は物質的な体から解放されることであり、人々をその水準に引き上げる文明が本当の文明です。そうでなければ、それは文明ではなく動物の人生です。

第5段落

クリシュナ意識運動は、人間の社会を本当の文明の水準に至らせようと試みています。それはとても科学的な運動です。ここで主リシャバーデヴァはおっしゃいます。(サンスクリット引用)「私への愛を育むまでは、人は物質的な体から解放されません。」私たちの問題は物質的な体に閉じ込められていることなので、体から解放されるように、それによってヴァースデヴァすなわちクリシュナへの愛を育むことができるところの過程が必要です。その過程がバクティ、すなわち献身奉仕です。献身奉仕の過程を辿る者は徐々にクリシュナを愛する水準に至ります。それが―――人をクリシュナを愛する水準に引き上げるのが文明なのです。
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by ammolitering4 | 2009-06-25 07:33 | 「霊的なヨガ」 | Comments(2)

霊的なヨガ 1章、2章

この本の原文はクリシュナ・ドット・コムに英語のe-bookがありません。ご了承ください。ご入用の方は直接Krishna.comにお問い合わせください。
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霊的なヨガ 第一章 豚や犬のようであってはならない。

第1段落

(サンスクリット引用)

主リシャバーデヴァは息子たちにおっしゃいました。「私の愛しい息子たちよ。この世界で物質的な体を受け入れた全ての生命体の中で、この人間の体を授かった者は、単に感覚の満足のためだけに昼も夜もあくせく働くべきではありません。それは糞を食べる犬や豚にも与えられています。人は献身奉仕の神聖な立場を得るために苦行や禁欲にいそしむべきです。そのような活動によって人の心は浄化され、そしてこの立場を得るとき、人は物質的な幸せを超越して、永遠に続く恒久的で幸せに満ちた人生を得ます。(SB5.5.1)

第2段落

この節で主リシャバーデヴァは息子たちに人間の人生の大切さについて教えられます。デハ・バークは、誰であれ物質の体を受け入れる者を指します。しかし、人間の形を授けられた生命体は動物とは異なる行動をしなければなりません。犬や豚などの動物は糞を食べて感覚の満足を楽します。一日中大変な苦労をしたあと、人間は夜になって食べることと酒を飲むことと性交をすることと眠ることで楽しもうとしています。同時に、彼らは正しく身を守らねばなりません。しかし、これは人間の文明ではありません。人間の人生は、霊的な人生の進歩のために自主的に苦しみを受けることを意味します。もちろん、動物や植物の人生にも苦しみはあります。それは彼らの過去の悪行によるものです。しかし、人間は神聖な人生を受け入れるために自発的に苦行と禁欲という形の苦しみを受け入れるべきです。神聖な人生を得た後は、人は永遠に幸せを楽しむことができます。結局、どの生命体も幸せを楽しもうとしていますが、物質の体に閉じ込められている限り、異なる種類の悲惨さに苦しまねばなりません。人間の形の中には、より高度な感覚があります。私たちは、永遠の幸せを得て至高神のもとへ帰るために、優れた助言に従って行動すべきです。

第3段落

この節で、政府および自然な保護者である父が従属者を教育して彼らをクリシュナ意識に引き上げるべきであるというのは大きな意味があります。クリシュナ意識が欠けているとき、生命体は永遠に生と死の循環の中で苦しみます。彼らをこの呪縛から解放して幸福になれるようにするため、バクティ・ヨガ、すなわちクリシュナ意識が教えられるべきです。愚かな文明は、人々にどうやってバクティ・ヨガの水準に上がるかを教えることとを怠ります。クリシュナ意識なくしては、人は豚や犬に優るものではありません。リシャバーデヴァの教えは、現在とても必要とされています。人々は感覚の満足のために一生懸命働くように教育と訓練をされていて、人生に至高の目的がありません。人は生計を立てるために朝早く家を出て、混んだ電車に詰め込まれて通勤します。降りる駅(place of business)に着くのに一時間も二時間も立っていなければなりません。そして今度はさらにバスに乗って事務所に向かいます。事務所では9時から5時まで一生懸命働きます。そして二時間も三時間もかけて家に帰ります。夕食の後は性交をして眠ります。これだけ大変な思いをして、彼の唯一の幸せはほんの少しの性交です。(サンスクリット引用)リシャバーデヴァは、人間の生活は犬や豚でさえ楽しめるこのような種類の存在のためのものではないと明確に述べられます。実際、犬や豚は性交のためにこれほど一生懸命働く必要はありません。人間は異なるふうに生きようとすべきであり、犬や豚のまねをしようとすべきではありません。代替方法が言及されています。人間の生活は、タパシャ、禁欲と苦行のためにあります。タパシャによって人は物質的な支配から逃れることができます。人がクリシュナ意識にあるとき、すなわち献身奉仕にたずさわるとき、その人の幸せは永遠に保証されています。バクティ・ヨガ、献身奉仕を習慣づけることで、人の存在は浄化されます。生命体は何度も生まれ変わって幸せを求めていますが、単にバクティ・ヨガを実行することによって、すべての問題を解決することができます。そうすれば、直ちに家へ、至高神のもとへ帰る資格ができます。主クリシュナがバガヴァッド・ギーターにおいて確認していらっしゃいます。(4.9)

(サンスクリット引用)

「私の降臨(appearance、姿、現れ)と活動の超越的な性質を知る者は、体を去った後で再びこの物質世界に生まれることはなく、私の永遠の住処に至ります、おお、アルジュナよ。」

第4段落

ここで、「タパシャ―――苦行と禁欲の意味は何ですか」という疑問があるかもしれません。タパシャとは、聖典と霊的指導者と聖人たちによって与えられた規律や規則に従って自分の人生を形作ることに自主的に同意することです。主リシャバーデヴァは、息子たちにおっしゃいました。「愛しい息子たちよ。猫や犬や豚のように生きることで人生を駄目にしてはなりません。あなた方の貴重な人間の人生をタパシャを受け入れることで活用しなさい。」

第5段落

今度は、「なぜそのような禁止命令があるのですか?なぜ私は動物のように生きるべきではないのですか?なぜ私は聖典や聖人たちや霊的指導者の規制的な原則の下で生きなければならないのですか?」という疑問があるかもしれません。リシャバーデヴァがお答えになります。(サンスクリット引用)「愛しい息子たちよ。もしもあなた方がこのタパシャの原則を受け入れれば、あなた方の存在は浄化されます。」現在では、私たちは物質自然の相、主に無明と熱情によって汚染されています。そのため、リシャバーデヴァは息子たちに、もしも彼らが聖典などの教えに従うなら彼らは自然の低位の相の影響から抜け出せる、と助言しています。

第6段落

では次は、「自分の存在を浄化することは何の役に立つのですか」という疑問が湧くかもしれません。リシャバーデヴァがお答えになります。(サンスクリット引用)「あなたの存在が浄化されるとき、あなたは永遠なる幸福な人生の超越的な水準に位置します。」あなたは幸せを追い求めています。なぜあなたはこの物質存在の中でそんなに大変な苦労をしているのですか?幸せのためです。なぜあなたは感覚の満足を求めているのですか?幸せのためです。なぜあなたはそれほどたくさんの物を所有したいのですか?幸せのためです。なぜあなたは美しくなりたいのですか?幸せのためです。なぜあなたはそんなにたくさんの物を食べたいのですか?幸せのためです。すべての努力において、幸せがあなたの究極の目標です。しかし、今あなたが物質的な源から得ている幸せは一時的です。あなたは陶酔物を摂取することで幸せになるかもしれませんが、それはどれくらいの間ですか?その幸せは一時的です。性交にふけることで幸せになるかもしれませんが、それはどれくらいの間ですか?その幸せは2-3分、あるいは2-3秒しかもちません。そのため、もしもあなたが永遠で永続的な幸せを望むなら、あなたは自分の存在の状態を浄化し、自分を超越的な立場に置かねばなりません。そうすればあなたは永遠の幸せを楽しめます。

第7段落

この幸せはパドマ・プラーナの中で以下のように描写されています。

(サンスクリット引用)

「至高の完全真理はラーマと呼ばれます。なぜなら超越主義者たちは霊的な存在の無限で本当の幸せを楽しむ(ラマンテ)からです。」つまり、超越主義者たちもまた感覚の満足を楽しんでいます。しかし、どうやって?至高存在、パラム・ブラーマの感覚の満足に奉仕することによってです。ラマンテは「感覚の満足を楽しむ」ことを意味します。例えば、クリシュナの名前の一つは「ラーダー・ラマナ」、「永遠の恋人(consort、通常は妃)ラーダーラーニーと一緒に感覚の満足を楽しむ者」です。つまり、感覚の満足は超越的な立場にも存在しますが、それはこの物質的な感覚の満足ではありません。物質的な感覚の満足は、霊的な感覚の満足の歪んだ反映です。

第8段落

献身奉仕は霊的な感覚の満足です。ハリシーケナ・ハリシーケサ・セヴァナム。ハリシーカは「感覚」を意味し、ハリシーケサは「感覚の主」を意味します。感覚の主はクリシュナです。つまり、自分の感覚をクリシュナの満足のために使うとき、あなたは超越的な立場にあります。そしてあなたが自分の感覚を自分自身の感覚の満足のために使うとき、それは物質的です。これが違いです。あなたが超越的な水準にあるとき、あなたの存在がタパシャ―――霊的指導者と聖典と聖人たちの導きの下で自主的に禁欲と苦行を受け入れること―――によって浄化されるとき、そのときあなたはクリシュナの感覚を満足させることによって完全に満足します。

第9段落

この過程は、私たちが食べ物を食べるときに体の様々な部位の栄養が行くのに似ています。体の異なる部位は、胃が食べ物を楽しむことに依存しています。彼らは独立して食べ物を楽しむことはできません。あなたが手でおいしいケーキを一切れつまんだと仮定しましょう―――指はそれを独立して楽しむことはできません。しかし、もしも指がそれを口に入れて、それが胃に入れば、そうすれば胃はそれを消化して、それは血となり、そして心臓が血を体の異なる部位に循環させ、あなたの指は栄養を与えられます。これが指がケーキを楽しむための過程です。同様に、献身奉仕においても感覚の満足は存在します―――しかし、それはクリシュナに奉仕することを通してです。そうすればあなたは完全な満足を感じます。

第10段落

本当の人間の人生は、霊的指導者と聖典と聖人たちによって与えられた規制的な原則を自発的に受け入れることによって私たちの存在の状態を浄化することを意味ひます。そして私たちが自分の感覚を至高主への奉仕のために使うことによって浄化されるとき、私たちは本当に自分の感覚を楽しみます。



第2章 偉大な魂たちに奉仕せよ。

第1段落

(サンスクリット引用)

人は高度に発達した霊的な人物に奉仕をすることによってのみ物質的な呪縛からの解放への道に至ることができます。これらの人物は非人格主義者と献身者です。主の存在に同化したいと望む場合も、至高の人格神と関わりたいと望む場合も、人はマハートマーに奉仕をすべきです。そのような活動に興味のない者、女性および性交を好む人々と関わる者にとって、地獄への道は大きく開かれています。マハートマーは中庸です。彼らは、ある生命体と別の生命体の間に違いを見ません。彼らはとても平和的で、完全に献身奉仕にいそしみます。彼らには怒りはなく、すべての人のために働きます。彼らはいかなる不愉快な振る舞いもしません。そのような人々はマハートマーとして知られます。(SB5.5.2)

第2段落

人間の体は交差点のようなものです。人は解放への道をとるかもしれませんし、地獄的な状態への道をとるかもしれません。どうやって人がこれらの道をとるかがここに描写されています。解放への道では、人はマハートマーと関わります。そして呪縛への道では人は感覚の満足と女性に執着した者と関わります。マハートマーには2種類あります。非人格主義者と献身者です。彼らの究極の目標は異なりますが、解放の過程はほとんど同じです。どちらも永遠の幸せを望んでいます。一方は非人格のブラーマンの中に幸せを求め、もう一方は至高の人格神との関わりの中に幸せを求めます。この幸せは最初の節の中にブラーマ・サウクヒャムとして描写されています。ブラーマンは「霊」あるいは「永遠なるもの」を意味しています。非人格主義者も献身者も、どちらも永遠の幸福な人生を求めています。どちらにしても、人は完全になることを助言されています。チャイタンニャ・チャリタームリタには、次のように書かれています。(マドヒャ22.87)

(サンスクリット引用)

物質自然の相から離れているために、人はアサット、すなわち物質主義者である者との関わりを避けるべきです。物質主義者には2種類あります。一方は女性および感覚の満足に執着しており、もう一方は単に非献身者です。積極的な方法はマハートマーとの関わりであり、消極的な方法は非献身者および女の尻を追いかける者を避けることです。

第3段落

マハートマー、偉大な魂とは誰でしょうか。バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナは(サンスクリット引用)とおっしゃいます。偉大な魂とは、神の霊的な自然、すなわち霊的エネルギーに依存した者です(to take shelter of)。神は物質エネルギーと霊的エネルギーという二つのエネルギーをお持ちであり、これらのエネルギーの存在から私たちは神が存在すると理解することができます。太陽光の存在から私たちが太陽が空に上ったと理解できるようなものです。光は単に太陽のエネルギーなので、朝、窓の外を見て空に光があるのを見ると同時に、あなたは太陽が上ったと理解することができます。同様に、主の霊的および物質的なエネルギーの存在によって、私たちは神の存在を理解することができます。そうでなければ、これらのエネルギーはどこから来たのでしょう。ヴィシュヌ・プラーナには、以下のように述べられています。

(サンスクリット引用)

「一つのところにある火が光で全体を照らすように、至高の人格神、パラブラーマンはご自分のエネルギーを宇宙全体に行き渡らせます。」リシャバーデヴァによって語られたこの節では、マハットおよびマハーンタスという言葉は、主の霊的なエネルギーに依存したマハートマーを指します。もしも人が物質的な人生の呪縛から、、、生と死と老いと病の悲惨さと他の非常に多くの苦しみから、、、解放されたいなら、人はそのような偉大な聖人たちに仕え、彼らの指導のもとで苦行をしなければなりません。

第4段落

そして、どうしたらあなたは誰が主の霊的エネルギーに依存していると理解できるでしょうか。リシャバーデヴァは(サンスクリット引用)とおっしゃいます。「マハートマーはいつも中庸で、誰もを平等に見ます。」主クリシュナはバガヴァッド・ギーター(5.18)において、次のようにおっしゃいます。

(サンスクリット引用)

「謙遜なる賢者たちは、本当の知識の力によって、学識があって穏やかなブラーマナ、牛、象、犬、犬食い(outcast、最下層の人々)を公平な視点で見ます。」マハートマーは、すべての者を平等に見なします。彼は「彼はアメリカ人だ。だから私は彼に親切にしよう」とか、「彼はインド人だ。だから私は彼に親切にしよう」とか、「彼は黒人だ。だから私は彼に親切にしよう」などとは考えません。違います。彼はすべての者に親切なのです。

第5段落

マハートマーのもう一つの性質は、彼はプラサーンター、つまりいつもとても平和的であるということです。彼は自分が純粋な霊、クリシュナの永遠の従者だと知っているので、いかなる物質的な状態によっても乱されません。また、彼はヴィマニャヴァ、怒りがなく、スーリダー、すべての者の幸せを望む者です。それがマハートマーの視点です。彼は、人々が神を意識することなく、自分の神との関係を理解することなく苦しんでいるのを見ます。そのため彼は人々に教えようとします。したがって彼は忍耐強く(ティティクシャヴァ)なければなりません。彼が人々のクリシュナ意識について教えようとするときは、非常に多くの侮辱、非常に多くの不便さがあります。彼は乱されることなくそれらを忍耐しなければなりません。西洋の国々では、主イエス・キリストがこの忍耐強さに性質を完全に示されました。彼が神の意識について伝道していたので、国家は彼を十字架に掛けるように命令しました。それでも彼は「彼らを許してください」と神に祈りました。このように、平和的であること、誰もを平等に見ること、怒りがないこと、忍耐強いこと、慈悲、、、これらはマハートマー、あるいはサードゥー、聖人の性質です。

第6段落

私たちはそのような人を見つけ、その人と関わり、完全に服従してその人に奉仕をしなければなりません。主クリシュナはバガヴァッド・ギーターの中で次のようにおっしゃいます。(4.34)

(サンスクリット引用)

「単に、霊的指導者に近づいて真実を学ぼうとしなさい。彼から受動的に知識を乞い、彼に奉仕をしなさい。自己に気がついている魂は、真実を見たので、あなたに知識を授けることができます。」

第7段落

サードゥーへの奉仕の反対は、ヨシターム・サンギ・サンガム、過度に女性に執着した者との関わりです。実際には、ヨシタームは快楽的なものすべてを指します。私たちを惹きつけるものはたくさんあります。どの感覚も、それぞれに快楽の対象を持っています。目は美しい姿を見たがります。舌はとてもおいしい食べ物を楽しみたがります。耳は素敵な歌声に魅了されます。鼻腔は甘い香りに惹きつけられます。そして肌は柔らかいものを触りたいと欲します。これらのすべてがヨシターム、快楽の対象であり、人々は一般にこれらのすべてに魅力を感じます。彼らは映画に行ったりワインを飲んだり、レストランやクラブに行ったり、いろいろします。そして、もしも私たちが感覚の満足のためにこれらすべてのことに執着している人たちと関わるなら、そうすれば私たちのために地獄への扉が開きます。

第8段落

そのため、あなたはどちらの扉に入るかを選ばなければなりません。一つの扉は繰り返す生と死の呪縛からの解放に続いていて、家へ、至高神のもとへと帰す道に私たちを置きます。そして、もう一つの扉、感覚の満足の扉は、暗闇に続いています。(サンスクリット引用)私たちが感覚の満足にふければふけるほど、あるいは感覚の満足にふける人と関われば関わるほど、私たちは地獄的な人生にますます深く下りていきます。

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東京のお寺に連絡をしたのですが、どうも届いていないみたいです。メールでの連絡ができない状態なのか、ご存知の方はいらっしゃいませんか?

それと、念のために確認なのですが、日本語で既に出ている書籍は以下の通りだと伺っていますが、その後追加されたものなどはありませんでしょうか。既にどなたかが翻訳なさったもの、あるいは翻訳が進行中のものと重複しないようにしたいので、何かご存知の方はどうかお知らせください。

(日本語書籍)
1. バガヴァッド・ギーター

2. シュリマッド・バーガヴァタム(第1巻の第一章)

3. クリシュナ

4. イショパニシャッド

5. ネクター・オブ・ディヴォーション

6. ハイヤー・テイスト(旧版)

7. カミング・バック

なお、このサイトにある書籍は以下の通りです。
1. 簡単な惑星旅行 Easy Journey to Other Planets

2. 生と死の彼方に Beyond Birth and Death

3. クリシュナ意識への上昇 Elevation to Krishna Conciousness

4. 比類なき贈り物 Matchless Gift

5. 完璧な問い、完璧な答え Perfect Questions, Perfect Answers

6. 霊的なヨガ(未完) Spiritual Yoga
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by ammolitering4 | 2009-06-22 04:32 | 「霊的なヨガ」 | Comments(8)

霊的なヨガ(Spiritual Yoga)

霊的なヨガ

初めに

第1段落

体のためのヨガがあり、もう一つ、魂のためのヨガがあります。この本は魂のためのヨガに関するものです。それはバクティ・ヨガと呼ばれます。純粋な愛と献身のヨガ、最も高度な喜びのヨガです。

第2段落

ほとんどの人が知っているのは体のヨガ、雑誌の表紙についているような種類のヨガです。誰もが知っています。しかし、魂のヨガはほとんどの人にとっては新しいものです。それはあなたの内心の奥底でだけ見つけることができます。

第3段落

体のヨガでは、人は体の筋肉を伸ばして、しばらくの間、良い気持ちになれます。魂のヨガでは、魂の筋肉を伸ばし、永遠に良い気持ちでいられます。それが違いです。そしてこの本は全くそれに関するものです。

第4段落

なお、体のヨガが何か悪いというわけではありません。しかし、あなたが至高のヨガへの準備ができたときは、魂の霊的なヨガが待っています。そして、それは長い間待っているのです。体のヨガの最初の教師が西洋のヨガ教室にやってくるよりもずっと前に、霊的なヨガの教師たちは古代のインドの山や森に座り、気に入った生徒たちに最高の幸せを得るための秘密を教えていました。

第5段落

本当に知識のある者にとっては、それが最も高い目標地点です。しかし、そこに至るためには、人は道筋を知らねばなりません。そして人はそれを唯一その道筋を知る者、霊的なヨガの教師たちからだけ知ることができます。

第6段落

そうした教師たちの一人がシュリー・リシャバーデヴァでした。デヴァは神を意味します。普通の人間のように見えましたが、主は神の形の一つであり、神聖な力を持っていました。主は、はるか昔、実に何百万年も前に生きておられました。外的には主は偉大な王としてお現れになりました。つまり、主はいかなる物質的な快楽でも最大限に楽しむ機会をお持ちでした。しかし、自己統制の完全な例を示すためだけに、主はそうなさいませんでした。主は霊的なヨガの技術を息子たちに教えられ、そしてこの秘密の知識、最高の快楽への道は、一人の霊的指導者から次の霊的指導者へと世代を超えて伝えられていきました。

第7段落

長い間、この秘密の知識は決して書き記されませんでした。それは隠された記憶の中に保管され、適切な候補者だけに明かされました。時間が経つにつれて、人々の記憶力は衰退し始めました。そのため、約五千年前にヴャーサデヴァという偉大な霊的な人物がリシャバーの教えをシュリマッド・バーガヴァタムというサンスクリットの本の一部として書き留めました。それでも、その後長い間、インドのほんのわずかな選ばれた者たちだけがこれらの教えについて学んだだけでした。

第8段落

そして、20世紀後半に、現代の最も偉大な霊的指導者である尊師ACバクティヴェダンタ・スワミ・プラブパーダ睨下(げいか、最高位の聖職者の敬称)が、ご自身の霊的指導者の命令に従ってリシャバーの霊的なヨガに関する教えを英語に翻訳し、それを西洋世界にお持ちになり、私たちに最高の幸せへの道に入る機会を与えてくださいました。

第9段落

この本は、リシャバーのもともとのサンスクリットの教え(SB5.5.1-14)に対するスリーラ・プラブパーダの発表された翻訳と解説、および師がこれらの教えについて1969年から1976年の間に様々な街(ロンド、ストックホルム、インドのヴリンダーヴァンを含む)で行った一連の講義の筆記録を組み合わせたものです。

第10段落

皆さんがリシャバーデヴァの霊的なヨガ、最も高い喜びへの道に関する教えを楽しんでくださることを願っています。

編集者。
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by ammolitering4 | 2009-06-20 10:48 | 「霊的なヨガ」 | Comments(0)